「歌の判断について」
○歌の声
カラオケの点数のように表面上の判断でうまくなるというのは、ピアノでいうと自動演奏ピアノの演奏です。それは、子供や習ってすぐの大人よりはうまくなるでしょう。ミスもなく、メロディ、リズムも正確です。しかし、そのコンサートはありません。いや、イスにモデルが座っていたら、日本ならありうるでしょう。
新車発表のコンパニオンやレースクイーンの役割のようなものでしょうか。本来、ピアノのコンサートは、ピアニストの個性、演奏のオリジナリティを聴く人が観客だからです。
バイオリンあたりになると、日本人の判断は怪しいどころではないでしょう。歌は怪しいどころか、口パクもありですから、果たしてどこまで歌や声や本人のオリジナリティで評価されているものでしょうか。ただでさえ人の声とことばは、楽器の音や演奏のように客観的な比較は難しいのです。ですから、歌に限って述べます。
これを、音程、リズム、発音での判断となると、論じるレベルが下がります。そこはカラオケの先生やヴォーカルのアドバイザーに任せて、まっとうに歌えるという判断でいきたいものです。
今のヴォーカルの大半は、シンガーソングライターであり、作詞作曲、自演ですから、現実的にはアレンジやステージパフォーマンスまでの総合点となります。私はこれらのうち、声からの歌に、声からのパフォーマンスに限定します。
カバーアルバム全盛時代となりました。しかし、それらもスタンダードナンバーでの実力、オリジナリティを比べるものとして使えます。
○声のよし悪し
声のよし悪しは、どのくらいの問題になるのでしょうか。
「ガラガラ声でカエルのよう、と叩かれた。大事なのは真実を語っているかどうかだ」(ボブ・ディラン、2014年グラミー賞のプレ・イベントにて)
オペラ歌手の評価ではないから、声の美しさはあまり関係なさそうですね。声だけでなく歌詞の内容や曲、ステージなどもトータルとした世界観、それによってアーティストたるものが決まってくるのでしょう。しかし、私が述べていくのはそういうところではありません。ヴォイトレをする人にとっての考え方、取り組み方、学び方です。
どんなアーティストからも学べるのですが、何を学ぶかでしょう。声やその使い方について、ボブ・ディランは、あまりお勧めしてきませんでした。トム・ウェイツなどと同じように、声やその使い方でなく、作品において声の存在感とアピール力として参考になるとしてきました。
声のよし悪しなどは、歌でつくりあげていく音の表現の世界にとっては、ツールに過ぎません。声として発声としてあまりよくないとしても、アピール力があれば使える武器として、喉や発声の弱点さえ、長所にできる例は取り上げてきました。
私の本には、出していなかったヴォーカリストをあげると、忌野清志郎、綾戸智恵、吉田拓郎、玉置浩ニ、桑田佳祐、松任谷由美、中島みゆき(以上、敬称略)など。長く続けているアーティストは、ほぼ入ります。ヴォーカリストやシンガーよりアーティストと呼ばれる人たちです。
○声力と耳力
外国人ヴォーカリストの例として、エディット・ピアフの見出したアーティストを聞いてみましょう。シャルル・アズナブール、イブ・モンタン、シャルル・デュモン、テオは、この順で声力、歌力がすぐれています。ジョルジュ・ムスタキなどは、別の流れに思えます。
有名とか無名ということでないのですが、耳の肥えた国、聴き手が自立している国では、大衆の好みや支持、つまり、人気とアーティストの実力は一致します。日本でも1960年代まででしょうか。ポップスの台頭時には、あるところまでは一致していました。
ラジオとレコードが歌を大衆化させたのですから、ルックス、スタイル、ステージパフォーマンスよりも、声力、歌唱力が評価として優秀でした。歌を耳だけで判断していたのですから、あたりまえのことです。今やオペラでさえ、ルックスやスタイルの問われる時代です。耳の力が落ちていくのは、当然といえます。
○考え、悟り、知る
歌を聞いて楽しむのに頭はいりません。しかし、歌っていくには、誰しもが感覚だけでよくしていけるわけではありません。聴いては感覚をよくし、歌っては、そのよい感覚で向上させようとしていくのは、ベースのことです。
トレーナーは、プロで長年歌っている人の声を聞いて、声そのものでなく、歌、あるいは歌だけでなく歌詞やメロディやアレンジ、演奏にまで言及せざるをえないときもあります。声で解決するのは、根本的で時間もかかるし不確かなのに対し、アレンジや演奏での解決を加えるのは、確実で負担が少ないからです。ヴォイトレは、そういう方向で使われるのが普通といえるのです。
