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2021年10月

「歌の判断について」

○歌の声

 

 カラオケの点数のように表面上の判断でうまくなるというのは、ピアノでいうと自動演奏ピアノの演奏です。それは、子供や習ってすぐの大人よりはうまくなるでしょう。ミスもなく、メロディ、リズムも正確です。しかし、そのコンサートはありません。いや、イスにモデルが座っていたら、日本ならありうるでしょう。

新車発表のコンパニオンやレースクイーンの役割のようなものでしょうか。本来、ピアノのコンサートは、ピアニストの個性、演奏のオリジナリティを聴く人が観客だからです。

 バイオリンあたりになると、日本人の判断は怪しいどころではないでしょう。歌は怪しいどころか、口パクもありですから、果たしてどこまで歌や声や本人のオリジナリティで評価されているものでしょうか。ただでさえ人の声とことばは、楽器の音や演奏のように客観的な比較は難しいのです。ですから、歌に限って述べます。

 これを、音程、リズム、発音での判断となると、論じるレベルが下がります。そこはカラオケの先生やヴォーカルのアドバイザーに任せて、まっとうに歌えるという判断でいきたいものです。

 今のヴォーカルの大半は、シンガーソングライターであり、作詞作曲、自演ですから、現実的にはアレンジやステージパフォーマンスまでの総合点となります。私はこれらのうち、声からの歌に、声からのパフォーマンスに限定します。

 カバーアルバム全盛時代となりました。しかし、それらもスタンダードナンバーでの実力、オリジナリティを比べるものとして使えます。

 

○声のよし悪し

 

 声のよし悪しは、どのくらいの問題になるのでしょうか。

 「ガラガラ声でカエルのよう、と叩かれた。大事なのは真実を語っているかどうかだ」(ボブ・ディラン、2014年グラミー賞のプレ・イベントにて)

 オペラ歌手の評価ではないから、声の美しさはあまり関係なさそうですね。声だけでなく歌詞の内容や曲、ステージなどもトータルとした世界観、それによってアーティストたるものが決まってくるのでしょう。しかし、私が述べていくのはそういうところではありません。ヴォイトレをする人にとっての考え方、取り組み方、学び方です。

 どんなアーティストからも学べるのですが、何を学ぶかでしょう。声やその使い方について、ボブ・ディランは、あまりお勧めしてきませんでした。トム・ウェイツなどと同じように、声やその使い方でなく、作品において声の存在感とアピール力として参考になるとしてきました。

 声のよし悪しなどは、歌でつくりあげていく音の表現の世界にとっては、ツールに過ぎません。声として発声としてあまりよくないとしても、アピール力があれば使える武器として、喉や発声の弱点さえ、長所にできる例は取り上げてきました。

 私の本には、出していなかったヴォーカリストをあげると、忌野清志郎、綾戸智恵、吉田拓郎、玉置浩ニ、桑田佳祐、松任谷由美、中島みゆき(以上、敬称略)など。長く続けているアーティストは、ほぼ入ります。ヴォーカリストやシンガーよりアーティストと呼ばれる人たちです。

 

○声力と耳力

 

 外国人ヴォーカリストの例として、エディット・ピアフの見出したアーティストを聞いてみましょう。シャルル・アズナブール、イブ・モンタン、シャルル・デュモン、テオは、この順で声力、歌力がすぐれています。ジョルジュ・ムスタキなどは、別の流れに思えます。

 有名とか無名ということでないのですが、耳の肥えた国、聴き手が自立している国では、大衆の好みや支持、つまり、人気とアーティストの実力は一致します。日本でも1960年代まででしょうか。ポップスの台頭時には、あるところまでは一致していました。

 ラジオとレコードが歌を大衆化させたのですから、ルックス、スタイル、ステージパフォーマンスよりも、声力、歌唱力が評価として優秀でした。歌を耳だけで判断していたのですから、あたりまえのことです。今やオペラでさえ、ルックスやスタイルの問われる時代です。耳の力が落ちていくのは、当然といえます。

 

○考え、悟り、知る

 

 歌を聞いて楽しむのに頭はいりません。しかし、歌っていくには、誰しもが感覚だけでよくしていけるわけではありません。聴いては感覚をよくし、歌っては、そのよい感覚で向上させようとしていくのは、ベースのことです。

 トレーナーは、プロで長年歌っている人の声を聞いて、声そのものでなく、歌、あるいは歌だけでなく歌詞やメロディやアレンジ、演奏にまで言及せざるをえないときもあります。声で解決するのは、根本的で時間もかかるし不確かなのに対し、アレンジや演奏での解決を加えるのは、確実で負担が少ないからです。ヴォイトレは、そういう方向で使われるのが普通といえるのです。

 「今はこうで、このようにしたいからこういうトレーニングをする」というところを、声のところで納得させるのは大変なことです。時間や練習量、その他の事由でそこまでいかないケースもあります。

 その際、「今はどうなのか」をどう伝えるか、は難題です。トレーナ―が「このようにしたい」と好き嫌いで言っても仕方ないでしょう。「このようにせざるを得ない」というケースが少なくないのです。ともかく、将来のイメージを歌い手に描かせ、トレーニングの方向を一致させなくてはならないのです。

新たな挑戦の場合、トレーニングの結果がどう表現に役立つかもわからず、見切り発車のときもあります。およそは、経験に基づき、そこから修正しつつ、みていくのです。何事も決めつけはよくありません。

 

○若いときのような声にする

 

 元に戻すとか回復ということが目的でいらっしゃることも多くなりました。よかったときの音源があれば

・可能か不可能か、あるいは、その可能性

・それによって得られることと失うこと、もしくは出てくる問題

・どのくらいで結果が出るか、あるいは判断できるか

などについては、およそ、わかります。

 

○これからの声

 

 これからアーティストになっていくような人は、結果として、何かしら声を出して使っていくのですが、それをどのように活かしていくのか、何をよしとするか、この2つを経ていくわけです。

 最初は、状態を調整します。欠けているものがあるなら補います。どちらにしても呼吸など条件づくりを併行します。オリジナルな声は誰しももっています。余計なくせを除けば、そのうち引き出せます。問題なのは、そこからの動き、フレーズとしてのオリジナリティです。

 プレイヤーのいう自分の音とは何かということです。この音には、音色とともにフレーズの変化、動きが含まれています。プレイヤーのいう「自分のタッチ」です。それを求めてトレーニングをするのは、ここでのレッスンならではのことでしょう。

 

○トレーナーとプロデューサーの判断の違い

 

 アーティストは、自らの練習や活動のなかで、感覚的に聴衆の求めるものを出していきます。自らのやりたいものと人の求めるものは、必ずしも一致しません。

 トレーナーとして、私は本人のものを重視しますが、プロデューサーは、お客の求めるものを重視します。これもあたりまえのことです。

 そのときに、切り出す作品の演出にかけるプロデューサーと、安定した高度な実力をつけて、生涯安定してよい状態で声を出せるようにしたいトレーナーとは、対立する関係です。仕事ということでは、売れてこそ将来もあるのでトレーナーが妥協しがちです。すぐ得られる効果と評価をみているのでは、長期的なハイレベルを理想の追求に専念できません。

 アマチュアや一般の人の方が、その自由があるので、私は一時下野して、一般の人との試みに専念していました。その間、音楽業界、特に歌い手や音楽プロダクションは、浅い声での安易な音づくりで売れ線を狙い、結果として、自らの首を絞めていったともいえるわけです。

 

○プロとアマチュア

 

 私は、趣味の人やカラオケ通いの人に伝えたいことはありません。私は、カラオケの好きな人ほどの曲数の歌は知らないでしょう。プロの歌い手も自分の歌を歌っている分、他の人の歌や流行などを歌が趣味の人ほど知らないこともあるでしょう。

 どこかの分野について深く詳しいのがプロで、浅く広いのがアマチュアです。もとより、歌うことにおいて歌手はプロであり、声を育てることにおいて、ヴォイストレーナーはプロなのです。

要は、それをどこにとるかというのが重要なのです。トレーナーは、サポートをプロに対しどこまでできるかが問われるのです。

 

○声で型になる

 

 人の感情に働くように声が導かれる、するとそれが一つの型となり、馴染むようになってくる。その味わいが細かく分かれて通の人が出てきます。マニアックになると、それについて行けない人は離れていきます。新しい人も入ってこれなくなります。

 聴くのがうまい人もいれば、語るのがうまい人も出てきます。ちなみにトレーナーには、聴けることと、語れることの才能も必要です。歌い手は歌えればよいのですが、トレーナーは歌い手に歌ってみせるのでなく、イメージをもたせる ことが、より大切です。そこで、ことばやジェスチャーを使えなくてはなりません。相手が低いレベルならカラオケの先生のように歌って口伝できますが、目的が異なります。

 クラシックは、そういうプロセスを体系化しました。例えば、ABAのソナタ形式という型で構造を捉える。しかし、ポピュラーでもAメロ、Bメロ、サビなど、どんなものも型にはまってくるので似たようなものです。

 ここで私が聞くのは、型に声をはめるのでなく、声で型になる、そのプロセスを歌い手がとっているかです。体からの息や感覚で型の元にある本質的なもの、人の感情を動かす動かし方になっているかです。

 

○歌なのかという疑問

 

 クラシックの評論家は、伝統をふまえた共通の知識、考え方を基に、先例も踏まえて評価していきます。しかし、私は、過去でなくそのときに起こしたことでしかみないのです。一声10秒でも作品とみるのです。型に囚われた形を守るがゆえ、退屈極まりない歌とたくさんつきあってきたからです。

 私は、歌は歌が消える、いえ、声が消えて歌の世界に表れること、声でも声が聞こえなくなってこそ最高と思っています。歌わなくてもよいところまで歌が使われたり、声が使われるのは、我慢できないのです。

 歌を愛していないと、歌に対して厳しく判断を下せないと思います。「歌はすべてすばらしい、歌だから」という人たちがたくさんいるのはよいことです。しかし、「それは、歌なのか」という疑問をもつことがあってもよいのではと思います。

 

○歌の存在価値☆

 

 ある状況において、歌えない―そういう体験は、日本でも世界でも少なくなかった。日本でも大きな不幸がありました。しかし、そういうときに、今一度、歌の存在意義を考えてみることができたと思うのです。

 私がそのときに考えたのは、自由に歌っているような歌など、ないということです。

 常に、歌は、限られた時空のなかで人間と関わって存在しています。たとえ声を出さなくとも、歌わなくとも、そういうものとしてあるのです。

 ならば、声をあげるとは、歌を歌うこととは、そこに何を試み、出そう、伝えようとするのかです。他の人に伝わるとき、どんな声もトレーニングの次元を超えたものになります。トレーニングをしたから、それができるようになるのではないのです。そういうことからトレーニングの無力さをも感じることもあります。

 それゆえに、私は、ヴォイトレとは何なのかをいつも考えるのです。そういうものではないのでしょうか。

自由に歌を聞くことができない。トレーナーを選んだときから、あるいは、歌い手を選んだときから、そうなる覚悟をしていたのだろうかと考えるのです。

 

○バイアス

 

 自分の生まれや育ち、そこで聞いてきた歌とそうでないものとは、受け止め方が違うのは、当然のことです。その時点で聞かなかったとしても、同じ時代の歌なら似ているので、後に知ったとしても入り込みやすい。そんなことで、その人の好きなジャンルやフィールドがつくられていきます。

 これまで好きで聞いていてもその歌に飽きることもあれば、突然、あまり聞いていなかったり好きでなかった歌が好きになることもあります。いつの間にかということもあります。

 そして、10代のころまでに実際に聞いた歌も、その後に知ったその当時の歌も混ざっていくのです。親の撮ったアルバムの写真と、自分の記憶との区別が曖昧なように、です。

 

○ジャンルなどない

 

 とても困るのは、「自分はどのジャンルの歌が合うのか」とか、「ジャンルが別の発声や歌い方を教えてくれ」と、今でも少なからず言われることです。まだ、具体的な曲名とその歌い手を挙げてもらえたら、それなりに相違点を見出して伝えようもあります。

私は、ジャンルを認めていません。

 

○マイクがあること

 

マイクを使わないものは、使うものより、声を支える体に問われる条件が厳しいとはいえます。マイクをごまかしで使わないなら、厳しさのレベルでなく、要素が違うということです。しかし、ごまかしか、効果か、フォローか、テクニックや表現かというのは、厳密に分けられるものではありません。ステージから多くの人に聴かせること自体、特殊なふしぜんな状況ですから。そこで声楽的発声か、マイクかを選ぶのなら優劣はつけられません。

