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2021年6月

「科学に関しての論」

○科学の限界

 

 踏まえておくべきことは、科学的であることは、絶対に正しいということや実践に使えることとは、程遠いこともあるということです。後日、新論で否定されてしまう可能性があるからです。

本当に科学的な態度とは、新たな発見でそれまでと異なる論が証明されたら、すぐに、それまで行っていたことと正反対の立場をとることになります。これは、アーティストやトレーナーにとっては、両刃の剣です。

 私自身は、科学の可能性と限界を踏まえ、当初より一貫した主張を続けています。そうした信条、信念を簡単に変えるのは信用にもとるという立場です。その反面、柔軟に、何でも効果があれば取り入れるという姿勢で、いろんな人と行ってきたのです。誤りがあれば、それを認めることにやぶさかではありません。

 医者であり、声楽の分野でも第一人者とされた専門家の出したベストセラーの本に「裏声は、仮声帯で出す」とありました。今さら、私はそれを言挙げするつもりはありません。その人も新しい本では触れなくなりました。

 それを読んで、引用しているトレーナーもいます。トレーナーは、自分の説の補強として、科学的な根拠をもってきたいので、よく引用します。そこでよく起こす誤りといえます。科学的な説を取り入れたあと、そのままにしていると間違いとなることもあるのです。科学的というのは、常に最新を追っていかなくては、間違いを流布することになってしまうのです。

 科学的なことを、過去に出した文献に対して批判しても仕方ないといえます。そのときはそういわれていたのですから。批判は、少なくとも現在のものに対して行うべきです。私の20年前の本や、10年前の研究所を、今の見地から論評するとしたら、科学的な態度ではありません。科学も変わるし、人も学んでいくのです。

 人が学んで変わっていくことを学んでいない人には、わからないことです。私も、何かを言われて、「まだその時点にいらしたのか」と驚くこともあります。

 私はその先生の本を読んで、自分の仮声帯で裏声を出そうとも思わなかったし、裏声は出しましたが、そこで仮声帯が働いていようがいまいが、出ていたらよかったからです。私の周りでも同じです。

 それを読んで仮声帯で裏声を出そうとした人がいたら、困ったでしょうか。私は引用して自著に入れなくて幸いでした。でも、その説を入れていても、ヴォイトレをしている人には、ほとんど影響はなかったでしょう。仮声帯だけを動かして発声するようなことはないからです。そんなものです。

 

○本質を観る

 

 私のところは研究所ですから、科学的な態度を尊重しつつ、現実の場で起きることをしっかりとみて、自分や他のトレーナーの身をもって、実際に試しながら伝えています。

最初に研究所をつくったときに、グループとして始めたのは、データをとる必要があったためです。そこで研鑽したこと、学んだことから、個々の可能性を踏まえる個人レッスンにしました。大人数をほぼ同じ条件下で相互に比較することで個人レッスンではわからないことがたくさん得られたのです。

 科学的ということによって、害をなすことに気をつけることです。よくあるのは、新しい科学的なデータをいくつか示して、そうでない他の方法を肯定させるように使うことです。

 21世紀にもなって、「科学的」ということばに、あまりにも弱い人が多すぎると思います。トレーナーも医者も学者も、「科学的」の前に、常識的に間違ったもの、おかしなものまで、そのまま信じてしまう人があまりに多すぎるのです。経験のなさが大きな原因です。

 一つの原因は、ことばを使うことを学んでいないからです。知識、理論は、変わるのです。だからこそ、自分の頭も変わるのです。考えも話も変わっていきます。それゆえ、声もですが、身についたもので信用することの価値があるのです。翻弄されないためには、もっと深く人間の芸、芸術、宗教、哲学を学ばなくてはいけないと思います。

 

○絶対に正しくなりうるもの

 

 正しいのか間違っているのかという、二択の対立構図でないことを述べています。それでも正誤にこだわりたいという人は多いのです。次のように考えてみてください。これは、自ら歩んでいく人のためのアドバイスであり、トレーナーや学者や批評家、専門家に言うのではありません)。

 前提として「あなたは絶対に正しく、あなたのすべては正解になりうる」ということです。だから迷おうと迷わまいと「自分の思うように続けていけばよい」のです。あなたの存在もあなたの表現も、顔も声も、そこに間違いなど最初から最後まであり得ないのです。あれこれ周りを気にする必要はありません。「あなたがあなたを認めればよい」のです。

 そこの上で、仕事や生活となると、そこでは、「他の人に認められること」が必要になってきます。

 私も研究所でのレッスンで、その人の目標に応じて、このスタンスを分けています。

 オーディションやレコーディングやライブに近いときは、第一には、ワンポイントアドバイスと応用のトレーニングをさせる。第二には、基礎のトレーニングを入れつつ、近い目標に全力であたる。その比率を相談から決めます。本当の基礎のトレーニングは、必ずしも急ぎません。

 仕事は、他人に求められている表現ですが、そこに占める声の割合が下がっているので悩むことが大半なのです。そのため、求められる表現が、あなたの声の状態とずれていることが少なくないのです。これも一方が正しく、一方が間違いではありません。

