「トレーニングにおける効果について」
私は、考えるとあたりまえなことを、なぜ多くの人は考えずに人に聞くのか、人に聞いて、それを鵜呑みにできるのかを不思議に思うことがあります。
私もいろいろ聞かれる立場なので「私はこう思う」と言うこともあります。研究所でトレーナーが断定しないとしたら、私を習って身につけた美徳かもしれません。
それは「私にとっては今のところ、こう考えられるよ。けれど…」ということです。「あなたにとっても」そうであり、しかも「あなたの将来において」そうである保証はないのです。「今のところ」ですから「明日の私」は別のことを言うかもしれません。「私」と「今」で限定された答えは「あなた」と「明日」に当てはまるとは限りません。
トレーナーに関わらず、教える人は「こうしたら、あなたはこうなる」と断定するかのように話すわけです。それがほぼ、これまで正しかったとしても、あなたがそうなるとは限りません。大体は、それが正しかったと思ってしまう人だけが、トレーナーの周りに残るので、そこに合わせて、トレーナーの考え方や方法もますます偏っていくものです。そういったものが、これからもあらゆる人に正しい保証はありません。偏っているからこそ、その偏りに合わせたい人だけが来るのでうまくいくということです。
○二つのレッスンタイプ
私は、トレーナーの偏りに注意して一般的なところへ戻して(初心にかえらせる)いくのと、その偏りを進めて独自の強い分野を持たせるのを併行して判断しています。
A.一般的、平均的、普遍的、誰にでも当てはまるレッスン。
B.特殊、偏向した独自の相手や時期を選ぶレッスン。
と2つあることで、その間にさまざまな可能性のあるメニュも生まれやすくなります。しかも2人のトレーナーによる組み合わせで4パターン、3人で8パターンとなります。複数のトレーナーで併行させてレッスンさせると、まさに相乗効果となるのです。
達人の経験とか、研究者の科学とかが入ったところで、その確からしさは、“相対的”に上がるだけです。まして、例外的な一人、それがあなたならあなたにとってはすべてが別です。当てはまらないとしたら100パーセントはずれるわけです。しかし、そこにこそ大変革のチャンスがあるのです。人間や人生というのは、すごくておもしろいのです。
○当てはまらない人
天才的な人、オリジナリティあふれる人、これをプラスの極とし、人並み離れてうまくいかない人、鈍い人、これをマイナスの極とします。この両極の人には、メニュは、ほぼ当てはまらないのです。これを一本の線上に並べてプラスマイナスの極とみるよりは、平均的な人を真ん中に、円の周辺の人になるほど平均的なことは当てはまらないとみるとよいと思うのです。多くの人はどことなく当てはまり、どことなく当てはまらないのですが、それをよしとみるか、違うとみるかだけです。
私のところのトレーナーは、ほぼ皆、声楽専攻で音大にいました。そこでの標準化されたやり方やそれによる一般的な習得プロセスは、理解しています。十代後半で普通の喉をもつ、優秀なのかどうかはともかく、ひどい損傷のない人への確実な上達方法は知っています。
しかし、一般社会へ出たら、年齢も育ち方も全く違う人たちがいます。同じ日本人とはいえ、千差万別です。「そのなかのルール」に当てはまらない人は、相当数いるのです。少なくとも、音大では、ドの音を出してドを出せない人をみてきていないのです。そういうトレーナーたちに、いきなり異分野のプロを任せてみます。するとショックを受けて、その分厳しく育ちます。
よいトレーナーは、自らが育つトレーナーです。育つようにします。すると、その生徒さんもそうなるのです。
○分析の限界
私は、声のレッスンを科学的にも分析してきました。実験科学のようなものです。いくら何をやったから(方法)、こういう効果(結果)が出たといっても因果関係は証明できません。