「今はこうで、このようにしたいからこういうトレーニングをする」というところを、声のところで納得させるのは大変なことです。時間や練習量、その他の事由でそこまでいかないケースもあります。
その際、「今はどうなのか」をどう伝えるか、は難題です。トレーナ―が「このようにしたい」と好き嫌いで言っても仕方ないでしょう。「このようにせざるを得ない」というケースが少なくないのです。ともかく、将来のイメージを歌い手に描かせ、トレーニングの方向を一致させなくてはならないのです。
新たな挑戦の場合、トレーニングの結果がどう表現に役立つかもわからず、見切り発車のときもあります。およそは、経験に基づき、そこから修正しつつ、みていくのです。何事も決めつけはよくありません。
○若いときのような声にする
元に戻すとか回復ということが目的でいらっしゃることも多くなりました。よかったときの音源があれば
・可能か不可能か、あるいは、その可能性
・それによって得られることと失うこと、もしくは出てくる問題
・どのくらいで結果が出るか、あるいは判断できるか
などについては、およそ、わかります。
○これからの声
これからアーティストになっていくような人は、結果として、何かしら声を出して使っていくのですが、それをどのように活かしていくのか、何をよしとするか、この2つを経ていくわけです。
最初は、状態を調整します。欠けているものがあるなら補います。どちらにしても呼吸など条件づくりを併行します。オリジナルな声は誰しももっています。余計なくせを除けば、そのうち引き出せます。問題なのは、そこからの動き、フレーズとしてのオリジナリティです。
プレイヤーのいう自分の音とは何かということです。この音には、音色とともにフレーズの変化、動きが含まれています。プレイヤーのいう「自分のタッチ」です。それを求めてトレーニングをするのは、ここでのレッスンならではのことでしょう。
○トレーナーとプロデューサーの判断の違い
アーティストは、自らの練習や活動のなかで、感覚的に聴衆の求めるものを出していきます。自らのやりたいものと人の求めるものは、必ずしも一致しません。
トレーナーとして、私は本人のものを重視しますが、プロデューサーは、お客の求めるものを重視します。これもあたりまえのことです。
そのときに、切り出す作品の演出にかけるプロデューサーと、安定した高度な実力をつけて、生涯安定してよい状態で声を出せるようにしたいトレーナーとは、対立する関係です。仕事ということでは、売れてこそ将来もあるのでトレーナーが妥協しがちです。すぐ得られる効果と評価をみているのでは、長期的なハイレベルを理想の追求に専念できません。
アマチュアや一般の人の方が、その自由があるので、私は一時下野して、一般の人との試みに専念していました。その間、音楽業界、特に歌い手や音楽プロダクションは、浅い声での安易な音づくりで売れ線を狙い、結果として、自らの首を絞めていったともいえるわけです。
○プロとアマチュア
私は、趣味の人やカラオケ通いの人に伝えたいことはありません。私は、カラオケの好きな人ほどの曲数の歌は知らないでしょう。プロの歌い手も自分の歌を歌っている分、他の人の歌や流行などを歌が趣味の人ほど知らないこともあるでしょう。
どこかの分野について深く詳しいのがプロで、浅く広いのがアマチュアです。もとより、歌うことにおいて歌手はプロであり、声を育てることにおいて、ヴォイストレーナーはプロなのです。
要は、それをどこにとるかというのが重要なのです。トレーナーは、サポートをプロに対しどこまでできるかが問われるのです。
○声で型になる
人の感情に働くように声が導かれる、するとそれが一つの型となり、馴染むようになってくる。その味わいが細かく分かれて通の人が出てきます。マニアックになると、それについて行けない人は離れていきます。新しい人も入ってこれなくなります。
聴くのがうまい人もいれば、語るのがうまい人も出てきます。ちなみにトレーナーには、聴けることと、語れることの才能も必要です。歌い手は歌えればよいのですが、トレーナーは歌い手に歌ってみせるのでなく、イメージをもたせる ことが、より大切です。そこで、ことばやジェスチャーを使えなくてはなりません。相手が低いレベルならカラオケの先生のように歌って口伝できますが、目的が異なります。
クラシックは、そういうプロセスを体系化しました。例えば、ABAのソナタ形式という型で構造を捉える。しかし、ポピュラーでもAメロ、Bメロ、サビなど、どんなものも型にはまってくるので似たようなものです。
