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「正しいということ」

○正しいとは何か

 

 いらっしゃる人は、間違えずに学びたいと思っています。誰しもがそうでしょう。理論的で科学的であることを感じて研究所にいらっしゃいます。

声は、顔と同じく、正しいというのはありません。しかし、流行はあります。表情の演技と同じく、声の表情も問われます。それを支える地力や機能も大切です。伝達の機能として優劣もあります。

NHKのアナウンサーの発音やイントネーションは、放送において「正しい」でしょう。しかし、正しい喉の使い方、共鳴のさせ方、高い音やミックスヴォイスの出し方などというのと、声そのものの魅力づくりとは違うのです。

結論からいうと、「やり方」はアプローチの一つにすぎません。声の出せる体や感覚がわかる、身につく、鍛えられる、調整される、その結果として、声が通じるようになります。しかし、それはアナウンスメントの教育の延長には存在しないのです。

 

○正しいと正しくない

 

 「喉が痛くならないように」「安定して声が使えるように」など、ヴォイトレにも、いろんな目的があります。それぞれに対応しています。すべてを同時に叶えられることが理想ですが、大体は、必要や優先順も人によって違うわけです。そういう課題と自分の可能性、声の限界を明らかにしていくために行うのが、私の考えるヴォイトレです。

「正しい」と考えてしまうと「正しくない」が出てきます。「正しい」ということを行うのでなく、結果として「正しい」と思われたらよいわけですが、このときは、実際は、深くてすごいとか、心地よいとか、通るとかで、あまり「正しい」にならないのです。いや、正しくは、「正しい」など思わせない方がよいのです。説得力が増すと「正しい」は消えてしまうのです。なのに、教えるのには、「正しくない」ことをやめるのは、「正しくない」から「してはいけない」となってくるのです。指導は、大半が「こうするな」「こうしなさい」となります。

間違いを指導するのを間違いとは言いません。しかし、体のことは、間違いをなくしても正しくはならないのです。正しくなってもよくはならないのです。「正しい」とか「正しくない」で判断される次元を超えなくてはいけないからです。

 

○正すのでなく、入れる

 

 音程の外れる人の直し方で、音程の間違いを指摘して正しく直しても付け焼刃にすぎないという問題で例えてきました。外れることに気づけないことが問題です。聞き直して気づくならまし、瞬時に外れたのに気づくなら声の問題に入れるでしょう。

カラオケ採点勝負ならともかく、ステージなら、どれも五十歩百歩で根本的に全く足らないのです。この場合、音感のトレーニングとして、直すのでなく入れることが必要です。正しくないのを直すのでなく、足らないのを入れるのです。入れたものが出てくるのですから、結果が出るまで時間のかかることです。

 

○間違いを直さない

 

プレイヤーのレベルでいうなら、100回弾いても間違えないのがあたりまえの人と、2回弾くとミスタッチが出る人との差は大きいです。絶望的なくらいに、この差が大きいことがわかりますか。小学生でも10回弾いても間違えない子は何万人といるのです。

間違わなかったとしても、それは間違いをカバーしただけです。ストレートにいうと、ごまかしただけ、正しく見せかけただけです。習字での二度書きみたいなものです。

 習いに来る人は、それが学ぶことだと思っている人がたくさんいます。プロは、そういうレベルの間違いを犯さないのです。そういう「違いの差」をつかまずに習っても、仕方ないとは言いませんが、頭打ちです。その違いに気づくと自ら学べるようになります。

そういう根本に気づくようになる環境を求めること、そういう人につくことの必要性がわかるのも才能です。そういう人についてもわからないのは才能がないということです。この場合の「プロ」は、プロのことでなく、高めにレベルをとらないと安易に解釈を図ってしまいがちなので、ハイレベルとして使っています。プロを目指していないから関係ないということにはなりません。

 

○「正しい」の抹消

 

プロのピアニストは、ほとんどミスタッチはしないでしょうが、歌はプロでもけっこう間違えます。歌詞を間違えることもあります。しかし、それくらいで歌はだめにならないのです。そこからだめになることもありますが。

