「声道」
○精神の力
声は、ことばを伝えます。どんなスポーツやアートよりも実用的です。そこに精神的なものを求めるのもあざといので、私は道とは言ってきませんでした。戦いや遊びがスポーツやアートになったように、声もそうなってきたとは思うのです。武術も、武道となったところでその中に入ったのでしょう。
声は、声明などに代表されるように、神事としての性格を併せもちます。弓道や流鏑馬、古武道などとも似ている気がします。宗教儀式としての声は、体で発するものでありながら、体を超える精神によるところが大きいのです。声における精神力の大きさは、並みならぬものがあると思います。
それをリアルに知ったのは、美空ひばりの病いからの復帰後の東京ドームのコンサートでした。普通の人の半分も使えない呼吸機能で35曲歌い切りました。その後まもなく逝きました。焼身自殺した高僧の、火中で姿勢が崩れないのにも似た人間の精神の、肉体や物質に対する勝利でした。これが、ごく一例、天才の成す技としても、です。
○精神の形
歌い手も、加齢によって共に声量や技術も衰えます。スポーツにも似た限界としての引退があります。その是非を問うても仕方ないでしょう。復帰した人も多いし、それぞれの人生観です。
スポーツでも40代の現役の選手は珍しくなくなりました。種目にもよるでしょうが、それだけ体の管理や技術を支えるツールの発達などがあったのです。しかし、何よりも思い込みからの脱却が一番なのです。ここでも精神が体を超えるといえます。
となると、体よりも精神を鍛えなくてはならないとなるのですが、体力なしにメンタルを強化するのは難しいものです。体の方がシンプルなので、そこから入るのが一般的です。
精神修行として歌ったり読みあげるのは、あまりに日本的です。
ストレス解消やリラックスのために声を出すというのは、健康な使い方でしょう。使い方というと、カラオケも声の使い方です。しかし、声そのものは、使い方ではどうにもならないものとして分けてみると、案外と精神そのもののリアルな形が声にみえてきます。
気分で表情も声も変わるでしょう。声のコントロールは感情のコントロールです。それは呼吸のコントロールによることは説明がいらないでしょう。ですから、人の説得にも、実際に会って声をかけるようにしているということです。
○精神のレベル
戦いとは、敵と対峙しているようであって、常に自分のものとの対峙です。それは、スポーツでよく知られていることでしょう。すぐれた選手、達人は、相手が誰であれ、自分のベストを出せばそれでよいと思っています。まずは、それが前提です。なかには、本番でベストが出せなくても優勝できるようなダントツの選手もいますが、それでは、本心で満足できないでしょう。
スナイパーは敵の急所に赤外線が当たればOK、ロックオン、射程距離に入ったらあとは方向だけ定めればよし、声に似ていますね。
声にも距離と方向があります。イメージとしてのことです。実際は音波ですが、ただの音の波とは明らかに異なります。そうならなくては、人の耳には音として聞こえても、意味は伝わりません。
声には伝えようとする意志が乗るし、聞きたい意志をもっている人との間で成立するのです。それを超えて、成り立つ、そのときがアートになるのだと思います。それは精神のレベルによるのです。
○声の凋落
歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふがダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。
それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然でしょう。私は、日本人として、それを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときです。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことと思っています。
○中心の確保☆
発声の理想の状態は、結論からいうと、ゾーンに入った感覚です。我が消えて自分が世界、宇宙の中心という神の媒介のようになった至福感に満たされ、そこに方法も術もないのです。それは、使えるようになるために使うもので、使えた時には消えます。消えないと困るのです。
声は、出して出せないものより、出していないのに出ているものとなるのでしょう。それを得るためには、考え方でなく感覚と体が必要です。それは、私がフォームと言うものです。構えといってもよいでしょう。
呼吸法は呼吸として発声法に組み込まれ、発声法は発声として共鳴していくのです。そこでの境はなく、同時に生ずるのです。そこで意識は無となり、感覚と一体になります。その一連の動きを邪魔しないようにするためにレッスンがあるのです。なのに多くのレッスンは、逆に感覚と意識を分けてしまうのです。もっとも気をつけるべき点の一つです。
○なくすこと☆
喉をならすのでなく、なっているとしぜんと呼吸も長く使えます。だから「ならすな」というのです。
「喉を開ける」これもイメージ言語ですが、そこで「締めろ」というトレーナーもいます。まったく逆のことのようですが、私からすれば、同じことです。喉はあるのですが、それを「ないものと思え」というのも同じです。
健康でなくなると体がそれを意識します。痛みがあると体の存在を知ることになります。風邪で喉が痛いときに喉があるのを知ります。すべてあるのは、調子の悪いときです。ですから調子がよいときは消える、意識できないのがよいということです。
喉も顔も体も呼吸法、発声法、声も歌もなくしてしまうのです。なくせといっても、なくならないのです。そこで意識して、存在を確認します。それがレッスンであり、トレーニングのプロセスです。その後に意識をなくす、なくなったときによしとするのです。
○知らずに知る
知らずにするというのは、頭で知らずにということです。気づかないうちにできるようになるということです。それならば、頭が邪魔しないようにする、次に体が邪魔しないようにする。逆の順でもかまいません。理想的には同時にそうなるとよいのです。
