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2021年9月

「感覚について」

○先を視る感覚

 

 運転の教習で「先をみること」という注意を受けると「そんなに先をみるの?」と思うほど先をみるのです。高速では、さらに「もっと先をみること」と言われます。慣れるとあたりまえのことで、先に集中します。横や斜め前など見ても仕方ないとわかります。時間が流れる、その時間は、前に走るときは前からくるのです。時間を空間に置き換えて、視線は先にいかないといけないのですね。

 球技でパスを受け取るのと同じです。先に走ったところにボールはあるのです。ボールを追いかけては間に合わないのです。最初は目に入るものが多く、周りの人やものの動きに気を囚われます。頭で考えて体で覚えることが妨げられます。先を見ないと、体ごと先にワープさせないとよくないのです。

 最初にアクセルを踏み込み、60キロくらいで長く走る講習をやれば、早く走行感覚が体に身につくと思います。あれこれ見ようとせずに先を見て、アクセルをふかして、初めてその世界がみえてくるのです。昔は、踏み込む勇気のない人や女性の運転が危なっかしかったのを覚えています。

 

○体になじませる

 

 現実的には、リスクもあるのでシミュレーションによるでしょう。レベルの違いが、車の運転でさえ、一般の人の周りにもあるわけです。これがF1のレーサーともなれば、想像しがたいでしょう。速度の出せない教習所よりは、自然のなかや空港みたいなところで車を体になじませた方がよいでしょう。一方で、ある点では、ゲームでもシミュレートできます。それを全てと思うと危急の際に何ともならないので、宇宙飛行士などは、万一の対応もできる徹底した心身づくりをするのです。

 車の助手席に乗っていてもコツをつかめる人もいるでしょう。長い道中に、同乗してステップアップした感覚をつかむこともできるでしょう。

 車で例えたものは、体と同じです。一体となって感じるときに、自分自身の肉体と感覚で捉えた心身とは異なっていることもあるのです。私たちは、自分の体を何か行うことにフィットさせるのに手間がかかるということです。

 

○柔軟

 

 柔軟やストレッチが必要ない人もいます。それなりに体力もあり、柔軟に毎日過ごしている人です。スポーツをしていると、自ずとそういった体感レベルになります。スポーツを続けてきた人は、そうでない人がそのレベルに体をバージョンアップして保つことの難しさを知りません。すぐれた選手でない人が一流の選手との違いを埋めようとしたら、そこでさらに徹底した柔軟やストレッチが求められることに気づくはずです。

 部分を強化してほぐして、そこにしっかりとしたつながりをもち、常にしなやかに脱力しておけること、そして最大の力が発揮するようにしておくのは、並大抵の努力では無理です。努力しなくてはいけないというレベルでは無理で、楽しむとか、したくて仕方ないというレベルになることです。

 誰かに強制された柔軟や運動の方が、最初は早く効果も出るのです。それを強制していくと限界までは行くのです。しかし、しぜんに使えるようになりません。強制せず限界をつくらないような別のルートが開けると思ったほうが結果として伸びます。

 

○フォーム

 

 フォームというのは型です。誰しもほぼ共通なところがあります。そこでの限界がみえると個人的にアレンジしていくことになります。音楽のベースの感覚を捉え、乗り越えるのに「一流の共通感覚」を入れるのです。そして、自分が出すときの障害をなくすことです。この障害をなくすのにヴォイトレが消費されています。それだけではないのにもったいないことです。そこでは新たな創造が求められるのです。その底力として、ヴォイトレが効くのです。

 共通に入れるのは、異なるものを出すためです。同じものを食べて同じものが出てくるのは動物です。

 私は、共通として持つべきもののために必要なものを含むもの、そこから学びやすい材料をできるだけ加工せず、生で与えるようにしています。

 料理そのものでなく、新鮮な素材、材料を並べておくのです。包丁の手入れと使い方を伝えたら、それ以上の何も要らない。そこで関係や場ができたら、自ずと引き出されます。こちらから先に与えることはいけないのです。

 引き出された形だけをみて、それを教わったところで何もならない。ですから教えないのです。でも、何もならないことがわかればよいというので教えているのは、よいと思っています。それもわからず教えているのは、教えたらこうなるはず、という考えで固まってしまうので困るのです。

 

○マニュアルの弊害

 

 私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が幾つかきました。「そうならないが、どのようにやるのか」と。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのリストです。最初に漠然とイメージしておくくらいでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいのです。

 姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。

 マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、そこだけでみると訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいのです。わかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるくらいなら、何ともならないからです。そのことさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行くことになります。

 

○姿勢と呼吸

 

 正しい姿勢かどうかは、呼吸でみればよいのです。「姿勢が正しい」と言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。しぜん、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。

すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。鈍さが助長されるからです。教えるなら、逆に、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。

教えてわかってできるようになったというプロセスには深さがないです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で説明する人が増えました。

 私の体験では、教えず、わからず、できていない方が、深まる可能性が大きいです。

 

○場のよさ

 

 あなたにとって、レッスンのスタジオ以外のところがリラックスできていて、よい状態にあるなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。

 なかには、外ではうまくいかず、レッスンの場だけでよくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえます。これはありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいからです。

 私はかつて、ライブのステージをみて、「客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめ」と言ったことがあります。「それで動いてよけられないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものか」と思ったのです。

 

※○姿勢のイス

 

 年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかなくなることです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。

経験を積むと、知ったかぶりをしません。無理無駄をなくして、動きを効率化しようとします。

若いときには、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それは自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。

 私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、2日以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、23時間でも出てくるようになったのです。皆に姿勢がよくなったと言われて気づきました。日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。

 海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば、です。そういえば、モデルの女性も、モデルになるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多いです。一般の人よりもヴォイトレが大変です。

 日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、腰痛のせいで、人体としての構造上、正しい姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、座るより立つ方が楽になったのです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。

 

○なる

 

 なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これも、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということです。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、あなたの今のことですが、なるようになった今、そこをみてスタートするのです。

 レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を前提条件にします。

 結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今が、これまでの生涯の結果です。

 しかし、それなら何もしなくともよいということではありません。

 ここからも時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指す、なるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころか、よくないようになるのはわかりきったことです。

 でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。

 

○我慢と正念場

 