声なので届くこと、声量、共鳴については、基本の条件です。優先度は、重要度で違うということです。ただ、クラシックは、世界の中でも特殊にかなり思われます。それで全世界に広まったのですから。

 

○歌の分析

 

 歌の分析は、分析である以上、ことばで行うので、いつも歌詞が取り上げられてきたので、そこは私は省きたいと思います。メロディやリズムも楽譜上での解説はなされてきたので、そこも省きます。そんなものは、作詞作曲した人の今日における評価です。歌い手やその声の使い方で、何とでもなるのです。何とでもしてきた歌い手の力と声に学ぶようにすることです。

 

○言い換えより声の力

 

 よく、「ことばを言い間違えると失礼になる」「ことば遣いでモラルとか好感度アップ」などということがいわれています。知らない人とのメールでのやり取りでは大切ですが、電話でも会話でも、声の使い方やパフォーマンスでどうにもなるのです。無愛想な表情で、こもった声で何を言ったところで受け入れられにくいし、若くて、はきはきしたことば遣いなら、周りは楽しくなるのです。ことばと間ほど、声については触れられてこなかったように思います。

 マニュアルでも、ことばの言い換えはわかりやすいのですが、声の感じはわかりにくいでしょう。自分の声と違うから、動画でみてもなかなかギャップが埋まらないのです。見たり聞いたりして直るものなら、それなりに生きてきたら直っているはずです。

 生まれや育ちの環境からくる影響も大きいのです。同じように育っていても違うタイプもいるのです。ですから早く気づくことから深く気づくことへというレッスンが、ヴォイトレの目標です。それゆえ今回のテーマも大切なものなのです。

 

○通

 

 コーヒーをあまり飲まない人には、コーヒーはおいしくないか、体に合わないのかもしれません。昔、マクドナルドのコーヒーはまずくて、起きぬけや体調の悪いときに飲むと、気持ち悪くなりました。しかし、気にせずに、おいしいと飲める人も少なくなかったのです。コーヒーが好きな人は飲めなかった。でも好きでも飲める人もいたのです。

 昔は、日本のコーヒーはアメリカンとホット(ブレンド)くらいでした。モカとかキリマンジェロとか出てきて、酸味とか深い煎りとかを教わらなくても、味覚の軸ができて細かく分類できるようになっています。

 店や淹れる人によって、豆によって、同じモカでもピンキリでしょうが、それぞれに好みも出てくるし気分とオーダーの組み合わせも出てくる。つまり、少しずつ、通になってくる。その通くらいに判断ができ、淹れ分けることができないとバリスタは務まりません。

 味覚と聴覚は別なので、この例を歌や音楽の鑑賞にそのままあてはめられませんが、それでも、好き嫌いの他に、深い、浅い、(コーヒーの味ではない)通である、ない、センスがある、ないなどはわかってくるものでしょう。

 

○育ち

 

 昔は、両親、先輩や友人、兄弟の聞いたレコードから好きになって、音楽の道に入ったという人が少なからずいました。「三つ子の魂百まで」です。わからないうちに量として入ったものが基礎となっているのです。

 歌手もトレーナーも他の分野のプロと同じく、一流になった人の伝記や生涯の研究をしていくとよいでしょう。作品から入ってライナーノーツを読み、特集番組などを見る。デビューからたどっていくといろんなことがわかります。時代、家族、育った地域によるだけではないのです。どんな人、どんな作品と出合ってきたのかは、押さえておくポイントだと思います。

 私は、いらっしゃったときに、好きなアーティスト、影響を受けたアーティスト、必要に応じて本人の声のことについて聞きます。これは、その先を歩むための大きなヒントです。今のその人の声や歌がどうしてこうであるのかの裏付けになるからです。

 メンタルからフィジカル、姿勢、歩き方、行動、性格、考え方、価値観、DNAまで、声には全てが影響しています。育ちを聞くと今の問題をよりしっかりとつかむことができることが多いのです。初回から誰にでも詳しく聞くことはあまりありませんが…。

 

○音の聴き方

 

 私は、最初、プロデューサー、作家と仕事をしたので、自ずと彼らの聴き方を学ぶことになりました。そこで自分の聞き方の偏り、あるところに対しての、バランスの悪さや弱点を知りました。聞き方が確立するには、発声がそれなりに身についたあとも丸々10年かかりました。その後半は、ヴォイトレとステージの狭間で実習しました。

 例えば、ここの研究生への聞き方、450人の研究生の後ろから同じものを聞いて比べる、10人ほどのトレーナーの聞き方、研究生やプロの歌唱へのコメントと比べて学ぶなど、研究所で実践してきたことです。

私の研究する場としての研究所の公開による研究現場の伝承が、レッスンとして大きな役割を果たしてきました。

 自分の聞き方に囚われず、自分の聞き方も違う聞き方を学んでいくことです。一流のアーティストの歌から、特に、彼らがスタンダードを歌うときにつける変化から、それぞれのアーティストの本質を学べます。

 なかでも5人ほどのアーティストからは、その感覚にのっとれば、私にはわからなくとも、このアーティストなら、「こう言う」「このように歌う」とか、あたかも憑依するようなことができるようになりました。どんなすぐれたアーティストもそうして学んだはずです。

 

○耳を移す

 

 自分の聞き方が何に基づき、どういうスタンスなのかを理解すると、いくつかのスタンスにうつしてみることができます。私、多くの別の分野で価値観の違う人ともやれるのは、それができるようになったからでしょう。その人とは「ここは違うがここは同じ」とわかります。そのとき、どこから違うかというところから深いものが学べるのです。そこに興味が尽きません。学べない人は、他の人と違うところを批判し切り捨てます。いつまでも同じところで同じことを言うだけです。

 この分野では、自分の好き嫌いだけで自分の耳の聞き方だけを絶対視している人が少なくありません。それでは、時代や別のシチュエーションにも他の人にも対応できないのです。

もとより、自分と異なる人を育てていくのがトレーナーです。なのに、自分と同じにしようとしているのはなぜでしょう。一つには、多くの人がそれを望むからです。そこを変えることです。

 ときおり、外部のトレーナーの人が、よい問題をもってきます。そのとき好き嫌いで判断していることや、その判断レベルの浅いことをどう伝えればよいのか迷います。それでも、疑念をもって相談にくる人は、いつかきっとわかっていくでしょう。疑問にさえ思わないで同じことをくり返している人ばかりですから。

 

○音と声

 

 聴覚は嗅覚、触感に近いもので、深いところにのっています。コーヒーを飲むときは、味覚に嗅覚を伴います。しかし、視覚も関係しています。多くのものは視覚を介して入ってきます。視覚は対象を客体として客観視します。こちらからみて、よいとか好きとか判断します。

 歌やせりふでも絵や書でも、立体的(もう3Dといいます)に生き生きと生命力をもって働きかけてこないものは、私には、芸術でありません。ただ、音や声は、もう少し絡まり具合がややこしい。よいもの、好きなものでなくとも、まとわりついてくるのです。

聴覚は、手で耳をふさがないと拒絶できません。視線を変えるくらいに簡単に拒めないかもしれません。

 嫌な絵がかかっていても見ないようにすればよいのですが、嫌な音楽、それも歌が流れているのは耐えられないのではないでしょうか。

 深く生理的なことだからです。好きな人には触られたくて、嫌いな人に触られたくない、しかし、その好き嫌いは、さして原因があるわけではありません。どうでもよいとき、鈍いときもあれば、敏感なときもあります。気分で判断されるのでは、歌手もたまらないでしょう。因果な商売です。

 

○ビギナーズラック

 

 歌でのビギナーズラックは、ときおり目にしてきました。技術もよくないし、洗練されていないのは明らかなのに、皆が感動せずにいられないものとして現出するのです。

プレイヤーの演奏では、めったに番狂わせなど起きません。楽器に触って1年の人が10年の人を任すような演奏はできません。リハーサルで最高の人は、大体、本番もそうなります。リハーサルでの予想通りかそれ以上のときが本番では多いものです。

 しかし、こと歌い手に関しては、番狂わせはよくあることです。トレーナーは運を天に任せるしかありません。それでも、ポピュラーやジャズが、ときに、決まり切った演奏に慣れたクラシックの人たちの度肝を抜くことがあります。

 そういうプレイヤーが、クラシックとポピュラーの壁など思い込みに過ぎないことを実証します。正確さとバランスばかりを求めて弾いたり教えたりしている正統の演奏家は、素人にそのよさを理解されないことが、よくあります。彼らにとって破格の演奏はよくないのです。彼らにとってよくないだけです。

 

○危機的状況

 

 今、歌屋音楽の壁(影響力低下、不能)についての問題は、どんなものでもよくなったということが危機的な状況なのです。

 よい歌い手がいない、歌がよくないと言いつつ、実のところ、すべての歌がよいという、私の両義性とも似た、いい加減な立場が選択を可能にしました。その間にあるべき豊かな多様性、個人のオリジナリティをスルー、否定しているのです。

 聞く人が「性格のいい人だから歌もいいと思う」というような評価は、人間ですからその通りでしょう。私が関わらないなら文句一つありません。しかし、ヴォイトレをしにきて、歌で世界を切り開いていこうという人がそうとなると、「今の私の歌でいいという人もいるからいい」となるなら、真のレッスンは成り立ちません。しかし歌い手も、実力の維持、回復メインでいらっしゃる場合、声での調整がメインとなり、これがヴォイトレのメインとなってしまったのです。

 健康維持、老化防止のためにいらっしゃる人もいます。そうでなかった人がそうなっているケースもあります。今の私の立場では、何であれ、続けていくのはよいことと思います。

 うまい人が歌っているように歌いたい、カラオケの点数を上げたい―というのであれば、それでよいのです。

 私も、健康法としての歌唱、医療と発声としての研究に関わっていますが、ヴォイトレのど真ん中にはおきたくないと、私的に思っています。

他の人が歌わないように歌いたい―ここではまだ、独自の世界というものでなく、歌唱、発声のレベルでのことです。

 

○へたうま

 

 ビギナーズラックでの歌は、技術的な条件は保ってないし、くり返して歌うとすぐに化けの皮が剥がれます。1回目と同じように聴衆が堪能できる2回目ということはありません。歌の実力というのは、1曲で充分わかるのですが、2曲聞くとはっきりわかるのです。他の歌もほぼ同じと見切れるので、プロレベルの歌にはなりません。

しかし、プロがいつも安定した形をなぞっているようなのが大半の今の日本においては、アマチュア、素人にこそ、新鮮な表現力をもつ人を期待したいのです。

 アマチュアのレッスン、発表会やワークショップなどでは、その人が間違ったところに魅力、個性が出るのです。せりふや歌も、それが根源です。それを高めて感性として表現していくべきなのです。

その根源にあるものがなくなったまま、声でメロディをなぞって、ことばをおいて歌としている現状があるのです。最後までうまく間違えずに歌うことを目指して、それができたとき、もっともつまらない歌になるのです。声や歌を教える人がそれを目指してレッスンしているからです。これでは、台本通りの棒読みです。そのせりふの掛け合いに命を吹き込んで勝負をしているお笑い芸人のインパクトにかなわないのは当然でしょう。

 

○感動を与える

 

 私は音楽や歌で人生を変えられた一人ですから、わかるのです。まさか10代からそのまま続くと思いませんでした。

歌は一曲3分で、人の、人類の運命を変えるほどのものです。今さらここで述べなくてはいけないのかと思いつつ続けます。

 佐村河内守氏の事件が日本中を賑わせました。ベートーベンであれ、偽ベートーベンであれ、音楽を作曲家の人生上の苦難と結びつけたところの商売は、それに乗っかった時点で、買った方も騙されたなど言えるものではありません。

 新垣勉氏のコンサートは、彼の半生のフィルム上映から始まりました。先の告発者の作曲家の新垣さんと別人です。そういえば、都知事選の連続落選で有名になってしまった天災発明家、中松義郎氏のオフィスに初めて行ったとき、会う前に氏の半生のフィルム上映があったのを思い出します。

 ベートーベンが耳が聞こえないのにつくった曲だから、私たちは感動するのではないのです。感動商法が隆盛になって、それにのっかっただけです。満足させるようなことで、プロデューサーが主役となったのは、今に始まったことではありません。