 トレーナーからすれば、後々のことはヴォイトレで、目先のことは、付け焼刃の技術でカバーしたいと思うかもしれません。しかし、そのスタンスも本人が決めたら本人には正しいと思うのです。

 

○人に学ぶ意味

 

 ならば、自分で思うまま、独りよがりでやっていけばよくて、人や他人に学ぶ意味はあるのか、となるでしょう。そこでいうなら、「すべてが正しくなりうる」のであって、「すでに正しい」わけではないのです。

「あなたが絶対に正しく、あなたの全てが正解になる」ため「あなたがあなたを認められる」ために、あなたは、いつか他の人の力が本当に必要になると思うでしょう。

そこで、必要となる人と出会っていくのです。そこまでに、いろんな人に学んでもかまいません。どんなトレーナーでも、あなたがしっかりと学べば次がみえてくるし、次にまたどう出会うのかもみえてきます。すると、あなたに必要な人に出会っていくのです。うまく出会えないとしたら、あなたがまだあなたをきちんと学べていないからです。

 どこで何をやろうと、どのトレーナーでどんなやり方でやろうと、あなたに力があれば、あなたの力がついていけば、「あなたの正解」に至るのです。

 「発声やヴォイトレとは、目的地が同じでプロセスが違うだけという山の頂上への登り方のようなものだ」と例えられています。声楽や合唱で皆と声を合わせるのなら、その通りかもしれません。私はそうは思いません。その人の山の頂上なのですから、それらは表現、歌、演技で表現されたところに伴う声です。

 

○単純の声の絶対化

 

 研究所では、特に単独に声としてみています。声をその人が自らを導びき、その人の正解にしていくのです。その人の好みでなく、その人のもって生まれたものが最大限に出るところにするのです。

 歌も演技も声の力に頼れなくなったのに、そこでヴォイトレとしてこだわるのなら、声そのものを絶対化するしかないとなります。差別化や個性化よりも、強い存在としての絶対的な声を目指すのです。

ここで「他人に認められる」のでなく、それを超えて、他人がどう思おうと「あなたの声」にこだわることになります。

ここで間違って欲しくないのは、他人の判断を超えるのは、他人に判断できないレベルを超えてなされていることで、他人に認められない、期待に応えられない声ではありません。

 単に高いだけ、音程、リズムが正しいだけ、カラオケの高得点が出るだけという発声のための、切り売りや継続したレッスンがあるのは、こういった真っ当な歩みとまったく別のことです。

 私なりの正解についての考え方は、他人がそうすると間違いになるような表現もどき、くせ、まねなどを、自分がやると「ど真ん中の正解」となる、そのような声と表現を求めるということです。あなたがやれば、すべてあなたの正解ということを目指すということなのです。

 

3つの目的

 

 私は、当初、ヴォイトレを行う自分に、3つのことを声に求めました。

1、 外国人が聞いても、専門家や一般の人が聞いても、その道のプロとすぐにわかる声

2、 何時間も耐えられる声、心身の不調にまったく影響されない声

3、 話すように歌になる声。

 それが私にとっては求める目標であり、正解であったのです。やってきたことすべてが正しかったとは思いませんが、結果として、出てくる声は、一つです。そのプロセスも半生という大きな時間でみると、一つです。その一つが正しかったとするとすべてが正しくなるのです。

 発明家が5000失敗して、その次に発見したら5000の失敗は、失敗でなく成功へのプロセスになります。つまり、実験の5000になるのです。

 ですから、私は、声に関しては、内容や方法で論じるようなことを行わず、プロセスに役立つと思われることを出すようにしているのです。

 ですから、私やここのトレーナーが否定している方法やメニュがあったとしても、それは間違いでないし、それで教えているトレーナーがいても間違ってはいないのです。そのままで正しいのかというと、どういう人にどう使っているのかによりますが、他の私の方法やメニュと同じく、すべては正しくなりうるということなのです。

 残念ながら、この分野に限らず、日本人は皆、学ぶにつれ、目が曇り、間違いや否定的態度で悩みだします。上達したら、その都度行き詰まるのは当然です。これまで超えてきた壁を越えようとせず、手を抜いて頭で解決しようとしてしまうのです。「この方法は正しいですか」「このメニュが役立ちますか」

 まったく喉に素人でありながら、感性の鋭い一部の人の方が開かれた眼をもっているといえます。そういう人に聞く方が、次に進めるほどです。

 

○段階として考える

 

 正しくなりうる人が使っているうちは、どの方法もどのメニュも、正しくなっていないのです。ただ、トレーナーは、段階に応じて、それなりのOKだしをしています。OKでも、他人への働きかけではNOとなります。だからレッスンもトレーニングも必要なのです。

 習って上達するにつれ、周りが褒め、自信をもち充実もするので、本質が見えなくなっていくケースが一般的です。

 トレーニングを知識、理論中心に考えていると頭ばかりが進んでいくのです。トレーナーも大半は、少し長く習ったくらいで教え始めた人が多いのです。まったくの初心者に教えているうちに、教え方にくせがついて正しくなくなっていくといえます。そういったものでも、すべては正解になりうるのです。すべては、そこからのあなたしだいなのです。

 