学会などでは「十数名に実験したところ、この方法を用いると半分以上の人がよくなった」というような発表を聞くことがあります。それは、その方法を用いなかった人と用いた人を比べるだけで、決して全員がよくなったということではないのです。また、それ以外の方法では、よくならなかったという比較もありません。つまり、どんな方法でもよくなったかもしれないのです。それよりも、サンプルがわずかに十数名で発表できるというのは悲しい。その母集団がどのくらいに一般化できるのか、(つまり属性、年齢や経歴…)という点だけでも疑問だらけです。これでは、単に「相対関係がありそうだ」「そういう傾向なのだ」ということにすぎません。データでなくてもわかっていることで、分析作業よりも、もっと前提とすべき大きな条件を問わなくてはいけないと、いつも思うのです。
たとえば、「風邪で薬を飲んだら熱が下がりました」というのは因果関係でなく、相関関係としてのデータが当てはまっただけです。薬を飲んでなくても熱はいずれ下がります。そのために治験といって偽薬とその薬とを何人もの人に試し、効果を調べます。100人のうち、偽薬で30人、本物で60人に効果があったら、この薬は2倍も効くので有効とされます。一人の同じ症状のときに2通りの薬で試すことはできません。
ヴォイトレの効果では、もっと複雑な条件下で起こっています。それを参考にでなく、そのまま信じてしまう人の方が問題です。結果は自らのその後の歩みで出るからよいでしょう。何もしなくても10歩は歩けたはずなのに、早く3歩歩けたと大喜びする人が多いのです。トレーニングの残りの7歩や97歩がみえなくなってしまうのです。それをはっきりと示すのが、トレーナーの使命に思うのです。それは、数多くの人を長くみていくことと将来の予測を広くできなくてはいけません。そこへ挑んでいないとしたら残念なことに思います。ヴォイトレの結果に、「絶対」「100パーセント」「誰でも」は、ハイレベルになるほどないとしても、です。
○偏りをつくる
偏りのない人はいません。そういう人がいたとしたら、その表現はすべての人に無力に思うのです。私のところはあらゆるタイプの人、他のスクールやトレーナーでは通じないような人も多く来ます。そこで、トレーナーやレッスンについて偏りをなくすよう努めるのでなく、受け入れられるように、違うタイプのトレーナーで、できるだけすべての偏りにセットしてきたのです。
私は、薬もヴォイトレも使えないと言っているのではないのです。トレーナーもレッスンを受講する人もこれくらいは知っておくべきだと思うのです。レッスンの受講生は、こんなことを知らない方が、早くそれなりの効果が出るのです。ずっとただのレッスン受講生だけでいたいなら、です。今は、情報に振り回されている人が多くなったから、振り切ってあげるために述べています。中途半端な情報で効果を減じている弊害の方が多いのです。それなら深く知った方がよいと思うのです。
どのトレーナーがよいとか悪いとかいうなら、好みでなく実力の判断というならば、このくらい知って、うまく使ってくださいということです。
○思い込み
偽薬が効いた人は、飲まなくてもよかったのでなく、偽薬を薬と思って飲んだから効いたのです。大切なのは、薬の真偽以上に本人の心での真偽、つまり、意志や信心であるということです。治そうとする意志や治るという確信が影響するのです。
となると科学でなく心理学です。科学的というなら、せいぜい統計として扱うくらいです。ヴォイトレも同じです。薬を飲むと、よく効く人も、あまり効かない人もいます。体質も症状の程度もその効果も個々に違い、真実はありません。そこに因果関係があるというのは思い込みです。そうであって欲しいという心理の成せる業にすぎません。それが高じると信仰になります(もちろん、ステロイドなど対処療法に確かな効果を出すものはあります)。
こういうことは、マジックの錯覚でよく利用されています。自分に外にあるものを、どこまで客観視できるのかの実験では、同じ長さの2本の線なのに長短にみえたり、ピンクなのに緑にみえたりする。脳にそれに反応するニューロンがあれば、私たちはそういうふうにみるのです。聞くのも嗅ぐのも、すべてそうなのです。