 私たちも作家もアートの製作者も、仕事で感動を与えるチャンスがあれば活かそうとしています。歌手は、その最たるものでしょう。

 

○亡者と職人

 

 「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)ではないが、価格に一喜一憂するのはゲームです。価値そのものは違います。ところが、トータルとしてプロデュースして、トータルとして受け取るサービスに慣れてきた私たちは、一つひとつの価値について鈍くなっています。500円なら許せるが5000円なら許せない―それがおかしくないというなら、金の亡者になっています。虫一匹、皿に入っていて店がつぶれる、そんな日本に生きています。

 つまらぬことに敏感になり、もっと大切なことの鈍感になりつつある、そのなかで生の体からの生の声を取り出す、加工せず、形もつけずに、そこに対していくのは職人技、奇跡にも近くなりつつあるのかと思うのです。

 「歌」というと「マイクは?」というところから一度、抜け出す必要がありませんか。

 

○トレーナーは指揮者☆

 

 私は指揮者を何人か知っており、そのつてで指揮をしてみたこともあります。有能な指揮者は、全体を時間の流れでみるとともに、部分的にチェックします。瞬間に空間でチェックするのです。

チェックというのは、ヴォイストレーナーと同じですが、私は一つの声を聞くことが大半です。ときおり、伴奏と合わせて聞きますが、バンドはともかく、オーケストラ指揮者は何十人もの演奏する音、オーケストラを聴くのですから、糸を紡ぐのと布を織るくらいの違いはありそうです。

 しかし、そこで演奏を止め、一人を指してことばで注意しているところでは同じです。彼らは、歌よりは演奏が対象になることが多いのですが、その音の出る楽器を、指揮者が代わって弾いてみせて教えるのでなく、(ときにそういう人もいますが、プロの前ですべての楽器の見本をみせるは無理です)イメージの言語で注意します。この辺りも似ています。求める音をことばにして伝え、導こうとしているのです。

 プロ相手では、楽譜の説明、表現、技巧、楽曲の説明よりは、指揮者はどのようにもっていきたいのかという曲のイメージ、構想を、個別のプレイヤーの技量を踏まえて示すことが求められます。

 本番では、ことばは使えないので、身体の使い方でわからせていくような指示が出ます。手話のように身振り手振りで演奏のイメージを、頭より体にわからせるようにしています。それが指揮なのでしょう。

 指揮者が使ったことばを私のように残すと、それは曲や演奏の研究に役立つのでないでしょうか。メイキング オブ オーケストラです。

 

○例えについて☆

 

 レッスンの指示は、「~のように」と例えでイメージさせるのが、一般的です。外国人の指揮者は、イメージ言語に長けているように思います。日本では、幼児にピアノを教える先生にそういう人がいます。これもヴォイストレーナーに求められる演出家の資質、ことばのイメージの伝達に関する才能や感性といえます。

 ちょっとしたことばの使い方で、まったく相手の身体の動きや発声が違ってくるのです。

 例えば、「息を入れて」「吸って」「息が入るようにして」「お腹におとして」「お腹を拡げて」「筒のようにして」など、使うことばで随分と結果が違うものです。原初のイメージを踏まえるとよいと思います。ことばは、つくられてきた理由があるのですから。

レガート つなぐ→legare縛る 結ぶ

スタッカート 切る→staccareちぎる はがす

ポルタメント すべらす→運ぶ ひきずる

ルバート 速めてゆるめる→盗む 先取りする

アレグロ 速く→快く 朗らかに 浮ついて

 

○歌

 

 「まさに歌だった」「まさにせりふだった」といえるほどの歌やせりふを、どのくらい聞いたことがありますか。それがあってこそ、せりふでない、歌でない、音楽でないということもはっきりします。チョコなのにチョコでないとしたら、それは何ぞや…といったようなものです。

 それはトレーニングに関わるものとして必要なのであり、トレーニングで向上しようとするなら必要でしょう。それで楽しもうとするだけなら、必ずしも必要とはならないです。

 

○本場、教養主義

 

 これまで歌について、本質を悟る人の不在を嘆いてきました。クラシックには酷評をする批評家がいました。ポピュラー、歌手、歌については、語れる人はあまりいません。批評とされるものを読んでも、紹介やそれまでの成り行きなど、PRといった方がよいものがほとんどです。ただの解説や感想なのです。

 「食べログ」などは、素人でも玄人はだしのことを書いています。料理について、日本人が国際的にもトップレベルというのもわかります。サービスへの不満は、そこまで言うのかと思うほど厳しく、店の責任でないことまで含まれていることも多々あります。おもてなしでなく、サービスの強要の風土といえそうです。そういう否定的な見方が、歌の世界にも入ればよいとはいえません。演奏よりもホールの音響を批判するような感じです。こういうのは海外では、大衆的には成立しないと思われるのです。

 歌や歌手について述べられたものは、ファンかアンチファン、声については、なおさら、ここに取りあげられるようなものは、ほとんどないと思われます。

 その一因として、海外のもののプロデュースに長けてきたこと=演出に長けてきたことと私は捉えています。外国に行けて外国語ができて、他の人より早く日本にもってきた人が認められるという、そんな日本だったからです。

 

○お家芸化f

 

 どんな歌もステージにできる日本の演出技術は、向こうから学んでそれを超えたと思います。とはいえ、未だ、形として見えるのは形としてつくりあげているからです。私は世界中、巡っているので、ディズニーシーでは、疑似的なパビリオンより、最初から人工的なマーメイドエリアでしかくつろげません。擬似は、本場の代わりとしてあるので、本場があれば存在意味はないのです。

 ともかく、こうしたまねとその応用は日本人のお家芸です。歌から声の本質、個としてのアーティストの実力を問うとなくなりつつあります。

 かつて、直に影響を受けた、米軍基地や海外で外国人客を相手にしていたアーティストが多かったのに、客が日本人ばかりになって、薄めて拡散させたようなところがあるのではと思います。ロカビリーあたりからです。街の喫茶店がコーヒーチェーン店に置き換わって、どの街の風景も同じようになってしまったように。日本人ならマクドナルドをやめてモチくえばいいなどと、もう誰も思わないのでしょう。

 音楽が殖産産業、お上からの欧米の技術輸入のようになったのが、日本土着の歌を根なし草にするきっかけになったのです。唱歌、童謡、演歌、歌謡曲あたりまでの和魂洋才で、融合して日本に定着したまでは、それほど悪くなかったと思うのです。ブラジルのボサノバのように、朝鮮のハングル文字のように、人工的とはいえ、定着しつつあったのです。

 宝塚歌劇や劇団四季は、もはやサクセスストーリーとなっています。問題は、そのためにどれだけ何を失って来たかということです。

 

○体、身体、肉感のなさ

 

 トレーニングにおいて「目的―現在」、その間のギャップをつくり、そこを「つくる―みる」で埋めます。ですから、「みる←つくる」、つまり、「みる」、そして、「みたところまでつくる」の順となります。

 みた上でつくる人とみえないでつくる人は別です。みえない人は、つくりつつ、みえるようになっていくかです。みえた人も、それがよりよくみえるようになっていくかです。そのギャップの間に、もっと近くにみえる目標をおき、みることができるようにしてあげるのが、トレーナーの仕事です。

 ヴォイトレのレッスンをしなくても、自ら高められる人は、自ずと「つくる→みる」と「みる→つくる」をくり返しています。ですから、それがみえなくなったら、あるいはつくれなくなったらレッスンにくればよいのです。

 しかし、安易に、つくってさえいればそれでよいと思ってしまうのが、日本の芸術教育などです。つくっていればいつか、何かができると教えています。大いなるアマチュアイズムと国民総サブカルチャーアーティスト化は、日本のよさですが。

 何かは、つくればできますが、それがすごいものになるためには、そのままの環境では、天才でもない限り不可能です。すぐれた人ほどみることに長けているから、他の人について学ぶのです。

 

○受け身と研究

 

 20世紀になり、レコードやラジオで、プロの作品を聞けるようになりました。すると、これまで、音楽を素人なりにたしなんでいた人がやめてしまいました。周りの人もプロの演奏を買うようになったからです。お金で作品を買うようになったわけです。

次に、作品が大量生産で安くなり、少数が聴衆として楽しむ音楽から、大衆が消費する音楽となりました。カラオケのよさは、自ら選んで消費していくことにあります。予めプログラムされたものをこなすゲームマニアと似ています。

 身の回りにある声や音楽を聴いて体が動く、それが他の人の動きとかぶさっていく、そういう中で使われる声や音楽がなくなりつつあります。

 声の純粋化は、文化規範に立ち戻るのか、解放していくのか。地域独自のものがグローバル化されていくのは世界共通です。日本の場合、戦後もっぱらアメリカナイズされたゆえに普及し、大ヒットし、市場をつくりました。が、世界と一体化することなくガラパゴス化しました。

 

○滅びていくもの

 

 「なぜ時代劇は滅びるのか」(春日太一著、新潮新書)には、歌謡曲と通じる問題が問われています。著者は、時代劇の凋落は、つまらなくなったTVによって1970年代後半、古臭い表現と高齢者向けのジャンルという固定観念が植え付けられたためといっているのです。

 伝統芸能に対して新しく出てきたのが時代劇であり、海外から入ってきた翻訳ものが新劇だったのです。歌舞伎は、まだ持ちこたえているし、韓流ものは、日本でも大ヒットしました。私も、現代ものはみないとはいえ、歴史ものは楽しんでいます。生身の人間の迫力、動きや声でもつのです。大河ドラマはみない。それは、ブロードウエイと劇団四季との差のようなものです。

「役者の新たな魅力をみせる」にも役者がいなくなりました。1990年代、役所、真田、中井、渡辺謙あたりで終わっていると、著者は言います。また、名脇役や悪役もいなくなりましたと。

 こういう批評が若い人(1977年生まれ)から出てくるのです。

 その後、人気タレントの演技力のなさ、「声は高いし細い」は作り込みのなさ、演じているのでなく、こなしているだけで、わかりやすくおもしろいに堕してしまったというわけです。ここまで、ほぼダイジェストでした。

 

○わかるとき

 

 しかし、なぜ、人は歌わなくなったのでしょうか。人は音楽、歌を聞かないのでしょうか。

 人間の声とは

 生き物の声とは

 問いは尽きない、ゆえに、声の研究なのです。

 いつかわかるときがあるでしょう。

 

 出会いの意味は、一瞬にして、世界の構造と営みを明かすことにあります。

 そのために、私は声や歌を聴き続けているのです。

 あるときから聞き方が変わる、そのときのために。

No.362

心鏡

反射

覗く

白地

日の光

真夏

無念

気の毒

記憶

脳裏

交錯

堪える

思い入れ

はずれる

正視

苦衷

描写

洗練

心根

熱練

常人

会得

先人

遣隋

迫力

野性

先細り

冒険

混迷

安住

高度

「声道」

○精神の力

 

 声は、ことばを伝えます。どんなスポーツやアートよりも実用的です。そこに精神的なものを求めるのもあざといので、私は道とは言ってきませんでした。戦いや遊びがスポーツやアートになったように、声もそうなってきたとは思うのです。武術も、武道となったところでその中に入ったのでしょう。

声は、声明などに代表されるように、神事としての性格を併せもちます。弓道や流鏑馬、古武道などとも似ている気がします。宗教儀式としての声は、体で発するものでありながら、体を超える精神によるところが大きいのです。声における精神力の大きさは、並みならぬものがあると思います。

 それをリアルに知ったのは、美空ひばりの病いからの復帰後の東京ドームのコンサートでした。普通の人の半分も使えない呼吸機能で35曲歌い切りました。その後まもなく逝きました。焼身自殺した高僧の、火中で姿勢が崩れないのにも似た人間の精神の、肉体や物質に対する勝利でした。これが、ごく一例、天才の成す技としても、です。

 

○精神の形

 

 歌い手も、加齢によって共に声量や技術も衰えます。スポーツにも似た限界としての引退があります。その是非を問うても仕方ないでしょう。復帰した人も多いし、それぞれの人生観です。

スポーツでも40代の現役の選手は珍しくなくなりました。種目にもよるでしょうが、それだけ体の管理や技術を支えるツールの発達などがあったのです。しかし、何よりも思い込みからの脱却が一番なのです。ここでも精神が体を超えるといえます。