ここで私が聞くのは、型に声をはめるのでなく、声で型になる、そのプロセスを歌い手がとっているかです。体からの息や感覚で型の元にある本質的なもの、人の感情を動かす動かし方になっているかです。
○歌なのかという疑問
クラシックの評論家は、伝統をふまえた共通の知識、考え方を基に、先例も踏まえて評価していきます。しかし、私は、過去でなくそのときに起こしたことでしかみないのです。一声10秒でも作品とみるのです。型に囚われた形を守るがゆえ、退屈極まりない歌とたくさんつきあってきたからです。
私は、歌は歌が消える、いえ、声が消えて歌の世界に表れること、声でも声が聞こえなくなってこそ最高と思っています。歌わなくてもよいところまで歌が使われたり、声が使われるのは、我慢できないのです。
歌を愛していないと、歌に対して厳しく判断を下せないと思います。「歌はすべてすばらしい、歌だから」という人たちがたくさんいるのはよいことです。しかし、「それは、歌なのか」という疑問をもつことがあってもよいのではと思います。
○歌の存在価値☆
ある状況において、歌えない―そういう体験は、日本でも世界でも少なくなかった。日本でも大きな不幸がありました。しかし、そういうときに、今一度、歌の存在意義を考えてみることができたと思うのです。
私がそのときに考えたのは、自由に歌っているような歌など、ないということです。
常に、歌は、限られた時空のなかで人間と関わって存在しています。たとえ声を出さなくとも、歌わなくとも、そういうものとしてあるのです。
ならば、声をあげるとは、歌を歌うこととは、そこに何を試み、出そう、伝えようとするのかです。他の人に伝わるとき、どんな声もトレーニングの次元を超えたものになります。トレーニングをしたから、それができるようになるのではないのです。そういうことからトレーニングの無力さをも感じることもあります。
それゆえに、私は、ヴォイトレとは何なのかをいつも考えるのです。そういうものではないのでしょうか。
自由に歌を聞くことができない。トレーナーを選んだときから、あるいは、歌い手を選んだときから、そうなる覚悟をしていたのだろうかと考えるのです。
○バイアス
自分の生まれや育ち、そこで聞いてきた歌とそうでないものとは、受け止め方が違うのは、当然のことです。その時点で聞かなかったとしても、同じ時代の歌なら似ているので、後に知ったとしても入り込みやすい。そんなことで、その人の好きなジャンルやフィールドがつくられていきます。
これまで好きで聞いていてもその歌に飽きることもあれば、突然、あまり聞いていなかったり好きでなかった歌が好きになることもあります。いつの間にかということもあります。
そして、10代のころまでに実際に聞いた歌も、その後に知ったその当時の歌も混ざっていくのです。親の撮ったアルバムの写真と、自分の記憶との区別が曖昧なように、です。
○ジャンルなどない
とても困るのは、「自分はどのジャンルの歌が合うのか」とか、「ジャンルが別の発声や歌い方を教えてくれ」と、今でも少なからず言われることです。まだ、具体的な曲名とその歌い手を挙げてもらえたら、それなりに相違点を見出して伝えようもあります。
私は、ジャンルを認めていません。
○マイクがあること
マイクを使わないものは、使うものより、声を支える体に問われる条件が厳しいとはいえます。マイクをごまかしで使わないなら、厳しさのレベルでなく、要素が違うということです。しかし、ごまかしか、効果か、フォローか、テクニックや表現かというのは、厳密に分けられるものではありません。ステージから多くの人に聴かせること自体、特殊なふしぜんな状況ですから。そこで声楽的発声か、マイクかを選ぶのなら優劣はつけられません。
声なので届くこと、声量、共鳴については、基本の条件です。優先度は、重要度で違うということです。ただ、クラシックは、世界の中でも特殊にかなり思われます。それで全世界に広まったのですから。
○歌の分析
歌の分析は、分析である以上、ことばで行うので、いつも歌詞が取り上げられてきたので、そこは私は省きたいと思います。メロディやリズムも楽譜上での解説はなされてきたので、そこも省きます。そんなものは、作詞作曲した人の今日における評価です。歌い手やその声の使い方で、何とでもなるのです。何とでもしてきた歌い手の力と声に学ぶようにすることです。
○言い換えより声の力
