「原因と結果」
○元の原因とあとの結果
トレーニングは、A→B、メニュでやったことと効果を因果関係として、「こうしたからこうなった」という形で出そうとしています。それは違います。「こうしたい」でなく、「こうなった」の世界です。実のところ、結果に直接に効く原因はなく(本人やトレーナーが思っているだけで)間接的に効く要因がいくつかあったということです。
「できた」といっても、「できなかった」ときとは、何かしらの基礎が整ってきたのか、応用によって働きが違ったことで可能になったのか、それによっても違うのです。そこを分けて判断することが大切です。
それ以前に、「できた」とは、どの程度なのかということを忘れていませんか。
「音にする、声をならす」でなく、「音になった、声になっていた」とならなくてはいけません。☆☆
主観的な判断を客観的な判断にしていきます。
「響かす―響く」、「あてる―あたる」なども似たようでも違います。前者は試みで、後者は結果です。試みでできるのは、ふしぜんなものです。結果でできてしまっているのがしぜんです。そうなるまで時間を待つしかないのです。
結果が出てからでしか何ら言えず、結果が出ていたら何も言うことはないのです。
試みるのは、トレーニングであってはなりません。試みたときにはできているように、深いところ、基礎、器づくりを行うことがトレーニングなのです。
○プロセスとスパーク
レッスンやトレーニングの目的に、「歌手」や「役者」になる、ということをあげると、そのための目標の一つが発声の基礎トレーニングです。目的をおき、目標は、3年、1年、3か月のように時期で区切るとよいでしょう。
声は、芯を支えていると動きだし、外へ働きかけたとき、共鳴しています。そういう結果が出ます。結果を出そうとしてレッスンし、トレーニングするのです。
結果が出るのは、閃きと同じで出てしまうのです。出そうとして出るのではありません。瞬時に、閃きのようにスパークしてしまったらできているのです。
夢のように時空が消えます。体―息―声―共鳴がすべて一体化して、そこで言語や歌を処理しているということです。無心に読経しているような状態が参考になるかもしれません。
早い、高い、深い、この3方向を応用としてとるとします。そこでは、好き―嫌いでなく、すぐれているもの―すぐれていないものがあり、すぐれている人―すぐれていない人がいます。
どれか一つからでもよいのです。表現という目的において、いつか一致すればよいのです。
何をやっても、もっと才能のある人がいて先がみえないときには、勉強不足と思って勉強しましょう。
欠点を磨いて長所にするのも、大切なことです。
a.長所 概知 くせ、過去、体制的、保守的、こなす、うまい、正しさ、きれい
b.欠点 未知 個性、未来、反体制的、創造的、表現力、深い、インパクト、濃い
対照してみると、こうなります。b→aでなく、a→bなのです。長所から短所にいくのがトレーニングのプロセスです。
○時間と資質
理想の何パーセントをまで使えるものとしていくのかというトレーニングが大半ではないでしょうか。「やり方」を学ぶというなら、そのまま100パーセントまで、マックスで使ったら、それで終わりです。
方法よりも 結果として、できていることが大切です。理想を今の100で甘んじずに2倍、3倍にする、という条件を課すことです。
そこまでして、ようやく体の感覚から変わる必要性を帯びるようになります。変えるでなく変わるであって価値が出ます。それがトレーニングです。
歌では、次のようにみるとよいでしょう。
a.カラオケ<ポップス<声楽
B.体の感覚<ゆれ<こぶし<ビブラート<共鳴
C.心身のメンタルトレーニング<フィジカルトレーニング
○目的とプログラムの説明
どの程度に説明するのかは難しい問題です。医者であれば、2つ以上の案を示し、それぞれのメリットやデメリットを説明するのでしょう。どれか1つの方法が、絶対にメリットだけなら選択も代案も必要ないからです。
ただし、その1つでさえ、他のものに比べてましとか、今のところは一番ましというものでしかないこともあります。
こうした説明は、デメリットが出たときの逃げにすぎないともいえます。説明責任を果たすというと良心的なようですが、予めリスクを話すのは、何かの際の責任追及から逃れるためという面も大きいのです。
