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2021年5月

「土俵を創る」

○土俵を創る

 

 私なりに経験上言えるのは、人生捨てたものでなく、個性や才能は一本道でない、多様なものだということです。スポーツのようにフィールドが決まっていると100メートル走でも、最初からそこそこに速くないと、生涯どう努力しても選手にはなれません。しかし、アートは、同じでないものを創り出すところでの勝負、いえ、勝負というのは同じ土俵ですから、それでもありません。真の創造は、土俵を選びません。土俵を創り出すことです。声もまた、大きな自由と可能性を得ているということです。

 

○イメージを扱う

 

 私たちトレーナーは、相手の喉や体を直接、触れて動かそうとしているのではありません。イメージを介してコントロールします。迷ったりわからなくなるのは曖昧なイメージのためです。レッスンは、それを一時的にしろ、明瞭に定めていきます。

 医者のように、直接、手当や手術するなら患者は動かなければよいのです。武術もスポーツもイメージの力が大きいのですが、多くは実践を伴い、身振り手振りを交えて伝えます。楽器も、触って覚えていきます。

 イメージは、ことばを介していくので、ときに整合性がつかなくなることがあります。そこを流せるか、こだわるか、それが、「ことばで考える頭」か、「イメージで動かせる体」かの大きな分かれ目です。「頭に邪魔させるな」ということです。

 

○できない

 

 「できない」とときおり、生徒がトレーナーに言うのを聞きます。「それで」と思います。できるのであればトレーナーは不要です。少しずつできていく、それは、できていないということを少しずつ明確にわかっていくことからです。そこから、どこまでどうできていないのかという細部へ入っていくことがレッスンの進化です。どうすればできるのかが頭でなく、体でわかってくるのです。

 「これをやってください」と言うと「わかりました。やりました。次は」という人もいます。これは例えれば、蕎麦打ちのように思ってください。わかって打ったつもりのあなたはの蕎麦は、他の人は食べたくないレベルの蕎麦でしょう。

 「終わりました」けど、「できていない」のです。「わかりました」けど「できていない」のです。そのなかに一本でもハイレベル、通じるものがあれば、あとは時間の問題です。その一本からスタートにつくというのが私の考えるレッスンの一歩です。体を少しずつレベルアップしていくと、しぜんになるのです。イメージの発露を邪魔するものもイメージです。のどでしゃべろうとするほどに、のどは固まるわけです。

 

○ゼロに戻す

 

 声が通るのは、相手にきれいに技がかかったような感覚でしょうか。多くのケースでは、そこまでにかなりの準備が必要です。心身がいつも動けるような柔軟な人は、ほとんどいません。

 1日のなかで一番よい状態を知りましょう。まずはレッスンの場にそれをもってこられるようにします。そういうことができるようになると、これまでのマイナスからがゼロからになります。楽しくて笑っているような状態、これを指摘だけで、喜んでくれる人が多いのは、驚きであり意外なことです。

 他のスクールのトレーナーなら、ここが目的、到達点です。その声でせりふ、歌でOK。声はOKだから、すぐに歌に入りましょう、できあがり、となるのです。

 本当は、そこはゼロ地点です。そこから真っ直ぐ上に行くのはよくありません。しばらくは、根をきちんと深く伸ばすことです。個性の発現は迂回するようになっています。その回り道に味がある。それをおおらかに見過ごしてあげないと、よくてもトレーナーの二番煎じのような声と歌になります。本当に高いレベルに行かせたければ、トレーナーに必要なのは、指導より忍耐なのです。

 

○教え方に合わす

 

 器用というのは、人間的に、ということなら、どのトレーナーともうまくやれることです。案外と仕事の力に近いのですが、うまくレッスンの指導を取り入れて活かせるということにもなります。つまり、教え方に合わせられる才能というのがあるのです。

 その上でトレーナーから評価がよい。となると…。評価というのは2つあって、今の力があるということと、吸収力(伸びしろ)があるということです。

 レッスンということでは、後者が望ましいわけです。しかし、どちらもないよりは何でもあった方がよいわけです。教え方に合わせるのがうまいのと、それに振り回されるのは違うので、そこはチェックします。

 私としては、あまりにトレーナーの教え方にうまく合ってしまう人こそ、もう一人、真逆のタイプのトレーナーを勧めるようにしています。大きく伸びたいのなら、逆タイプのトレーナーをも吸収できる器をつくるのです。

限界を打ち破って広げていくのと、限界を踏まえてそのなかでギリギリに詰めていくのは、レベルだけでなく段階が違うのです。勝負までの時期とかタイプでも違うのです。

 

 

No.357

象徴

静止

理屈

役柄

容姿

魅了

姿態

虚飾

素踊り

郷土

端的

終局

錦絵

芝居絵

美人画

ブロマイド

スティール

ポーズ

約束

労力

立派

本体

時空

無為

作為

自然

大偽大乱

神髄

雑念

「リセット」

○リセット

 

歌の基礎は、基本の発声として、2オクターブくらいをスケールやヴォーカリーズ(母音発声)で目的にしていることが多いようです。

 誰にもこれが難しいとは言いませんが、全体が雑になっていませんか。ベストの発声から遠のき、声域を獲得するために発声のくせをつけていくことになっていませんか。そのくせのつけ方を、高音で「あてる」というテクニックとして教えているのです。

 これは、悪いことではありません。第一歩として、そこから戻って、確かな発声としていけばよいのです。音にあてる練習でなく、使える音色で出せなくてはなりません。そこを省みずにそのまま先に行く。それでは、くせで固める限界を早々に引き寄せてしまいます。大体はそのまま1オクターブ以上固めてしまうわけです。これではヴォイトレでなく、音当て練習です。

 そこでいったん、解放、しぜんに戻すようにリセットして、一歩目からやり直すのです。それでこそ基礎です。メニュや方法で形を整え、型となったら、その型のなかで組み立てていくのです。これを固めたままに乗せていこうとすると、すぐに限界に当たるのです。

 

○ 勢いでつかむ

 

 「のどが疲れやすく、無茶すると回復しにくくなる」のは、齢をとるにつれ感じることです。若いときは「無茶をしても戻るのは早い」のです。ですから、勢いでやれてしまいます。勢いでやらなくては、技や実力がつくまで出せないから、これはこれでよいのです。実力が伴えばそれにこしたことはありません。

勢いの時期のあとは、のどに疲れを感じるようになることで、工夫して、基礎の力と技を得ていくのです。量と激しさから、質と静けさへ移っていくのです。

 若い人はつぶれない程度に量をやることです。表現は勢いで支えていてもよいです。その直感を技術的にキャリアに変えていきます。それをトレーナーが手伝うのです。

 トレーナーが過保護になると、いつまでも真の力がつかないということにもなります。ある時期のオーバーワークの継続を、レッスンに入る前の遊びとして経験することは、大成するのに大切なことです。

 すぐに習うのも一つの道です。ですが、習う先で教えたがる人にあたると、あまりよい結果になりません。人を選ぶのも勢いでかまいません。そこも感性と才能で選べるようになればよいのです。

 

○アラウンド40とミュージカル

 

 実力のギャップに気がついてレッスンにくる、他人に教わる必要を知るというのなら、オーバーワークでののどの疲れは、よいきっかけです。使いすぎでやむなく来る人は、使わない、使えないでくる人よりも、先の可能性が大きいといえます。

 そういう人の中には、のどが強く、力づくでやれてきたタイプもいます。最初から大声の出た役者もですが、その長所ゆえ、次のステップへ行けない人も多いのです。そこまでに修正が行われないのは、克服すべき目的として上がらないからです。すると、あるとき、いきなりのどを壊すことになります。回復が少しずつ遅れ、時間がかかるようになり、本番に影響をきたすようになるのです。仕事が増えている場合は、ダメージを食らうのです。

