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2021年7月

「トレーニングにおける効果について」

私は、考えるとあたりまえなことを、なぜ多くの人は考えずに人に聞くのか、人に聞いて、それを鵜呑みにできるのかを不思議に思うことがあります。

 私もいろいろ聞かれる立場なので「私はこう思う」と言うこともあります。研究所でトレーナーが断定しないとしたら、私を習って身につけた美徳かもしれません。

それは「私にとっては今のところ、こう考えられるよ。けれど…」ということです。「あなたにとっても」そうであり、しかも「あなたの将来において」そうである保証はないのです。「今のところ」ですから「明日の私」は別のことを言うかもしれません。「私」と「今」で限定された答えは「あなた」と「明日」に当てはまるとは限りません。

 トレーナーに関わらず、教える人は「こうしたら、あなたはこうなる」と断定するかのように話すわけです。それがほぼ、これまで正しかったとしても、あなたがそうなるとは限りません。大体は、それが正しかったと思ってしまう人だけが、トレーナーの周りに残るので、そこに合わせて、トレーナーの考え方や方法もますます偏っていくものです。そういったものが、これからもあらゆる人に正しい保証はありません。偏っているからこそ、その偏りに合わせたい人だけが来るのでうまくいくということです。

 

○二つのレッスンタイプ

 

 私は、トレーナーの偏りに注意して一般的なところへ戻して(初心にかえらせる)いくのと、その偏りを進めて独自の強い分野を持たせるのを併行して判断しています。

 A.一般的、平均的、普遍的、誰にでも当てはまるレッスン。

 B.特殊、偏向した独自の相手や時期を選ぶレッスン。

 と2つあることで、その間にさまざまな可能性のあるメニュも生まれやすくなります。しかも2人のトレーナーによる組み合わせで4パターン、3人で8パターンとなります。複数のトレーナーで併行させてレッスンさせると、まさに相乗効果となるのです。

 達人の経験とか、研究者の科学とかが入ったところで、その確からしさは、“相対的”に上がるだけです。まして、例外的な一人、それがあなたならあなたにとってはすべてが別です。当てはまらないとしたら100パーセントはずれるわけです。しかし、そこにこそ大変革のチャンスがあるのです。人間や人生というのは、すごくておもしろいのです。

 

○当てはまらない人

 

 天才的な人、オリジナリティあふれる人、これをプラスの極とし、人並み離れてうまくいかない人、鈍い人、これをマイナスの極とします。この両極の人には、メニュは、ほぼ当てはまらないのです。これを一本の線上に並べてプラスマイナスの極とみるよりは、平均的な人を真ん中に、円の周辺の人になるほど平均的なことは当てはまらないとみるとよいと思うのです。多くの人はどことなく当てはまり、どことなく当てはまらないのですが、それをよしとみるか、違うとみるかだけです。

 私のところのトレーナーは、ほぼ皆、声楽専攻で音大にいました。そこでの標準化されたやり方やそれによる一般的な習得プロセスは、理解しています。十代後半で普通の喉をもつ、優秀なのかどうかはともかく、ひどい損傷のない人への確実な上達方法は知っています。

 しかし、一般社会へ出たら、年齢も育ち方も全く違う人たちがいます。同じ日本人とはいえ、千差万別です。「そのなかのルール」に当てはまらない人は、相当数いるのです。少なくとも、音大では、ドの音を出してドを出せない人をみてきていないのです。そういうトレーナーたちに、いきなり異分野のプロを任せてみます。するとショックを受けて、その分厳しく育ちます。

 よいトレーナーは、自らが育つトレーナーです。育つようにします。すると、その生徒さんもそうなるのです。

 

○分析の限界

 

 私は、声のレッスンを科学的にも分析してきました。実験科学のようなものです。いくら何をやったから(方法)、こういう効果(結果)が出たといっても因果関係は証明できません。

 学会などでは「十数名に実験したところ、この方法を用いると半分以上の人がよくなった」というような発表を聞くことがあります。それは、その方法を用いなかった人と用いた人を比べるだけで、決して全員がよくなったということではないのです。また、それ以外の方法では、よくならなかったという比較もありません。つまり、どんな方法でもよくなったかもしれないのです。それよりも、サンプルがわずかに十数名で発表できるというのは悲しい。その母集団がどのくらいに一般化できるのか、(つまり属性、年齢や経歴…)という点だけでも疑問だらけです。これでは、単に「相対関係がありそうだ」「そういう傾向なのだ」ということにすぎません。データでなくてもわかっていることで、分析作業よりも、もっと前提とすべき大きな条件を問わなくてはいけないと、いつも思うのです。

 たとえば、「風邪で薬を飲んだら熱が下がりました」というのは因果関係でなく、相関関係としてのデータが当てはまっただけです。薬を飲んでなくても熱はいずれ下がります。そのために治験といって偽薬とその薬とを何人もの人に試し、効果を調べます。100人のうち、偽薬で30人、本物で60人に効果があったら、この薬は2倍も効くので有効とされます。一人の同じ症状のときに2通りの薬で試すことはできません。

ヴォイトレの効果では、もっと複雑な条件下で起こっています。それを参考にでなく、そのまま信じてしまう人の方が問題です。結果は自らのその後の歩みで出るからよいでしょう。何もしなくても10歩は歩けたはずなのに、早く3歩歩けたと大喜びする人が多いのです。トレーニングの残りの7歩や97歩がみえなくなってしまうのです。それをはっきりと示すのが、トレーナーの使命に思うのです。それは、数多くの人を長くみていくことと将来の予測を広くできなくてはいけません。そこへ挑んでいないとしたら残念なことに思います。ヴォイトレの結果に、「絶対」「100パーセント」「誰でも」は、ハイレベルになるほどないとしても、です。

 

○偏りをつくる

 

 偏りのない人はいません。そういう人がいたとしたら、その表現はすべての人に無力に思うのです。私のところはあらゆるタイプの人、他のスクールやトレーナーでは通じないような人も多く来ます。そこで、トレーナーやレッスンについて偏りをなくすよう努めるのでなく、受け入れられるように、違うタイプのトレーナーで、できるだけすべての偏りにセットしてきたのです。

 

 私は、薬もヴォイトレも使えないと言っているのではないのです。トレーナーもレッスンを受講する人もこれくらいは知っておくべきだと思うのです。レッスンの受講生は、こんなことを知らない方が、早くそれなりの効果が出るのです。ずっとただのレッスン受講生だけでいたいなら、です。今は、情報に振り回されている人が多くなったから、振り切ってあげるために述べています。中途半端な情報で効果を減じている弊害の方が多いのです。それなら深く知った方がよいと思うのです。

どのトレーナーがよいとか悪いとかいうなら、好みでなく実力の判断というならば、このくらい知って、うまく使ってくださいということです。

 

○思い込み

 

 偽薬が効いた人は、飲まなくてもよかったのでなく、偽薬を薬と思って飲んだから効いたのです。大切なのは、薬の真偽以上に本人の心での真偽、つまり、意志や信心であるということです。治そうとする意志や治るという確信が影響するのです。

 となると科学でなく心理学です。科学的というなら、せいぜい統計として扱うくらいです。ヴォイトレも同じです。薬を飲むと、よく効く人も、あまり効かない人もいます。体質も症状の程度もその効果も個々に違い、真実はありません。そこに因果関係があるというのは思い込みです。そうであって欲しいという心理の成せる業にすぎません。それが高じると信仰になります(もちろん、ステロイドなど対処療法に確かな効果を出すものはあります)