 我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では個として、強くないともいいます。たまに逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。

 頭でイメージして理想を固めていくだけでは無理があります。現実は思うままにいかないのです。アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは、体が固くなって心も自由になっていないところで限界になります。

 レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前にイメージさせ、一瞬でも現出させることを要します。

 一流に憧れ、やり始める時期は、誰でも幸せです。夢と未来しかないからです。下に落ちることもなければ、停滞もしません。やった分だけよくなっていくからです。そのまま続くということがレッスンになっているとしたら、少なくともアーティストへのプロセスではありません。ありえるとしたら、その人が修羅場続きの本番をもち、そのフォローとしてメンタルトレーニングにレッスンを使っているケースです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいます。私たちも一部、それを担っています。しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。

 

○脱力の力と伝承

 

 机の下にもぐって頭を上げたときにぶつけて、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートな痛みは生じない。限界まで頭を打ち付けようとしても、死ぬつもりでなければ、どこかカバーしてしまいます。死ぬ気でぶつけても難しいでしょう。

しぜんに頭をぶつけたとき、腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているから痛いのです。漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、そういう瞬間は、理想の心身状態です。そこで発声共鳴もしたいほどです。

 それでは他人にぶつけてもらう、といっても、殺す気でなければ、カバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。

 そこまで覚悟した師がいるならつけばよい、殺される可能性の方が高いし教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。

 誰でもよいから何か驚かせてみろよというくらいの関係もあると思うのですが、驚かせることをできるのは、限られた弟子でしょう。

No.361

初学

衝撃

噓八百

間違い

理屈抜き

大手

噓の皮

安易

悟り

自己批判

神経質

間人

不出来

無心

平々淡々

結構

奥儀

苦悩

芙蓉

汲々

様々

蔵する

芸談

うのみ

一応

納得

早合点

肯く

映す

「正しいということ」

○正しいとは何か

 

 いらっしゃる人は、間違えずに学びたいと思っています。誰しもがそうでしょう。理論的で科学的であることを感じて研究所にいらっしゃいます。

声は、顔と同じく、正しいというのはありません。しかし、流行はあります。表情の演技と同じく、声の表情も問われます。それを支える地力や機能も大切です。伝達の機能として優劣もあります。

NHKのアナウンサーの発音やイントネーションは、放送において「正しい」でしょう。しかし、正しい喉の使い方、共鳴のさせ方、高い音やミックスヴォイスの出し方などというのと、声そのものの魅力づくりとは違うのです。

結論からいうと、「やり方」はアプローチの一つにすぎません。声の出せる体や感覚がわかる、身につく、鍛えられる、調整される、その結果として、声が通じるようになります。しかし、それはアナウンスメントの教育の延長には存在しないのです。

 

○正しいと正しくない

 

 「喉が痛くならないように」「安定して声が使えるように」など、ヴォイトレにも、いろんな目的があります。それぞれに対応しています。すべてを同時に叶えられることが理想ですが、大体は、必要や優先順も人によって違うわけです。そういう課題と自分の可能性、声の限界を明らかにしていくために行うのが、私の考えるヴォイトレです。

「正しい」と考えてしまうと「正しくない」が出てきます。「正しい」ということを行うのでなく、結果として「正しい」と思われたらよいわけですが、このときは、実際は、深くてすごいとか、心地よいとか、通るとかで、あまり「正しい」にならないのです。いや、正しくは、「正しい」など思わせない方がよいのです。説得力が増すと「正しい」は消えてしまうのです。なのに、教えるのには、「正しくない」ことをやめるのは、「正しくない」から「してはいけない」となってくるのです。指導は、大半が「こうするな」「こうしなさい」となります。

間違いを指導するのを間違いとは言いません。しかし、体のことは、間違いをなくしても正しくはならないのです。正しくなってもよくはならないのです。「正しい」とか「正しくない」で判断される次元を超えなくてはいけないからです。

 

○正すのでなく、入れる

 

 音程の外れる人の直し方で、音程の間違いを指摘して正しく直しても付け焼刃にすぎないという問題で例えてきました。外れることに気づけないことが問題です。聞き直して気づくならまし、瞬時に外れたのに気づくなら声の問題に入れるでしょう。

カラオケ採点勝負ならともかく、ステージなら、どれも五十歩百歩で根本的に全く足らないのです。この場合、音感のトレーニングとして、直すのでなく入れることが必要です。正しくないのを直すのでなく、足らないのを入れるのです。入れたものが出てくるのですから、結果が出るまで時間のかかることです。

 

○間違いを直さない

 

プレイヤーのレベルでいうなら、100回弾いても間違えないのがあたりまえの人と、2回弾くとミスタッチが出る人との差は大きいです。絶望的なくらいに、この差が大きいことがわかりますか。小学生でも10回弾いても間違えない子は何万人といるのです。

間違わなかったとしても、それは間違いをカバーしただけです。ストレートにいうと、ごまかしただけ、正しく見せかけただけです。習字での二度書きみたいなものです。

 習いに来る人は、それが学ぶことだと思っている人がたくさんいます。プロは、そういうレベルの間違いを犯さないのです。そういう「違いの差」をつかまずに習っても、仕方ないとは言いませんが、頭打ちです。その違いに気づくと自ら学べるようになります。

そういう根本に気づくようになる環境を求めること、そういう人につくことの必要性がわかるのも才能です。そういう人についてもわからないのは才能がないということです。この場合の「プロ」は、プロのことでなく、高めにレベルをとらないと安易に解釈を図ってしまいがちなので、ハイレベルとして使っています。プロを目指していないから関係ないということにはなりません。

 

○「正しい」の抹消

 

プロのピアニストは、ほとんどミスタッチはしないでしょうが、歌はプロでもけっこう間違えます。歌詞を間違えることもあります。しかし、それくらいで歌はだめにならないのです。そこからだめになることもありますが。

発声を正しくしたら歌唱力がつくと思う人がいます。12割はよくなっても、さして変わらないはずです。なぜなら、歌唱力とは、説得力で、発声の正しさとは異なる次元の力だからです。「正しい」―「正しくない」の軸と、「伝わる」―「伝わらない」の軸は、次元が違うのです。