 あるミュージカル劇団での役者出身の歌い手は、決まって40歳くらいでのどが回復しなくなり、ここにいらっしゃいます。それは、こういう流れです。なまじ、通用してしまったために正せず、問題を先送りしてしまったのです。

 声優もミュージカル俳優も、ルックスや演技優先になり、声の問題が後で出てくることが多くなりました。本来、通用していないレベルなのに無理な配役をこなさせようとするからです。

 回復しにくくなるなら、回復の必要をなくすこと、つまり、疲れにくくする使い方に変えていくのが、技術です。その考え方を発声理論とし、ここでは生理学、音声学的に通った形で、ストレートに実践しているのです。自分の心身やのど、声についての感覚を鋭くもち、うまく使えるようにしていくのです。

 

○ハードな声

 

 身の丈に合わないハードな歌い方でのどを悪化させて、痛くなったり、出せなくなっていらっしゃる人がいます。昔はここに直接いらしたのに、最近は医者の紹介でいらっしゃる方が多くなりました。

 応急の処置をして、薬と休養で回復させても、次の同じだけのステージに耐えられるわけではありません。悩むよりは、ここに来るとよいでしょう。自力で直っても、くり返し壊していると、手術などになりかねないからです。

 ここにいらした人には、目的、レベル、実力、のどの耐久性をみた上でアドバイスをします。

1、 あなたののどの状態と発声と考え方(なぜ、こうなったのか)

2、 のどに負担をかけない発声法、もしくは呼吸法(解決へのアプローチ)

3、 ステージへの調整法と(具体的な練習メニュ)

シャウトやハスキーな声をステージで使う人もいます。役者の悪声、声優のアニメ声なども、発声から位置づけてトレーニングに取り組んでいるところは、ここくらいしかないでしょう。これは応用としてのイメージで練習させることです。そのような声は本番の使用だけに留め、それを支える、リカバーするやり方を覚えるのです。

 

○ステージ以外で痛めている

 

 喉を傷める原因の多くは、歌やせりふなどの本番ではなく、練習やリハーサル、ステージ後の打ち上げやミーティングなどによることが大半です。そこで声を休められず、悪化するのです。それに本人はあまり気づいていないのです。

 それに加えて、1呼吸、2食事です。温度や湿度など環境要因、メンタル面で緊張や自信のなさからくる悪影響も含まれます。

 オンリーワンでありナンバーワンを求められるヴォーカルの心身は、ステージが続くと過酷な状況となります。体を冷やさないように、乾燥させないようにといっても、屋外や暑い中、寒い中、埃だらけのなかの出番もあります。たばこの煙に悩まされることは少なくなりましたが、その分、弱くなったといえるのかもしれません。

 すぐに、のどアメや吸入器、加湿器、空気清浄器などに頼る生活は、トレーニングの環境=周りの環境を整えるべきであるという点では好ましいのですが、その分、メニュをハードにしないと、弱い体質ののどにしてかねません。

 

○あたりまえの量

 

 「12時間、仕事で声を使わなくてはいけないのに、コンスタントに使えない」これをサンプルとして取り上げてみます。たくさんの人がこの目的でいらしているので、実践的なアドバイスです。

 これに対応するには、ヴォイトレを週に1日、1時間では、誰がどう考えても不可能で抄。スポーツや芸事で考えたら冗談にもなりません。趣味のサークルで楽しむならありえると思いますが、大して技術向上は望まれないでしょう。バイオリニストもピアニストも毎日8時間を10年続けて、ようやく1時間の本番演奏時間をクリアするのです。2時間は声を出す毎日が必要でしょう。常識的に考えると、一日2時間の練習―正味として声を出すことをしなくては身につかないし自信ももてません。その絶対量を甘くみないようにしてください。

 

○総量

 

 お笑い芸人ののどが鍛えられているのは、毎日ネタを何時間も声を出して練習して、その時間の総量があるからです。しかも、わかるように大声ではっきりと出します。コントや漫才は、ものまねや他人を演じるハードなのどの使い方です。それに歌手や演劇の人が負けるようになってきたのでしょう。目標や基準が明確であるから、その執念が練習量になるのです。

 人を笑わせるというのは、基準がわかりやすいです。かなりできたつもりでも、ひどくすべることもあります。笑いの量というのは明確にフィードバックされますから、厳しくならざるをえないのです。

 どんな世界もそれ以上やったけれど効果の出せない人はいても、やらなくて出せた人はいません。トレーニングで仕上げたければ、まずは量です。声だけで勝負するのでない歌手や役者には、少ない時間でプロになった人もいるのは確かです。しかし、あなたがそうでないならそれに頼らない方がよいでしょう。

 

○スタートライン

 

 トレーナーの方法やトレーニングメニュでの結果をどうみるかは大切なことです。しかし、その前に、自らを省みて欲しいと思うことは少なくありません。

 褒めて心地よくさせ、声を導き出すトレーナーがよいなら、そこで12年やればよいと思うのでしょう。その後、5年、10年と経てば、自ずと何が得られたのかわかるかもしれません。ほとんどのケースでは、声そのものについては何も身についていないのではありませんか。

 私は、記憶術と同じだと思っています。それを学んで試験に通りますか。科目の勉強をしないで、術を覚えても、何ともなりません。

 レッスンは、トレーニングをより効果を上げるために使うものです。毎日のトレーニングなしにはどうにもなりません。本当のスタートラインは、レッスンの初日ではありません。トレーニングが日常となったところからです。

 

○ジ・エンド

 

 「アハ体験」で頭がよくなりますか。これは、「頭の体操」と同じで、問題作成者の作為の意図の読み取りに慣れてくると正答率が高くなる。時間制限ですから、ゲーム脳には通じそうですが。悟った名僧が、α波が出るからといってα波が出たから悟るわけはありません。頭がよくなっても中身が空っぽなら何も出てきません。

こうした発想の転換法やリラックスは、日頃まじめにやりすぎて詰まってしまった頭や体をほぐすのにはよいでしょう。そのあたりは、ワークショップの効果と同じです。

 日頃、最大の努力をしている人は、ワープ、ブレイクスルーを経験するかもしれません。ほとんどの人は、その手前でわかった気になって終わりです。体験で満足できるからです。本当は、そこからスタートなのに、ジ・エンドなのです。

 

○クローズとオープン

 

次につなげるためのきっかけであるレッスンに対し、ワークショップの多くは、それで完結してしまい、初体験の満足、セミナーになっています。カルチャーセンターにしても全3回とか全12回とカリキュラムを組むことで、予定調和的にクローズしてしまうのは同じです。

 なぜなら、クローズ=完結を求められるから、そういう満足、わかりやすく消化できると感じられる内容を出してみせることが、トレーナーの仕事になってしまうのです。ちょっとかじるだけだからおいしいというものが、紹介セミナーなのでやむを得ないのですが、貸衣装を着てする記念撮影です。

 他分野の専門家で感度のよい人がくると、けっこう本質的なことが、そこで得られることもあります。初心者向けに体裁を合わせているだけで、実のところは深いところを知る人がワークショップをしていたらですが。

 レッスンも似たようなものです。初心者や若い人は、わかろうとしない方がよいのです。トレーナーがそこに焦点を合わせてしまうからです。

 すぐにわかるなら、それはあなたに不要なものです。確認しにくるのでなく、創造するのです。批判しにくるのでなく、たった1ヵ所からでも肯定し、得て、活かそうと望むべきです。それが、クローズせずにオープンにしていくスタンスです。

 

○不可知とくせ

 

 何かしらわからないもの、それはトレーナーの指し示すもの、そのものでなく、方向のようなものでよいと思います。そういう世界を、そういう存在であるがままに受けとめればよいのです。未知の魅力を解釈して貶めるべきではありません。

 トレーナーを尊敬しろとはいませんが、学びたいのなら一歩下がって立てておきましょう。トレーナーでなく、トレーナーの向こうにある世界へのリスペクトです。それがなければ、本質的なことを学べないと思うからです。

