「科学に関しての論」
○科学の限界
踏まえておくべきことは、科学的であることは、絶対に正しいということや実践に使えることとは、程遠いこともあるということです。後日、新論で否定されてしまう可能性があるからです。
本当に科学的な態度とは、新たな発見でそれまでと異なる論が証明されたら、すぐに、それまで行っていたことと正反対の立場をとることになります。これは、アーティストやトレーナーにとっては、両刃の剣です。
私自身は、科学の可能性と限界を踏まえ、当初より一貫した主張を続けています。そうした信条、信念を簡単に変えるのは信用にもとるという立場です。その反面、柔軟に、何でも効果があれば取り入れるという姿勢で、いろんな人と行ってきたのです。誤りがあれば、それを認めることにやぶさかではありません。
医者であり、声楽の分野でも第一人者とされた専門家の出したベストセラーの本に「裏声は、仮声帯で出す」とありました。今さら、私はそれを言挙げするつもりはありません。その人も新しい本では触れなくなりました。
それを読んで、引用しているトレーナーもいます。トレーナーは、自分の説の補強として、科学的な根拠をもってきたいので、よく引用します。そこでよく起こす誤りといえます。科学的な説を取り入れたあと、そのままにしていると間違いとなることもあるのです。科学的というのは、常に最新を追っていかなくては、間違いを流布することになってしまうのです。
科学的なことを、過去に出した文献に対して批判しても仕方ないといえます。そのときはそういわれていたのですから。批判は、少なくとも現在のものに対して行うべきです。私の20年前の本や、10年前の研究所を、今の見地から論評するとしたら、科学的な態度ではありません。科学も変わるし、人も学んでいくのです。
人が学んで変わっていくことを学んでいない人には、わからないことです。私も、何かを言われて、「まだその時点にいらしたのか」と驚くこともあります。
私はその先生の本を読んで、自分の仮声帯で裏声を出そうとも思わなかったし、裏声は出しましたが、そこで仮声帯が働いていようがいまいが、出ていたらよかったからです。私の周りでも同じです。
それを読んで仮声帯で裏声を出そうとした人がいたら、困ったでしょうか。私は引用して自著に入れなくて幸いでした。でも、その説を入れていても、ヴォイトレをしている人には、ほとんど影響はなかったでしょう。仮声帯だけを動かして発声するようなことはないからです。そんなものです。
○本質を観る
私のところは研究所ですから、科学的な態度を尊重しつつ、現実の場で起きることをしっかりとみて、自分や他のトレーナーの身をもって、実際に試しながら伝えています。
最初に研究所をつくったときに、グループとして始めたのは、データをとる必要があったためです。そこで研鑽したこと、学んだことから、個々の可能性を踏まえる個人レッスンにしました。大人数をほぼ同じ条件下で相互に比較することで個人レッスンではわからないことがたくさん得られたのです。
科学的ということによって、害をなすことに気をつけることです。よくあるのは、新しい科学的なデータをいくつか示して、そうでない他の方法を肯定させるように使うことです。
21世紀にもなって、「科学的」ということばに、あまりにも弱い人が多すぎると思います。トレーナーも医者も学者も、「科学的」の前に、常識的に間違ったもの、おかしなものまで、そのまま信じてしまう人があまりに多すぎるのです。経験のなさが大きな原因です。
一つの原因は、ことばを使うことを学んでいないからです。知識、理論は、変わるのです。だからこそ、自分の頭も変わるのです。考えも話も変わっていきます。それゆえ、声もですが、身についたもので信用することの価値があるのです。翻弄されないためには、もっと深く人間の芸、芸術、宗教、哲学を学ばなくてはいけないと思います。
○絶対に正しくなりうるもの
正しいのか間違っているのかという、二択の対立構図でないことを述べています。それでも正誤にこだわりたいという人は多いのです。次のように考えてみてください。これは、自ら歩んでいく人のためのアドバイスであり、トレーナーや学者や批評家、専門家に言うのではありません)。