 こういうことは、マジックの錯覚でよく利用されています。自分に外にあるものを、どこまで客観視できるのかの実験では、同じ長さの2本の線なのに長短にみえたり、ピンクなのに緑にみえたりする。脳にそれに反応するニューロンがあれば、私たちはそういうふうにみるのです。聞くのも嗅ぐのも、すべてそうなのです。

 真実を知りたくても、五感で捉えているのは、事実でなく、感覚の世界、脳の認知する中でのことにすぎません。真の存在でなく、存在を感知した脳の回路の活動です。となると、状況によって、かなり大きくぶれるものです。しかし、その心理や信仰を利用しての芸や作品でもあるわけです。効いていないのに効いているようにみえたりするなかで成り立つのです。

 

○信仰心

 

 きれいな人がきれいに盛り付けた料理は、そうでないものと同じ味であっても、うまいわけです。私たちの仕事も内容だけでなく、表現や演出を考えていかざるをえません。声自体は、基準が曖昧でないのに、舞台で使う声となると二重三重にも基準も揺らぐわけです。その結果、声そのものを重視していないヴォイトレばかりになりつつあると危惧しています。

 たとえば、

1次元に元の声、

2次元にせりふや歌としての声、

3次元に音響使用の音声表現、

4次元に客に聞こえる音声表現

 と、少なくとも4つの異なる判断の軸が、私にはあります。

 判断における客観性については難しいことです。ジェットコースター、お化け屋敷でのデートや吊り橋の上で告ると成功するというセオリー(吊り橋効果)のようなものも入ってくるわけですね。「ロミオとジュリエット効果」というのもあります。

 声、ことばでは、「ブーバ・キキ実験」、これはヒトデのような形で一方は丸味を帯び、もう一方は尖っていると、名前から丸い方をブーバと考えてしまう人が多いというものです。これは直感と言われていますが、語感ですね。

 思い込みの排除を進めているのではありません。それを超えて信じ切れるところまで踏み込めということです。a.ずっと思い込みだけ b.思い込みから信じ込みへ c.すぐ信じて、その後裏切られたと思う d.すぐに信じて、ずっと信じ込む e.不信から 信心へ このなかで多いのはa、d、勉強するとbかeかです。cは最悪の学び方です。

 

○歌の凋落

 

 「聞ける歌がなくなりました」と言われて何年にもなります。どの時代でも年をとると、若い人の新しい感性についていけなくなるから当然です。とはいえ、20世紀の歌と、その歌手のもつ力、歌の影響力を比べたら、今や風前の灯ともいえます。その理由について、私は相手に応じていろいろと答えてきました。いくつかあげてみると、

~カラオケが普及し、一般の人が歌う時代ですから

~ラジオやレコードの時代ほど耳が肥えていませんから

~あらゆる曲のパターンが出尽くしてしまいましたから

~小さい頃から歌に親しんでいませんから

~皆で歌える歌がなくなりましたから

~もっとおもしろくて楽しいことがたくさんありますから

~いい曲や歌い手が少なくなりましたから

 それぞれについて、異論もあることでしょう。残念なことに、定番だった「蛍の光」「仰げば尊し」「君が代」も習わなくなりました。皆が口ずさめる曲は、どのくらいあるのでしょう。「あの素晴らしい愛をもう一度」「翼をください」あたりまで遡るのでしょうか。

 

 流行するもの廃れるものは、時代と市場の動向によります。よりすぐれたものにすぐれた才能が結集したときに生まれます。そこは時代の産物も、市場はいつでも新たにつくれると思うのです。

 

○アーティストの凋落

 

 「客がどうこうだから廃れた」というようなことは、アーティストや創り手側は口にしてはいけないことです。アーティストというものを人が欲しなくなったら、どうなるのでしょうか。そんな日がくるのでしょうか、と言っている人は平和呆けです。スターも絶滅危険種なのです。私は、そういうところまで押しつめたところで関心をもつのです。

 ステージと客席、創り手と受け手が分離しないのが特徴になってきます。生産者と消費者でいうなら、消費者は、自ら欲するものを自ら作るようになったのです。

 歌については、日本に洋楽は入ってこなくなった、海外でも世界的なヒットを連発するようなものでなくなりました。20世紀の盛り上がりが特殊であったとなりそうです。ポップスで大ヒットした作品のいくつかが、オペラのように継承されていくのでしょうか。事実、すでにカバーブームです。

 世界中で歌や音楽は生活に根付いているのに、日本では、カラオケを除いては、心もとない現状です。歌手という職業も消えようとしているようです。半分は団塊の世代のノスタルジーによって支えられているのでしょう。

 アメリカのポップスの世界戦略にハリウッド映画と同じく巻き込まれてきた日本では、世界の大半の国と同じですが、グローバル化の問題に触れないわけにいきません。民族主義とキャピタリズムの行く末は、ということです。

 政治的、社会的影響としては、マイケル・ジャクソンとマドンナをピークに過ぎたといえます。

 日本では、私は、その境界を紅白歌合戦の前の、レコード大賞が、ピンクレディ(「UFO」)光Genji(「パラダイス銀河」)だった年を中心に、19781988年の10年と思っています。しかし、本当のピークは世界も日本も1968年だったのではないでしょうか。日本では演歌から歌謡曲、そして欧米ポップスの全盛期ということです。そのようなことも、何十年か経てわかってくるわけです。テレビの時代―それも終わろうとしていますが、テレビというメディアのメイン番組でみると、その時代を支配していたものの移り変わりがわかります。スポーツも似ています。

 

○タレント化と共感

 

 私たちの時代に、歌い手は、生涯、歌い手のはずが、大いに転身しました。プロデューサー、作詞家、作曲家、プレイヤー、DJ、タレントなど、音楽を生業としていくなかでも、自らの才能をより活かすために、食べていくために転身しました。

 歌手は、歌でしか食べてはいけないわけではありません。強いパーソナリティが問われるもの、ポップスでは、役者やタレント業とも重なるところが大きいのです。異分野との兼任も違和感はありません。日本では、美空ひばりはじめ、有名な歌手は、映画スター、その後、舞台興行に転じ立ち回りを演じていたのです。

 シンガーソングライターが一般的になってからは、自作自演の能力を、楽曲提供、プロデュースへと振り分けていくのも、しぜんな流れでしょう。表現分野が、演劇、映画へ広がっていくのも延長路線でしょう。今のお笑い芸人と同じです。いや、お笑い芸人が取って代わったのです。詩人、作家→役者、歌手→お笑い芸人が、日本近代表現者史です。

 その後は、興行として単独ステージよりコラボなステージが親しまれるようになりました。スター不在、高いところからすごいことを一方的に与えるのでなく、共感というキーワードで観客席で一体となるようになります。AKB48に象徴される「普通の子」のステージで、ソロのスターを目指すのではありません。振付やダンスパフォーマンスで観客のノリに溶け込み、一体感に満たされる、その形は、ピンクレディ、古くはグループサウンズやザ・ピーナッツなどにもみられましたが、観客はオーディエンスでなく主役なのです。「表現から共感へ」という日本らしい変化です。

 

○トレーナーという職

 

 今の日本では、フィジカルトレーナーがよく取り上げられています。高齢化社会で健康に関心が高くなったことと、中高年に加えて若い人に心身の問題が大きくなったこともあります。

