「『日本スゴイ』としても」 No.363
確かにすごいものがある日本に生まれ、「日本スゴイ」と思えてくるのは、悪いことではありません。すごいもののある日本には、すごい人がいて、日本も、ある分野ですごかったりはするのです。
しかし、自分がすごいのではないのであり、日本や日本人が褒められても、自分自身は何らその対象ではないのです。
でも、それに乗せられると、自分もすごいと思い、すごいもののために頑張る構図ができてしまうのです。自ずと、その誇りに使命感がでて、知らずとその権威筋からの命令に従うということになります。それによって、すごくないように思った人を差別していきかねません。
世界中にすごいものがあるし、そういうものをつくった自然もあり、人もいて、いろいろと確かにすごいのですが、それは、そういうものやそういう人をみて、すごいと思っているだけなのです。
そこは、もはやグローバルな世界においての評価であって、少なくとも、あなたや私のものではありません。
日本文化論と日本精神論、その勤勉や道徳の普及は、大戦開戦前後にもっとも高まりました。それは日本が発展後、停滞し、追いつめられていたときです。
今は、どういう時期なのでしょうか。
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