○出口のコントロール
ヴォイトレは、言われたような声を出すのでなく、自らのなかにそれを感じて取り出すのです。出口をコントロールするのではありません。出口の前で、すでにコントロールされていなくては何ともならないです。
それを司るのは外からの指示でなく、内なる感覚です。
そういう意味で多くのヴォイトレが、「ヴォーカルコントロール」と私が称したように、出口でのコントロールだけを学ぶようになっているのは残念なことです。
その教え方は、言われたように声を出させるのです。それは感じたままに声を出してうまくいかないから一つの手段として、( )に入れてやることなのです。この( )は、やり方も期間も人によってさまざまです。
私が「ヴォイトレの方法論は、机上の空論で考えても無意味」と言うのは、トレーナーの数とレッスンする人の数以上に組み合わせがあるからです。入口としての自覚をもっていればともかく、出口、目的となっていることが、とても浅いのです。
○コントロールするものとは
自分の心身や周りの環境は常に変わります。そこに適宜に応じていきます。曲や発声が変わるのに振り回わされず、他の条件の差よりも、自分のなかでの差を大きくしていくことです。その積み重ねによって、あたかもしぜんのように、おのずとそうあるように振る舞えるレベルへ向上します。
届かない音高や広すぎる声域に振り回されて、できた、できていないと言っていても、大して意味はありません。音が出せたとしても、まるでできてはいないからです。
とはいえ、( )付で試みたり、結果としてどうなったかのチェックとして行うのはかまいません。目的なのか、目標なのか、結果なのかも明確にすることです。
○ふしぜんに
どこかのレッスンをやめてきた人には、声を出してもらったり、歌を聞かせてもらうと、ふしぜんなので、すぐわかります。それは、( )の時期だからなのです。
ヴォイストレーナーや声楽家は、一般的に、他の人の教えのついている人を嫌います。最初から自分が教えたら、こんなにふしぜんにならないと皆、思っています。お互いにそう思いあっているということです。
他のトレーナーのレッスンを辞めてきた人をみていても、自分のところを辞めた人を、他のトレーナーがどのようにみるのかを知らないからです。
この問題については、「あとで大きく効果の出るレッスンほど、最初はふしぜんになる」のがあたりまえと思えばよいのです。このふしぜんさは一つの型の囚われです。あるレベルにいくまでは、外れないし、それもよしとするのです。
○型のしぜん化
武術の基本の動きを参考にしましょう。その演武、型をみせてもらうと、初心者ほどふしぜんです。上級者になるのつれ、美しくたおやかにみえてきます。師匠になると、型と思えないほどしぜんになっているのです。それを身についたといいます。
ヴォイトレの問題は、武術やスポーツなどと比べるとわかりにくく、すぐれていることの判断が難しいことに尽きます。声ゆえに分かりにくいということです。
( )が外れないまま、トレーナーや本人が( )をつけたままでよしとすることです。こんな初歩的なことを私は言い続けています。他の分野なら、1年目にあたることをスルーしているからです。
第一線の歌い手も知らないし、知らなくても歌えたらよいわけです。歌や声を教えるとなると( )に入れることを目的として、疑うこともないのです。よくあるレッスンメニュは、ほとんどそれにあたります。
すでに世に通じている人はよいのですが、その人以上の人が育たないです。本人も( )のためにやれている、つまり、限定されているのです。それを外しにくるプロもここにはいます。大いに期待しています。
○ど真ん中
トレーナーは、自分の型ではない型がみえるのが嫌なのです。理解できないか、理解しようとしたがらないのです。そのまま自分に置き換えてみると不快だからです。それは、歌手の感性からです。
教えるには自分に置き換えて相手の状態をつかみます。中途半端な型の上に乗せるよりは、その型を外すことから始める方が楽なのです。
教え上手の先生は、カラオケのうまい人のくせをはずして、下手にしてから伸ばしていきます。
レッスンの場やトレーナーを変えた人の多くは、前のところでは身につかなかったから「ゼロからやり直したい」と言ってくることが多いのです。そこはトレーナーと意見が一致します。「最初からやり直しましょう」となりがちなのです。相性とか方法が合わなかった、で片付けてしまうのです。多くのケースでは「よいトレーナーに会った」という根拠は、「やさしい、親切、わかりやすい、自分を認めてくれる、評価してくれる」という、トレーニングとはほとんど関係ない要因です。ホスピタリティ、サービス精神に通じていることは、教える人としては大切ですが、何よりも大切になってよいのでしょうか。
