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「歌の裏ワザ」 Vol.17

〇正誤問題ではない

 

 歌について、正しいか間違っているのかをとても気にする人がいます。歌うのは、アーティストの活動ですから、その練習は、あなたがこれまで受けてきた日本の非創造的といわざるをえない教育とは、逆の考え方をしなくては、見えない壁をやぶれません。

アートの世界では、すぐれている人ほど、正誤ではものごとを捉えません。何をしても、自分がしたら自分の正解となり、そこに間違いは生じないからです。

どんなことでも、やったことが自分のみならず、他の人にも正解となって示せるのがプロです。そのために、ひたすら感性とものの本質をみる眼(というか耳)を磨くのです。

 ところが、練習法とかトレーニングをそれだけで考えるところから無用の混乱が起きます。そういうことを教えよう、受けようというレッスンでは、正しいやり方があると信じる限りにおいて、そこでトレーナーとの二者間でのみ、成り立っている練習法にすぎないものです。私はそれは、そこを離れて通じるものにしなくては、と思っています。

 

〇問題とする

 

好きなヴォーカルの曲を高すぎるキーでまねたり、大声をはりあげて歌い続けると、カラオケ・ポリープのように喉を痛めます。室内の汚れた空気なども原因の一つです。

レッスンは、そういう対処法を知るためにも行うものです。

漠然とレッスンを受けるのでなく、それぞれの状況に応じて自分なりにもっともよいメニュを編み出していくのです。あなたが、主体的に考え動き、決めてこそ、何事もうまくいくのです。

 

どこが問題かわからないという人は、どこも問題がないと思っている人よりも判断力は上です。(問題がない人はいないので)、明らかに問題がある人というのは、素人が聞いても下手といわれるのですから、わかりやすいものです。そのギャップは、トレーニングしだいで直っていきます。

むしろ人並みに歌えるようになったり、プロとなってからの方が、この問題は深刻なのです。

といっても、芸事ですから、当人の目標レベルまでということでよいわけです。(そのため、自己満足でそこまでしか伸びない人ばかりですが・・・)

 

 私が思うに、ヴォーカルは10年のプランニングをなかなかたてられません。ちょっと器用に歌いこなせるようになると、まわりからはうまいとほめられる。プロでも、ポップスでは、具体的に注意されることはあまりありません。

しかし、日本のヴォーカルは、プレイヤーに比べ、国際的にレベルが低いのは事実です。

もちろん、私は日本のヴォーカルを否定しているのではありません。トレーニングに関心のある人に、基準を与えるために、その立場で述べているのです。

それで本人がよければよいのです。歌によしあしやうまいなどというのも、もともと存在しないのです。今のままの自分の歌では嫌だと本人が思ったときに、はじめてそれが解決すべき問題になるのです。

 

〇サポート

 

 私がみて、日本に限って言うならば、トレーニングで効果を出した人と、プロとして成功した人とは必ずしも一致しません。

それには、エンターテイメント、ショービジネスとして、あるいはミュージカルとして日本人が求めるヴォーカルやアーティストと、世界レベルとのズレでもあるのですが。

 トレーニングというのは、効果を出すためにあるのです。しかし、その効果はトレーナーの目指すものでなく、本人の求めるものでなくてはなりません。

本人が求めるべきものがはっきりとわからないから、トレーナーがサポートしてあげるのはよいでしょう。

しかし、本人が、(とはいいませんが、トレーナーも含めて)可能性のないところに目的をもつ人が少なくないのです。声をしっかりと出せないうちに高音獲得競争などに走る人も少なくありません。

 トレーニングは、続けることで、可能性を引き出すためのものです。本当のトレーニングは、器を大きくするためのものです。

 

〇発声のキャリア

 

ヴォイストレーニングをしないと、しっかりしたヴォーカルになれないと思い込んでいる方がいます。「どこに行けばうまくなれますか」と。とても熱心なのはよいのですが、そのまじめさが裏目に出ることも少なくありません。そうした思い込みは、はずすことです。

 

 発声というと、習いにいってゼロから学ぶように考える人が大半です。ここには、多くの人が「初心者ですが」といらっしゃいます。最近はプロにも「ヴォイトレは初めてなのですが」といわれ、苦笑せざるをえません。

というのは、発声もヴォイトレも生まれてすぐに、誰もが生まれた年月分はやってきているともいえるからです。つまり、すでに使ってきた歴史を無視して始めるものではないのです。もって生まれた体と使ってきた声、ことば、感覚を無視しては、先に進めません。

 

一方で、役者やヴォーカルには、ヴォイトレをやっても何にもならないと思っている人もいます。どうも人のところに習いに行くのがヴォイトレと思われているようなのです。私の考えでは、せりふや歌の2、3フレーズの練習を繰り返しているときは、それもそのままヴォイトレなのですが・・・。

 ですが、ヴォイトレなど必要がないといったら、それも本当です。

あなたの声は聞こえるし、日本語も通じるし、歌も歌えますね。生きている年月分、練習して実践で人に対して使ってきているのですから。

そうでなければ、十代半ばでそこまで大して何もやっていないのに、オーディションだけで役者として主演に選ばれたり、デビューしてヒットさせるような人は出ないでしょう。他の分野に学んだ芸暦なしのプロなどいますか。

でも、それで選ばれた人は、その感性でそこまで生きてきたのです。彼らには、イメージがあるので、あとは声という楽器が対応できるかどうかだけ、そこで、器用にうまく心身が対応できた人たちとみるべきでしょう。そうでなかった多くの人には、ヴォイストレーニングが必要、彼らも天然で得られたところから、上にいくのなら、基礎からのトレーニングが必要と思うのです。

 

〇ヴォイトレはリフォーム

 

私は、プロ相手のヴォイトレは、プロデューサーの感覚も含めて、声楽家の基礎レッスンを併用してやります。前者は応用として、ステージングのために、後者は基本としてフォームづくりと器づくりのために心身のリフォームなのです。

 発声も呼吸法も体も皆、普通に生きていられるということは、最低限、身についていることなのです。しかし、ステージで求められるものは、日本人の日常での声の力からみるとかなり高度で、特別なのです。

しかも、歌などは、欧米の影響下にあるために二重にギャップがあるのです。

そのため、私たち日本人は、いろんなノウハウを取り入れ、それっぽく対応してきたのです。多くのヴォイトレも声楽も、そこに位置しています。そのために混乱というよりも、形の受け売りで、思い込みの中だけで行なわれているケースが多いのです。

 私は、そこに正解を求めません。あくまで個として、その人の声の活動領域が広がる可能性を求めて、使えるものを何でもコーディネートして成果を出すように処法してきました。年々と方法もメニュも変わっています。

 

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