発声を正しくしたら歌唱力がつくと思う人がいます。12割はよくなっても、さして変わらないはずです。なぜなら、歌唱力とは、説得力で、発声の正しさとは異なる次元の力だからです。「正しい」―「正しくない」の軸と、「伝わる」―「伝わらない」の軸は、次元が違うのです。

ヴォイトレを表現力、歌唱力から切り離して教わることもあるでしょう。体や呼吸だけになると、なおさら「正しい」―「正しくない」はわかりにくくなるはずです。自らの実感が頼りになるので、自分本位になりやすいです。☆  

表現の必要性に耐えうるか、必要の程度は、表現やその人によって違うので、程度問題です。トレーニングでは、大きめに余力までつけておくとよいと考えることです。

「正しい」のを目指し、「正しくない」のはよくないから「正しくない」ようにしない、ではだめです。なのに、間違いを正すことが、レッスンになっているケースが、まじめで熱心な人や先生ほど多いのです。

教わっても、それを守らないという学び方もあるので、全てを否定しません。そこが私のよいところですが、常識やルールを外れるのが、アーティストでしょう。ただ、ルールを破るのでなく、創り上げることで「正しい」などを消滅させるパワーがいるのです。

 

○才能と運

 

 「すべきこと」「しなければならないこと」があります。それは「した方がよいこと」であって、それをする自由、しない自由は本人にあります。時期やタイミングもあります。それを捉えられるのは才能がある、見過ごすのは才能がないとなります。普通の人は、それを運と言います。

他人からの強制を外れたところに表現は、あるのです。たとえ、表現を行使する状況に制限がつけられ規制があっても、そんなことは大したことではありません。

だからこそトレーニングは、そこから解放され、思いっきり思うがままに自分をぶつけることです。

それを基準に対比させて向上させていくのが、レッスンであればよいのです。いつか、その基準に対比できなくなったときに、新しいものが生まれているのです。

 

○慣れて安定する

 

現実には、思うがままの「思い」がないどころか、「誰かの思うがまま」にやりたい人がほとんどです。やりたいといってやらされているのです。それであれば、トレーナーの言う通りに慣れていくのが優秀で勉強ができるとなります。受験勉強と似ています。

日本は、仕事を与える側が、そのくらいできたらまあよいという程度の期待でしょうか。そういう選択も私はできるようにしています。そのようにしてから、研究所のレッスンは、よくも悪くも安定しました。成果がわかりやすく、実践的になったのです。ただ、そこはプロセスに過ぎないのです。

 

○場の要求レベル

 

「すべき」や「しなければいけない」を排除するのに、あるいは超えることを知るために、「すべきこと」や「しなくてはいけない」ことを逆に徹底して押し付けるやり方があります。徹底していたら反発反抗、かつ自立心が生じるきっかけになるものです。

思いがあっても形にはならないので、形にするツールを選び、それを実践に使えるレベルにまでアップさせます。必死でそのようにしなくてはなりません。誰かから「すべきこと」として与えられるのでなく、自らが自らに課すようになっていく、そして周りの要求レベルよりもずっと高く目標を掲げ、挑んでいくのです。

そのことがわかるまで、私は、その場で言うのでなく、文章などで述べてきました。場において、ストレートに使うことばは両刃の剣です。私は、レッスンはことばのない場として維持したいのです。

やむなく場の終わりでコメントすることになってしまいました。リップサービスが求められるようになったので、グループレッスンをやめました。場の程度を下げては元も子もありません。

 

○育つ

 

 昔から理不尽、不条理をぶつけてくる師だけが、師を超える弟子を育てました。それが分家や破門、仲違いであっても、要は、そこを出て20年後、30年後、その人物が芸がどうなったか、で問うのです。

 反体制下に、反抗を経て、体制を打ち破る自らを確立する育成システム、本質を選び取り、新しい時代の新たな息吹を入れて変じていく、そのために、縦社会、父権制、子弟制は、一人前に育てるのに適したシステムでした。理由も必要もなしに体制ができてくることはありません。そこでは9人を切り捨てても、1人のエリートを出したのです。