「ヴォイトレなどをしない方がよい」と、ヴォイトレを否定する歌手や役者がいます。それは、こういう意味では正しいのです。そういう人ほど、もし実力者であるなら、ヴォイトレをその名を使わずヴォイトレと思わずにしっかりと行ってきたし、今も行っているわけです。
理想的な発声をしていたら、深い呼吸ができるようになります。例えば、本当に全身全霊で歌えていたら、ヴォイトレはできているのです。
そうでない、その他のほとんどの人が効果的に強化するために、筋トレやコアトレのように、そこだけ取り出すヴォイトレがあるということです。そのように絞り込んで集中しないと、普通はなかなか、これまで以上の力をつけられません。ピアノで難しいパッセージだけをくり返し、指を動かすようなことは、パッセージの練習でなく、それに対応できる感覚と体(指など)のためのトレーニングです。それでは雑になるから練習曲があるのです。全体の流れをリズム、テンポも外して20秒くらいでベースの音やコードだけでさらえる練習が基礎トレーニングによいのです。
○切り替え
私は、他の人のトレーニングをお手伝いしているうちに、歌、声のなかに何本もの線がみえてきました。あたかも、初心者のとき、歌い始めは何も聞こえず歌い、そのうち、ピアノにのって歌えるようになり、しばらくして、バンドのそれぞれの音やトータルのサウンドが聞こえてくるかのように、です。我ながら鈍いのですが、そういうプロセスがあったおかげでしょうか。歌一曲のライン、Aメロ、Bメロ単位のブロックのライン、1フレーズ(ブレス)単位、そして1小節のなかと、4つくらいは同時にみたり、切り替えしてみたりできるようになっています。
メロディ、リズム、ことばという3つでは、歌のトレーナーは皆みているはずです。ただ、そのために声をみなくなっていることが、よくある話です。
○プロのヴォイトレ
楽譜通りに歌えない人ばかり教えていると、もう、正しさを100点として、そこにいかに近づけるかがレッスンになります。音楽の基本3つの要素を正しくするのがレッスンの目標となるのです。
プロとやっていると、そこは超えて、歌唱力、その解釈と表現に集中できます。一流に対して、初めて声そのものの問題に入れるのかもしれません。そこでは、音楽、歌、声と3面からアプローチしなくてはならないのです。
ですから、CDだけもってこられてもレッスンが成り立つのです。ある歌のレッスンでは、もっともよいテイクだけ、あるいは、最も悪いのを持ってきてもらいます。前者はコメントですべてのこともあります。後者はそこからのレッスンです。
○思いっきりよく
「無理に出すから痛めるのでなく、中途半端に出すから痛める」というのは、メンタルの弱い人はわかりにくいことです。恐れてやると怪我をしやすいのと同じです。メンタルが声を引き出す、心身一体でこそ、超えられるのです。そういうことは、どこかで経験して欲しいものです。他の経験の方がずっとわかりやすいです。
昔は、役者は養成所でそういった体験を、よくも悪くも全身全霊で声に対しても試みて、何か出せた経験からスタートしていました。なかには喉を傷める人もいましたが、こつをつかむ体験となりました。今は、お笑い芸人の方がそのあたりを学んでいます。
うまくいかない人は、イメージかメンタルかフィジカル(喉)に問題があったのです。それを知ったら、そのままには続けないで、無理せず丁寧に練習を重ねていったらよいのです。上位の人との心身の差を詰めていけたら、次にそこにワープする経験を積める可能性が出てくるのです。
○究める
声の使い方としては、ピアニッシモや丁寧さから教えるのが今の風潮です。それは喉を壊した人へのフォローとして、あるいは、自主トレで声を酷使しすぎて荒れている人へのレッスン内容です。
レッスンのときしか声を出さない人には、歌のためのバランス調整にしかなりません。一時間しか歩けない体力の人にサッカーを教えているようなことで、そういうレッスンもあってよい、とは思います。しかし、普通の人なら、がんばれば、何か月かで10キロは走れるものです。75歳くらいまでなら容赦しなくてもいいです。あくまで例えで、10キロ走れても、声とは別なので無理に走らないでください。
大きく出せるからこそ、小さくも使えるようになる、それが原則です。一見、誰でもできるものにみえるものほど、究めていくのに難しいのです。中音域やアの方が、中級者レベルでは高音域やイ、ウでの発声よりも難題となるのと同じです。
○体を使う
知性や理性、悟性でつかむものは、形です。体を使えば土壌ならしはできます。耕すことの毎日から、いつのまにか芽が出て花が付きます。そのときに、何の花か、どのような美しさや大きさかは知らなくとも、そのときに種がどこからか入っていたとわかるというものでしょう。花を夢みることと、大切なのは、土を耕すことです。
○ゾーン
ゾーンとは、ある時間のある感覚で、それですべてであるという決定的なものです。それを得た人、感じた人、みたけど逃した人、少なくともその存在を知る人は、こういうことを理解できるでしょう。
読まなくてもわかっているから読まなくてもよいし、わからない人は読んでもわからないから、読んでも仕方ない。なのに、なぜ、読んでもらうのかというと、わかった人が確認するためと、まだわからない人が、そのときにこれだとわかる、あるいは自分でわからなくても、誰かにそれだと言われたときに否定してしまわないためです。「こんなものは、違う」とこれまでのレッスンや自主トレーニングなどでの観念やイメージによって判断しないためです。自分勝手に自分の限界をつくらないためです。
○つかむ
必ずしも、真実の声は瞬時にわかるとはいえません。まったく異なるから、次元が違うからです。全体を完全につかんだときならともかく、部分的にそのきっかけだけが来ることの方が多いからです。その断片を早くから組み合わせていける人は少ないものです。私は、そのときに見逃したり気づかなかったり、「それだ」と言っても、「そんなはずがない」と思ってしまう人を見てきました。指摘しても気づかない人もいます。
勘を磨いていくこと、そして、いつかのときに備えてください。
○よい声とは
よい声について、発声ではよく言われている次の例が具体的でよいかと思います。
1、 自分では大きく出していない、よく聞こえない声