 私は、トレーナーとして、先も予期せぬまま踏み出したので信じられないことですが、最初からトレーナーになりたいという人が出てきたのが2000年くらいからでしょうか。研究所にくると、私をみて、その方向にひきずられる、現実、歌手としては食べられなくても、トレーナーとしてなら食べられるという発想になったのでしょうか。(そういう考えは、ゴルフ界でのプロゴルファーとレッスンプロに似ています)

 

○中心としての声

 

 ポップスを私の立場から捉えますと、感情を表す声が、構音変化で加工された発音を経て、ことばとして意味をもちました。声が共鳴の利用によって歌になった、この二つが合わさったところから歌となり、その延長上でマイク、音響という拡大、発達した加工装置の使用があります。

 その原点に体と心があるわけです。呼気を通じて体内でつくった音を変じさせたのが声です。舞踏が体の動きの延長上に様式化されたのと同じく、歌は、声の動きの延線上に様式化されたものです。ことばでなく、声の響きの延長なのです。

 元々、私の目指す発声ヴォイトレは、歌でもせりふでもなく、声一つの完成度だったのです。その結果として、私が今使っている声があるのですが…。それが要望により、ロック、ポップス、カラオケ、声優、ビジネスマン、語学習得者、一般の人を対象に膨らんでいったのです。対象が広がったために、研究所として役割分担をする一方で、原点に戻ると決めたのでした。

 

○トレーナーの責任

 

 「声と表現とは別」表現のために声を学ぶ人は、表現のための声が優先されるので、そちらからもみるようになりました。プロデューサーは、そこをみるばかりです。ロック、カラオケ、ハモネプ、コーラス、役者のせりふ、アナウンサー、朗読、声優の音色(使い分け)果ては、腹話術やホーミーまで、どれも声と関係があるので、世界中、巡って学びました。

 トレーナーは、それぞれの分野のプロとは違うのです。歌のうまいトレーナー、役者並みにせりふを言えるトレーナーもいます。その人の出身がそこであれば当然です。ここのトレーナーでも、声楽家ならオペラを歌えます。普通の人よりも、その分野をやってきたからです。そして、それは他の分野では、そこのプロには及ばないということです。

 ヴォイトレのトレーナーは、トレーニングを教えても、プロの歌い手のようにヒットさせることはできません。プロの俳優、声優、アナウンサーの代役も難しいでしょう。ソロとしてヒットさせた後にトレーナーになった人はいますが。ここに声を習いにいらっしゃる落語家、伝統芸能家の芸などは、まねることも難しいです。

 

 ゴルフのレッスンプロと同じく一流のゴルファーだった人が必ずしも教えているのではありません。教えることのプロが教えているのです。大多数は、そうでなくても自分よりもやっていない、できない人に教えている、そこで成り立っているのです。

 表現活動で食べていけないと、手段としてトレーナーや教職を選ぶのです。これを否定したら日本の声楽界は成りたたないでしょう。

教えることで学べることも大いにありますから、教えることを兼ねるのは悪いことではありません。芸を継承させ、将来を後世に託していく使命もあるのです。

 しかし、その結果が凋落ではいただけません。古来より、廃れていった分野は数多くあります。まずは隆盛していたわけです。一人の天才が創始、継承して、一時はそのジャンルを超える幅広い活動、大きな影響力を世に与えていたのです。そのために、それに憧れ、それをやりたい人が集いました。客が客を呼び、増えていったのです。そこからが問題です。

 これが、ポップスなど海外からのインポートものになると、憧れで、本人も客も本当の意味で舞台が成立しえないうちに流行してしまうから、事情は複雑です。

 保護、援助しなくては存在できないものをどう評価するのか。建築物などでなく、人間の活動です。予算なら保護に回すのか、新しいものの台頭への助力へ回すのかとなります。それを誰が決めるのか。お上か庶民か(この件は、文楽と橋下大阪市長の補助金騒動でのやり取りがわかりやすいので譲ります)。

トレーナーの位置づけ、これが単に自分よりもできない人の引き上げでなく、自分よりできる人にすることと思います。そこから一般化していくならよいと思うのです。そうでないケースでは、評価は自己満足でメンタルトレーナーになっているケースが多いのです。

 

○身体からの声、歌からの声

 

 表現とは別に、声単体の評価が成立するのか、それが私のライフワークとしての課題でした。声が本当に表現に化したときに声は消えます。話し終わって「声がよい」と言われるよりも、「何か温かい気持ちになりました」と言われる方を嬉しく思います。声そのものとその使い方となったときに、そこには発声と歌唱のように距離があるのです。

 声楽は伸ばした声の高さ、大きさ、長さ、音質が、その人の体からみてベストとしてみやすい例です。条件は、オペラ歌手としてのプロとしての感覚、体、技術で鍛えられ、明らかに一般の人と変わっています。一流のレベルにおいてのことですが、イタリア人ならオペラのような声で話す一般の人もいるのです。そのプロセスなのか方向違いなのか、異様にふしぜんな日本人の声楽は別とします。

 一流の舞台での表現と素人としての日常での表現力は、一見離れているようでも、しぜんにみえることでは一致しています。中途半端な歌やせりふは、つくられたもので、そういう人もいなければ役もないのです。

 ポピュラーの歌声については、体からの声との乖離度がますます広がりました。その代表がカラオケの歌です。エコー(リヴァ―ブ)が包み込んで曖昧にし、聞き苦しさをなくしてしまったのです。カラオケの普及には私も一役買ったことがありました。一人でステージで表現するのに不慣れな日本人に経験を積ませることです。これはカラオケBOX出現で消えました。今や、マシーンの採点への挑戦でゲームになりました。キイやテンポを変えて、歌を自分に合わせベストにできるというカラオケ最大のメリットもなくなりつつあるのです。日本人は、残念な意味で、すごいと言わざるをえません。視覚や味覚にすぐれているのに、ここまで聴覚をないがしろにしてよいのかと心配です。

 ついでに言うのなら、その他の分野、役者でも、国際的に通じるのは、50代以上の一部の声にしか残っていないといえます。地力としての声についてです。

 

○処理と創造

 

 声を身体からみるか、歌からみるかで私は2つの立場をもっています。その都度、変じたり、その割合をミックスして評価、判断、アドバイスをしています。

A.器を大きくする(ゼロから1へ)

B.優先順を決める(234番を1番のものに)

Aは破格やインパクト、パワーで、Bはバランスや使い方で、収め方、残し方です。

Aは押す波、Bは引く波です。

 この掛け合いで歌もせりふも表現も成り立ちます。ところがAがなくなった、元よりそこが強くなかったのが日本人の音声の特徴です。

 半オクターブで、まともに声を出せない人が1オクターブ半を歌おうとすると、これが露わになります。声を1オクターブ出せる話すポジションがないと歌えるはずがないのに、歌声という特殊なレシピをつくり、マイクやリヴァーブでカバーしたのです。

 クラシック歌手からみたら、最近のポップス歌手はそうみえるでしょう。そのカバ―能力が、ポップス歌手のプロとしての処理の能力です。マイクがあるので、特にことばを丁寧にしっかりと歌えます。そしてポップス歌手の、カバー能力のなかでのもう一方の重要な創造の能力、インパクトやパワーに欠けるのです。それがあれば世界の一流の歌手の条件となります。日本も、歌謡曲のポップス歌手には、声そのものの質感のよさとインパクトをもっていた人がいたのです。

 破格とは、声においてのオリジナリティの素です。クラシック歌手はいまだに向うへ近づけない(追い越せまでいかない)で、後退しているのです。日本のなかでクラシックもポップスも対立せず、ヴォイトレも共有できているのは、実のところ、裏で同じ問題を宿しているからです。そして、ヴォイトレは、歌においては守り、喉を壊さないためのもので不毛なのです。

