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「根源的な問い」

○根源的な問い

 

 小泉文夫さんが「外国人が日本の古典、あるいは、伝統芸能を学びにきたら、案外と早く学べるだろう」ということを述べていました。いくつもの流派を、これまでの日本の師匠たちの不文律を超えて横断的に学ぼうとするし、師も外国人だから、わかりやすく説明するからと、私もその通りに思うのです。

 「なぜそれをやるのか」という根源的な問いは、その世界やそこの第一人者に憧れて、手習いから入っていく後輩には発せられないし、無用でしょう。一芸を一つの流派で一人の師から継承していく、幼い頃から長年にわたり究めていく人は、中心にいるほど、そういう発想はないのです。日常的に慣れ親しんできたことが、芸となりゆくからです。

それに対し、外側からくる人はよそ者ですから、客観的にも批判的にもなれるのです。そのため、よい批評家、評論家、あるいはトレーナーになれるともいえます。「なぜやるか」は哲学で、「どうやるか」はメソッドです。

 

〇プログラミング

 

 欧米で私が学ばされたのは、世界のあらゆるものを標準化、プログラム化して、システム的に伝承していこうという考えです。大航海時代、彼らにとっての未開の地を征服していくのに、学者を連れていく。動物や植物を収集、研究して、体系化する。そのために自国に動物園や植物園までつくってしまうという徹底さです。欧米列強をまねて、日本も短い期間に他国へ進出、同化政策をとっていましたが、世界戦略については、経験が浅かったといえるでしょう。

 

〇軸のとり方

 

 私は、日本と西欧(アメリカも含めて欧米としてもよいのですが)の対比から入りましたが、今はワールドミュージックやエスニック音楽(日本も含む)とクラシックの軸で考えることが多くなりました。日本が特殊とみるより、クラシック音楽が特殊とみるほうが説明がつきやすいことが多いからです。そこで欧米のポップスをどう位置づけるのかは悩みますが…。

 日本人がクラシックで才能を発揮するのと同様、外国人も、邦楽で活躍し始めています。幼少や若い頃から日本の文化に慣れ親しんでないとはいえ、今の日本の若い世代もまた、日本の伝統的な因習に切り離されているので、こうなると似たようなものになりつつあるとのです。

 

〇研究所史(1

 

 この研究所は、ロック、ポピュラーの声づくりから始まりました。その後、声優、役者などの声づくりに拡がりました。欧米のメソッドを参考にしつつ、声に関しては、日本の役者の声づくりを応用したといえます。

 次に、音楽(洋楽)スタイルを目指す歌手に補強として、最初はカンツォーネ、ナポリターナ、次にシャンソン、ラテン、ファドを使いました。前者は、声質、声量、声域、共鳴、後者は、ことば、せりふを中心に日本語と外国語の問題の対応に役立ててきたのです。噺家、お笑い芸人、邦楽家とのトレーニングを経て、一般の人やビジネスマンと接して、一般化していくことになったわけです。

 

 ここには、8つの音大出身のトレーナーがいますが、そこまでに音楽大学(声楽)以外に、ミュージカル(宝塚、劇団四季、東宝系)、ポップス、ゴスペル、ジャズ、コーラス(合唱、カラオケ)関係者、プロデューサーや演出家(日本、韓国ほか)、いろんな専門家やトレーナーと接してきました。今に至るまでに、プロも、噺家、声優、朗読家、役者、ものまね芸人、民謡歌手、長唄、詩吟の師匠など、まさに声と歌唱について、研究所はさまざまな世界と接してきたのです。

 

○研究所史(2

 

 芸事の伝承を標準化しようとしたスタイルの一つが学校です。カルチャー教室やビジネススクールもあります。研究所は、プロとの個人レッスンが集団レッスン、グループレッスンに変じました。一個人の研究から、複数での普遍化へ、自らの声を研究したい人が集まり、切磋琢磨するということで、集団化の流れをとりました。プロダクションや企業、コーラスやバンドとも関わっていました。私のなかには、いろんな考えや方針がいつも混在していました。

