5.プロフェッショナルの伝言

「しぜん、身体、声、現実」 No.416 

現実の感覚は消してはならないのに、

しぜんを人間の意識が排除して、

世界は、都市化、そしてバーチャル化していったのです。

 

人がいないところ、見ないところは、

人にとっては、本来、存在しないのです。

少なくとも、その人にとっては、存在しません。

脳が、自分の世界を決めているからです。

 

頭は、自分の先を予測をして、それを実現するように

コントロールしていきます。

これが、自己制御、自己管理です。

 

身体は表現、その人の証明です。

だから、人は、声であいさつして、

握手して、確認したいのです。

 

今の医者は、検査の結果データで診ています。

画像と数字だけで判断するのです。

そこには、しぜんのままの身体は出ていません。

 

道から型へ

こうすれば、こうなるというのは、進歩です、頭です。

そのはずが、そうはならないのが、現実の世界です、身体です。

「声のトレーニングの極意」 No.415

私たちの人生は、絶えず流れる時間のなかにあります。

誰もが、生まれ、成長し、老い、やがて消えていくという有限の運命を背負っています。

だからこそ、人は「永遠」に憧れます。

しかし、永遠とは、本当に果てしない時間の彼方にあるものなのでしょうか。

 

 永遠は限られた時間の中の「至高の一瞬」に、すでに現れているとも思えます。

 ニーチェは「永劫回帰」で、同じ瞬間を永遠に繰り返すとしたら、それを肯定できるかと問いました。その瞬間を心から受け入れられるなら、それは永遠と一つになる体験だといえます。

 東洋思想では、禅の「一瞬即永遠」、つまり、「いま、ここ」を真剣に生きることで永遠が開かれると説きます。茶道の「一期一会」の心は、その象徴です。

 

 音楽や文学の世界でも、一瞬の表現が時間を超えて人の心に残ります。

音は消えても、感動は永遠に響くのです。

 

 私たちの日常にも、好きな人の笑顔や自然の美しさに触れるひとときなど、永遠を感じる瞬間があります。そのような体験では、時間の流れを忘れるでしょう。

ただ「いま」に生きている自分を感じるものです。

 

 永遠は遠い未来にあるものではなく、私たちの「いま、この瞬間」に宿っています。

それを限られた時間を全身で味わうことができたとき、至高の一瞬は永遠へと変わります。

永遠を探し求めるのではなく、目の前の瞬間を大切に生きることです。

それこそが、永遠を生きるということなのです。

「至高の一瞬と永遠」 No.414

私たちの人生は、絶えず流れる時間のなかにあります。

誰もが、生まれ、成長し、老い、やがて消えていくという有限の運命を背負っています。

だからこそ、人は「永遠」に憧れます。

しかし、永遠とは、本当に果てしない時間の彼方にあるものなのでしょうか。

 

 永遠は限られた時間の中の「至高の一瞬」に、すでに現れているとも思えます。

 ニーチェは「永劫回帰」で、同じ瞬間を永遠に繰り返すとしたら、それを肯定できるかと問いました。その瞬間を心から受け入れられるなら、それは永遠と一つになる体験だといえます。

 東洋思想では、禅の「一瞬即永遠」、つまり、「いま、ここ」を真剣に生きることで永遠が開かれると説きます。茶道の「一期一会」の心は、その象徴です。

 

 音楽や文学の世界でも、一瞬の表現が時間を超えて人の心に残ります。

音は消えても、感動は永遠に響くのです。

 

 私たちの日常にも、好きな人の笑顔や自然の美しさに触れるひとときなど、永遠を感じる瞬間があります。そのような体験では、時間の流れを忘れるでしょう。

ただ「いま」に生きている自分を感じるものです。

 

 永遠は遠い未来にあるものではなく、私たちの「いま、この瞬間」に宿っています。

それを限られた時間を全身で味わうことができたとき、至高の一瞬は永遠へと変わります。

永遠を探し求めるのではなく、目の前の瞬間を大切に生きることです。

それこそが、永遠を生きるということなのです。

「声と宇宙」

この世でのわずかな滞在において

歌や踊りは、その時空を超えるものとして

継承されてきたのでしょう。

 