 ですから、体制(選ぶトレーナーもその一つの形です)に合わせるのでなく、自分のやりたいものを見つけることです。見つけられるかどうか、それができるのかどうかです。できないなら、周りを変えられるのか、現場での、表現での価値からみることです。

 ヴォイストレーナーよりも舞台監督や演出家、ディレクター、プロデューサーなどが、多くの歌手、役者を選び、現場で育ててきました。選べるだけの人があまりいない現在、それぞれの業界において、求められるようになった声も、複雑になって大変わかりにくいです。ここでシンプルにしてください。

 

 私にも「しゃべるように歌う」のはできません。まともに歌えたのは、この半生で2回です。ですから、歌手ではありません。その至高の体験が、絶対的正解として私自身をここまで支え、何人かの人に本質が伝わったと思うのです。

 誰でもできるものでもないし、誰にも伝わるものでもなさそうです。もっとよいものもたくさんあり、+αが天から降臨しやすくなるために、基本トレーニングとしてレッスンがあると考えています。

 

 ピアニストならピアノと一体化し、無意識に音が動くレベルにまで準備しておきます。そこでどのくらい+αが降りてくるのかは、そこまで到らないとわかりようもないことです。

 声ですから、ジャンルは関係ありません。声を介して相手に働きかけていたらヴォイストレーニングとしてはよしとします。ジャンルのなかで認められるというくらいなら先人のまねを出ていないレベルです。プロとしてもアーティストとしても、一流ではありません。この時代、一流というより先がみえません。売れていなくても、本人のベースの声の上で、何かを表現している人がいるのも事実です。そこには、大きな可能性があります。

No.358

裏付け

無意味

一点ばり

極意

飾り

不思議

艶めかしさ

心豊か

遭遇

白ける

動作美

テンポ

切れ目

目ばたき

気抜け

所作

調べ

旋回

姿態

派手

静中動

動作

無駄足

振り事

裾さばき

重心

通じる

パニック

手順

「レッスンの状況とことば」

○レッスンの状況とことば

 

 情報を公開することは、それを信じたり、使ったりすることを強制しているわけではありません。研究所のサイトには、その注意を入れています。 

 

 「回答は、トレーナーの見解であり、研究所全体での統一見解ではありません。また、目的やレベル、個人差により、必ずしもあなたに当てはまるとは限りません。参考までにしてください」

 

 情報については、トレーニングに関して、すべてについて正しいとはいえません。正しいのもある、ではなく、絶対に正しいのは一つもないでしょう。

 状況にもよりますが、人によるし、受けとめ方にもよります。同じ状況というのは、厳密にいうとありえないからです。本人の今の状況と目的があってこそ、トレーナーは、より明確なアドバイスをできます。それを聞いた上で、メニュ、方法もより活かせます。最初は伝わらなくても、回を重ねるごとに理解できるようになることも多いのです。

 相手が違い、目的が違えば、効果が逆になることもあります。ことばでその状況と状況ごとの対応を、すべて表すことは不可能に近いです。

 よく、本人不在の問いがあります。「こういうことを聞きましたが本当でしょうか」となると、誰の何のという状況がベールに包まれて、答えられるものではありません。「聞いた人に聞いてください」となります。

 私のところでは、生徒さんは複数のトレーナーについています。一方のトレーナーのアドバイスや言ったことを、他方のトレーナーに聞く人もいます。同じようなことが生じます。一方のトレーナーのことを他方に聞くとしたら、そこに何か事情があるのです。私としては、当のトレーナーに聞くように言っているので、その事情をみるのが狙いです。これは、二人のトレーナーのことがわかる第三者やセカンドオピニオンの立場であるからできることです。

 

○セカンドオピニオンの役割

 

 私は、研究所の内外問わず、他のトレーナーのレッスンのことをよく聞かれます。本を出しているから、国内は遠方からも、海外からも疑問をいただきます(訳書もあるし、日本の書籍も売られているからでしょう)。

 原則としては、そのトレーナー本人に聞くように促します。その上で、アドバイスを必要とするなら、セカンドオピニオンとして、見解を述べます。セカンドオピニオンとは、担当のトレーナーを否定、批判するのではなく、その説明を補足する役割です。担当のトレーナーの話が信用ならないから聞きにいくのではありません。ですから、まったく反対の見解であったとしても、それを担当のトレーナーにも伝えてもらい、担当のトレーナーとよりよい解決を図るために利用するとよいのです。

 担当トレーナーを変えるのではありません。一見したくらいで、長くみているトレーナーとの間に立ち入るべきではありません。それでは、セカンドオピニオンでなく、次のトレーナーになってしまいます。ですから、他のトレーナーのやり方で相談にいらした人に、そこをやめるようなことは決して勧めません。だから皆、安心していらっしゃいます。

 

○セカンドオピニオンの勧め

 

 私の場合は、研究所内のトレーナーでよく知っているケース、外のトレーナーで、ある程度知っているとか面識があるケース、そこから生徒が何名かきていて知っているケース、私のところのトレーナーがよく知っているケース、誰もまったく知らないケースなどがあります。