真実を知りたくても、五感で捉えているのは、事実でなく、感覚の世界、脳の認知する中でのことにすぎません。真の存在でなく、存在を感知した脳の回路の活動です。となると、状況によって、かなり大きくぶれるものです。しかし、その心理や信仰を利用しての芸や作品でもあるわけです。効いていないのに効いているようにみえたりするなかで成り立つのです。
○信仰心
きれいな人がきれいに盛り付けた料理は、そうでないものと同じ味であっても、うまいわけです。私たちの仕事も内容だけでなく、表現や演出を考えていかざるをえません。声自体は、基準が曖昧でないのに、舞台で使う声となると二重三重にも基準も揺らぐわけです。その結果、声そのものを重視していないヴォイトレばかりになりつつあると危惧しています。
たとえば、
1次元に元の声、
2次元にせりふや歌としての声、
3次元に音響使用の音声表現、
4次元に客に聞こえる音声表現
と、少なくとも4つの異なる判断の軸が、私にはあります。
判断における客観性については難しいことです。ジェットコースター、お化け屋敷でのデートや吊り橋の上で告ると成功するというセオリー(吊り橋効果)のようなものも入ってくるわけですね。「ロミオとジュリエット効果」というのもあります。
声、ことばでは、「ブーバ・キキ実験」、これはヒトデのような形で一方は丸味を帯び、もう一方は尖っていると、名前から丸い方をブーバと考えてしまう人が多いというものです。これは直感と言われていますが、語感ですね。
思い込みの排除を進めているのではありません。それを超えて信じ切れるところまで踏み込めということです。a.ずっと思い込みだけ b.思い込みから信じ込みへ c.すぐ信じて、その後裏切られたと思う d.すぐに信じて、ずっと信じ込む e.不信から 信心へ このなかで多いのはa、d、勉強するとbかeかです。cは最悪の学び方です。
○歌の凋落
「聞ける歌がなくなりました」と言われて何年にもなります。どの時代でも年をとると、若い人の新しい感性についていけなくなるから当然です。とはいえ、20世紀の歌と、その歌手のもつ力、歌の影響力を比べたら、今や風前の灯ともいえます。その理由について、私は相手に応じていろいろと答えてきました。いくつかあげてみると、
~カラオケが普及し、一般の人が歌う時代ですから
~ラジオやレコードの時代ほど耳が肥えていませんから
~あらゆる曲のパターンが出尽くしてしまいましたから
~小さい頃から歌に親しんでいませんから
~皆で歌える歌がなくなりましたから
~もっとおもしろくて楽しいことがたくさんありますから
~いい曲や歌い手が少なくなりましたから
それぞれについて、異論もあることでしょう。残念なことに、定番だった「蛍の光」「仰げば尊し」「君が代」も習わなくなりました。皆が口ずさめる曲は、どのくらいあるのでしょう。「あの素晴らしい愛をもう一度」「翼をください」あたりまで遡るのでしょうか。
流行するもの廃れるものは、時代と市場の動向によります。よりすぐれたものにすぐれた才能が結集したときに生まれます。そこは時代の産物も、市場はいつでも新たにつくれると思うのです。
○アーティストの凋落
「客がどうこうだから廃れた」というようなことは、アーティストや創り手側は口にしてはいけないことです。アーティストというものを人が欲しなくなったら、どうなるのでしょうか。そんな日がくるのでしょうか、と言っている人は平和呆けです。スターも絶滅危険種なのです。私は、そういうところまで押しつめたところで関心をもつのです。
ステージと客席、創り手と受け手が分離しないのが特徴になってきます。生産者と消費者でいうなら、消費者は、自ら欲するものを自ら作るようになったのです。
歌については、日本に洋楽は入ってこなくなった、海外でも世界的なヒットを連発するようなものでなくなりました。20世紀の盛り上がりが特殊であったとなりそうです。ポップスで大ヒットした作品のいくつかが、オペラのように継承されていくのでしょうか。事実、すでにカバーブームです。
世界中で歌や音楽は生活に根付いているのに、日本では、カラオケを除いては、心もとない現状です。歌手という職業も消えようとしているようです。半分は団塊の世代のノスタルジーによって支えられているのでしょう。