 となると、体よりも精神を鍛えなくてはならないとなるのですが、体力なしにメンタルを強化するのは難しいものです。体の方がシンプルなので、そこから入るのが一般的です。

 精神修行として歌ったり読みあげるのは、あまりに日本的です。

 ストレス解消やリラックスのために声を出すというのは、健康な使い方でしょう。使い方というと、カラオケも声の使い方です。しかし、声そのものは、使い方ではどうにもならないものとして分けてみると、案外と精神そのもののリアルな形が声にみえてきます。

 気分で表情も声も変わるでしょう。声のコントロールは感情のコントロールです。それは呼吸のコントロールによることは説明がいらないでしょう。ですから、人の説得にも、実際に会って声をかけるようにしているということです。

 

○精神のレベル

 

 戦いとは、敵と対峙しているようであって、常に自分のものとの対峙です。それは、スポーツでよく知られていることでしょう。すぐれた選手、達人は、相手が誰であれ、自分のベストを出せばそれでよいと思っています。まずは、それが前提です。なかには、本番でベストが出せなくても優勝できるようなダントツの選手もいますが、それでは、本心で満足できないでしょう。

 スナイパーは敵の急所に赤外線が当たればOK、ロックオン、射程距離に入ったらあとは方向だけ定めればよし、声に似ていますね。

 声にも距離と方向があります。イメージとしてのことです。実際は音波ですが、ただの音の波とは明らかに異なります。そうならなくては、人の耳には音として聞こえても、意味は伝わりません。

 声には伝えようとする意志が乗るし、聞きたい意志をもっている人との間で成立するのです。それを超えて、成り立つ、そのときがアートになるのだと思います。それは精神のレベルによるのです。

 

○声の凋落

 

 歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふがダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。

 それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然でしょう。私は、日本人として、それを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときです。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことと思っています。

 

○中心の確保☆

 

 発声の理想の状態は、結論からいうと、ゾーンに入った感覚です。我が消えて自分が世界、宇宙の中心という神の媒介のようになった至福感に満たされ、そこに方法も術もないのです。それは、使えるようになるために使うもので、使えた時には消えます。消えないと困るのです。

 声は、出して出せないものより、出していないのに出ているものとなるのでしょう。それを得るためには、考え方でなく感覚と体が必要です。それは、私がフォームと言うものです。構えといってもよいでしょう。

 呼吸法は呼吸として発声法に組み込まれ、発声法は発声として共鳴していくのです。そこでの境はなく、同時に生ずるのです。そこで意識は無となり、感覚と一体になります。その一連の動きを邪魔しないようにするためにレッスンがあるのです。なのに多くのレッスンは、逆に感覚と意識を分けてしまうのです。もっとも気をつけるべき点の一つです。

 

○なくすこと☆

 

 喉をならすのでなく、なっているとしぜんと呼吸も長く使えます。だから「ならすな」というのです。

「喉を開ける」これもイメージ言語ですが、そこで「締めろ」というトレーナーもいます。まったく逆のことのようですが、私からすれば、同じことです。喉はあるのですが、それを「ないものと思え」というのも同じです。

 健康でなくなると体がそれを意識します。痛みがあると体の存在を知ることになります。風邪で喉が痛いときに喉があるのを知ります。すべてあるのは、調子の悪いときです。ですから調子がよいときは消える、意識できないのがよいということです。

 喉も顔も体も呼吸法、発声法、声も歌もなくしてしまうのです。なくせといっても、なくならないのです。そこで意識して、存在を確認します。それがレッスンであり、トレーニングのプロセスです。その後に意識をなくす、なくなったときによしとするのです。

 

○知らずに知る

 

 知らずにするというのは、頭で知らずにということです。気づかないうちにできるようになるということです。それならば、頭が邪魔しないようにする、次に体が邪魔しないようにする。逆の順でもかまいません。理想的には同時にそうなるとよいのです。

 「ヴォイトレなどをしない方がよい」と、ヴォイトレを否定する歌手や役者がいます。それは、こういう意味では正しいのです。そういう人ほど、もし実力者であるなら、ヴォイトレをその名を使わずヴォイトレと思わずにしっかりと行ってきたし、今も行っているわけです。

 理想的な発声をしていたら、深い呼吸ができるようになります。例えば、本当に全身全霊で歌えていたら、ヴォイトレはできているのです。

 そうでない、その他のほとんどの人が効果的に強化するために、筋トレやコアトレのように、そこだけ取り出すヴォイトレがあるということです。そのように絞り込んで集中しないと、普通はなかなか、これまで以上の力をつけられません。ピアノで難しいパッセージだけをくり返し、指を動かすようなことは、パッセージの練習でなく、それに対応できる感覚と体(指など)のためのトレーニングです。それでは雑になるから練習曲があるのです。全体の流れをリズム、テンポも外して20秒くらいでベースの音やコードだけでさらえる練習が基礎トレーニングによいのです。

 

○切り替え

 

 私は、他の人のトレーニングをお手伝いしているうちに、歌、声のなかに何本もの線がみえてきました。あたかも、初心者のとき、歌い始めは何も聞こえず歌い、そのうち、ピアノにのって歌えるようになり、しばらくして、バンドのそれぞれの音やトータルのサウンドが聞こえてくるかのように、です。我ながら鈍いのですが、そういうプロセスがあったおかげでしょうか。歌一曲のライン、Aメロ、Bメロ単位のブロックのライン、1フレーズ(ブレス)単位、そして1小節のなかと、4つくらいは同時にみたり、切り替えしてみたりできるようになっています。

 メロディ、リズム、ことばという3つでは、歌のトレーナーは皆みているはずです。ただ、そのために声をみなくなっていることが、よくある話です。

 

○プロのヴォイトレ

 

 楽譜通りに歌えない人ばかり教えていると、もう、正しさを100点として、そこにいかに近づけるかがレッスンになります。音楽の基本3つの要素を正しくするのがレッスンの目標となるのです。

 プロとやっていると、そこは超えて、歌唱力、その解釈と表現に集中できます。一流に対して、初めて声そのものの問題に入れるのかもしれません。そこでは、音楽、歌、声と3面からアプローチしなくてはならないのです。

 ですから、CDだけもってこられてもレッスンが成り立つのです。ある歌のレッスンでは、もっともよいテイクだけ、あるいは、最も悪いのを持ってきてもらいます。前者はコメントですべてのこともあります。後者はそこからのレッスンです。

 

○思いっきりよく

 

 「無理に出すから痛めるのでなく、中途半端に出すから痛める」というのは、メンタルの弱い人はわかりにくいことです。恐れてやると怪我をしやすいのと同じです。メンタルが声を引き出す、心身一体でこそ、超えられるのです。そういうことは、どこかで経験して欲しいものです。他の経験の方がずっとわかりやすいです。

 昔は、役者は養成所でそういった体験を、よくも悪くも全身全霊で声に対しても試みて、何か出せた経験からスタートしていました。なかには喉を傷める人もいましたが、こつをつかむ体験となりました。今は、お笑い芸人の方がそのあたりを学んでいます。

 うまくいかない人は、イメージかメンタルかフィジカル(喉)に問題があったのです。それを知ったら、そのままには続けないで、無理せず丁寧に練習を重ねていったらよいのです。上位の人との心身の差を詰めていけたら、次にそこにワープする経験を積める可能性が出てくるのです。

 

○究める

 

 声の使い方としては、ピアニッシモや丁寧さから教えるのが今の風潮です。それは喉を壊した人へのフォローとして、あるいは、自主トレで声を酷使しすぎて荒れている人へのレッスン内容です。

 レッスンのときしか声を出さない人には、歌のためのバランス調整にしかなりません。一時間しか歩けない体力の人にサッカーを教えているようなことで、そういうレッスンもあってよい、とは思います。しかし、普通の人なら、がんばれば、何か月かで10キロは走れるものです。75歳くらいまでなら容赦しなくてもいいです。あくまで例えで、10キロ走れても、声とは別なので無理に走らないでください。

 大きく出せるからこそ、小さくも使えるようになる、それが原則です。一見、誰でもできるものにみえるものほど、究めていくのに難しいのです。中音域やアの方が、中級者レベルでは高音域やイ、ウでの発声よりも難題となるのと同じです。

 

○体を使う

 

 知性や理性、悟性でつかむものは、形です。体を使えば土壌ならしはできます。耕すことの毎日から、いつのまにか芽が出て花が付きます。そのときに、何の花か、どのような美しさや大きさかは知らなくとも、そのときに種がどこからか入っていたとわかるというものでしょう。花を夢みることと、大切なのは、土を耕すことです。

 

○ゾーン

 

 ゾーンとは、ある時間のある感覚で、それですべてであるという決定的なものです。それを得た人、感じた人、みたけど逃した人、少なくともその存在を知る人は、こういうことを理解できるでしょう。

 読まなくてもわかっているから読まなくてもよいし、わからない人は読んでもわからないから、読んでも仕方ない。なのに、なぜ、読んでもらうのかというと、わかった人が確認するためと、まだわからない人が、そのときにこれだとわかる、あるいは自分でわからなくても、誰かにそれだと言われたときに否定してしまわないためです。「こんなものは、違う」とこれまでのレッスンや自主トレーニングなどでの観念やイメージによって判断しないためです。自分勝手に自分の限界をつくらないためです。

 

○つかむ

 

 必ずしも、真実の声は瞬時にわかるとはいえません。まったく異なるから、次元が違うからです。全体を完全につかんだときならともかく、部分的にそのきっかけだけが来ることの方が多いからです。その断片を早くから組み合わせていける人は少ないものです。私は、そのときに見逃したり気づかなかったり、「それだ」と言っても、「そんなはずがない」と思ってしまう人を見てきました。指摘しても気づかない人もいます。

 勘を磨いていくこと、そして、いつかのときに備えてください。

 

○よい声とは

 

 よい声について、発声ではよく言われている次の例が具体的でよいかと思います。

1、 自分では大きく出していない、よく聞こえない声

2、 響いていない声、自分にきれいに聞こえない声

普段の練習の目的とは全く別のことが、ここでは言われています。1はとても小さく、2はとても大きい声のように思います。しかし、これは同じ声なのです。いつものあなたの声と次元の違う、レベルアップした声なのです。本人が気づかないゆえに出さないし、目指さないような声です。そのため、自主練習中には、ほとんど気がつきません。一人では身につかない声こそ、求められている声なのです。(声楽の人はこれをマスケラということに当てはめてみてもよいでしょう)

 

○声の芯とパワー☆

 

 これまで自分に大きく聞こえていた声は、喉で内耳に響いてうるさく、外には拡散する生声やこもり声、だんご声です。その判断ができることが、よくないとされるほとんどの声からの脱却のポイントです。

 鐘をきちんと叩けば、強くなくとも、その響きを邪魔しなければ、遠くに響くということです。理屈では、初心者でもわかることです。しかし、実際にといえば、ほぼ間違えてしまいます。

きれいにバランスがとれて共鳴したように思う声は、小さな部屋ではよく聞こえるが、大きなホールでは遠くへ届かないのです。拡散しないようにまとめ、絞り込んでいると効率はよいのですが、そこでパワーまで抑えてしまった結果、おとなしく落ち着いただけの声になってしまったのです。日本人が、よく誤解して目指してしまう声です。困ったことに、教えている人がそれを勧めるわけです。でも、それも一理あるし、きっかけや一歩になることもあります。カラオケの上達を目指す人にはわかりやすく、よい教え方ゆえに、それは限界が早く来るのです。

 響きを邪魔しなければ強く奏でる方が届くことを忘れているのです。いや、今となっては、もはや指導者も含めて、あまり経験してきていないのでしょう。

 トランペットなども、小部屋でうるさく汚いほどの音の方が、広いところに出るとぐーんと伸びて、ただ美しいだけでなく、心に響くものになるのです。例えとして適切かどうかわかりませんが、ジャストミート打法であり、同時にホームラン打法であるというもの、それを目指すことです。

 

○流れ

 

 「自分はもっている」と言える人も、ときたま、いるようですが、フォームづくりまでは、プロセスとして用意します。決定的なものとして、つかみ直すのには、白紙で臨むことです。

本当の意味を知るのに、いつも邪魔するのは、頭、思い込みや偏見、固定観念です。水泳なら水にのる、スキージャンプなどでは風にのる、みたいなことです。フォームづくりで、一所懸命に心身に働かせるのは、その大きな流れを自らに引き寄せるためです。流れに逆らって力をいくら使っても、尽きてしまうだけです。音楽、歌もまた、流れなのです。