ただ、多くの生徒さんのいるところからは、必ず何名かはいらしているので、だんだん事情もわかってきます。すると、最初は分からないことがあっても、少しずつ、なぜそう教えているのかもみえてきます。その方向性、可能性や限界も学ばせてもらっているのでウエルカムです。

 日本で30年近く第一線でやってきたのですから、どこよりもその事情には通じていると思います。是非、ここをセカンドオピニオンとしてご利用ください。

 

○言語化の必要性

 

 ヴォイトレは、声を身につけていくトレーニングです。しかし、ことばや文章化することを頭から否定するのは関心しません。それには、いくつもの理由があります。

 まず、第一は、生徒さんとトレーナー自身の勉強と研究のためです。他のトレーナーの状況や方法、そこで述べていることを読んだら、もっと学べるようになります。すでに同じようなケースを自ら体験したり、人に教えて同じ状況に面したトレーナーたちのことばです。

 状況に応じて一つの答えというのがあるというのなら、トレーナーの答えは同じになるはずです。そこは、千差万別です。違う見解や他の対処方法もあります。ことばや音声として記録していかないと比較、検討や検証はできません。

 第二に、トレーナーの指導の技術として、声に対する処方とともに、的確なことばを使うことも学ばなくてはいけないということです。レッスン中にも、それ以外でも、ことばで伝えることは必要となるでしょう。ことばやその使い方を学ぶことは、トレーナーとしても必修です。ことば一つの使い方で、生徒がよく理解できるし間違いを回避できるからです。

ヴォキャブラリーが豊富で、イメージや例えをわかりやすくできると、生徒はよりよく学べます。これは長くトレーナーを経験したらわかることです。ここのトレーナーも、私や他のトレーナーのことばやことばの使い方を学んでいます。

 実際に教えられた生徒にとって、トレーナーのことばの記録は、将来に必ず役立ちます。トレーナーの他人へのアドバイスを見たり読むのも役立ちます。会報やブログはそのために出しています。トレーナーの他の生徒へアドバイスしていることばを知り、その言動をみると、より早く深く理解することができるようになるからです。

 個人差が大きいとはいえ、そういう状況を明らかにする方が、方法やメニュが合うとか合わないとかを考えるよりも先です。自分にはうまくいっていないレッスン(方法やメニュ)で大きな効果を上げている人のことを知る、いろいろと参考になります。そこから、自分に足らないものの存在に気づき、大きく伸びるきっかけとなるからです。

 ことばや情報の理解のためにも、自分がことばにする、自ら情報を発信することは欠かせないことです。それは、世の中で実践していく力にもなります。

 

○第三者へのことばの力

 

 第三者、直接に関わっていない人が読んだらどうかということです。これを否定してしまえば、スポーツ、武道、芸術、医学なども、伝わらないから、言語化して残すな、伝えるなということになりかねません。どんな書物であっても心身に関しての処方の記述に完全なものはありません。どの人が使っても、必ず一定の効果が現れるというものはありません。

 一方で、トレーナーが面倒だから、ことばにしたくないという怠惰さは忌むべきことです。ことばに残す努力をして一流になった人が、芸術家やアスリートには少なくありません。

 私は、この分野の多くの情報に接して、多くのことを発信してきました。そして、私の本やホームページを読んでいらした人のトレーニングをみてきました。

それだけに、いかに情報がいい加減に伝わり、使えないもの、誤解、誤用を防げないものかを知っています。読み手と書き手の両方の立場から知っています。実際に、そういう体験もしてきたからです。それでも、ことばの力を信じるのは、大きな効用があるからです。

 

○インデックスとしてのことば

 

 ことばはインデックスになるということです。イメージは、なかなか捉えられないし、まして人に伝えられません。私たちは、絵でも、ボディランゲージでも、何かに例えて説明せざるをえません。トレーニングの意図やレッスンのあり方についても伝えるのは難しいものです。

声だけでみせたところで、すぐにそのままできるような人などはいません。まして、声は、まねたらよいのではないのです。

 レッスンは、ことばで伝わるのというのではなく「実習あってのことば」です。ことばはないよりもあった方がよいでしょう。声のイメージを伝えて共有していくためです。

 それらは、私の考えよりは、いらっしゃる人の要望です。私は、しばしば、ことばの使い過ぎや説明を抑えます。そうするよう、トレーナーにも注意しています。

 

○要は使いよう

 

 一人で、黙々とやっていくと、人は考え悩みます。いろんなイメージが思い浮かびます。ほとんどは雑念です。それを切るには、何も考えないことです。でも、そんなことはできないなら考え尽くす、ことばから離れるために、ことばをありったけ使い尽くすというのです。公案問答のようなものです。

 習い事を、真っ白の心で始めて、そのまま無心で身についていくなら理想的です。ですが、本気でやろうとするなら、そういう人はほとんどいません。

 一流になる人は、誰よりも一流の人の演奏を聞き、本も読んでいるものです。それは、芸事でも同じでしょう。より新しく、より高く、より深く、物事を極めていくのに、どうして過去の偉業や他の分野の一流の人から学ばないことがあるでしょうか。