よく、「ことばを言い間違えると失礼になる」「ことば遣いでモラルとか好感度アップ」などということがいわれています。知らない人とのメールでのやり取りでは大切ですが、電話でも会話でも、声の使い方やパフォーマンスでどうにもなるのです。無愛想な表情で、こもった声で何を言ったところで受け入れられにくいし、若くて、はきはきしたことば遣いなら、周りは楽しくなるのです。ことばと間ほど、声については触れられてこなかったように思います。
マニュアルでも、ことばの言い換えはわかりやすいのですが、声の感じはわかりにくいでしょう。自分の声と違うから、動画でみてもなかなかギャップが埋まらないのです。見たり聞いたりして直るものなら、それなりに生きてきたら直っているはずです。
生まれや育ちの環境からくる影響も大きいのです。同じように育っていても違うタイプもいるのです。ですから早く気づくことから深く気づくことへというレッスンが、ヴォイトレの目標です。それゆえ今回のテーマも大切なものなのです。
○通
コーヒーをあまり飲まない人には、コーヒーはおいしくないか、体に合わないのかもしれません。昔、マクドナルドのコーヒーはまずくて、起きぬけや体調の悪いときに飲むと、気持ち悪くなりました。しかし、気にせずに、おいしいと飲める人も少なくなかったのです。コーヒーが好きな人は飲めなかった。でも好きでも飲める人もいたのです。
昔は、日本のコーヒーはアメリカンとホット(ブレンド)くらいでした。モカとかキリマンジェロとか出てきて、酸味とか深い煎りとかを教わらなくても、味覚の軸ができて細かく分類できるようになっています。
店や淹れる人によって、豆によって、同じモカでもピンキリでしょうが、それぞれに好みも出てくるし気分とオーダーの組み合わせも出てくる。つまり、少しずつ、通になってくる。その通くらいに判断ができ、淹れ分けることができないとバリスタは務まりません。
味覚と聴覚は別なので、この例を歌や音楽の鑑賞にそのままあてはめられませんが、それでも、好き嫌いの他に、深い、浅い、(コーヒーの味ではない)通である、ない、センスがある、ないなどはわかってくるものでしょう。
○育ち
昔は、両親、先輩や友人、兄弟の聞いたレコードから好きになって、音楽の道に入ったという人が少なからずいました。「三つ子の魂百まで」です。わからないうちに量として入ったものが基礎となっているのです。
歌手もトレーナーも他の分野のプロと同じく、一流になった人の伝記や生涯の研究をしていくとよいでしょう。作品から入ってライナーノーツを読み、特集番組などを見る。デビューからたどっていくといろんなことがわかります。時代、家族、育った地域によるだけではないのです。どんな人、どんな作品と出合ってきたのかは、押さえておくポイントだと思います。
私は、いらっしゃったときに、好きなアーティスト、影響を受けたアーティスト、必要に応じて本人の声のことについて聞きます。これは、その先を歩むための大きなヒントです。今のその人の声や歌がどうしてこうであるのかの裏付けになるからです。
メンタルからフィジカル、姿勢、歩き方、行動、性格、考え方、価値観、DNAまで、声には全てが影響しています。育ちを聞くと今の問題をよりしっかりとつかむことができることが多いのです。初回から誰にでも詳しく聞くことはあまりありませんが…。
○音の聴き方
私は、最初、プロデューサー、作家と仕事をしたので、自ずと彼らの聴き方を学ぶことになりました。そこで自分の聞き方の偏り、あるところに対しての、バランスの悪さや弱点を知りました。聞き方が確立するには、発声がそれなりに身についたあとも丸々10年かかりました。その後半は、ヴォイトレとステージの狭間で実習しました。
例えば、ここの研究生への聞き方、4、50人の研究生の後ろから同じものを聞いて比べる、10人ほどのトレーナーの聞き方、研究生やプロの歌唱へのコメントと比べて学ぶなど、研究所で実践してきたことです。
私の研究する場としての研究所の公開による研究現場の伝承が、レッスンとして大きな役割を果たしてきました。
自分の聞き方に囚われず、自分の聞き方も違う聞き方を学んでいくことです。一流のアーティストの歌から、特に、彼らがスタンダードを歌うときにつける変化から、それぞれのアーティストの本質を学べます。
なかでも5人ほどのアーティストからは、その感覚にのっとれば、私にはわからなくとも、このアーティストなら、「こう言う」「このように歌う」とか、あたかも憑依するようなことができるようになりました。どんなすぐれたアーティストもそうして学んだはずです。
○耳を移す
