5.プロフェッショナルの伝言

「スキルが伸びるとき」 No.421

「スキルが伸びるとき」

 

何でも上達が止まり、先生の指導が理解できない時期は、誰にでも訪れます。

そこで「今は理解できなくても、これには絶対に必要な意味がある」と直感できるかどうかが、成長の分かれ道です。

 

 伸びる人は、わからないときに諦めるのではなく、次のような問いを持ち続けます。

「指導者が本当に伝えたい意図は何だろう」

「このプロセスの先で、自分はどう変われるだろう」

 

 問いを止めずにいると、ある日突然、腑に落ちるブレイクスルーが訪れます。

 

 自分へのメッセージだと直感しているのに、意味はまだ分からない状態を大切にしましょう。

 真に上達する人は、わからないから諦めるのではなく、わからないからこそ、価値があると信じて問い続けられるのです。

「銀河も空も世界を描く」 No.420

「銀河も空も世界を描く」

 

私たちが世界と呼ぶものは

脳が描きかえたあとの景色

私たちの瞳は ただの窓ではない

膨大な星屑から 見たいものだけを選び出す

 

大好きなお母さんの笑い声さえ

ありのままの音ではなく

いつもの あの人の声と

やさしく加工されて耳に届く

 

ある賢い人が

「人間がロボットのように見えることがある」という

それは身体が鉄でできているのではなく

私たちの心が決まった影絵しか見ないから

 

見ていない場所は この世に存在しない

夜の向こう側も机の暗がりも

意識にとまらないものは

銀河の外側へ消えていく

 

脳は外の世界を受け取らない

まだ来ぬ明日を先に描く

その下書きに合わせて

現実が形を変えて現れる

 

同じ空を見上げていても

その空は みんな違う

世界はひとつではなく

見つめる人の心の数だけ

今日もゆらいでいるのです

「お笑い芸人、俳優、歌手のタレント化での政治的沈黙」 No.419

日本の芸能界は、かつてない静けさに包まれています。戦争があろうと政治変革があろうと、オピニオンリーダーたる主役たちは、本音を語りません。マスメディアでのMCやコメンテーターのことばは、空虚なまま、その時間枠を埋めて終わります。

 

 AIが炎上リスクを監視し、SNSが真意を切り刻む現代。かつては、個性と思考と表現の象徴だった言葉が、牙を抜かれてしまいました。

 CM契約を吹き飛ばすリスクとならないように、タレント化して、自らを無色透明な空っぽに、肝心なことは沈黙に葬ることで、生き残りを図っています。体制と同化し、既得権益の保守層と成り果てました。

 ファンが推しに求めるのも、また現実の政治を忘れさせてくれる安らぎです。そんな期待に応えようとする彼らの沈黙は、ビジネスとしては正解ですが、表現者としてはあまりに哀しく虚しくみえます。

 本来、芸人や歌手は独自の表現を持つ存在です。それにもかかわらず、発言を控える空気に飲み込まれていく現状には、忸怩たる寂しさが残ります。俳優、声優は、役になり切るのですが、タレントや歌手、芸人は、まさに独自の表現が、売りもののはずです。

 なのに、皆、私たちも含めて、同じように、この動きに飲み込まれていくようでは、日本に未来はないでしょう。日本の美徳、和の世界では、こうして空気が動かすどころか、空気さえなくなっていくのでしょうか。

 

 

#『日本の芸能界、政治的発言が沈黙の理由』音楽に関する希望論は、『日本のポップ・ミュージックと政治』(ともに『副・真のヴォイストレーニング』はてなブログに詳細)

5月のfukugenにも類似記事あり

「時間をかけ、精査する」 No.418

武道やスポーツなら、プロの身体の動きとの違いは、誰でもわかるでしょう。でも実際に稽古をするときに、その違いは、わかっていてもできるのではありません。そうでなければ、稽古をする必要がありません。

 

 ヴォイストレーニングも同じです。

 力を抜いてと言われて、言われたとおりに歌ってみれば、きっと力が抜けて全然、声が出ていないと言われるでしょう。トレーナーと同じように、力が入るところは入れて、あとは解放というようにできるのであれば、そういう注意は、受けないでしょう。

 

 トレーナーの言うことが、いくら正しく、そうしようと思っても、そのときにできるわけがありません。仮にできたといわれても、できたつもりになっても、それは、本当の必要の何十分の一なのです。ただ、この必要というのが、そもそも、曖昧なのですが。スポーツなら、最高記録があるので、わかりやすいです。

 