 「トレーナーの言うとおりにしなさい」とは言いません。まったく逆に、反面教師として学んでもよいのです。ただ、トレーナーの言うところの理や、あなたに望もうとするところの理を読む努力はしましょう。さまざまなアプローチはありますが、とにかく、あなたを変えるため、感覚なのか理なのか、あなたのなかにないものを身につけるために、レッスンを処方しています。

 あなたの今をもってしては、どこにもいけない頭も体はそのままでは身につきません。体は、量と時間で変えられますが、頭がストップをかけてしまいがちなのです。するといつまでもくせがとれません。体のくせ、発声のくせは、考え方のくせやイメージのくせから来ていることも少なくありません。

 

○考え方のくせ

 

 多くの場合は、考え方のくせで、体や感覚も歪み、発声のくせもとれないのです。いくら、発声のところで指摘されても、考え方のくせはみえない、曖昧なイメージです。これまでそれで通じさせてきた人ほど、変えるのは難しいです。

 進歩のための変化を妨げる要因は、元に、これまでの落ち着くところに戻そうとする力です。新しい違和感を肯定するのは難しいことです。音程のとりやすい歌い方から入るとよい発声にならないのも、この一例です。

 私はアテンダンスシートなどで、質問を出させて考え方のくせを知り、対応策をトレーナーにも与えています。くせは、ほぼパターン化しているので、私には、よくわかります。

 

○スタンスとプロセス

 

 本人は誰もが同じようなことを聞いていると思っているかもしれませんが、あるタイプの人しかしない質問は大体決まっています。そういう人が何十名もいたので、どうするとどうなるのかまで、私は経験としての、データベースを持っているわけです。

 すべてが同じケースではないので、参考にする程度に留めています。これまではこれでよくなったという方法で、よくならない人がいるかもしれないからです。何をもって、どこまでよくなったかは難しい判断です。

 トレーナーがいなくとも、トレーニングでも何でも行えば変わります。くり返すことでよくなるのはあたりまえです。それでよしとするのと、そこからを問題にするのとでは、まったくスタンスが違います。何ヵ月かでの効果を目安にするトレーナーと、3年先をみるトレーナーとの違いです。

 

○クリエイティブなレッスン

 

 トレーナーは、人や作品をそこで判断するのでなく、その人の力を伸ばすために、いろいろな可能性をみて、アドバイスしていくのです。そして、対応も改めていくのです。原則として、よい方向に向くようにアドバイスしているのです。

 多くの年月かけてもうまくいかなかった、時間がかかった、という人もきます。それに対しても、うまくいったときのやり方、メニュを使って、年を経るごとによくなるようにします。

 よくするというのは結果ですが、焦らず、よくなるように条件を整えるのです。ここの研究所はデータベースを基に研究を進めながらレッスンをしているところだからできるのです。

 クリエイティブなレッスンでないと、生徒さんもトレーナーも本当にはおもしろくならないのです。

 

○発想力

 

 「持っているものを与えてください」でなく「持っていないものをつくっていってください」というのが、私のトレーナーへの要求です。生徒より長くやっているからトレーナーではなく、(長いなら、もっと長くいる生徒や年配の人もいます)そのクリエイティブな発想において、私はトレーナーをみています。

現実に目のまえにいる生徒に関わる問題をトレーナーとして接し、共同で改善していこうとしているのです。研究や創造のできない人は、ここのトレーナーとしては、ふさわしくありません。

 レッスンで覚えたことに、今すぐここで使えることを期待すべきではありません。しかし、何かをしっかりやろうとするときに、役立てれば充分なのです。

 

○関係でみる

 

 私は、どのトレーナーとも違い、「生徒」ではなく、「トレーナーと生徒」というセットで、誰よりも長くみてきました。ときに他のところからもトレーナーが生徒を伴って来たり、生徒がトレーナーを連れてくるときもあります。そのレッスンをみることも多々、あります。

 これまでのトレーナーとのレッスンのことを、ここで聞くことも少なくないのです。トレーナーのレッスンの評価について、生徒が思っていることが全面的に正しいとは思いません。どこかに一理はあるとはいえ、私の方が直接にも他の何百人の生徒の感想を踏まえても知っています。そのトレーナーより、私の方がそのトレーナーについた生徒の思うところを知ってもいるのです。私のところにはトレーナーが十数名いるので、もっとよくわかるのです。

 

○トレーナーの改善

 

 トレーナーが自信をもつには、自分に合うか、自分をよしとする生徒だけ引き受けることです。そうでない生徒は黙ってやめていくため、当のトレーナーは、そういう人の考えや批判を聞くことがありません。いつしれず、トレーナーは、自己流に偏っていくのです。裸の王様になっていくプロセスです。

 まだ未熟な声の分野で、批判も基準もないというのではなおさらです。多くは、長くやっていても、ワークショップレベルのことしかできていないのです。

 私は数多くの失敗から、常に気づかされてきました。常に、自分よりすぐれた人とやってこれたからです。多くのトレーナーは、自分より劣っている人としかやっていません。トレーニングについて、失敗の経験さえもちません。失敗に懲りて根本的に学ぶこともありません。そこまで厳しい条件下にないから失敗を認めない、というか、失敗していても気づかないといえます。

 

○なぜトレーナーについてもアーティストになれないか

 

 最近のことばで言うと「もってる」かどうかです。これこそが、アーティストの資質なのでしょう。レッスンやトレーニングは、そこからみると、そのために補うものに過ぎないのです。

 日本語を話している国に生まれたら、誰でも日本語は話せるようになるのと同じで、環境、育ちの問題、そして時間、量が基礎をつくります。問題は、次にくる質的転化と大きさです。本当はレッスンがそれを担うべきですが、現実には本番のステージで行われているのが、日本の実状でしょう。

 

○邪魔しない

 

 原則としては、トレーニングは強化してから調整していくのです。それには、感性、感受性、感度を取り入れる力を最大限にして出力します。本番よりも厳しい基準に合わせるのです。

 「鍛練」から、異なるベースでの「調整」に入ります。この究極の形は、病気やけがを治す、自然治癒力みたいなものに自分を委ねることです。

 毎日の積み重ねは何よりも大切です。レッスンをしようが、トレーニングをしまいが、毎日の体は連続して生きています。そこにセンサーを磨くことが必要です。「しぜんに」で、地球でも宇宙でもよいから、そこから大きなエネルギーを取り入れます。増幅して外へ放つことを邪魔しない身体、のど、声にしようということです。

 

○取りつかれる

 

 大きなエネルギーとは何なのでしょうか。言霊とか物の怪と思う人もいるようです。能の声のレッスンをしていると、人間としてのよい声をつくりすぎてだめなのですね。それを超えたものが伴わなくてはいけません。何かが降りてこなくてはいけません。その状況を呼び込む声、息、体でなくてはなりません。

 名人の渋い声に感じられるのに、若手のよい声に欠けているものです。同じフレーズで比較して、私は、伝統芸の声に入っていたのです。

 トップレベルの演者の同じ演目、たとえば「船弁慶」を何人も比べます。これは、オペラやカンツォーネを通じてポップスやクラシックの本質をつかんだレッスン法と同じです。

 

○一流の条件

 

 頭で考えてもわからないと取りつかれたように繰り返す、数を重ねる、聞く…たくさん、一流のものを聞いたあとは、出す…声を出してみます。そう簡単に憑りついてくれないものです。憑りつかれる状況を自らつくっていくことです。

 憑りつかれるとは、疲れを感じなくなります。自分の体が自分のものでなく、声も自分のものでなくなります。残念なことに、私はまだ自由にそこの世界と行き来できません。昔、2回だけ行ったことがあります。一流のアーティストの証とは、そこへ自在に行き来ができることだと思ったものでした。

 

○器用でなくす

 

 ゾーンとか言われるところ、いわゆるエクスタシー状態、つまり、マラソンハイのようなものです。密教の密儀です。一流の選手だけでなくても、誰でも努力しだいで到達できると信じたいものですが、頭でなく身体の能力で行くところです。