ヴォイトレを表現力、歌唱力から切り離して教わることもあるでしょう。体や呼吸だけになると、なおさら「正しい」―「正しくない」はわかりにくくなるはずです。自らの実感が頼りになるので、自分本位になりやすいです。☆  

表現の必要性に耐えうるか、必要の程度は、表現やその人によって違うので、程度問題です。トレーニングでは、大きめに余力までつけておくとよいと考えることです。

「正しい」のを目指し、「正しくない」のはよくないから「正しくない」ようにしない、ではだめです。なのに、間違いを正すことが、レッスンになっているケースが、まじめで熱心な人や先生ほど多いのです。

教わっても、それを守らないという学び方もあるので、全てを否定しません。そこが私のよいところですが、常識やルールを外れるのが、アーティストでしょう。ただ、ルールを破るのでなく、創り上げることで「正しい」などを消滅させるパワーがいるのです。

 

○才能と運

 

 「すべきこと」「しなければならないこと」があります。それは「した方がよいこと」であって、それをする自由、しない自由は本人にあります。時期やタイミングもあります。それを捉えられるのは才能がある、見過ごすのは才能がないとなります。普通の人は、それを運と言います。

他人からの強制を外れたところに表現は、あるのです。たとえ、表現を行使する状況に制限がつけられ規制があっても、そんなことは大したことではありません。

だからこそトレーニングは、そこから解放され、思いっきり思うがままに自分をぶつけることです。

それを基準に対比させて向上させていくのが、レッスンであればよいのです。いつか、その基準に対比できなくなったときに、新しいものが生まれているのです。

 

○慣れて安定する

 

現実には、思うがままの「思い」がないどころか、「誰かの思うがまま」にやりたい人がほとんどです。やりたいといってやらされているのです。それであれば、トレーナーの言う通りに慣れていくのが優秀で勉強ができるとなります。受験勉強と似ています。

日本は、仕事を与える側が、そのくらいできたらまあよいという程度の期待でしょうか。そういう選択も私はできるようにしています。そのようにしてから、研究所のレッスンは、よくも悪くも安定しました。成果がわかりやすく、実践的になったのです。ただ、そこはプロセスに過ぎないのです。

 

○場の要求レベル

 

「すべき」や「しなければいけない」を排除するのに、あるいは超えることを知るために、「すべきこと」や「しなくてはいけない」ことを逆に徹底して押し付けるやり方があります。徹底していたら反発反抗、かつ自立心が生じるきっかけになるものです。

思いがあっても形にはならないので、形にするツールを選び、それを実践に使えるレベルにまでアップさせます。必死でそのようにしなくてはなりません。誰かから「すべきこと」として与えられるのでなく、自らが自らに課すようになっていく、そして周りの要求レベルよりもずっと高く目標を掲げ、挑んでいくのです。

そのことがわかるまで、私は、その場で言うのでなく、文章などで述べてきました。場において、ストレートに使うことばは両刃の剣です。私は、レッスンはことばのない場として維持したいのです。

やむなく場の終わりでコメントすることになってしまいました。リップサービスが求められるようになったので、グループレッスンをやめました。場の程度を下げては元も子もありません。

 

○育つ

 

 昔から理不尽、不条理をぶつけてくる師だけが、師を超える弟子を育てました。それが分家や破門、仲違いであっても、要は、そこを出て20年後、30年後、その人物が芸がどうなったか、で問うのです。

 反体制下に、反抗を経て、体制を打ち破る自らを確立する育成システム、本質を選び取り、新しい時代の新たな息吹を入れて変じていく、そのために、縦社会、父権制、子弟制は、一人前に育てるのに適したシステムでした。理由も必要もなしに体制ができてくることはありません。そこでは9人を切り捨てても、1人のエリートを出したのです。

今や、大人になるということさえ、多勢で否定されていき、落ちこぼれだけでなく、抜きんでるもよしとしないし選ばれていかない状況です。これからの日本の社会では、従来のシステムやノウハウでの維持をするのは難しいでしょう。

そのときに実を失わずに、より高いレベルに設定するのは、どうすればよいのかは、大きな課題です。

誰もが同じように落ちこぼれず、秀れすぎず、横並びに並んでゴールしたいという日本人の気質のなかでは、本質的なものが失われていきます。底上げはしたがスターは出てこない現状は、それを証明しているのです。

 

○すぐれるということ

 

 個人がそれぞれに感じていることが、そのままで肯定できるとは言えません。芸は、車が運転できるとか自転車に乗れるという、歩くようなことの延長上で誰もが行えるようになることではないからです。

ヴォイトレをそこにおくというトレーナーのスタンスもあります。ヴォイトレは、誰でもできる簡単なものという考えです。これはできているというのを、どう区別するのかが曖昧になりやすいです。ヴォイトレでなくても何かを長くやっているとしぜんにできている、ということもあるからです。

場によって、当てはまることもあります。そのレベルでは、皆が参加しているので、公共のルール、暗黙に守らなくてはいけないことが出てきます。そうした方がいいということとは、マニュアルのことです。カルチャースクールの和気あいあいとしたクラスのカリキュラムのようなものです。

それなら、自由に息もできない子弟制の方が、長い眼でみると人は育つでしょう。なぜなら、自分の実力の否定から始まるからです。ゼロやマイナスからのスタートを切るために必要なのが、否定であり、大逆転です。

 

○実感のレベル

 

感じていることにもレベルがあります。このあたりは、好き嫌いでなく、すぐれているかどうかが問題です。

 一般レベルでの個人の感じることの大半は、好き嫌いです。よくある感想です。それは消費者、受け手、聴衆のものです。

すぐれているものは、「正しい」でなく、「すごい」に、あるいは、「おもしろい」とか「格好いい」(ヤバい)に向かうものです。レベルとはいうより、本当は、何かで測れるようなスケールでないのが、本物、一流です。

そこはトレーニング、育てる対象にならないので、プロということで述べました。プロになるプロセスを経て一流、怪物のような人が出てくるとは限りません。この論にも、私の考えも超えたところに、息づくものを殺してはいけないというサンクチャリー(聖域)があります。殺されるくらいではヒーローになれないので、そんな心配は不要でしょう。

出てくる人はどこにいても出てくるのです。そこは考える必要がありません。

私の話が、その人の人生の1ページの1行にもなっていれば、ありがたいものです。要は、1パーセントもないかもしれない可能性を殺さないこと、トレーナーもですが、本人が自ら殺してしまわないことが第一です。