 

○メニュが合っているのか

 

 他の人のメニュ、レッスン、指導と、ご自身の行っているやり方を比べて、そのよしあしを尋ねられます。他の人のメニュを、それをつくった人が望んでいるほどのレベルに使えるのは、誰が使うにも、つくった人と同じくらいに手間暇がかかるものと思います。たまに、使うやいなや、つくった人を超えてしまう天才のような人がいなくもありませんが。

 メニュが自分に合っているかどうかを人はとても気にします。しかし、実のところ、合っていなくても大した違いはありません。

 自分に合ったトレーナーをみつけるというのも同じです。結局は、自分に似た人を選んでしまうのです。すでにトップレベルの人は、それでもよいのですが、残りの人には、大した効果は望めません(研究所では、最初は私やスタッフが選んでいるのは、そのためです)。

 合うというのは、最初からやりやすいということです。自分で合いやすいように選んで使ってしまったメニュですからあたりまえです。その使い方によって新たに革新が起きることはないのです。ラジオ体操のように、毎日の状態をうまく保つのによいだけです。実力の向上には結び付きにくいのです。実力のつくプロセスを養い、大きな結果をとりにいくのが、真に必要なメニュです。

 

○プロへのステップ

 

 チベットにティンシャという直径7センチくらいの2つの皿のようなものをぶつけ、澄んだ音を出す鐘があります。その鐘を鳴らしてみてください。5回鳴らしたうちのもっともよいのを選んでください。それはあなたにもわかるし周りの人もわかるでしょう。その1回の音色を5回続けて出せますか。できるまでに何日かかかるでしょう。次に同じようにできたら、また、その5回のなかでもっともよいのを選べますか。こうしているうちに、少しずつ聞く耳と技量がステップアップしていくでしょう。いずれ、10回、20回と全く同じに出せるようになるはずです。50回、100回できるようになったとしたら、それが基礎力のようなものです。

 トレーナーとして、本人が声を100回そろえていく力をみるなかで判断します。100を覚えて、分類し、違いをトレーナーは言語化して説明、あるいは、似させて実演します。

ほとんどの人は、どこかの段階で違いがわからなくなるか、できなくなります。そして、何らかの手を打たなくてはならなくなります。そこに使うのが方法やメニュです。それをもっともよいタイミングで、もっとも適切なものとして与えるのが本当のトレーナーの仕事です。つまり、声でなく、声を引き出す手段を与えるのは、耳の仕事です。

 たとえば、卓球台の両端に置いたピンポン玉を石川佳純選手は2回のスマッシュで2つとも落とします。土門拳氏はライカというカメラを買って、毎日1000回シャッターだけ切る練習をしたといいます。あらゆる仕事の本当の基礎力は、シンプルで明確です。

 判断は、最初だから難しいのではありません。初心者が木刀を振るようなもので、10のうちのもっともよい1は誰もがわかる。それは、振るのが初心者レベルだからです。ほとんど自分のもつイメージよりも乱れているからです。判断の力が実力より上にあるのです。

 しかし、上達すると周りはわからなくなり、本人のみが、わかるようになります。そのためのトレーニングをくり返ししていくからです。その逆ではだめです。本人のわからないものもわかる。それが、プロのトレーナーなのです。

 これに関連して、歌を100回うち1回しか歌わないがアマチュア、100回聞いて1回歌うのがプロということです。これは復習方法の革新です。

 

○歌

 

 ですから、声と歌の行き来をしつつ、声の評価と歌の評価を噛み合わせていくのです。プロデューサーやバンドは、声や体よりは歌、あるいは音楽で判断します。その人の声のベストよりも作品としてのベストです。その人の声のベストで見てから作品に歩みよっていけるプロデューサーは、稀有ですが、います。トレーナーは、その手段としてのメニュ(方法論)をもつということです。

 

 ピアノの一音の完成度は楽器、調律、弾き方(発する音)です。演奏はメロディ、リズムという流れの中でのバランスです。1音をきちんと弾くよりも優先されることがあります。ミスタッチしようものなら大失敗でしょう。

 同じ音でも、単にそのタイミングで音が出ればよいというのではないのです。弾き方での評価はあります。完璧な演奏、間違えない演奏に対して、基本が問われるのです。

正確さは、間違えなければよいのでありません。丁寧さも雑でなければよいのではないのです。演奏の基礎技術は、音が一体化するために最低、必要な条件です。

 それを声で、となると、なぜこんなに何でも許されるのかが不思議です。日本では雑なものです。1番と2番で、ことばの違いはあっても、声のコントロールが全く違ってしまう、そこに本人さえ気づいていないことがよくあります。だから世界に通じないということです。

 その人の声であり、ことばであるから、歌の説得力が出てくるのです。そこに甘えて、音楽の演奏ということがおろそかになるのです。音としての作品でなく、パフォーマンスやその人柄、情熱、努力などでみて、わからなくなるものです。

 日本では、プロでなくても誰でもできてしまうためにプロたるものがわかりにくいのです。そこでギャップと上達のステップが、プロに近づくほどわからなくなっていくのです。

 日本での歌のプロは、うまい、正確ということの応用力を問われています。アーティストとしての評価は、全く別になるのに、です。これをガラパゴスとみるか、低レベルとみるかは人によります。結局は、日本で日本人相手にやるのだから、それでいいとなるのです。

No.359

不器用

技芸

見憎い(醜い)

器用上手

閉口

内容

目的

流れ

一切

原点

優秀

感動

演者

理解

認識

私生活

無我

境地

無理

立派

人形

気持ち

不自然

切実

語りかけ

期待

意図

木偶

笑顔

「根源的な問い」

○根源的な問い

 

 小泉文夫さんが「外国人が日本の古典、あるいは、伝統芸能を学びにきたら、案外と早く学べるだろう」ということを述べていました。いくつもの流派を、これまでの日本の師匠たちの不文律を超えて横断的に学ぼうとするし、師も外国人だから、わかりやすく説明するからと、私もその通りに思うのです。

 「なぜそれをやるのか」という根源的な問いは、その世界やそこの第一人者に憧れて、手習いから入っていく後輩には発せられないし、無用でしょう。一芸を一つの流派で一人の師から継承していく、幼い頃から長年にわたり究めていく人は、中心にいるほど、そういう発想はないのです。日常的に慣れ親しんできたことが、芸となりゆくからです。

それに対し、外側からくる人はよそ者ですから、客観的にも批判的にもなれるのです。そのため、よい批評家、評論家、あるいはトレーナーになれるともいえます。「なぜやるか」は哲学で、「どうやるか」はメソッドです。

 

〇プログラミング

 

 欧米で私が学ばされたのは、世界のあらゆるものを標準化、プログラム化して、システム的に伝承していこうという考えです。大航海時代、彼らにとっての未開の地を征服していくのに、学者を連れていく。動物や植物を収集、研究して、体系化する。そのために自国に動物園や植物園までつくってしまうという徹底さです。欧米列強をまねて、日本も短い期間に他国へ進出、同化政策をとっていましたが、世界戦略については、経験が浅かったといえるでしょう。

 

〇軸のとり方

 

 私は、日本と西欧(アメリカも含めて欧米としてもよいのですが)の対比から入りましたが、今はワールドミュージックやエスニック音楽(日本も含む)とクラシックの軸で考えることが多くなりました。日本が特殊とみるより、クラシック音楽が特殊とみるほうが説明がつきやすいことが多いからです。そこで欧米のポップスをどう位置づけるのかは悩みますが…。