 

○悟る

 

 発声に限らず、悟ることの難しさは、いくら説明しても伝わりません。無意味で空しいものです。ことばにすることで、批判的、理屈となり、独善に堕ちるからです。自ら得るよりも、他人に説明して理解させる方が難しいものです。

 具体的な方法は、いつもいくつも挙げています。それが理論的や具体的ゆえによいとは思わないようにはなったでしょうか。いつも、どう自分に使うかだけが大切なのです。そこを注意することです。

 そのために、批判的な態度をなくすこと、没入すること、無私へ到ることが求められます。それは瞑想のようなものかもしれません。とことん体験していくしかないのです。どう身につけるのかの前に、どう味わうのかです。

 教えないこと、そこで理論的であろうとしないことが、教わりたい人、理屈で考えたい人への誠意ある解答だと思うのです。

 

○捨てる(呼吸法について)

 

 こつを得たい、それもまた邪心です。リラックスしたい、そうできない自分を感じているのでは、どうしても固まってしまうだけです。それを捨てるしかありません。

 それらは呼吸を深めることで、自ら解き放っていくのです。深く吐けるようになるためには、深く吸えるようにならなくてはなりません。深く吸おうとすると固まってしまうのですから、まずは長く均等に吐けるように時間をかけていく、それが呼吸法です。

 勢いよく吐いて体を使うのも悪くありません。しかし、そこは呼吸筋の鍛錬、つまり、体のへ刺激を与えて変えようとしているのです。その必要度を上げて、ギャップをつくり、次に埋めていくプロセスをとるのですから、そこは、しぜんになるまで続けていくしかありません。それもまた、捨てるということです。

 

○荒療法

 

 日常に呼吸を意識しなくてはいけないのは危機的な状況ですから、そこで歌えるわけがありません。ギャップを無理に埋めようとしては却ってうまくいかなくなります。あえて、その拡大版をトレーニングでセットしているのです。それは、無理を承知で無理な状態においているのです。

 これをしぜんに長い年月をかけて発声を習得してきた人や、そこでそういう基礎もなく活動している人がみたら、呼吸法など、やらない方がよいと思うのも当然です。その意見に賛同するなら、やらなければよいのです。

 荒療法はリスクもあります。しかし、待っていられないなら、より高くを目指すなら、挑むのも一つのアプローチです。

リターンは、人によります。でも、体と呼吸は強くしないと扱えません。この強くということを誤解しないでほしいものです。

 

○シンプルに

 

 いくらいろんなメニュや方法を寄せ集めて試してみても、大して役立たないものです。一貫した方向とプロセスがみえていないからです。そこまでは役立たないのですが、だからといって不要ではありません。すぐに役立たないからこそ、本当のトレーンングです。トレーナーはそこを手助けします。

 トレーナーを次々と替えるとしたら同じことです。私は、そのすべてをみえるポジションでトレーナーの方法やメニュ、組み合わせをみています。まず、やらなければ変わりません。シンプルに、そこからです。

 

○習得するとは

 

 トレーナーの方法でよくなったと、それを過大に評価しては依存になりかねません。教わるのでなく、自分が自ら体得したようにしていかなくては、本人のものになりません。時間はかかります。できたとしてもトレーナーから離れると、本人のものになっていないことになりかねないのです。

 

○呼吸と呼吸法

 

 呼吸が深まっていくと、すべて解決する。とまでは言いませんが、呼吸を深めることは、何事にも切り離せないところです。特に、声は呼吸で出しているのです。

 声楽家は共鳴のプロと思いますが、一流の声楽家は、紛れもなく呼吸のプロです。呼吸によって発声も共鳴も習得の土壌ができてくるといえます。

 ここには、バレリーナやダンサーやパントマイムの人が、ときおりみえます。発声でなく呼吸の勉強にいらっしゃいます。呼吸には精神力もリラックスも、あらゆる問題の解決のヒントが隠されています。酸素が血の流れで全身にいきわたるのを待つように、です。

 呼吸法や呼吸のトレーニングが、あまり役立たないように思われるのは、すぐに成果に結びつかないこと、それどころか、一時、バランスを崩すことがよくあるからです。

 いい加減な歌やせりふ、発声はできないようになるのです。だから、今のままがよいとか、少しよくなればよいくらいに思うのはよくありません。それならラジオ体操の呼吸くらいでやめても充分でしょう。根本的に変える必要性がないなら、呼吸法をやっても何にもなりません。そういう人が少なくないのです。

 

○プロセスと結果

 

 例えば、今、最大限の力で持てる重いリュックを持ち上げるときに、呼吸は変わりますね。体の使い方も腰の入れ方も変わるでしょう。それを持って歩いたり走ったりできませんね。でも、力のある人は、軽々と、あなたがハンドバックを持つくらいに、それを扱えますね。それを持って踊ることもできるでしょう。トレーニングとは、そのギャップを埋めるために行うプロセスなのです。

 すでに変わった呼吸では、声は自ずとコントロールされますが、変えようとしている呼吸や変えつつある呼吸ではコントロールできないし、うまく声にならないかもしれません。寝起きにすぐ歌うのは、難しいのに似ています。しかし、プロセスを結果としてみてはなりません。結果を出すまでのプロセスなのです。

 

○小さな質問

 

 大きな流れ、プロセスからみたら、次のような質問は、ほとんど意味をなしません。そのように疑う時点で効果がないし、効果が出にくくなります。結果は続けていくことでしか出てこないからです。

・息は吐き切るところまで伸ばすほうがよいか。

・息を吐いたあと止めた方がよいか。

・声(ハミング、息の音)を出して、吐いた方がよいか。

・息を吸うトレーニングも必要か。

それぞれ、目的や質問の出るレベルにおいて、いろんな考えがあります。私のところのトレーナーもそれぞれに応えています。状況をみて、よし悪しで答えて、それなりの理由をつけることもあります。そう思って答えるトレーナーもいれば、迷っても仕方ないので迷わないように先に進めるためにアドバイスするトレーナーもいます。

 上の質問について、私は、「はい」 でも「いいえ」でも、理由をつけて答えられます。また、その結果のメリット、デメリットも言えます。といっても、それは一般論としてです。相手とその目的が定まっていなくては、ほとんど無意味です。ですが、自分とトレーナーの勉強のために、トレーニングをしている人の疑心暗鬼を晴らすために答えているのです。

 

○特別な呼吸法を知りたい

 

 呼吸は、あらゆるもので扱われているので、呼吸法もメニュもやり方も集めたらきりがないでしょう。特別な方法もたくさんあります。大体、特別というのは、無理ということです。特別なほど、ハイリスクと思えばよいのです。ハイリターンとは限りません。

一人で取り組むと、こうしたハイリスクかローリスクローリターンを重ねていくことのなりがちです。くせだけついて、抜け出せなくなるかもしれません。発声のためなら、自主トレよりはレッスンを受ける方がよいわけです。

 身体がわかってくると、そのトレーニングをやめるあたりで、つまり、捨てるところで身に付く方向にいっているものです。それも踏まえて、何をやってもよいということです。

 

○ふしぜんの理由

 

 「早くしぜんになるためにふしぜんなトレーニングをする」といつも私は言っています。

 しぜんになったとき、トレーニングは日常ということで置き換えられ、消滅するのです。少なくとも、トレーニングのままに、人前に出してはいけません。トレーニング中でも、トレーニングは忘れましょう。

 これはトレーニングということばを技術に替えても、同じことです。しかし、努力やテクニックだけをみて拍手をくれるようなところでは勘違いされやすいので困っています。ハイテクニックを使って歌う技術を教えて欲しいという人も出てくるわけです。

 

○一つになる

 

 どんな方法、メニュも、とは言いませんが、基礎ということで行うなら、やがて声は一つの大きな動きとなります。流れるように柔軟にしなやかに結びついて一つのまとまりとなります。そうならないものは、現実に使えませんから省いていくことです。なのに、そうならないもので何とかしようとするから、後で伸びなくなるのです。

 歌やせりふの中心で声がコントロールできないのは、かまいません。気持ちと声がバラバラになり、両立もできないからトレーニングするのです。目的が高いほど、早く身につけようとするほど、無理がきます。無理とは、トレーニングそのものが無理なものです。無理に対して無理を通すのです。

 なのに、「トレーニングするとしぜんでなくなる」と言うような人がいるのは、おかしなことです。「トレーニング」も「しぜん」も定義して使うことです。そうでなければ、「しぜんでないようになってないと悪いのか」「歌もせりふもしぜんなはずはないではないか」のような反論もできるでしょう。「トレーニングは部分的、意識的であり、それゆえにトレーニングにすぎない」と説明しています。

 一つのプロセス、一つの体、一つの声を分析して、それぞれのチェックや調整から強化をするのがトレーニングです。

 

○オンとオフ

 

 直前に筋トレしてから、バッターボックスに入る人やPKを蹴る人などいませんね。

スポーツのオンシーズンとオフシーズンにも例えると、オンで力を発揮するのにオフでジムに通います。

 特にトレーニングをせずに、それなりに必要な要素を取り込めてきた勘のよいアーティスト、特に20代までが全盛だった歌い手には、そうでなかった人のことがよくわからないでしょう。自分のことも把握していないからです。身についていったプロセスがみえないのですから無理もありません。これはステージでなく、声についての話です。そういう人の話を聞くと「それでは、スポーツ選手も、試合だけやっているのが一番力がつくのでないですか」と言いたくなります。仮に、そういうスポーツがあるとしたら、会社に行っている人のサークルとか、学校の授業のなかのスポーツのレベルでしょう。高校の課外クラブでさえ、今や特別な基礎トレーニングをしているのです。

 でも、何をもってトレーニングというのかは、いろんな見方があります。アーティストですから、ステージや作品をつくり続けること、そこに、みえないけどトレーニングが含まれていたらよいのです。しかし、その人はそれでよいというのと、教える相手がそれでよいと思うのかは、別のことでしょう。

 

○深める

 

 くり返すまでもありませんが、単独での「正しい声」「正しい発声」「正しい呼吸」などはありません。すべては、どう使えるかの程度問題です。ですから、私は、ことばとして「正しい」でなく、「深い」をよく使っています。トレーニングは深めていくプロセスです。

 どこまで必要かは、その人の目的によります。ギリギリ使えるよりは、余裕がある方がよいに決まっていますからハードめにセッティングします。つまり、わざとふしぜんを求めるのです。

 仮に、歌に対応しうる体というものがあったとしましょう。これはローレベルでは誰もがもっています。音痴の人でも声が出るなら歌える体です。

それでは、ハイレベルでプロ(ここでは、本当に声だけとしてみるのですが)として歌える体、誰が聞いてもプロとして通じる歌える体-となると、どうなるのでしょうか。オペラ歌手とか邦楽の第一人者のように、いえ、世界レベルの最高のヴォーカリストの体が、感覚も含めて、その条件となります。そのように仮定して、トレーニングをセットするとはっきりしてくるのではないでしょうか。

 

○高める

 

 ヴォイトレは、「高い目的に強い必要度をおかないと大して使えない」ということです。その必要度は、これもアスリートで例えます。オペラ歌手やアスリートの例を出すのは、今のヴォーカリストでは定められないからです。

 世界レベルのサッカーの選手は、試合で10キロ走ります。その体力、筋力をトレーニングの必要条件が基準とします。ただの10キロを走る体力では無理です。動きも変化するし、猛ダッシュもあるし、1520キロ走るのが最低限とみます。一試合90分、休憩があるから10キロでも充分という人もいるでしょう。でも、延長になるかもと考える。15キロ走れないなら可能性はないと思います。

日本のサッカーを楽しんでいる人のどのくらいかはわかりませんが、シュートやドリブルのテクニックが最高でも、この体力なしではノミネートされません。次の段階で、1ゲーム8キロしか走らないのに得点に絡むメッシの動きに学ぶようにするのです。

 

○地力

 

 毎日のサッカーの練習でしぜんと20キロ走っているという人や陸上の長距離の選手から転向した人なら、10キロ走る特別のトレーニングはいらない、小さい頃から毎日10キロ走ってきたような人も、その日常をキープすればよいことでしょう。つまり、プロの体があるからです。

 それがない人が身につけていくということで、必要なのが、トレーニングの目標です。20キロを目指しつつ、5キロ、10キロでも、今よりよくなれば、それだけプレーに有利になるのです。