○鋳型と自己流
型は、土台ですから、完成に近づくまで、中途半端でしかないのです。そこをどうみるかが問われるのです。私は、どんな型も元の型のように考え、できるだけ活かそうとます。そうでないと、研究所で他のトレーナーたちの方法と両立できません。いろんな生徒さんがいらっしゃるので、いろんなアプローチがあって当然です。
その理由は、よくも悪くも最初についたトレーナーの型が鋳型として大きな影響をもってしまうからです。私はできる限り、肯定できるところから始めたいのです。
トレーナーにつかずにやってきた自己流、我流、自然流、天然流にも、私は寛大に対応しています。自己流も他に教えられたものも同じくらいにその人自身のど真ん中の声から、それていることが多いので同じです。
どちらにしても、浅く、程度として低い状態に変わりないのです。自分独自に試したり誰かに教わって少々違う方向に偏っていても大した問題ではありません。
何をしても見えていない分には偏るのです。そのなかから、是とできるものをみることが大切なのです。偏りは、大きく見ると無視できる範囲です。それよりもど真ん中の声、ど真ん中にくるであろう声をみることです。
○型と不条理
型を守ることばかり教えられると、その型から出られなくなるものです。型とはいずれ、型から出るための型なのです。意味があるとするなら、崩れたときに戻れるところとしての型です。本来は「いつでも外せる」「脱げるように」と教わるとよいです。いえ、「いつか外す」いや「いつか外れる」です。
名師匠は、抜けたくなるような窮屈な型を押しつけるのです。それが言動や生活にまで求められると不条理な抑圧ともなります。退路を断ち、一心に打ち込める覚悟を迫るのです。
ゆえに、型は、ふしぜんを通り越して不条理なのです。理で求める人を拒むのです。「型破りはよいが、型なしはよくない」よく言われることばです。
○腹筋不要論について
「腹筋を固めるな」「腹直筋を鍛えると呼吸や発声によくない」と言われ出しました。そういう質問に、私は「世界一流レベルにでも近づいてから考えたらよい」と、にごしていました。考えるに値しないことだからです。言わないほうがうまくできるし、よいように働いていくものだからです。とはいえ、何回かは、具体的に答えてきました。
インナーマッスルや体幹がブームになった頃から、外側の筋肉を固めると内側の筋肉がつかないという流れできたのでしょう。
筋肉や体幹について、一般の人がよく知るようになったのは、悪いことではないのですが、それを理論として、頭で考えて体を働かそうとすると、伸びやかにトレーニングをする人よりも悪い結果となりかねません。
言えるのは、ボディビルダーのように筋肉をつけたからといって、あるいは、腹筋が100回を200回できるようにしたからといって、発声と関係ないということくらいです。そういう苦行トレーニングの先に、よい発声や歌唱があるわけではないということです。
今さら言うのもはばかられるのですが、舞台で声を出すのに、腹筋が普通の人並みにもいらないなどということはありません。ヴォイトレにおいて、そういうことばを受け売りして、頭でっかちになってはよくありません。
本人が足らないと感じたら補えばよいのです。むしろ、足らない、補わなくてはいけないと具体的に感じられるほどの高い目標をセットすることを、レッスンで行うことでしょう。身につける必要性を与え、身につくようにしていくことです。
○理由を知りたい症候群
「どうして、こうしなくてはいけないのですか」という問いは、以前はさほどありませんでした。今や何事についても、その理由や結果を前もって知ることを求める人、それを知らなくては行動に移せない人、続けられない人が増えました。
研究所は、本の読者から関わる人が多かったので、理屈先行タイプが多いのは確かです。それでも、かつては「聞くのは失礼」とか「聞いて答えてもらったところで何にもならない」という思いや直観があったのでしょう。いい具合に、聞くべきときに聞かれたように思います。
実際には、そう簡単には答えられないこともあります。答えようとすれば、教科書的な答えとして、です。私は、そういうとき、答えないことが多いです。何でも答えてしまうことは、よくないことです。今はよくても後ではよくないことと、今はよくなくても後でよくなることのどちらを取るかならば、私は、後者を取ります。そういう人が少なくなったのです。