前提として「あなたは絶対に正しく、あなたのすべては正解になりうる」ということです。だから迷おうと迷わまいと「自分の思うように続けていけばよい」のです。あなたの存在もあなたの表現も、顔も声も、そこに間違いなど最初から最後まであり得ないのです。あれこれ周りを気にする必要はありません。「あなたがあなたを認めればよい」のです。
そこの上で、仕事や生活となると、そこでは、「他の人に認められること」が必要になってきます。
私も研究所でのレッスンで、その人の目標に応じて、このスタンスを分けています。
オーディションやレコーディングやライブに近いときは、第一には、ワンポイントアドバイスと応用のトレーニングをさせる。第二には、基礎のトレーニングを入れつつ、近い目標に全力であたる。その比率を相談から決めます。本当の基礎のトレーニングは、必ずしも急ぎません。
仕事は、他人に求められている表現ですが、そこに占める声の割合が下がっているので悩むことが大半なのです。そのため、求められる表現が、あなたの声の状態とずれていることが少なくないのです。これも一方が正しく、一方が間違いではありません。
トレーナーからすれば、後々のことはヴォイトレで、目先のことは、付け焼刃の技術でカバーしたいと思うかもしれません。しかし、そのスタンスも本人が決めたら本人には正しいと思うのです。
○人に学ぶ意味
ならば、自分で思うまま、独りよがりでやっていけばよくて、人や他人に学ぶ意味はあるのか、となるでしょう。そこでいうなら、「すべてが正しくなりうる」のであって、「すでに正しい」わけではないのです。
「あなたが絶対に正しく、あなたの全てが正解になる」ため「あなたがあなたを認められる」ために、あなたは、いつか他の人の力が本当に必要になると思うでしょう。
そこで、必要となる人と出会っていくのです。そこまでに、いろんな人に学んでもかまいません。どんなトレーナーでも、あなたがしっかりと学べば次がみえてくるし、次にまたどう出会うのかもみえてきます。すると、あなたに必要な人に出会っていくのです。うまく出会えないとしたら、あなたがまだあなたをきちんと学べていないからです。
どこで何をやろうと、どのトレーナーでどんなやり方でやろうと、あなたに力があれば、あなたの力がついていけば、「あなたの正解」に至るのです。
「発声やヴォイトレとは、目的地が同じでプロセスが違うだけという山の頂上への登り方のようなものだ」と例えられています。声楽や合唱で皆と声を合わせるのなら、その通りかもしれません。私はそうは思いません。その人の山の頂上なのですから、それらは表現、歌、演技で表現されたところに伴う声です。
○単純の声の絶対化
研究所では、特に単独に声としてみています。声をその人が自らを導びき、その人の正解にしていくのです。その人の好みでなく、その人のもって生まれたものが最大限に出るところにするのです。
歌も演技も声の力に頼れなくなったのに、そこでヴォイトレとしてこだわるのなら、声そのものを絶対化するしかないとなります。差別化や個性化よりも、強い存在としての絶対的な声を目指すのです。
ここで「他人に認められる」のでなく、それを超えて、他人がどう思おうと「あなたの声」にこだわることになります。
ここで間違って欲しくないのは、他人の判断を超えるのは、他人に判断できないレベルを超えてなされていることで、他人に認められない、期待に応えられない声ではありません。
単に高いだけ、音程、リズムが正しいだけ、カラオケの高得点が出るだけという発声のための、切り売りや継続したレッスンがあるのは、こういった真っ当な歩みとまったく別のことです。
私なりの正解についての考え方は、他人がそうすると間違いになるような表現もどき、くせ、まねなどを、自分がやると「ど真ん中の正解」となる、そのような声と表現を求めるということです。あなたがやれば、すべてあなたの正解ということを目指すということなのです。
○3つの目的
私は、当初、ヴォイトレを行う自分に、3つのことを声に求めました。
1、 外国人が聞いても、専門家や一般の人が聞いても、その道のプロとすぐにわかる声
2、 何時間も耐えられる声、心身の不調にまったく影響されない声
