○リセット
歌の基礎は、基本の発声として、2オクターブくらいをスケールやヴォーカリーズ(母音発声)で目的にしていることが多いようです。
誰にもこれが難しいとは言いませんが、全体が雑になっていませんか。ベストの発声から遠のき、声域を獲得するために発声のくせをつけていくことになっていませんか。そのくせのつけ方を、高音で「あてる」というテクニックとして教えているのです。
これは、悪いことではありません。第一歩として、そこから戻って、確かな発声としていけばよいのです。音にあてる練習でなく、使える音色で出せなくてはなりません。そこを省みずにそのまま先に行く。それでは、くせで固める限界を早々に引き寄せてしまいます。大体はそのまま1オクターブ以上固めてしまうわけです。これではヴォイトレでなく、音当て練習です。
そこでいったん、解放、しぜんに戻すようにリセットして、一歩目からやり直すのです。それでこそ基礎です。メニュや方法で形を整え、型となったら、その型のなかで組み立てていくのです。これを固めたままに乗せていこうとすると、すぐに限界に当たるのです。
○ 勢いでつかむ
「のどが疲れやすく、無茶すると回復しにくくなる」のは、齢をとるにつれ感じることです。若いときは「無茶をしても戻るのは早い」のです。ですから、勢いでやれてしまいます。勢いでやらなくては、技や実力がつくまで出せないから、これはこれでよいのです。実力が伴えばそれにこしたことはありません。
勢いの時期のあとは、のどに疲れを感じるようになることで、工夫して、基礎の力と技を得ていくのです。量と激しさから、質と静けさへ移っていくのです。
若い人はつぶれない程度に量をやることです。表現は勢いで支えていてもよいです。その直感を技術的にキャリアに変えていきます。それをトレーナーが手伝うのです。
トレーナーが過保護になると、いつまでも真の力がつかないということにもなります。ある時期のオーバーワークの継続を、レッスンに入る前の遊びとして経験することは、大成するのに大切なことです。
すぐに習うのも一つの道です。ですが、習う先で教えたがる人にあたると、あまりよい結果になりません。人を選ぶのも勢いでかまいません。そこも感性と才能で選べるようになればよいのです。
○アラウンド40とミュージカル
実力のギャップに気がついてレッスンにくる、他人に教わる必要を知るというのなら、オーバーワークでののどの疲れは、よいきっかけです。使いすぎでやむなく来る人は、使わない、使えないでくる人よりも、先の可能性が大きいといえます。
そういう人の中には、のどが強く、力づくでやれてきたタイプもいます。最初から大声の出た役者もですが、その長所ゆえ、次のステップへ行けない人も多いのです。そこまでに修正が行われないのは、克服すべき目的として上がらないからです。すると、あるとき、いきなりのどを壊すことになります。回復が少しずつ遅れ、時間がかかるようになり、本番に影響をきたすようになるのです。仕事が増えている場合は、ダメージを食らうのです。
あるミュージカル劇団での役者出身の歌い手は、決まって40歳くらいでのどが回復しなくなり、ここにいらっしゃいます。それは、こういう流れです。なまじ、通用してしまったために正せず、問題を先送りしてしまったのです。
声優もミュージカル俳優も、ルックスや演技優先になり、声の問題が後で出てくることが多くなりました。本来、通用していないレベルなのに無理な配役をこなさせようとするからです。
回復しにくくなるなら、回復の必要をなくすこと、つまり、疲れにくくする使い方に変えていくのが、技術です。その考え方を発声理論とし、ここでは生理学、音声学的に通った形で、ストレートに実践しているのです。自分の心身やのど、声についての感覚を鋭くもち、うまく使えるようにしていくのです。
○ハードな声
身の丈に合わないハードな歌い方でのどを悪化させて、痛くなったり、出せなくなっていらっしゃる人がいます。昔はここに直接いらしたのに、最近は医者の紹介でいらっしゃる方が多くなりました。