 日本人がクラシックで才能を発揮するのと同様、外国人も、邦楽で活躍し始めています。幼少や若い頃から日本の文化に慣れ親しんでないとはいえ、今の日本の若い世代もまた、日本の伝統的な因習に切り離されているので、こうなると似たようなものになりつつあるとのです。

 

〇研究所史(1

 

 この研究所は、ロック、ポピュラーの声づくりから始まりました。その後、声優、役者などの声づくりに拡がりました。欧米のメソッドを参考にしつつ、声に関しては、日本の役者の声づくりを応用したといえます。

 次に、音楽(洋楽)スタイルを目指す歌手に補強として、最初はカンツォーネ、ナポリターナ、次にシャンソン、ラテン、ファドを使いました。前者は、声質、声量、声域、共鳴、後者は、ことば、せりふを中心に日本語と外国語の問題の対応に役立ててきたのです。噺家、お笑い芸人、邦楽家とのトレーニングを経て、一般の人やビジネスマンと接して、一般化していくことになったわけです。

 

 ここには、8つの音大出身のトレーナーがいますが、そこまでに音楽大学(声楽)以外に、ミュージカル(宝塚、劇団四季、東宝系)、ポップス、ゴスペル、ジャズ、コーラス(合唱、カラオケ)関係者、プロデューサーや演出家(日本、韓国ほか)、いろんな専門家やトレーナーと接してきました。今に至るまでに、プロも、噺家、声優、朗読家、役者、ものまね芸人、民謡歌手、長唄、詩吟の師匠など、まさに声と歌唱について、研究所はさまざまな世界と接してきたのです。

 

○研究所史(2

 

 芸事の伝承を標準化しようとしたスタイルの一つが学校です。カルチャー教室やビジネススクールもあります。研究所は、プロとの個人レッスンが集団レッスン、グループレッスンに変じました。一個人の研究から、複数での普遍化へ、自らの声を研究したい人が集まり、切磋琢磨するということで、集団化の流れをとりました。プロダクションや企業、コーラスやバンドとも関わっていました。私のなかには、いろんな考えや方針がいつも混在していました。

 それを、若い人や、年配の人がそれぞれに、どう受け入れ、結果どうなったかも、ずっと渦中でみてきたのです。

 他の組織の歴史や関わった人たちのその後も研究所の歩みの中に凝縮されています。いろんな選択がせまられました。何かを選んだために捨てざるをえなかったものも多々あります。成功も失敗もたくさんありました。第一線にいるためには、方向転換や変革の連続だったのです。

 

○研究所史(3)

 

 ある時期に、研究所のプロダクション化やライブハウス運営、専門学校化をやめました。判断も、その都度、学びの材料として、皆さんに提示してきました。

 できること、できないこと、やりたいこと、そうでないこと、やるべきこと、やるべきでないこと、多くのことをジャッジしました。

 私は、研究所を創り、支えるために、プロダクションやアドバイザー、コンサルタントをしていました。企業やプロダクション、大学などの内情に通じ、一方で、ビジネスや政財界、マスコミ業界、芸能界、学会などとは、あえて均等に距離をとっています。その中では、教育界、医学界、健康・メンタル関係者との関わりが多くなっていきました。

 コンサルタントと事業化というのは、タレントとプロデューサーというのと同じく、両立しがたいために中途半端にもなったと思います。それゆえ、見えてきたこともありました。突き詰められずに得られなかったこともたくさんあったと思うのです。しかし、そこで得たことを次にどう活かすのかを優先しています。

私はまだ人生を回顧する立場にありません。研究に専念できる体制づくりに随分かかったゆえに、人よりも多く学べたように思っています。研究所の歩みは、すでに「読むだけで…」(音楽之友社)にまとめました。参考にしてください。

 

○研究所史(4

 

 今の研究所は複数名(24名)のトレーナーによる個人レッスン指導が中心です。それと、いくつかの研究会、勉強会、実習、研修をしています。そこでの体制として、参考にしたのは、邦楽とクラシックの世界です。

 一人のカリスマが一つの芸を確立させた、あるいは、形としていった、そこに人が何かをみたり聞いたりして感じ入り、人が集まります。次々と機会をつくりリピートしていきます。時流にのると大きくなり、のらないと廃れていきます。舞台やイベントであれ、店や会社であれ、人間の芸であれ、その人の創りだしたものであれ、大きくみると同じことです。

 人が感動する、人が集まる、この2つのくり返しを、私は若いときから、いろんな機会や場を借りて行ってきました。自らも、事業、研究所、学校、アドバイザーとして試みてきました。

 これらは、縦社会よりは横社会のつながりであり、かつてのスーパーコンピュータよりはマック(マッキントッシュ)の思想でした。現実に社会は、その方向に動いていきました。しかし、それによってアーティストが生まれたのか、それによって人々が、大きな感動と集まる機会を得られたのかというと、そう単純ではありません。

 

〇研究所史(5

 

 研究所のレッスンは、集団グループからマンツーマンに移行しました。多くのトレーナーや生徒さんが通っていると、いろんな考え方が持ち込まれます。未熟かつ柔軟な組織だったときは、その場の相手との対応で自由にできていたことが、形ができて、それを求められるようになると、メリットとデメリットの兼ね合いも、優先度も変わってきます。

 一律の判断が、基準として求められると、7割の人にはよいが3割の人にはよくないという、まさに民主主義の欠陥のようなことが出てきます。その3割のなかに一人でもすごい人がいたら、そこへすべてを絞り込む方がよいという考えはとりにくくなります。巷では、1割にも満たないクレーマーぽい人のために全体が不利益を被り、いつしれず、存続させることが目的になり、サービス面での成果を出すことが目標になったところが数多くあります。それだけは避けてきたつもりです。

 

 「アーティストたれ」を掲げて発足した研究所は、この目的だけでは、5年ともたなかったことでしょう。それを死守するなら、私自身が5年で潰したはずです。2000年の時点で、ここは「声に関心をもつ人なら誰でも来たれ」になりました。声に関わる分野が広がって、深く絞り込まず、拡散していく方にいったわけです。それをずっと突き詰めようとしてきたのです。

 

〇研究所史(6

 

 たとえば、研究所の発足当初は、時間など誰でも気にしませんでした。劇団のように、最初のレクチャーで35時間連続でしたが、誰も去りませんでした。2時間でも長すぎるという人が出てきたのが1997年頃で、転機とともに第一期の終焉でした。

 私のところは、当初は、いらっしゃる人も、時代の波から10年くらい遅れていた人と先に行きすぎていた人が多かったのが最大の長所でした。バブルから後の日本、特に音楽の業界の動きは、私の望む方向と真逆になりました。研究所が生き永らえているのが不思議なほど、日本で歌の価値、声の世界が縮小したのです。

 当時、「レッスン時間が延びては困る」というような人が出てきたのに驚いたのを覚えています。今では、それはあまりにあたりまえのことなので、そのことに驚いたということに驚くくらいです。

 

○研究所史(7)

 

 人数がいくら増えても、人材が出なくては仕方ありません。幸い、研究所で学べたかどうかは別として、在籍したあと、歌い手だけでなく、アーティストやプロデューサー、ビジネス、役者、トレーナー、指揮者、作家など、多彩な分野で活躍されている人がいらっしゃるのは、ありがたいことに思えます。

