「レッスンからトレーニングへ」
○フィジカルトレーナーの盲点
現場のトレーナーから理想と現実の矛盾について相談をされることがあります。私もこのことにずっと触れてきましたが、論としては、「理想を中心に」、あえて「理想的に取り上げよう」としています。
長期的な視野に立ってこそ、トレーニングの意味があるし、それを伝えるのがレッスンだと思うのです。
とはいえ、ここでもいろんなケースを扱っています。そこで、盲点について論じたいと思います。
フィジカルトレーナーでたとえると、わかりやすいので、そこから話に入ります。優秀なトレーナーと思われている人は、次のようなプロセスを経ていることが多いように思います。
1、 本人は、日本では、それなりに活躍できるレベルの選手であった。
2、 ケガやその他の原因で若くして引退した。
3、 そこから独学、もしくは海外の新しい体系を学び、独立開業した。
4、 対象は一転して、一般、初心者になった。(まれに選手を扱うこともあり)
日本のこの分野の未熟なことを挙げて、それに応える形での持論や自分のトレーニング法を編み出し、勧めます。
○すぐ出る効果
初心者や、一般の人が対象となると、方法は、自ずと次のようになります。
1、誰でもできるチェック(ゆがみ、偏り)
2、それを直す方法、体操や運動(1日5分ほどで3~5回くらいでゆるやか)
3、その効果の実例の提示
驚くべきは、そこで謳われる効果です。1、2回の指導でほぼ正常になります。ときに、1週間、長くてせいぜい3週間で改善されるというのが、こういうフィジカルトレーニングの特徴です。これには、肩こりや腰痛の軽減のような類も入ります。
そういうトレーナーが、仮に一流に近い選手であったとして、「一流になれなかったのは、ケガや体の不調のせいです」と本人が言っていても、必ずしもそんな簡単な理由だけではないと思います。
体の管理は、基本中の基本です。それでもハードなスポーツではアクシデントは避けられないので、そういうことを理由にします。それとて、そこまでの体をつくろうとしてきた経験のない受講者には、想像できないことです。そこで得たハイレベルでのわずかな調整能力は、一般の人に対しては、うかがいしれないほどの深い感覚レベルでもあるわけです。
○フィードバック感覚の差
いつもバッティングの例で恐縮ですが、私たち一般人が、ストライクのボールにあたったというレベルで喜ぶのに対して、プロはボールのどこに当たったかまでを正確に捉えられる体感力があるのです。ボールの10センチくらい上を空振りして「惜しい」と、私が思うのに対して、1.5センチくらいの差で大空振りと感じているというのくらいの大差があるのではないでしょうか。私の想像です。
つまり、素人は10回スイングして、毎回2㎝以上違うし、そういうことも把握できていないのに対し、プロは全く同じ、何ミリにしかずれないスイングをしているのです。この差は調整で埋められるものではありません。
○調整だけになった
フィジカルトレーナーは、自らが体験してきた厳しい調整能力を持って、素人の体をみるのですから、大して勉強しなくとも簡単に調整できるのです。第一に、習いに来る人に「正常な姿勢や正常な使い方の人は、ほとんどいない」からです(それは、ヴォイストレーナーも同じです。声に関しては通じていて、そのようなことを言えるのでよくわか。ます)。それを微調整して今のベターに持って行くのです。すると、体の状態はよくなります。その分、プレーもよくなります。
一流のプロ選手が相手でも、一流のコーチが微調整すると、本人の解決していなかったズレを戻すに、コーチは必要なわけです。ここで私がコーチと使ったのは、そこは調整方向の指導であって、トレーニングでの改善でないからです。トレーナーでなくコーチなのです。☆
プロと同じように挙げたので、これがトレーナーの役割のように思われるでしょう。その誤解が、レッスンで大きな問題なのです。この2つのケースの需要が多いので、本来のトレーニングがなされていないのです。この2つとは、一流のプロのベターへの調整と、素人(一般人、初心者)のベターな体調への調整のことです。
○レッスンの曖昧さ
「レッスンはチェックである」とすると、今の状況、状態を把握して、そのズレを修正することです。そこでは、プロの調整も素人への調整も、本来の形に戻す点で同じことです。しかし、そのこととともに、その上で将来のベストのための条件づくりをトレーニングとして課す必要があります。
それをほぼ毎日実行することで、外からより、内より変化させていかなくてはなりません(一般の人がプロになるための条件)。