何事にも絶対的正解はありません。常にすべてが試行なのです。結果は、本人の意思や努力あってのメニュ、方法によります。そこから芸になります。
○意志力
どんな方法をとるときにも、こちらが説明や実践することで、本人に信心ややる気が出てくると、結果が違ってきます。トレーナーや方法が同じでも、一人ひとり決して同じ結果にならないのです。まさに不確率の世界です。
そのために、ともかくも何らかの説明が求められます。それは、あってもよいでしょう。協力していく、トレーナーとクライアントが一体になって問題にあたっていくのはよいことです。
医療についてなら、大体は元に100パーセント戻すのを目的として、90パーセント戻れば上出来といったくらいです。でも、そのくり返しで100×0,9×0,9×…で、人は弱っていくのです。ヴォイトレの調整でも、戻すのだけを目標とするなら同じことでしょう。☆
今の力をキープするには、キープ=守ると考えた時点で負けです。「もっとよくなろうとして初めて、何とかその力をキープできる」のです。
○直すのではない
長らく怪我や病気をしたあとの治療であった医療が、予防へ向かっているのは、よいことです。守りでなく攻めといえます。先手必勝、早く対策するのは、目標を今より高くおけるということです。そうあるべきに思います。ここで、トレーニングは、治すのとは違うことを知って欲しいのです。
ヴォイトレは、うまくいかない、下手なのを直す、間違っているのを正すというのがほとんどです。下手でも間違いでもないのに、直したところで、正しいと言われるようになったところで、通じないことでは、ほとんど変わっていないのです。なのに、どこがトレーニングかということです。
○早くでなく、すごく
普通のトレーニングは、「早くよくなる」のが目的のように思われていますが、「よりすごくなる」が忘れられています。これらが両立したり、順になるなら一番よいのですが、少しでも早くよくなることだけが目的にとられがちです。そうするつもりではなかったのに、それだけになっていることが多いのです。トレーナーの考えも、トレーニングする人の目的がそうだから、そうなるのです。
すごくなるには、とても時間がかかります。結果としてすごくなるという目的であってこそ徹底した基礎トレができるのです。早く少しよくを目指すなら、バランス、調整中心の使い方、技巧のメニュや対処方法のオンパレードになるのが関の山でしょう。アスリートの世界で考えたら、言わずもがなです。
勉強ということ自体、私たちは昔よりもずっとしているようで、理論というまやかしに走って根本が見えなくなってきたのです。学ぼうという人は、理屈やノウハウばかり欲しがっているから、なおさらそういう傾向になります。トレーナーの質も、それに伴ってしまうものです。
○本質と万能
一子相伝は、選ばれた一人に直接、師が自分と同じようになれるように口伝します。型に完全にはめて、型通りになって継承すると形骸化していきます。せっかく伝承されても、滅びてしまいます。どこかで型破りの天才が出て、新しいものに改革、創造するから伝統となって受け継がれるわけです。
ヴォイトレは、相手に合わせ、時代に合わせ、基本をなおざりにしすぎました。かと言って昔のようにトレーナー、先生、師に合わせて、前の世代しかできない体験を継がせても何ともなりません。
本当は自分をまねさせるのでなく、自分も先代もまねしてきた、もっともすぐれた本質的なものに気づく必要があるからです。そのための手段が、型です。
型は、基本として厳格でなくてはなりません。トレーニングでは、よしあしの判断の厳密な基準ということです。師によって異なるというのでは、私の意図するものとは異なります。形は問いませんが、その下にある型は、みえずとも万能の器です。それは、語れるものでなく気づくしかできないものです。
○先に与えない
一般の人に一流の作品に接させたら、トレーナーは、その本質に至るための邪魔をとる、それでよいのです。それが理想的です。「語らず教えず」でよいのです。