応急の処置をして、薬と休養で回復させても、次の同じだけのステージに耐えられるわけではありません。悩むよりは、ここに来るとよいでしょう。自力で直っても、くり返し壊していると、手術などになりかねないからです。
ここにいらした人には、目的、レベル、実力、のどの耐久性をみた上でアドバイスをします。
1、 あなたののどの状態と発声と考え方(なぜ、こうなったのか)
2、 のどに負担をかけない発声法、もしくは呼吸法(解決へのアプローチ)
3、 ステージへの調整法と(具体的な練習メニュ)
シャウトやハスキーな声をステージで使う人もいます。役者の悪声、声優のアニメ声なども、発声から位置づけてトレーニングに取り組んでいるところは、ここくらいしかないでしょう。これは応用としてのイメージで練習させることです。そのような声は本番の使用だけに留め、それを支える、リカバーするやり方を覚えるのです。
○ステージ以外で痛めている
喉を傷める原因の多くは、歌やせりふなどの本番ではなく、練習やリハーサル、ステージ後の打ち上げやミーティングなどによることが大半です。そこで声を休められず、悪化するのです。それに本人はあまり気づいていないのです。
それに加えて、1呼吸、2食事です。温度や湿度など環境要因、メンタル面で緊張や自信のなさからくる悪影響も含まれます。
オンリーワンでありナンバーワンを求められるヴォーカルの心身は、ステージが続くと過酷な状況となります。体を冷やさないように、乾燥させないようにといっても、屋外や暑い中、寒い中、埃だらけのなかの出番もあります。たばこの煙に悩まされることは少なくなりましたが、その分、弱くなったといえるのかもしれません。
すぐに、のどアメや吸入器、加湿器、空気清浄器などに頼る生活は、トレーニングの環境=周りの環境を整えるべきであるという点では好ましいのですが、その分、メニュをハードにしないと、弱い体質ののどにしてかねません。
○あたりまえの量
「1日2時間、仕事で声を使わなくてはいけないのに、コンスタントに使えない」これをサンプルとして取り上げてみます。たくさんの人がこの目的でいらしているので、実践的なアドバイスです。
これに対応するには、ヴォイトレを週に1日、1時間では、誰がどう考えても不可能で抄。スポーツや芸事で考えたら冗談にもなりません。趣味のサークルで楽しむならありえると思いますが、大して技術向上は望まれないでしょう。バイオリニストもピアニストも毎日8時間を10年続けて、ようやく1時間の本番演奏時間をクリアするのです。2時間は声を出す毎日が必要でしょう。常識的に考えると、一日2時間の練習―正味として声を出すことをしなくては身につかないし自信ももてません。その絶対量を甘くみないようにしてください。
○総量
お笑い芸人ののどが鍛えられているのは、毎日ネタを何時間も声を出して練習して、その時間の総量があるからです。しかも、わかるように大声ではっきりと出します。コントや漫才は、ものまねや他人を演じるハードなのどの使い方です。それに歌手や演劇の人が負けるようになってきたのでしょう。目標や基準が明確であるから、その執念が練習量になるのです。
人を笑わせるというのは、基準がわかりやすいです。かなりできたつもりでも、ひどくすべることもあります。笑いの量というのは明確にフィードバックされますから、厳しくならざるをえないのです。
どんな世界もそれ以上やったけれど効果の出せない人はいても、やらなくて出せた人はいません。トレーニングで仕上げたければ、まずは量です。声だけで勝負するのでない歌手や役者には、少ない時間でプロになった人もいるのは確かです。しかし、あなたがそうでないならそれに頼らない方がよいでしょう。
○スタートライン
トレーナーの方法やトレーニングメニュでの結果をどうみるかは大切なことです。しかし、その前に、自らを省みて欲しいと思うことは少なくありません。
褒めて心地よくさせ、声を導き出すトレーナーがよいなら、そこで1、2年やればよいと思うのでしょう。その後、5年、10年と経てば、自ずと何が得られたのかわかるかもしれません。ほとんどのケースでは、声そのものについては何も身についていないのではありませんか。
私は、記憶術と同じだと思っています。それを学んで試験に通りますか。科目の勉強をしないで、術を覚えても、何ともなりません。
