5.プロフェッショナルの伝言

「出会うための素」 No.347

そらで歌えるほどに何度も聞いているのに心には感じられない歌もあれば、初めて聞いたところで異質で馴染めず感じられない歌もあります。その両極の間に感じられる歌があるということになるのでしょうか。こういったことは、歌以外でも同じなのでしょう。

そのゾーンを自らにセットしておくと、感じられるものに出会いやすくなります。出会いたいのなら、その両極のゾーンをそれぞれ小さくして真ん中のゾーンを大きくすればよいのです。同じ曲、似た曲ばかりを聞かないで、違う曲、違う時代のものを聞くとよいでしょう。知り合いでない人に紹介された曲などもよいかもしれません。

 心のフックにひっかかるもの、心を動かすニュアンスの含まれる率の高いものは、周辺や異文化にあることが多いです。

私は根っからの音楽好きでも、歌うのが好きでも、プレーヤーでもないゆえに、みえるもの、聞こえるものが純粋=素だったと思うのです。どこかに帰属してどっぷりと浸かっている人には、その立ち位置ゆえに、みえないものが、みえたと思うからです。

つまり、歌という形でも、歌われたものとしてでもなく、感じたもので残したいと思うものを見いだしてきたからです。

「声はノイズ、フック、ニュアンス」 

これまで、私は歌声は、美しい音楽を邪魔するものということも述べてきました。音楽の中で、その邪魔は、心へのフックです。心に残る、気にかかることとして、いろんな技法にも含まれているのです。

歌、そして声は邪魔するもの、そのものです。何段階にもわたって邪魔するのです。まずは音楽のなか、次に歌声のなか、さらに、ことば、子音のなかでノイズを発します。

しかし、考えてみると、心にひっかかるというのなら大切なものやことは、全てそうだともいえるでしょう。違和感、疑問を抱かせるというフックなのです。

そこを私は、歌ではニュアンスと言ってきました。何らかの意味をもつ、いや意味をもっていそうに感じるもののことです。

ノイズにも、ただのノイズもあれば大切なノイズもあります。民衆の声やネットの声もノイズといえます。無理に結びつける必要はありませんが、それゆえ、歌や声は重要なもの、人々にとってかけがえのないものと思うのです。

「アートと生活」 No.345

研究所は、アーティストがアーティストになりたい人をサポートする場“でも”、あります。アーティストとは、世間では、「不要不急」のものを、自らの意思と努力で、誰かに必要重要絶対にまで高めていく仕事をしている人です。

 

私にとっては、人間が生きていく上で不要不急のものである食糧、水は、こういう状況では、生きるのに最低限あればよいと思っています。無人島へもっていくものと聞かれたら、最低限の衣食にアートを入れる人は、たくさんいると思います。

アートを不要不急と思ったら、どうして、その道を選べるのでしょうか。アーティストをサポートするのを仕事に選んだ人が、どうして、休めるでしょうか。

 

また、一般の人、趣味で楽しむ人にも、こういうときだからこそ、心身の健康維持、増進のためにも、芸事や公のところでは禁じられた"発声、歌唱に、工夫して親しんで欲しいと思います。

大きな声を出せる環境がなくても、いろんなレッスンはできますので、何でもご相談ください。

「高次の目的とそのためのツール」 No.344

多くの人にとって、ヴォイトレは、目的ではなく手段です。ですから、目的を遂げるための手段として使えるように、トレーナーはレッスンをしますが、そのスタンスは、最終的に本人が決定することだと思います。

元々、ヴォイトレがないときは、そうしたメニュは、歌やせりふ、演技などと一体で使われていたのです。大きくみるなら、歌、せりふの練習などというのも、目的ではなく手段といえます。

 では、表現のためというのが目的でしょうか。いや、まだ、何かありそうです。自己実現、自己満足、世のため、人のため、人を元気づけるため、幸せのため、など、できるだけ高次の目的が望ましいのは、確かです。

そうなると、ヴォイトレが部分的なものになり、一つのツールになってしまいがちです。 

私は、ヴォイトレの目的は、そのツールとして声の力をつけることでよいとも思っています。皆さんには、その力をつけたときにどうするのか、つまり、その力は何のために使うのか、どう使うのかを、いつも考えていくように、と伝えています。だからこそ、ツールとしての完成度を高めることに専念していくのです。