 

○歌、せりふの成立を

 

可能性を、教育で伸ばすのを壊さないことを問います。私たちは、教育なしに、この社会を生きられません。大人になるのに学ぶことと、それをどう整合すればよいのかを考えてみます。

教育のせいにはできません。正しい教育も正しい育ち方もないからです。

社会やスポーツは、ルールと場をさだめ、それで、才能を選び育てることもがきます。結果として、感動できるハイレベルな技能をみせられる人が育っています。

アートも似ています。アートを創り出すこと。アートでありたくとも、クラシックもポピュラーも固定しつつあります。

新しいスポーツが、これまでのスポーツを乗り越えるには、これまでのスポーツを超えていくスーパーヒーローが必要です。ヒーロー一人の登場で、すべてが変わります。憧れる人が増えると、層が厚くなり、全体のレベルがアップします。裾野が広がることでトップレベルにも才能が集まります。プロの基準が定まって、人に見せて興行するプロが成立します。

 声も同じです。ただ、相撲などと似て、神事にも使われていたものを、歌やせりふに限定するのは無理があります。個分化され形骸化していくのは、根本を失っていくからです。歌もせりふも日常の延長で、そのクライマックスにあったのです。

 

○動き、しぜん、裸になる

 

 自分の声は消していけない。しかし、今の声ではいけない。自分本来の声を取り返さなくてはいけない。「―いけない」を使いたくないのですが、「いけない」からやり始めるのも、動機の一歩です。

自分の声、体というものはどうなっているのか、精神、心、頭など、いろんなものとどのように関わっているのか、を問うのです。声と向き合うには、声だけでなく、声と関わる時空のことと対峙すること、常に時代に巻き込まれざるをえないのです。

今の日本の生活で失われた声、歌、ことばを、失われつつある声と、声の創り出してきた芸能を考えるときに、自らの声、体を把握するのは当然のことでしょう。しぜんなところで服を脱ぎすてたら、本来の声が出るのか、是非やってみてください。

ワークショップでは、かつては、幼い頃へ戻して、素直な声を取り戻させました。童謡や唱歌もわらべ歌もそのきっかけとして使いました。しかし、今の日本人には取り戻せる声がどこにあるのでしょうか。生まれてから使ってきた声というのがあるのでしょうか。既成服をオーダーメイドにしていくのです。

 

○自分自身の判断について

 

自分の声がよくわからないからこそ、レッスンに行くわけです。今の声を知り、将来の声にしていく。その位置づけの把握とギャップの埋め方がレッスンのメインメニュです。

「レッスンは判断力をつけるため」と言っていますが、自分のことは生徒さんのことよりもずっとわからないので、いろんな先生と接し、今も学んでいます。

先生、トレーナー、生徒さんを通して、自分のよし悪し、可能性や限界を学びましょう。特に秀でた人、プロとその真逆のメンタルやフィジカルに恵まれていない人から学ぶことが多いのです。

わかっているつもりで生徒さんに教えては押し付けになるので、よくないと思っています。それで「一回で」とか、「その場ですぐに」できる方法を望まれますが、とても気をつけています。生徒さんは、トレーナーは全てわかっていて最良のことを選択して与えてくれると思いたいのです。それでは、誰でもできる方法で、誰でもうまく上達させてくれるというマニュアル信仰になります。

情報を出しているのは、今回のレッスンでなく、継続したレッスンを行うため、問題の根本的な解決のためです。そこには幾分の信用、権威づけも必要だからです。

自由にさせると、その自由で不安になって続けられない人も少なからずいます。トレーナーでもそういう人が多いのですから無理もないでしょう。

ですが、最初から一方的に導くのでなく、時に応じて出してくるようになるのを待つことでしょう。その人の内面から出てきたものに応えてレッスンを修正していくことが大切です。

 

○限界の先

 

 自分で思う限界は限界ではない。これは他人に接してわかることです。

自由になるには解放しなくてはいけないのですが、自分で解放するにも限度があるのです。

それが高度にできていたら、世の中に問えばよいのです。問い続けるだけで自ら修正して伸びていけます。これが正道とは言いません。本道です。

声でうまくいかない、頭打ちになるとトレーナーを使いにくるわけです。そうでなく、地力をつけるスタンスなら、レッスンは行き場を失うことはないのです。

トレーナーが自らを目標100パーセントにセッティングすると、そこまでも行けない人が増えるのです。それはそれでよい先生ですが。

 

○型と場

 

 型に入れて伸びるのは、その型から逃れられない状況におかれてのことです。型はプレッシャーとなり、他へ逃げる言い訳になります。逃げられなかった型で育った人が見逃してしまう点です。ですから、他の師匠についた弟子はとらないのです。忠義を立てるのでなく、芸の型を叩き込むという教育のシステムと思います。

でも、今や、無人島に二人ででも行かなければ、型にはめることもできないでしょう。

自由な状況ゆえに、その自由がみえない、自由が使えないのです。自ら不自由にしてしまうのは、自由を縛るものが時代や人など体制として固定しているのでなく、みえない、曖昧なものだからです。だからこそぶつけてつかむ場がいるのです。

No.361

<レッスンメモ>

 

「話し方について」

 

言いたいことをまとめてみる

構成展開を考える

順番を変えてみる

結論を最初と最後で言う

 

文章化してみて添削をする

テーマと小見出しをつけてわかりやすくする

例え話を入れる

スローガンを掲げたりキーワードを入れる

数字を入れる

 

レクチャー前に主催者と話す

早く来た人たちと名刺交換や話をする

情報収集をする

そのままの形で入る

最初に質問を受け付ける

アンケートを出してもらう

できるだけ聞く人の体を動かし、また行動してもらう

途中で休憩を入れたり空気を入れ替える。   [758

No.361

<レクチャーメモ>

 

「ポピュリズム」

 

人々(ポプルス ラテン語)から、ポピュリズム

1892年、人民党 Peoples Party 人民=People

民主主義は、人民主権で、大衆迎合主義(ポピュリズム)に陥りやすい。

1997年、「新しい歴史教科書をつくる会」「日本会議」設立

1998年、「戦争論」小林よしのり

統合か分断か、グローバル化かローカル化かと、二分する論議が盛んになりました。          [649]