レッスンは、トレーニングをより効果を上げるために使うものです。毎日のトレーニングなしにはどうにもなりません。本当のスタートラインは、レッスンの初日ではありません。トレーニングが日常となったところからです。
○ジ・エンド
「アハ体験」で頭がよくなりますか。これは、「頭の体操」と同じで、問題作成者の作為の意図の読み取りに慣れてくると正答率が高くなる。時間制限ですから、ゲーム脳には通じそうですが。悟った名僧が、α波が出るからといってα波が出たから悟るわけはありません。頭がよくなっても中身が空っぽなら何も出てきません。
こうした発想の転換法やリラックスは、日頃まじめにやりすぎて詰まってしまった頭や体をほぐすのにはよいでしょう。そのあたりは、ワークショップの効果と同じです。
日頃、最大の努力をしている人は、ワープ、ブレイクスルーを経験するかもしれません。ほとんどの人は、その手前でわかった気になって終わりです。体験で満足できるからです。本当は、そこからスタートなのに、ジ・エンドなのです。
○クローズとオープン
次につなげるためのきっかけであるレッスンに対し、ワークショップの多くは、それで完結してしまい、初体験の満足、セミナーになっています。カルチャーセンターにしても全3回とか全12回とカリキュラムを組むことで、予定調和的にクローズしてしまうのは同じです。
なぜなら、クローズ=完結を求められるから、そういう満足、わかりやすく消化できると感じられる内容を出してみせることが、トレーナーの仕事になってしまうのです。ちょっとかじるだけだからおいしいというものが、紹介セミナーなのでやむを得ないのですが、貸衣装を着てする記念撮影です。
他分野の専門家で感度のよい人がくると、けっこう本質的なことが、そこで得られることもあります。初心者向けに体裁を合わせているだけで、実のところは深いところを知る人がワークショップをしていたらですが。
レッスンも似たようなものです。初心者や若い人は、わかろうとしない方がよいのです。トレーナーがそこに焦点を合わせてしまうからです。
すぐにわかるなら、それはあなたに不要なものです。確認しにくるのでなく、創造するのです。批判しにくるのでなく、たった1ヵ所からでも肯定し、得て、活かそうと望むべきです。それが、クローズせずにオープンにしていくスタンスです。
○不可知とくせ
何かしらわからないもの、それはトレーナーの指し示すもの、そのものでなく、方向のようなものでよいと思います。そういう世界を、そういう存在であるがままに受けとめればよいのです。未知の魅力を解釈して貶めるべきではありません。
トレーナーを尊敬しろとはいませんが、学びたいのなら一歩下がって立てておきましょう。トレーナーでなく、トレーナーの向こうにある世界へのリスペクトです。それがなければ、本質的なことを学べないと思うからです。
「トレーナーの言うとおりにしなさい」とは言いません。まったく逆に、反面教師として学んでもよいのです。ただ、トレーナーの言うところの理や、あなたに望もうとするところの理を読む努力はしましょう。さまざまなアプローチはありますが、とにかく、あなたを変えるため、感覚なのか理なのか、あなたのなかにないものを身につけるために、レッスンを処方しています。
あなたの今をもってしては、どこにもいけない頭も体はそのままでは身につきません。体は、量と時間で変えられますが、頭がストップをかけてしまいがちなのです。するといつまでもくせがとれません。体のくせ、発声のくせは、考え方のくせやイメージのくせから来ていることも少なくありません。
○考え方のくせ
多くの場合は、考え方のくせで、体や感覚も歪み、発声のくせもとれないのです。いくら、発声のところで指摘されても、考え方のくせはみえない、曖昧なイメージです。これまでそれで通じさせてきた人ほど、変えるのは難しいです。
進歩のための変化を妨げる要因は、元に、これまでの落ち着くところに戻そうとする力です。新しい違和感を肯定するのは難しいことです。音程のとりやすい歌い方から入るとよい発声にならないのも、この一例です。