 体が資本なのは、皆よくわかっていらっしゃいます。体づくりについて、スポーツでは長い歴史のなかで改良されてきました。一方、アーティストは、表現や媒体なども変えてきたためでもあり、改良の歴史は、まだ新しいし浅いのです。

 声以前に、人前に90分立ち、動くだけでも相当の体力はいります。つまり

1、 手の付けやすいところから力をつけていく。

2、 目的に対して必要な体の使い方を知り、優先順位をつける。

これは、人生の時間の使い方の優先順位に重なります。若いときは、目的がわからなくて、その必要も絞り込みもできないものです。一方、大人は人生を逆算して2をメインにするとよいでしょう。ここでの体力とは、そのまま声力、呼吸力などに置き換えてみるとよいと思います。

 

○鍛える

 

 トレーニング自体、無理をしていると思えば、力の抜き方もわかります。「リラックスしようとがんばっているのですが」それではリラックスできませんね。こんなふうに逆のことをしてしまうことも少なくありません。

 しかし、こういうことは、対立しているようで、長く続けることで解決していきます。慣れによって、しぜんと止場、昇華するのです。なぜなら、がんばらない、力を抜いた、で、リラックスできないゆえにがんばってしまうのです。がんばってがんばって、力を入れていくと、いつかはがんばれなくなり、力が入らなくなり、その辺りからいつしかできるようになってくるのです。

 これは、昔のフィジカルとメンタルを重視したスポーツのトレーニング法のよさです。1000回スイングすると力が入らなくなって、もっともしぜんで理想的なフォームになる。そういう人もいます。ポップスもプロの歌い手の大半は、そんな感じでうまくなったと思われます。合う人にはよい方法です。

 しかし、プロになれた人が言うのと同じことをして、プロになれないのが多くの人です。みていると、よほどのセンスやイメージがないと、結果として、理想に辿り着けません。そういうときは、プロでなく、ハイレベルの一流に学ぶようにすることです。

 

○レベルの向上

 

 カラオケの人の歌のうまさは、あるところまでは練習量での慣れです。その後は、時間と上達が必ずしも比例しないのです。つまり、年齢や練習量に対し、キャリアや実力は、別のものになっていくのです。

 疲れるほどのトレーニングで精神を乱さず、集中力をつなぎ、フォームの把握にとことん厳しかった少数の人が、脱力できてよい結果を残します。そうでない大半の人は、脱力すると崩れたフォームになっていくのです。そうなる前にコーチがストップをかけた方がよいのです。

 バッティングセンターの使い方として、4球みて1球打つ。歌は10回聴いて1回歌う。これは量の時代から質へ入るレベルのときにアドバイスします。つまり、何十球打ったとか、何十曲歌ったという量と時間だけでの充実感、満足感で終わることを戒めるのです。目的を間違えないことです。大切なことは、今のレベルをどう上げるかです。

 となると、コツや技術ではなく、呼吸が全ての根源です。それが未熟かつ浅いものになったがゆえに、歌は力を失いました。お笑い芸人が天下をとりつつありますが、それは、ネタの力だけでなく、まさに声力、深い呼吸の力なのです。

 

○下位の呼吸

 

 呼吸をよくすれば、全てが解決すると思って始めるような呼吸法はよくありません。私は、本には、体―呼吸―発声の順で書き進めていますが、唯一、カラオケの本はステージから書き始めました。

 レッスンは、体や呼吸から始めるときもありますが、歌やせりふ、フレーズを聞いたり、声に出してもらい、そこでうまくいかないところをみていきます。およそわかったら、発声のなかで呼吸をみます。呼吸だけのトレーニングは、その後に触れます。

 多くの人が呼吸(法)を身につけられないのは、その必要性をわかっていないからです。本やレッスンで学ぼうとして、メニュや方法を調べてやっているわけです。最近では生理学や解剖学まで学べます。そういう周辺のことに気を使っているわけです。伝わらないのは、できていないことを知るプロセスがないからです。

 大切なのは、必要性を体でわかることです。体で足りないととことん思わなければ、変わりようもありません。なぜ、すでに“正しく”生きていてしゃべれている、しぜんに一体として使えている呼吸が変わるのでしょうか。腹筋トレーニングの上体起こしなど腹筋と呼吸トレーニングの関連については、筋力は大切ですが、それだけで声に結びつくのではないということです。

 

○上位の呼吸☆

 

 筋トレなら、筋力不足がわかるから、若干の考え違いはあっても、アプローチとしては悪くないのです。体で不足を知るから体が補おうとして力がつくのです。

 私は、相手のことが本人よりもずっとわかっています。しかし、こちらから「呼吸法が必要ですからこのようにやりましょう」とは言えないのです。実用性を本人がわかってこそ効果となるからです。

 若い人には、息吐きトレーニングをランニングのような意味で勧めることもあります。わからないままに過ぎてしまう時間をもっと活かしたいからです。

 呼吸法で身につかないのは、やり方だけをやっているからです。呼吸法のメニュだけをやっているからです。声や呼吸を深めるために呼吸法を使うのであって、呼吸法をマスターするためではありません。とはいえ、それでもやった方がよいのでやってください。

 発声が歌によって音楽性を保った動きになるように、呼吸も、上位のイメージによって声に使えるように身についていくのです。

 ときに呼吸はよいけど、声に結びついていない人が大勢います。日常の声では、ほぼ全滅ではないでしょうか。そこで芯や共鳴の話をしているのです。

 本当は、呼吸の必要性を声から感じる、発声はその結びつきをいかに感じるかによるから、レッスンがあるわけです。呼吸、発声、共鳴と、トレーナーが、先に答えややり方を与えてはいけない例として述べました。

 

○本当の難しさ

 

 脱力からシンプルにしていくことを知ってください。しなやかでも強い、水のようなのが理想です。岩を穿つ雨粒のように、水は一見対立しそうな二つの性格を合わせもっています。二極化と私が述べた日本の声の状況は、同時に二極を統べていこうとする私のトレーニングの本質を表しています。

 達人は、簡単に難しいことをこなします。普通の人には同時にできないこともやってしまいます。器が大きいと別々にならないのです。しかし、普通の人は一方しかみえないのです。その一方だけでも難しいと思ってください。何よりも、本当の難しさに気づくことが難しいのです。

 

○開き直る

 

 うまくできないことや失敗は、あまり気にせず囚われないこと、開き直っていくことです。悩み抜いて悩みが晴れないなら、明るく振る舞うことです。そうでないと、悪循環に陥り自滅しかねません。その底から自らを根本的に変えるルートもあるので、最悪の場合でも心配することはありません。

 深めていくことを妨げるような助言はしたくないのです。努力、苦労、一見すると大きな無駄から態度や構えといった大切なものが現れてくることもあるからです。

 ですから、どうするべきか、何をするべきかでなく、するべきことをする、それでよいのです。することをしないから、迷いが出るのです。それが台無しにしてしまうのです。

 

○ノウハウの浅さ

 

 大体において、頭を使うと、ものごとは分かれてしまいます。その間を行ったり来たりして迷うわけです。高く出すと大きく出ない、大きく出すと丁寧にできない、小さく出すとピッチがゆらぐ…、本当はそこでの問題ではないのです。

 理詰めで考えて、その間にメニュをつくると解決することもあります。ABの間にたくさんのメニュをつくって、ギャップがなくなるように埋めていくのはわかりやすい解決法、つまりノウハウです。いくつか紹介してきました。

 しかし、本当はABは対立するものでなく、解決もその間にあるものではないのです。でも、早くカバーしたければ、それも一つの方法です。本当は一時しのぎの処方で、根本的な解決にはならないことが多いのです。

 すぐに、どちらかをよい、どちらかを悪いと決めつけてしまっていることが少なくありません。

発声として、アはよいが、イがよくないなら、アとイを混ぜたような音を間に入れて詰めていくとよいというのは、ABの間を詰める処理法です。しかし、本当にアがよければイもよいのです。アにこだわったら、イもよくなるのです。

あまり違いにこだわると、失敗やミスを恐れることになります。すると、構えもフォームも呼吸も浅くなり、最低の条件を満たせなくなり、できなくなるのです。

 

○悪い頭☆

 

 頭を悪く使うと悪い頭になります。悪い頭のときは使ってはなりません。そういう頭を使わないようにするのがよい頭です。頭をよくしようとせずに悪い頭を使わなければ、よくなります。

 信じなくてはうまくいきません。うまく活かさないとうまくいかないのです。うまくいくように活かせるのは、その人の実力です。うまくいくところをしっかりとやるからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かします。

 うまくいかないのは、その人の考え方です。うまくいかないところばかりやっているからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かせないのです。それは、そういう人は似た人の言うことを信じるからです。類は友を呼びます。朱に交われば赤くなります。

 あまりうまくなりたいと思うと、それも邪心となり、フォームが崩れます。

 トレーニング中も、あえて、明るくしましょう。それは本番のステージのリハであるからというよりは、ステップアップのための前向きな態度を維持するためです。

 

○あてる

 

高い声に届かせようと、あてようとするとあたりません。あたっても、大してよいものではないのです。魅力的な声でも、表現できるキャパシティのある声でもないからです。カラオケなら届けば充分です。

 ただ、あたればよい、あたったら次にいけるように考えるのが違うのです。それは、高い声コンクールとか、大声大会の目的にしかなりません。あてるのでなく、あたる、いや景品狙いの射的ではないのですから、あてるというイメージもどうなのでしょう。響かせるとか、届かせるとかも、あまり使いたくないことばです。

 要は、部分的で意識的であるトレーニングだからこそ、意識的にセットをしたあとは、できるだけそうならないようにすることが大切です。その意図を切るのです。より深く絞り込むことで、部分的なところへの意識を解放するのです。

 

○出しながらチェックしない☆

 

 高速道路の走行中に横や近くにいる人を確認しても仕方がありません。できるだけ先をみるようにするのがコツです。

 声を出しながらチェックするような人がいます。声は出したらもう出てしまうのです。出し終わってから反省するのはともかく、チェックしようと頭が働いた時点で、すでにそれは違っているのです。途中で止めて、自分でチェックするのは、高度すぎることです。録画でトータルをみて部分的にチェックするならまだしも、同時進行はあまりよくありません。そもそもチェックとトレーニングは、別の目的です。☆

 

○待つ

 

 トレーニングとして、無心に集中する。そうしないと、全体、全身が働けません。その前にどういう目的でどのくらい何をするかということをセットしておきましょう。その結果、次にどうするかということです。

 トレーナーが適切なメニュをくれるのなら、無心に淡々とこなすのがよいでしょう。あまり、できないところを狙ったり、上手くいかないところにこだわり、そこばかりくり返すのはよくありません。中途半端なやり方でのカバーを覚えてしまうと、抜け出せなくなります。それはステージでの特別な技としてもつか、非常手段です。それをテクニックなどと思ってはなりません。

 芸事には待つしかないということが多々、あります。待てることが才能なのかもしれません。考えること、聞くことも回答も不要、下手な考え休むに似たりです。

 

○質問する

 

 質問する人のなかには、質問で解決しようと思っている人が少なからずいます。体で何かをマスターしたという人生経験をもたない人には、とても多いことです。学業優秀、特に暗記反復での成績のよい人などは、そのことを疑いません。

 私が質問を受け付けるようになったのは、質問と回答のやり取りでの、あまりの不毛さからです。

現実にカウンセリングやレッスンでは、コミュニケーションの場として、ことばを交わすこととして大切に思っています。安心しないと前に進めない人への対処法の一つです。答えるのは、トレーナーの勉強にはなりますが、本人のためによいのかどうかは難しいところです。本人が満足するからよいといえばそれまでですし、不満に思うとよくないといえば、それもその通りですが、それでよいのかということです。メールでは、ほとんど役立たないと知った上で、それをも知らしめたくて応じているところもあります。ですから、本当にすぐれた先生はそんなことはしません。それで片付くと思ってはいないのです。

 

○「トレーナー共通のQ&A

 

 何人かのトレーナーに同じ質問に答えてもらう「トレーナー共通Q&A」というのを連載しています。私やトレーナーの勉強にもなります。

 私のところでは、どのトレーナーも、ことばだけで答えても答え切れないし、誤解されることも知っています。答えないと、皆、迷ったり悩んだりして考えるのですが、先に他の人の考えを知ってしまうのもアプローチとして選択の枠を広げているのです。誰かの1つの答えを信じたり疑ったりするくらいなら、たくさんの解答例から自分で考える習慣をつけた方がよいからです。

