5.プロフェッショナルの伝言

「頭と心と身体」 No.332

今は、メンタルのフィジカルに及ぼす影響で声をコントロールしたり、うまく取り出そうとしているのが多数となりつつあります。しかし、それは処理です。それではカラオケのチャンピオンも超せません。

頭で考え、頭で信じることで動くようになったのを、心と同一視してしまっているようにも思えます。あるいは、心、感情を入れたら全てが通じるという物語で、過剰な演技での表現に慣らされてしまっているのかもしれません。

アスリートのようにフィジカル本位で考えることが大切です。したいこと、好きは、頭で考えるのでしょうが、できることは、体で身につけたことです。そして、できること、身についたことしか本当は通じないし、役に立たないものです。

研究所は、世界への窓ですから、そこにあなたの心の窓を合わせて開けてもらえば、どこへでも行ける―というのが理想です。心の扉ともいえるのですが、メンタルをフィジカルで扱っていくのが、ヴォイトレの正攻法と思っています。

「永遠と至高、そして、道」 No.331

今の瞬間と永遠については、これまでにも度々語ってきました。

未来に役立たせようとする今は、今すぐには役立たない今ですから、今においては、本当は無意味です。勉強も修行も練習も、将来の目的のための手段とするなら、先で活かすために、生きなくてはなりません。

それに対し、今は今のこのときを満喫すること、遊びなども含め、楽しい、夢中、三昧であることです。それは、一時としては目的を遂げているときかもしれませんし、目的から逃げているときかもしれません。そうして切り出された時間は、しばしば、いわゆる至高といわれるときです。 コツコツと貯めた金を使い切るときみたいなもので、消費、蕩尽、破壊のときでしょうか。

有限の人生で、本当に大切なこととは、何でしょうか。それをするとしたら、どのようにしていくのでしょうか。

確実なものなどは、ありません。でも、それを自ら決めて向かっていく、両立しがたい手段と目的を同じくしたのが、“道”であるなら、それを肯定していけるように生きたいものです。

「少しの違い」 No.330

バッターで打率2割というと下位打線か2軍、3割というと強打者(4割ともなれば歴史に残る大打者)となります。その差は、10球であれば2球と3球で、1球の違いです。78球打てないことには変わらないわけです。しかし、1,000球となれば、100球違ってきます。1万球で1,000球。となると、1割というのは、どれほど大きな違いでしょうか。100m走なら1­10m近くです。そこがわかるかどうかでしょう。

「自分の方が相手よりも遥かにできると思えば自分と同じくらい、自分と同じくらいと思えば遥かに自分が下」というほど、人は自分に甘いのです。人と比べているところで勝負になっていないから、嫉妬と妬み、そねみになり、囚われるのです。

運とか才能とかいうのも同じです。少しやっているとかできていると思う人は、ずっと自分よりやっているしできているのです。少し認められていると思う人は、ずっと自分より努力しているし時間をかけてきているのです。

そこをしっかりと知るところからがスタートです。

「ライフワーク正念場」 No.329

巷ではヴォイトレやヴォイストレーナーも一般化して、広く知られるようになりました。それは確かによいことでしょう。

しかし、いえ、それゆえ、私は相変わらず、声の世界が低迷していることにじくじたる思いでいます。「何が変わった」「何が効果」「誰がどう育った」「誰が世界に出た」「昔より本当によくなったのか」など。

 多くの試みをして、多くのことを立ち上げてきました。その分、多くの無理難題にあたりました。多くの挫折、失敗、無理、無駄、無謀をしてきました。それは事実なので、何といわれても仕方ありません。むしろ、批判されなくなることを立ち上げてきた者として恐れています。

 それは歌や台詞などという応用でなく、声の力という基礎そのもののことですが、私が思うにいまだにそこで論じられず比べられず行われず深められず、相変わらず、表面的なのです。世界との絶対的な差が広がるどころか、もう見えなくなっているようなのです。

 “なぜ”“どうして”「こんなぐらいでよいといえるのか」「これで満足できるのか」「だからだめなんだ」を、常に自分自身に突きつけてきました。

21世紀になるとき、研究所を大きく変えました。平成の終わりにあたり、今度は世の中を大きく変えようと思います。

ライフワークとして、これまでの生涯、心身を賭けて行ってきたことを、自分だけの一個人の軌跡で終えず、さらなる実践を現実に対して起こしていかなくてはと思っています。

 今年もお互いにこれまで以上に励みましょう。

「平成最後の年末に」 

毎年、年月がたつのが早くなるように思います。

 

1つは、自分の充実度、満足度を評価するということ、人生を年ごとにみて、30歳なら30年、まあ、10代からでよいのですが、浮き沈みを線グラフにしてみましょう。よくTVなどで芸能人のをやっていますね。どういう波があるのか、なぜそうなったのか、過去を把握し、分析し、反省するのです。

 

次に、レーダーチャートで6角形、例えば、65点満点で、1.健康、2.経済、3.家族、4.人間関係、5.趣味、娯楽、6.仕事、活動を評価してみます。

これは、現状の把握です。

 

考えこむとできなくなるので5分ほどでつくるとよいでしょう。(もちろん、ヴォイトレで考えてみるのもよいでしょう)

 

毎年、年末に行うと、必ず意味と価値が生じてくるはずです。

 

未来は、イメージ、頭ですが、過去は、肉体、心です。

声も肉声と心なしには、伝わらないでしょう。将来もまた肉体と心が伴わないと開けてこないのです。ヴォイトレは、過去あっての現在から、スタートします。

 