私はアテンダンスシートなどで、質問を出させて考え方のくせを知り、対応策をトレーナーにも与えています。くせは、ほぼパターン化しているので、私には、よくわかります。
○スタンスとプロセス
本人は誰もが同じようなことを聞いていると思っているかもしれませんが、あるタイプの人しかしない質問は大体決まっています。そういう人が何十名もいたので、どうするとどうなるのかまで、私は経験としての、データベースを持っているわけです。
すべてが同じケースではないので、参考にする程度に留めています。これまではこれでよくなったという方法で、よくならない人がいるかもしれないからです。何をもって、どこまでよくなったかは難しい判断です。
トレーナーがいなくとも、トレーニングでも何でも行えば変わります。くり返すことでよくなるのはあたりまえです。それでよしとするのと、そこからを問題にするのとでは、まったくスタンスが違います。何ヵ月かでの効果を目安にするトレーナーと、3年先をみるトレーナーとの違いです。
○クリエイティブなレッスン
トレーナーは、人や作品をそこで判断するのでなく、その人の力を伸ばすために、いろいろな可能性をみて、アドバイスしていくのです。そして、対応も改めていくのです。原則として、よい方向に向くようにアドバイスしているのです。
多くの年月かけてもうまくいかなかった、時間がかかった、という人もきます。それに対しても、うまくいったときのやり方、メニュを使って、年を経るごとによくなるようにします。
よくするというのは結果ですが、焦らず、よくなるように条件を整えるのです。ここの研究所はデータベースを基に研究を進めながらレッスンをしているところだからできるのです。
クリエイティブなレッスンでないと、生徒さんもトレーナーも本当にはおもしろくならないのです。
○発想力
「持っているものを与えてください」でなく「持っていないものをつくっていってください」というのが、私のトレーナーへの要求です。生徒より長くやっているからトレーナーではなく、(長いなら、もっと長くいる生徒や年配の人もいます)そのクリエイティブな発想において、私はトレーナーをみています。
現実に目のまえにいる生徒に関わる問題をトレーナーとして接し、共同で改善していこうとしているのです。研究や創造のできない人は、ここのトレーナーとしては、ふさわしくありません。
レッスンで覚えたことに、今すぐここで使えることを期待すべきではありません。しかし、何かをしっかりやろうとするときに、役立てれば充分なのです。
○関係でみる
私は、どのトレーナーとも違い、「生徒」ではなく、「トレーナーと生徒」というセットで、誰よりも長くみてきました。ときに他のところからもトレーナーが生徒を伴って来たり、生徒がトレーナーを連れてくるときもあります。そのレッスンをみることも多々、あります。
これまでのトレーナーとのレッスンのことを、ここで聞くことも少なくないのです。トレーナーのレッスンの評価について、生徒が思っていることが全面的に正しいとは思いません。どこかに一理はあるとはいえ、私の方が直接にも他の何百人の生徒の感想を踏まえても知っています。そのトレーナーより、私の方がそのトレーナーについた生徒の思うところを知ってもいるのです。私のところにはトレーナーが十数名いるので、もっとよくわかるのです。
○トレーナーの改善
トレーナーが自信をもつには、自分に合うか、自分をよしとする生徒だけ引き受けることです。そうでない生徒は黙ってやめていくため、当のトレーナーは、そういう人の考えや批判を聞くことがありません。いつしれず、トレーナーは、自己流に偏っていくのです。裸の王様になっていくプロセスです。
まだ未熟な声の分野で、批判も基準もないというのではなおさらです。多くは、長くやっていても、ワークショップレベルのことしかできていないのです。
私は数多くの失敗から、常に気づかされてきました。常に、自分よりすぐれた人とやってこれたからです。多くのトレーナーは、自分より劣っている人としかやっていません。トレーニングについて、失敗の経験さえもちません。失敗に懲りて根本的に学ぶこともありません。そこまで厳しい条件下にないから失敗を認めない、というか、失敗していても気づかないといえます。