2、 響いていない声、自分にきれいに聞こえない声
普段の練習の目的とは全く別のことが、ここでは言われています。1はとても小さく、2はとても大きい声のように思います。しかし、これは同じ声なのです。いつものあなたの声と次元の違う、レベルアップした声なのです。本人が気づかないゆえに出さないし、目指さないような声です。そのため、自主練習中には、ほとんど気がつきません。一人では身につかない声こそ、求められている声なのです。(声楽の人はこれをマスケラということに当てはめてみてもよいでしょう)
○声の芯とパワー☆
これまで自分に大きく聞こえていた声は、喉で内耳に響いてうるさく、外には拡散する生声やこもり声、だんご声です。その判断ができることが、よくないとされるほとんどの声からの脱却のポイントです。
鐘をきちんと叩けば、強くなくとも、その響きを邪魔しなければ、遠くに響くということです。理屈では、初心者でもわかることです。しかし、実際にといえば、ほぼ間違えてしまいます。
きれいにバランスがとれて共鳴したように思う声は、小さな部屋ではよく聞こえるが、大きなホールでは遠くへ届かないのです。拡散しないようにまとめ、絞り込んでいると効率はよいのですが、そこでパワーまで抑えてしまった結果、おとなしく落ち着いただけの声になってしまったのです。日本人が、よく誤解して目指してしまう声です。困ったことに、教えている人がそれを勧めるわけです。でも、それも一理あるし、きっかけや一歩になることもあります。カラオケの上達を目指す人にはわかりやすく、よい教え方ゆえに、それは限界が早く来るのです。
響きを邪魔しなければ強く奏でる方が届くことを忘れているのです。いや、今となっては、もはや指導者も含めて、あまり経験してきていないのでしょう。
トランペットなども、小部屋でうるさく汚いほどの音の方が、広いところに出るとぐーんと伸びて、ただ美しいだけでなく、心に響くものになるのです。例えとして適切かどうかわかりませんが、ジャストミート打法であり、同時にホームラン打法であるというもの、それを目指すことです。
○流れ
「自分はもっている」と言える人も、ときたま、いるようですが、フォームづくりまでは、プロセスとして用意します。決定的なものとして、つかみ直すのには、白紙で臨むことです。
本当の意味を知るのに、いつも邪魔するのは、頭、思い込みや偏見、固定観念です。水泳なら水にのる、スキージャンプなどでは風にのる、みたいなことです。フォームづくりで、一所懸命に心身に働かせるのは、その大きな流れを自らに引き寄せるためです。流れに逆らって力をいくら使っても、尽きてしまうだけです。音楽、歌もまた、流れなのです。
○悟る
発声に限らず、悟ることの難しさは、いくら説明しても伝わりません。無意味で空しいものです。ことばにすることで、批判的、理屈となり、独善に堕ちるからです。自ら得るよりも、他人に説明して理解させる方が難しいものです。
具体的な方法は、いつもいくつも挙げています。それが理論的や具体的ゆえによいとは思わないようにはなったでしょうか。いつも、どう自分に使うかだけが大切なのです。そこを注意することです。
そのために、批判的な態度をなくすこと、没入すること、無私へ到ることが求められます。それは瞑想のようなものかもしれません。とことん体験していくしかないのです。どう身につけるのかの前に、どう味わうのかです。
教えないこと、そこで理論的であろうとしないことが、教わりたい人、理屈で考えたい人への誠意ある解答だと思うのです。
○捨てる(呼吸法について)
こつを得たい、それもまた邪心です。リラックスしたい、そうできない自分を感じているのでは、どうしても固まってしまうだけです。それを捨てるしかありません。
それらは呼吸を深めることで、自ら解き放っていくのです。深く吐けるようになるためには、深く吸えるようにならなくてはなりません。深く吸おうとすると固まってしまうのですから、まずは長く均等に吐けるように時間をかけていく、それが呼吸法です。
勢いよく吐いて体を使うのも悪くありません。しかし、そこは呼吸筋の鍛錬、つまり、体のへ刺激を与えて変えようとしているのです。その必要度を上げて、ギャップをつくり、次に埋めていくプロセスをとるのですから、そこは、しぜんになるまで続けていくしかありません。それもまた、捨てるということです。
○荒療法
日常に呼吸を意識しなくてはいけないのは危機的な状況ですから、そこで歌えるわけがありません。ギャップを無理に埋めようとしては却ってうまくいかなくなります。あえて、その拡大版をトレーニングでセットしているのです。それは、無理を承知で無理な状態においているのです。
これをしぜんに長い年月をかけて発声を習得してきた人や、そこでそういう基礎もなく活動している人がみたら、呼吸法など、やらない方がよいと思うのも当然です。その意見に賛同するなら、やらなければよいのです。
荒療法はリスクもあります。しかし、待っていられないなら、より高くを目指すなら、挑むのも一つのアプローチです。
リターンは、人によります。でも、体と呼吸は強くしないと扱えません。この強くということを誤解しないでほしいものです。
○シンプルに
いくらいろんなメニュや方法を寄せ集めて試してみても、大して役立たないものです。一貫した方向とプロセスがみえていないからです。そこまでは役立たないのですが、だからといって不要ではありません。すぐに役立たないからこそ、本当のトレーンングです。トレーナーはそこを手助けします。
トレーナーを次々と替えるとしたら同じことです。私は、そのすべてをみえるポジションでトレーナーの方法やメニュ、組み合わせをみています。まず、やらなければ変わりません。シンプルに、そこからです。
○習得するとは
トレーナーの方法でよくなったと、それを過大に評価しては依存になりかねません。教わるのでなく、自分が自ら体得したようにしていかなくては、本人のものになりません。時間はかかります。できたとしてもトレーナーから離れると、本人のものになっていないことになりかねないのです。
○呼吸と呼吸法
呼吸が深まっていくと、すべて解決する。とまでは言いませんが、呼吸を深めることは、何事にも切り離せないところです。特に、声は呼吸で出しているのです。