今や、大人になるということさえ、多勢で否定されていき、落ちこぼれだけでなく、抜きんでるもよしとしないし選ばれていかない状況です。これからの日本の社会では、従来のシステムやノウハウでの維持をするのは難しいでしょう。

そのときに実を失わずに、より高いレベルに設定するのは、どうすればよいのかは、大きな課題です。

誰もが同じように落ちこぼれず、秀れすぎず、横並びに並んでゴールしたいという日本人の気質のなかでは、本質的なものが失われていきます。底上げはしたがスターは出てこない現状は、それを証明しているのです。

 

○すぐれるということ

 

 個人がそれぞれに感じていることが、そのままで肯定できるとは言えません。芸は、車が運転できるとか自転車に乗れるという、歩くようなことの延長上で誰もが行えるようになることではないからです。

ヴォイトレをそこにおくというトレーナーのスタンスもあります。ヴォイトレは、誰でもできる簡単なものという考えです。これはできているというのを、どう区別するのかが曖昧になりやすいです。ヴォイトレでなくても何かを長くやっているとしぜんにできている、ということもあるからです。

場によって、当てはまることもあります。そのレベルでは、皆が参加しているので、公共のルール、暗黙に守らなくてはいけないことが出てきます。そうした方がいいということとは、マニュアルのことです。カルチャースクールの和気あいあいとしたクラスのカリキュラムのようなものです。

それなら、自由に息もできない子弟制の方が、長い眼でみると人は育つでしょう。なぜなら、自分の実力の否定から始まるからです。ゼロやマイナスからのスタートを切るために必要なのが、否定であり、大逆転です。

 

○実感のレベル

 

感じていることにもレベルがあります。このあたりは、好き嫌いでなく、すぐれているかどうかが問題です。

 一般レベルでの個人の感じることの大半は、好き嫌いです。よくある感想です。それは消費者、受け手、聴衆のものです。

すぐれているものは、「正しい」でなく、「すごい」に、あるいは、「おもしろい」とか「格好いい」(ヤバい)に向かうものです。レベルとはいうより、本当は、何かで測れるようなスケールでないのが、本物、一流です。

そこはトレーニング、育てる対象にならないので、プロということで述べました。プロになるプロセスを経て一流、怪物のような人が出てくるとは限りません。この論にも、私の考えも超えたところに、息づくものを殺してはいけないというサンクチャリー(聖域)があります。殺されるくらいではヒーローになれないので、そんな心配は不要でしょう。

出てくる人はどこにいても出てくるのです。そこは考える必要がありません。

私の話が、その人の人生の1ページの1行にもなっていれば、ありがたいものです。要は、1パーセントもないかもしれない可能性を殺さないこと、トレーナーもですが、本人が自ら殺してしまわないことが第一です。

 

○歌、せりふの成立を

 

可能性を、教育で伸ばすのを壊さないことを問います。私たちは、教育なしに、この社会を生きられません。大人になるのに学ぶことと、それをどう整合すればよいのかを考えてみます。

教育のせいにはできません。正しい教育も正しい育ち方もないからです。

社会やスポーツは、ルールと場をさだめ、それで、才能を選び育てることもがきます。結果として、感動できるハイレベルな技能をみせられる人が育っています。

アートも似ています。アートを創り出すこと。アートでありたくとも、クラシックもポピュラーも固定しつつあります。

新しいスポーツが、これまでのスポーツを乗り越えるには、これまでのスポーツを超えていくスーパーヒーローが必要です。ヒーロー一人の登場で、すべてが変わります。憧れる人が増えると、層が厚くなり、全体のレベルがアップします。裾野が広がることでトップレベルにも才能が集まります。プロの基準が定まって、人に見せて興行するプロが成立します。

 声も同じです。ただ、相撲などと似て、神事にも使われていたものを、歌やせりふに限定するのは無理があります。個分化され形骸化していくのは、根本を失っていくからです。歌もせりふも日常の延長で、そのクライマックスにあったのです。