 天才、才能、素質などとなると、トレーニングが成り立たなくなります。「才能論」は引っ込めて、ということです。才能と勘違いされるものの多くは、器用さにすぎません。早熟にすぎないこともあります。

 私が100かけて、やっとできたことを、20くらいやって、すぐにできる人がいます。100とは年月でも量でも努力でもいいでしょう。人よりたくさんやればできるというものは、遅くなったり、手間ヒマがかかっても、いつかは時間をかけて追いつけるでしょう。

 プロは、20やって同じことができた器用な人が多いので、私と同じくらいに100やったらどこまでできるかということを楽しみにしています。必ずしも私の5倍、ものにはなりません。私が、200やっていくのに、その人は100どころか50さえやっていけないかもしれません。

 早く短い期間でできるのは、器用、早熟、要領のよさという才能です。それは才能の一つの要素に過ぎません。人生は限られているので、遅く時間がかかると、早熟な人の円熟期のレベルにも、なかなか到達できないものです。スポーツでは、器用貧乏といっても20代後半くらいには、芽が出ないと、体力的な限界から難しい挑戦になってしまうでしょう。芸事は、その点では恵まれているのです。

 

○可能性は無限ではない☆

 

 現実に何かを成し遂げるには、可能性を追求していきます。そして、その可能性の限界を知ることでしょう。そのためには、今の限界以上のことを目指して行うことです。それによって、己の分を知ります。そこから本当の勝負は始まります。そこまでには3年から5年、あるいは10年かかります。それは無駄にはなりません。修行といわれる、基礎を身につける時期です。

 その作業をしないで、今の自分で制限をしていては、あなたの可能性は著しく狭められます。まだ充分に培っていない自分の現在の力のなかで、そこそこに応用した選択しかないからです。レッスンに通うのは、方法を求めるのでなく、この自分の器を破るためです。選択でなく、創造するためです。そこで欲しいものではなく、必要なものを求めることです。

 ノウハウ、メニュばかりを勧める方法がヴォイストレーニングで一般化して、そういうことを生業とするトレーナーばかりになりました。そういうことをトレーナーに求める人ばかりになったということです。

 それでは、すでに才能や実力が充分な、ごく一部の人を除いて、現実味のない夢の実現に邁進することになります。そのトレーナーの教えを受けて、うまくできたところで、現実世界との接点がつかないのです。修業どころかプランニングさえできないままに終わります。困ったことに、有能な歌手、役者、演出家が教えるとそうなるのです。ファン=お客様としてのスタンスにおかれるからです。

 

○力づくと全力の違い

 

 夢と現実との距離がわからないときが最大のチャンスです。全力でチャレンジすると無茶や無駄がでるのにわからないからです。恐れず行動してみることです。そこから自分に合った勝負の仕方が見えてくるのです。

 大海に出て、力のなさを知り、夢の現実化の手段を知っていくことです。それは、決して発声の方法などの差ではありません。

 これまでの狭い経験のなかから自ら選ぶようなことでは、そこそこで止まります。歳をとると可能性が狭まるのは、歳のせいでなく、知ったふりをして冒険ができなくなるからです。小賢しい安定志向では大きくは伸びようがないのです。

 

○時機をみる

 

 私は、ヴォイトレを、がむしゃらにやればよい時期と、自らの限界を知って選択していく時期とに分けています。問題は、その境目の時機をどうみるかです。

しかし、多くの人は、まだまだ、そこまで達していないのです。自分について判断するまえに諦めたり、やる気をなくしたり、仕上げたつもりになる人の多いのに驚きます。

 レッスンは、ときとして最初から後者になりがちなのです。レッスンの目的に効率や合理性を求めるから、そうならざるをえないのです。

 それまでに自分でできないところまで試してみることです。それが充分でなければレッスンをやりつつ、試みればよいのです。レッスンで視点を得つつ、レッスンと関わらず、自分の思う通りに大きく思い切ってやるというのは、なかなか難しいのです。

 今のヴォイストレーナーのレッスンは、総じて、レッスンを求める人に合わせてできています。それに反することになると、矛盾したり中断したくなります。実のところ、そこでふんばることが大切です。人まねでなく、自分自身のもつ可能性を知るために、です。

 

○真面目からの脱却

 

 どんなこともやむにやまれず、闇雲にやっていくなかで何かをつかんでいくというのが、およそ芸の本道です。ときに手を抜いても、ともかくも持続させていくのは、大人のやり方です。

真面目に意味や定義など考えたり、一時期に全てを賭けすぎて燃焼してしまうと、疲れて続かなくなります。人や仕事に対しても、絶対とか正しさを求めると、どうにもならなくなるのです。

 

○価値観と伝統

 

 研究所としては、関わる人のどんな批判でも、ポジティブな改革への提案として、くみ上げられるようにしています。日々、何かが起こっていることは大変にありがたいものです。トレーナーが10人いると10倍、キャパシティがあるのです。

 要望を早く吸い上げ、改善するように努めています。ですから、愚痴より批判、批判より提案がありがたいのですが、似たような提案よりは、新鮮な愚痴や思いがけない非難がありがたいです。実際には、批判のレベルによっては受け入れがたいものもあります。研究所やほかの人のためになるよう努めています。そのあたり、当の本人にわかってもらえないのは残念ですが、こればかりは仕方ないと思っています。

 私は、いろんなところに行きますが、ここもあそこも直せばよいのにと思うことだらけです。でも、そこにはいろんな事情があることもわかるときもあります。私も、研究所で変えたいことは山ほどあるのですが、周りの思惑との板挟みで保留せざるをえないことが少なくないのです。

 

○革新する

 

 革新者と同志とはなかなか両立しません。時間がかかる、いや、時間をかけなくてはいけないのです。具体的に述べたいのですが、キリがないのです。西郷隆盛と大久保利通、あるいは、信長と家康を考えたりしています。

 仕事や対象や目的の優先順などにもよるので、何でも徹底すれば価値観になります。オリジナリティとなります。一貫せずに、つきつめられていない、深まっていないから価値にならないのです。トレーナーの方法や皆さんの方法にも同じように感じることがあります。

 自分が選んだつもりで、向こうに選ばれている、こちらが辞めたつもりで、辞めさせられている、ということもあります。

長く続けられるために変えるべきこともあれば、変えてはいけないところもあります。それはなかなか外にいては、短期間ではみえないものです。それを踏まえて、永らえてきたものを伝統ともいうのです。

 

○マナー、愛想よくする

 

 たとえば、接客にもっともすぐれている、おもてなしの国、日本、世界の人が日本のサービスを学び始めています。感じよく対応するというのを「おもてなし」です。これはホスピタリティとして万国共通のものです。

日本人のすぐれているのは、相手によって差別をしないことでしょう。これも、身分差別こそ奴隷制のある他の国ほどなかっただけで、些細な差にこだわる根深いものがそれなりにあったわけです。

 

○リスクをとること

 

 ビジネスは、リスクと報酬が表裏一体です。責任をもつということは、成功したら、その分を多くもらうが、失敗したら、その分を多く失うということです。そのことで決定する権利=義務を伴うわけです。これは戦いの指揮官でも政治家でも同じです。

 組織になると、この権限(地位、肩書)と、報酬(リスク)とが、階層(階級)で配分されます。参加すると地位に伴うリスクと責任を負わされるのです。

 人間関係は究極のところ、信義に基づくものです。これは、どの世界でも同じです。芸能界は言うまでもなく、小学生のクラスや劇の発表会でも、この関係は成立しています。

 ですから、等価値で交換が成立すべきなのですが、そこが難しいのです。そこでの価値の決め方という価値観がまさに人それぞれ、さまざまだからです。それをつくりあげていった人の考え方が表われることになるわけです。これは必ずしも損得や勝ち負けを元とすべきものではありません。日本のように革新を嫌う社会(=世間)では、保守的で既得権、利益を守るものとなりがちです。

