5.プロフェッショナルの伝言

「学ぶ力をつけていく」 

研究所では、以前なら、とりあげなかったアーティストをとり込んでいくようになっていきました。時代も変わり歌の役割も、そして、ここにいらっしゃる人も多様になってきたということです。

本当のアーティストは、CDやたまにみたライブ、TV、ラジオなどではうかがいしれない底力をもっているものです。日々のプロセス(トレーニング)は知る人ぞ知るものです。

それゆえに論じにくいものです。選りすぐるにも、我が出ざるをえません。そこで複数の価値観、多様性を身につけていく必要もあるのです。

 

長く同じ人と同じところにいると、しだいに甘くもなり、よいところだけ、あるいは悪いところだけをみるようになってしまうわけです。気づかずに固定観念から先入観になり、クローズしてしまうものなのです。

そうならないために、こういった情報があるのですが、活かしていますか。

たくさんのものに、あるいは深いものに深く接していますか。保守的にならず、新しい風をいれていますか。

 

たくさん学んでいた人も、あるところから学べずにか学ばずにか、変わらなくなるものです。

何からでも学べる人は学べます。すぐれていく人、学ぶ力をつけていく人にとっては、何事もそこにあればそれだけで意味があるからです。 意味が生じてくるように、その人が得ていくからです。

でも、多くの人はまわりの人に認められ、通用するようになったことで学べなくなってしまうのです。自分の外にあるもので定めてしまうからです。もったいないことです。自分以上の内なるものとの対話を大切にしましょう。その上で、意味をつけ価値としていくのは、あなたなのです。

「金足農の全力の校歌斉唱」

猛暑の中、もっと頑張っている人たちを見ていると、

元気になるものです。

決して100メートルも歩かないで、

熱中症でへばった犬を思い出してはなりません。

ということで、夏は甲子園。

 

強豪校相手に勝ち抜き、試合後の校歌を、

一昨年秋から体を大きく反って

全力で歌い上げるようになった、

 

最後の最後には、歌われなかった

金足農の校歌を紹介しましょう。

 

1928年の開校。校歌の作詞は近藤忠義氏、

作曲は「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」などの

岡野貞一氏。

1番だけで約1分半ほどあります。

金足農野球部は、あいさつや試合中の声かけなど

すべてに「全力の声」を出します。

なんと「声は技術」をモットーに掲げています。「声を出せば気持ちが高まり、集中できる」ということでしょうう。

 

可美(うま)しき郷 我が金足 

霜しろく 土こそ凍れ 

見よ草の芽に 日のめぐみ 

農はこれ たぐひなき愛

日輪の たぐひなき愛

おおげにや この愛

いざやいざ 共に承けて

やがて来む 文化の黎明

この道に われら拓かむ

われら われら われら拓かむ

「縁ときっかけ」

誰もが人であれば人の縁あって、今、ここにいるわけです。それは、ここに限らず、これまでもこれからもどこでもいつでも、です。そうであればこそ、その縁をどれだけ活かせるのかが大切なのは、言うまでもありません。

縁とはきっかけです。昔は、きっかけとなった人や場をとても大切にしたものです。「それで知った」「そこで出会った」、ということの最初、原点、それは初心ということでもあります。

どこでも、100人いたら90人は十を一に、9人は十を十に、1人は一を十に活かすというくらいではないかと思います。最初は、一しか学べなくとも10回くり返せば十学べます。100回くり返せば百学べるかもしれません。少しずつでも、一つから多くを学んでいけるように学んでいくとよいと存じます。そうして、もっと、場を活かすように、といつも願っています。今、ここで、その後の何かの縁となった人や場をないがしろにしてはならないと思うのです。

「疑い否定し超える努力」

昔からの慣習が改まらない業界は意外と長くどこにでもあるようです。それは、保守的なことにあこがれる人しかいなくなるからでしょうか。

「自分の方法が一番すぐれている」と疑わない。

「他の人のは、間違っている。」「自分は他の人とは違い、正しい」と思う。だから「他の先生は、わかっていない」となる。

「自分が全ての人を育てた」と思っている。「間違っているのを直し、自分が正した」とか、「間違って教わっているのを救った」という。誰にでもそのようにいうのをやめられない。

その裏付は、「自分自身できなかったり間違っていたのを、自分の努力、もしくは偶然の出会い(権威筋や外国人)によって、救われた」だから、「その方法が正しい」だから、「あなたにもよい方法だ」そして、「他の方法をやめることだ」というのです。

そうした権威づけで洗脳されてしまい、先生を一生越せない弟子になってしまう人は多いものです。それもその人の人生ですが、もったいないことと思います。

 

最初は、自らを疑い、肯定でなく否定する材料を求め、それを超える努力で、誰でも上達していったはずです。 

なのに、いつしかそれを忘れ、自己肯定にまわる、指導する立場になると、さらにそうなりがちです。

しかし、そこで生徒がそれをまねていくとどうなるでしょう。つまりは、そうでないことを学べないし、留まってしまうのです。先生も生徒もなく、そのことをいつまで忘れないで、疑い否定し超える努力をどこまで続けられるかです。