アメリカのポップスの世界戦略にハリウッド映画と同じく巻き込まれてきた日本では、世界の大半の国と同じですが、グローバル化の問題に触れないわけにいきません。民族主義とキャピタリズムの行く末は、ということです。
政治的、社会的影響としては、マイケル・ジャクソンとマドンナをピークに過ぎたといえます。
日本では、私は、その境界を紅白歌合戦の前の、レコード大賞が、ピンクレディ(「UFO」)光Genji(「パラダイス銀河」)だった年を中心に、1978~1988年の10年と思っています。しかし、本当のピークは世界も日本も1968年だったのではないでしょうか。日本では演歌から歌謡曲、そして欧米ポップスの全盛期ということです。そのようなことも、何十年か経てわかってくるわけです。テレビの時代―それも終わろうとしていますが、テレビというメディアのメイン番組でみると、その時代を支配していたものの移り変わりがわかります。スポーツも似ています。
○タレント化と共感
私たちの時代に、歌い手は、生涯、歌い手のはずが、大いに転身しました。プロデューサー、作詞家、作曲家、プレイヤー、DJ、タレントなど、音楽を生業としていくなかでも、自らの才能をより活かすために、食べていくために転身しました。
歌手は、歌でしか食べてはいけないわけではありません。強いパーソナリティが問われるもの、ポップスでは、役者やタレント業とも重なるところが大きいのです。異分野との兼任も違和感はありません。日本では、美空ひばりはじめ、有名な歌手は、映画スター、その後、舞台興行に転じ立ち回りを演じていたのです。
シンガーソングライターが一般的になってからは、自作自演の能力を、楽曲提供、プロデュースへと振り分けていくのも、しぜんな流れでしょう。表現分野が、演劇、映画へ広がっていくのも延長路線でしょう。今のお笑い芸人と同じです。いや、お笑い芸人が取って代わったのです。詩人、作家→役者、歌手→お笑い芸人が、日本近代表現者史です。
その後は、興行として単独ステージよりコラボなステージが親しまれるようになりました。スター不在、高いところからすごいことを一方的に与えるのでなく、共感というキーワードで観客席で一体となるようになります。AKB48に象徴される「普通の子」のステージで、ソロのスターを目指すのではありません。振付やダンスパフォーマンスで観客のノリに溶け込み、一体感に満たされる、その形は、ピンクレディ、古くはグループサウンズやザ・ピーナッツなどにもみられましたが、観客はオーディエンスでなく主役なのです。「表現から共感へ」という日本らしい変化です。
○トレーナーという職
今の日本では、フィジカルトレーナーがよく取り上げられています。高齢化社会で健康に関心が高くなったことと、中高年に加えて若い人に心身の問題が大きくなったこともあります。
私は、トレーナーとして、先も予期せぬまま踏み出したので信じられないことですが、最初からトレーナーになりたいという人が出てきたのが2000年くらいからでしょうか。研究所にくると、私をみて、その方向にひきずられる、現実、歌手としては食べられなくても、トレーナーとしてなら食べられるという発想になったのでしょうか。(そういう考えは、ゴルフ界でのプロゴルファーとレッスンプロに似ています)
○中心としての声
ポップスを私の立場から捉えますと、感情を表す声が、構音変化で加工された発音を経て、ことばとして意味をもちました。声が共鳴の利用によって歌になった、この二つが合わさったところから歌となり、その延長上でマイク、音響という拡大、発達した加工装置の使用があります。
その原点に体と心があるわけです。呼気を通じて体内でつくった音を変じさせたのが声です。舞踏が体の動きの延長上に様式化されたのと同じく、歌は、声の動きの延線上に様式化されたものです。ことばでなく、声の響きの延長なのです。
元々、私の目指す発声ヴォイトレは、歌でもせりふでもなく、声一つの完成度だったのです。その結果として、私が今使っている声があるのですが…。それが要望により、ロック、ポップス、カラオケ、声優、ビジネスマン、語学習得者、一般の人を対象に膨らんでいったのです。対象が広がったために、研究所として役割分担をする一方で、原点に戻ると決めたのでした。