「長期的な視野を」No.343

日本人は、何事もランキング、口コミの評価に踊らされ、本質的なところで判断していないことが多いように思います。周りの意見に流されたり義理に流されたりで、同調圧力にとても弱いのです。早く安くとか楽にと、目先のことに飛びつき、先々をみなかったり、充分に詰めて考えていなかったりします。すぐに「やった、効いた、なおった」というのは、本当には、有効とはいえないのです。

信じられるものを信じるのはよいのですが、いつも考えましょう。心で信じ、頭で疑うことです。急に極端にならないようにも用心することです。

特に、長期的な視野に欠けていることが多いと思います。過去の事例や経験にも学ぶことです。歴史を知り、体系的に学ぶということです。

知っているのに、いえ、知ったことで学ばない、学べていないことがほとんどだと、我が身を振り返り、自省します。

「できないこととできること」No.342

レッスンでは、「できる」ところでなく「できない」ところをみせてよいのです。

「できていないこと」が自覚「できること」が重要です。

緊張を避けるためにも、「できなくてよい」というつもりで取り組んでください。

自分の体は一つ、ずっと同じ体で生きていくのですから、最良の状態に整えて使用「できるようになっていくこと」が大切です。

「本当を求めても」No.341

会ったこともない「本当の自分」などは探せません。

「本当の~」などは、みつかることはないのです。

みつかったと思った途端、それは、嘘になると思うのです。

「見つけた」「知った」と思ったこと、「正しい」とわかったことが、全てを隠してしまいます。

知らなくても、正しいとか本当とかいう答えがわからなくても、やっていけるものです。

本当でなくてもやっていけるくらいの力をつけてやり続けていけることが、本当のことと思うのです。

「世迷い言」 No.340

真理は、正しいと価値判断されたものといえます。

しかし、事実というのは、そうではありません。

 

ことばでは、いくら共感でき、憐れむことはできても、

心身の痛みというのは、やはり、その人一人だけのものです。

その身体を自然の一部としてみると、痛みは、自然災害で、事象です。

心が、それをどう捉えるかとなると、そこでは正しく判断できるようなものではないように思います。

我にとらわれるのを断ち切ると無我となりますが、それでも身体の痛みは、忘れられないでしょう。

 

無我とは、無常、「変わらないものはない」ということと思うのです。経験のなかでも、それは開かれていくものでしょう。

そして、関係から全てが生じていきます。

でも関係が結ばれていくわけでもないのです。

そういうことでは、関係というのもまた、実在はしない、関わり方に過ぎないと思うのです。

「できていくとは」 No.339

今回は、よくありそうな問答です。

「できていく」というのは、できていないのです。

「できている」というのなら、それは、すでにできていたのだから、もうできていくことはないのです。

「○○はできている」といって、すでに「できている○○」ということなら、「できていく」というのではないのです。

「生きている」「存在している」「死んでいる」も、この「できている」と代替できると思います。

「できた」というのなら、どうでしょう。いったい「何がどうできたのか」とつきつめると、「できていく」分節点にすぎません。

「問い続ける」 No.338

私は声のことがわからずに、それを問うために研究所をつくりました。同じように問いたい人が学ぶのにもよいと思ったからです。

わからないのと、「何が」わからないのかがわからないのは、違います。“わかる”というのは、人に伝えられることと、私は思っています。

レッスンでも、レクチャーも何千回もして、書物やブログなどでも発信し、伝えようとするとともに、「何が」を深めていっては問いかけてきました。

自分でよいと思えばよいのでなく、相手に対処できることが、本当に“わかる”ということと思います。その点では、まだまだです。

 

ことばにすると、自分の理論に位置づけられます。そこに組み込めないとき、うまく通らないとき、理論は仮説に戻り、解体されます。そして、自分に足らないことが、わかっていないことがわかるのです。そこから「何が」をつきつめ、問いを見い出すのです。

 

人に伝えるのには、わからなくとも、ことばがなくとも、いや、その方が深く正しく伝わるとは思います。

でも、そのクローズな関係は、「自分はできている」、「自分は正しい」といっているだけの自己満足で、自己陶酔の愚を犯すことになりかねません。それがその人にとっての答えなら、それでよいと思います。

でも、一つの答えより、すべてに通じる問いとして、私はつきつめていきたいのです。

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