 それを、若い人や、年配の人がそれぞれに、どう受け入れ、結果どうなったかも、ずっと渦中でみてきたのです。

 他の組織の歴史や関わった人たちのその後も研究所の歩みの中に凝縮されています。いろんな選択がせまられました。何かを選んだために捨てざるをえなかったものも多々あります。成功も失敗もたくさんありました。第一線にいるためには、方向転換や変革の連続だったのです。

 

○研究所史(3)

 

 ある時期に、研究所のプロダクション化やライブハウス運営、専門学校化をやめました。判断も、その都度、学びの材料として、皆さんに提示してきました。

 できること、できないこと、やりたいこと、そうでないこと、やるべきこと、やるべきでないこと、多くのことをジャッジしました。

 私は、研究所を創り、支えるために、プロダクションやアドバイザー、コンサルタントをしていました。企業やプロダクション、大学などの内情に通じ、一方で、ビジネスや政財界、マスコミ業界、芸能界、学会などとは、あえて均等に距離をとっています。その中では、教育界、医学界、健康・メンタル関係者との関わりが多くなっていきました。

 コンサルタントと事業化というのは、タレントとプロデューサーというのと同じく、両立しがたいために中途半端にもなったと思います。それゆえ、見えてきたこともありました。突き詰められずに得られなかったこともたくさんあったと思うのです。しかし、そこで得たことを次にどう活かすのかを優先しています。

私はまだ人生を回顧する立場にありません。研究に専念できる体制づくりに随分かかったゆえに、人よりも多く学べたように思っています。研究所の歩みは、すでに「読むだけで…」(音楽之友社)にまとめました。参考にしてください。

 

○研究所史(4

 

 今の研究所は複数名(24名)のトレーナーによる個人レッスン指導が中心です。それと、いくつかの研究会、勉強会、実習、研修をしています。そこでの体制として、参考にしたのは、邦楽とクラシックの世界です。

 一人のカリスマが一つの芸を確立させた、あるいは、形としていった、そこに人が何かをみたり聞いたりして感じ入り、人が集まります。次々と機会をつくりリピートしていきます。時流にのると大きくなり、のらないと廃れていきます。舞台やイベントであれ、店や会社であれ、人間の芸であれ、その人の創りだしたものであれ、大きくみると同じことです。

 人が感動する、人が集まる、この2つのくり返しを、私は若いときから、いろんな機会や場を借りて行ってきました。自らも、事業、研究所、学校、アドバイザーとして試みてきました。

 これらは、縦社会よりは横社会のつながりであり、かつてのスーパーコンピュータよりはマック(マッキントッシュ)の思想でした。現実に社会は、その方向に動いていきました。しかし、それによってアーティストが生まれたのか、それによって人々が、大きな感動と集まる機会を得られたのかというと、そう単純ではありません。

 

〇研究所史(5

 

 研究所のレッスンは、集団グループからマンツーマンに移行しました。多くのトレーナーや生徒さんが通っていると、いろんな考え方が持ち込まれます。未熟かつ柔軟な組織だったときは、その場の相手との対応で自由にできていたことが、形ができて、それを求められるようになると、メリットとデメリットの兼ね合いも、優先度も変わってきます。

 一律の判断が、基準として求められると、7割の人にはよいが3割の人にはよくないという、まさに民主主義の欠陥のようなことが出てきます。その3割のなかに一人でもすごい人がいたら、そこへすべてを絞り込む方がよいという考えはとりにくくなります。巷では、1割にも満たないクレーマーぽい人のために全体が不利益を被り、いつしれず、存続させることが目的になり、サービス面での成果を出すことが目標になったところが数多くあります。それだけは避けてきたつもりです。

 

 「アーティストたれ」を掲げて発足した研究所は、この目的だけでは、5年ともたなかったことでしょう。それを死守するなら、私自身が5年で潰したはずです。2000年の時点で、ここは「声に関心をもつ人なら誰でも来たれ」になりました。声に関わる分野が広がって、深く絞り込まず、拡散していく方にいったわけです。それをずっと突き詰めようとしてきたのです。

 

〇研究所史(6

 

 たとえば、研究所の発足当初は、時間など誰でも気にしませんでした。劇団のように、最初のレクチャーで35時間連続でしたが、誰も去りませんでした。2時間でも長すぎるという人が出てきたのが1997年頃で、転機とともに第一期の終焉でした。