○トレーナーの責任
「声と表現とは別」表現のために声を学ぶ人は、表現のための声が優先されるので、そちらからもみるようになりました。プロデューサーは、そこをみるばかりです。ロック、カラオケ、ハモネプ、コーラス、役者のせりふ、アナウンサー、朗読、声優の音色(使い分け)果ては、腹話術やホーミーまで、どれも声と関係があるので、世界中、巡って学びました。
トレーナーは、それぞれの分野のプロとは違うのです。歌のうまいトレーナー、役者並みにせりふを言えるトレーナーもいます。その人の出身がそこであれば当然です。ここのトレーナーでも、声楽家ならオペラを歌えます。普通の人よりも、その分野をやってきたからです。そして、それは他の分野では、そこのプロには及ばないということです。
ヴォイトレのトレーナーは、トレーニングを教えても、プロの歌い手のようにヒットさせることはできません。プロの俳優、声優、アナウンサーの代役も難しいでしょう。ソロとしてヒットさせた後にトレーナーになった人はいますが。ここに声を習いにいらっしゃる落語家、伝統芸能家の芸などは、まねることも難しいです。
ゴルフのレッスンプロと同じく一流のゴルファーだった人が必ずしも教えているのではありません。教えることのプロが教えているのです。大多数は、そうでなくても自分よりもやっていない、できない人に教えている、そこで成り立っているのです。
表現活動で食べていけないと、手段としてトレーナーや教職を選ぶのです。これを否定したら日本の声楽界は成りたたないでしょう。
教えることで学べることも大いにありますから、教えることを兼ねるのは悪いことではありません。芸を継承させ、将来を後世に託していく使命もあるのです。
しかし、その結果が凋落ではいただけません。古来より、廃れていった分野は数多くあります。まずは隆盛していたわけです。一人の天才が創始、継承して、一時はそのジャンルを超える幅広い活動、大きな影響力を世に与えていたのです。そのために、それに憧れ、それをやりたい人が集いました。客が客を呼び、増えていったのです。そこからが問題です。
これが、ポップスなど海外からのインポートものになると、憧れで、本人も客も本当の意味で舞台が成立しえないうちに流行してしまうから、事情は複雑です。
保護、援助しなくては存在できないものをどう評価するのか。建築物などでなく、人間の活動です。予算なら保護に回すのか、新しいものの台頭への助力へ回すのかとなります。それを誰が決めるのか。お上か庶民か(この件は、文楽と橋下大阪市長の補助金騒動でのやり取りがわかりやすいので譲ります)。
トレーナーの位置づけ、これが単に自分よりもできない人の引き上げでなく、自分よりできる人にすることと思います。そこから一般化していくならよいと思うのです。そうでないケースでは、評価は自己満足でメンタルトレーナーになっているケースが多いのです。
○身体からの声、歌からの声
表現とは別に、声単体の評価が成立するのか、それが私のライフワークとしての課題でした。声が本当に表現に化したときに声は消えます。話し終わって「声がよい」と言われるよりも、「何か温かい気持ちになりました」と言われる方を嬉しく思います。声そのものとその使い方となったときに、そこには発声と歌唱のように距離があるのです。
声楽は伸ばした声の高さ、大きさ、長さ、音質が、その人の体からみてベストとしてみやすい例です。条件は、オペラ歌手としてのプロとしての感覚、体、技術で鍛えられ、明らかに一般の人と変わっています。一流のレベルにおいてのことですが、イタリア人ならオペラのような声で話す一般の人もいるのです。そのプロセスなのか方向違いなのか、異様にふしぜんな日本人の声楽は別とします。
一流の舞台での表現と素人としての日常での表現力は、一見離れているようでも、しぜんにみえることでは一致しています。中途半端な歌やせりふは、つくられたもので、そういう人もいなければ役もないのです。
