「メニュ」
○メニュ
伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、くり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、「息を吐いてろ」ということになるのです。
今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、丁寧に講釈します。そして、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えたメニュとして出すことになります。
ですから、メニュなどは、元より形です。何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすい形になってしまうのです。
そこには大した根拠も道理もありません。何もないというのではなく、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台と思うことです。
私が叩き台として出しているものをバイブルのように扱う人が出てきて困りました。メニュをやってみただけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。それで水をすくってこそ、使えるものとなるのです。体やその人自身を離れたところに、どんなメニュがあるものでしょうか。
○声と体のイリュージョン
体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、ツールとしたら、それはすでに体に一体化している。声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。
荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり実感は違うはずです。愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。
子共は、寝たら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量だけで判断するのは愚かなことでしょう。
感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。計量より感覚に基づきます。科学的より想像的であるべきです。
生きていること、連がっていること、関係と深さです。
自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっています。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。
○声と歌、せりふ、結びつきの強さ
声と歌やせりふ、この関係も、体と声が一体化しているように、距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。一体となれば正しいも間違いもないのです。
強い声は、ないよりもあったほうがよい。それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまではよいことですが、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。
体を、筋肉で強くするなら、トレーニングに量と時間をかけることです。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果をベースにしています。歌やせりふで判断するとしたら、量、時間よりは、質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。
○トレーニングと一流の差
トレーニングは、確実な地力をつけていくためにします。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保するのです。まさに礎づくりです。
再現性=基本は、キーワードです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎません。
一般の人の参加するスポーツなら、怪我をしないで毎日健康に過ごすというのは、最低限での再現性で目的といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。
毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」は来ません。この関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限って、トレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うばかりで不毛なのです。
○くり返し
シンプルなトレーニングメニュでは、その単調さに飽きる人もいます。そのことを無意識に際限なくくり返していくと、意識は次のレベルのものを捉えようとします。少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていきます。それを狙ってのことです。そこまで待てるのかという忍耐力か感覚かを試されるのです。
メニュをこなして次のメニュにいくというのは、メニュをやっているだけです。何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づきやすくなるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのです。その場合、一通りやり終えた後で、必ずもう一度詰めて行わなければ何にもなりません。
与えられたメニュをやることで、知らずと自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自の分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてでしょう。