 理想というよりは、ことばは必要悪なのです。「ことばは、不要」というのは、「歌なら歌っていればよくなる。声は出していればよくなる。レッスンはいらない」と思って伸びない人の考え方です。そこでうまくいくならよい、いかなければレッスンにいけばよいのです。本や会報も同じです。使えると思えば使えばよいし、使えないうちは使えないのです。いつか活かせるように待てばよいのです。

 「方法やメニュを使うと悪い方にいく」というのは、「声楽を学べばポップスが個性的でなくなる」というくらいに安易な考えです。ポップスを聴かず、自分の表現も追及せず、声楽で言われるままにしか声を出していなければ、そうなるでしょう。それしかしていないのがおかしいのです。自分のしたことしか出てこないのはあたりまえです。

 本や会報やQ&Aを、いくら読んだところで、声も歌も身につくわけがありません。日本人は、検定クイズのようなものが好きなので、ハマってしまう人もいるでしょう。それを戒めるなら、「ことばは、不要」といえます。

 

○総括し比較し気づける場に

 

 会報には、よくある質問に、私が一人でなく、何人ものトレーナーの答えを一緒に載せています。過保護かもしれませんが、いろんな答え、というよりは、いろんな意見や見解があることを知って欲しいからです。いろんな状況もあり、いろんな人もいて、それぞれに異なるということです。客観的にしているのです。

 多くのトレーナーはそれぞれに、それぞれの立場で自分の考えに基づいてレッスンを行っています。ですから、トレーナーは、自分が正しいと信じているものです。自分だけが正しいと信じているような人に教えられるのは、入口の周辺です。

 昔の私もそうでしたから、わかります。いつも、誰にも、どんなことにも正しいことなどはありえません。正しいということ自体が絶対的なものでなく、相対的なものです。常に、目的や時期によって、その人にとって、より正しいトレーナーは世界のどこかにいると思うべきです。

 それまでは、トレーナーと客観視して使える環境をつくりましょう。それぞれのトレーナーの正しさを信じつつ進めていきます。厳しくなるほどに、絶対的に正しいことなどは一つもないことがわかるのです。

 この分野は、どの生徒にも自分のやり方を、よしあしはともかく、工夫もせず行っているケースが多いと思うのです。ましてや、レッスンにも通わず一人で練習している人の思い込みやトレーニングの非効率なところは本人にはわかりようもありません。

 

○一般論でなく各論

 

 声楽家は、発声を他人に習うことの必要性を知っています。オペラという舞台が日本人の日常とはかけ離れたところにあるからです。その点は、クラシックバレエにも似ています。(なのに、なぜバレエの方は、日本人も世界レベルに達する人が出るのかということです)習ったからといって一流になれないのは、なぜでしょうか。他のトレーナーのレッスンを受けている人や、一人でトレーニングをしている人を批判しているわけではありません。すべての方法や考え方は、対立したりどちらかを選ぶものでなく、欠点を自覚し、相補充して、うまく活かせたらよいからです。

 この分野は、未熟なせいで、正しいか間違いかでしか考えない人が多いのです(トレーナーや先生方もそういうレベルに安んじているのです)。一般論でなく各論、自分にとって、今よりよくなるかどうかだけを考えればよいのです。☆

 今の自分を絶対視せず、正しいと思っても、常に学ぶことを怠ってはなりません。天才であって、これまですべてが正しかったとしても、教えることまで正しいとはなりません。言動の記録はその一助になります。記録をみて、すべての内容を捉えられるのではありませんが、同じミスを防ぐことができます。

 

○動画とことば

 

 動画の教材も多くなりました。ことばで伝える何百倍の情報が、動画では、声や歌でも数秒で伝えられます。ことばよりも動画はわかりやすいため、よく伝わるように思えます。その反面、間違いやすいことも助長されます。

 動画だけでヴォイトレがうまくなるなら、現実のステージを見て、まねているのでも、皆、うまくなるはずです。それは理想です。それでうまくなったところで、足らないからヴォイトレがあるのです。必要に応じて、レッスンのことばがあるのです。

 こういう分野は、文字でなく音声や動画をもっと使うことだと思うこともあります。音声検索ができるようになれば、もう少し、動画を使いやすくなると思います。

今しばらくは、使いたいところだけ選んで学ぶには、文字が100年の長があります。それをきちんと踏まえて動画版をつくるのなら効果的でしょう。ストレートな分、メリットもデメリットもより大きくなるということです。具体化されるために、イメージ、想像力の働く余地がなくなりかねないのです。音声より画像に気をとられるでしょう。音声ならTVよりラジオで学ぶ方がよいと思いませんか。

 

○伸びない理由

 

 一流のアーティストは、作家でもないのに、皆、すぐれたことばや文章を残しています。まさに、世界観、思想です。ことばには価値判断を迫る力があります。本人がよしあしの吟味を厳しくし続けてきたときに働いたのでしょう。まして、アーティストに、厳しい判断をして、修正を促すトレーナーが、ことばに説得力をもたずによいはずがありません。ことばを使うのは、おのずと考えることになります。考えずに指導していては、同じことのくり返しで行き詰まります。