「体で学べるようにするには」

○声は音の世界

 

 声は音ですから、聴覚で捉えます。自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。

映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは体感で触覚といってもよいくらいです。波動の高いところには、光、色の区分けとなり、視覚もあるのです。

 かつては、多くの人は、ラジオやレコードに長らく耳を傾けました。それは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。それは体で感じるベースになりました。

今の私たちは、ずっと視覚優位の世界にいます。インドアの、PC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

 

○胎内巡り

 

 会社の研修などに、暗闇を歩くものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。

 お寺で、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下に潜れることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺、そのほかでも、私は何回か体験しました。壁や手すりを頼りに真暗な床下に降りていき、進みます。

 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。

 見えない中で耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰をかがめたりします。

 ライブやコンサートで消電といって照明を消すのは、ステージに集中させるためですね。歌では、耳で聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしたりするのです。注意や集中力を喚起するためです。闇にするのは、耳の力を取り戻すよい方法です。

 

○体感

 

 人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというレベルで触感をもって削り出す技術に使われます。そういえば、坂本龍一氏が、リズムで1000分の1秒の違いで異変に気づく、1000分の40秒では明らかにわかるということを述べていた覚えがあります。

 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。

 小さな頃、野球で、フライを獲るのに、うまい子と下手な子がいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいほどで、ロボットがようやく追いついてきたことと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの構え、その打撃音から瞬時に落下点の検討をつけ、位置方向を捉え、予測して動き、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。

 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんの生み出した動植物に追いつこうとしています。ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

 

○流れ

 

 日本人のスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、すっかり外国人の観光名所になりました。私は、上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。

 ラッシュにも鍛えられました。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、けっこうなプレッシャーを感じる社会になっているのです。私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子などと、どちらが大変だったでしょうか。

 

○馴れる

 

 私たちは頭で考えて動いているつもりで、そうではありません。頭をストップした方がうまくいっていることを知ることなのです。目的地はセットしなくてはいけませんが、同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングです。体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。楽器の演奏でもよいです。

 私は、長年のペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることがありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとひどい、ギアをNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。教習所のときを思い出してください。

人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、捉え直してみてください。

 

○頭を切ること

 

 スポーツをしたり自転車に乗ったりすることは、大脳でなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解がないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えたところで、体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。

 わかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも自転車もピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめなのです。

 これは、できたあとに、我に返って気づくのです。頭が働くことでもわかります。考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。

 ピアノでいうと、何も見ずに一曲丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けなくなる、そういうときに、最初からやり直せばまた弾けますが、間違ったところで考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとできなくなってしまいます。それを忘れた翌日には弾けたりする。歌詞を忘れたときも似ています。ですから、禅では、頭を切る修行をするのです。

 

○体で聞く☆

 

 昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問は、ほとんど出なかったのです。レッスンを受ける前に、大方は片付いていました。大体は、事務的な質問だったのです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。

 質問しにくかったのかもしれませんが、そういう雰囲気ではなかったのだと思います。私にも、質問を聞いたり教えようとする姿勢が、あまりなかったのです。

 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀で自立していたからです。当時、習うというのは、質問などせずに、まずは始める、質問のできるレベルになることが先決という暗黙知がありました。

私も若輩でした。他のトレーナーは質問しやすかったので、彼らを介して質問回答集をつくりました。どのレッスンでも感覚を集中させたかったからです。

 今と異なり、レッスンで学びに行くのは、質問やおしゃべりをするのではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのです。頭しか使えない人は身につかず口から文句が出てくるのです。まさに対照的です。

 

○質問の意味

 

 私も、先生に、本当に知りたくて質問したことはありません。コミュニケーションのツールとして、ときに使いました。まともに質問できるレベルになって、ちゃんとした質問をしよう、と思っていました。会っている時間に、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にもレッスンの邪魔にもなる、レッスンの質が落ちると考えていました。

 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、こちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていると思います。そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。

 私は、自分には否定しているものでさえ、皆さんの場としては、必要であれば選べるものを提供しようとしています。そうする器をもつ努力をしています。

 仮に質問は不要であり不毛だと思っていても、(そんなことはありませんが)研究所としては、質問を受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、気づきの材料です。

 

○パントマイムの人もくるヴォイトレ☆

 

 今は、いきなり声を出してもらうことはありません。

 本人が望めば、声やせりふ、歌のことを学んでいくのですから、聞かせてもらう所からスタートです。しかし、メンタル面に問題のある人や声の病気をもつ人が来るようになり、変わりました。声をうまく出せないのにメンタルは大きく関わります。うまくでなく、声自体を出せない人も、ときにいらっしゃるからです。

 声を舞台で使わない人、ダンサーやパントマイムの人などで、呼吸法を学びに来る人もいます。故障のリハビリを早く終わらせるのにも有効です。そういう人たちも、呼吸を深めたり、指導や共演のときに声が必要です。

 

○受け身体質では

 

 幼い頃、騒いだり叫んだりしていた大きな声が出せなくなったのは、教育のせいでもあるのでしょう。マナーということでは、声を荒げないのは日本だけではありません。しかし、受け身体質に、主体性も奪ってしまう日本の学校教育、音大も含みますが、それは反面教師としての役割をうまく果たせていたのでしょうか。

 アーティストになりたい人は、アーティスティックな毎日のなかで研鑽していくものでしょう。先生の教え方とかトレーナーがよいとか悪いとかに影響されません。考えること自体、無駄なことかもしれません。

 私は、なぜ、自分の表現を、自由な表現を目指す人が自ら不自由に教えられようとするのか、教えてもらわないと自由に表現もできないと思うのかわからなかったのです。逆でしょう。

 こうして、30年も同じことを続けていると、なるほど、日本人というのは、先生だけでなく生徒も不自由をよしと、人に動かされることをよしとするとわかってもきたのです。型という逆境でこそ、表現、自由がみえるのです。方法やメニュで教えられたものなどは役に立ちません。学び取ったものしか、ものにならないのです。

 

○人を選ぶ能力とマッチング

 

 人を選ぶのは、その人の能力です。出会いも同じです。必要な人とは出会うように生きているのです。選べるかというと難しいものですが、そのときに選び損なったと思っても、その経験を基に、いつか選び直せばよいのです。