 誰でも、力を入れて歌いたいわけでも、力を抜いて歌おうとも、思ってはいないでしょう。

自由に楽に気持ちよく、歌いたいわけです。

 

 でも、それができない。あるいは、そうやってしまうと、歌い流してカラオケみたいだとなってしまうでしょう。それが全部、できていたら、レッスンの必要もないのです。

 

 それができていないことを知って、常に原点に戻って、呼吸やフォームから、正していくことが、学ぶということです。

 

 トレーニングには、時間がかかります。時間をかけて、状態と条件を整えていくからです。そのプロセスをチェックして促すために、レッスンがあるのです。

 

 トレーニングは、時間をかけないと身につかないのです。

いや、身についていないものを身につけるためにこそ、トレーニングという時間があるのです。

 

 

補足

 

 私は今、体力と筋力の強化保持と柔軟のために、プールに通っています。

 そこで、他の人を眺めてみると、自己流で泳いできたか、どこかで習った選手だったかどうかは、ほぼ一目でわかります。たぶん、あなたが見ても、大体、わかるでしょう。

 

 きちんと習った人は、最小の力で最大の推進力を得るフォームを身につけているからです。速くなくとも美しく泳いでいるのです。それは無駄がなく疲れない泳ぎです。

 

 私は、中学でバスケ、高校で水泳、そして学生時代にクラブのプールで子供たちに教えた経験があります。いくら正しいフォームを教えても、身体がそれを使えるように、筋肉がつき、肩関節がまわり、感覚が変わるまで、できることはないのです。

 

 歌や声とスポーツは、同じものではありませんが、肉体芸術と捉えるなら、共通するところは多いものです。当時の私は、力でなく、感覚で精査する術を知りませんでした。一流選手のフォームをみて、自分のフォームをビデオでみて、チェックしていたら、もっと伸びたと思います。

 

 今、力づくで泳いでいる人たちも、もし録画して自分の泳ぎを見たら、ずいぶん無様だと思うでしょう。あの桜木花道が2万本フリースローの練習を課せられて、自分のシュートの録画を見たとき、そう思った、ようにです。

 バスケも、一年くらい基礎練習を続けると、手のスナップだけでフリースローができるようになります。膝でシュートという意味もわかるのです。ドリブルでボールが手に吸い付くようになります。誰でも正しい練習を積み重ねれば、素人の域は脱することができるのです。

 参考になれば、と思います。

「ルーツ」 No.417

昔は、よく、ここに詩を載せていたものです。

みなさんを鼓舞するものでした。

それが今は、こういうものになりつつあります。

 

 

「花、ルーツ、そして愛」

 

あなたの名を呼ぶたびに

胸の奥でひとつ花が開く

雨の朝にふと香る

土の気配のように

あなたは私のルーツに

いつしれず触れてしまった

 

世界がまだ幼く

言葉より沈黙のほうが

真実を語っていた頃

あなたの笑い声だけが

私を外界へと導いた

 

#

花は咲いて 風に揺れて

名前もなく 空へ還る

愛はきっと 形を持たず

私のなかで 根を伸ばす

離れていても 失われず

あなたは今も ここにいる

 

2

季節が幾度巡っても

同じ空は二度とない

それでも足元に残る

あなたの足跡を辿って

私は今日も歩いている

 

過去はもう触れられず

未来さえも曖昧で

それでも確かな温度が

この胸に残っている

あなたがいたその場所は

今も静かに息をしている

 

#

花は咲いて 風に揺れて

傷を抱いて 散ってゆく

愛はきっと 終わりじゃなく

巡りながら 続いてく

離れていても 失われず

あなたは今も ここにいる

「しぜん、身体、声、現実」 No.416 

現実の感覚は消してはならないのに、

しぜんを人間の意識が排除して、

世界は、都市化、そしてバーチャル化していったのです。

 

人がいないところ、見ないところは、

人にとっては、本来、存在しないのです。

少なくとも、その人にとっては、存在しません。

脳が、自分の世界を決めているからです。

 

頭は、自分の先を予測をして、それを実現するように

コントロールしていきます。

これが、自己制御、自己管理です。

 

身体は表現、その人の証明です。

だから、人は、声であいさつして、

握手して、確認したいのです。

 

今の医者は、検査の結果データで診ています。

画像と数字だけで判断するのです。

そこには、しぜんのままの身体は出ていません。

 