 アーティストタイプのトレーナーは、特定の人だけを特定の方向にしか伸ばせないし、あまり変わることがないのは、そのためだと思います。自分の見本を見せてイメージを説明するには、アーティストタイプのトレーナーがもっとも有利でしょう。それと異なることができる人は限られています。スクールでも似たことがそこそこにできる器用な人はたくさんいます。それゆえそこで終わります。そういう伸び悩みは巷にあふれています。目的がそうなっているので当然なのです(アーティストタイプのトレーナーもまた、器用な例の代表ともいえます)。

 

○変わり続けること

 

 ヴォイトレについて、日本には、世界に冠たる重鎮はまだいないといません。トレーナーが優秀というのは、世界に冠たるアーティストが出たときに裏付けられるでしょう。声もトレーナーも歌い手も役者も、実力としては発展途上国レベルから後進国レベルへ後退していると私は思っています。

 体力や気力が衰え、頭で理屈っぽくなっている人が増え続けています。頭でっかちにするなというのが私の考えです。

 私は、レッスンでは、肝心なときだけ最小限のことばしか使いたくありません。ことばに気をとられると感じなくなるからです。私のレッスンは静かです。言いたいことは述べ、述べられないことは、会報やブログに載せています。

 時代ともに生き方も異なっていきます。トレーナーは多くのことを常に学び、人を育てるなら発信しなくてはなりません。自分の考え、やり方、メニュの改良、自らの変わったことも伝えていかなくてはなりません。もし、若い頃に習ったままでずっと通じると思っているのなら若い人は育ちません。私も研究所もここのトレーナーも、変わり続けることをよしとしています。よいにしろ悪いにしろ、常に学び、考え、情報を発信する姿を見せていこうと思います。ステージでも歌唱でも演技でも、使うことばは情報の一形態です。

 

○掲載の仕方について

 

 私は、会報に生徒や皆さんの質問や投稿を、できるだけ載せてきました。そのとき、省略という形(最小限の編集)で個人の事情や不必要なことばを抜いています。それは、スペースの問題と、一般化して、他の人が読んだときに、自分の問題として捉えやすくするためです。答えるトレーナーも記名しないのは、いつの時代も、どこの人も、使えるように、です。具体的な一事例を取り上げ、その人にでなく、そういう人たちに普遍化して述べているのです(本人には、本人宛てに応じることもあります)。

 

○アーティストに向けて

 

 日本人というのは、まじめで受容能力が高く、いろんな情報から選ぶ能力は長けています。それゆえ、海外に追い付け追い越せの時代には有利でした。ネットの時代ですから、料理をつくるのに、早く安く、それなりにおいしくするのにレシピを利用するというなら、それでよいでしょう。どれが今日の自分の状況に一番よいかを選べばよいのです。

 しかし、私の接しているアーティストには、そんな一般的な正解は不要です。まったく役立たないからです。これからの世界をつくっていくのですから、Wikipediaの情報や知識などは使えません。主体的に創っていくのに必要なものを、ここから取り出せるようにしているのです。

一つは、直感的な力です。料理なら味覚です。私もそれに対応できる回答、いやヒントを出すようにしています。その一部をここに公開しているわけです。

 

○創造すること

 

 情報を、どのように整理し、組み合わせて使うのかを学ぶことです。選ぶとか正誤を判断するというのではなく、自ら創ること、それに役立つものを引き出すと考えます。選ぶのでなく、少しでもヒントになるなら、そこからつくりあげるのです。その努力を惜しんでは創造できません。まさに私がここで回答をしているのと同じです。

 「合わない」「間違った」とネガティブに捉えてフィードバックするのではありません。行動していくのにポジティブに情報を使っていくのです。現実の世の中を切り拓いていくのです。

 しかし、日本人には、ポジティブに世界へ出ようというエネルギーが減じてきているのではないでしょうか。出れば打たれるのはあたりまえ、無理するから失敗もするし、間違いも起こします。でも無理しなければ、高いところを学べないのです。

 これを読む人も、これを活かそうとするのでなく、自分の頭で白黒をつけようとしてどうなるのでしょう。私のファン(アンチも含めて)でいたいのでしょうか。

 物事はスタンスによって、よい方にも悪い方にもみえます。生涯かけてやっていくことに、あるいは、そこまでかけなくても、ネガティブにみることに何の意味があるのでしょう。自分自身が、否定でなく肯定して行動することです。

 

○感謝と願い

 

 先を読みたい人、深く本質を読みたい人が、いらしてくださるのはありがたく存じます。その人に恥じないように書いていくつもりです。そうでない人が、ポジティブな考えになれるのなら、とても嬉しく存じます。

 情報も知識も方法、ノウハウもメニュも、断片にすぎません。私はものの考え方、捉え方を述べています。いろんな材料でケーススタディして、その判断を教えられるのでなく、自分で基準をもてるようになるように、あなたの勘が磨かれるようにしていけたら嬉しいです。

 

No.358

「バーチャルリアリティ」

 

バーチャルリアリティ

仮想して実体にしていく

イメージトレーニング

先のイメージに身体を追いつかせていく

音楽、歌唱は、まさに時間軸での動きです。

それは、ことばも同じですが、運動の方がずっとわかりやすいでしょう。

特に武道、スポーツは、その動きが線を描くので動線を辿れます。スローモーションやコマ送りで、達人の秘訣を形として、目でみて分析できるのです。

 