そこまでいかないうちに、どうのこうの言うだけ時間の無駄です。そんな暇があれば動けばよいのです。愚痴っていると、それで生涯を終えてしまいます。そういう人に「そうでないように変われ」と示しても改心できなかったとすれば、私の力不足です。

 理想というのは、相手あってのもの、ニーズに応え、少しずつ方向を変えていくのも必要ですから、私は焦らなくなりました。自らの理想ははっきりとしているので、ニーズについては、もっとも適切な人と役割分担すればよいわけです。教えられたい人には教えたい人をマッチングすればよいということです。

どんな形であれ、声の研究ができているのが、声の研究所です。そのおかげで私は一人でやるよりもその10倍の学びを得られます。もっとも多くのトレーナーと接することで、もっとも多くのことを教えられたのです。

 研究所のブログは、そのプロセスで、私からのお返しです。どうマッチングしていくのかが自らの世界をつくる最大の秘訣です。そこを学びましょう。

 

○叩き台と絶対量

 

 私は、自分で考えたことをしゃべっていますが、人に「考えろ」とは言いません。本やブログに「考えるように」と書くことはありますが、それは考え尽くさないと考えることがやめられない、人間の性や業へ対してです。こういう文章を元に考え尽して、「もういい、考えたって仕方ない」と開き直るために必要な人もいるからです。

 声は出さないと出てきません。ピアノは弾かないとうまく弾けるようになりません。ます、それだけです。今は、そこが絶対的に足りない人が多いのです。

私を支えているのは、誰よりも声を出した日々があったことです。

 昔は、いらっしゃる人も」そこが充分だったので、その逆として、考えること、頭でなく体として感じることのステップアップとして叩き台が必要だったのです。今回も、このレベルくらいで述べたいのですが、わかって欲しいのは、「絶対に足りていないこと」です。

 これでは、トレーナーに何を相談しても何ともなりません。モチベーション、気力、取り組みといったメンタルについて、今や9割の人たちの問題となりつつあります。何かになっていそうに思ってメソッドや教本が使われるのです。それでは抗うつ剤のようです。

 

○個性

 

 個性的というなら、少なくても役者、歌手なら、昭和の時代の方が強かったでしょう。何十人で歌うような人を歌手と呼んでよいのかという時代錯誤な疑問は置いておきます。声一つ考えても、アーティストは違うものでしょう。

 集団化、シンクロナイズにおいて、共産国家、独裁国家よりも牽制しあって育ちます。世間を重んじる国民性です。それを美しく感じ、仲間とそのように楽しみたい人は、それでよいでしょう。

 でも心身はどうなのか。というのは、声一つにも気質は現れるからです。つくった表情や作り笑いは、しぜんで健康的なものとは違います。個性が出ていなくては、その人の魅力ではありません。

 

○個声

 

 私は、かなり客観的に研究所のヴォイトレをつき離しています。「どんなヴォイトレもよい」と認めています。トレーニングなのだから、それ自体に正誤はありません。自分にプラスになるように使ったらよいし、マイナスになるように使うのならやめればよい。そのために、何がプラスでマイナスか知っていくことです。

 ヴォイトレも、トレーナー独自のヴォイトレ論だけで浮いてしまっている居心地の悪さを感じます。

 正しい声、正しい教え方、正しいヴォイトレを求め、そうでない声を否定しています。そういう流れは居心地よくないのに、そういう声ばかりになりつつあります。

 本物の歌手といえる人、役者といえる人は少なくなりました。レベルが落ちたのも、客やつくり手の多くは気づいていないかもしれません。個性的な俳優、声優も舞台から消えつつあります。やがて、浪花節や時代劇と同じ運命になってしまうのでしょうか。個性とともに個声がなくなっていくのです。それでよいはずがありません。

 

○声量のこと

 

 文明が発達すると声は小さくなります。子供が大人になるように、です。プリミティブな社会で不可欠だったのに、文明が進むと声は大きく出さなくなります。それと、大きく出せなくなるのは異なります。でも使わなくては衰えます。

 声の大きさは声の要素で、必ずしも大きな声がよいのではありません。しかし、トレーニングでは大は小を兼ねます。大きくしか出せない声はよくないし未熟ですが、大きく出せて小さく使うのが、本当の芸に欠かせない技術です。

 それは、器と丁寧さとの関係です。大きく出せるという器で細かくメモライズして丁寧に使うのです。

 マックスは使いません。マックスの想像つかないという、底の見えないところ、それがバックグランドとしてあるから魅力となるのです。

 その懐の深さをもって、きめ細やかに声量の差、メリハリをつけていきます。ミニマム、ピアニッシモの声でもきちんと伝えられるように出すのです。声量は力でなく、力があるから、力を出さなくて声量となるのです。そのために呼吸、発声、共鳴を学ぶのです。

 声量は、今の日本人のもっとも不得意とするところです。マイクでカバーしてしまうため、声質(音色)とともに忘れられつつあります。声の魅力をもてず、ダイナミックにコントロールできないので、世界レベルへ達しないのです。

 カラオケがハイトーンの競争に陥ったように、発音や高音(声域)というわかりやすい低レベルの基準でヴォイトレも使われているのです。

 声量、音色に比べ、声域、発音は、大したことのない問題です。原曲キィで、プロのように歌おうとするから問題が生じるだけです。そればかりにこだわっては、本当の個声を追求できず、才能も磨かれずに終わりかねないのです。

 

○よくないことの勧め

 

 「気を付けの姿勢で胸を張って歌いなさい」最近はこういう指導は、あまりされていないと思います。「大きな口で大きな声を」とか、「口を大きく開けて歌いなさい」という指示もかなり減ったでしょう。

 でも、人によって、場合によっては一時試みてもよいのです。トレーナーは、否定の理由をもっているでしょう。胸を上げすぎると腰のところに空気が入らない(支えやら深い呼吸がしにくい。口でなく口の中を開けるべきだ、響かず、浅くなる)など。

 しかし、何事もやってみることはよいことです。よくないことも、やってみてよくないとわかるのは無駄なこととは思いません。私の想像を超えたよくないこともあるかもしれませんから、全てよいとまでは言いませんが、試して知るのはよいことでしょう。