道から型へ

こうすれば、こうなるというのは、進歩です、頭です。

そのはずが、そうはならないのが、現実の世界です、身体です。

「声のトレーニングの極意」 No.415

私たちの人生は、絶えず流れる時間のなかにあります。

誰もが、生まれ、成長し、老い、やがて消えていくという有限の運命を背負っています。

だからこそ、人は「永遠」に憧れます。

しかし、永遠とは、本当に果てしない時間の彼方にあるものなのでしょうか。

 

 永遠は限られた時間の中の「至高の一瞬」に、すでに現れているとも思えます。

 ニーチェは「永劫回帰」で、同じ瞬間を永遠に繰り返すとしたら、それを肯定できるかと問いました。その瞬間を心から受け入れられるなら、それは永遠と一つになる体験だといえます。

 東洋思想では、禅の「一瞬即永遠」、つまり、「いま、ここ」を真剣に生きることで永遠が開かれると説きます。茶道の「一期一会」の心は、その象徴です。

 

 音楽や文学の世界でも、一瞬の表現が時間を超えて人の心に残ります。

音は消えても、感動は永遠に響くのです。

 

 私たちの日常にも、好きな人の笑顔や自然の美しさに触れるひとときなど、永遠を感じる瞬間があります。そのような体験では、時間の流れを忘れるでしょう。

ただ「いま」に生きている自分を感じるものです。

 

 永遠は遠い未来にあるものではなく、私たちの「いま、この瞬間」に宿っています。

それを限られた時間を全身で味わうことができたとき、至高の一瞬は永遠へと変わります。

永遠を探し求めるのではなく、目の前の瞬間を大切に生きることです。

それこそが、永遠を生きるということなのです。

「至高の一瞬と永遠」 No.414

私たちの人生は、絶えず流れる時間のなかにあります。

誰もが、生まれ、成長し、老い、やがて消えていくという有限の運命を背負っています。

だからこそ、人は「永遠」に憧れます。

しかし、永遠とは、本当に果てしない時間の彼方にあるものなのでしょうか。

 

 永遠は限られた時間の中の「至高の一瞬」に、すでに現れているとも思えます。

 ニーチェは「永劫回帰」で、同じ瞬間を永遠に繰り返すとしたら、それを肯定できるかと問いました。その瞬間を心から受け入れられるなら、それは永遠と一つになる体験だといえます。

 東洋思想では、禅の「一瞬即永遠」、つまり、「いま、ここ」を真剣に生きることで永遠が開かれると説きます。茶道の「一期一会」の心は、その象徴です。

 

 音楽や文学の世界でも、一瞬の表現が時間を超えて人の心に残ります。

音は消えても、感動は永遠に響くのです。

 

 私たちの日常にも、好きな人の笑顔や自然の美しさに触れるひとときなど、永遠を感じる瞬間があります。そのような体験では、時間の流れを忘れるでしょう。

ただ「いま」に生きている自分を感じるものです。

 

 永遠は遠い未来にあるものではなく、私たちの「いま、この瞬間」に宿っています。

それを限られた時間を全身で味わうことができたとき、至高の一瞬は永遠へと変わります。

永遠を探し求めるのではなく、目の前の瞬間を大切に生きることです。

それこそが、永遠を生きるということなのです。

「声と宇宙」

この世でのわずかな滞在において

歌や踊りは、その時空を超えるものとして

継承されてきたのでしょう。

 

見たり聞いたりするのもよいが

自ら身体を動かしたり声を発する

そのことで一体感が生まれる。

それが祭りであり、飲み会でもあったのであろうが。

 

スポーツでも作業でもよい、

それが一芸となり、

孤を破ったとき、

意識は宇宙につながる。

 

死もまた、そういうものと思える。

なら、生きているうちに

どれだけ死ねるかということである。

 

またや、ゆく年くる年、

終戦後80年、昭和で100年、

そんなことを考えます。

 

 

PS.

昨年は、小池マリコさん♯という

ファン、同志、仲間いえば失礼であろうが、

親密な知人を失いました。

 

さよならだけが人生だ、が、

それが日々、日常に降りてくる年齢となりました。

感受性も変わってきたように思います。

 

 

#「さよならだけが人生だ」

井伏鱒二が、中国唐代の詩人・于武陵の漢詩『勧酒』の「花発多風雨 人生足別離」(花が風雨に散るように人生は別れの繰り返しだ)を意訳「はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ」

 

-

 

訃報

 

今春、かつて銀巴里にも出演されていた小池マリコさんが亡くなりました。

コロナ禍明けに、招いていただいた仙台でのレクチャーが最後になるとは思いもしませんでした。

今年は、いつもいただいていた、だだちゃが届かず、その後、会報誌が戻って、亡くなったことを知った次第です。

あまりにも表に出ていないので、ここに公にして、ご冥福をお祈りします。

(ここで学ばれていたことは、どの本人プロフィールでも公表されています)