達人は、時間のワープを成しえます。瞬時に感情の切り替えをします。

痛みを感じなくすることもできると言います。

激痛、激情というのは、今しかないものです。

 

ことばで感じ方が変わり、動きが変わるので、ことばは大切です。技法の命名も、大切です。そこのことばに大きなヒントがあります。

世界への信頼が礎です。        

No.358

「ホリスティックということ」

 

アドラー心理学とホリスティック医療

体と自分

他の人やまわりの世界へ発信する

疑問をもち、自分で考える

広い視野をもつ

受け入れてみること

何を教えられたのか

よい悪いとは、どういうことか

今、何ができるのか

情報、思考、信念、物語

認知と行動

立証して訂正し続けていく

概念、症状、発生、発現と再現

物理学の構造と生理学は、ベースにすぎない

マニピュレーション(オステオパシー)の体験

 

 

「認知症予防のカキクケコ」 

 

カ 噛む

キ 聞く

ク 口元(口角)

ケ 血管

コ 交流

そして、チャレンジ

(菅原道人医師による)

Vol.99

〇仕事、声と価値

 会社も人も、利益を生み、生活を支えなくては、いくら世の中に役立つことでも、続けられません。お金はとても大切です。必要なものですが、手段です。

 お金と声どちらも使わなくては価値ありません。お金や時間を投じて、磨いてきた声が、さまざまな出会いと仕事をもたらします。

 よく、歌などでは、生活できないという人がいます。それは声や歌を本当に使い切れていないからかも知れません。アーティストには、1曲わずか3分間の作品で大金を手にしている人も少なくありません。今はいちいち人前に出て歌わなくても稼げるから、なおさらです。

 声も歌も他の人に価値を与える手段です。自分で心地よく歌うのと、他の人に歌って欲しいと求められるのとでは違います。その見返りとなるのが、感謝やその印としてのお金なのです。

 お金にとらわれたくなければ、お金持ちになればよいのです。他の人があなたをお金持ちにしてくれるのです。お金持ちが嫌いなら、お金をすてればよいでしょう。つまり、お金に左右されずに、選択できる自由度が大切なのです。

 お金持ちでも幸せになれないというのは、確かです。しかしお金がないと、幸せも遠ざかりかねません。

 人間は、食べるためだけでなく、よりよく生きるために仕事をするのです。もっと自由を増やして、もっと楽しもう、その手段は何か、と考えるのです。あなたは何で人に働きかけますか。

〇有名になれる声

 有名になるのも同じです。自分で有名になりたいと思っても、それは無理です。他の人があなたを認めるから、あなたは有名になれるのです。他の人があなたを有名にしてくれるのです。

 そのためには、他の人に認めてもらわなくてはなりません。そのときに何において認めてもらうのでしょう。そこから考えることです。

それには、自分の何かを差し出さなくてはなりません。それは、ものでなくても構いません。作品でも労力でもよいのです。他の人に価値のあるものなら、よいのです。

 それを伝える手段の一つは、声です。私は、依頼の電話を声で受け、その可否を声で伝え、声で話し合ってきました。おおざっぱに言うと、声なしには、仕事も成立しなかったのです。

〇成功者にみる声柄

 「すべての成功者は、声で成功した」とまではいいません。そのなかには声がよくないとか話がうまくない人も少なくないでしょう。話などは、うまくなくてもよいのです。うまい話? それだけでうさん臭いじゃありませんか。

 人柄というのは、大きく人の印象に残りますね。仕事も結局のところ、その人がいて成立するものです。私は、人柄のように“声柄”というのがあると思います。「人となり」に対し、「声となり」というのもありそうです。

 多くの成功者は、目標を声で唱えています。皆に声で伝えています。イメージして、ことばにして、目標にする。さらに、もう一つ、それを声で具現化しているのです。

 多くの人は、自分の器以上に望めないものです。分を知る、現実を知ると、年収○百万円くらいの生活かなどと考えてしまいます。でも、もったいないことです。

天才や犯罪人などでなく、一代で何億円も稼いでいる人もいます。若くして年収何千万円という人もいます。あなたの何十倍、稼いでいるから何十倍も働いているのでしょうか。いえ、時間や労力ではありません。目標をもち、それを可能にする毎日を送ってきたからです。

 多くの成功者は、「運やツキや人様のおかげで成功した」と言います。成功のパワーというのが、一人でできないことを後押しして、気づいたら、そのように成し遂げさせてしまうのです。

 不思議なことではありません。その目的をみすえて、毎日、続けている人が少ないだけです。

〇お客を倍増する声の力

 大きな夢をもつこと、そしてそれを具体的に言葉にして、そして声で唱えること、多くの成功者がそのプロセスを経ています。

 人に働きかける声の力は大きいものです。お客なら、声一つ「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」で、決まるでしょう。そのお客が続けてくるか、二度と来なくなるかで変わるのですから大きな差です。同じ人が年に5、6回来たら、客数は5、6倍になります。リピートしない人が増えると、店は、やがて潰れます。