一つには、生徒はトレーナーから教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介することに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。せりふのしゃべり方、歌い方を教えるとなると、尚さらのです。形だけのレッスンになっているのに気づく、そしてそこから意味を問うことです。
○剥き出す
レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったようなものが許されるようになれば、それはレッスンではありません。これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思います。
これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通して気づいたら一瞬にワープできるはずなのです。
そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、ときに耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。
生きている、その実感においてしか本当に人に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。
○鍛練の注意
鍛錬することで鈍感になってはいけない。これは、体や声にはまることへの注意です。しかし、恐る恐る接するくらいなら、とことん鈍に浸るのもよいでしょう。そこから抜け出さない、抜け出せないなら、それだけのものだったということです。
教えることで、相手を鈍感にしていく例はよくみられます。教えないことが相手を鋭くしていくのと反対に、です。きっと教わるがために鈍くなる方が多いのです。本人がよければそこまでなのです。それ以上のものを感じられるようになるのかということです。
なかには、甘え、理屈や言い訳ばかりがうまくなっていく人もいます。周りの影響は大きいです。
できる人は狐として群れない。ということで、鈍くなるのを防いでいます。組織化すると、どこでも群れたがる人が主流派になります。不毛な集団化ですが、多勢に加わると安心する人が少なくないのです。人数が多いのはパワーにみえます。可能性は高まりますが、大抵は何も生み出さず終わります。同じようなメンバーを結びつけようとする力が強いからです。それも周りの人とうまくやっていける才能と言えなくもありません。このあたりが、本当の意味でのセンスが問われているということころでしょう。
○検証
鈍くなると、痛みがきても「そのうち感じなくなる」とか、「いつか明日の糧となる」などと考える人もいます。こういう思い込みは無謀です。無駄は必要であっても、無謀から無能がどれほど生じてきたのでしょう。それを乗り越え、リーダーになった人が、そのプロセスを検証せずに他人に伝承すると、その弊害は大きく長く続くのです。
ハードなトレーニングは、その見返りを求めます。そのトレーニングのおかげで上達したとなりやすいです。それがなければもっと上達したかもしれないという疑念を消してしまうのです。
あくまで達したレベルの高さをみるべきです。そこがわかっていないケースが多いのです。歴史をみるまでもなく、日本人はいつもそれをくり返しているように思います。
○聞く
言われるままにやっていたら何とかなる、ここにいたら何とかなる、それでは、全く逆のケースをイメージしていないことになるでしょう。言われなくてもやるということでしか何ともなりません。ここにいなくても何となる、その上でここを使うのです。すべてを自らゼロから組み立てるつもりで臨んでこそ、ものになるのです。
成長の度合いは、その人の目的意識、どのくらいの高み、どのくらいの深みを欲しているのかによります。
そういう意味では、間違いも正しいもない。人生ですから、その選択のくり返しです。
伝統や精神論、権威など、形が目隠しをしてしまう。
だからこそ聞かなくてはいけないのです。自分の心の声などというものでない、自分を超えた天の声です。毎日のように聞こえるはずはない。いつも求めて聞くのです。
○精度
毎日のトレーニングが成り立っているという感じも大切です。ただし、そこに頼りすぎるのも危険です。力任せを充実した感じに思うことも多いのです。今でなく将来に対して成り立っているかは予感するしかありません。
回数や量で再現の力をみるとよいときもあります。しかし、いつも再現できるようなやり方を覚えてしまうことで、くせとして固定してしまうことも多いのです。要は、精度です。
再現のプロセスをとらずに形をとる。声でいうと、カバーリングするといっても、ほとんどがくせ声なのです。そこで作品がつくれたり評価されてしまうからたちが悪いのです。これは、最悪の状態で失敗を回避する保険です。
ここで言う再現とは、固定するのでなく、常に動いて、結果としてピタッと同じような形をとっているようにみえるということです。同じということが絶対条件ではありません。そういう意味では伝統と似ています。
固定したものの方が、細かく見るとぶれてしまうのです。動いているからこそ、定まらないので活きるのです。変じるのです、そういうプロセスには時間をかけることです。
○基本の程度の差
多くの人が勘違いをしているのは、基本について、です。教えられたままに疑問に思わず、2、3年でできていると思っています。2、3年くらいやっていたような人から基本と言われたことをやっていく。誰もが身につけているもの、動きやフォームのように考えているのです。
それなら呼吸や発声の基本のできていない人はいなくなってしまう。事実、そうでしょう。だからこそ、私はオペラ歌手、10年くらいのキャリアでの基本あたりを最低ランクにおいています。
一般の人にも、発声や呼吸の基本を教えるとは言わず、しっかりやっていくと何年か経つと身についている、かもしれない、くらいでアドバイスしています。