外国語学習なら、レッスンで発音を直され、不足している単語、イディオムや文法、構文を教えてもらい、毎日復習し、暗記し、無意識に口に出て使えるところまで慣れなくては、本当に使える実力とはなりません。
しかし、復習しなくてもレッスンだけで覚えられる人もいます。効率さえ無視してよければ、毎週1回のレッスンでも、10年経てばそれなりになります。
言葉も声も歌も、特別に日常と切り離されていないものです。レッスンがなくても日常でその要素がたくさんあれば、あるいは、それを取り込むことに、その人がすぐれていたら、力がついていくこともあるのです。それゆえ、声や歌はレッスンとトレーニングの位置づけが、曖昧であるといえます。
ヴォーカルのヴォイストレーニングと素人の調整トレーニングも、一流のプロ(特に海外など)の行う調整トレーニングと似てきます。そして、正しいとか、効果があるとなってきます。
確かに力を100パーセント出せるように戻す分には似たやり方になります。言うまでもなく、10の力がない素人が100パーセントの力を出しても10です。100の力のあるプロには通じません。プロは1/10で素人のベストが出せるのです。ヴォイトレで大切なのは、10を100にするためのトレーニングではないのでしょうか。
○「トレーニングした声」にする
プロと一般の人との運動能力の差で例えます。試合に出なくてもバッターなら素振り、ピッチャーなら投球、サッカーならシュートをみます。そこでうまくてもプロになれない人もたくさんいますが、プロでない人はわかります。体をみれば、体の動きや筋力の著しい違いがあるからです。なのに、声については、こういう必要条件を誰も定めていないように思えてなりません。
そういう必要条件をヴォイトレでみるのなら、声のトレーニングですから、声そのものの力とすればよいことです。
しかし、声の力がなくとも、プロの歌手や俳優、タレントとなれる人もいるので、スポーツのように絶対必要条件とはなりません。
トレーニングではそれをみなくては、あまりにいい加減です。それならば、声楽家や邦楽家のプロと思われる声でみればよいというのが、私の考えです。マイクのない世界で、声の力でみるのです。オペラの歌唱、長唄などの応用力でみるのではなく、声を支える能力、呼吸―体(感覚―心)でみるということです。
レッスンで「歌をうまくする」のと、「プロにする」のと「声をよくする」のは違います。ヴォイトレというのなら、レッスンは「トレーニングもしていない声(これからの声)」を「トレーニングした声(とわかる声)」にするのがシンプルなことではないでしょうか。
○本当の練習とは
「本当の練習」というのを、これまでの「状態の調整から条件づくり」にしたことに加えて、レッスンとトレーニングに振り分けるようにしました。それが、今回の新しい点です。何のための、何を手に入れるための練習かということです。
a.本番、試合、リラックス、応用、状態づくり、全体統一、無意識、調整
b.練習、基本としての条件づくり、部分強化、意識的、バランス崩壊、鍛練
すると、今のトレーナーの一般的なレッスンというのは、トレーニングにならず、応用の調整のようになっていることがわかります。ですから、表面に出る変化を目指すので、1回受けてもよくなるでしょう。遅くとも3週間から3カ月くらいで効果が出ます。
潜在的な抑えていた力が解放され、リラックスすることで、フル能力が出るからです。その後、1、2年くらいは伸びるでしょう。もともと力のあったところまで回復するからです。
私はそれをヴォイス(ヴォーカル)アドバイスとして区別してきました。あまりにそればかりになってしまいました。それらは、ヴォイスマッサージとかリバイバルヴォイトレ(何年か前の声が出ないから回復という人にピッタリ)というのがよいと思います。
心身がリラックスして声が出たら、それで誰よりも響いて通る大きい声で365日、1日2回×2時間以上も歌えるようになると思いますか。
○「鍛えること」へのタブー
声に対してどこまで求めるのかは、ヴォイトレを求める人に共通する問題でしょう。でも、声はツールでありメディアです。それを媒介にして何を伝えるのかばかりに目がいきます。声そのものの必要性は、目的やその人自身にもよります。しかし、ヴォイストレーナーには、声の力はいるでしょう)。
私が最近、取り上げている問題は、筋トレの不要論とか、ハードトレーニング害悪論についての見解です。
若いトレーナーが、合理的、効率的な方向へ行くのは、いつの世も同じことです。絶対的にキャリアは不足しているのですが、一般化してきたヴォイトレ市場で求められるニーズに応じてのことです。