 

○教える

 

 他人に与えたいという欲求が、教えたいということで職になると教師です。大抵の場合、教師でなくても、人に働きかけたい気持ちは、誰もがもっているものでしょう。

 他人に教えたくないとしたら、感情的なものか自分のデメリットになる場合でしょうか。教えることが自分の地位や収入や生活を脅かすとき、人は隠します。これは相応の報酬(金銭に限らず)があれば引き換えに、ありえない相手に情報を渡す人の多いことでわかります。自分の仲間や国の秘密を売るようなことも、人は条件次第でするものです。

 そのときの判断は、その人の生まれ、育ちとともに、歴史の織りなす縦と横に、軸がどのくらい通っているかで異なるようです。なかには、使い走りとして使われ、他の誰かのために責任を取らされ、投獄されたり殺されたりした人もいます。そういう役割に、死んでも気づかない人もいます。

 そういう形で巻き込まれてしまうのは、若くて何もみえず、やむを得ないことが多いのです。そこから抜けられないのは、全体の構造をみないから、みえないからです。そんなものはみえないことが多いし、世の中、全体がみえることなどありえないでしょう。でも、みようとする努力は必要です。

 

No.357

「日本のジャズ」

 

1920年代、日本にジャズが入る。エノケン、二村定一

1952年、ジーン・クルーパ・トリオの来日、ジャズブーム

1950年代、現代音楽

フリースタイルでは、短くから長くなっていき、無駄を省き短くなる

「ブルーノート研究」1969年、山下洋輔

音の成り立ちの理論化

フレーズ

先人からの影響、音楽の説明

演奏と評論

ムーヴメントとコンセプト

聴くことのプロなら、プレーヤーごとの違いがわかる

エネルギーを放出する独自の方法

積み上げて捨てる

格闘技で対話、独奏と関わり合う

緊張と弛緩の緩急のつくり方

伸縮、流密

ジャズと歌でミュージカル

ファッツ・ウォーラー、ピアニストでダミ声で歌う。

ファッツ・ドミノ

フォックストロット(ジャズ)

「君が代」、ユニゾンで始まり、途中和音で、ユニゾンで終わる

音が客席に届かない             [644

No.357

「日本人」

 

自己決定権にこだわらない

受け身、自己投資しない

有名人、イメージ商法、宣伝にのりやすい

自分で考えないで、言いつけを守る

日本は、安全で治安がよいので、防犯やセキュリティの意識が低い

かつては、出っ歯、メガネ、細い目のイメージ

反撃や反応をしない

 

 

「個と民主化」

 

国家権力への社会的バリケードがないと民主化を伴わない

大衆化(丸山眞男)

会社、家族の務めと存在理由と文化

全能感と無能感

生き死に老い、病のケア

母親と学校だけで育つ子供たち        [639

「本当に学んでいくために」

○身につくということ

 

 本当に身についていることの結果は、身についているのですからそれで全てです。そこで価値が周りに感じられていればよいのです。他人に与える価値ということなら、他人がそれを感じていればよいのであり、本人は知らなくてもかまいません。それでやっていることがうまくいっていることが、身についていることです。

 「身についていますか」「できていますか」など聞かなくてもよいのです。聞かなくてもわかるものであり、わからなければ、それだけのものです。

 聞かなくてわからない人もいれば、そうでない人もいます。みせなくては出てこないとか、伝わらない人もいます。どうであれ、自分の伝える相手が認めればよいことです。日常、しぜん化していくのです。

 ふしぜんなのは、身につけようとするからです。それを早くとか、他人、先生とか師とかトレーナーから学ぼうとするからです。それを特定の相手、あるいは、不特定な人々に、特別に認められようとするからです。不特定、と言っても、実のところ、仕事なら仕事をくれる相手と、その向こうの客と特定すればよいのです。

 

○大きく学ぶには、選ばない

 

 自分に身についていなくて相手に身についているものは、自分には判断はできないのです。それを判断できるトレーナーを選ぶのに、自分ですぐにわかると思うくらいなら、それは身についても大したものではないといえます。

 大きく学ぶことは、大きく自分を変えることです。ですから、エイヤっと直感的に当たっていくしかないのです。決心のための勘と踏み出す勇気がいるのです。

 あなたのこれまで人生経験の判断を元に「正しく」選べるくらいなら、きっと声などという、学ばなくても身につく、身についている人もいる分野では、すでに身についていなくてはおかしいでしょう。そこは手ほどきを必要とする楽器などと大きく違うところです。自分だけで選ぶときは、再度、あまりうまくいかない可能性が大きいようにも思うのです。

 それを変えたければ大きく、あまり選ばずに学ぶことです。トレーナーの人選なら、あなたが選ぶよりも私が選んでお勧めする方が適切なはずです。そこで、研究所では、あえて、私が直接レッスンを引き受けるのでなく、私がその人に好いと思うトレーナーを二人つけてスタートさせているのです。それで大きく変じること、勘をレッスンで磨くことです。その学び方をレッスンで得るのです。

 

○伸びしろ

 

 「声は日常の中にあるから、楽器のようにいかない」ということは、先生やトレーナーを選んだり、方法メニュを選ぶのにも、思っている以上に難題となってくるのです。

 まして自分の性格、個性や評判などを気にするようになり、本やCDや、ネットの多くの情報に翻弄され、自我ばかりが大きくなってしまうと、もはや、伸びしろがほとんどない状態にあるわけです。

 自分の力をつけたい、変えたい、変わりたいから学ぶのであるなら、今の自分自身の学びの限界を破るのが目的であるはずです。それを自分の頭で考え判断するのは、自分で考えられる限界のなかで動くのだから大して変わらないということなのです。

 

100パーセント

 

 他のスクールで、ヴォイトレで歌い手が伸びないと相談を受けることがよくあります。大体は、本人が100パーセント出しきれていないからこそ、全力でやるべきなのに、それをトレーナーを「お目付け役」として使っている感じです。家庭教師で例えると、机の前に生徒を座らせていたら、成績が伸びていくレベルです。教室で先生の話すことをまじめに聞いたら、普通にできるというレベルです。問うレベルが低すぎるのです。それでは頭に入っても体には身につきません。

 私は、状態と条件ということで分けています。ヴォイトレのほとんどのレッスンは、状態の変容を期待するのに過ぎないのです。これでは、自らの声を100パーセント出したところで、出ただけでどこにも通用しません。それで、そこまで行かずに6割くらいで歌えるようにまとめるという、先のない指導が行われています。出せない声をさらにセーブして、使い方でしのいでいるのです。即効的な対処では、いずれ行き詰まり通用しないという、当たり前のことをふまえていないのです。100パーセント出させるのさえ、「お目付け役」は制限して、その場をしのいでしまうのです。全力を尽くすことなくして実力はつきません。

 

○カラオケ化するヴォイトレ

 

 本当に学ぶというのは、自分の理解をはるかに超えるところに学ぶということです。すぐれていく人は、海外の一流のアーティストのステージや作品にストレートに学んでいます。ヴォイトレなら「どうしてあのような声が出るのか、まったく理解できない」「実感できない」から、「実感できてきたが、できない」が「できないのができるようになるのがイメージできる」。やがて、「これだけ足らないとみえてきた」となっていくものです。☆

 この分野は、アーティストでも、一般の人にわかるようにレッスンするとなった途端、適任者でなくなります。ストレートから濃縮還元になるようにです。

カラオケ教室や本やDVDなども同じです。何でもないよりもあった方がよいのですが、それで人が育つことはありません。あればまし、という点では教育のノウハウです。それを100パーセントこなしたところで、必要の1割に達しないと思ってください。

 

○真逆へいく

 

 真理は、自分も超えているというのがわからないなら、自分の考えると正反対、真逆な方向がよいということです。多くの人ができないことなら多くの人の進む方へ行かないことです。理解を超えるという意味では、逆の方があなたの可能性を大きく開く確率は高いのです。