見たり聞いたりするのもよいが

自ら身体を動かしたり声を発する

そのことで一体感が生まれる。

それが祭りであり、飲み会でもあったのであろうが。

 

スポーツでも作業でもよい、

それが一芸となり、

孤を破ったとき、

意識は宇宙につながる。

 

死もまた、そういうものと思える。

なら、生きているうちに

どれだけ死ねるかということである。

 

またや、ゆく年くる年、

終戦後80年、昭和で100年、

そんなことを考えます。

 

 

PS.

昨年は、小池マリコさん♯という

ファン、同志、仲間いえば失礼であろうが、

親密な知人を失いました。

 

さよならだけが人生だ、が、

それが日々、日常に降りてくる年齢となりました。

感受性も変わってきたように思います。

 

 

#「さよならだけが人生だ」

井伏鱒二が、中国唐代の詩人・于武陵の漢詩『勧酒』の「花発多風雨 人生足別離」(花が風雨に散るように人生は別れの繰り返しだ)を意訳「はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ」

 

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訃報

 

今春、かつて銀巴里にも出演されていた小池マリコさんが亡くなりました。

コロナ禍明けに、招いていただいた仙台でのレクチャーが最後になるとは思いもしませんでした。

今年は、いつもいただいていた、だだちゃが届かず、その後、会報誌が戻って、亡くなったことを知った次第です。

あまりにも表に出ていないので、ここに公にして、ご冥福をお祈りします。

(ここで学ばれていたことは、どの本人プロフィールでも公表されています)

 

 

♯小池マリコ (Mariko Koike)

伝説の銀巴里で長年にわたりシャンソン歌手として、仙台から毎月通って出演していた。

宇井あきら氏、有馬泉氏に歌唱を、福島英氏にヴォイストレーニングを師事。

昭和51年に仙台市内にシャンソニエ「プティシャンソン・エル」をオープン。

「とにかく素晴らしい、良い声の歌い手の方でした」と、その実力は非常に高く評価されている。

 

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音信

 

 ご本の増刷のこと、やっぱりねと嬉しく思ったり、お送り下さっている会報に恐縮したりして過ごしておりました。このだだちゃ豆を、仕事の合間にでも召し上がって下さいと山形(カルチャーセンターでの出張先)から送ったことがありました。そのことに、先生は葉書をくださいました。

先生は心のある方だと、いつまでも思い続けています。

山形にいて、そのことを思い出し、行動であらわさねば思わないも同じと、このような行動をしてしまいました。

レクチャーを実現してくださった喜びは、本当に嬉しくて、これに応えるにはきちんと出来る人たちを作ることだと思っております、微力ながら。

ずーっと昔に、福島先生のお話をもっともっと吸収したいと欲した私の勘は間違っていないと今更ながら自分の勘をほめてやったり。

どうぞ、お身体をご大切に、私たちのためにも。

またお目にかかれればいいのにな、と思ったりしております。

皆さんに、よろしくお伝えください。7/3

 

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 私ごとですが、10年間共にしてきた、左足甲のしびれから解放されたくて、さる103日に、総腓骨神経徐圧手術を受けました。ようやく、不快感とさよなら出来て、やってもやらずとも後悔ということの、良い方が残りました。全身麻酔の施術なので、麻酔科の先生が気を利かせたのか、細い管を使うということでした。

術後、先生が私の声帯のことを言いました。立派な声帯だと。

そして去り際にもう一度、今まで見たことないくらい立派な声帯だと。

そのことはこれまで実感出来ていませんでしたので、どういうこと?と思いました。

福島先生の事を知り、ずーっと先生のお考えだけを頼りに自分なりに解釈して今日まで持ち続けて行動して参りました。そのことが、今の私の声帯に表れてるとしたら、先生にご報告せねばとずっと思っておりました。