 頭で、教えられたとおりにやってもみずに従うよりも、自らやって、よくないと知ることも大切です。注意されないように頭で考えて消極的になるのはよくありません。最初からやらないのでなく、レッスンがあるからこそ、何でもやって注意されて、気づいて修正していく方がずっと意味のあることだと思いませんか。

 

○何でもやってみる

 

 トレーナーについているのですから、トレーナーをきちんと使うことです。きちんと使うとは、新しいことを知ってやってみるのでなく、これまでのことを新しくみるということです。

 プロのピッチャーは、きわどいところに投げて、今日のアンパイアのストライクゾーンをつかみます。一流のピッチャーはきわどいカウントを逆手にとり、そのストライクゾーンを自分に有利に決めていくと聞きます。

 頭のよい優等生は、間違いだと思う答えは記入せず、平均点以上をきれいな回答で収めるそうです。しかし、本当に優秀な人は、すべての欄を記入します。そのくらいポジティブでないと、間違っている答えを堂々と記入して、たまに1つ当ててしまうような、勉強ができない人の処世術に負けてしまいます。

 

○思いっきりよくの勧め

 

 私はよく、「思いっきりやってみれば」と言います。「めちゃくちゃはみ出せ」とも、結果、よくなければ自分でわかる。わからなければ、「よい」の範囲のまま、危険なほどなら言うからと。何を恐れることがあるのでしょうか。

 オーディションは、作品でなく自分をみせる場です。周りからはみ出ださずに、どうアピールするのでしょう。熟練した技を得意気にひけらかす人を誰が採りたいと思うでしょうか。でも日本では、そんな人を、安全というので採るのも多いから困るのですが。

 はみ出てひどすぎたら注意されるから直せばよい、自分を出して、それが合わなければ何か言われる。そこで修正してよい。はみ出た上でこそ、チェックする権利があると思ってください。

 

○はみ出す、自分を出す

 

 私が教えないのは、トレーニングは、内なる自分を出す、そのプロセスだからです。バランスよくまとめて声を整えても、インパクトなしには魅力もないのです。

 自分の世界を打ち出していくときに…。

 自分を出すのに、何を教えればよいのでしょう。先生のやり方、ミスしない方法、カラオケの点数アップ?「それでよいのですか」と問うても、「お願いします」というのが、この頃です。

 自分でまとめなくても、はみ出たのがひどければ、自ずとまとまってきます。客を前にして、自ずとまとまろうとします。自ら注意すべきことに気づきます。調整はそこからでよいのです。

 歌やせりふで私は「プロや一流は、あなたたちが思う以上にはみ出しているから、あなたがどんなにはみ出しても足りないと思え」と言います。やりすぎたら注意すると言って、注意する程にやり過ぎる人、そういうことのできる人は、ほとんどいません。よく聞く自主規制、自己規制は魅力規制です。そんな人ばかりで、集まってもつまらないものにしかならないのです。

 

○禁じない

 

 私は「――しなさい」「――するな」は言いません。それは強制で、「それ以外してはいけない」という禁止です。子供のような生徒でも、子供扱いすると子供のままになります。自由奔放な幼児に戻せるならともかく、自由を失った子供に、声や歌まで受験勉強のようにさせてどうなるのでしょう。

 トレーナーの自己満足のためでは、高校の管理野球のようなものです。日本の合唱団もそういう体質でしたが、義務教育の一環と、アートや大人としての場は違うとしましょう。

 「教育したがる人―教育を受けたがる人」の絆は、強いのでしょう。

 教えたい人の熱意はよいのですが、それが、相手の呼吸や意志をコントロールしてしまうのです。心身を緊張させた状態においてしまうなら、さらに問題です。レッスンでリラックスさせていると、本番であがってしまうようになりかねません。

 声を声で教えるのです。怒った声や命じた声は、悪い見本でしょうか。役者や声優は、そういう声も使うので参考になるかもしれません。一人の人間にいろんな声があることを学ぶのはよいでしょう。そういう意味で声の表現力の弱いトレーナーは、別に見本をとるようにすることです。

Vol.102

〇声のセルフイメージ

 

 自分が自分について思い描くことをセルフイメージといいます。セルフイメージとは自己像、それが自信に満ちていくと、行動はパワフルになり、その結果、人生は好転していきます。

 あなたは毎日、どのくらい鏡をみますか。

ミラートレーニングといって、セールスマンは、お客のところに行く前に鏡を見て自分の表情を整えます。これをくり返していると、本当に顔がよくなります。お客は不景気な顔をしたセールスマンから、モノを買いたくはありません。声はどうすればよいのでしょう。

 

 まず、録音した声を聞いてみましょう。  

何度も、自分の声を聞いて慣れてください。

他の人の声も聞いてみましょう。

他の人の声も、同じように変ですね、でも、慣れたら気にならなくなります。

 

〇声に評価を真に受けない

 

 ファッションにとても詳しい人、凝っている人がいます。そういう人は、あなたのセンスについて、面と向かって言わなくとも、一家言もっているはずですね。

 声がよくないと思い込む原因の一つには、まわりに声を評価する人がいることで、声の自己評価に厳しくなった人が少なからずいます。それは、ありがたいことです。しかし、あまり気にしないことです。声についての評価は、けっこうあいまいなもので、必ずしも声そのもののことを言っていないことが多いからです。

 

〇声について学ぼう

 

 声を出し、録音し、聞き返し、それをくり返すことです。必要なのは、スマホのヴォイスレコーダーだけです。

・自分のなかのよい声、悪い声を知る。

・自分で大げさに大きな声にしてみる。

・自分のよい声の状態をとってみる。

・電話の声を録ってみよう。

 

人によって声やその使い方が違うのを知りましょう。

・声のよい人は誰でしょう。

・声優の声を思い浮かべよう。

・ミュージカルスターの声を思い浮かべよう。

・お笑い芸人の声を思い浮かべよう。

 

自分の声をTPO別に分けてみましょう。

・自分の声を相手別に分けてみよう。

・応対別の声を録ってみよう。

 

 大切なのは、1.声を出すこと 2.声を聞くこと 3.自分の声を聞くことです。自分の声を聞くためには、声を録って聞くのです。

 

〇日本語を勉強しよう

 