正直なところ、「こうしなくてもいけないことはないのですから、こうしなくてもよいですよ」「なら、好きなようにやりなさい」でもよいのです。でも、それではアドバイスされた人が困るでしょう。「その理由は、私もこうしてやって、できたからです」と言わなくてはいけないのなら、信頼関係もないでしょう。
一つひとつを疑われては説明を要するなら、レッスンの多く時間が失われます。それによって、もっと得られるものがあればよいのですが、失われることが多いと思います。それが安心感になるというのなら、もっとよくないことでしょう。
○説明の限界
「レッスンで説明を受け、納得できたら家で自分で練習します」という考えの人もいます。そのために、私は、誰よりも本や会報で、ことばにできるところを残してきたのです。ブログにもQ&Aを入れています。
あなたを安心させるだけの説明なら、いつでも何でもできるのです。ただ、あなたのことを充分に知らないうちに、こちらの模範解答や正解を与えても、決してよい結果になりません。ただの知識欲で、自己満足になりかねません。それでは、レッスンの意味がないのです。知らないうちというのは、今のあなたの声でなく、将来の声や歌の可能性のことです。
自分の考える正しさは、誰にも通じるものだという確信をもって、あるいは、自己暗示にかかってトレーニングを始めるトレーナーは少なくありません。あるやり方がレッスンの真骨頂だと思うトレーナーであって欲しいとも思いません。
「こうしなくてはいけないのでなく、こうしたいからです。あとは自分で考えなさい」と。
理由なしにはできないと思わないことです。そういう問いと答えをたてたら、大した成果をもたらさなくなります。私の指導の体験から言っておきます。この世界にいると、奇跡はけっこう起きるのです。説明がつかないから、魅力的なのです。
○メニュという型
メニュとは、一つの型ですから、繰り返して、何かを身につけていくために使います。そこには元より説明できるものは、さほどありません。ノウハウとしてのメニュをたくさん集めても仕方ないでしょう。一つの型を材料としてどれだけ使えるか、そのために判断力を高める基準づくりに重点をおきましょう。
多くの人が期待しているような、絶対に正しい方法や、魔法のような万能のメニュはないのです。あるとしたら、心身を目一杯使って元気に取り組むということでしょうか。
自己表現の結実である歌でさえ、一つの型の表れにすぎないといえなくもありません。型に人は惹かれ、ファンは魅了されるのですが、その型を忘れさせるレベルを目指して欲しいものです。
私の示す、わけのわからないものにどう対処するか、どう対処できる能力をつけていくのか、でしょう。その力を養うのが、実践に通用するレッスンです。そこでしぜんにこなせていれば、こなせるようになっていけばよいのです。
そんな疑問ばかり出る人は、うまくいかないものです。出し尽くして忘れましょう。考えてはいけないのです。考えてしまうなら考えましょう。これは、そのためのアドバイスです。思うように歌えないことが多いのです。レッスンでは、疑うことよりもイメージを大きくすることです。
誰にもできないのではありません。誰でもできるのがメニュです。しかし、できたようでいても、できる人からみたら、まだまだできていないのです。ふしぜんなままなのです。
○レッスンの目的
「こんなことできない」とか「こんなことおかしい。やる必要ない」と思えば降りればよいのです。レッスンにきたからやらされるのです。嫌なら自分の思うように歌っていればよいでしょう。
思うように歌えないのは、多くの場合、そこまでやっていないのです。やり続ければよいのです。そのうち、自分一人では思えなくなること、イメージが広がらなくなること、そこからがうまく対処できないから、レッスンの意味があるのです。イメージを決めて読み込んでいく、それも可能性を高める方向にイメージを持っていくのがレッスンなのです。
世の中にはこんなことをやらずに、プロになった人もうまく歌える人も魅力的な人もいます。そういう人たちは、この型を与えられても、あなたよりもうまくこなすでしょう。あるいは、別の形をとって凌ぐでしょう。そのあたりを踏まえ、チェックをシンプルにできるように一つのメニュとして示しているのです。
