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「鍛えるということ」

○鍛える=柔軟に働く

 

 私は、自分のブレスヴォイストレーニングを、声を鍛えるトレーニングと、はっきりと位置付けています。筋トレも筋肉を鍛えたらよいというのでなく、目的(競技)に合わせて、応用度が高く柔軟に働くような筋肉にしていくのですから、声も同じです。ボディビルダーのように、外側だけ美しくみえるようにだけ鍛えても何ともならないのは、アスリートも歌手も同じです。となると、歌手のため、役者のため、一般の人のための筋トレというのもあってもよいと思います。この筋肉を、声の原音を発する声帯筋だけと捉えると、大きな誤解が生じます。発声や呼吸に関わるものと考えてください。

 英語には、発音のための表情筋や他の筋トレなどあるようです。呼吸筋も大いに関係するでしょう。発声についても同じことが言えます。

 

○負荷=器づくり

 

 ヴォイトレを特別なものと思うがあまり、あたりまえのことがわからなくなっている人が少なくありません。毎日、正味30分話している人が、ヴォイトレで15分声を出しても声は鍛えられません。発声法をよくするからといっても、30分間、声を出せない人ならわかりやすいのですが、30分間出せる人が30分間のレッスンをしているだけでは、2時間、目一杯に使えるところに至るのは難しいのは言うまでもありません。

 そのギャップを埋めるには、出し方、やり方(口内を広げる、共鳴を集めるなどの方法)だけでは限度があります。

下半身が安定していないから、投げられない、打てない野球選手は、走り込むことで体を変える=鍛えるしかないのです。そのギャップを埋めるのは、負荷をかけることになります。その結果、器が大きくなってレベルアップするのです。この負荷を、喉を締めるとか、喉に力を入れる、喉を鳴らすと捉えると、これも大きな誤解となります。

 

〇絶対量の必要性

 

 何事であれ、初期のレベルでは絶対量に時間をかける方が効果的なことが多いものです。

 筋力のない女性にプロのピッチャーコーチが投球フォームとコントロールを教えても、キャッチャーミートに届かない、あるいは10球で力尽きてしまうとしたら、どうでしょう。それ以上、いくら球種や投げ方を教えても、試合に出ることはできないでしょう。そこには、体=筋力のなさという、絶対的に使って鍛えてきた量(=時間)が不足しているのです。

 2時間、目一杯声を使いたいなら、2時間以上、声を使う経験が、必要と考えるのはあたりまえです。毎日、5~6時間、あまりよくない方法でやっていても…。楽なレッスンだけしかしていないことで、キャリアを積んできた他の人に勝ることは稀でしょう。

 

〇刺激する

 

 声は声帯で息を音に変換するのだから、体の大きな筋肉の増強のプロセスとは異なります。舞台での肉体芸術ということでは、そこを支える心身に求められる条件は、アスリートたちに近いのです。ですからトレーニングにおいて、いつも与えられている刺激量よりも小さいというのでは、変化は期待できません。

 「軽く弱く出す」ような発声のレッスンを否定しているわけではありません。それは、「重く強く出す」のよりもずっと難しいのです。誰でも軽く弱くは出せます。誰でも弱い球なら投げられます。しかし、軽く弱く、絶妙のコントロールなどというのは、重く強くを支えることのできる体から感覚を丁寧にしていかなくては、身につきません。通じるものにはならないのです。通じるものにするには、器を大きくする、支えをもっと大きくしなくてはいけないのです。

 

○トレーナーの死角

 

 トレーナーは、テクニックとして、軽く弱く声をコントロールしてきたことの方向から人に教えます。しかし、自分がそこまでに身につけていた基礎力を忘れている、気づいていない、無視している、もしくは、無駄だったと思って捨ててしまっていることが多々あります。無駄と思ってしまった方法では、長い時間のもつ効用を把握できていないのです。

 器を大きくせず、根っこを深くはらずに、表向きを調整して、出しやすくすると、発声は早く直ります。しかし、それでは、12割よくなって、そのままです。短期にみるとよいことでしょう。初心者は、そこでうまくいった、できた、身についたと思ってしまいがちなのです。しかし、それではその先にはいけません。そこから先は伸びません。

 まして、重く深くすることで、鈍く固めてきたような人は、トレーナーにつくとマジックのように声が変わるものです。苦節何年と苦労した人ほど、「新しく画期的な正しいやり方を教えてもらった」とか、「苦労の末、ようやく自ら気づいた」「発見した」「マスターした」と、得心してしまうのです。そして、自分の過去を全面否定してしまうのです。これは困ったことです。

 

〇マスケラ、ベルカントのマスター

 