 トレーナーの答えを聞いて、それを信じてしまうくらいなら、そんなものは100のうちの1つにも過ぎないということを示すとよいと思いました。そこで、わざと比較するようにしたのです。その結果が、同じ問いに対する十数名のトレーナーによる十数個の答えです。

 これを十人の相手に対して、とするなら10×10100の組み合わせができるでしょう。いや、1人に1人のトレーナーが1つのやり方ということではないので、もっとあるでしょう。それが、レッスンでの手取り足取りのアドバイスにリアルに活かせればよいのですが。

 

○没入

 

 声にこだわるなら、生涯、いやとりあえず、今日の一日、この時間は声のことに没入しましょう。我を忘れるほど集中できたときに、ようやく準備ができるのです。この状況をレッスンでつくるのは並大抵ではありません。プロは、瞬時に切り替えることができるゆえにプロです。

 レッスンで、どうしてここまで相手の声、声の裏までみえるのだろうとわかってくると、私も自分が受けていたころを思い出し赤面する思いです。しかし、集中していたので、恥じることも恐れもありませんでした。

そうして素を出すのがよいと思うのです。恥をかきに来るのがレッスンでよいのです。本番で失敗しないためにするのですから。

 

○記録する

 

 私は、レッスンのノートをつけていました。生徒にもノートをとり、トレーナーへレポートを出すように勧めています。トレーナーにもレッスンのメッセージを必ず残させます。日本人に合った勉強法だからです。

それに囚われると、形だけになりかねないのですが、長い眼でみて、今よりも先のために、いつかのため、本人のためにと、考えました。

 先よりも今というのなら、今に専念すればよいので、ノートをとりながらのレッスンは勧めていません。ただ、レッスンの後に思い出さないと、1回のレッスンは1回で終わります。全日制ならともかく、月に数回のレッスンでは、それ以外の日の方が長いし大切です。記録は、いつか役立ちます。

 

○静かなレッスン☆

 

 リラックスしたら、かなりのことができます。多くの問題は、体のリラックスであり、心のリラックスが前提であるのに、それが伴っていないことです。心、メンタルから体が解放されるようにしていきます。

 アーティストにたるみは不要です。人前では、強度の緊張、プレッシャーが伴うのです。緊張をなくすのでなく、それを楽しむことをリラックスといっているのです。

 静かなレッスン、本当によいレッスンは静かです。沈黙の中で、スタジオ内も心の中も真空のようになります。どんな周りの条件にも影響されなくなっていくのです。心地よく感じられます。私は、ゆっくりとしたレッスンを好みます。別の時空を感じて欲しいのです。

 

○型の自由

 

 訓練とは反復のことです。上達とは、それが重なっていくにつれ色づいていくようなものでしょうか。ただ、色づくなかにも、褪せるのも変わるのもあります。鮮やかに発色し続けるには大きな情熱がいるのです。

 日本の芸道は、師の模倣中心で、説明や質疑応答のないものでした。長い時間を経て、師の模範から型が体得されると、初めは堅苦しかったものが、自由な表現のためになくてはならないものになってくるのです。マナーや礼儀作法とも似ています。今でも、専門職の高度な技術などでは、こういう伝授が行われています。

 

○才能と理由づけできるもの

 

 「才能がある」という自信などは、才能のある人たちと仕事をしていくと消えてしまうものです。才能でなく、誰よりも時間をかけてやってきたからできるという、あたりまえの理由をつくっていくことです。やってきたからという理由なら、やっていけばできるようになるという大きな自信にもなります。足らないものに気づいて、それを補って、創り出せるということが実力です。

 

○背景・バックボーン

 

 アーティストなら、自分の正統性を主張したくなるものです。これだけのことをやってきたということからくる自信です。これがよいと本人が歩んだ、いや、歩まされたものを、他の人に押し付けるときに間違いが生じるのです。他人のノウハウ、過去のノウハウは、個人のものです。

 その正統性は、アーティスト個人のものではなく、アーティストたらしめたもののおかげです。学ばせるなら、アーティストその人の人生や方法ではありません。アーティストを通じて、アーティストの後にある、大きな力でしょう。それに触れさせ、そこからの力を活かせるようにセットすることです。背景・バックボーンを整えて保つことです。

 ベテランの船乗りは、弟子に自分の育ちや戦果よりも、海のそのものを知らしめるようにするでしょう。

 

○超える

 

 師は弟子がわかるものですが、弟子もまた、師を読めるようになって初めて、師を超えられる可能性をもつのです。こうした以心伝心は、日本人に限ったことではありません。古今東西、偉大なことを成し遂げた人たちの間ではあたりまえのことです。

 そこでは、あたりまえでないことがあたりまえになるプロセスをどうとるかです。

よい師は、自分を学ばせるのでなく、自分の背景を学ばせる。自分のようにするのでなく、自分を超えることを学ばせようとします。そうした指導者は、ほとんどいません。学ぶ人が先生を選んだり判断するようになって急に衰えました。そうすると、自分が理解できる人しか選べないからです。

 

○技術とノウハウの壁

 

 トレーナーの中には、とことん技術論に凝っていく人がいます。ここで、ときおりお会いすることがあります。そういうときは、せっかくなので、いろいろとお伺いします。私は、本当のところ、技術論、方法論にはあまり興味がないのですが。

 トレーナーにも話を聞いて頭に入れておくようにしています。他のトレーナーや生徒に聞かれたときに、「誰々はこう考えている」とお答えするためです。

 技術で乗り越えようとすることは、正しく学んでいくことを強いることになります。「間違えないように」を目的としかねません。

自らに、自らが強いるのなら悪いことではありません。ただし、他の人をそうして教えるとしたら、他の人に強いることになります。これには、気をつけることです。

 「他人のノウハウは使えない」からです。使うにはその人がそれを開発したくらいの手間がかかるのです。それなら、自分で開発した方がよいこともあります。他人のノウハウを得た上で、自分流のアレンジをすると2度手間になるからです。多くは、ノウハウを吸収しきれないうちに終わります。そこで、私は、ノウハウでなくその生み出し方を伝えているのです。

 

○技術を目標にしない

 

 技術は、質問したり議論したり、自問できるからよくないのです。それを拒むもの、みえない技術ならそれはよいと思います。トレーニングがトレーニングとわざわざ別に言われるように、技術もまた技術と別に言われるところでよくないのです。技術でみせた、とは、本当の達人ならしぜんにみえたとなるのであり、技術がつきまとうなら二流ですから、目標にとるに値しないのです。

 わざわざ目標を落とすことは必要ないと思うのですが、使えるとしたら、最悪のときやうまくできないもののカバーテクニックとして、です。

 

○本技と余技

 

 失敗してよいのはレッスンのときで、客の前には出せません。そのカバーテクニックは、プロの商売道具として、このご時世では必要です。ですから、私も、いろんなテクニックを持っておくことには反対しません。

 しかし、それは中心として学ぶもの、基礎となるべきものとは違います。余技として、です。その区分けがつかず、それを実力やテクニックと思っている人が多くなってきたので困っています。

客が、そういう技術を喜んだり、ブラボーなどと言うからよいと思ってしまうのでしょうか。ファンサービスと割り切っているようにみえないことが多いのですが…。そういう人が多くなると、一時、賑わいます。マニュアル的に早くステージに出られるからです。誰もが似てきて、やがてその分野が衰退します。

 プロセスでは、歌がうまくいってもいなくても、客の評価に囚われず、オリジナリティ、その感覚、それをきちんと剥き出すことに専念したいものです。

 カラオケのエコー全盛で、歌手自身が、そのカバーテクニックを歌と思うようになってしまいました。一個人の歌の力、真の声の力というのは弱くなったのです。

 

No.362

<レッスンメモ> 

 

「日本人の日常生活とその改革」

 

数字や文字での複雑なメッセージ、絵文字、スタンプを使いこなす日本人と毎日同じようなメニュで三食食べている国の民との五感の違い

ヴォイトレの日常化のすすめ

「ハキハキとしゃべる」

「口を大きく開けて歌う」

「大きく息を吸う」

「たくさん吐く」

ハミングのロングトーン

吐く力、ゆっくり均等に

No.362

<レクチャーメモ>

 

「日本の立ち位置」

 

二つの世界大戦では、国家が市場介入し、国民総動員によって中間層が力をつけました。その結果、その後、世界は、一時的に安定したのです。

1970年代、新自由主義、市場原理主義と、個人の自己決定権が重視されるにつれ、中間層の貧困化が進みます。そこからの現実の否定が、国への責任転嫁となり、腐敗、不信、経済危機、経済的不平等が目立ってきます。

そうなると、グローバル化からナショナリズムへの流れが強まります。独裁的な中央集権化です。

しかし、そこで考えようとしない日本人の問題は、深刻です。日本ほど、中間層が決め手としてうまく統治できていた国は、稀有だからです。

エリートの育たない日本で、反知性主義は、知性的、理性的、実証的なものへの反発と捉えられやすいのですが、反権威で民への信頼をもつものとして、知性そのものへの不信ではないように思えるからです。  [649

「メニュ」

○メニュ

 

 伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、くり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、「息を吐いてろ」ということになるのです。

 今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、丁寧に講釈します。そして、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えたメニュとして出すことになります。

 ですから、メニュなどは、元より形です。何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすい形になってしまうのです。

 そこには大した根拠も道理もありません。何もないというのではなく、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台と思うことです。

 私が叩き台として出しているものをバイブルのように扱う人が出てきて困りました。メニュをやってみただけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。それで水をすくってこそ、使えるものとなるのです。体やその人自身を離れたところに、どんなメニュがあるものでしょうか。

 

○声と体のイリュージョン

 

 体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、ツールとしたら、それはすでに体に一体化している。声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。

 荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり実感は違うはずです。愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。

 子共は、寝たら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量だけで判断するのは愚かなことでしょう。

感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。計量より感覚に基づきます。科学的より想像的であるべきです。

 生きていること、連がっていること、関係と深さです。

 自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっています。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。

 

○声と歌、せりふ、結びつきの強さ

 

 声と歌やせりふ、この関係も、体と声が一体化しているように、距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。一体となれば正しいも間違いもないのです。

 強い声は、ないよりもあったほうがよい。それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまではよいことですが、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。

 体を、筋肉で強くするなら、トレーニングに量と時間をかけることです。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果をベースにしています。歌やせりふで判断するとしたら、量、時間よりは、質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。

 

○トレーニングと一流の差

 

 トレーニングは、確実な地力をつけていくためにします。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保するのです。まさに礎づくりです。

 再現性=基本は、キーワードです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎません。

 一般の人の参加するスポーツなら、怪我をしないで毎日健康に過ごすというのは、最低限での再現性で目的といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。

 毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」は来ません。この関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限って、トレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うばかりで不毛なのです。

 

○くり返し

 

 シンプルなトレーニングメニュでは、その単調さに飽きる人もいます。そのことを無意識に際限なくくり返していくと、意識は次のレベルのものを捉えようとします。少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていきます。それを狙ってのことです。そこまで待てるのかという忍耐力か感覚かを試されるのです。

 メニュをこなして次のメニュにいくというのは、メニュをやっているだけです。何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づきやすくなるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのです。その場合、一通りやり終えた後で、必ずもう一度詰めて行わなければ何にもなりません。

 与えられたメニュをやることで、知らずと自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自の分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてでしょう。

一つには、生徒はトレーナーから教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介することに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。せりふのしゃべり方、歌い方を教えるとなると、尚さらのです。形だけのレッスンになっているのに気づく、そしてそこから意味を問うことです。

 

○剥き出す

 

 レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったようなものが許されるようになれば、それはレッスンではありません。これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思います。

 これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通して気づいたら一瞬にワープできるはずなのです。

 そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、ときに耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。

 生きている、その実感においてしか本当に人に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。

 

○鍛練の注意

 

 鍛錬することで鈍感になってはいけない。これは、体や声にはまることへの注意です。しかし、恐る恐る接するくらいなら、とことん鈍に浸るのもよいでしょう。そこから抜け出さない、抜け出せないなら、それだけのものだったということです。

 教えることで、相手を鈍感にしていく例はよくみられます。教えないことが相手を鋭くしていくのと反対に、です。きっと教わるがために鈍くなる方が多いのです。本人がよければそこまでなのです。それ以上のものを感じられるようになるのかということです。

