「時間をかけ、精査する」 No.418
武道やスポーツなら、プロの身体の動きとの違いは、誰でもわかるでしょう。でも実際に稽古をするときに、その違いは、わかっていてもできるのではありません。そうでなければ、稽古をする必要がありません。
ヴォイストレーニングも同じです。
力を抜いてと言われて、言われたとおりに歌ってみれば、きっと力が抜けて全然、声が出ていないと言われるでしょう。トレーナーと同じように、力が入るところは入れて、あとは解放というようにできるのであれば、そういう注意は、受けないでしょう。
トレーナーの言うことが、いくら正しく、そうしようと思っても、そのときにできるわけがありません。仮にできたといわれても、できたつもりになっても、それは、本当の必要の何十分の一なのです。ただ、この必要というのが、そもそも、曖昧なのですが。スポーツなら、最高記録があるので、わかりやすいです。
誰でも、力を入れて歌いたいわけでも、力を抜いて歌おうとも、思ってはいないでしょう。
自由に楽に気持ちよく、歌いたいわけです。
でも、それができない。あるいは、そうやってしまうと、歌い流してカラオケみたいだとなってしまうでしょう。それが全部、できていたら、レッスンの必要もないのです。
それができていないことを知って、常に原点に戻って、呼吸やフォームから、正していくことが、学ぶということです。
トレーニングには、時間がかかります。時間をかけて、状態と条件を整えていくからです。そのプロセスをチェックして促すために、レッスンがあるのです。
トレーニングは、時間をかけないと身につかないのです。
いや、身についていないものを身につけるためにこそ、トレーニングという時間があるのです。
補足
私は今、体力と筋力の強化保持と柔軟のために、プールに通っています。
そこで、他の人を眺めてみると、自己流で泳いできたか、どこかで習った選手だったかどうかは、ほぼ一目でわかります。たぶん、あなたが見ても、大体、わかるでしょう。
きちんと習った人は、最小の力で最大の推進力を得るフォームを身につけているからです。速くなくとも美しく泳いでいるのです。それは無駄がなく疲れない泳ぎです。
私は、中学でバスケ、高校で水泳、そして学生時代にクラブのプールで子供たちに教えた経験があります。いくら正しいフォームを教えても、身体がそれを使えるように、筋肉がつき、肩関節がまわり、感覚が変わるまで、できることはないのです。
歌や声とスポーツは、同じものではありませんが、肉体芸術と捉えるなら、共通するところは多いものです。当時の私は、力でなく、感覚で精査する術を知りませんでした。一流選手のフォームをみて、自分のフォームをビデオでみて、チェックしていたら、もっと伸びたと思います。
今、力づくで泳いでいる人たちも、もし録画して自分の泳ぎを見たら、ずいぶん無様だと思うでしょう。あの桜木花道が2万本フリースローの練習を課せられて、自分のシュートの録画を見たとき、そう思った、ようにです。
バスケも、一年くらい基礎練習を続けると、手のスナップだけでフリースローができるようになります。膝でシュートという意味もわかるのです。ドリブルでボールが手に吸い付くようになります。誰でも正しい練習を積み重ねれば、素人の域は脱することができるのです。
参考になれば、と思います。
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