5.プロフェッショナルの伝言

「声や歌とは何か」 No.368

「どうして」の問いに対しては、「どのように(how)」と理由を答えるか、「なぜ(why)」と意味を答えるか、の2通りがあります。

声や歌は「どんなものか」は答えられるでしょう。でも、「なぜあるのか」には、そう簡単には答えられません。

「私にとって」での答えは、一般的には当てはまらないかもしれないし、個々にいろいろな答えがあるのでしょう。

でも、考えてみましょう。シンプルに「楽しいものだから」でよいのかもしれません。

「主体的であれ」 No.367

ロケット博士の糸川英夫は、「乗り物に酔うのは、外からの影響に受け身で対するからで、自分が揺らしていると考えたら酔わない」と言っていました。主体的であれということです。

自分の学んでいる場は、自分のために使えるところです。なのに、自分のものだという自覚がないと、もったいないことです。

自分からきれいにしようとか片づけようとしないようになれば、そこは、学ぶ場として成り立ちません。

研究所も、街も、日本も、地球もそうであるのです。是非、まずは自分のものとして大切に使ってください。

「内なる声と真の感情」 No.366

個人<種としての人間<人類<生命と考えを広げてみると、自然界との共存に至ります。今のことばで言うと、サスティナブルな社会の実現につながります。

人間らしく生きるのは、精神と肉体のバランスを調和すること、私たちを取り巻く自然環境の中には、人知を超える叡智が満ちあふれています。

内なる声を客観視することは、ことばによります。しかし、音楽や舞踏のように、ことばにせずに声で感情を解き放つことで、生命の原点に触れられるのです。

「理論化する」 No.365

一見、全く新しいものを生み出すようにみえても、多くは、過去のすぐれたものの再構築、つまり、再生です。しかし、それゆえ次代の真実になる可能性があります。

誰かが初めてつくったルールや技法は、その前には、なかったゆえ、達観で生じたものです。そこに学ぶには、大きな想像力がいるのです。

そこから自分なりの理論を打ち立て、方法論を確立していくことが、大切なのです。

「生活行」 No.364

『行の訓育』(1939年、土方恵治)では、「霊肉一体の全身全霊を以て行ふ真剣なる自然即価値の作務を行うといふ」、これは頭と胸と手足を肚に統一する訓練です。

つまり、「生活行」です。

掃除では、まず合掌の姿勢をさせ、校長が皇祖神の正面を向き、全身全霊丹田より誓願を発声します。日本精神のあふれた曲を聞き、歌うことで、日本魂を培い、日本精神を発展させる。音楽は感情を純化するので道徳教育にふさわしく、和の精神が表れる。

 

日本では、一時、そのようにも偏って利用されてきたことを忘れてはなりません。

しかし、そのように使うことでのよさもありますから、要は使いようなのです。日常生活と心身(と発声)の合一こそが、理想の境地、活動のベースとなるのです。

「『日本スゴイ』としても」 No.363

確かにすごいものがある日本に生まれ、「日本スゴイ」と思えてくるのは、悪いことではありません。すごいもののある日本には、すごい人がいて、日本も、ある分野ですごかったりはするのです。

しかし、自分がすごいのではないのであり、日本や日本人が褒められても、自分自身は何らその対象ではないのです。

でも、それに乗せられると、自分もすごいと思い、すごいもののために頑張る構図ができてしまうのです。自ずと、その誇りに使命感がでて、知らずとその権威筋からの命令に従うということになります。それによって、すごくないように思った人を差別していきかねません。

世界中にすごいものがあるし、そういうものをつくった自然もあり、人もいて、いろいろと確かにすごいのですが、それは、そういうものやそういう人をみて、すごいと思っているだけなのです。

そこは、もはやグローバルな世界においての評価であって、少なくとも、あなたや私のものではありません。

日本文化論と日本精神論、その勤勉や道徳の普及は、大戦開戦前後にもっとも高まりました。それは日本が発展後、停滞し、追いつめられていたときです。

今は、どういう時期なのでしょうか。

「バズるより、主体となる」 No.362

問いが大切というのは、主観的なものだからです。つまり、あなたのもの、あなただけのものです。

いくら共感を呼ぶもの、多くの人が「自分も同じ思い」と感情移入できるものを目指したいとしても、それは、結果、答えのようなものです。

問うことであなた自身が自分を知っていくことからスタートです。逆ではありません。

そして、あなた自身が終点でもよいと思うのです。とことん、あなたのことを問えばよいのです。

それがどこまで共感されるか、バズるかなどは、そこからの波及効果です。つまり、波に過ぎません。まず、自分の手で自分の石を投げることです。その影響力や結果を最初に計算する必要はありません。 

「答えあわせしない」 No.361

日本では、目的に問うことを抜かして、答えあわせを学んでいるので、表現に辿りつけません。それに気づかないことが問題です。問うこともなく、時間だけが経ってしまい、才能や素質がなかったとあきらめるのです。自分のことなのに、まわりの評価だけを頼りにやっているからです。それは、問わずに答えを求めたところで、すでに違っているわけです。

他人をまねたり、トレーナーのトレーニングを受けたりするのは、スタート前の準備段階です。それで歌えたりトレーニングの課題ができていっても、本当の問題は、そこからです。

ですから、私は、声をどう使うかを先に(遅くとも、ここでのトレーニング中からは)しっかりと考えていくように言っています。できるだけ早くから、問うように、ということです。

トレーニングは、目的ではなく、ツールの一つにすぎません。そういうことを言わなくてはならないほど、みえにくくなっているのです。

「先人研究」 No.360

自分の個性の発現に役立つトレーナーなどは、簡単にはみつからない、いないものと思ってもよいでしょう。他の人に頼るところから依存心が増していくのはよくないことです。

やさしくていねいに教えてくれるトレーナーほど、すぐに役立つように思えてしまいます。しかし、それは、本当には役立たないものです。肝心なことしか教えてくれないトレーナーをどう利用していくかと考えることが大切でしょう。

トレーナーも相手によって変わるので、「トレーナー」を「こと(内容)」とおきかえてみてもよいでしょう。

先人を研究することは、重要です。そこで、何が必要とされ、何がなされたのか、結果、どう評価されてきたかは、あなたのシミュレーションになるからです。トレーナーもこの先人の一人となります。

そこで成し得なかったことをつくり上げるには何が必要かを知る、つまり、そこで行われなかったことを具体的に知っていくことが必要なのです。

「プロとアマのトレーニング」 No.359 

トレーニングは、そのことに向いていない人にも有効であってこそトレーニングといえます。

アマチュアでうまくなるトレーニングとプロになるトレーニングは違います。アマチュアのトレーニングは、目的によっていろいろとあります。得意なことや好きなことを優先してよいからです。誰もが共通して身につくところが中心です。必ずしも全ての能力の鍛錬を必要としなくてよいのです。

プロのトレーニングは、もう向いているか、向いていないかは問いません。自分の強味を知り、最大限に活かし、弱味も徹底してなくします。目的は限定され、個別に価値を高めていくこと、そして、維持することに重点をおきます。

より以前の記事一覧