でも、なかには、型にまったく対応できないのに、すぐれたアーティストもいるでしょう。スポーツや楽器ではありえないことも、声、ことば、歌ではあるからおもしろいのです。これは、述べようもないということです。
○ことばは、イメージのため
腹筋について、本来はトレーナーが「やれ」とか「やらなくてよい」とか「やってはいけない」とか言うものではないのです。あなた自身が、発声しているなかで不足を感じたらやればよいのです。それを100回とか200回とか、何分間とかを、絶対的に正しいかのように定めるのはおかしなことです。でも定まらないとやれない人が多いから目安として与えているのです。
自分なりにやっていくなかで綿密に定めていきましょう。呼吸トレーニングなども同じです。
あるトレーナーは、秒吸って12秒吐くのを勧めています。15秒で一回、1分で4回、根拠もないのですが、その人なりに続けやすいところからです。たとえば、覚えやすい秒数という理由でもよいでしょう。
トレーナーの言語の力で、受け取る人のやり方や効果は大きく違います。
私は、「吐いて吸う」というように言っていますが、「吸って吐く」というのを勧めるトレーナーもいます。経験でそうしている人もいます。多くは考えずに、教わるままにそうしているトレーナーもいます。言語の力はイメージを導くのにとても大切です。トレーナーのキャリアや実績は、こうした使い方一つでわかるものです。
○セットしてから
いろんなメニュに大した根拠はありません。必要に応じて、その日の心身に応じて、セッティングするものです。このセッティングの能力を磨かなければいけないのです。学ぶことなのです。それを対面して、できるレッスンで学ぶのです。
すぐれたトレーナーは、その日のその人の状態と理想、目的のギャップの間に即興的にメニュをセッティングします。その段階までいかないときは共通のメニュをくり返します。同じことのなかで、わからせていくことに時間をかけます。
質問の多くは、何と答えても、やる方は頭でっかちになり、発声に役立ちそうもないです。トレーナーが熱心に真面目に応えると、そこから抜けられなくなるのです。
あなたのことを思えば、最初から答えない方がよいことが多いのです。でも、「自分の体に聞いてください」と言われると困りますね。「それがわからないからトレーナーに聞くのです」と言われそうです。トレーナーにもわかりません。練習がそこまで達していないからです。不安なく取り組ませることが必要なときは、そうするのです。
しかし、本当はすべてわかっていると勘違いしているトレーナーの方が問題です。トレーナーが予定しているくらいの上達なら、今や、自主学習で充分できます。トレーナーが予知できないレベルで、その人から何が出てくるかを問えるようにセットするのが、本当に意味のあることです。
お互いに研究のできていくようにレッスンをセットします。勝負はそこからです。そこまでは、淡々とトレーニングしていけばよいのです。
○プロセスに入る
声が身についてくる道筋は、本当のところはわかりません。ここにはトレーナーが十数人いて、メニュやプロセスを説明もします。それは本人自身の経験とこれまでの関わった人との経験をもとにしているにすぎないのです。
それが、あなたにもっとも合っているとは限りません。細かくみると、異なるのがほとんどでしょう。異なるのに同じにするのはトレーナーの都合、レッスンがやりやすいからです。それも大切です。合っていることがベストではないし、合っていないからといってよくないわけでもないのです。
トレーナー十数人とやっていると、一人でトレーナーをするよりも比較が容易にできます。その人の個性もつかみやすいです。基準も、厳格かつ柔軟になってくるものです。
自分の考えに近い人も遠い人もいるのがわかります。より多くのことを、早く気づいて学べるようになるはずです。近い人より遠い人から学ぶ方が大切です。自分だけでは学べないものだからです。そのような人には、トレーナーも生徒さんもこの研究所が向いています。
○結果で修正
トレーナーや専門家の紹介もしていますが、あなたとトレーナーとの関係は、これからの月日をみていかないと、本当のところ、わかりません。大体は、縁のようなものですから、私の思ったままにいくのです。何割かは期待以上であったりするし、何割かはうまくいかないときもあります。この、うまくいかないケースを認めているようなスクールやトレーナーは、少ないでしょう。求めるレベルが高まらなければ、誰とでもうまくいくのです。
やっていくなかで、プロセスをみて、あなたの声だけでなくプログラム自体を修正していくことが重要です。トレーナーとのやり取り、特に、レポートは大切です。私も目を通しています。