ポピュラーの歌声については、体からの声との乖離度がますます広がりました。その代表がカラオケの歌です。エコー(リヴァ―ブ)が包み込んで曖昧にし、聞き苦しさをなくしてしまったのです。カラオケの普及には私も一役買ったことがありました。一人でステージで表現するのに不慣れな日本人に経験を積ませることです。これはカラオケBOX出現で消えました。今や、マシーンの採点への挑戦でゲームになりました。キイやテンポを変えて、歌を自分に合わせベストにできるというカラオケ最大のメリットもなくなりつつあるのです。日本人は、残念な意味で、すごいと言わざるをえません。視覚や味覚にすぐれているのに、ここまで聴覚をないがしろにしてよいのかと心配です。
ついでに言うのなら、その他の分野、役者でも、国際的に通じるのは、50代以上の一部の声にしか残っていないといえます。地力としての声についてです。
○処理と創造
声を身体からみるか、歌からみるかで私は2つの立場をもっています。その都度、変じたり、その割合をミックスして評価、判断、アドバイスをしています。
A.器を大きくする(ゼロから1へ)
B.優先順を決める(2、3、4番を1番のものに)
Aは破格やインパクト、パワーで、Bはバランスや使い方で、収め方、残し方です。
Aは押す波、Bは引く波です。
この掛け合いで歌もせりふも表現も成り立ちます。ところがAがなくなった、元よりそこが強くなかったのが日本人の音声の特徴です。
半オクターブで、まともに声を出せない人が1オクターブ半を歌おうとすると、これが露わになります。声を1オクターブ出せる話すポジションがないと歌えるはずがないのに、歌声という特殊なレシピをつくり、マイクやリヴァーブでカバーしたのです。
クラシック歌手からみたら、最近のポップス歌手はそうみえるでしょう。そのカバ―能力が、ポップス歌手のプロとしての処理の能力です。マイクがあるので、特にことばを丁寧にしっかりと歌えます。そしてポップス歌手の、カバー能力のなかでのもう一方の重要な創造の能力、インパクトやパワーに欠けるのです。それがあれば世界の一流の歌手の条件となります。日本も、歌謡曲のポップス歌手には、声そのものの質感のよさとインパクトをもっていた人がいたのです。
破格とは、声においてのオリジナリティの素です。クラシック歌手はいまだに向うへ近づけない(追い越せまでいかない)で、後退しているのです。日本のなかでクラシックもポップスも対立せず、ヴォイトレも共有できているのは、実のところ、裏で同じ問題を宿しているからです。そして、ヴォイトレは、歌においては守り、喉を壊さないためのもので不毛なのです。
○メニュが合っているのか
他の人のメニュ、レッスン、指導と、ご自身の行っているやり方を比べて、そのよしあしを尋ねられます。他の人のメニュを、それをつくった人が望んでいるほどのレベルに使えるのは、誰が使うにも、つくった人と同じくらいに手間暇がかかるものと思います。たまに、使うやいなや、つくった人を超えてしまう天才のような人がいなくもありませんが。
メニュが自分に合っているかどうかを人はとても気にします。しかし、実のところ、合っていなくても大した違いはありません。
自分に合ったトレーナーをみつけるというのも同じです。結局は、自分に似た人を選んでしまうのです。すでにトップレベルの人は、それでもよいのですが、残りの人には、大した効果は望めません(研究所では、最初は私やスタッフが選んでいるのは、そのためです)。
合うというのは、最初からやりやすいということです。自分で合いやすいように選んで使ってしまったメニュですからあたりまえです。その使い方によって新たに革新が起きることはないのです。ラジオ体操のように、毎日の状態をうまく保つのによいだけです。実力の向上には結び付きにくいのです。実力のつくプロセスを養い、大きな結果をとりにいくのが、真に必要なメニュです。
○プロへのステップ