○なぜトレーナーについてもアーティストになれないか
最近のことばで言うと「もってる」かどうかです。これこそが、アーティストの資質なのでしょう。レッスンやトレーニングは、そこからみると、そのために補うものに過ぎないのです。
日本語を話している国に生まれたら、誰でも日本語は話せるようになるのと同じで、環境、育ちの問題、そして時間、量が基礎をつくります。問題は、次にくる質的転化と大きさです。本当はレッスンがそれを担うべきですが、現実には本番のステージで行われているのが、日本の実状でしょう。
○邪魔しない
原則としては、トレーニングは強化してから調整していくのです。それには、感性、感受性、感度を取り入れる力を最大限にして出力します。本番よりも厳しい基準に合わせるのです。
「鍛練」から、異なるベースでの「調整」に入ります。この究極の形は、病気やけがを治す、自然治癒力みたいなものに自分を委ねることです。
毎日の積み重ねは何よりも大切です。レッスンをしようが、トレーニングをしまいが、毎日の体は連続して生きています。そこにセンサーを磨くことが必要です。「しぜんに」で、地球でも宇宙でもよいから、そこから大きなエネルギーを取り入れます。増幅して外へ放つことを邪魔しない身体、のど、声にしようということです。
○取りつかれる
大きなエネルギーとは何なのでしょうか。言霊とか物の怪と思う人もいるようです。能の声のレッスンをしていると、人間としてのよい声をつくりすぎてだめなのですね。それを超えたものが伴わなくてはいけません。何かが降りてこなくてはいけません。その状況を呼び込む声、息、体でなくてはなりません。
名人の渋い声に感じられるのに、若手のよい声に欠けているものです。同じフレーズで比較して、私は、伝統芸の声に入っていたのです。
トップレベルの演者の同じ演目、たとえば「船弁慶」を何人も比べます。これは、オペラやカンツォーネを通じてポップスやクラシックの本質をつかんだレッスン法と同じです。
○一流の条件
頭で考えてもわからないと取りつかれたように繰り返す、数を重ねる、聞く…たくさん、一流のものを聞いたあとは、出す…声を出してみます。そう簡単に憑りついてくれないものです。憑りつかれる状況を自らつくっていくことです。
憑りつかれるとは、疲れを感じなくなります。自分の体が自分のものでなく、声も自分のものでなくなります。残念なことに、私はまだ自由にそこの世界と行き来できません。昔、2回だけ行ったことがあります。一流のアーティストの証とは、そこへ自在に行き来ができることだと思ったものでした。
○器用でなくす
ゾーンとか言われるところ、いわゆるエクスタシー状態、つまり、マラソンハイのようなものです。密教の密儀です。一流の選手だけでなくても、誰でも努力しだいで到達できると信じたいものですが、頭でなく身体の能力で行くところです。
天才、才能、素質などとなると、トレーニングが成り立たなくなります。「才能論」は引っ込めて、ということです。才能と勘違いされるものの多くは、器用さにすぎません。早熟にすぎないこともあります。
私が100かけて、やっとできたことを、20くらいやって、すぐにできる人がいます。100とは年月でも量でも努力でもいいでしょう。人よりたくさんやればできるというものは、遅くなったり、手間ヒマがかかっても、いつかは時間をかけて追いつけるでしょう。
プロは、20やって同じことができた器用な人が多いので、私と同じくらいに100やったらどこまでできるかということを楽しみにしています。必ずしも私の5倍、ものにはなりません。私が、200やっていくのに、その人は100どころか50さえやっていけないかもしれません。
早く短い期間でできるのは、器用、早熟、要領のよさという才能です。それは才能の一つの要素に過ぎません。人生は限られているので、遅く時間がかかると、早熟な人の円熟期のレベルにも、なかなか到達できないものです。スポーツでは、器用貧乏といっても20代後半くらいには、芽が出ないと、体力的な限界から難しい挑戦になってしまうでしょう。芸事は、その点では恵まれているのです。