自分の聞き方が何に基づき、どういうスタンスなのかを理解すると、いくつかのスタンスにうつしてみることができます。私、多くの別の分野で価値観の違う人ともやれるのは、それができるようになったからでしょう。その人とは「ここは違うがここは同じ」とわかります。そのとき、どこから違うかというところから深いものが学べるのです。そこに興味が尽きません。学べない人は、他の人と違うところを批判し切り捨てます。いつまでも同じところで同じことを言うだけです。
この分野では、自分の好き嫌いだけで自分の耳の聞き方だけを絶対視している人が少なくありません。それでは、時代や別のシチュエーションにも他の人にも対応できないのです。
もとより、自分と異なる人を育てていくのがトレーナーです。なのに、自分と同じにしようとしているのはなぜでしょう。一つには、多くの人がそれを望むからです。そこを変えることです。
ときおり、外部のトレーナーの人が、よい問題をもってきます。そのとき好き嫌いで判断していることや、その判断レベルの浅いことをどう伝えればよいのか迷います。それでも、疑念をもって相談にくる人は、いつかきっとわかっていくでしょう。疑問にさえ思わないで同じことをくり返している人ばかりですから。
○音と声
聴覚は嗅覚、触感に近いもので、深いところにのっています。コーヒーを飲むときは、味覚に嗅覚を伴います。しかし、視覚も関係しています。多くのものは視覚を介して入ってきます。視覚は対象を客体として客観視します。こちらからみて、よいとか好きとか判断します。
歌やせりふでも絵や書でも、立体的(もう3Dといいます)に生き生きと生命力をもって働きかけてこないものは、私には、芸術でありません。ただ、音や声は、もう少し絡まり具合がややこしい。よいもの、好きなものでなくとも、まとわりついてくるのです。
聴覚は、手で耳をふさがないと拒絶できません。視線を変えるくらいに簡単に拒めないかもしれません。
嫌な絵がかかっていても見ないようにすればよいのですが、嫌な音楽、それも歌が流れているのは耐えられないのではないでしょうか。
深く生理的なことだからです。好きな人には触られたくて、嫌いな人に触られたくない、しかし、その好き嫌いは、さして原因があるわけではありません。どうでもよいとき、鈍いときもあれば、敏感なときもあります。気分で判断されるのでは、歌手もたまらないでしょう。因果な商売です。
○ビギナーズラック
歌でのビギナーズラックは、ときおり目にしてきました。技術もよくないし、洗練されていないのは明らかなのに、皆が感動せずにいられないものとして現出するのです。
プレイヤーの演奏では、めったに番狂わせなど起きません。楽器に触って1年の人が10年の人を任すような演奏はできません。リハーサルで最高の人は、大体、本番もそうなります。リハーサルでの予想通りかそれ以上のときが本番では多いものです。
しかし、こと歌い手に関しては、番狂わせはよくあることです。トレーナーは運を天に任せるしかありません。それでも、ポピュラーやジャズが、ときに、決まり切った演奏に慣れたクラシックの人たちの度肝を抜くことがあります。
そういうプレイヤーが、クラシックとポピュラーの壁など思い込みに過ぎないことを実証します。正確さとバランスばかりを求めて弾いたり教えたりしている正統の演奏家は、素人にそのよさを理解されないことが、よくあります。彼らにとって破格の演奏はよくないのです。彼らにとってよくないだけです。
○危機的状況
今、歌屋音楽の壁(影響力低下、不能)についての問題は、どんなものでもよくなったということが危機的な状況なのです。
よい歌い手がいない、歌がよくないと言いつつ、実のところ、すべての歌がよいという、私の両義性とも似た、いい加減な立場が選択を可能にしました。その間にあるべき豊かな多様性、個人のオリジナリティをスルー、否定しているのです。
聞く人が「性格のいい人だから歌もいいと思う」というような評価は、人間ですからその通りでしょう。私が関わらないなら文句一つありません。しかし、ヴォイトレをしにきて、歌で世界を切り開いていこうという人がそうとなると、「今の私の歌でいいという人もいるからいい」となるなら、真のレッスンは成り立ちません。しかし歌い手も、実力の維持、回復メインでいらっしゃる場合、声での調整がメインとなり、これがヴォイトレのメインとなってしまったのです。
健康維持、老化防止のためにいらっしゃる人もいます。そうでなかった人がそうなっているケースもあります。今の私の立場では、何であれ、続けていくのはよいことと思います。
うまい人が歌っているように歌いたい、カラオケの点数を上げたい―というのであれば、それでよいのです。