年始は初心になり、そこに還って出発してみましょう。

「高いところに昇る」

日常を離れて、長期的なヴィジョンをみつめたいときは、高いところにあがってみます。

高層マンションやホテルも試してきましたが、とかくそれが面倒になるとよくないので、10階くらいでも充分です。

こうして少し天に近づくだけで人や車が蟻のようにみえます。宇宙に出て地球をながめた人の人生観が変わるのは、あたりまえのことに思えます。古今東西、偉い人や金持ちが高い所に住みたがったのもわかる気がします。バベルの塔以来、いやそれ以前から人間は、高層建築にあこがれていました。高い山へチャレンジする人も尽きません。

旅先では、そこのもっとも高いところ、丘でもタワーでも昇ります。すると、ぱっとその街全体がつかめます。鳥瞰というのでしょう。同じことを誰かから遠い昔に聞いた気がします。

「学ぶ力をつけていく」 

研究所では、以前なら、とりあげなかったアーティストをとり込んでいくようになっていきました。時代も変わり歌の役割も、そして、ここにいらっしゃる人も多様になってきたということです。

本当のアーティストは、CDやたまにみたライブ、TV、ラジオなどではうかがいしれない底力をもっているものです。日々のプロセス(トレーニング)は知る人ぞ知るものです。

それゆえに論じにくいものです。選りすぐるにも、我が出ざるをえません。そこで複数の価値観、多様性を身につけていく必要もあるのです。

 

長く同じ人と同じところにいると、しだいに甘くもなり、よいところだけ、あるいは悪いところだけをみるようになってしまうわけです。気づかずに固定観念から先入観になり、クローズしてしまうものなのです。

そうならないために、こういった情報があるのですが、活かしていますか。

たくさんのものに、あるいは深いものに深く接していますか。保守的にならず、新しい風をいれていますか。

 

たくさん学んでいた人も、あるところから学べずにか学ばずにか、変わらなくなるものです。

何からでも学べる人は学べます。すぐれていく人、学ぶ力をつけていく人にとっては、何事もそこにあればそれだけで意味があるからです。 意味が生じてくるように、その人が得ていくからです。

でも、多くの人はまわりの人に認められ、通用するようになったことで学べなくなってしまうのです。自分の外にあるもので定めてしまうからです。もったいないことです。自分以上の内なるものとの対話を大切にしましょう。その上で、意味をつけ価値としていくのは、あなたなのです。

「金足農の全力の校歌斉唱」

猛暑の中、もっと頑張っている人たちを見ていると、

元気になるものです。

決して100メートルも歩かないで、

熱中症でへばった犬を思い出してはなりません。

ということで、夏は甲子園。

 

強豪校相手に勝ち抜き、試合後の校歌を、

一昨年秋から体を大きく反って

全力で歌い上げるようになった、

 

最後の最後には、歌われなかった

金足農の校歌を紹介しましょう。

 

1928年の開校。校歌の作詞は近藤忠義氏、

作曲は「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」などの

岡野貞一氏。

1番だけで約1分半ほどあります。

金足農野球部は、あいさつや試合中の声かけなど

すべてに「全力の声」を出します。

なんと「声は技術」をモットーに掲げています。「声を出せば気持ちが高まり、集中できる」ということでしょうう。

 

可美(うま)しき郷 我が金足 

霜しろく 土こそ凍れ 

見よ草の芽に 日のめぐみ 

農はこれ たぐひなき愛

日輪の たぐひなき愛

おおげにや この愛

いざやいざ 共に承けて

やがて来む 文化の黎明

この道に われら拓かむ

われら われら われら拓かむ

「縁ときっかけ」

誰もが人であれば人の縁あって、今、ここにいるわけです。それは、ここに限らず、これまでもこれからもどこでもいつでも、です。そうであればこそ、その縁をどれだけ活かせるのかが大切なのは、言うまでもありません。

縁とはきっかけです。昔は、きっかけとなった人や場をとても大切にしたものです。「それで知った」「そこで出会った」、ということの最初、原点、それは初心ということでもあります。

どこでも、100人いたら90人は十を一に、9人は十を十に、1人は一を十に活かすというくらいではないかと思います。最初は、一しか学べなくとも10回くり返せば十学べます。100回くり返せば百学べるかもしれません。少しずつでも、一つから多くを学んでいけるように学んでいくとよいと存じます。そうして、もっと、場を活かすように、といつも願っています。今、ここで、その後の何かの縁となった人や場をないがしろにしてはならないと思うのです。

「疑い否定し超える努力」

昔からの慣習が改まらない業界は意外と長くどこにでもあるようです。それは、保守的なことにあこがれる人しかいなくなるからでしょうか。

「自分の方法が一番すぐれている」と疑わない。

「他の人のは、間違っている。」「自分は他の人とは違い、正しい」と思う。だから「他の先生は、わかっていない」となる。

「自分が全ての人を育てた」と思っている。「間違っているのを直し、自分が正した」とか、「間違って教わっているのを救った」という。誰にでもそのようにいうのをやめられない。

その裏付は、「自分自身できなかったり間違っていたのを、自分の努力、もしくは偶然の出会い(権威筋や外国人)によって、救われた」だから、「その方法が正しい」だから、「あなたにもよい方法だ」そして、「他の方法をやめることだ」というのです。

そうした権威づけで洗脳されてしまい、先生を一生越せない弟子になってしまう人は多いものです。それもその人の人生ですが、もったいないことと思います。

 

最初は、自らを疑い、肯定でなく否定する材料を求め、それを超える努力で、誰でも上達していったはずです。 

なのに、いつしかそれを忘れ、自己肯定にまわる、指導する立場になると、さらにそうなりがちです。

しかし、そこで生徒がそれをまねていくとどうなるでしょう。つまりは、そうでないことを学べないし、留まってしまうのです。先生も生徒もなく、そのことをいつまで忘れないで、疑い否定し超える努力をどこまで続けられるかです。

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