チベットにティンシャという直径7センチくらいの2つの皿のようなものをぶつけ、澄んだ音を出す鐘があります。その鐘を鳴らしてみてください。5回鳴らしたうちのもっともよいのを選んでください。それはあなたにもわかるし周りの人もわかるでしょう。その1回の音色を5回続けて出せますか。できるまでに何日かかかるでしょう。次に同じようにできたら、また、その5回のなかでもっともよいのを選べますか。こうしているうちに、少しずつ聞く耳と技量がステップアップしていくでしょう。いずれ、10回、20回と全く同じに出せるようになるはずです。50回、100回できるようになったとしたら、それが基礎力のようなものです。
トレーナーとして、本人が声を100回そろえていく力をみるなかで判断します。100を覚えて、分類し、違いをトレーナーは言語化して説明、あるいは、似させて実演します。
ほとんどの人は、どこかの段階で違いがわからなくなるか、できなくなります。そして、何らかの手を打たなくてはならなくなります。そこに使うのが方法やメニュです。それをもっともよいタイミングで、もっとも適切なものとして与えるのが本当のトレーナーの仕事です。つまり、声でなく、声を引き出す手段を与えるのは、耳の仕事です。
たとえば、卓球台の両端に置いたピンポン玉を石川佳純選手は2回のスマッシュで2つとも落とします。土門拳氏はライカというカメラを買って、毎日1000回シャッターだけ切る練習をしたといいます。あらゆる仕事の本当の基礎力は、シンプルで明確です。
判断は、最初だから難しいのではありません。初心者が木刀を振るようなもので、10のうちのもっともよい1は誰もがわかる。それは、振るのが初心者レベルだからです。ほとんど自分のもつイメージよりも乱れているからです。判断の力が実力より上にあるのです。
しかし、上達すると周りはわからなくなり、本人のみが、わかるようになります。そのためのトレーニングをくり返ししていくからです。その逆ではだめです。本人のわからないものもわかる。それが、プロのトレーナーなのです。
これに関連して、歌を100回うち1回しか歌わないがアマチュア、100回聞いて1回歌うのがプロということです。これは復習方法の革新です。
○歌
ですから、声と歌の行き来をしつつ、声の評価と歌の評価を噛み合わせていくのです。プロデューサーやバンドは、声や体よりは歌、あるいは音楽で判断します。その人の声のベストよりも作品としてのベストです。その人の声のベストで見てから作品に歩みよっていけるプロデューサーは、稀有ですが、います。トレーナーは、その手段としてのメニュ(方法論)をもつということです。
ピアノの一音の完成度は楽器、調律、弾き方(発する音)です。演奏はメロディ、リズムという流れの中でのバランスです。1音をきちんと弾くよりも優先されることがあります。ミスタッチしようものなら大失敗でしょう。
同じ音でも、単にそのタイミングで音が出ればよいというのではないのです。弾き方での評価はあります。完璧な演奏、間違えない演奏に対して、基本が問われるのです。
正確さは、間違えなければよいのでありません。丁寧さも雑でなければよいのではないのです。演奏の基礎技術は、音が一体化するために最低、必要な条件です。
それを声で、となると、なぜこんなに何でも許されるのかが不思議です。日本では雑なものです。1番と2番で、ことばの違いはあっても、声のコントロールが全く違ってしまう、そこに本人さえ気づいていないことがよくあります。だから世界に通じないということです。
その人の声であり、ことばであるから、歌の説得力が出てくるのです。そこに甘えて、音楽の演奏ということがおろそかになるのです。音としての作品でなく、パフォーマンスやその人柄、情熱、努力などでみて、わからなくなるものです。
日本では、プロでなくても誰でもできてしまうためにプロたるものがわかりにくいのです。そこでギャップと上達のステップが、プロに近づくほどわからなくなっていくのです。
日本での歌のプロは、うまい、正確ということの応用力を問われています。アーティストとしての評価は、全く別になるのに、です。これをガラパゴスとみるか、低レベルとみるかは人によります。結局は、日本で日本人相手にやるのだから、それでいいとなるのです。
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