声楽家は共鳴のプロと思いますが、一流の声楽家は、紛れもなく呼吸のプロです。呼吸によって発声も共鳴も習得の土壌ができてくるといえます。
ここには、バレリーナやダンサーやパントマイムの人が、ときおりみえます。発声でなく呼吸の勉強にいらっしゃいます。呼吸には精神力もリラックスも、あらゆる問題の解決のヒントが隠されています。酸素が血の流れで全身にいきわたるのを待つように、です。
呼吸法や呼吸のトレーニングが、あまり役立たないように思われるのは、すぐに成果に結びつかないこと、それどころか、一時、バランスを崩すことがよくあるからです。
いい加減な歌やせりふ、発声はできないようになるのです。だから、今のままがよいとか、少しよくなればよいくらいに思うのはよくありません。それならラジオ体操の呼吸くらいでやめても充分でしょう。根本的に変える必要性がないなら、呼吸法をやっても何にもなりません。そういう人が少なくないのです。
○プロセスと結果
例えば、今、最大限の力で持てる重いリュックを持ち上げるときに、呼吸は変わりますね。体の使い方も腰の入れ方も変わるでしょう。それを持って歩いたり走ったりできませんね。でも、力のある人は、軽々と、あなたがハンドバックを持つくらいに、それを扱えますね。それを持って踊ることもできるでしょう。トレーニングとは、そのギャップを埋めるために行うプロセスなのです。
すでに変わった呼吸では、声は自ずとコントロールされますが、変えようとしている呼吸や変えつつある呼吸ではコントロールできないし、うまく声にならないかもしれません。寝起きにすぐ歌うのは、難しいのに似ています。しかし、プロセスを結果としてみてはなりません。結果を出すまでのプロセスなのです。
○小さな質問
大きな流れ、プロセスからみたら、次のような質問は、ほとんど意味をなしません。そのように疑う時点で効果がないし、効果が出にくくなります。結果は続けていくことでしか出てこないからです。
・息は吐き切るところまで伸ばすほうがよいか。
・息を吐いたあと止めた方がよいか。
・声(ハミング、息の音)を出して、吐いた方がよいか。
・息を吸うトレーニングも必要か。
それぞれ、目的や質問の出るレベルにおいて、いろんな考えがあります。私のところのトレーナーもそれぞれに応えています。状況をみて、よし悪しで答えて、それなりの理由をつけることもあります。そう思って答えるトレーナーもいれば、迷っても仕方ないので迷わないように先に進めるためにアドバイスするトレーナーもいます。
上の質問について、私は、「はい」 でも「いいえ」でも、理由をつけて答えられます。また、その結果のメリット、デメリットも言えます。といっても、それは一般論としてです。相手とその目的が定まっていなくては、ほとんど無意味です。ですが、自分とトレーナーの勉強のために、トレーニングをしている人の疑心暗鬼を晴らすために答えているのです。
○特別な呼吸法を知りたい
呼吸は、あらゆるもので扱われているので、呼吸法もメニュもやり方も集めたらきりがないでしょう。特別な方法もたくさんあります。大体、特別というのは、無理ということです。特別なほど、ハイリスクと思えばよいのです。ハイリターンとは限りません。
一人で取り組むと、こうしたハイリスクかローリスクローリターンを重ねていくことのなりがちです。くせだけついて、抜け出せなくなるかもしれません。発声のためなら、自主トレよりはレッスンを受ける方がよいわけです。
身体がわかってくると、そのトレーニングをやめるあたりで、つまり、捨てるところで身に付く方向にいっているものです。それも踏まえて、何をやってもよいということです。
○ふしぜんの理由
「早くしぜんになるためにふしぜんなトレーニングをする」といつも私は言っています。
しぜんになったとき、トレーニングは日常ということで置き換えられ、消滅するのです。少なくとも、トレーニングのままに、人前に出してはいけません。トレーニング中でも、トレーニングは忘れましょう。
これはトレーニングということばを技術に替えても、同じことです。しかし、努力やテクニックだけをみて拍手をくれるようなところでは勘違いされやすいので困っています。ハイテクニックを使って歌う技術を教えて欲しいという人も出てくるわけです。
○一つになる
どんな方法、メニュも、とは言いませんが、基礎ということで行うなら、やがて声は一つの大きな動きとなります。流れるように柔軟にしなやかに結びついて一つのまとまりとなります。そうならないものは、現実に使えませんから省いていくことです。なのに、そうならないもので何とかしようとするから、後で伸びなくなるのです。
歌やせりふの中心で声がコントロールできないのは、かまいません。気持ちと声がバラバラになり、両立もできないからトレーニングするのです。目的が高いほど、早く身につけようとするほど、無理がきます。無理とは、トレーニングそのものが無理なものです。無理に対して無理を通すのです。
なのに、「トレーニングするとしぜんでなくなる」と言うような人がいるのは、おかしなことです。「トレーニング」も「しぜん」も定義して使うことです。そうでなければ、「しぜんでないようになってないと悪いのか」「歌もせりふもしぜんなはずはないではないか」のような反論もできるでしょう。「トレーニングは部分的、意識的であり、それゆえにトレーニングにすぎない」と説明しています。
一つのプロセス、一つの体、一つの声を分析して、それぞれのチェックや調整から強化をするのがトレーニングです。
○オンとオフ
直前に筋トレしてから、バッターボックスに入る人やPKを蹴る人などいませんね。
スポーツのオンシーズンとオフシーズンにも例えると、オンで力を発揮するのにオフでジムに通います。
特にトレーニングをせずに、それなりに必要な要素を取り込めてきた勘のよいアーティスト、特に20代までが全盛だった歌い手には、そうでなかった人のことがよくわからないでしょう。自分のことも把握していないからです。身についていったプロセスがみえないのですから無理もありません。これはステージでなく、声についての話です。そういう人の話を聞くと「それでは、スポーツ選手も、試合だけやっているのが一番力がつくのでないですか」と言いたくなります。仮に、そういうスポーツがあるとしたら、会社に行っている人のサークルとか、学校の授業のなかのスポーツのレベルでしょう。高校の課外クラブでさえ、今や特別な基礎トレーニングをしているのです。