本当に先生との出会いがうれしくて仕方ありません。

先生を尊敬し続けてきたものが、今このようになっておりますと報告まで。10/15

 

-

 

返信(抜粋)

 

 声帯は、きちんと使われていると、若さを保つことができます。歌はせりふよりも、よい保全効果があらわれます。それも浅く癖をつけた歌い方ではよくないので、声帯の健全さは、自分自身の身体に合った使い方の習得によるものです。

 歌い手や役者というお仕事を続けられるのは、すべてを兼ねられていることです。

 

 私も今は、第一に身体づくり、第二に声の保持を心がけています。愚鈍なりに継続することは守っています。少し手間暇がかかり、面倒なことを人生の友とすることを新たに挑んでは、続けることをお勧めしています。

 私も真意の伝わらないことの連続で、日本の歌の世界との距離が縮まらないのですが、だからこそ、本質的なことに専念できると開き直って続けています。時代や国を超えたところまで、自分が抜け切れば、もっと伝わると思っています。

 

 私は、若いときから本を出してきたお陰で、いろんな分野の第一人者から教えを受ける機会、実践する機会に恵まれてきました。著書も会報も、一人では続かなかったでしょう。

  これから出会う人、今、接したり、通っている人、なによりもここを出てから、活動している人、そして、活動をやめてしまった人を念頭に、いつも述べています。 

「マンガと歌」 No. 412

私が思うに

ことばと絵画の間に、マンガがあり、

ことばと音楽の間に、歌があります。

 

私にとって

表現での位置づけは、同じなのに

どうも、日本では

そして、現代社会では

マンガが歌より、

視覚が聴覚より、

表現の可能性を謳歌しています。

 

視覚以外のセンサーデバイスが発達すれば、

視覚の優位性は、少しは崩せるのでしょうか。

 

私的には、

視覚でのテレビやスマホは、長時間では、心身にダメージ のような疲れを残し、

聴覚でのラジオやレコードは、その心身を回復させていたような経験があるのですが。

「今を出し切る」 No. 411

ここの仕事は、声の力を伸ばすことです。

たえず相手や時代に合わせて

リニューアルしてきました。

それでも長く続けていて

変わらないこともあります。

 

グループレッスンで

行っていたときも

初月から発表のステージを

設けていました。

 

「これから始めるのに?

「早すぎるのでは?

 

いえ、声や歌は、誰もが接してきたものだから、

今、この場で出せるものをすべて出し切る、

なまじなものは、使えないと知ることです。

そのことで入れることができる、

キャパが確保できるのです。

 

ほとんどの人は、

すべてを出し切りません。

出し切れません。

出し惜しんでいるわけではないのでしょうが、

これまでの自分を守っているのです。

あいまいなままでいるのです。

 

声や歌が、なかなか上達しないのは、

まさにあいまいであることが許されているからです。

 

それでは、新たなものは宿らないのです。

大きくは変わらないのです。

 

これからの可能性を最大にするため、

まずは、今あるものを

常に出し尽くせるように

臨んでみてください。

 

スタートとゴールは、 一緒なのです。

「推しという生き方」 No.410

私が声に関心をもったとき、 

それは声を鍛える、喉を鍛えるということでした。 シンプルにいうと、声を大きくすることです。 それは、声を太くすることでもあり、 

パワフルにする、 

つまり、大人の声、 

より男らしい声にするともいえました。 

時代としては、戦後まだ軍隊の価値観が 

経済の高度成長の元、学校や企業教育に継承され、 心身ともに強健に、という流れがありました。 アニメは、科学とスポ根ものでした。 

バブルがはじける頃から、その反動か、 

戦え、強くあれという価値観が消えていきます。 

卒業までは髪の毛をのばした団塊世代の男性は、 厳しい競争原理のなかで心身を鍛えていき、 令和のいま、ハラスメントの温床ともなっていますが、 男女平等、差別禁止の改革のなかで 