それでは、生徒はわからないというので、やさしい先生は、すぐに丁寧に教えだします。「私の通りに」とか、「こういうふうに」と。生徒が欲しているならまだましです。欲していないのに先に与える、教えたいから教えているのが、今の風潮です。教える人が、教えているという充実感、満足に囚われているのです。
トレーナーがこうして、一つ先に早く進めて、そこから先にさえ行けないプロセスにしてしまうのです。一つ先に連れていかれたのがすべてとなって、それが百歩の中の一歩とも気づかないからです。
昔から師に可愛がられ、早くいろんな技を教えてもらい、早く師のようなまねができるようになった人は、およそ大成しないものです。それは、結果の形をまねただけで、プロセスで気づいて自ら体得していくものを得ていないからです。形はつくけど実はない。丸暗記で覚え、正しく言えるけれども内容は把握していないので伝わらないのです。
教えて、潰してしまう。師の形でしかできなくしてしまうのは、大きな誤りです。それを後継者とする、他で通じなくしてしまうからこそ、形として続く家元制もたくさんあるのです。
○実質と基準化
トレーニングは、形(メニュ)を使って行います。大切なのは、そこで実質をつかむことです。ドレミレドで声が届いたとか音程がとれたでなく、ヴォイトレなら、体、呼吸、発声、共鳴が楽器として整ってきているかを目的にします。そして、その判断を基準化していくのです。
迷い、悩み、もがき苦しむことでわかってくるものを、トレーナーが先にこうだよと示してしまうと、それをまねて、同じようになる。それがレッスンと思っている人が多いのです。レッスンの代価は、トレーナーのノウハウではないのです。それは、やめさせず続けさせるようなノウハウですが。
ヴォイトレは、声のトレーニング、声の力をみるのですから、その目的は、声一つ、一声の違いというように考えたらわかりやすいでしょう。
もちろん、それだけですべては得られません。同じメニュでもいろんな目的や判断があります。ほかのメニュもそこから派生します。
たくさんのメニュを順にこなしていくだけでは、力はつきません。「何曲覚えたからすごい」というのと同じです。すごいなら、一曲でも一フレーズでも一声でもすごいです。形や数で満足するのが好きなのはよしとしても、そこで終わってしまってはもったいないですね。
○多様なもの、変じるもの
メニュもやり方も、すべて変じて多様なものになります。変じてあたりまえです。トレーナーも多様でありたいものです。多様であることは豊かなことだからです。
レッスンで、やり方がどうとすぐに言う人をみると、そう前に、なぜ一度、受け入れてみて学ばないのかと思うのです。私も瞬時に変じているのです。変じたものでなく、変じることを学ぶべきなのです。
先生やトレーナーでは、大して変われらないかもしれません。変わらないのをよしとしている人も少なくありません。
ここに入ったときのトレーナーも2人に1人はそんな感じでした。「私が教えられた発声を教えにきました」というようなものです。それを今は「私の発声を教えにきました」にしてスタートしていただくようにしたいます。そういうトレーナーしか採らなくなりました。
一方で、どのトレーナーも、自分以外にも、いろんな正解、いや、いろんな方法やよいメニュがあるとわかるのに、案外と時間がかかります。わかっても、それを使って教えるのがよいのか、それで早くできるようにするのがよいのかは別です。
すぐれた歌唱をする人ほど、自分の過去のプロセスに自信をもっているから変わりにくいものです。特に、教える相手が自分よりも未熟であるとそのままです。変わらないのはまだよいのですが、「変われない」のが困るのです。応用力がないということです。
○通じる
普通、トレーナーは、自分のやり方があまり通じない人や合わない人とは長く接しません、そういう人は、伸びないとみなされるか、他に移るからです。他のトレーナーで上達していくようなプロセスを知ったり経験したりする機会がほとんどないでしょう。そのような経験を積むと、基礎があるトレーナーなら一気に変われるのです。しかし、そう簡単ではないようです。
トレーナーも変われないと、トレーナーが複数いて教えている、この研究所では生徒がつかなくなってしまいます。本当の基礎があるからこそ、自在に対応できるようになるのです。