でも、何をもってトレーニングというのかは、いろんな見方があります。アーティストですから、ステージや作品をつくり続けること、そこに、みえないけどトレーニングが含まれていたらよいのです。しかし、その人はそれでよいというのと、教える相手がそれでよいと思うのかは、別のことでしょう。
○深める
くり返すまでもありませんが、単独での「正しい声」「正しい発声」「正しい呼吸」などはありません。すべては、どう使えるかの程度問題です。ですから、私は、ことばとして「正しい」でなく、「深い」をよく使っています。トレーニングは深めていくプロセスです。
どこまで必要かは、その人の目的によります。ギリギリ使えるよりは、余裕がある方がよいに決まっていますからハードめにセッティングします。つまり、わざとふしぜんを求めるのです。
仮に、歌に対応しうる体というものがあったとしましょう。これはローレベルでは誰もがもっています。音痴の人でも声が出るなら歌える体です。
それでは、ハイレベルでプロ(ここでは、本当に声だけとしてみるのですが)として歌える体、誰が聞いてもプロとして通じる歌える体-となると、どうなるのでしょうか。オペラ歌手とか邦楽の第一人者のように、いえ、世界レベルの最高のヴォーカリストの体が、感覚も含めて、その条件となります。そのように仮定して、トレーニングをセットするとはっきりしてくるのではないでしょうか。
○高める
ヴォイトレは、「高い目的に強い必要度をおかないと大して使えない」ということです。その必要度は、これもアスリートで例えます。オペラ歌手やアスリートの例を出すのは、今のヴォーカリストでは定められないからです。
世界レベルのサッカーの選手は、試合で10キロ走ります。その体力、筋力をトレーニングの必要条件が基準とします。ただの10キロを走る体力では無理です。動きも変化するし、猛ダッシュもあるし、15~20キロ走るのが最低限とみます。一試合90分、休憩があるから10キロでも充分という人もいるでしょう。でも、延長になるかもと考える。15キロ走れないなら可能性はないと思います。
日本のサッカーを楽しんでいる人のどのくらいかはわかりませんが、シュートやドリブルのテクニックが最高でも、この体力なしではノミネートされません。次の段階で、1ゲーム8キロしか走らないのに得点に絡むメッシの動きに学ぶようにするのです。
○地力
毎日のサッカーの練習でしぜんと20キロ走っているという人や陸上の長距離の選手から転向した人なら、10キロ走る特別のトレーニングはいらない、小さい頃から毎日10キロ走ってきたような人も、その日常をキープすればよいことでしょう。つまり、プロの体があるからです。
それがない人が身につけていくということで、必要なのが、トレーニングの目標です。20キロを目指しつつ、5キロ、10キロでも、今よりよくなれば、それだけプレーに有利になるのです。
体が資本なのは、皆よくわかっていらっしゃいます。体づくりについて、スポーツでは長い歴史のなかで改良されてきました。一方、アーティストは、表現や媒体なども変えてきたためでもあり、改良の歴史は、まだ新しいし浅いのです。
声以前に、人前に90分立ち、動くだけでも相当の体力はいります。つまり
1、 手の付けやすいところから力をつけていく。
2、 目的に対して必要な体の使い方を知り、優先順位をつける。
これは、人生の時間の使い方の優先順位に重なります。若いときは、目的がわからなくて、その必要も絞り込みもできないものです。一方、大人は人生を逆算して2をメインにするとよいでしょう。ここでの体力とは、そのまま声力、呼吸力などに置き換えてみるとよいと思います。
○鍛える
トレーニング自体、無理をしていると思えば、力の抜き方もわかります。「リラックスしようとがんばっているのですが」それではリラックスできませんね。こんなふうに逆のことをしてしまうことも少なくありません。
しかし、こういうことは、対立しているようで、長く続けることで解決していきます。慣れによって、しぜんと止場、昇華するのです。なぜなら、がんばらない、力を抜いた、で、リラックスできないゆえにがんばってしまうのです。がんばってがんばって、力を入れていくと、いつかはがんばれなくなり、力が入らなくなり、その辺りからいつしかできるようになってくるのです。
これは、昔のフィジカルとメンタルを重視したスポーツのトレーニング法のよさです。1000回スイングすると力が入らなくなって、もっともしぜんで理想的なフォームになる。そういう人もいます。ポップスもプロの歌い手の大半は、そんな感じでうまくなったと思われます。合う人にはよい方法です。
しかし、プロになれた人が言うのと同じことをして、プロになれないのが多くの人です。みていると、よほどのセンスやイメージがないと、結果として、理想に辿り着けません。そういうときは、プロでなく、ハイレベルの一流に学ぶようにすることです。
○レベルの向上
カラオケの人の歌のうまさは、あるところまでは練習量での慣れです。その後は、時間と上達が必ずしも比例しないのです。つまり、年齢や練習量に対し、キャリアや実力は、別のものになっていくのです。
疲れるほどのトレーニングで精神を乱さず、集中力をつなぎ、フォームの把握にとことん厳しかった少数の人が、脱力できてよい結果を残します。そうでない大半の人は、脱力すると崩れたフォームになっていくのです。そうなる前にコーチがストップをかけた方がよいのです。
バッティングセンターの使い方として、4球みて1球打つ。歌は10回聴いて1回歌う。これは量の時代から質へ入るレベルのときにアドバイスします。つまり、何十球打ったとか、何十曲歌ったという量と時間だけでの充実感、満足感で終わることを戒めるのです。目的を間違えないことです。大切なことは、今のレベルをどう上げるかです。
