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「体で学べるようにするには」

○声は音の世界

 

 声は音ですから、聴覚で捉えます。自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。

映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは体感で触覚といってもよいくらいです。波動の高いところには、光、色の区分けとなり、視覚もあるのです。

 かつては、多くの人は、ラジオやレコードに長らく耳を傾けました。それは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。それは体で感じるベースになりました。

今の私たちは、ずっと視覚優位の世界にいます。インドアの、PC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

 

○胎内巡り

 

 会社の研修などに、暗闇を歩くものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。

 お寺で、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下に潜れることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺、そのほかでも、私は何回か体験しました。壁や手すりを頼りに真暗な床下に降りていき、進みます。

 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。

 見えない中で耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰をかがめたりします。

 ライブやコンサートで消電といって照明を消すのは、ステージに集中させるためですね。歌では、耳で聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしたりするのです。注意や集中力を喚起するためです。闇にするのは、耳の力を取り戻すよい方法です。

 

○体感

 

 人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというレベルで触感をもって削り出す技術に使われます。そういえば、坂本龍一氏が、リズムで1000分の1秒の違いで異変に気づく、1000分の40秒では明らかにわかるということを述べていた覚えがあります。

 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。

 小さな頃、野球で、フライを獲るのに、うまい子と下手な子がいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいほどで、ロボットがようやく追いついてきたことと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの構え、その打撃音から瞬時に落下点の検討をつけ、位置方向を捉え、予測して動き、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。

 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんの生み出した動植物に追いつこうとしています。ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

 

○流れ

 

 日本人のスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、すっかり外国人の観光名所になりました。私は、上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。

 ラッシュにも鍛えられました。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、けっこうなプレッシャーを感じる社会になっているのです。私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子などと、どちらが大変だったでしょうか。

 

○馴れる

 

 私たちは頭で考えて動いているつもりで、そうではありません。頭をストップした方がうまくいっていることを知ることなのです。目的地はセットしなくてはいけませんが、同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングです。体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。楽器の演奏でもよいです。

 私は、長年のペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることがありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとひどい、ギアをNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。教習所のときを思い出してください。

人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、捉え直してみてください。

 

○頭を切ること

 

 スポーツをしたり自転車に乗ったりすることは、大脳でなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解がないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えたところで、体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。

 わかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも自転車もピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめなのです。

 これは、できたあとに、我に返って気づくのです。頭が働くことでもわかります。考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。

 ピアノでいうと、何も見ずに一曲丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けなくなる、そういうときに、最初からやり直せばまた弾けますが、間違ったところで考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとできなくなってしまいます。それを忘れた翌日には弾けたりする。歌詞を忘れたときも似ています。ですから、禅では、頭を切る修行をするのです。

 

○体で聞く☆

 

 昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問は、ほとんど出なかったのです。レッスンを受ける前に、大方は片付いていました。大体は、事務的な質問だったのです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。

 質問しにくかったのかもしれませんが、そういう雰囲気ではなかったのだと思います。私にも、質問を聞いたり教えようとする姿勢が、あまりなかったのです。

 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀で自立していたからです。当時、習うというのは、質問などせずに、まずは始める、質問のできるレベルになることが先決という暗黙知がありました。

私も若輩でした。他のトレーナーは質問しやすかったので、彼らを介して質問回答集をつくりました。どのレッスンでも感覚を集中させたかったからです。

 今と異なり、レッスンで学びに行くのは、質問やおしゃべりをするのではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのです。頭しか使えない人は身につかず口から文句が出てくるのです。まさに対照的です。

 

○質問の意味

 

 私も、先生に、本当に知りたくて質問したことはありません。コミュニケーションのツールとして、ときに使いました。まともに質問できるレベルになって、ちゃんとした質問をしよう、と思っていました。会っている時間に、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にもレッスンの邪魔にもなる、レッスンの質が落ちると考えていました。

 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、こちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていると思います。そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。

 私は、自分には否定しているものでさえ、皆さんの場としては、必要であれば選べるものを提供しようとしています。そうする器をもつ努力をしています。

 仮に質問は不要であり不毛だと思っていても、(そんなことはありませんが)研究所としては、質問を受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、気づきの材料です。