 個人レッスンにしたため、プロが来やすくなりましたし、他のプロダクションやトレーナーと併用される人も多くなりました。そういう面では、純粋な成果がみえにくくなりました。しかし、「他と分担することで、ここで声のことにより専念できる」なら、お互いに悪いことではありません。

どこでもヴォイトレに即効性を問われるようになりました。声よりも総合的なバランスを整えるようになったのです。

それは厳密には、声のトレーニングの成果でなく、声の使い方の成果ですが、ともかくも、こうして声そのものの成果を出すことに専念していく体制にしていったのです。

 

〇研究所史(8

 

 ノウハウ、マニュアル、方法よりも基準を学ばせ、それに必要な材料をメニュとして与えるというのが、最初からの考えです。このあたりは私のデビュー本に詳しいです(「ヴォイストレーニング基本講座」として増補改訂発売中)。

 邦楽も声楽も、ここの一人ひとりのトレーナーのレッスンは、標準化されたものでも、共通のものでもありません。そうみえて、深いレベルでは、そのトレーナーなりに捉えた持論の実践です。組み合わせることで効果を大きくしてリスクを回避しています。

 ここでは、声楽家だけでも、長くたくさんレッスンをしてきた人を中心に、これまで30名以上に協力をしてもらってきました。日本の声楽の現在についても、どの声楽家やトレーナーよりも共通や異質の要素を抽出して標準化できます。しかもここでは、オペラ歌手が音大生に教えるのでなく、門外漢に教えるのですから、相手に応じた組み換える力が必要となります。それができなくては長くは続きません。

生徒のタイプ、学び方、進度についても、多くの人を長くみていくと、トレーナーとの組み合わせも含め、いくつかのパターンが出てきます。他のジャンルのトレーナーや海外のトレーナーも加えると、さらにこれが明瞭になります。

 

○研究所史(9)

 

 外国人の方が日本の継承にこだわらない分、比較しつつ学んで、総合的に早くよくわかるというのと同じです。結果として大局から入るので効率的なのです。一つの流派だけで何十年もやっている人は、他の流派のことを全く知らないということもあります。そこに合った人だけが来て残るので、同じタイプにしか通じない教え方ばかり深まっていくこともあります。知らずに同じ価値観に偏っていくのです。

トレーナーが独自のやり方をもつのでなく、そこへ来て長くいる生徒の望むやり方に偏っていくのです。トレーナー本人もそれに気づかず、万能と思ってしまう愚を避けられます。

このあたりはフィールドワークのようなものなのです。

日本において、洋楽しか学ばない音大生の方が、邦楽や日本の芸能について、一般の人よりも無知というのも似たような愚です。

 

○研究所史(10)

 

 日本は、一端、形、型ができると、それを深めるのに純化していく傾向が強く、そうして強国には築かれた縦社会ゆえ大きな障壁となっています。縦割り行政ということばでよく使われていますが、障害となるのは行政だけではありません。大横綱ゆえに代表理事をやる、料理長が経営をやる、選手として実績のある人が監督やゼネラルマネジャーをやる。それは、本当は、違う才能とキャリアが必要だとは考えないのです。そこで、おかしなことが起こるのです。一流のアーティストとしての才能は、ビジネスやマネジメントの才能とは別、ということもわかっていないのです。

 それゆえ、日本は、アーティストが一流の作品をつくることに専念しにくい環境といえなくありません。根本的には、大きな革新ができず、古いものを残していく、そのわりに新しいものが好きで、どんどん惜しげもなく前の世代のものを跡形なく壊して、リニューアルしてしまうのが日本人のように、私は思うのです。

 私などは、ずっとたくさんのすぐれたトレーナーを使ってきて、ずっとたくさんの古今東西のすぐれたメニュの革新をしています。研究所で声の研究をしているのに、そういう面での評価は受けられません。研究では、自分がすぐれた研究をするとともに、自分よりすぐれた人を集めて、よりすぐれていくようにしていくことがもっと重要だと思い続けているのです。

 

〇未成熟のままに

 

 日本人は、完成されたものより、未成熟からのプロセスに惹きつけられるように思います。弱者としての生存術が、日本の歌謡において、第二次大戦後は、頑なに続いています。流行歌まで禁じられていたという状態からの反動やアメリカ文化に対する憧れもあったと思われます。

 アメリカによる徹底した破壊から一転して、予想外の解放と自由が与えられたのです。これが中国やソ連の統治下であったなら、日本の戦後は全く異なっていたでしょう。もう少し自立して、父権的、武士的なもの、和魂が残ったのでは、と思います。日本に侵略されたと訴えを大にしている2つの隣国と同じく、多くの日本人もまた、戦争の前の日本人、軍隊(上官)や軍国主義が嫌いだったと思うのです。

 今、滅びていこうとしている芸は、そういった体質から抜けきれないものです。スポーツでも、相撲、柔道、水泳、プロレス、格闘技…、創始者が奔放に創造してきたことを継承しているうちに、模範の型やルールに定まっていきます。その分、保守化してエネルギーが奪われてしまいます。すると、それを超えるものが取って代わっていく。それが人類の歩みでもあったわけです。

 とはいえ、何であれ、世界で、民主主義国家をもっとも完全に近い形で実現しているのはまぎれもなく日本で、そこを否定しているわけではありません。そのやさしさが、表現のパワーにならず、無関心、「表だって行動せず」のようになっていますが、誰が責められましょうか。昭和天皇は「自分が正しいと思う人が一歩下がれば争いは起きない」と言い残されました。

 

○パワーなし

 

 型を通じて型の上に出ていくのが達人、そういう達人の出たあと、型にはまって出られなくなると、型は、かつての天才を思い出させる装置として使われるようになっていきます。

「美空ひばりトリビュートアルバム」、トリビュートを出すことはよいことです。美空ひばりを知らない人に何を与えられるか、その曲、詞はどこまで通じるのか、それをみることができます。ベテランの演歌歌手でも、ひばりの型にはまる(ものまねになり、足をすくわれる)か、そこを切り離し自分の歌にするかです。型を最大に活かして自分と今の世界を表現できている人、いや、試みようとしている人さえほとんどいないようです。

 デビュー時の才能や資質が、プロになったあとに消費されているだけで、さらに高めて最大限に発揮されるようにプロデュースもされてこなかったのです。日本人のお客さんに純粋に対応していった結果、日本の歌い手はプリミティブなパワーを失っていったともいえます。世界で通じる歌唱力で、一流のアーティストにも認められた美空ひばりが、世界に知られていない、ヒットもしなかったのは、時代のせいばかりとは言えないと思うのです。これは「王や長嶋が大リーグに入っていたら」などと似たような愚問かもしれません。

 日本の芸は、聴き込めば入ってくるもので、パワーで押して持ち上げてくるものではないのでしょう。歌詞が中心で、メロディののりに母音のビブラートです。生活のなかで培われた強い言語のリズムそのままに、パワーで盛り上がっていく欧米やアフリカとは違います。アジアなども含めても違うように思います。

 日本人は、和、共感、謙虚さを尊びます。それは、戦いや競争の次にくる世界を創れるのでしょうか。創っていくのに一歩引いていく、そういうことでしょうか。

No.359

<レッスンメモ>

 

「思想」

 

神の予言、意思、約束と契約で、宗教の成立

老荘思想では、自らを虚しくして楽になる、無になる、無為、自然、あるがまま

仏教の空は、苦しみからの解放

遊行したのは、僧侶、白拍子、傀儡子(くぐつし)、琵琶法師など

遊びは、あそびで、すさび

シャーマニズム、グレートマザー、女神信仰

神のもどきが、日本の芸能の起源「翁」   [684

No.359

<レクチャーメモ>

 