となると、コツや技術ではなく、呼吸が全ての根源です。それが未熟かつ浅いものになったがゆえに、歌は力を失いました。お笑い芸人が天下をとりつつありますが、それは、ネタの力だけでなく、まさに声力、深い呼吸の力なのです。
○下位の呼吸
呼吸をよくすれば、全てが解決すると思って始めるような呼吸法はよくありません。私は、本には、体―呼吸―発声の順で書き進めていますが、唯一、カラオケの本はステージから書き始めました。
レッスンは、体や呼吸から始めるときもありますが、歌やせりふ、フレーズを聞いたり、声に出してもらい、そこでうまくいかないところをみていきます。およそわかったら、発声のなかで呼吸をみます。呼吸だけのトレーニングは、その後に触れます。
多くの人が呼吸(法)を身につけられないのは、その必要性をわかっていないからです。本やレッスンで学ぼうとして、メニュや方法を調べてやっているわけです。最近では生理学や解剖学まで学べます。そういう周辺のことに気を使っているわけです。伝わらないのは、できていないことを知るプロセスがないからです。
大切なのは、必要性を体でわかることです。体で足りないととことん思わなければ、変わりようもありません。なぜ、すでに“正しく”生きていてしゃべれている、しぜんに一体として使えている呼吸が変わるのでしょうか。腹筋トレーニングの上体起こしなど腹筋と呼吸トレーニングの関連については、筋力は大切ですが、それだけで声に結びつくのではないということです。
○上位の呼吸☆
筋トレなら、筋力不足がわかるから、若干の考え違いはあっても、アプローチとしては悪くないのです。体で不足を知るから体が補おうとして力がつくのです。
私は、相手のことが本人よりもずっとわかっています。しかし、こちらから「呼吸法が必要ですからこのようにやりましょう」とは言えないのです。実用性を本人がわかってこそ効果となるからです。
若い人には、息吐きトレーニングをランニングのような意味で勧めることもあります。わからないままに過ぎてしまう時間をもっと活かしたいからです。
呼吸法で身につかないのは、やり方だけをやっているからです。呼吸法のメニュだけをやっているからです。声や呼吸を深めるために呼吸法を使うのであって、呼吸法をマスターするためではありません。とはいえ、それでもやった方がよいのでやってください。
発声が歌によって音楽性を保った動きになるように、呼吸も、上位のイメージによって声に使えるように身についていくのです。
ときに呼吸はよいけど、声に結びついていない人が大勢います。日常の声では、ほぼ全滅ではないでしょうか。そこで芯や共鳴の話をしているのです。
本当は、呼吸の必要性を声から感じる、発声はその結びつきをいかに感じるかによるから、レッスンがあるわけです。呼吸、発声、共鳴と、トレーナーが、先に答えややり方を与えてはいけない例として述べました。
○本当の難しさ
脱力からシンプルにしていくことを知ってください。しなやかでも強い、水のようなのが理想です。岩を穿つ雨粒のように、水は一見対立しそうな二つの性格を合わせもっています。二極化と私が述べた日本の声の状況は、同時に二極を統べていこうとする私のトレーニングの本質を表しています。
達人は、簡単に難しいことをこなします。普通の人には同時にできないこともやってしまいます。器が大きいと別々にならないのです。しかし、普通の人は一方しかみえないのです。その一方だけでも難しいと思ってください。何よりも、本当の難しさに気づくことが難しいのです。
○開き直る
うまくできないことや失敗は、あまり気にせず囚われないこと、開き直っていくことです。悩み抜いて悩みが晴れないなら、明るく振る舞うことです。そうでないと、悪循環に陥り自滅しかねません。その底から自らを根本的に変えるルートもあるので、最悪の場合でも心配することはありません。
深めていくことを妨げるような助言はしたくないのです。努力、苦労、一見すると大きな無駄から態度や構えといった大切なものが現れてくることもあるからです。
ですから、どうするべきか、何をするべきかでなく、するべきことをする、それでよいのです。することをしないから、迷いが出るのです。それが台無しにしてしまうのです。
○ノウハウの浅さ
大体において、頭を使うと、ものごとは分かれてしまいます。その間を行ったり来たりして迷うわけです。高く出すと大きく出ない、大きく出すと丁寧にできない、小さく出すとピッチがゆらぐ…、本当はそこでの問題ではないのです。
理詰めで考えて、その間にメニュをつくると解決することもあります。A―Bの間にたくさんのメニュをつくって、ギャップがなくなるように埋めていくのはわかりやすい解決法、つまりノウハウです。いくつか紹介してきました。
しかし、本当はA、Bは対立するものでなく、解決もその間にあるものではないのです。でも、早くカバーしたければ、それも一つの方法です。本当は一時しのぎの処方で、根本的な解決にはならないことが多いのです。
すぐに、どちらかをよい、どちらかを悪いと決めつけてしまっていることが少なくありません。
発声として、アはよいが、イがよくないなら、アとイを混ぜたような音を間に入れて詰めていくとよいというのは、A-Bの間を詰める処理法です。しかし、本当にアがよければイもよいのです。アにこだわったら、イもよくなるのです。
あまり違いにこだわると、失敗やミスを恐れることになります。すると、構えもフォームも呼吸も浅くなり、最低の条件を満たせなくなり、できなくなるのです。
○悪い頭☆
頭を悪く使うと悪い頭になります。悪い頭のときは使ってはなりません。そういう頭を使わないようにするのがよい頭です。頭をよくしようとせずに悪い頭を使わなければ、よくなります。
信じなくてはうまくいきません。うまく活かさないとうまくいかないのです。うまくいくように活かせるのは、その人の実力です。うまくいくところをしっかりとやるからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かします。
うまくいかないのは、その人の考え方です。うまくいかないところばかりやっているからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かせないのです。それは、そういう人は似た人の言うことを信じるからです。類は友を呼びます。朱に交われば赤くなります。