わからないことをわかったことにしていくと、わからないことさえわからなくなるのです。そこをはっきりとさせています。とはいえ、あなたが何年後かのあなたをわからないように、私たちもわかりません。でも本人のあなたよりもわかることも多いのです。
語学学習なら習得のプロセスに大体の予測がつきます。声は、これからどういう生活やトレーニング時間をとるのかによって、かなり違うものです。レッスンも毎日のトレーニングや過ごし方で大きく声に影響するからです。
一人で悩むよりも、トレーナーにアドバイスを受けましょう。自分で悩まず、トレーナーを悩ませて、言われたようにやっていく方がよいのは確かです。具体的に結果が問えます。修正しつつ方向が定まるからです。
○同じものと新しい自分
私の本は、ほとんどが同じ内容を伝えているものですが、書くごとに表現が違っています。編集しただけにみえても、必ずトレーナーと私の現時点での持論が入っています。現在進行形です。
それと同様、いつも、同じというのが型です。それを求めていらっしゃるのでよいのです。
毎回、本の内容やレッスンのやり方が変わっている方がどうかと思いませんか。メニュは同じでも、それをどう使うのかが肝心なのです。
そこが、今、ここにきている人とのリアルでの橋渡しのところ、過去でも海外でもなく、あなたと、私やトレーナーの感覚や体から言語化されたものです。そこでは日々、変化します。そのなかからアップしているのです。
○くり返しだけではない
レッスンのほとんどは、ことばになりません。言語化されないことがほとんどなのです。そのなかで、こうして同じことを繰り返し入れていくことと、ことばも型もできてくるのです。
イメージや思考は、体の型と同じように大切です。なぜなら、ただのくり返しだけでは、身についたとしても、その先に行けないからです。やればやった分だけ誰でも身につくところまでは、時間と引き換えに得られます。その先に行くためにレッスンはあるのです。
身についたもので対応するのと、それを壊して、新たに創造するのとは次元が違います。そこでは、自分のなかのものを出すだけはありません。自分のなかにあると思わなかったもの、すごいものが出てしまったというようになってこそ、価値があるのではないでしょうか。
創造的なことのために、どういうレッスンが必要か、もっと考えてもよいのではないでしょうか。
○少しの違い
「少しの差」からものごとは、決まっていくものです。音楽でのリピートでの快感の積み重なりは、まさにそうでしょう。同じことがくり返されるから、ちょっとした変化に敏感になり、感覚も高まるのです。興奮して感動できる状態がもたらされるのです。
レッスンやトレーニングも同じです。同じことのくり返しから、ほんの少しの変化から快感になってくるのが理想です。そうなっていかなくとも、その「少しの差」がわかってくれば、まずはよいのです。
同じことをやることで、慣れからくる安心感や、継承した感じだけで充実し、満足するのではありません。そこから出てくる、あるいは気づく「少しの差」に新しい自分の可能性を嗅ぎつけるところに本意があります。それは、心身の感覚センサーのなす術です。
この働きを助けることがレッスンの第一義です。これを邪魔して、トレーナーが自らの指示に従わせることがレッスンの目的であってはいけません。それは、そのためのプロセスの一つだからです。
未来への一歩、「何ができた?」「何ができる?」は、このわずかな差に気づくことにあります。それをくみ出すことが、芸です。だからこそ、同じメニュを真剣にくり返す必要もあるのです。
○目的とスタンス
レッスンやトレーニングは、必ずしも本質的なところに落ちていないと思うこともあります。体もそのために鍛練し、テキストも、そのために学ぶものなのです。
あなた自身は、私やトレーナーの考えと違っていてもよいのです。でも、同じことを行ってみないと本当の違いもわからないのです。先人の残したものを充分に使うことです。トップレベルで使えるようにしていくことです。
「少しの違い」に敏感でない人は、すぐれたアーティストになれません。トレーナーとしても未熟です。
他人に、自分とは異質なものを発見し、そこを拡大できるようにしていくことです。大半の日本人はそれが苦手です。同じことができるようにして、他人に合わせることをよしとするからです。特に、トレーナーには、トレーナーゆえにそういう体質に染まっている人が多いので要注意です。