「ホルモンと言語」

 

他利行動、オキシトン βエンドルフィン 報酬系 

ミラーニューロン(1996年発見) 共感 自他の境をなくす ランナーズハイ 

アドレナリン ノルアドレナリン 戦うか逃げるか

なむみょうほうれんげいきょう、なむあみだぶつ

mとnが中心

省エネ、ルーティン化、習慣、惰性

知的快感、幸福感、役割と責任、役立つこと

生きる意味、生きる力、尽力         [681]

「鍛えるということ」

○鍛える=柔軟に働く

 

 私は、自分のブレスヴォイストレーニングを、声を鍛えるトレーニングと、はっきりと位置付けています。筋トレも筋肉を鍛えたらよいというのでなく、目的(競技)に合わせて、応用度が高く柔軟に働くような筋肉にしていくのですから、声も同じです。ボディビルダーのように、外側だけ美しくみえるようにだけ鍛えても何ともならないのは、アスリートも歌手も同じです。となると、歌手のため、役者のため、一般の人のための筋トレというのもあってもよいと思います。この筋肉を、声の原音を発する声帯筋だけと捉えると、大きな誤解が生じます。発声や呼吸に関わるものと考えてください。

 英語には、発音のための表情筋や他の筋トレなどあるようです。呼吸筋も大いに関係するでしょう。発声についても同じことが言えます。

 

○負荷=器づくり

 

 ヴォイトレを特別なものと思うがあまり、あたりまえのことがわからなくなっている人が少なくありません。毎日、正味30分話している人が、ヴォイトレで15分声を出しても声は鍛えられません。発声法をよくするからといっても、30分間、声を出せない人ならわかりやすいのですが、30分間出せる人が30分間のレッスンをしているだけでは、2時間、目一杯に使えるところに至るのは難しいのは言うまでもありません。

 そのギャップを埋めるには、出し方、やり方(口内を広げる、共鳴を集めるなどの方法)だけでは限度があります。

下半身が安定していないから、投げられない、打てない野球選手は、走り込むことで体を変える=鍛えるしかないのです。そのギャップを埋めるのは、負荷をかけることになります。その結果、器が大きくなってレベルアップするのです。この負荷を、喉を締めるとか、喉に力を入れる、喉を鳴らすと捉えると、これも大きな誤解となります。

 

〇絶対量の必要性

 

 何事であれ、初期のレベルでは絶対量に時間をかける方が効果的なことが多いものです。

 筋力のない女性にプロのピッチャーコーチが投球フォームとコントロールを教えても、キャッチャーミートに届かない、あるいは10球で力尽きてしまうとしたら、どうでしょう。それ以上、いくら球種や投げ方を教えても、試合に出ることはできないでしょう。そこには、体=筋力のなさという、絶対的に使って鍛えてきた量(=時間)が不足しているのです。

 2時間、目一杯声を使いたいなら、2時間以上、声を使う経験が、必要と考えるのはあたりまえです。毎日、5~6時間、あまりよくない方法でやっていても…。楽なレッスンだけしかしていないことで、キャリアを積んできた他の人に勝ることは稀でしょう。

 

〇刺激する

 

 声は声帯で息を音に変換するのだから、体の大きな筋肉の増強のプロセスとは異なります。舞台での肉体芸術ということでは、そこを支える心身に求められる条件は、アスリートたちに近いのです。ですからトレーニングにおいて、いつも与えられている刺激量よりも小さいというのでは、変化は期待できません。

 「軽く弱く出す」ような発声のレッスンを否定しているわけではありません。それは、「重く強く出す」のよりもずっと難しいのです。誰でも軽く弱くは出せます。誰でも弱い球なら投げられます。しかし、軽く弱く、絶妙のコントロールなどというのは、重く強くを支えることのできる体から感覚を丁寧にしていかなくては、身につきません。通じるものにはならないのです。通じるものにするには、器を大きくする、支えをもっと大きくしなくてはいけないのです。

 

○トレーナーの死角

 

 トレーナーは、テクニックとして、軽く弱く声をコントロールしてきたことの方向から人に教えます。しかし、自分がそこまでに身につけていた基礎力を忘れている、気づいていない、無視している、もしくは、無駄だったと思って捨ててしまっていることが多々あります。無駄と思ってしまった方法では、長い時間のもつ効用を把握できていないのです。

 器を大きくせず、根っこを深くはらずに、表向きを調整して、出しやすくすると、発声は早く直ります。しかし、それでは、12割よくなって、そのままです。短期にみるとよいことでしょう。初心者は、そこでうまくいった、できた、身についたと思ってしまいがちなのです。しかし、それではその先にはいけません。そこから先は伸びません。

 まして、重く深くすることで、鈍く固めてきたような人は、トレーナーにつくとマジックのように声が変わるものです。苦節何年と苦労した人ほど、「新しく画期的な正しいやり方を教えてもらった」とか、「苦労の末、ようやく自ら気づいた」「発見した」「マスターした」と、得心してしまうのです。そして、自分の過去を全面否定してしまうのです。これは困ったことです。

 

〇マスケラ、ベルカントのマスター

 

 マスケラ、ベルカントをマスターしたという人の中でも、日本で合っているといわれている人ほど大した声にもなっていないように思います。技術としてマスターした声が、それ以前のものより表現力に乏しくなっている人も、たくさんいます。単に「楽に高い声を出せた」だけで判断すると、そういうことになるのです。そこが、ヴォイトレ、発声法、共鳴、マスケラ、ベルカントなど技術の習得を根ざす人が、マニアックに陥る罠です。ここは、本当は判断力での問題です。

 

〇充実感

 

 トレーニングで、もし自分を根底から変えるようなものがあるなら、それは、軽、弱、楽でなく、重、強、苦です。そこで練り込んだことを忘れた頃にできているものへのアプローチは、それだけ厳しく辛いものなのです。

 辛いからといって、そのことがトレーニングと思うような人をみると、そうではないとも言いたくなるのもわかります。辛いための辛いは、楽なための楽よりもよくないとも思います。長くなればなおさらです。

自分を高める、向上していくための苦しさ辛さというのは、同時に充実した喜びでもあるのです。そこには、自分を超えることに対しての大きな救い、歓びがあるのです。

 

○絶対量としてのトレーニング

 

 私がマシントレーニングを好きでないのは、スクワットを100回行うくらいは、階段で100段以上登っていることで行っているからです。それ以上、時間があるなら、山にでもいけばよいでしょう。それに対し、時間や場がないから効率的に行うのが、マシントレーニング、ジムなのです。

 若いときに私が間違っていたのは、急にたくさんのことを行いすぎたことです。少しずつ、ハードにしていくべきでした。人の10倍やって、12倍くらいの効果だったのかもしれません。しかし、それは若いために可能だった時間やエネルギーの使い方でした。絶対量としての量、かけた時間でした。

 トレーニングというのですから、少ない時間で、より大きな効果を求めて、メニュや方法をつくっていくのです。しかし、私は、声に関しても、基礎か表現か問わず、最低限の絶対量なくしては通じないと思います。芸事は声がすべてではないので、ややこしくなっているだけです。こんなことから論じなくてはいけないことになるとは、という思いですが…。

 

〇マッスルメモリー

 