あまりうまくなりたいと思うと、それも邪心となり、フォームが崩れます。
トレーニング中も、あえて、明るくしましょう。それは本番のステージのリハであるからというよりは、ステップアップのための前向きな態度を維持するためです。
○あてる
高い声に届かせようと、あてようとするとあたりません。あたっても、大してよいものではないのです。魅力的な声でも、表現できるキャパシティのある声でもないからです。カラオケなら届けば充分です。
ただ、あたればよい、あたったら次にいけるように考えるのが違うのです。それは、高い声コンクールとか、大声大会の目的にしかなりません。あてるのでなく、あたる、いや景品狙いの射的ではないのですから、あてるというイメージもどうなのでしょう。響かせるとか、届かせるとかも、あまり使いたくないことばです。
要は、部分的で意識的であるトレーニングだからこそ、意識的にセットをしたあとは、できるだけそうならないようにすることが大切です。その意図を切るのです。より深く絞り込むことで、部分的なところへの意識を解放するのです。
○出しながらチェックしない☆
高速道路の走行中に横や近くにいる人を確認しても仕方がありません。できるだけ先をみるようにするのがコツです。
声を出しながらチェックするような人がいます。声は出したらもう出てしまうのです。出し終わってから反省するのはともかく、チェックしようと頭が働いた時点で、すでにそれは違っているのです。途中で止めて、自分でチェックするのは、高度すぎることです。録画でトータルをみて部分的にチェックするならまだしも、同時進行はあまりよくありません。そもそもチェックとトレーニングは、別の目的です。☆
○待つ
トレーニングとして、無心に集中する。そうしないと、全体、全身が働けません。その前にどういう目的でどのくらい何をするかということをセットしておきましょう。その結果、次にどうするかということです。
トレーナーが適切なメニュをくれるのなら、無心に淡々とこなすのがよいでしょう。あまり、できないところを狙ったり、上手くいかないところにこだわり、そこばかりくり返すのはよくありません。中途半端なやり方でのカバーを覚えてしまうと、抜け出せなくなります。それはステージでの特別な技としてもつか、非常手段です。それをテクニックなどと思ってはなりません。
芸事には待つしかないということが多々、あります。待てることが才能なのかもしれません。考えること、聞くことも回答も不要、下手な考え休むに似たりです。
○質問する
質問する人のなかには、質問で解決しようと思っている人が少なからずいます。体で何かをマスターしたという人生経験をもたない人には、とても多いことです。学業優秀、特に暗記反復での成績のよい人などは、そのことを疑いません。
私が質問を受け付けるようになったのは、質問と回答のやり取りでの、あまりの不毛さからです。
現実にカウンセリングやレッスンでは、コミュニケーションの場として、ことばを交わすこととして大切に思っています。安心しないと前に進めない人への対処法の一つです。答えるのは、トレーナーの勉強にはなりますが、本人のためによいのかどうかは難しいところです。本人が満足するからよいといえばそれまでですし、不満に思うとよくないといえば、それもその通りですが、それでよいのかということです。メールでは、ほとんど役立たないと知った上で、それをも知らしめたくて応じているところもあります。ですから、本当にすぐれた先生はそんなことはしません。それで片付くと思ってはいないのです。
○「トレーナー共通のQ&A」
何人かのトレーナーに同じ質問に答えてもらう「トレーナー共通Q&A」というのを連載しています。私やトレーナーの勉強にもなります。
私のところでは、どのトレーナーも、ことばだけで答えても答え切れないし、誤解されることも知っています。答えないと、皆、迷ったり悩んだりして考えるのですが、先に他の人の考えを知ってしまうのもアプローチとして選択の枠を広げているのです。誰かの1つの答えを信じたり疑ったりするくらいなら、たくさんの解答例から自分で考える習慣をつけた方がよいからです。
トレーナーの答えを聞いて、それを信じてしまうくらいなら、そんなものは100のうちの1つにも過ぎないということを示すとよいと思いました。そこで、わざと比較するようにしたのです。その結果が、同じ問いに対する十数名のトレーナーによる十数個の答えです。
これを十人の相手に対して、とするなら10×10で100の組み合わせができるでしょう。いや、1人に1人のトレーナーが1つのやり方ということではないので、もっとあるでしょう。それが、レッスンでの手取り足取りのアドバイスにリアルに活かせればよいのですが。
○没入
声にこだわるなら、生涯、いやとりあえず、今日の一日、この時間は声のことに没入しましょう。我を忘れるほど集中できたときに、ようやく準備ができるのです。この状況をレッスンでつくるのは並大抵ではありません。プロは、瞬時に切り替えることができるゆえにプロです。
レッスンで、どうしてここまで相手の声、声の裏までみえるのだろうとわかってくると、私も自分が受けていたころを思い出し赤面する思いです。しかし、集中していたので、恥じることも恐れもありませんでした。
そうして素を出すのがよいと思うのです。恥をかきに来るのがレッスンでよいのです。本番で失敗しないためにするのですから。
○記録する
私は、レッスンのノートをつけていました。生徒にもノートをとり、トレーナーへレポートを出すように勧めています。トレーナーにもレッスンのメッセージを必ず残させます。日本人に合った勉強法だからです。
それに囚われると、形だけになりかねないのですが、長い眼でみて、今よりも先のために、いつかのため、本人のためにと、考えました。
先よりも今というのなら、今に専念すればよいので、ノートをとりながらのレッスンは勧めていません。ただ、レッスンの後に思い出さないと、1回のレッスンは1回で終わります。全日制ならともかく、月に数回のレッスンでは、それ以外の日の方が長いし大切です。記録は、いつか役立ちます。
○静かなレッスン☆