強くなること、鍛えることは、 

とくに日本では、失われてきたのでしょう。 

家庭でも学校でも、社会に出てからも、 

強くなれ、鍛えろ、とは、教えられず、 

弱くてもそのままでいい、 

声をあげろ、訴えろ、逃げろと 

教育された。 

その結果でしょうか、 

自分を鍛えるまえに 

権利の主張と 

他の人や社会への批判ばかりするように 

なったようにも思うのです。 

心身を鍛えていないので、傷つきやすく 

何事もうまくできない、 

できるように克服してきた経験がないなら、 

なおさらです。 

どの時代でも、 

強く美しいものが 

価値をもつのは、変わりません。 

世の中も大きくは、弱肉強食で動いているのです。 

結局、思い通りの人生を手にしているのは、 強く美しい、そういう人たちでしょう。 

むしろ、中間層が弱体化したため、 

ますますそことの差が開いているのです。 

推しが生きがい、なのは、 

何もないよりはよいと思います。 

私も、推しをたくさん見つけています。 

でも、それは、私の人生では最終コーナーからです。 

若いときには、推しより、「推され」になろうと 努力したほうがよいように思うのです。 

以前「あらゆる人に感謝して生きようと思う」と言った人 に 

「それより、あらゆる人に感謝されるように生きようとし たら」 

と言ったことがあります。 

なんか、今の日本、ひっくり返っているように 思うことが多いものです。 

「表現者の時代」 No.409

表現は言葉にした時点で固定されるため、

完成の見極めが難しいものでした。

 

モーツァルトのように

最初から完成させた作品をつくれるのが理想ですが、

未完成でも発表し、後に修正・更新することで

力をつけるプロセスに入ることが、大切です。

 

早く発表する機会、ツールがあるので、

今の時代は、チャンスにあふれています。

 

どうぞ、ポジティブに活かしてください。

「SNSバカ」 No.408

おもしろい、わかりやすい、楽に楽しく

とでもいうことが、

第一の価値のようになりつつあります。

それは、単純に考えると、

バカ。

バカから抜け出せない、

つまり、バカになるということです。

 

私たちの世代は、

「漫画ばかりみているとバカになる」と言われて

育ちました。

今になってみると、

「そうでなかっただろうが!」

といいたいのですが、

この低迷する日本をみていると、

もはや、そうはいえないのです。

 

SNSは、その漫画に当たる、いや、

それ以上に影響が大きなものに思えます。

 

自分たちがバカだとわかるのは、

それがわからないよりも

バカではないのですが。

SNSは、それを隠蔽します。

 

いつの時代もいる

それがわからないバカ、

それが増えるかどうかが

これからの大きな問題です。

 

国内にバカが増えると、そうでない人は、

何となく相対的によいようなものの、

結局、国の力、芸の力が落ちるので、

経済的にも生きがいでも

不幸なのです。



SNSばかり見るのはやめましょう。

やめさせましょう。

「レジリエンスとレベル」 No.407

ボディビルダーの筋肉やモデルの美も、

生きていくための仕事で鍛えられた人の肉体には、

実用性では、かないません。

体力、忍耐力、持続力などにおいては。

 

健康オタクより、

アスリートや肉体労働者の方が

健康でしょう。

レジリエンスも高いと思います。

 

これは、声も同じです。

 

ヴォイストレーナーやカラオケ名人、音大生などと比べて、

ストリートや舞台で、毎日、歌うヴォーカリスト、

あるいは、お笑い芸人、役者などは、

喉が強いと思われます。

適応性がすぐれているのです。

 

学業や資格の勉強と現場仕事との違いように、

頭で学んだことは、現場での体験の蓄積には、

かないません。

パワフルさやダイナミックさなどでは。

 

いろんな知識があると、タイパ、効率よく動けますが、

そのため、無駄や無理した経験に乏しいため、

無駄、無理が求められる現実、

ハードな現場には、弱いわけです。

 

でも、自分の身体の限界、自分の体験の限界を越えるには、

こうした量、レジリエンスから、質、レベルの向上に至るには、

自分、そうした経験を超えたものに学ぶ必要があるのです。

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