 長期の絶対量からは、効率的ではなくても、フィジカルやメンタル面で、得たものが多々あったと思っています。自信も、人より時間や情熱をかけたということにしか根拠はおけません。継続していくことの大切さを身に入れました。その上でようやく、今の自分を把握して、うまくバランスをとれるようになります。

 そうこうしているうちに、体調が悪いときにハードな練習を行って、悪化させるようなこともなくなりました。無理ができなくなったともいえますが、年を経ると、その分、知恵と技術がつくものです。

 若いときのトレーニングは、昔とった杵柄で、体に記憶されています。声を扱う喉のマッスルメモリーは確かにあります。他の筋肉よりも微妙にコントロールしなくてはなりません。

 この辺りが、「声が太く鍛えられている人は、どちらかというと音楽的に鈍く、器用で音楽的な才能に恵まれている人ほど、声は鍛えられていない」という、日本人の独自の問題があるように思います。私は、そこをずっと追及してきたのです。

 なぜ、日本人は(特に歌手)、デビュー時でマックス、その後、34年で歌唱力が落ち、平凡で器用なだけになるのか、向うの人のように、いつまでもしぜんに声を扱えないのか、それを取り巻く環境と共に研究し続け、ヴォイトレに結び付けてきたのです。

 

〇判断の違い

 

 喉の筋肉における運動強度の判断を、私はずっとしてきました。絶対的なことは言えませんが、ややきついくらいがよいトレーニングになるのは確かです。今の状態の改善よりは将来に向けての改革ということです。

 表現が豊かなとき、特に、感情表現については、喉の状態は、ベストよりやや悪いときが多いのです。すでに疲れている状態に近いのです。これを歌手、特に役者的な表現力をもつ人は、声の表情が出やすく感情が客に伝わるので、表現力と思い、好んでしまいます。その区別のできない人が、プロでも大半です。

 しかし、それは、あたりまえのことです。彼らはトレーナーではありません。表現を発声より優先するからです。だからこそ、プロデューサー、演出家、アーティスト、そして、本人自身と、トレーナーとは判断を異にしなくてはいけないのです。その判断が、日本という環境で、日本人として歌い続ける歌手に対しては、独特なものでした。世界のレベルとは異なるものが優先されてしまうのです。今の歌い手は、そこからみると表現のリスクを避け、発声で喉を守るだけになっているのです。それは周りも認めやすいので、矛盾さえおこさず問題さえ気づかないで終わってしまっているわけです(欧米では、日本人にとってはこの「疲れてきているくらいの声」は、「全く疲れていない声」として何時間も同じように使えています)。

 

Vol.100

〇声から世界を広げ、コミュニケーションをしよう

 アンテナをたくさん立てると、多くの情報が集まります。わからなければ何か興味のあること一つからでよいでしょう。「○○の歌が好き」なら、それをググっていくと○○の歌に詳しくなります。そこからすべて始まります。

 声について関心をもつと、世界があらゆる方面に拡がっていきます。私も声のことを知りたいと思って、追い求めていたら、森羅万象に拡がっていきました。

 あなたは何に興味がありますか。すぐに思い浮かばなければ、せっかくですから声から始めてください。もちろん、興味のあるものがあれば、それにもう一つ、声というものを加えてみてもよいでしょう。

〇声はすべてに通じる

 声の勉強は、実社会に出ても充分に活かせます。演劇などの訓練も同じですが、仕事においては、ストレートに活かせるものです。人間関係や仕事に、そのまま役立つのです。

 声を学べば、

 ・相手を説得できる。

 ・相手に好感をもってもらえる。

 ・相手の本心を見抜ける。

 ・相手の誤解を解ける。

 ・相手の怒りを鎮められる。

・危機を脱することができる。

 どれも人生、仕事、恋愛にとって、大切なことではありませんか。まさに魔法の力をもつものといえます。

〇リスクをとり、逃げない

 「声は必ずよくなるのですか」そのように聞く人がいます。「はい」と答えて欲しいのでしょうから、「はい」と答えます。こういう人に「わかりません」というと効果が半減するからです。

黙って始めればよいのを、こちらが黙っていると心配して悪い方向にもっていきたがるからです。こういう人は、声よりもその態度、スタンスを変えなくてはもったいないです。

 つまり、自分がやることを信じることです。自分のやり方も自分の興味をもつことも、自分の関わることです。そして、関わりになる人を信じることです。

 何事にも用心する防御本能とそれに基づく行動は必要です。しかし、保身の行き過ぎはあなたの可能性と行動範囲を狭くします。すべてはそのとき、人生での優先順位です。

人生をそう見切った人は、それはそれで優位に立てます。愚痴っぽくなって行動できない人が多くなった現在では、まさに決断ありきなのです。

〇信じるとよくなる

 「神はいるか」ということをあなたはどう思いますか。私は、それが信じられない人よりも、信じられる人の方が幸せだと思うから、「信じていますか」と聞かれたら、「信じています」と答えます。

 相手を信じて悪いことが起きないかなど考えていたら、ギスギスした関係になりかねません。そうしたギャンブルに巻き込まれるようでは、神様も迷惑でしょう。

 私は今の日本に健康に産んでもらい、この歳まで生きさせてもらったことに感謝しています。これまで最高に運がよかったわけでも願ったことがすべて叶ったわけではありません。肝心なところは、はずす愛嬌のある神様とは思っていましたが、それも神のおぼし召しなのだと、思ってきたのです。

 何かするときに、自分が精一杯やれば必ずよくなるということを信じられる心は、あった方がよいのです。

 それを、神というのです。すると、「とても運がよかった」と言えるようになります。

〇生きているだけで声はよくなる

 「声はよくなるか」何ごともやってみないと、わかりませんし、他のものなら、続けなくなると、よくなりません。

 しかし、声というのは、ただ生きているだけでよくなるものでもあります。

 よりよく生きると、声はよくなるのです。声をよくしようと思わなくても、ヴォイストレーニングをしなくとも、世の中には、よい声をしている人はいるでしょう。

 声は、思いを込めて使い込むほどに、よくなるのです。あなたはきっと、まだまだ使い込んでいないでしょう。今の日本人は皆、そうです。声に思いを込め、願いを叶えましょう。

 最近は、声を出し惜しんでいるかのように、あまり使わない人が多いです。うるさいオバさん、オジさんに、そこは見習いましょう。あのパワーは、声の相互作用からくるのです。「オバさんがうるさい」と言いますが、他の国では、若い人も、もっとしゃべります。それによって、ストレスを解消し、免疫力を高め健全な身体を維持するのです。

日本人は、自分の声の及ぶ範囲も計算できないくらい、声のキャリアに乏しいのです。

 

 ただ生きているだけでよくなるのを、なぜトレーニングするのかというと、ダイエットやジムに行っている人なら、わかるでしょう。自分の魅力と可能性をアップして、毎日を快適に過ごすためです。

「プロとアマのトレーニング」 No.359 

トレーニングは、そのことに向いていない人にも有効であってこそトレーニングといえます。

アマチュアでうまくなるトレーニングとプロになるトレーニングは違います。アマチュアのトレーニングは、目的によっていろいろとあります。得意なことや好きなことを優先してよいからです。誰もが共通して身につくところが中心です。必ずしも全ての能力の鍛錬を必要としなくてよいのです。

プロのトレーニングは、もう向いているか、向いていないかは問いません。自分の強味を知り、最大限に活かし、弱味も徹底してなくします。目的は限定され、個別に価値を高めていくこと、そして、維持することに重点をおきます。

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