確かに基本といっても、初心者レベル、中学校レベル、高校レベル…など分けられるわけではないが、程度の差があるでしょう。しかし、基本とは、一流の人が共通してもっているものとした方が明確です。多くの人が一生かかっても手に入れられない、身につけられないのが真の基本です。それを身につけるために体やフォームを準備していくのです。
現実には、完全に身につかなくても今よりもずっとよくなるように、よくなり続けているようにしていく基本が大切です。
基本も必要とされる程度によって変わるものなのです。その習得を妨げる要因が、自己評価、自分で感じてできているという判断になっているのです。
○評価と聞く力
みるのとやってみるのは違う。わかるのとできるのも違う。基本を、人に教える前に、まだまだ自らも基本ができていないと考えるのが、人に教える人のもちたい謙虚さです。
その点で、本当の声、本物の声、自分の声、本来の声と、安易に言うのは危険です。出していて心地よい声、充実する声というのも、そうでないものよりはよいというだけで用心した方がよいです。
人が評価した声、評価してしまった声の評価の妥当性について、そこまで疑っては元も子もないといっても、声ほど気分や状況や関係で左右されるものもないでしょう。聞く人にとっても同じことです。
トレーナーも人間ですから絶対ではありません。聞き方が並みの人よりすぐれているとも限りません。出すことばかりに専念して、まともに聞くことのできないこともあるのです。
○声の実感・快感
声の実感や快感をどう捉えるかは難しいところです。スポーツや武術のように傍からみて評価しにくいもので、大きな問題です。レッスンとしては、実感して快感であってほしいとは思います。
声でのインパクトとバランスは、相反しやすいものです。聞く人は、バランスをとりつつもアンバランスを欲しているし、インパクトを喜びつつも安定を望んでいます。歌う人やせりふを言う人も同じです。それをどのように合わせ、ずらすのか。この組み合わせと音や声との関係だけでも、こうして展開すると膨大になりそうです。
○我と不足
我の出ている話、歌は聞き苦しいものです。自意識は必要ですが、それでは、その人のものであってお客さんのものにならないのです。価値、作品、商品の受け渡しがないのです。いくら声を出しても届いていないのです。それでは、続いてはいかないのです。
でも、一つ二つの作品なら個性的で、おもしろいときもあります。そのリピートで、それ以上に続けて飽きられるなら、改善するか、根本から変える必要性を知ることです。大体は、一本調子で展開パターンが少なく、絶対的な強み、オリジナリティが乏しいことに当たるのです。
そして、今の自分ではできないことを知ります。そこを突き詰めていくことで基本のレベルは上がっていくのです。
レッスンは基本を身につけるというのでなく、基本のレベルを上げていくと思います。トレーナーはそれをわかりやすい形で明示できるでしょうか、そこが問題です
○外と内
メニュや方法に私が否定的なのは、それが外にあるからです。内に入れば、もう基本ということをいうこともなく体で取り込まれるから、そういうことばはいらないのです。
優れた人が現実に対応しようとすると、外界に体が対応するのです。身につけた共通要素が基本とするなら、現実や周りの状況が変じるのに応じる、つまり、基本も変じて応用されるとみてよいでしょう。
天才肌の人は、感覚からもっともよいフォーム、体、声をつくりあげます。他の人はそうはならないのですから、基本を使い、応用していきます。
トレーナーも、チェックのときに基本ということを持ち出すと、指導のよりどころになるので便利です。しかし、チェックしてここがよくないからやるというのは、必ずしも合っていません。合わせようとするからです。合うというイメージに感覚が及ぶかどうかです。合うまで続けたらよいのです。本当の型や基本は、マニュアルと対極のものなのです。
○トレーナーと違う声
自分の感覚で正しいのに、トレーナーは違うと言う。
トレーナーは正しいと言うのが、自分のではピンとこない。
ときたまみられることです。私のところは、2、3人のトレーナーが担当しているので、そのことを検証する機会をもてるのです。
どの声が正しいかでなく、トレーナーの判断の違いがどういう価値観に基づいているかということです。このときに、私なら必ずしも「トレーナーに合わせるように」とは言いません。トレーナーの方が経験も耳も肥えているとしても、です。
ここで正しいと言い張ることを認めたうえで、その根拠を問います。質問するのでなく本人が何をよしとしているかを声そのものでみます。よほどの人以外は、嘘ではありませんが、よいとか正しいという声の範囲が定まっていないと、自分でわからなくなります。
困るのは、くせ声での快感や個性的という実感です。高く出したりハスキーに聞かせるようにしてつくった声です。大体は体で支えられていないものです。そういうときは、その柔軟性の応用力のなさを問います。しかし、それを使えないというのではありません。区別するのです。
どれでもよいと思いつつ、柔軟な声に絞られてくる時間を待つ方がよいのです。急かされない限り、私はゆっくりと待つつもりで対しています。ただ、聞くだけでも、少々方向づけたら声は育っていくのです。
○主体性のある声
トレーナーの教えに合わせていくのでなく、自分を出していくとトレーナーによく聞こえていくというのがよいと思うのです。
自ら出てくる声より周りが求める声に合わせようとがんばる人が多いです。これに日本人ほど気を使っている民族はいないかもしれません。
しかし、もっとも大切なことは、声なのですから、学ぶにしても主体的であることです。
憧れから入る世界では、自分の声を否定した人が、他人に合わせたがる傾向が強いのでやっかいです。まして、ステージは普段の自分から化けるのですから、そこで自分に向き合う暇などありません。
だからこそ、素である自分、その体、感覚で、声に向き合う場、時間、空間を必要とするのです。
声は体だけでなく空間に響いているのです。体=宇宙なのです。
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