99パーセントの人は、自分の意にそわないものを選びません。ゆえに身につかない、大した力にならないとみればわかりやすいでしょう。

 それなりに学べている実感があり、そこそこに満足してしまう環境が最悪なのです。☆目標が具体的にこなせるように、あなたに合わせて下がってきていると、そこに気づかなくなっていくのです。

 ヴォーカルのスクールや声優のスクールで一時、がんばって目立っていても、10年あとに続いている人は1パーセントもいないのです。決め手となるのは素質ではありませんが、学び方の素質というべきかもしれません。

 

○教育ビジネス

 

 夢がかなわないのではなく、真の実力が身についていっていないだけです。

 この点については、クラスで平均点を取れたらよいとか3年続けたらよいなどという甘いものではありません。だから「わかりやすい」とか「やさしい」などというCS(顧客満足度)においての生徒の評価などに、教えるレベルを合わせてしまうと、10年経とうと1000人であろうと、1人でも育たなくなってしまうのです。トレーナーがいかに優秀でも、育てようとするから育たなくなるともいえます。

 「教えてくれない」とか「わからない」というくらいで、「他人の答え」を求めていてどうするのでしょう。自ら学んでいく力がある人か、学べるように力をつけた人だけに先があるのです。生徒の尺度で考えて判断できてしまうようなものなら、その先に価値になるものなどないのです。「誰でも時間をかけたらできるレベル」で終わっては、その先がないのです。知識の反復で受ける資格試験のように考えないことです。

 でも今の日本人の大半は、そういうところしかみないで動いているといえます。「レッスン○回を〇〇円買っている」から、「毎回、その分の価値」という交換のような消費者感覚だからです。サービス業と堕したかのように、スクールやトレーナーが、生徒に応じることが何であれ大切だと思っているからです。それは、教育ビジネスのプロですが、生徒はいつまでも生徒であり、消費者にしておくこと、ゆえにビジネスモデルなのです。

 

○壁

 

 レッスンを通して、何を得るのでしょうか。それは新しい声、新しい感覚、新しい自分、つまり、大きく変わった自分に出会うのです。それを「今すぐに」というから、今の自分を変えていきたいというのも、変えるスケールが本当に小さくなってしまったのです。ちょっとした気分の差で大きく結果が違ってくるくらいに小さくなったから、心身の状態のよしあしだけで大きく左右されてしまうのです。トレーナーが励まし、勇気づけるだけで、すぐによくなるのです。

 10001万かも見えないほどに相当な力がないと通用しない世界に、100200で、「すごく効果があった」と思っても、そこで頭打ちです。その効果は第一歩にすぎません。23年先からの本当の実力をつけることに対して何の準備になっていないのでは、そこ止まりです。

 人前で通用するもので、始めて1日や1ヶ月でできるもの、出る効果などありますか。

 スケールのとり方において、全てが異なってくるのです。どんなヴォイトレを行っても、その先にいけない限界を、壁を、本人が、トレーナーにつくと、共に強固につくっているというのが、一般的なヴォイトレにありがちと思うのです。いつまでもやりたいことがわからないという人も多いのです。それは、まだ、やれることがないことの裏返しにすぎません。とことんやれば、やれることなどほとんどないことにあたります。そこからが、本当のスタートなのです。

 

○地ならしをする

 

養老氏の「バカの壁」に触れました。壁の内側にいると、外側は、その存在さえわからないのです。

 声は、レッスンの中でもトレーニングの中でも、常に、ではありませんが、あるとき次元が変わります。パラダイムが組み変わるのです。レッスンはそのためにあり、トレーナーもそのためにいると私は思うのです。

 ただ、「そういう瞬間、そのうちのいくつかは偶然の産物で、その奇跡を待て」というのでは、モチベーションが保てない人もいるでしょう。そこで、その場とその時間をトレーナーのもとで、共有して底上げしていきます。少しずつ、感覚や体の条件を鍛練しては丁寧に整えて、その一瞬を起こせるように、気づけるように、整地、地ならしをしているわけです。トレーナーの感覚の共有は大きなヒントです。

 鍛練なくして整えたところで、その瞬間というのは望めません。精度として10分の1くらいに整えていても、1000分の1レベルで整わなくてはまだまだ、といったところです。

 鍛練といっても鍛えようなどと無茶をすると、バランスが壊れて乱れます。今までより悪く、10分の1も整わなくなります。それが自滅なのか、100分の1へ行くためのプロセスなのか、それを見分けることが肝心です。

そこにとどまって厳しく判断します。それは決して慣れあいのレッスンでは生じません。器を大きくしていくのに、自らの外を固めてしまっては内なる限界は破れないのです。

 

○師と創造

 

 私にとっての師は、わからないことをわからないままでなく、そのうちに認められるようになりそうな何かを感じられるヒントを下さるところにあります。その頭の中、奥行きは読めないでよいのです。読めるくらいなら必要ありません。むしろ、自分の実力や個性を否定してくるほどのものがよいのです。そこで認められたら卒業ですから簡単ではありません。褒められたら、それが本心だとするなら、そこで終わる。また次の師を捜さなくてはならなくなるでしょう。

 師が認めたら世界中でやれるくらいに、シンプルな基準において高度に身についていくレベルを求めていくことです。

 わかりやすく言うと、こちらがわからないくらいに深読みしてくれる相手でなくては困ります。誰でも同じように学べるというのはどうでもよいのです。自分にとってどうなのか、が唯一の問題です。

直観が働いたり、イマジネーションが感化されるような相手です。わからないから想像する、想像できないから創造する、しかしようもない状況に追い込まれるというのが理想です。

 こちらができないことができる人、というならアーティストや職人を捜せばよいわけです。師や先生というのは、それと違います。先生の通りに歌ったり、せりふを言えるようになったところで、ものまねにすぎないからです。

 こちらが同じことを生涯やってもできないどころか、わからないようであって欲しい。できないのに世の中では充分に通用するようになっている、それくらいでよいのです。いえ、芸術はそんなものでしょう。師と同じものはいらない、二番煎じになる、同じにできないから、自ら創造する必要にせまられるのです。

 

○スタンス

 

 学ぶというスタンスがわかっていないと、学んでいるようでも大して学べないし先がありません。スタンスは、声を学ぶことよりも大切なことです。声を学んでいるつもりでも、学ぶのは声ではないのです。スタンスが学べたら声もものになる可能性が高まります。身につくところのベースができることがスタンスというものです。

 自分への評価はトレーナーに任せればよいのです。一人でなく、何人ものトレーナーが認めているならば、それは力となり身になっているのです。

やさしく甘いだけのトレーナーではだめです。厳しいトレーナーがいなくなってきたことが問題です。あなたに対してでなく、声や表現に対して厳しいということです。

 トレーナーの基準(ここでは、トレーナーが自分で身につけたもの)だけでは、ダメです。世の中においての価値、それも創造的な仕事への評価においてみなくてはなりません。

 自分で自分をいくらよいと思っても仕方ありません。トレーナーをもっとも厳しい客として使うことです。できたら、複数のトレーナーにみてもらうとよいでしょう。

トレーナーの力を判断しようとしていては、より学べない状況から抜けられないようになってしまいます。それは、最悪の接し方です。自分の実力を自分で固めて、最低レベルに制限してしまうだけだからです。

 

○ギャップ

 

 「10年たったらわかる」ようにするのです。誰もがわかるようになるのではありません。人によって何年かは違います。実際の年月は大した問題ではありません。積み重ねがものになっていっているのか、年数を経ただけなのかです。実質としての10年が一つの単位ということです。

 私は「ハイ」だけでも5年もトレーニングすれば通じるようになると思っています。それだけをしっかりやると、お腹から「ハイ」が出せるようになるのです。多くの人はそれさえやりません。ですから、10年経っても通じる「ハイ」も出せません。呼吸も当初とさして変わらない人も少なくありません。つまり、そんな「ハイ」もいらなければ、声も呼吸もいらなかったのでしょう。絶対に変わる必要もなかったのです。