 たとえ店でなくても、仕事というなら、同じです。

 声の魔力とは、このように、お客を月に何回も来るようにしてしまうことです。

 これは例えですが、人生もそんなものです。あなたはどちらを選びますか。

〇仕事の声力診断

 それでは、あなたの仕事における声力を診断してみましょう。

□自分の仕事での声に自信がある。

□あいさつは自分からする。

□声で相手によい印象を与えている。

□誰にでも声をかけるのが、苦ではない。

□自分の声を仕事に活かせていると思う。

□自分の声をもっと仕事に活かせると思う。

□他人の声で、いろんな情報がわかる。

□話しかけてくれる人が多い。

〇仕事がうまくいく声になる

 仕事がうまくいく声とは、どんな声でしょう。これは仕事の業種、職種、そして相手にも要件によっても違ってきます。

たとえば、高級品を売る仕事とディスカウント品を売る声とは、違います。商談をゆっくりと進めるとき、早く切り上げるときも、違います。高級レストランの応対の声と、ファストフード店の対応の声も違います。

 そこで声を一番うまく使っている人をみつけて、見本にしましょう。見よう見まねで、まねていくうちに上達します。

 仕事上では、説得力のある声、つまり、人の心を変える声、動かす声が大切でしょう。具体的には、落ち着いていて自信にあふれた声です。もちろん、それが嫌味になっては逆効果です。

 美しい声でうまい話ができなければだめと思っている人がいます。しかし、現実には、声の美しさなど、たいして関係ありません。その人らしい声、その人のイメージを裏切らない声でよいのです。深くゆったりした声で、適度に強く張りがあって、メリハリの効く声が望まれます。成功した人の声を見習ってみてください。

〇職場の人間関係をよくする声

 人間関係をよくする声も大切です。それは、しっかりと相手を受けとめる声です。

日本においては、あまり声だけの力に頼りすぎないことも大切です。聞く人には、声が大きすぎると、声を聞いていても疲れます。声の大きさには充分に配慮してください。デリカシーが問われます。

 職場では、声の使い分けがなされています。お客さん、上司、同僚に使う声は、少し違います。それは言葉遣いとも似ています。お客さん、上司には、敬語、同僚、部下には、ため口。いえ親しさに応じて、違ってきます。人間関係の違いが、声に表われます。あなたの望むように人間関係を声で区別していけばよいのです。

 好き嫌いが声に表われるなら、声で好き嫌いを表わしてしまいますか。いえ、職場では嫌いな人にも嫌いとは表わせません。そこで、少し努力して好きな人に使う声にすればよいのです。そんなことで声は減りませんから、大丈夫です。

 もっとうまくやりたければ、とても好きな人に使う声を嫌いな人に使ってみてください。きっとうまくいくようになります。その人を嫌えば嫌われるし、好きになれば好かれやすくなります。あなたの本当の好き嫌いに関わらず、声でよい方へ演出すればよいのです。

 他の人の人間関係を見抜くのにも、声は大きなヒントになります。露骨に声を使い分けている人もいます。そこでその人の好き嫌いがわかります。感度を磨けば、その人が誰を尊敬しているかもわかります。

〇信頼される声、安心感を与える声になる

 仕事にはいろんなことが起きます。あなたは、仕事があるたびに慌てふためく人と、沈着冷静に対処する人と、どちらを尊敬しますか。どちらになりたいですか。言うまでもなく、後者ですね。そしたら、そういう態度をとるところからスタートです。

 ささいなことが起こるたびにドキドキしていては、仕事上、有能とはいえません。大きなことが起きても、どんなに驚いても頭にきても、笑顔のポーカーフェイスで対応しましょう。内心は乱れても、取り乱したところを見せてはいけません。

 ところが、そうした努力とはうらはらに、声は、あなたの心の内を正直に表わしてしまいます。ドキドキしていたら上ずって、あがった声になります。怒っていたら、怒気を含みます。嫌なら、皮肉めいた言葉を言ったつもりがないのに、そのニュアンスが入ります。

聞いている人は、あなたの声をそれで判断します。ですから声を演出するのです。

 

 キレそうなときに、明るく朗らかな声で「わかりました」と受けとめる。がまんできないときに、落ち着いた低い声で、ゆっくりと、「失礼しました」と受けとめる。相手を殴りたいとき、これまでの人生に感謝をして、「ありがとうございました」と受けとめる。すると、あなたの評判は、高まっていくでしょう。いわば、はったりでが、人間関係にも、声の演出は必要だということです。

「好きという才能と夢中になれるトレーニング」 No.358

やり続けることで必ずしもレベルが向上していくわけではありません。むしろ、ほとんどは、どこかで止まり、ずっと上達し続けるものではないのです。

 才能があり、優秀で器用にやれた人は、そうでなくなったらやめてしまうことが多いようです。

好きなだけでやる人の方が、やめないで続けるということでは強いともいえるのです。好きでもあまりに向いていないと、続けるのは難しくなります。

しかし、それらのことのために、本当は、レッスンやトレーニングがあるのです。

恐れることは、好きでなくなることです。好きであり続けることの努力こそ、必要なのかもしれません。

それは、一流のものと接し続けることと、そのことで、夢中になれるトレーニングで助けられると思うのです。

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