私の世代あたりから、そういう意見が多くなっています。もともと声が出なくて芸でカバーしてきた人、ハードなトレーニングで声を壊したり、声に苦労した人、非効率かつ間違ったトレーニングをやったと思い、後で効率的な正しいトレーニングをやってよくなったと思った人などがいます。そういう人は多くないのですが、トレーナーになったり声について発言することが多いので、あたかもそれが主流のように思われるようになります。ユーモアの研究者にユーモアのない人、話のトレーナーにうまく話せない人がなるのと似ています。「使い方が間違っている、それを直せばよい」という効率論になります。こういったケースについては、本人の体験が元になっているだけに真実味があります。が、むしろ特別な状況である、というのを知っておいて欲しいのです。
○ヴォイトレよりよい方法
30代くらいまでの若いトレーナー、自らの声もまだ完成していない人の方法は、目的や求めるレベルを明らかに異としていることが多いものです(これも、たくさん取り上げてきたので、ここでは省きます)。そのくらいのことなら、カウンセリングやコーチング、あるいはヨーガ、フィットネスジム、もしかしたら吹き矢やジョギングなどの単純な運動と、それに伴う柔軟をやるだけで、解決するということです。
本人が声の問題と言ってくる以上、声からのアプローチでよくする(普通の状態にする)のはよいことです。それでもヴォイトレするよりも、もっと早くよくなる方法もあります。
私は、加齢で声の出にくい人を、運動と柔軟でほとんど声そのものにタッチせず元の状態にしました。体力が若いころの半分以下になった人なら、ヴォイトレするより、体力をあるところまで取り戻す方が声も早くよくなるのです。
声がかすれたことで来た人にも、「発声よりも先にやるべきことがたくさんあります。それも含めてヴォイトレ」と言っています。レッスンより先に体の専門家を紹介することがあります。その必要が大きくなってきたので、研究所のなかでも備えています。
○声を目的としない
「ヴォイストレーナーについたのに、大きな声が出ない」「お腹から声が出ない」「腹式呼吸が身につかない」と、そういうことで、人づてに紹介されてくる人も増えてきました。そのトレーナー自身が腹から声が出ていない、のど声である、呼吸も浅いのに、なぜ、レッスンを受けて変わるのでしょうか(もちろん、変わるケースもあります。トレーナーを庇うわけではありませんが、トレーナー=レッスンの目的を遂げた人としてみるのは危険でもあります。トレーナーがそうでなくても相手がそうなればよいのですから)。
問題は、こういうトレーナーは、短期で少しの目に見える効果をあげてきた、つまり、レッスンする前と後で、心身の状態をよくして、1~2割伸ばすことを指導しているトレーナーです。最大で3カ月~1年、それで生徒もやめるか、曲を覚えたり、リハーサルがわりに、ヴォイトレとは違う目的で続けていくのです。あるいはそれがレッスンの目的で、本当のヴォイトレではないケースも多いのです。そういうレッスン形態なのです。
音程、ピッチトレーナーやリズムトレーナー、アレンジャー、プロデューサー、作曲家出身の人は、呼吸、発声、共鳴の本質的なことは伝えないことが多いのです(ここで言うヴォイトレの定義は、私が述べているだけで、公にはありませんから、批判にもなりません。誰がヴォイトレと使ってもよいのです。声を目的としていないのに声が変わるわけはありません)。
○声のサバイバル
トレーニングは一人でこつこつ地道に静かにやるもの、レッスンは気づきにくるものだと思っています。どちらも、どんな形でもよいと思います。
教えられるのと気づくのは違います。わかるのとできるのも違います。
レッスンはトレーニングのチェックと次のトレーニングのメニュのガイダンスです。レッスンが、今だけ効果を上げるもの(むしろ、上げられることが見せられるもの)となり、それがヴォイストレーニングと、けっこう最初からいわれてきたのです。長期的展望や理想を欠くものとなったままです。
これは私には、テレビ化したとも思えるし(テレビ局とは、そこでどうしても折り合わなかったのですが)プロデューサーは、30年ほどそうであったのですが、他の人たちも、ほぼそういうふうになっていったということです。
歌手の力も役者の力も衰え、客もそれを受け入れた結果、歌も芝居もジャンルとして弱体化していきました。生き残るのに望みのない分野になりつつあります。片や、お笑い芸人が、声の力をものにして、多くの分野に進出しているのは、ここで述べるまでもありません。声の力をつけるのがヴォイトレと私は思っていますし、それは、今後も変わらないでしょう。
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