「自分の方法が通じない」ということを認めるのは勇気がいります。どのようなトレーナーでも大半は、生徒よりは声は出るし歌はうまいので、生徒は、それなりにいろいろ学べるからです。
ところが、ここにはプロの人や異なる分野の一流の人、トレーナーより社会的に活躍している人もきます。他のスクールのすぐれたトレーナー、ベテランのトレーナーに教えられている人にも教えます。これまで学んでことだけでは通用しないことが起きます。そこで、トレーナーも自分の問題として突きつけられるのです。
そういう機会が多いと学ばざるをえません。トレーナーの方が生徒より学んでいてこそ、生徒も接する価値があるのです。私も、こういう環境で、今も新たに学ばされ、力不足を感じることばかりです。ですから、私たちの学んでいるプロセスとして、こういう学びの情報が尽きることはないのです。
○やり方もメニュも無限
今の私は、他のトレーナーや他のやり方の方が早く、いや早くよりも将来的により大きな可能性を得られるというなら、自分のやり方に固執しません。
トレーナーが自らを絶対視しているのはよくありません。他のスクールでは、よくみました。そのために、もっと学べるのにあまり学べないことは、生徒にもトレーナー本人のためにもよくありません。他のトレーナーや、そのやり方を批判的にみて、試しもしない、意見をも聞かない、それで充分に通じるのは、いつまでも低いレベルだからです。対応において、それを許容しているからです。他に替われるトレーナーがいないのは、あまりよいことではないでしょう。
○トレーナーの自立
私は、トレーナーには、いらしてから2、3年、本人のやりたいようにやらせます。生徒に対してきたのと同じスタンスです。本人が生徒と接して学んで自ら気づいて変わるのを邪魔したくないからです。これまでの私たちと異なるやり方やメニュを、ここで発達させてもらうと、お互いの次の発展につながります。
ですから、最初に他のトレーナーや私のやり方を学ばせません。日本では、とても新しいことと思います。ある程度、本人が対処法を確立しないと比較もできないからです。いらっしゃる時点で、少なくとも5、6年以上の本人自身の声のキャリアがあってのことです。
最初は、新しいトレーナーは遠慮して、誰にでもわかりやすく伝えようと、あまり我を出さないものです。そこでは、大体よくも悪くもない。ベテランのトレーナーとは、違う新鮮さがあり、生徒にも好まれます。それも大切な武器です。
ところが、その後、新鮮さがなくなり、偏り、個性と共に、くせが出てくるのが普通です。自信をもつとそういうようなことになります。そこからが本当のレッスンになるかどうかの勝負です。独自の存在価値をもって自立できるかということなのです。
○挫折すること
自分を疑い続けているトレーナーには自信を与えますが、疑ったことのないトレーナーには、挫折から学んでもらいたいと思っています。早く挫折して欲しいので、ベテランの生徒や難しい生徒を混ぜたりします。うまくいかないところにこそ、その人の個性やよさも出てくるからです。
挫折や失敗のないトレーナーでは、人を育てられません。自分が学んでいるということは、より高いレベルのことが求められるようになることです。その分、失敗やうまくいかないことに必ずぶち当たるものです。誰でもよくする、すべてうまくできると言っているような人は、目標が低いか自己のやっていることの把握もできていないということです。だから続けられるということもありますが。
多くのトレーナーは、発声を学ぶときの挫折を経験に乗り越えたと言います。それでは、ただの自己PRになりかねません。ここで問うているのは、トレーナーとしての挫折のことです。
プロデューサーでオーディション対策というのなら、その人のもっともよいものをまとめ、よくないところをすべて省くでしょう。ですが、レッスンなら、悪いものをとことん出してもらうことが大切です。そこからよいレッスンになっていくと言っています。
レッスンは、最初からスムーズにいくとは限りません。目的を高く大きく変えていくなら挑戦であり冒険だからです。すぐにうまくいくようなのは、少しうまくなるくらい、私からみると、さして変わりがないのをよしとしているからです。順調で楽しかったレッスンも、あるとき、頭打ちになり、うまくいかなくなる。その先からが本当の学びなのです。早くそこまで行かせたいのです。