私も、健康法としての歌唱、医療と発声としての研究に関わっていますが、ヴォイトレのど真ん中にはおきたくないと、私的に思っています。
他の人が歌わないように歌いたい―ここではまだ、独自の世界というものでなく、歌唱、発声のレベルでのことです。
○へたうま
ビギナーズラックでの歌は、技術的な条件は保ってないし、くり返して歌うとすぐに化けの皮が剥がれます。1回目と同じように聴衆が堪能できる2回目ということはありません。歌の実力というのは、1曲で充分わかるのですが、2曲聞くとはっきりわかるのです。他の歌もほぼ同じと見切れるので、プロレベルの歌にはなりません。
しかし、プロがいつも安定した形をなぞっているようなのが大半の今の日本においては、アマチュア、素人にこそ、新鮮な表現力をもつ人を期待したいのです。
アマチュアのレッスン、発表会やワークショップなどでは、その人が間違ったところに魅力、個性が出るのです。せりふや歌も、それが根源です。それを高めて感性として表現していくべきなのです。
その根源にあるものがなくなったまま、声でメロディをなぞって、ことばをおいて歌としている現状があるのです。最後までうまく間違えずに歌うことを目指して、それができたとき、もっともつまらない歌になるのです。声や歌を教える人がそれを目指してレッスンしているからです。これでは、台本通りの棒読みです。そのせりふの掛け合いに命を吹き込んで勝負をしているお笑い芸人のインパクトにかなわないのは当然でしょう。
○感動を与える
私は音楽や歌で人生を変えられた一人ですから、わかるのです。まさか10代からそのまま続くと思いませんでした。
歌は一曲3分で、人の、人類の運命を変えるほどのものです。今さらここで述べなくてはいけないのかと思いつつ続けます。
佐村河内守氏の事件が日本中を賑わせました。ベートーベンであれ、偽ベートーベンであれ、音楽を作曲家の人生上の苦難と結びつけたところの商売は、それに乗っかった時点で、買った方も騙されたなど言えるものではありません。
新垣勉氏のコンサートは、彼の半生のフィルム上映から始まりました。先の告発者の作曲家の新垣さんと別人です。そういえば、都知事選の連続落選で有名になってしまった天災発明家、中松義郎氏のオフィスに初めて行ったとき、会う前に氏の半生のフィルム上映があったのを思い出します。
ベートーベンが耳が聞こえないのにつくった曲だから、私たちは感動するのではないのです。感動商法が隆盛になって、それにのっかっただけです。満足させるようなことで、プロデューサーが主役となったのは、今に始まったことではありません。
私たちも作家もアートの製作者も、仕事で感動を与えるチャンスがあれば活かそうとしています。歌手は、その最たるものでしょう。
○亡者と職人
「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)ではないが、価格に一喜一憂するのはゲームです。価値そのものは違います。ところが、トータルとしてプロデュースして、トータルとして受け取るサービスに慣れてきた私たちは、一つひとつの価値について鈍くなっています。500円なら許せるが5000円なら許せない―それがおかしくないというなら、金の亡者になっています。虫一匹、皿に入っていて店がつぶれる、そんな日本に生きています。
つまらぬことに敏感になり、もっと大切なことの鈍感になりつつある、そのなかで生の体からの生の声を取り出す、加工せず、形もつけずに、そこに対していくのは職人技、奇跡にも近くなりつつあるのかと思うのです。
「歌」というと「マイクは?」というところから一度、抜け出す必要がありませんか。
○トレーナーは指揮者☆
私は指揮者を何人か知っており、そのつてで指揮をしてみたこともあります。有能な指揮者は、全体を時間の流れでみるとともに、部分的にチェックします。瞬間に空間でチェックするのです。
チェックというのは、ヴォイストレーナーと同じですが、私は一つの声を聞くことが大半です。ときおり、伴奏と合わせて聞きますが、バンドはともかく、オーケストラ指揮者は何十人もの演奏する音、オーケストラを聴くのですから、糸を紡ぐのと布を織るくらいの違いはありそうです。
しかし、そこで演奏を止め、一人を指してことばで注意しているところでは同じです。彼らは、歌よりは演奏が対象になることが多いのですが、その音の出る楽器を、指揮者が代わって弾いてみせて教えるのでなく、(ときにそういう人もいますが、プロの前ですべての楽器の見本をみせるは無理です)イメージの言語で注意します。この辺りも似ています。求める音をことばにして伝え、導こうとしているのです。