「火事場のバカ力と祈り」

考えてみれば、幼い頃から不安ばかりに過剰にあおられていました。いつもギリギリ以上に無謀でした。いつか安定するかと思いつつ、こうして人は、いえ私は齢をとっていくのだと悟りつつあります。

今、75歳の人なら、今日までの幅を生まれる以前にとれば掛ける2150年前、明治維新になります。平成の終わりをまえにして、世界も狭いし人の歴史も伝わる分には短いと思えてくると、人は狭く短いなかに深遠なものを求めていくのでしょうか。

 

話したり文章にしたりしても、現場で声と戯れているということ、はたからは、わからないとかつまらないように思えるであろうことほど、私に安堵をもたらしてくれるものはありません。

求められもしないことを過剰に求め、いつもできなくてぼろぼろで、たまに大火事になって、そのときだけのバカ力でのりこえて、つまらないものがつまってしまわぬよう、その火が消えぬよう、祈りのように続けているわけです。

「人生の意味」

質問で、結局のところ、人生の意味とやらいうようなことに関わることを聞かれると、いろいろに答えてきました。わかっているようなつもりで、あまり自分のことでは考えてこなかったように思うのです。

仕事も人の出会いもそれなりに、創ってきたつもりですが、それも与えられたのかと思います。仕事も感情も自分以外の相手に向けられているものであり、自ら、意味を問うまえに、そういうものから問われてきたように思えるのです。

年齢を重ねると、知人の死に出くわすことが多くなります。仕事や親しい人をなくした人にも会うようになります。ときに仕事も関わる人もないところでは、何が自分に問いかけてくるのかと、考えるようになってきました。

これからくる未来へイマジネーションを働かせ、そこに使命や責任を感じ、モティベートの力にすること、そこで、人生の意味が生じてくるのかなと感じています。

「これからのこと」 

このシーズン、学校などに挨拶に伺います。

今春、話したのは、次のようなことです。

 

日本はこのままでは、10年以内に政治、経済、企業も壊滅しかねないこと。

 

DNAで、チンパンジーと1.06%しか差がない人間。

人間中心、個人中心、自分中心、何でもハラスメント、自国ファーストのはびこる時代に己を無とすること。

 

精髄ということば。

 

通学路、いつも歩いている道をいつものように歩くこと、

いつも歩いていた道を思い出し、意味をもたせること、

そして、自信、キャリア、初心、原点とすること。

 

面倒なことを手間をかけてやることが、価値になること。

「プロとサービス化」

教育のサービス化は、よくもわるくも、標準化、平均化を推進します。日本のような気風の社会ではすべてが同質になりがちです。

私は教えることを生活の糧としては、あまり考えないように生きてきました。先生が、門人、門下生、弟子、生徒を抱え、そこで生計を立てて頑張ろうとすることは、悪いことではありません。まさにプロの仕事として教えることの責任を伴います。しかし、相手に関わることからそこにいる時間を義務として負ってしまうことにもなります。創造や革新よりも、おのずと人を通して、その場や体制を守ることが第一になってしまいます。(教えるのを生計と生活の場とするシステムが、家元制ともいえます。)

教育はとても売り買いできません。確実に独り立ちさせるところまでと、そう考えるなら持ち出しが多すぎて、続かなくなります。経営破綻で多くの教育事業や文化事業はつぶれています。教育や文化活動は、採算だけで考えては続けられません。改革も必要です。それをAIITのインフラが助けてくれるなら、素晴しいことだと思います。システムもお金もあくまで補助であって、成したことの評価は後世を待てばよいのです。

年齢をとり経験をつまなくてはわからない意味が、ここにいらっしゃることで少し早くわかるようになればよいと思います。すると、年をとることが楽しくなります。

何をどう成し遂げていきたいのかを学びましょう。

「立ち止まる」

自分のものが出てくるまで、立ち止まって、学んで待たなくてはなりません。なのにそのまま、止まらず素通りしてしまう人が少なくありません。

そこを、自分の好みだけで決めてしまうからです。自分で限定してしまうと、多くの場合は、より深いもの、本質的なものが除かれてしまいます。

好みというのは、偶然に過ぎないことが多いからです。偶然が必然であり、出会いなどがすぐに起きることもときにありますが、多くは違います。

まず、その扉を開け、先をみせてくれる人、世の中への窓を開ける場に出会うことです。

それが次の出会いを必然にもたらしてくれます。それが故人であったり作品や書物であったりすることもあります。

「オリジナリティを開花させる」 

今年は、日本の文化や世界の三つの宗教を学びつつ、世界情勢をみていました。

そこで感じたことはオリジナリティの重要さです。オリジナリティがあるからこそ、他のものを素直に受け入れられます。オリジナルをもっていないと別の物、異質のものを本当の意味では、余裕をもって取り込めないのです。取り込まれてしまう恐れが出てくるからです。

対立してしまうのは、似ているからです。それは大きくは、違っていない、同じことだからと思います。対立してけんかしているつもりの二人は、外からみると似たもの同士です。 

同じもの、同じことを長く続けていてこそ、はじめて異なるオリジナリティが出てくると思うようになりました。なぜなら、異なることを認めるには、同じことが共有されていないとならないからです。それを導くのがこの場であればよいと願っています。

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