○可能性は無限ではない☆
現実に何かを成し遂げるには、可能性を追求していきます。そして、その可能性の限界を知ることでしょう。そのためには、今の限界以上のことを目指して行うことです。それによって、己の分を知ります。そこから本当の勝負は始まります。そこまでには3年から5年、あるいは10年かかります。それは無駄にはなりません。修行といわれる、基礎を身につける時期です。
その作業をしないで、今の自分で制限をしていては、あなたの可能性は著しく狭められます。まだ充分に培っていない自分の現在の力のなかで、そこそこに応用した選択しかないからです。レッスンに通うのは、方法を求めるのでなく、この自分の器を破るためです。選択でなく、創造するためです。そこで欲しいものではなく、必要なものを求めることです。
ノウハウ、メニュばかりを勧める方法がヴォイストレーニングで一般化して、そういうことを生業とするトレーナーばかりになりました。そういうことをトレーナーに求める人ばかりになったということです。
それでは、すでに才能や実力が充分な、ごく一部の人を除いて、現実味のない夢の実現に邁進することになります。そのトレーナーの教えを受けて、うまくできたところで、現実世界との接点がつかないのです。修業どころかプランニングさえできないままに終わります。困ったことに、有能な歌手、役者、演出家が教えるとそうなるのです。ファン=お客様としてのスタンスにおかれるからです。
○力づくと全力の違い
夢と現実との距離がわからないときが最大のチャンスです。全力でチャレンジすると無茶や無駄がでるのにわからないからです。恐れず行動してみることです。そこから自分に合った勝負の仕方が見えてくるのです。
大海に出て、力のなさを知り、夢の現実化の手段を知っていくことです。それは、決して発声の方法などの差ではありません。
これまでの狭い経験のなかから自ら選ぶようなことでは、そこそこで止まります。歳をとると可能性が狭まるのは、歳のせいでなく、知ったふりをして冒険ができなくなるからです。小賢しい安定志向では大きくは伸びようがないのです。
○時機をみる
私は、ヴォイトレを、がむしゃらにやればよい時期と、自らの限界を知って選択していく時期とに分けています。問題は、その境目の時機をどうみるかです。
しかし、多くの人は、まだまだ、そこまで達していないのです。自分について判断するまえに諦めたり、やる気をなくしたり、仕上げたつもりになる人の多いのに驚きます。
レッスンは、ときとして最初から後者になりがちなのです。レッスンの目的に効率や合理性を求めるから、そうならざるをえないのです。
それまでに自分でできないところまで試してみることです。それが充分でなければレッスンをやりつつ、試みればよいのです。レッスンで視点を得つつ、レッスンと関わらず、自分の思う通りに大きく思い切ってやるというのは、なかなか難しいのです。
今のヴォイストレーナーのレッスンは、総じて、レッスンを求める人に合わせてできています。それに反することになると、矛盾したり中断したくなります。実のところ、そこでふんばることが大切です。人まねでなく、自分自身のもつ可能性を知るために、です。
○真面目からの脱却
どんなこともやむにやまれず、闇雲にやっていくなかで何かをつかんでいくというのが、およそ芸の本道です。ときに手を抜いても、ともかくも持続させていくのは、大人のやり方です。
真面目に意味や定義など考えたり、一時期に全てを賭けすぎて燃焼してしまうと、疲れて続かなくなります。人や仕事に対しても、絶対とか正しさを求めると、どうにもならなくなるのです。
○価値観と伝統
研究所としては、関わる人のどんな批判でも、ポジティブな改革への提案として、くみ上げられるようにしています。日々、何かが起こっていることは大変にありがたいものです。トレーナーが10人いると10倍、キャパシティがあるのです。