プロ相手では、楽譜の説明、表現、技巧、楽曲の説明よりは、指揮者はどのようにもっていきたいのかという曲のイメージ、構想を、個別のプレイヤーの技量を踏まえて示すことが求められます。
本番では、ことばは使えないので、身体の使い方でわからせていくような指示が出ます。手話のように身振り手振りで演奏のイメージを、頭より体にわからせるようにしています。それが指揮なのでしょう。
指揮者が使ったことばを私のように残すと、それは曲や演奏の研究に役立つのでないでしょうか。メイキング オブ オーケストラです。
○例えについて☆
レッスンの指示は、「~のように」と例えでイメージさせるのが、一般的です。外国人の指揮者は、イメージ言語に長けているように思います。日本では、幼児にピアノを教える先生にそういう人がいます。これもヴォイストレーナーに求められる演出家の資質、ことばのイメージの伝達に関する才能や感性といえます。
ちょっとしたことばの使い方で、まったく相手の身体の動きや発声が違ってくるのです。
例えば、「息を入れて」「吸って」「息が入るようにして」「お腹におとして」「お腹を拡げて」「筒のようにして」など、使うことばで随分と結果が違うものです。原初のイメージを踏まえるとよいと思います。ことばは、つくられてきた理由があるのですから。
レガート つなぐ→legare縛る 結ぶ
スタッカート 切る→staccareちぎる はがす
ポルタメント すべらす→運ぶ ひきずる
ルバート 速めてゆるめる→盗む 先取りする
アレグロ 速く→快く 朗らかに 浮ついて
○歌
「まさに歌だった」「まさにせりふだった」といえるほどの歌やせりふを、どのくらい聞いたことがありますか。それがあってこそ、せりふでない、歌でない、音楽でないということもはっきりします。チョコなのにチョコでないとしたら、それは何ぞや…といったようなものです。
それはトレーニングに関わるものとして必要なのであり、トレーニングで向上しようとするなら必要でしょう。それで楽しもうとするだけなら、必ずしも必要とはならないです。
○本場、教養主義
これまで歌について、本質を悟る人の不在を嘆いてきました。クラシックには酷評をする批評家がいました。ポピュラー、歌手、歌については、語れる人はあまりいません。批評とされるものを読んでも、紹介やそれまでの成り行きなど、PRといった方がよいものがほとんどです。ただの解説や感想なのです。
「食べログ」などは、素人でも玄人はだしのことを書いています。料理について、日本人が国際的にもトップレベルというのもわかります。サービスへの不満は、そこまで言うのかと思うほど厳しく、店の責任でないことまで含まれていることも多々あります。おもてなしでなく、サービスの強要の風土といえそうです。そういう否定的な見方が、歌の世界にも入ればよいとはいえません。演奏よりもホールの音響を批判するような感じです。こういうのは海外では、大衆的には成立しないと思われるのです。
歌や歌手について述べられたものは、ファンかアンチファン、声については、なおさら、ここに取りあげられるようなものは、ほとんどないと思われます。
その一因として、海外のもののプロデュースに長けてきたこと=演出に長けてきたことと私は捉えています。外国に行けて外国語ができて、他の人より早く日本にもってきた人が認められるという、そんな日本だったからです。
○お家芸化f
どんな歌もステージにできる日本の演出技術は、向こうから学んでそれを超えたと思います。とはいえ、未だ、形として見えるのは形としてつくりあげているからです。私は世界中、巡っているので、ディズニーシーでは、疑似的なパビリオンより、最初から人工的なマーメイドエリアでしかくつろげません。擬似は、本場の代わりとしてあるので、本場があれば存在意味はないのです。
ともかく、こうしたまねとその応用は日本人のお家芸です。歌から声の本質、個としてのアーティストの実力を問うとなくなりつつあります。
かつて、直に影響を受けた、米軍基地や海外で外国人客を相手にしていたアーティストが多かったのに、客が日本人ばかりになって、薄めて拡散させたようなところがあるのではと思います。ロカビリーあたりからです。街の喫茶店がコーヒーチェーン店に置き換わって、どの街の風景も同じようになってしまったように。日本人ならマクドナルドをやめてモチくえばいいなどと、もう誰も思わないのでしょう。