 私のところは、当初は、いらっしゃる人も、時代の波から10年くらい遅れていた人と先に行きすぎていた人が多かったのが最大の長所でした。バブルから後の日本、特に音楽の業界の動きは、私の望む方向と真逆になりました。研究所が生き永らえているのが不思議なほど、日本で歌の価値、声の世界が縮小したのです。

 当時、「レッスン時間が延びては困る」というような人が出てきたのに驚いたのを覚えています。今では、それはあまりにあたりまえのことなので、そのことに驚いたということに驚くくらいです。

 

○研究所史(7)

 

 人数がいくら増えても、人材が出なくては仕方ありません。幸い、研究所で学べたかどうかは別として、在籍したあと、歌い手だけでなく、アーティストやプロデューサー、ビジネス、役者、トレーナー、指揮者、作家など、多彩な分野で活躍されている人がいらっしゃるのは、ありがたいことに思えます。

 個人レッスンにしたため、プロが来やすくなりましたし、他のプロダクションやトレーナーと併用される人も多くなりました。そういう面では、純粋な成果がみえにくくなりました。しかし、「他と分担することで、ここで声のことにより専念できる」なら、お互いに悪いことではありません。

どこでもヴォイトレに即効性を問われるようになりました。声よりも総合的なバランスを整えるようになったのです。

それは厳密には、声のトレーニングの成果でなく、声の使い方の成果ですが、ともかくも、こうして声そのものの成果を出すことに専念していく体制にしていったのです。

 

〇研究所史(8

 

 ノウハウ、マニュアル、方法よりも基準を学ばせ、それに必要な材料をメニュとして与えるというのが、最初からの考えです。このあたりは私のデビュー本に詳しいです(「ヴォイストレーニング基本講座」として増補改訂発売中)。

 邦楽も声楽も、ここの一人ひとりのトレーナーのレッスンは、標準化されたものでも、共通のものでもありません。そうみえて、深いレベルでは、そのトレーナーなりに捉えた持論の実践です。組み合わせることで効果を大きくしてリスクを回避しています。

 ここでは、声楽家だけでも、長くたくさんレッスンをしてきた人を中心に、これまで30名以上に協力をしてもらってきました。日本の声楽の現在についても、どの声楽家やトレーナーよりも共通や異質の要素を抽出して標準化できます。しかもここでは、オペラ歌手が音大生に教えるのでなく、門外漢に教えるのですから、相手に応じた組み換える力が必要となります。それができなくては長くは続きません。

生徒のタイプ、学び方、進度についても、多くの人を長くみていくと、トレーナーとの組み合わせも含め、いくつかのパターンが出てきます。他のジャンルのトレーナーや海外のトレーナーも加えると、さらにこれが明瞭になります。

 

○研究所史(9)

 

 外国人の方が日本の継承にこだわらない分、比較しつつ学んで、総合的に早くよくわかるというのと同じです。結果として大局から入るので効率的なのです。一つの流派だけで何十年もやっている人は、他の流派のことを全く知らないということもあります。そこに合った人だけが来て残るので、同じタイプにしか通じない教え方ばかり深まっていくこともあります。知らずに同じ価値観に偏っていくのです。

トレーナーが独自のやり方をもつのでなく、そこへ来て長くいる生徒の望むやり方に偏っていくのです。トレーナー本人もそれに気づかず、万能と思ってしまう愚を避けられます。

このあたりはフィールドワークのようなものなのです。

日本において、洋楽しか学ばない音大生の方が、邦楽や日本の芸能について、一般の人よりも無知というのも似たような愚です。

 

○研究所史(10)

 

 日本は、一端、形、型ができると、それを深めるのに純化していく傾向が強く、そうして強国には築かれた縦社会ゆえ大きな障壁となっています。縦割り行政ということばでよく使われていますが、障害となるのは行政だけではありません。大横綱ゆえに代表理事をやる、料理長が経営をやる、選手として実績のある人が監督やゼネラルマネジャーをやる。それは、本当は、違う才能とキャリアが必要だとは考えないのです。そこで、おかしなことが起こるのです。一流のアーティストとしての才能は、ビジネスやマネジメントの才能とは別、ということもわかっていないのです。

