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閑話休題 Vol.77「風呂敷」(1)

<語源>

「風呂敷」が、モノを包むものとして用いられるようになったのは、江戸時代も18世紀に入ってからのことです。それまでは、包まれているものを冠して「けさづつみ」「ころもづつみ」「おおづつみ」などと呼んでいました。

古くは、収納のために平包(ひらつつみ)、または古路毛都々美、衣包み(ころもつつみ)と呼ばれ、舞楽装束を包んでいたとされています。それは、碧色の綾を継ぎ合わせて作ったもので、一般の人は手に入れることはできませんでした。

語源としては、室町時代、将軍の大湯殿に入った大名たちが衣服をまちがえないため、家紋をつけた帛紗(ふくさ)に、脱いだ着物を包み、湯上がりに帛紗の上に座って身づくろいをしたのが風呂敷の始まりといわれています。風呂の中で敷き、湯上がりにその上で身体や足を拭うものだったのです。風呂敷で着物も包み、湯具を包んで持ち帰ったといわれています。また、茶の湯で道具として用いられる風炉に由来する説などがあります。駿府徳川家形見分帳の記載が最初です。

正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っています。中身を固定するための紐が取り付けられています。伎楽衣装を包む「伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)」、子どもの衣装を包む「師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)」という呼称で内容物が墨書されていました。

 

<歴史>

奈良時代、奈良の尼寺・法華寺に蒸し風呂があり、スノコの下から薬草などを燃やして煙を出し、祈祷や疫病対策をしていました。直に座ると熱いので、むしろを敷いたようです。

平安時代には、大きな包みをいただいて運んでいる女性が描かれたものが残っています。「平裹」・「平包」(ひらつつみ)と呼ばれ、庶民が衣類を包み頭にのせて運んでいる様子が描かれています(「裹」は「裏」(うら)とは別字)。古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も「和名類聚抄」にうかがえます。

京都高山寺に伝わる絵巻物「鳥獣戯画」は平安から鎌倉時代のもので、そこには平包みのようなものを持った猿が描かれています。

 

武士が台頭するようになってからは、戦で取った敵の首を、布で包むのが礼儀とされました。「首包」です。

 

室町時代には、将軍足利義満が建てた湯屋に公家が入浴したとき、湯殿の下に敷いたり、衣類を間違えないように家紋を入れた風呂敷に包んだそうです。入浴することは心身を清めるのに白衣で入るのが作法で、そのため広げた布を「風呂敷」と呼んだようです。

蒸し風呂であったため、「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていました。濡れた風呂衣を風呂敷に包んで持ち帰ることなどで敷布としての役割から包んで運ぶようになったのです。

 

江戸時代、銭湯が普及し、脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷という名が定着してきたと考えられます。花見など物見遊山が大衆化したことでも使う機会が増えました。

 江戸時代初頭、銭湯が誕生し、元禄時代頃から江戸や上方の町で盛んになり、庶民も衣類や入浴用具を「平裹(平包)」に包み持って銭湯に出かけています。「平包み」は「風呂敷」よりも長い期間、使われていたようです。風呂に敷く布で包むことから、「平裹(平包)」に代わって「風呂敷包み」や「風呂敷」と呼ばれるようになります。「風呂で敷く布」から、「包む布」として行商人たちによって全国に広められていきます。商人や旅人の振り分け荷物を包むのにも使われ、運搬用品となってきます。また、旅が一般化したこと、花見など物見遊山が大衆化したことで、外に出る機会が増え、風呂敷の使用機会が増えました。上方商人が江戸で商標の入った風呂敷で評判を呼び、成功を手にした話があります。

 

普及には、技術革新によるところがあります。木綿は、戦国時代の終わりまで輸入に頼っており、貴重品でした。江戸時代に栽培が行われるようになり、麻に代わる庶民の衣料として普及しました。

火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。手近にある代用品として「早風呂敷」と名付けられました。

 

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