閑話休題 Vol.94「歌合」(1)
<歴史>
歌う心と競う心と判(ことわ)る心とが結びつけば歌合はいつでも成立。
万葉時代にもなく、和歌が書き読む文学となって文献に記録されるようになった平安朝初期にもなかった。
北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀、国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885‐889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現した。
天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合が有名。
1980年代から再興
王朝貴族の情趣的な公私の生活は、遊宴競技を盛んにし、中国の闘詩、闘草の模倣から「物合(ものあわせ)」(草合、前栽(せんざい)合、虫合など)が生まれた。その合わせた物に添えられた歌(そのものを題)が合わせられ、歌合が成立した。物合と歌合は区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴や神事、仏事の余興。
960年(天徳4)の『内裏(だいり)歌合』の頃は、内裏後宮を主とした女房中心の遊宴歌合。
1003年(長保5)の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)この間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとり歌が争われ、歌合の内容も歌人本位。
平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、歌の優劣と論難の基準のみが争われ、遊宴の意味はなくなり、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた。
鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される歌学歌論の純粋な論壇として、新古今時代にみられる新傾向の表舞台ともなった。
百首歌の盛行とともに百首歌を結番する「百首歌合」が生まれ、時日をかけ対者を選んで結番し、また複数判者による分担判という大規模な歌合が成立した。『六百番歌合』(俊成判)、『千五百番歌合』(俊成ら十人判)などがある。
その後は歌壇がまったく御子左流(二条)のひとり舞台となった。ときには藤原光俊(みつとし)らの反御子左派、あるいは京極為兼(きょうごくためかね)らの反二条派の歌合に和歌、評論とも新鮮味があったが、歌合は、文芸的には鎌倉初期をピークとして、文芸様式の一として江戸期まで続けられた。
この形態で、秀歌を選んで番える「撰歌合(せんかあわせ)」、特定の個人の歌を番える「自歌合(じかあわせ)」、和歌と漢詩を番える「詩歌合(しいかあわせ)」、流布した物語中の和歌を番える「物語合」などもある。[橋本不美男]
<形式>
歌合の行事形式が相撲節会(すまいのせちえ)に酷似している。
相撲は昔「すまい」といい、その「すまい」の形式をまねて生まれた。
いわば歌相撲といった興味から始められたものとも考えられる。
歌論:〈歌論〉をさかんにした契機に、歌合があった。
物合:物合は歌合、相撲(すまい)、競馬(くらべうま)、賭射(のりゆみ)などとともに〈競べもの〉の一種
歌合(うたあわせ):左右二組にわけ 詠んだ歌を比べて優劣を争う。左右両陣の念人によるディベートによって判者の判定で決める。
方人(かたうど):歌会の歌を提出する者。今日では、念人と同一。
念人(おもいびと):自陣の歌を褒め、弁護する役。敵陣の歌の欠点を指摘して議論を有利に導く。
判者(はんざ):左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める審判役。持(じ;引き分け)もある。
講師(こうじ):歌合の場で歌を披講(ひこう)(読み上げる)する。現代では特に置かない。
判詞(はんし):判者が述べる判定の理由。とくに歌合・句合において、判者が番(つが)わされた左右の歌・句についての優劣を勝・持(じ)(判定しがたい場合)とし、その判定理由を書いた詞をいう。判定の詞(ことば)を判詞という。判詞は歌論へとつながっていった。
題(だい):題詠
左方(ひだりかた)・右方(みぎかた):左右各5名に分かれ左方は赤装束、右方は青装束。