 あなたは、外国語を勉強していますか。英会話学校に行ったことはありますか。

日本語については、どうでしょう。習ったことはありますか。

 私たちは、英語などの外国語に接してはじめて、発音というものを意識させられます。もちろん小学校で日本語50音の発音などはありますが、ひらがなを読めると、何ら困難を感じないはずです。

TVやラジオで外国人向けの日本語会話があります。「話し方講座」なども勉強になります。視聴してみてください。声に親しむこともできるでしょう。

 

〇国語を音声で学び直す

 

学校では、詩の読み方などで、声の使い方、トーン、間のあけ方、説得力など、学ぶこともなく、国語教育を終えてしまいます。音声の発音や表現力をマスターさせていく他国の言語とは、違うため、耳と声の力がつかないのです。

これを補うには、アナウンサーや役者の基礎トレーニングが有効です。

 

〇スピーチでトレーニング

 

 スピーチの原稿をつくり、それを直すのに苦労した人はたくさんいます。しかしヴォイスレコーダーに入れて、それを聞き返し直す人は、ほとんどいません。

 家族などのまえでリハーサルをやるのもよいでしょう。なぜ録音を再生して聞かないのでしょう。自分の声や話し方をこれほど客観視できる方法はありません。

 

○自分の声は嫌

 

 たぶん自分の声は聞きたくないからです。聞かせたいのに聞きたくない。なんて身勝手でしょう。でも、うまく伝えたいと思っているのです。

それが悪しき風習のように極まったのがカラオケです。カラオケ公害といってもよいかもしれません。自分も聞きたくない声を誰が聞きたいものでしょうか。

 もう一つは「聞いたってわからない」というのがあるのでしょう。

 それでも家族でもよいから、自分の声の感じを話の内容と別にチェックして、アドバイスしてもらうのは、よいことです。

 

〇話し方のチェック

 

 人前に立つ人も、文章の論理や内容についてのチェックしかしません。聞いていて難しすぎないか、わからない言葉はないかと、家族レベルでわかるようにチェックするくらいです。

 しかし本当にチェックすべきものは、用語ではありません。大切なのは内容がわかりやすいだけではなく、わかりやすい話し方をしているかです。ここが肝心です。

 確かに内容にはよしあしあります。しかし、それ以上に大きいのは、話し方、呼吸、声の使い方なのです。

 

〇伝え方のチェック

 

難しいことをとてもわかりやすく話せる人がいます。簡単なことをよくわからないように話す人もいます。

 チェックすべきことは、内容でなく伝え方です。100点満点の採点なら、内容30点、声での伝え方70点なのです。

 そこに頭がいっていないから、文章を書き替えて終わっているのです。その挙げ句、あがって支離滅裂になる。自分の言葉でないなら、なおさらです。

 お笑いでも、ネタのよしあしも大切ですが、タイミングや声の使い方によって笑いがとれるかが決まります。どんなよいネタも、声のノリをはずしたら、自滅するだけです。

 

○再生チェックで直せる

 

 録音して、3ヵ所よくないところをチェックしてみてください。次に吹き込んでください。

 これを、3回くり返してみてください。かなりよくなりますよ。

 

○音読ブーム

 

 今の音読ブームは、それを目と口の相乗作用でやっています。ボケ防止に、大ブームです。音読ドリルが大ヒットしました。「声に出して読みたい日本語」も類書が次々と出ています。

 

○聴く力を養う

 

 あなたの耳の力が弱ければ、これも補いましょう。

 耳の弱い人(これは聞こえないということと違います)。

1.英語の発音が苦手だった。

2.歌詞、メロディが覚えられない。

3.ラジオが聞きづらい。

4. 音楽があまり好きではない。リズム感に自信がない。

 

 耳の強い人。

1.ものまねがうまい。

2.カラオケが得意。

3.外国語の聞きとりに苦労しない。

. 聞いたことをすぐ覚えられる

 

〇耳に入ってくる声

 

 自分の目標をしっかりとイメージしたら、自分に必要な情報は入ってきます。声も同じです。

 あなたの名前を呼ばれたら、あなたにはとてもよく聞こえるはずです。

昔、ある国の空港で私は場内呼び出しを受けました。そのとき放送を何も聞いていなかったのに、自分の名前だけは聞こえました。

機上で映画をみていて眠くなってきて目をつぶっていたのに、自分の知り合いの名前と同じ名前が出たら、耳に飛び込んできます。

 自分に関係するもの、自分の好むもの、必要なものは、声を通じても入ってくるのです。

 

○カクテルパーティ効果

 

 パーティで、たくさんの人のなかから、聞きたい人の声だけを集中して聞き取ることのできる能力が、人間の耳にあります。これを、カクテルパーティにちなんで、カクテルパーティ効果といいます。

 あなたも、友人の声なら、すべてをおよそ誰なのか聞き分けられるはずです。誰の声かを瞬時に識別できる力があるのです。人間ってすごいですね。

 

〇アンテナを立てよう

 

 声を聞く能力は、あまり測られてきませんでしたが、かなりの個人差があります。

学ぶスタイルにも、人によってそれぞれ型があります。目でみる、耳できく、手を動かし書いてみる、口で言ってみる、それぞれに得手不得手があります。

 五感をもっと利用するために、自分の得意な学び方を組み合わせるとよいでしょう。

 

〇心の声

 

あなたの好きな人の声や身内の声は、黙っていてもよく聞こえてきます。そのうち心のなかに聞こえてくる。おかあさんの声、そして神の声と。それに従えばよいのです。

「答えあわせしない」 No.361

日本では、目的に問うことを抜かして、答えあわせを学んでいるので、表現に辿りつけません。それに気づかないことが問題です。問うこともなく、時間だけが経ってしまい、才能や素質がなかったとあきらめるのです。自分のことなのに、まわりの評価だけを頼りにやっているからです。それは、問わずに答えを求めたところで、すでに違っているわけです。

他人をまねたり、トレーナーのトレーニングを受けたりするのは、スタート前の準備段階です。それで歌えたりトレーニングの課題ができていっても、本当の問題は、そこからです。

ですから、私は、声をどう使うかを先に(遅くとも、ここでのトレーニング中からは)しっかりと考えていくように言っています。できるだけ早くから、問うように、ということです。

トレーニングは、目的ではなく、ツールの一つにすぎません。そういうことを言わなくてはならないほど、みえにくくなっているのです。

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