 それゆえ、日本は、アーティストが一流の作品をつくることに専念しにくい環境といえなくありません。根本的には、大きな革新ができず、古いものを残していく、そのわりに新しいものが好きで、どんどん惜しげもなく前の世代のものを跡形なく壊して、リニューアルしてしまうのが日本人のように、私は思うのです。

 私などは、ずっとたくさんのすぐれたトレーナーを使ってきて、ずっとたくさんの古今東西のすぐれたメニュの革新をしています。研究所で声の研究をしているのに、そういう面での評価は受けられません。研究では、自分がすぐれた研究をするとともに、自分よりすぐれた人を集めて、よりすぐれていくようにしていくことがもっと重要だと思い続けているのです。

 

〇未成熟のままに

 

 日本人は、完成されたものより、未成熟からのプロセスに惹きつけられるように思います。弱者としての生存術が、日本の歌謡において、第二次大戦後は、頑なに続いています。流行歌まで禁じられていたという状態からの反動やアメリカ文化に対する憧れもあったと思われます。

 アメリカによる徹底した破壊から一転して、予想外の解放と自由が与えられたのです。これが中国やソ連の統治下であったなら、日本の戦後は全く異なっていたでしょう。もう少し自立して、父権的、武士的なもの、和魂が残ったのでは、と思います。日本に侵略されたと訴えを大にしている2つの隣国と同じく、多くの日本人もまた、戦争の前の日本人、軍隊(上官)や軍国主義が嫌いだったと思うのです。

 今、滅びていこうとしている芸は、そういった体質から抜けきれないものです。スポーツでも、相撲、柔道、水泳、プロレス、格闘技…、創始者が奔放に創造してきたことを継承しているうちに、模範の型やルールに定まっていきます。その分、保守化してエネルギーが奪われてしまいます。すると、それを超えるものが取って代わっていく。それが人類の歩みでもあったわけです。

 とはいえ、何であれ、世界で、民主主義国家をもっとも完全に近い形で実現しているのはまぎれもなく日本で、そこを否定しているわけではありません。そのやさしさが、表現のパワーにならず、無関心、「表だって行動せず」のようになっていますが、誰が責められましょうか。昭和天皇は「自分が正しいと思う人が一歩下がれば争いは起きない」と言い残されました。

 

○パワーなし

 

 型を通じて型の上に出ていくのが達人、そういう達人の出たあと、型にはまって出られなくなると、型は、かつての天才を思い出させる装置として使われるようになっていきます。

「美空ひばりトリビュートアルバム」、トリビュートを出すことはよいことです。美空ひばりを知らない人に何を与えられるか、その曲、詞はどこまで通じるのか、それをみることができます。ベテランの演歌歌手でも、ひばりの型にはまる(ものまねになり、足をすくわれる)か、そこを切り離し自分の歌にするかです。型を最大に活かして自分と今の世界を表現できている人、いや、試みようとしている人さえほとんどいないようです。

 デビュー時の才能や資質が、プロになったあとに消費されているだけで、さらに高めて最大限に発揮されるようにプロデュースもされてこなかったのです。日本人のお客さんに純粋に対応していった結果、日本の歌い手はプリミティブなパワーを失っていったともいえます。世界で通じる歌唱力で、一流のアーティストにも認められた美空ひばりが、世界に知られていない、ヒットもしなかったのは、時代のせいばかりとは言えないと思うのです。これは「王や長嶋が大リーグに入っていたら」などと似たような愚問かもしれません。

 日本の芸は、聴き込めば入ってくるもので、パワーで押して持ち上げてくるものではないのでしょう。歌詞が中心で、メロディののりに母音のビブラートです。生活のなかで培われた強い言語のリズムそのままに、パワーで盛り上がっていく欧米やアフリカとは違います。アジアなども含めても違うように思います。

 日本人は、和、共感、謙虚さを尊びます。それは、戦いや競争の次にくる世界を創れるのでしょうか。創っていくのに一歩引いていく、そういうことでしょうか。

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