閑話休題 Vol.70「庭園」(4)
<音楽と庭>
<「多層的な時間の視覚ポリクロニック・ヴィジョンズ ― 武満 徹の音楽」(安芸光男)
武満徹のエッセイ集『音楽の余白から』≪ピアノとオーケストラのための「弧(アーク)」≫の自作解析には、「日本の庭園の景観と歩行者の視角や速度によって風景が相対的に変容していく、その視覚的空間を音楽化する過程を述べたもので庭園の具体的な配置図とスコアの図形楽譜ふうなスケッチが併置され、砂や岩、草花、樹木などがそれぞれ象徴する形式上の役割や楽器の配分などが記されていた」。(中略)
自然の視覚的な空間に反響こだまする無数の音のイマージュは、武満の中で決して線のような連続体としてとらえられることはない。音は空間的な方向性をもってゆき交い、たえず伸縮し、ふくらみ、変容し、収斂するものとしてとらえられている。この空間的な視覚のイマージュのアナロジーとしてとらえられる音の感覚こそ、西欧的な音楽の構造と異なる武満徹独自の音楽の源泉である。それは、空間的な視覚にともなう、音=時間の多層性の原理である。
自然の事物、草花や樹木、岩や砂はそれぞれ固有の時間の相をもって呼吸し、庭園におとずれる季節の周期、一日の天候の移ろい、そして歩行する人間の意識の移ろいもまた、それぞれ固有の時間のサイクルを持っている。こうした自然の空間における多層的ポリクロニックな時間を発見し、凝視みつめることから武満徹は音の像をかたどっていく。
あの冒頭の動機の緊密で有機的な展開によって構築されたべートーヴェンの第五交響曲の完結した世界に象徴されるように、西洋の作曲家は、主題の弁証法的な「展開」と「構築」という観念、連続的に展開する線形的モノクロニックな時間意識から逃がれることが出来なかった。いわゆるポリフォニーにしても、それぞれの線が連続的な拍節意識に支えられている限り(たとえ絶えざる拍節感の変更があったとしても)、それはやはりモノクロニックな時間の積み重ねであるといえるだろう。
しかし、武満徹の音楽の多層な時間の非均質性ヘテロジェニティは、線形的な連続性、水平的な流れを感じさせず、垂直に立ち昇る複合的な瞬間のイマージュ、空間化された時間ともいうべきものを感じさせる。空間的なイマージュの中で時間が伸縮し、音はふくらみ、収斂しつつ、次第に変容していく。それは武満徹が音楽を線形的な層の連続的な流れとは見ず、不定形なカオスの中から生成しつつあるメタフォリカルな音のイマージュに構造へ到る萌芽を発見し、出来上った音の構造を固定化せずに、絶えずまた流動性ゆらぎの中へ返していく、その相互的な運動のダイナミズムの中にとらえているからである。そこでは音楽は「構築」されることなく、「展開」されることもない。(中略)
武満徹の音楽は決して抽象的ではなく、むしろ具象的である。その具象性は武満の「視覚」に由来していると思われる。>
その他、サラセン式庭園(ペルシャ、スペイン、インド)、イタリア式庭園(露壇[テラス]式)、イギリス式庭園(風景式)、フランス式庭園(平面幾何学式)。
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