 

○動き、しぜん、裸になる

 

 自分の声は消していけない。しかし、今の声ではいけない。自分本来の声を取り返さなくてはいけない。「―いけない」を使いたくないのですが、「いけない」からやり始めるのも、動機の一歩です。

自分の声、体というものはどうなっているのか、精神、心、頭など、いろんなものとどのように関わっているのか、を問うのです。声と向き合うには、声だけでなく、声と関わる時空のことと対峙すること、常に時代に巻き込まれざるをえないのです。

今の日本の生活で失われた声、歌、ことばを、失われつつある声と、声の創り出してきた芸能を考えるときに、自らの声、体を把握するのは当然のことでしょう。しぜんなところで服を脱ぎすてたら、本来の声が出るのか、是非やってみてください。

ワークショップでは、かつては、幼い頃へ戻して、素直な声を取り戻させました。童謡や唱歌もわらべ歌もそのきっかけとして使いました。しかし、今の日本人には取り戻せる声がどこにあるのでしょうか。生まれてから使ってきた声というのがあるのでしょうか。既成服をオーダーメイドにしていくのです。

 

○自分自身の判断について

 

自分の声がよくわからないからこそ、レッスンに行くわけです。今の声を知り、将来の声にしていく。その位置づけの把握とギャップの埋め方がレッスンのメインメニュです。

「レッスンは判断力をつけるため」と言っていますが、自分のことは生徒さんのことよりもずっとわからないので、いろんな先生と接し、今も学んでいます。

先生、トレーナー、生徒さんを通して、自分のよし悪し、可能性や限界を学びましょう。特に秀でた人、プロとその真逆のメンタルやフィジカルに恵まれていない人から学ぶことが多いのです。

わかっているつもりで生徒さんに教えては押し付けになるので、よくないと思っています。それで「一回で」とか、「その場ですぐに」できる方法を望まれますが、とても気をつけています。生徒さんは、トレーナーは全てわかっていて最良のことを選択して与えてくれると思いたいのです。それでは、誰でもできる方法で、誰でもうまく上達させてくれるというマニュアル信仰になります。

情報を出しているのは、今回のレッスンでなく、継続したレッスンを行うため、問題の根本的な解決のためです。そこには幾分の信用、権威づけも必要だからです。

自由にさせると、その自由で不安になって続けられない人も少なからずいます。トレーナーでもそういう人が多いのですから無理もないでしょう。

ですが、最初から一方的に導くのでなく、時に応じて出してくるようになるのを待つことでしょう。その人の内面から出てきたものに応えてレッスンを修正していくことが大切です。

 

○限界の先

 

 自分で思う限界は限界ではない。これは他人に接してわかることです。

自由になるには解放しなくてはいけないのですが、自分で解放するにも限度があるのです。

それが高度にできていたら、世の中に問えばよいのです。問い続けるだけで自ら修正して伸びていけます。これが正道とは言いません。本道です。

声でうまくいかない、頭打ちになるとトレーナーを使いにくるわけです。そうでなく、地力をつけるスタンスなら、レッスンは行き場を失うことはないのです。

トレーナーが自らを目標100パーセントにセッティングすると、そこまでも行けない人が増えるのです。それはそれでよい先生ですが。

 

○型と場

 

 型に入れて伸びるのは、その型から逃れられない状況におかれてのことです。型はプレッシャーとなり、他へ逃げる言い訳になります。逃げられなかった型で育った人が見逃してしまう点です。ですから、他の師匠についた弟子はとらないのです。忠義を立てるのでなく、芸の型を叩き込むという教育のシステムと思います。

でも、今や、無人島に二人ででも行かなければ、型にはめることもできないでしょう。

自由な状況ゆえに、その自由がみえない、自由が使えないのです。自ら不自由にしてしまうのは、自由を縛るものが時代や人など体制として固定しているのでなく、みえない、曖昧なものだからです。だからこそぶつけてつかむ場がいるのです。

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