 足らない、欲しいと強く思わなくては、ギャップは明確にみえてきません。まして埋められません。その強さ、欲の程度が修得のレベルと表現を決めます。

 そのギャップがみえて、自分が劣っているのをわかっている人は、とても優秀です。だから学ぶのです。そこがスタートラインです。

 プロも含めて、その人のごまかしやテクニックを抜いて、下手というのにするのは、そのギャップを露わにするためです。

 トレーニングのメニュや方向を気にしても、さほど意味がありません。レッスンは、曖昧な目的をより具体化していくことに尽きます。反対方向に行っても、振り幅(=器)さえ大きくしておけば逆にも振れるものだから、身になっていくのです。

 

○邪魔

 

 本来は、上に大きく伸びつつ地中に深く根を張るのが望ましいのですが、ここでもいくつかのタイプがいます。深く深く根ばかり張るようになってしまう人もいます。深くしても上に出ないで浅く広く張る人もいます。上にだけ伸ばす人も、横だけに伸ばす人もいます。一時的にはどれでもかまいません。

 トレーナーはそのプロセスで、全体の大きさや位置づけをみえるようにしていけばよいのです。これは意図的な試行錯誤の時期です。なのに、トレーナーには効率が悪いからとすぐにストップをかけがちです。しかし、この、一見、無駄な冒険に、放任して冒険させるところに、その人の個性や表現の核が現れ出るものなのです。

 

○価値をつくる

 

 下手にトレーナーにつかない人やトレーナーに合わない人の方がアーティストになるのは、トレーナーのレッスンが邪魔しているせいということもいえます。でも、それはトレーナーの使い方も悪いのです。

 一方的に依存する。たとえば、ときに自信にあふれた歌手が、他のトレーナーから私のところのトレーナーにつきます。やることにすべて「ハイ」と従うだけでしたら、一通り終わっても「前の先生と同じことしかやってくれない」と思うかもしれません。自分から何かを出さないとレッスンは、ただのレッスンのままです。

 あなたが声を何とかするのでなく、声からそのまま作品になるところにあなたが現れるというプロセスをとるようにします。

あなたには、あなた自身や周りの人が大切かもしれませんが、現実には、ここでは音声での価値を有するあなた、そのあなたの声、あなたのせりふ、あなたの歌が価値の源泉です。そこをしっかりと区別してみつめていこうと努めています。

 

○アーティストに学ぶには

 

 師である先生やトレーナーが表現者であるとき、その表現に惚れて、つくわけです。型を学びつつ、似せていくのか、似せるとよくないのかは、そのアーティストのレベル、あなたの学ぶ目的、レベル、タイプにもよります。

 表現としては、プロのアーティストには学ぶことが多くとも、声に関しては、かなりの無知、独りよがりな理論、考え、方法、メニュなどが多く、それについては、ただの未熟なトレーナーよりも影響力が大きい分、気をつける必要があります。 

 昔から多くの人には、逆効果となるような、そのアーティスト独自の学習法や考え方はありました。しかし、ここのところ、ヴォイトレのなかでは当たり前、常識となりつつあることさえ、アーティストが教えているケースでおかしな使われ方がされて、びっくりさせられることもあります。

 自分で仕事をしている分には、そんなにおかしくないのに、他人に教えるとなると、どうも狂ってしまうようなのです。そのアーティストが天性というか天然の才でやれたので、それゆえに、そうでなかった多くの人には、そのようにはいかないことを知るとよいのですが…。そういう方法は、そのアーティスト独自のものなので、少し離れておくことです。

 

○表現と基本

 

 アーティストからは、声よりもステージや歌やステージに学ぶことです。そこはプロなのです。プロに対しては、どこのプロ、どこがプロなのかをきちんとみることです。ヴォイストレーナーの行うメニュや方法の方が、ヴォイトレとしては、プロなのでよいはずです。声だけでずっとみてきた人なら、声について、もっとも多くの経験を持っているので、そこは使い分けをすることです。

 アーティストは、他の人の声についても自らの経験や判断でアドバイスをすることはできます。しかし、将来へ時間をみて育てていくトレーナーとはまた違うということを知ったほうがよいでしょう。人からはその専門性に学ぶべきです。その場での発声の矯正をヴォイストレーニングと考える人が多くなったのは困ったことです。

 基本とは、型であるのですが、私は、基本の基本として型以前の自然を学ぶように努めさせています。ただ一声でよいから体の声、これも「大きく響けば体の声で1オクターブ」といえるものです。1音を体から、いつでも完全に出すのには相当な年月がかかるのです。周りの人、といっても誰でもよいのでなく、厳しい人、1000人に1人くらいしか認めない人が認めるレベルでの発声と考えてください。

 

○土俵を創る

 

 私なりに経験上言えるのは、人生捨てたものでなく、個性や才能は一本道でない、多様なものだということです。スポーツのようにフィールドが決まっていると100メートル走でも、最初からそこそこに速くないと、生涯どう努力しても選手にはなれません。しかし、アートは、同じでないものを創り出すところでの勝負、いえ、勝負というのは同じ土俵ですから、それでもありません。真の創造は、土俵を選びません。土俵を創り出すことです。声もまた、大きな自由と可能性を得ているということです。

 

○イメージを扱う

 

 私たちトレーナーは、相手の喉や体を直接、触れて動かそうとしているのではありません。イメージを介してコントロールします。迷ったりわからなくなるのは曖昧なイメージのためです。レッスンは、それを一時的にしろ、明瞭に定めていきます。

 医者のように、直接、手当や手術するなら患者は動かなければよいのです。武術もスポーツもイメージの力が大きいのですが、多くは実践を伴い、身振り手振りを交えて伝えます。楽器も、触って覚えていきます。

 イメージは、ことばを介していくので、ときに整合性がつかなくなることがあります。そこを流せるか、こだわるか、それが、「ことばで考える頭」か、「イメージで動かせる体」かの大きな分かれ目です。「頭に邪魔させるな」ということです。

 

○できない

 

 「できない」とときおり、生徒がトレーナーに言うのを聞きます。「それで」と思います。できるのであればトレーナーは不要です。少しずつできていく、それは、できていないということを少しずつ明確にわかっていくことからです。そこから、どこまでどうできていないのかという細部へ入っていくことがレッスンの進化です。どうすればできるのかが頭でなく、体でわかってくるのです。

 「これをやってください」と言うと「わかりました。やりました。次は」という人もいます。これは例えれば、蕎麦打ちのように思ってください。わかって打ったつもりのあなたはの蕎麦は、他の人は食べたくないレベルの蕎麦でしょう。

 「終わりました」けど、「できていない」のです。「わかりました」けど「できていない」のです。そのなかに一本でもハイレベル、通じるものがあれば、あとは時間の問題です。その一本からスタートにつくというのが私の考えるレッスンの一歩です。体を少しずつレベルアップしていくと、しぜんになるのです。イメージの発露を邪魔するものもイメージです。のどでしゃべろうとするほどに、のどは固まるわけです。

 

○ゼロに戻す

 

 声が通るのは、相手にきれいに技がかかったような感覚でしょうか。多くのケースでは、そこまでにかなりの準備が必要です。心身がいつも動けるような柔軟な人は、ほとんどいません。

 1日のなかで一番よい状態を知りましょう。まずはレッスンの場にそれをもってこられるようにします。そういうことができるようになると、これまでのマイナスからがゼロからになります。楽しくて笑っているような状態、これを指摘だけで、喜んでくれる人が多いのは、驚きであり意外なことです。