 マスケラ、ベルカントをマスターしたという人の中でも、日本で合っているといわれている人ほど大した声にもなっていないように思います。技術としてマスターした声が、それ以前のものより表現力に乏しくなっている人も、たくさんいます。単に「楽に高い声を出せた」だけで判断すると、そういうことになるのです。そこが、ヴォイトレ、発声法、共鳴、マスケラ、ベルカントなど技術の習得を根ざす人が、マニアックに陥る罠です。ここは、本当は判断力での問題です。

 

〇充実感

 

 トレーニングで、もし自分を根底から変えるようなものがあるなら、それは、軽、弱、楽でなく、重、強、苦です。そこで練り込んだことを忘れた頃にできているものへのアプローチは、それだけ厳しく辛いものなのです。

 辛いからといって、そのことがトレーニングと思うような人をみると、そうではないとも言いたくなるのもわかります。辛いための辛いは、楽なための楽よりもよくないとも思います。長くなればなおさらです。

自分を高める、向上していくための苦しさ辛さというのは、同時に充実した喜びでもあるのです。そこには、自分を超えることに対しての大きな救い、歓びがあるのです。

 

○絶対量としてのトレーニング

 

 私がマシントレーニングを好きでないのは、スクワットを100回行うくらいは、階段で100段以上登っていることで行っているからです。それ以上、時間があるなら、山にでもいけばよいでしょう。それに対し、時間や場がないから効率的に行うのが、マシントレーニング、ジムなのです。

 若いときに私が間違っていたのは、急にたくさんのことを行いすぎたことです。少しずつ、ハードにしていくべきでした。人の10倍やって、12倍くらいの効果だったのかもしれません。しかし、それは若いために可能だった時間やエネルギーの使い方でした。絶対量としての量、かけた時間でした。

 トレーニングというのですから、少ない時間で、より大きな効果を求めて、メニュや方法をつくっていくのです。しかし、私は、声に関しても、基礎か表現か問わず、最低限の絶対量なくしては通じないと思います。芸事は声がすべてではないので、ややこしくなっているだけです。こんなことから論じなくてはいけないことになるとは、という思いですが…。

 

〇マッスルメモリー

 

 長期の絶対量からは、効率的ではなくても、フィジカルやメンタル面で、得たものが多々あったと思っています。自信も、人より時間や情熱をかけたということにしか根拠はおけません。継続していくことの大切さを身に入れました。その上でようやく、今の自分を把握して、うまくバランスをとれるようになります。

 そうこうしているうちに、体調が悪いときにハードな練習を行って、悪化させるようなこともなくなりました。無理ができなくなったともいえますが、年を経ると、その分、知恵と技術がつくものです。

 若いときのトレーニングは、昔とった杵柄で、体に記憶されています。声を扱う喉のマッスルメモリーは確かにあります。他の筋肉よりも微妙にコントロールしなくてはなりません。

 この辺りが、「声が太く鍛えられている人は、どちらかというと音楽的に鈍く、器用で音楽的な才能に恵まれている人ほど、声は鍛えられていない」という、日本人の独自の問題があるように思います。私は、そこをずっと追及してきたのです。

 なぜ、日本人は(特に歌手)、デビュー時でマックス、その後、34年で歌唱力が落ち、平凡で器用なだけになるのか、向うの人のように、いつまでもしぜんに声を扱えないのか、それを取り巻く環境と共に研究し続け、ヴォイトレに結び付けてきたのです。

 

〇判断の違い

 

 喉の筋肉における運動強度の判断を、私はずっとしてきました。絶対的なことは言えませんが、ややきついくらいがよいトレーニングになるのは確かです。今の状態の改善よりは将来に向けての改革ということです。

 表現が豊かなとき、特に、感情表現については、喉の状態は、ベストよりやや悪いときが多いのです。すでに疲れている状態に近いのです。これを歌手、特に役者的な表現力をもつ人は、声の表情が出やすく感情が客に伝わるので、表現力と思い、好んでしまいます。その区別のできない人が、プロでも大半です。

 しかし、それは、あたりまえのことです。彼らはトレーナーではありません。表現を発声より優先するからです。だからこそ、プロデューサー、演出家、アーティスト、そして、本人自身と、トレーナーとは判断を異にしなくてはいけないのです。その判断が、日本という環境で、日本人として歌い続ける歌手に対しては、独特なものでした。世界のレベルとは異なるものが優先されてしまうのです。今の歌い手は、そこからみると表現のリスクを避け、発声で喉を守るだけになっているのです。それは周りも認めやすいので、矛盾さえおこさず問題さえ気づかないで終わってしまっているわけです(欧米では、日本人にとってはこの「疲れてきているくらいの声」は、「全く疲れていない声」として何時間も同じように使えています)。

 

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