「感覚について」
○先を視る感覚
運転の教習で「先をみること」という注意を受けると「そんなに先をみるの?」と思うほど先をみるのです。高速では、さらに「もっと先をみること」と言われます。慣れるとあたりまえのことで、先に集中します。横や斜め前など見ても仕方ないとわかります。時間が流れる、その時間は、前に走るときは前からくるのです。時間を空間に置き換えて、視線は先にいかないといけないのですね。
球技でパスを受け取るのと同じです。先に走ったところにボールはあるのです。ボールを追いかけては間に合わないのです。最初は目に入るものが多く、周りの人やものの動きに気を囚われます。頭で考えて体で覚えることが妨げられます。先を見ないと、体ごと先にワープさせないとよくないのです。
最初にアクセルを踏み込み、60キロくらいで長く走る講習をやれば、早く走行感覚が体に身につくと思います。あれこれ見ようとせずに先を見て、アクセルをふかして、初めてその世界がみえてくるのです。昔は、踏み込む勇気のない人や女性の運転が危なっかしかったのを覚えています。
○体になじませる
現実的には、リスクもあるのでシミュレーションによるでしょう。レベルの違いが、車の運転でさえ、一般の人の周りにもあるわけです。これがF1のレーサーともなれば、想像しがたいでしょう。速度の出せない教習所よりは、自然のなかや空港みたいなところで車を体になじませた方がよいでしょう。一方で、ある点では、ゲームでもシミュレートできます。それを全てと思うと危急の際に何ともならないので、宇宙飛行士などは、万一の対応もできる徹底した心身づくりをするのです。
車の助手席に乗っていてもコツをつかめる人もいるでしょう。長い道中に、同乗してステップアップした感覚をつかむこともできるでしょう。
車で例えたものは、体と同じです。一体となって感じるときに、自分自身の肉体と感覚で捉えた心身とは異なっていることもあるのです。私たちは、自分の体を何か行うことにフィットさせるのに手間がかかるということです。
○柔軟
柔軟やストレッチが必要ない人もいます。それなりに体力もあり、柔軟に毎日過ごしている人です。スポーツをしていると、自ずとそういった体感レベルになります。スポーツを続けてきた人は、そうでない人がそのレベルに体をバージョンアップして保つことの難しさを知りません。すぐれた選手でない人が一流の選手との違いを埋めようとしたら、そこでさらに徹底した柔軟やストレッチが求められることに気づくはずです。
部分を強化してほぐして、そこにしっかりとしたつながりをもち、常にしなやかに脱力しておけること、そして最大の力が発揮するようにしておくのは、並大抵の努力では無理です。努力しなくてはいけないというレベルでは無理で、楽しむとか、したくて仕方ないというレベルになることです。
誰かに強制された柔軟や運動の方が、最初は早く効果も出るのです。それを強制していくと限界までは行くのです。しかし、しぜんに使えるようになりません。強制せず限界をつくらないような別のルートが開けると思ったほうが結果として伸びます。
○フォーム
フォームというのは型です。誰しもほぼ共通なところがあります。そこでの限界がみえると個人的にアレンジしていくことになります。音楽のベースの感覚を捉え、乗り越えるのに「一流の共通感覚」を入れるのです。そして、自分が出すときの障害をなくすことです。この障害をなくすのにヴォイトレが消費されています。それだけではないのにもったいないことです。そこでは新たな創造が求められるのです。その底力として、ヴォイトレが効くのです。
共通に入れるのは、異なるものを出すためです。同じものを食べて同じものが出てくるのは動物です。
私は、共通として持つべきもののために必要なものを含むもの、そこから学びやすい材料をできるだけ加工せず、生で与えるようにしています。
料理そのものでなく、新鮮な素材、材料を並べておくのです。包丁の手入れと使い方を伝えたら、それ以上の何も要らない。そこで関係や場ができたら、自ずと引き出されます。こちらから先に与えることはいけないのです。
引き出された形だけをみて、それを教わったところで何もならない。ですから教えないのです。でも、何もならないことがわかればよいというので教えているのは、よいと思っています。それもわからず教えているのは、教えたらこうなるはず、という考えで固まってしまうので困るのです。
○マニュアルの弊害
私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が幾つかきました。「そうならないが、どのようにやるのか」と。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのリストです。最初に漠然とイメージしておくくらいでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいのです。
姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。
マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、そこだけでみると訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいのです。わかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるくらいなら、何ともならないからです。そのことさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行くことになります。
○姿勢と呼吸
正しい姿勢かどうかは、呼吸でみればよいのです。「姿勢が正しい」と言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。しぜん、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。
すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。鈍さが助長されるからです。教えるなら、逆に、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。
教えてわかってできるようになったというプロセスには深さがないです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で説明する人が増えました。
私の体験では、教えず、わからず、できていない方が、深まる可能性が大きいです。
○場のよさ
あなたにとって、レッスンのスタジオ以外のところがリラックスできていて、よい状態にあるなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。
なかには、外ではうまくいかず、レッスンの場だけでよくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえます。これはありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいからです。
私はかつて、ライブのステージをみて、「客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめ」と言ったことがあります。「それで動いてよけられないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものか」と思ったのです。
※○姿勢のイス
年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかなくなることです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。
経験を積むと、知ったかぶりをしません。無理無駄をなくして、動きを効率化しようとします。
若いときには、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それは自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。
私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、2日以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、2、3時間でも出てくるようになったのです。皆に姿勢がよくなったと言われて気づきました。日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。
海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば、です。そういえば、モデルの女性も、モデルになるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多いです。一般の人よりもヴォイトレが大変です。
日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、腰痛のせいで、人体としての構造上、正しい姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、座るより立つ方が楽になったのです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。
○なる
なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これも、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということです。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、あなたの今のことですが、なるようになった今、そこをみてスタートするのです。
レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を前提条件にします。
結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今が、これまでの生涯の結果です。
しかし、それなら何もしなくともよいということではありません。
ここからも時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指す、なるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころか、よくないようになるのはわかりきったことです。
でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。
○我慢と正念場
我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では個として、強くないともいいます。たまに逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。
頭でイメージして理想を固めていくだけでは無理があります。現実は思うままにいかないのです。アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは、体が固くなって心も自由になっていないところで限界になります。
レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前にイメージさせ、一瞬でも現出させることを要します。
一流に憧れ、やり始める時期は、誰でも幸せです。夢と未来しかないからです。下に落ちることもなければ、停滞もしません。やった分だけよくなっていくからです。そのまま続くということがレッスンになっているとしたら、少なくともアーティストへのプロセスではありません。ありえるとしたら、その人が修羅場続きの本番をもち、そのフォローとしてメンタルトレーニングにレッスンを使っているケースです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいます。私たちも一部、それを担っています。しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。
○脱力の力と伝承
机の下にもぐって頭を上げたときにぶつけて、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートな痛みは生じない。限界まで頭を打ち付けようとしても、死ぬつもりでなければ、どこかカバーしてしまいます。死ぬ気でぶつけても難しいでしょう。
しぜんに頭をぶつけたとき、腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているから痛いのです。漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、そういう瞬間は、理想の心身状態です。そこで発声共鳴もしたいほどです。
それでは他人にぶつけてもらう、といっても、殺す気でなければ、カバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。
そこまで覚悟した師がいるならつけばよい、殺される可能性の方が高いし教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。
誰でもよいから何か驚かせてみろよというくらいの関係もあると思うのですが、驚かせることをできるのは、限られた弟子でしょう。