 

 

♯小池マリコ (Mariko Koike)

伝説の銀巴里で長年にわたりシャンソン歌手として、仙台から毎月通って出演していた。

宇井あきら氏、有馬泉氏に歌唱を、福島英氏にヴォイストレーニングを師事。

昭和51年に仙台市内にシャンソニエ「プティシャンソン・エル」をオープン。

「とにかく素晴らしい、良い声の歌い手の方でした」と、その実力は非常に高く評価されている。

 

-

 

音信

 

 ご本の増刷のこと、やっぱりねと嬉しく思ったり、お送り下さっている会報に恐縮したりして過ごしておりました。このだだちゃ豆を、仕事の合間にでも召し上がって下さいと山形(カルチャーセンターでの出張先)から送ったことがありました。そのことに、先生は葉書をくださいました。

先生は心のある方だと、いつまでも思い続けています。

山形にいて、そのことを思い出し、行動であらわさねば思わないも同じと、このような行動をしてしまいました。

レクチャーを実現してくださった喜びは、本当に嬉しくて、これに応えるにはきちんと出来る人たちを作ることだと思っております、微力ながら。

ずーっと昔に、福島先生のお話をもっともっと吸収したいと欲した私の勘は間違っていないと今更ながら自分の勘をほめてやったり。

どうぞ、お身体をご大切に、私たちのためにも。

またお目にかかれればいいのにな、と思ったりしております。

皆さんに、よろしくお伝えください。7/3

 

-

 

 私ごとですが、10年間共にしてきた、左足甲のしびれから解放されたくて、さる10月3日に、総腓骨神経徐圧手術を受けました。ようやく、不快感とさよなら出来て、やってもやらずとも後悔ということの、良い方が残りました。全身麻酔の施術なので、麻酔科の先生が気を利かせたのか、細い管を使うということでした。

術後、先生が私の声帯のことを言いました。立派な声帯だと。

そして去り際にもう一度、今まで見たことないくらい立派な声帯だと。

そのことはこれまで実感出来ていませんでしたので、どういうこと?と思いました。

福島先生の事を知り、ずーっと先生のお考えだけを頼りに自分なりに解釈して今日まで持ち続けて行動して参りました。そのことが、今の私の声帯に表れてるとしたら、先生にご報告せねばとずっと思っておりました。

本当に先生との出会いがうれしくて仕方ありません。

先生を尊敬し続けてきたものが、今このようになっておりますと報告まで。10/15

 

-

 

返信(抜粋)

 

 声帯は、きちんと使われていると、若さを保つことができます。歌はせりふよりも、よい保全効果があらわれます。それも浅く癖をつけた歌い方ではよくないので、声帯の健全さは、自分自身の身体に合った使い方の習得によるものです。

 歌い手や役者というお仕事を続けられるのは、すべてを兼ねられていることです。

 

 私も今は、第一に身体づくり、第二に声の保持を心がけています。愚鈍なりに継続することは守っています。少し手間暇がかかり、面倒なことを人生の友とすることを新たに挑んでは、続けることをお勧めしています。

 私も真意の伝わらないことの連続で、日本の歌の世界との距離が縮まらないのですが、だからこそ、本質的なことに専念できると開き直って続けています。時代や国を超えたところまで、自分が抜け切れば、もっと伝わると思っています。

 

 私は、若いときから本を出してきたお陰で、いろんな分野の第一人者から教えを受ける機会、実践する機会に恵まれてきました。著書も会報も、一人では続かなかったでしょう。

  これから出会う人、今、接したり、通っている人、なによりもここを出てから、活動している人、そして、活動をやめてしまった人を念頭に、いつも述べています。 

「マンガと歌」 No. 412

私が思うに

ことばと絵画の間に、マンガがあり、

ことばと音楽の間に、歌があります。

 

私にとって

表現での位置づけは、同じなのに

どうも、日本では

そして、現代社会では

マンガが歌より、

視覚が聴覚より、

表現の可能性を謳歌しています。

 

視覚以外のセンサーデバイスが発達すれば、

視覚の優位性は、少しは崩せるのでしょうか。

 

私的には、

視覚でのテレビやスマホは、長時間では、心身にダメージ のような疲れを残し、

聴覚でのラジオやレコードは、その心身を回復させていたような経験があるのですが。

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