 

○パントマイムの人もくるヴォイトレ☆

 

 今は、いきなり声を出してもらうことはありません。

 本人が望めば、声やせりふ、歌のことを学んでいくのですから、聞かせてもらう所からスタートです。しかし、メンタル面に問題のある人や声の病気をもつ人が来るようになり、変わりました。声をうまく出せないのにメンタルは大きく関わります。うまくでなく、声自体を出せない人も、ときにいらっしゃるからです。

 声を舞台で使わない人、ダンサーやパントマイムの人などで、呼吸法を学びに来る人もいます。故障のリハビリを早く終わらせるのにも有効です。そういう人たちも、呼吸を深めたり、指導や共演のときに声が必要です。

 

○受け身体質では

 

 幼い頃、騒いだり叫んだりしていた大きな声が出せなくなったのは、教育のせいでもあるのでしょう。マナーということでは、声を荒げないのは日本だけではありません。しかし、受け身体質に、主体性も奪ってしまう日本の学校教育、音大も含みますが、それは反面教師としての役割をうまく果たせていたのでしょうか。

 アーティストになりたい人は、アーティスティックな毎日のなかで研鑽していくものでしょう。先生の教え方とかトレーナーがよいとか悪いとかに影響されません。考えること自体、無駄なことかもしれません。

 私は、なぜ、自分の表現を、自由な表現を目指す人が自ら不自由に教えられようとするのか、教えてもらわないと自由に表現もできないと思うのかわからなかったのです。逆でしょう。

 こうして、30年も同じことを続けていると、なるほど、日本人というのは、先生だけでなく生徒も不自由をよしと、人に動かされることをよしとするとわかってもきたのです。型という逆境でこそ、表現、自由がみえるのです。方法やメニュで教えられたものなどは役に立ちません。学び取ったものしか、ものにならないのです。

 

○人を選ぶ能力とマッチング

 

 人を選ぶのは、その人の能力です。出会いも同じです。必要な人とは出会うように生きているのです。選べるかというと難しいものですが、そのときに選び損なったと思っても、その経験を基に、いつか選び直せばよいのです。

そこまでいかないうちに、どうのこうの言うだけ時間の無駄です。そんな暇があれば動けばよいのです。愚痴っていると、それで生涯を終えてしまいます。そういう人に「そうでないように変われ」と示しても改心できなかったとすれば、私の力不足です。

 理想というのは、相手あってのもの、ニーズに応え、少しずつ方向を変えていくのも必要ですから、私は焦らなくなりました。自らの理想ははっきりとしているので、ニーズについては、もっとも適切な人と役割分担すればよいわけです。教えられたい人には教えたい人をマッチングすればよいということです。

どんな形であれ、声の研究ができているのが、声の研究所です。そのおかげで私は一人でやるよりもその10倍の学びを得られます。もっとも多くのトレーナーと接することで、もっとも多くのことを教えられたのです。

 研究所のブログは、そのプロセスで、私からのお返しです。どうマッチングしていくのかが自らの世界をつくる最大の秘訣です。そこを学びましょう。

 

○叩き台と絶対量

 

 私は、自分で考えたことをしゃべっていますが、人に「考えろ」とは言いません。本やブログに「考えるように」と書くことはありますが、それは考え尽くさないと考えることがやめられない、人間の性や業へ対してです。こういう文章を元に考え尽して、「もういい、考えたって仕方ない」と開き直るために必要な人もいるからです。

 声は出さないと出てきません。ピアノは弾かないとうまく弾けるようになりません。ます、それだけです。今は、そこが絶対的に足りない人が多いのです。

私を支えているのは、誰よりも声を出した日々があったことです。

 昔は、いらっしゃる人も」そこが充分だったので、その逆として、考えること、頭でなく体として感じることのステップアップとして叩き台が必要だったのです。今回も、このレベルくらいで述べたいのですが、わかって欲しいのは、「絶対に足りていないこと」です。

 これでは、トレーナーに何を相談しても何ともなりません。モチベーション、気力、取り組みといったメンタルについて、今や9割の人たちの問題となりつつあります。何かになっていそうに思ってメソッドや教本が使われるのです。それでは抗うつ剤のようです。