 なかには、甘え、理屈や言い訳ばかりがうまくなっていく人もいます。周りの影響は大きいです。

 できる人は狐として群れない。ということで、鈍くなるのを防いでいます。組織化すると、どこでも群れたがる人が主流派になります。不毛な集団化ですが、多勢に加わると安心する人が少なくないのです。人数が多いのはパワーにみえます。可能性は高まりますが、大抵は何も生み出さず終わります。同じようなメンバーを結びつけようとする力が強いからです。それも周りの人とうまくやっていける才能と言えなくもありません。このあたりが、本当の意味でのセンスが問われているということころでしょう。

 

○検証

 

 鈍くなると、痛みがきても「そのうち感じなくなる」とか、「いつか明日の糧となる」などと考える人もいます。こういう思い込みは無謀です。無駄は必要であっても、無謀から無能がどれほど生じてきたのでしょう。それを乗り越え、リーダーになった人が、そのプロセスを検証せずに他人に伝承すると、その弊害は大きく長く続くのです。

 ハードなトレーニングは、その見返りを求めます。そのトレーニングのおかげで上達したとなりやすいです。それがなければもっと上達したかもしれないという疑念を消してしまうのです。

 あくまで達したレベルの高さをみるべきです。そこがわかっていないケースが多いのです。歴史をみるまでもなく、日本人はいつもそれをくり返しているように思います。

 

○聞く

 

 言われるままにやっていたら何とかなる、ここにいたら何とかなる、それでは、全く逆のケースをイメージしていないことになるでしょう。言われなくてもやるということでしか何ともなりません。ここにいなくても何となる、その上でここを使うのです。すべてを自らゼロから組み立てるつもりで臨んでこそ、ものになるのです。

 成長の度合いは、その人の目的意識、どのくらいの高み、どのくらいの深みを欲しているのかによります。

 そういう意味では、間違いも正しいもない。人生ですから、その選択のくり返しです。

 伝統や精神論、権威など、形が目隠しをしてしまう。

 だからこそ聞かなくてはいけないのです。自分の心の声などというものでない、自分を超えた天の声です。毎日のように聞こえるはずはない。いつも求めて聞くのです。

 

○精度

 

 毎日のトレーニングが成り立っているという感じも大切です。ただし、そこに頼りすぎるのも危険です。力任せを充実した感じに思うことも多いのです。今でなく将来に対して成り立っているかは予感するしかありません。

 回数や量で再現の力をみるとよいときもあります。しかし、いつも再現できるようなやり方を覚えてしまうことで、くせとして固定してしまうことも多いのです。要は、精度です。

 再現のプロセスをとらずに形をとる。声でいうと、カバーリングするといっても、ほとんどがくせ声なのです。そこで作品がつくれたり評価されてしまうからたちが悪いのです。これは、最悪の状態で失敗を回避する保険です。

 ここで言う再現とは、固定するのでなく、常に動いて、結果としてピタッと同じような形をとっているようにみえるということです。同じということが絶対条件ではありません。そういう意味では伝統と似ています。

 固定したものの方が、細かく見るとぶれてしまうのです。動いているからこそ、定まらないので活きるのです。変じるのです、そういうプロセスには時間をかけることです。

 

○基本の程度の差

 

 多くの人が勘違いをしているのは、基本について、です。教えられたままに疑問に思わず、23年でできていると思っています。23年くらいやっていたような人から基本と言われたことをやっていく。誰もが身につけているもの、動きやフォームのように考えているのです。

 それなら呼吸や発声の基本のできていない人はいなくなってしまう。事実、そうでしょう。だからこそ、私はオペラ歌手、10年くらいのキャリアでの基本あたりを最低ランクにおいています。

 一般の人にも、発声や呼吸の基本を教えるとは言わず、しっかりやっていくと何年か経つと身についている、かもしれない、くらいでアドバイスしています。

 確かに基本といっても、初心者レベル、中学校レベル、高校レベル…など分けられるわけではないが、程度の差があるでしょう。しかし、基本とは、一流の人が共通してもっているものとした方が明確です。多くの人が一生かかっても手に入れられない、身につけられないのが真の基本です。それを身につけるために体やフォームを準備していくのです。

 現実には、完全に身につかなくても今よりもずっとよくなるように、よくなり続けているようにしていく基本が大切です。

基本も必要とされる程度によって変わるものなのです。その習得を妨げる要因が、自己評価、自分で感じてできているという判断になっているのです。

 

○評価と聞く力

 

 みるのとやってみるのは違う。わかるのとできるのも違う。基本を、人に教える前に、まだまだ自らも基本ができていないと考えるのが、人に教える人のもちたい謙虚さです。

 その点で、本当の声、本物の声、自分の声、本来の声と、安易に言うのは危険です。出していて心地よい声、充実する声というのも、そうでないものよりはよいというだけで用心した方がよいです。

 人が評価した声、評価してしまった声の評価の妥当性について、そこまで疑っては元も子もないといっても、声ほど気分や状況や関係で左右されるものもないでしょう。聞く人にとっても同じことです。

トレーナーも人間ですから絶対ではありません。聞き方が並みの人よりすぐれているとも限りません。出すことばかりに専念して、まともに聞くことのできないこともあるのです。

 

○声の実感・快感

 

 声の実感や快感をどう捉えるかは難しいところです。スポーツや武術のように傍からみて評価しにくいもので、大きな問題です。レッスンとしては、実感して快感であってほしいとは思います。

 声でのインパクトとバランスは、相反しやすいものです。聞く人は、バランスをとりつつもアンバランスを欲しているし、インパクトを喜びつつも安定を望んでいます。歌う人やせりふを言う人も同じです。それをどのように合わせ、ずらすのか。この組み合わせと音や声との関係だけでも、こうして展開すると膨大になりそうです。

 

○我と不足

 

 我の出ている話、歌は聞き苦しいものです。自意識は必要ですが、それでは、その人のものであってお客さんのものにならないのです。価値、作品、商品の受け渡しがないのです。いくら声を出しても届いていないのです。それでは、続いてはいかないのです。

 でも、一つ二つの作品なら個性的で、おもしろいときもあります。そのリピートで、それ以上に続けて飽きられるなら、改善するか、根本から変える必要性を知ることです。大体は、一本調子で展開パターンが少なく、絶対的な強み、オリジナリティが乏しいことに当たるのです。

 そして、今の自分ではできないことを知ります。そこを突き詰めていくことで基本のレベルは上がっていくのです。

 レッスンは基本を身につけるというのでなく、基本のレベルを上げていくと思います。トレーナーはそれをわかりやすい形で明示できるでしょうか、そこが問題です

 

○外と内

 

 メニュや方法に私が否定的なのは、それが外にあるからです。内に入れば、もう基本ということをいうこともなく体で取り込まれるから、そういうことばはいらないのです。

 優れた人が現実に対応しようとすると、外界に体が対応するのです。身につけた共通要素が基本とするなら、現実や周りの状況が変じるのに応じる、つまり、基本も変じて応用されるとみてよいでしょう。

 天才肌の人は、感覚からもっともよいフォーム、体、声をつくりあげます。他の人はそうはならないのですから、基本を使い、応用していきます。

 トレーナーも、チェックのときに基本ということを持ち出すと、指導のよりどころになるので便利です。しかし、チェックしてここがよくないからやるというのは、必ずしも合っていません。合わせようとするからです。合うというイメージに感覚が及ぶかどうかです。合うまで続けたらよいのです。本当の型や基本は、マニュアルと対極のものなのです。

 

○トレーナーと違う声

 

 自分の感覚で正しいのに、トレーナーは違うと言う。

 トレーナーは正しいと言うのが、自分のではピンとこない。

 ときたまみられることです。私のところは、23人のトレーナーが担当しているので、そのことを検証する機会をもてるのです。

 どの声が正しいかでなく、トレーナーの判断の違いがどういう価値観に基づいているかということです。このときに、私なら必ずしも「トレーナーに合わせるように」とは言いません。トレーナーの方が経験も耳も肥えているとしても、です。

 ここで正しいと言い張ることを認めたうえで、その根拠を問います。質問するのでなく本人が何をよしとしているかを声そのものでみます。よほどの人以外は、嘘ではありませんが、よいとか正しいという声の範囲が定まっていないと、自分でわからなくなります。

 困るのは、くせ声での快感や個性的という実感です。高く出したりハスキーに聞かせるようにしてつくった声です。大体は体で支えられていないものです。そういうときは、その柔軟性の応用力のなさを問います。しかし、それを使えないというのではありません。区別するのです。

 どれでもよいと思いつつ、柔軟な声に絞られてくる時間を待つ方がよいのです。急かされない限り、私はゆっくりと待つつもりで対しています。ただ、聞くだけでも、少々方向づけたら声は育っていくのです。

 

○主体性のある声

 

 トレーナーの教えに合わせていくのでなく、自分を出していくとトレーナーによく聞こえていくというのがよいと思うのです。

 自ら出てくる声より周りが求める声に合わせようとがんばる人が多いです。これに日本人ほど気を使っている民族はいないかもしれません。 

しかし、もっとも大切なことは、声なのですから、学ぶにしても主体的であることです。

 憧れから入る世界では、自分の声を否定した人が、他人に合わせたがる傾向が強いのでやっかいです。まして、ステージは普段の自分から化けるのですから、そこで自分に向き合う暇などありません。

だからこそ、素である自分、その体、感覚で、声に向き合う場、時間、空間を必要とするのです。

 声は体だけでなく空間に響いているのです。体=宇宙なのです。

 

Vol.103

〇悪いパターンに陥らない

 

 声のトレーニングをしている人をみていると、3つのパターンがあります。1.やらない人 2.やっても続かない人 3.続けられる人

 

 続けている人のなかにも、3つあります。

  1.続けているうちに、いい加減になる

  2.続けていることで、変わらない

  3.続けているうちに、よくなる

 同じように続けても心のもちよう、目的意識によって、効果は違います。

 よくなる人でも、困難に出会うときに、1.やめる 2.変わらない 3.ペースダウンさせる と、いろいろあります。

 続けているうちに、パターン化していくのです。

 それを私は、循環といっています。

 

○成功回路と失敗回路

 

 循環にも、よい循環と悪い循環があります。

悪循環を断ち切ることが大切です。その回路を修正して、より循環にしていけばよいのです。

 

○自分の問題は自分で解く

 

 声をよくするのに、他の人に依存し切っている人がいます。早くよくしたいと思ったら、自分自身で、できるだけのことをやり始めていくことです。

 常にポジティブに、気持ちを新たにしていないと、くせのついた声に陥ります。

 内向的で、自分の部屋にずっといるのが居心地のよい人などは要注意です。引きこもりも、そうなると、そこから脱するのは大変になるからです。

そうなる前に声を出しましょう。他の人に自分から声を使いましょう。

 

〇声を使う機会を増やす

 

 「でも、声を使う必要ってないし」「話すことって、あまりないのよね」、それでも構いません。笑っても泣いても人生一度きり、たくさんの声を使いましょう。

 

 声は死ぬまで使います。そして、骨拾いで、のど仏を最後に納めます。そこには、仏さんがいるからです。生きている間、使い尽くすのが供養というものです。

私は、それをのど仏の詩として作ったことがあります。

(ただし、こののど仏とは、第二頸骨です。)

 

「最期のうた」

 

ぼくの のど仏を 誰かが

ハシで はさんで みる日が

いつか 必ず くる だろう

そのとき ぼくの のど仏は

さいごの 音 を

発して くずれ る だろう

それは、きっと、何の

輝きも 深み もない

音だ ろう

(それを ぼく だけ は

やはり 聞くこと が

できない のだ)

30年先か3日先か、いつか、きっとのうた)     

1998.1月号】

「バズるより、主体となる」 No.362

問いが大切というのは、主観的なものだからです。つまり、あなたのもの、あなただけのものです。

いくら共感を呼ぶもの、多くの人が「自分も同じ思い」と感情移入できるものを目指したいとしても、それは、結果、答えのようなものです。

問うことであなた自身が自分を知っていくことからスタートです。逆ではありません。

そして、あなた自身が終点でもよいと思うのです。とことん、あなたのことを問えばよいのです。

それがどこまで共感されるか、バズるかなどは、そこからの波及効果です。つまり、波に過ぎません。まず、自分の手で自分の石を投げることです。その影響力や結果を最初に計算する必要はありません。 

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