音楽が殖産産業、お上からの欧米の技術輸入のようになったのが、日本土着の歌を根なし草にするきっかけになったのです。唱歌、童謡、演歌、歌謡曲あたりまでの和魂洋才で、融合して日本に定着したまでは、それほど悪くなかったと思うのです。ブラジルのボサノバのように、朝鮮のハングル文字のように、人工的とはいえ、定着しつつあったのです。
宝塚歌劇や劇団四季は、もはやサクセスストーリーとなっています。問題は、そのためにどれだけ何を失って来たかということです。
○体、身体、肉感のなさ
トレーニングにおいて「目的―現在」、その間のギャップをつくり、そこを「つくる―みる」で埋めます。ですから、「みる←つくる」、つまり、「みる」、そして、「みたところまでつくる」の順となります。
みた上でつくる人とみえないでつくる人は別です。みえない人は、つくりつつ、みえるようになっていくかです。みえた人も、それがよりよくみえるようになっていくかです。そのギャップの間に、もっと近くにみえる目標をおき、みることができるようにしてあげるのが、トレーナーの仕事です。
ヴォイトレのレッスンをしなくても、自ら高められる人は、自ずと「つくる→みる」と「みる→つくる」をくり返しています。ですから、それがみえなくなったら、あるいはつくれなくなったらレッスンにくればよいのです。
しかし、安易に、つくってさえいればそれでよいと思ってしまうのが、日本の芸術教育などです。つくっていればいつか、何かができると教えています。大いなるアマチュアイズムと国民総サブカルチャーアーティスト化は、日本のよさですが。
何かは、つくればできますが、それがすごいものになるためには、そのままの環境では、天才でもない限り不可能です。すぐれた人ほどみることに長けているから、他の人について学ぶのです。
○受け身と研究
20世紀になり、レコードやラジオで、プロの作品を聞けるようになりました。すると、これまで、音楽を素人なりにたしなんでいた人がやめてしまいました。周りの人もプロの演奏を買うようになったからです。お金で作品を買うようになったわけです。
次に、作品が大量生産で安くなり、少数が聴衆として楽しむ音楽から、大衆が消費する音楽となりました。カラオケのよさは、自ら選んで消費していくことにあります。予めプログラムされたものをこなすゲームマニアと似ています。
身の回りにある声や音楽を聴いて体が動く、それが他の人の動きとかぶさっていく、そういう中で使われる声や音楽がなくなりつつあります。
声の純粋化は、文化規範に立ち戻るのか、解放していくのか。地域独自のものがグローバル化されていくのは世界共通です。日本の場合、戦後もっぱらアメリカナイズされたゆえに普及し、大ヒットし、市場をつくりました。が、世界と一体化することなくガラパゴス化しました。
○滅びていくものf
「なぜ時代劇は滅びるのか」(春日太一著、新潮新書)には、歌謡曲と通じる問題が問われています。著者は、時代劇の凋落は、つまらなくなったTVによって1970年代後半、古臭い表現と高齢者向けのジャンルという固定観念が植え付けられたためといっているのです。
伝統芸能に対して新しく出てきたのが時代劇であり、海外から入ってきた翻訳ものが新劇だったのです。歌舞伎は、まだ持ちこたえているし、韓流ものは、日本でも大ヒットしました。私も、現代ものはみないとはいえ、歴史ものは楽しんでいます。生身の人間の迫力、動きや声でもつのです。大河ドラマはみない。それは、ブロードウエイと劇団四季との差のようなものです。
「役者の新たな魅力をみせる」にも役者がいなくなりました。1990年代、役所、真田、中井、渡辺謙あたりで終わっていると、著者は言います。また、名脇役や悪役もいなくなりましたと。
こういう批評が若い人(1977年生まれ)から出てくるのです。
その後、人気タレントの演技力のなさ、「声は高いし細い」は作り込みのなさ、演じているのでなく、こなしているだけで、わかりやすくおもしろいに堕してしまったというわけです。ここまで、ほぼダイジェストでした。
○わかるとき
しかし、なぜ、人は歌わなくなったのでしょうか。人は音楽、歌を聞かないのでしょうか。
人間の声とは
生き物の声とは
問いは尽きない、ゆえに、声の研究なのです。
いつかわかるときがあるでしょう。
出会いの意味は、一瞬にして、世界の構造と営みを明かすことにあります。
そのために、私は声や歌を聴き続けているのです。
あるときから聞き方が変わる、そのときのために。
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