 

○個性

 

 個性的というなら、少なくても役者、歌手なら、昭和の時代の方が強かったでしょう。何十人で歌うような人を歌手と呼んでよいのかという時代錯誤な疑問は置いておきます。声一つ考えても、アーティストは違うものでしょう。

 集団化、シンクロナイズにおいて、共産国家、独裁国家よりも牽制しあって育ちます。世間を重んじる国民性です。それを美しく感じ、仲間とそのように楽しみたい人は、それでよいでしょう。

 でも心身はどうなのか。というのは、声一つにも気質は現れるからです。つくった表情や作り笑いは、しぜんで健康的なものとは違います。個性が出ていなくては、その人の魅力ではありません。

 

○個声

 

 私は、かなり客観的に研究所のヴォイトレをつき離しています。「どんなヴォイトレもよい」と認めています。トレーニングなのだから、それ自体に正誤はありません。自分にプラスになるように使ったらよいし、マイナスになるように使うのならやめればよい。そのために、何がプラスでマイナスか知っていくことです。

 ヴォイトレも、トレーナー独自のヴォイトレ論だけで浮いてしまっている居心地の悪さを感じます。

 正しい声、正しい教え方、正しいヴォイトレを求め、そうでない声を否定しています。そういう流れは居心地よくないのに、そういう声ばかりになりつつあります。

 本物の歌手といえる人、役者といえる人は少なくなりました。レベルが落ちたのも、客やつくり手の多くは気づいていないかもしれません。個性的な俳優、声優も舞台から消えつつあります。やがて、浪花節や時代劇と同じ運命になってしまうのでしょうか。個性とともに個声がなくなっていくのです。それでよいはずがありません。

 

○声量のこと

 

 文明が発達すると声は小さくなります。子供が大人になるように、です。プリミティブな社会で不可欠だったのに、文明が進むと声は大きく出さなくなります。それと、大きく出せなくなるのは異なります。でも使わなくては衰えます。

 声の大きさは声の要素で、必ずしも大きな声がよいのではありません。しかし、トレーニングでは大は小を兼ねます。大きくしか出せない声はよくないし未熟ですが、大きく出せて小さく使うのが、本当の芸に欠かせない技術です。

 それは、器と丁寧さとの関係です。大きく出せるという器で細かくメモライズして丁寧に使うのです。

 マックスは使いません。マックスの想像つかないという、底の見えないところ、それがバックグランドとしてあるから魅力となるのです。

 その懐の深さをもって、きめ細やかに声量の差、メリハリをつけていきます。ミニマム、ピアニッシモの声でもきちんと伝えられるように出すのです。声量は力でなく、力があるから、力を出さなくて声量となるのです。そのために呼吸、発声、共鳴を学ぶのです。

 声量は、今の日本人のもっとも不得意とするところです。マイクでカバーしてしまうため、声質(音色)とともに忘れられつつあります。声の魅力をもてず、ダイナミックにコントロールできないので、世界レベルへ達しないのです。

 カラオケがハイトーンの競争に陥ったように、発音や高音(声域)というわかりやすい低レベルの基準でヴォイトレも使われているのです。

 声量、音色に比べ、声域、発音は、大したことのない問題です。原曲キィで、プロのように歌おうとするから問題が生じるだけです。そればかりにこだわっては、本当の個声を追求できず、才能も磨かれずに終わりかねないのです。

 

○よくないことの勧め

 

 「気を付けの姿勢で胸を張って歌いなさい」最近はこういう指導は、あまりされていないと思います。「大きな口で大きな声を」とか、「口を大きく開けて歌いなさい」という指示もかなり減ったでしょう。

 でも、人によって、場合によっては一時試みてもよいのです。トレーナーは、否定の理由をもっているでしょう。胸を上げすぎると腰のところに空気が入らない(支えやら深い呼吸がしにくい。口でなく口の中を開けるべきだ、響かず、浅くなる)など。

 しかし、何事もやってみることはよいことです。よくないことも、やってみてよくないとわかるのは無駄なこととは思いません。私の想像を超えたよくないこともあるかもしれませんから、全てよいとまでは言いませんが、試して知るのはよいことでしょう。