リラックスしたら、かなりのことができます。多くの問題は、体のリラックスであり、心のリラックスが前提であるのに、それが伴っていないことです。心、メンタルから体が解放されるようにしていきます。
アーティストにたるみは不要です。人前では、強度の緊張、プレッシャーが伴うのです。緊張をなくすのでなく、それを楽しむことをリラックスといっているのです。
静かなレッスン、本当によいレッスンは静かです。沈黙の中で、スタジオ内も心の中も真空のようになります。どんな周りの条件にも影響されなくなっていくのです。心地よく感じられます。私は、ゆっくりとしたレッスンを好みます。別の時空を感じて欲しいのです。
○型の自由
訓練とは反復のことです。上達とは、それが重なっていくにつれ色づいていくようなものでしょうか。ただ、色づくなかにも、褪せるのも変わるのもあります。鮮やかに発色し続けるには大きな情熱がいるのです。
日本の芸道は、師の模倣中心で、説明や質疑応答のないものでした。長い時間を経て、師の模範から型が体得されると、初めは堅苦しかったものが、自由な表現のためになくてはならないものになってくるのです。マナーや礼儀作法とも似ています。今でも、専門職の高度な技術などでは、こういう伝授が行われています。
○才能と理由づけできるもの
「才能がある」という自信などは、才能のある人たちと仕事をしていくと消えてしまうものです。才能でなく、誰よりも時間をかけてやってきたからできるという、あたりまえの理由をつくっていくことです。やってきたからという理由なら、やっていけばできるようになるという大きな自信にもなります。足らないものに気づいて、それを補って、創り出せるということが実力です。
○背景・バックボーン
アーティストなら、自分の正統性を主張したくなるものです。これだけのことをやってきたということからくる自信です。これがよいと本人が歩んだ、いや、歩まされたものを、他の人に押し付けるときに間違いが生じるのです。他人のノウハウ、過去のノウハウは、個人のものです。
その正統性は、アーティスト個人のものではなく、アーティストたらしめたもののおかげです。学ばせるなら、アーティストその人の人生や方法ではありません。アーティストを通じて、アーティストの後にある、大きな力でしょう。それに触れさせ、そこからの力を活かせるようにセットすることです。背景・バックボーンを整えて保つことです。
ベテランの船乗りは、弟子に自分の育ちや戦果よりも、海のそのものを知らしめるようにするでしょう。
○超える
師は弟子がわかるものですが、弟子もまた、師を読めるようになって初めて、師を超えられる可能性をもつのです。こうした以心伝心は、日本人に限ったことではありません。古今東西、偉大なことを成し遂げた人たちの間ではあたりまえのことです。
そこでは、あたりまえでないことがあたりまえになるプロセスをどうとるかです。
よい師は、自分を学ばせるのでなく、自分の背景を学ばせる。自分のようにするのでなく、自分を超えることを学ばせようとします。そうした指導者は、ほとんどいません。学ぶ人が先生を選んだり判断するようになって急に衰えました。そうすると、自分が理解できる人しか選べないからです。
○技術とノウハウの壁
トレーナーの中には、とことん技術論に凝っていく人がいます。ここで、ときおりお会いすることがあります。そういうときは、せっかくなので、いろいろとお伺いします。私は、本当のところ、技術論、方法論にはあまり興味がないのですが。
トレーナーにも話を聞いて頭に入れておくようにしています。他のトレーナーや生徒に聞かれたときに、「誰々はこう考えている」とお答えするためです。
技術で乗り越えようとすることは、正しく学んでいくことを強いることになります。「間違えないように」を目的としかねません。
自らに、自らが強いるのなら悪いことではありません。ただし、他の人をそうして教えるとしたら、他の人に強いることになります。これには、気をつけることです。
「他人のノウハウは使えない」からです。使うにはその人がそれを開発したくらいの手間がかかるのです。それなら、自分で開発した方がよいこともあります。他人のノウハウを得た上で、自分流のアレンジをすると2度手間になるからです。多くは、ノウハウを吸収しきれないうちに終わります。そこで、私は、ノウハウでなくその生み出し方を伝えているのです。
○技術を目標にしない
技術は、質問したり議論したり、自問できるからよくないのです。それを拒むもの、みえない技術ならそれはよいと思います。トレーニングがトレーニングとわざわざ別に言われるように、技術もまた技術と別に言われるところでよくないのです。技術でみせた、とは、本当の達人ならしぜんにみえたとなるのであり、技術がつきまとうなら二流ですから、目標にとるに値しないのです。
わざわざ目標を落とすことは必要ないと思うのですが、使えるとしたら、最悪のときやうまくできないもののカバーテクニックとして、です。
○本技と余技
失敗してよいのはレッスンのときで、客の前には出せません。そのカバーテクニックは、プロの商売道具として、このご時世では必要です。ですから、私も、いろんなテクニックを持っておくことには反対しません。
しかし、それは中心として学ぶもの、基礎となるべきものとは違います。余技として、です。その区分けがつかず、それを実力やテクニックと思っている人が多くなってきたので困っています。
客が、そういう技術を喜んだり、ブラボーなどと言うからよいと思ってしまうのでしょうか。ファンサービスと割り切っているようにみえないことが多いのですが…。そういう人が多くなると、一時、賑わいます。マニュアル的に早くステージに出られるからです。誰もが似てきて、やがてその分野が衰退します。
プロセスでは、歌がうまくいってもいなくても、客の評価に囚われず、オリジナリティ、その感覚、それをきちんと剥き出すことに専念したいものです。
カラオケのエコー全盛で、歌手自身が、そのカバーテクニックを歌と思うようになってしまいました。一個人の歌の力、真の声の力というのは弱くなったのです。
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