○表現力を高める
ときに、表現力をつけたいと言って来る人がいます。この場合、ベテランの人ほど変わるのは難しいことです。初心者は、一流のものを聞くこと、そこから力が引き出されるようにプログラムすれば、後は時間をかければよいのです。
しかし、ベテランは、それが終わったレベルに達していると、新しく入れるにも、入れ方から、気づきから学び直さなくては大して変わりません。よいものが相当に入っている人ほど難しい。そこでは自らを白紙にできるか、ということです。頭だけがベテランになっていて、力が伴っていない人は、さらに難しいことです。
表現力をもう少しつけたいというなら、技術の問題ですから、発声の基礎からやり直します。しかし、本当につけたいなら、これまでのキャリアや自信まで白紙にします。
これまでのうまくやれてきたことが、さらなる成長、可能性の追求を邪魔していると考えるくらいの覚悟が必要です。その覚悟があれば、そこまで高いレベルで気づけいているなら、最高のプログラムとして与えられます。そこから自分にないものを必死で入れ込みます。こういう人は、本当に稀です。ほとんどの人は、自分でやってきたことを取り戻し、確認できたら満足してしまえるのです。
○トレーナーの支え
ヴォーカルというのは、自己肯定力がないと続けられないものですから、どこかで自信過剰、自惚れがあります。まして売れた人ならプライドも相当に高いものです。売れていないのにプライドだけが高い人は、難しいです。
よい歌い手でも、自己肯定力があまりに強いため、世に出られないタイプもいます。そこには目をつぶり、他の人に任せよというのですが。
自分が売れてもいないのに、そういう人たちにズケズケ言うとしたら、トレーナーは、歌手や役者と違うものに支えられていなくてはなりません。歌やせりふに対して声、ステージに対してジム、本人一人だけに対して多くの人、というのが、トレーナーのキャリアです。長い年月での声の育成プロセスの把握や、そのプログラム、結果の分析なども、アーティストには自らの体験しかないので、トレーナーに求められる経験です。よくわからない世界だけに多くの人を長い時間みた経験、それも一人で行うのでなく、多くのトレーナーを介してみてきました。うまくご活用ください。
○有能ゆえの無能
一人で指導している人は、その人に合わない人が辞めていくので、もっとも大切な、自分に合わない人への対処について、あまりにも学べていません。残るのは、自分のやりやすいタイプか自分のやり方に合わせられるタイプで、そこでの効果から全てをみるからです。これが、歌のうまい人は声楽家のところで伸びるが、下手な人はもっと悪くなると、竹内敏晴氏の疑問への回答の一つです。
私は心身が丈夫というか、人並みなので、そこの弱い人への対応は遅れました。心身が弱い人へは、それを克服してきたトレーナーが適任で、その経験を基に対応してくれます。私は喉が弱く大声も出なかったので、そこがもっともベースとなりました。それと同じく、有能なアーティスト、歌手、トレーナーが、一般の人への対応にうまくいかない。これは実質面でのことです。
特にクレームがあるからでなく、本当はもっと力がついていなくてはいけないのが、少しうまくなって止まっているのは、「教える人が有能ゆえ、他の人に対して無能」ということなのです。
ヴォイトレはトレーナー本人が「有能なところこそ、対処に無能になる」です。この有能さを他人に活かすには、トレーニングの長い経験と、他のトレーナーからの気づきが必要です。
○二極論の補足※
「二極論」については、私のこれまでに書いたものを参考にしてください。以下、補足です。
A.役者型―劇場 視覚 イベント パフォーマー 詞 ストーリーテラー(漫才) 詩人 ことば スタンダップコメディ 熱狂 音楽性 インタラクティブ 詞先 (今の長渕剛、美輪明宏)
B.ミュージシャン型―BGM 聴覚 ライブ バンド メロディ、リズム 音楽性スキャット プレイヤー 音楽、インストルメンタル 曲先 (昔の長渕剛、憂歌団、横山剣)[敬称略]
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