 他のスクールのトレーナーなら、ここが目的、到達点です。その声でせりふ、歌でOK。声はOKだから、すぐに歌に入りましょう、できあがり、となるのです。

 本当は、そこはゼロ地点です。そこから真っ直ぐ上に行くのはよくありません。しばらくは、根をきちんと深く伸ばすことです。個性の発現は迂回するようになっています。その回り道に味がある。それをおおらかに見過ごしてあげないと、よくてもトレーナーの二番煎じのような声と歌になります。本当に高いレベルに行かせたければ、トレーナーに必要なのは、指導より忍耐なのです。

 

○教え方に合わす

 

 器用というのは、人間的に、ということなら、どのトレーナーともうまくやれることです。案外と仕事の力に近いのですが、うまくレッスンの指導を取り入れて活かせるということにもなります。つまり、教え方に合わせられる才能というのがあるのです。

 その上でトレーナーから評価がよい。となると…。評価というのは2つあって、今の力があるということと、吸収力(伸びしろ)があるということです。

 レッスンということでは、後者が望ましいわけです。しかし、どちらもないよりは何でもあった方がよいわけです。教え方に合わせるのがうまいのと、それに振り回されるのは違うので、そこはチェックします。

 私としては、あまりにトレーナーの教え方にうまく合ってしまう人こそ、もう一人、真逆のタイプのトレーナーを勧めるようにしています。大きく伸びたいのなら、逆タイプのトレーナーをも吸収できる器をつくるのです。

限界を打ち破って広げていくのと、限界を踏まえてそのなかでギリギリに詰めていくのは、レベルだけでなく段階が違うのです。勝負までの時期とかタイプでも違うのです。

 

 

Vol.98

〇仕事でつける声力

 仕事に使う声にも、さまざまあります。

 仕事は生計を立てるのに必要です。男性は女性にプレゼントするのに稼ぎ、養うのが長く続いた慣習でした。しかし今や女性も、仕事をして自立するようになっています。生活のためだけではありません。仕事が人生を充実させあなたを成長させるからです。

 生活は、消費を伴います。生活を支えるためには何かをしなくてはいけません。

 人生は仕事だけに賭けることもできます。人は食べなくてはなりませんが、仕事は生活の糧になるからです。その分、自家中毒にもなりやすいでしょう。しかし、仕事に恋した人は、幸せかもしれません。多くの人と関わり、何かを成し遂げていくというのは、快感の一つでしょう。私などは、かつて仕事が途切れると人と出会う機会も減り、大してやることがないのに、唖然としました。

日本人の大半は、これまで仕事を人生の生きがいにしてきました。今の日本人は、有史のなかでも恵まれていると私は思うのです。というのは、仕事で自分を成長させるところに、多くの人がおかれているからです。

 そして仕事で声の力はつくのです。

〇仕事と恋愛と声

 仕事と恋愛の切り替えなどといわれますが、声のことであったら大きくは、同じです。仕事ではパートナー同様かそれ以上に、気をつかわなくてはいけない相手やシチュエーションもあります。

 仕事をもつことで能力に、自分の価値、アイデンティティを確立させることができます。

 仕事での声は、能力として自分で高めていくこと、その声で行ったことが、相手にも価値となるのです。

 どんな生き方もその人が選びます。恋愛そのものに価値をもつなら、生涯続くことよりも刹那的に、いや自分の心に正直に、次々と変じていくというのも、理に適ったものでしょう。恋愛は、お互いが精一杯、背伸びして、はったりあえる期間です。しかし、家庭の生活は、たいていは収入なくして成立しません。ですから、身の丈の仕事が欠かせません。

どちらにしても、声への自信は相手の信頼を引き出し、あなたを成功へ導きます。

○現実の声

 現実での対応は、「現実的な声で」となります。ですから、真に魅力的な声は、現実を忘れたときに出てくるのかもしれません。

 歌手などでも恋をすると、大きく歌えるようになるといいます。失恋して、より感動が伝わる歌を歌えるようにもなります。体験のもたらす糧は、何ごとにもかえられません。

 「もっと魅力的になりたい」「すばらしい人と思われたい」「評価されたい」と思っていくからです。

 それが極まって「何も手につかない」などというのは、破滅型の大恋愛でしょうか。

〇声の使い分け

 

 いろんな状況によって、多くの人は、声をしぜんに使い分けているはずです。声の使い方がうまい人と、へたな人では、その成果に雲泥の差が表われるでしょう。

 あなたのもつ次の4つの声を考えてみましょう。

1.自信にみちた声、パワフルな声、説得力のある声、意志の強く伝わる声

2.やさしい声、おだやかな声、さとせる声、くどく声

3.おだてる声、本心からほめている声、心から喜んでいる声

4.申し訳なさのにじみ出る声、心底あやまっている声、命をかけて詫びている声

〇仕事の多くは、言葉で決まる

 声そのものも肝心ですが、それよりも、声で得られる結果、目標を、しっかりと掲げましょう。とりあえず、仕事、趣味、恋愛、お金、豪邸、なんでも欲しいものを欲張って書き出してみましょう。

 あなたのその思いが、あなた自身のなかで明確になると、セルフイメージによって、声が変わってくるのです。

 今の声がどうであれ、大したことではないのです。そこでの問題を、声の使い方、声への思いに、置き換えてみてください。

 声は外側からでなく、内面の思いや感覚が変わって、変わるということです。

○覚えておきたい声のルール。

 幸せになるには、いろんなものが関係します。まずは話し方で、それには声への自信が必要です。

 しかし、それは、思い込みでよいのです。セルフイメージが、あなたの声を理想的に変えます。 

鏡をみるのと同じく、声を録音して聞きましょう。まわりの人の状況と声を把握しましょう。他人の評価は、気にしすぎないようにしましょう。表面的に変えてもあまり意味もありません。

 常に目標をもち、その思いをもち、内面から声を変えていきましょう。

〇基本は、あいさつから

 

 声の基本のトレーニングは、あいさつからです。オアシス運動を知っていますか?

 「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼しました」「すみません」(「失礼します」、「すみませんでした」)。

これを朝一番にくり返しましょう。口と声を起こして、仕事に備えます。

大きな声でやる会社もありますが、急に大声では、のどもびっくりしてしまいます。声にも個人差があります。

 

〇明るい声の「おはよう」は、朝をさわやかにする

朝にはなかなか起きにくいのが声なので、無理は禁物です。声を起こすには、体を動かせばよいのです。先に体操をした方が、声が出やすくなります。

 朝の「おはようございます」は、爽やかでなくてはなりません。無理やり大声で、朝から疲れた声での挨拶では困ります。

 

○大きな声で挨拶する

 

 それでも、大声を出すと、仕事への気分の切り替えができます。目的が、気分の切り替えなら、他にもやり方がありますが、声をしっかりと出すことで羞恥心を取り去ることもできます。

お店での日本独特の、「いらっしゃい」式リレーの流用を、私は美的ではないと思います。客商売に、敬語も使えない店員、でもない限り。

日頃、出していない声を仕事で使えるのはよいことです。出し惜しみしないで、仕事で声をブラッシュアップしましょう。

「考証する」 No.357

アートにおいては、先達の一流の作品や技術に比較していくことが学ぶのに有効な手段です。同じことをくり返すだけで終わらないために、先人のさらに先に行くために、これまでの作品を知ること、つまり、歴史研究は、必修となります。

いろいろと知っているうちに好きなアーティストや作品が出てくることもあるでしょう。自分の創作したものが先人のとほとんど同じということもありえないことではないのです。全て自分のやりたいことが実現されていたら、あなたの創作の意味や意欲がなくなるかもしれません。そうして、いろんな理由で納得して、リタイアしたり転向したりした人も少なくありません。

そこを超せないというなら、それはそれでやりようを考えていけばよいのです。過去を継承し、次代につなぐという役割もあります。問われるものは、才能ではないのです。才能で問われると、一流の才能にあふれる分野からは、退出を余儀なくされるのが普通だからです。

戦略を立て、手段も問わなくてはなりません。あなたの可能性があるのが、今の分野とは限らないからです。

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