要望を早く吸い上げ、改善するように努めています。ですから、愚痴より批判、批判より提案がありがたいのですが、似たような提案よりは、新鮮な愚痴や思いがけない非難がありがたいです。実際には、批判のレベルによっては受け入れがたいものもあります。研究所やほかの人のためになるよう努めています。そのあたり、当の本人にわかってもらえないのは残念ですが、こればかりは仕方ないと思っています。
私は、いろんなところに行きますが、ここもあそこも直せばよいのにと思うことだらけです。でも、そこにはいろんな事情があることもわかるときもあります。私も、研究所で変えたいことは山ほどあるのですが、周りの思惑との板挟みで保留せざるをえないことが少なくないのです。
○革新する
革新者と同志とはなかなか両立しません。時間がかかる、いや、時間をかけなくてはいけないのです。具体的に述べたいのですが、キリがないのです。西郷隆盛と大久保利通、あるいは、信長と家康を考えたりしています。
仕事や対象や目的の優先順などにもよるので、何でも徹底すれば価値観になります。オリジナリティとなります。一貫せずに、つきつめられていない、深まっていないから価値にならないのです。トレーナーの方法や皆さんの方法にも同じように感じることがあります。
自分が選んだつもりで、向こうに選ばれている、こちらが辞めたつもりで、辞めさせられている、ということもあります。
長く続けられるために変えるべきこともあれば、変えてはいけないところもあります。それはなかなか外にいては、短期間ではみえないものです。それを踏まえて、永らえてきたものを伝統ともいうのです。
○マナー、愛想よくする
たとえば、接客にもっともすぐれている、おもてなしの国、日本、世界の人が日本のサービスを学び始めています。感じよく対応するというのを「おもてなし」です。これはホスピタリティとして万国共通のものです。
日本人のすぐれているのは、相手によって差別をしないことでしょう。これも、身分差別こそ奴隷制のある他の国ほどなかっただけで、些細な差にこだわる根深いものがそれなりにあったわけです。
○リスクをとること
ビジネスは、リスクと報酬が表裏一体です。責任をもつということは、成功したら、その分を多くもらうが、失敗したら、その分を多く失うということです。そのことで決定する権利=義務を伴うわけです。これは戦いの指揮官でも政治家でも同じです。
組織になると、この権限(地位、肩書)と、報酬(リスク)とが、階層(階級)で配分されます。参加すると地位に伴うリスクと責任を負わされるのです。
人間関係は究極のところ、信義に基づくものです。これは、どの世界でも同じです。芸能界は言うまでもなく、小学生のクラスや劇の発表会でも、この関係は成立しています。
ですから、等価値で交換が成立すべきなのですが、そこが難しいのです。そこでの価値の決め方という価値観がまさに人それぞれ、さまざまだからです。それをつくりあげていった人の考え方が表われることになるわけです。これは必ずしも損得や勝ち負けを元とすべきものではありません。日本のように革新を嫌う社会(=世間)では、保守的で既得権、利益を守るものとなりがちです。
○教える
他人に与えたいという欲求が、教えたいということで職になると教師です。大抵の場合、教師でなくても、人に働きかけたい気持ちは、誰もがもっているものでしょう。
他人に教えたくないとしたら、感情的なものか自分のデメリットになる場合でしょうか。教えることが自分の地位や収入や生活を脅かすとき、人は隠します。これは相応の報酬(金銭に限らず)があれば引き換えに、ありえない相手に情報を渡す人の多いことでわかります。自分の仲間や国の秘密を売るようなことも、人は条件次第でするものです。
そのときの判断は、その人の生まれ、育ちとともに、歴史の織りなす縦と横に、軸がどのくらい通っているかで異なるようです。なかには、使い走りとして使われ、他の誰かのために責任を取らされ、投獄されたり殺されたりした人もいます。そういう役割に、死んでも気づかない人もいます。
そういう形で巻き込まれてしまうのは、若くて何もみえず、やむを得ないことが多いのです。そこから抜けられないのは、全体の構造をみないから、みえないからです。そんなものはみえないことが多いし、世の中、全体がみえることなどありえないでしょう。でも、みようとする努力は必要です。