 頭で、教えられたとおりにやってもみずに従うよりも、自らやって、よくないと知ることも大切です。注意されないように頭で考えて消極的になるのはよくありません。最初からやらないのでなく、レッスンがあるからこそ、何でもやって注意されて、気づいて修正していく方がずっと意味のあることだと思いませんか。

 

○何でもやってみる

 

 トレーナーについているのですから、トレーナーをきちんと使うことです。きちんと使うとは、新しいことを知ってやってみるのでなく、これまでのことを新しくみるということです。

 プロのピッチャーは、きわどいところに投げて、今日のアンパイアのストライクゾーンをつかみます。一流のピッチャーはきわどいカウントを逆手にとり、そのストライクゾーンを自分に有利に決めていくと聞きます。

 頭のよい優等生は、間違いだと思う答えは記入せず、平均点以上をきれいな回答で収めるそうです。しかし、本当に優秀な人は、すべての欄を記入します。そのくらいポジティブでないと、間違っている答えを堂々と記入して、たまに1つ当ててしまうような、勉強ができない人の処世術に負けてしまいます。

 

○思いっきりよくの勧め

 

 私はよく、「思いっきりやってみれば」と言います。「めちゃくちゃはみ出せ」とも、結果、よくなければ自分でわかる。わからなければ、「よい」の範囲のまま、危険なほどなら言うからと。何を恐れることがあるのでしょうか。

 オーディションは、作品でなく自分をみせる場です。周りからはみ出ださずに、どうアピールするのでしょう。熟練した技を得意気にひけらかす人を誰が採りたいと思うでしょうか。でも日本では、そんな人を、安全というので採るのも多いから困るのですが。

 はみ出てひどすぎたら注意されるから直せばよい、自分を出して、それが合わなければ何か言われる。そこで修正してよい。はみ出た上でこそ、チェックする権利があると思ってください。

 

○はみ出す、自分を出す

 

 私が教えないのは、トレーニングは、内なる自分を出す、そのプロセスだからです。バランスよくまとめて声を整えても、インパクトなしには魅力もないのです。

 自分の世界を打ち出していくときに…。

 自分を出すのに、何を教えればよいのでしょう。先生のやり方、ミスしない方法、カラオケの点数アップ?「それでよいのですか」と問うても、「お願いします」というのが、この頃です。

 自分でまとめなくても、はみ出たのがひどければ、自ずとまとまってきます。客を前にして、自ずとまとまろうとします。自ら注意すべきことに気づきます。調整はそこからでよいのです。

 歌やせりふで私は「プロや一流は、あなたたちが思う以上にはみ出しているから、あなたがどんなにはみ出しても足りないと思え」と言います。やりすぎたら注意すると言って、注意する程にやり過ぎる人、そういうことのできる人は、ほとんどいません。よく聞く自主規制、自己規制は魅力規制です。そんな人ばかりで、集まってもつまらないものにしかならないのです。

 

○禁じない

 

 私は「――しなさい」「――するな」は言いません。それは強制で、「それ以外してはいけない」という禁止です。子供のような生徒でも、子供扱いすると子供のままになります。自由奔放な幼児に戻せるならともかく、自由を失った子供に、声や歌まで受験勉強のようにさせてどうなるのでしょう。

 トレーナーの自己満足のためでは、高校の管理野球のようなものです。日本の合唱団もそういう体質でしたが、義務教育の一環と、アートや大人としての場は違うとしましょう。

 「教育したがる人―教育を受けたがる人」の絆は、強いのでしょう。

 教えたい人の熱意はよいのですが、それが、相手の呼吸や意志をコントロールしてしまうのです。心身を緊張させた状態においてしまうなら、さらに問題です。レッスンでリラックスさせていると、本番であがってしまうようになりかねません。

 声を声で教えるのです。怒った声や命じた声は、悪い見本でしょうか。役者や声優は、そういう声も使うので参考になるかもしれません。一人の人間にいろんな声があることを学ぶのはよいでしょう。そういう意味で声の表現力の弱いトレーナーは、別に見本をとるようにすることです。

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