3、 話すように歌になる声。
それが私にとっては求める目標であり、正解であったのです。やってきたことすべてが正しかったとは思いませんが、結果として、出てくる声は、一つです。そのプロセスも半生という大きな時間でみると、一つです。その一つが正しかったとするとすべてが正しくなるのです。
発明家が5000失敗して、その次に発見したら5000の失敗は、失敗でなく成功へのプロセスになります。つまり、実験の5000になるのです。
ですから、私は、声に関しては、内容や方法で論じるようなことを行わず、プロセスに役立つと思われることを出すようにしているのです。
ですから、私やここのトレーナーが否定している方法やメニュがあったとしても、それは間違いでないし、それで教えているトレーナーがいても間違ってはいないのです。そのままで正しいのかというと、どういう人にどう使っているのかによりますが、他の私の方法やメニュと同じく、すべては正しくなりうるということなのです。
残念ながら、この分野に限らず、日本人は皆、学ぶにつれ、目が曇り、間違いや否定的態度で悩みだします。上達したら、その都度行き詰まるのは当然です。これまで超えてきた壁を越えようとせず、手を抜いて頭で解決しようとしてしまうのです。「この方法は正しいですか」「このメニュが役立ちますか」
まったく喉に素人でありながら、感性の鋭い一部の人の方が開かれた眼をもっているといえます。そういう人に聞く方が、次に進めるほどです。
○段階として考える
正しくなりうる人が使っているうちは、どの方法もどのメニュも、正しくなっていないのです。ただ、トレーナーは、段階に応じて、それなりのOKだしをしています。OKでも、他人への働きかけではNOとなります。だからレッスンもトレーニングも必要なのです。
習って上達するにつれ、周りが褒め、自信をもち充実もするので、本質が見えなくなっていくケースが一般的です。
トレーニングを知識、理論中心に考えていると頭ばかりが進んでいくのです。トレーナーも大半は、少し長く習ったくらいで教え始めた人が多いのです。まったくの初心者に教えているうちに、教え方にくせがついて正しくなくなっていくといえます。そういったものでも、すべては正解になりうるのです。すべては、そこからのあなたしだいなのです。
ですから、体制(選ぶトレーナーもその一つの形です)に合わせるのでなく、自分のやりたいものを見つけることです。見つけられるかどうか、それができるのかどうかです。できないなら、周りを変えられるのか、現場での、表現での価値からみることです。
ヴォイストレーナーよりも舞台監督や演出家、ディレクター、プロデューサーなどが、多くの歌手、役者を選び、現場で育ててきました。選べるだけの人があまりいない現在、それぞれの業界において、求められるようになった声も、複雑になって大変わかりにくいです。ここでシンプルにしてください。
私にも「しゃべるように歌う」のはできません。まともに歌えたのは、この半生で2回です。ですから、歌手ではありません。その至高の体験が、絶対的正解として私自身をここまで支え、何人かの人に本質が伝わったと思うのです。
誰でもできるものでもないし、誰にも伝わるものでもなさそうです。もっとよいものもたくさんあり、+αが天から降臨しやすくなるために、基本トレーニングとしてレッスンがあると考えています。
ピアニストならピアノと一体化し、無意識に音が動くレベルにまで準備しておきます。そこでどのくらい+αが降りてくるのかは、そこまで到らないとわかりようもないことです。
声ですから、ジャンルは関係ありません。声を介して相手に働きかけていたらヴォイストレーニングとしてはよしとします。ジャンルのなかで認められるというくらいなら先人のまねを出ていないレベルです。プロとしてもアーティストとしても、一流ではありません。この時代、一流というより先がみえません。売れていなくても、本人のベースの声の上で、何かを表現している人がいるのも事実です。そこには、大きな可能性があります。
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