1.ヴォイストレーナーの選び方

「始点と終点を整理する」 

○始点と終点を整理する

 

 ヴォイトレは、スタートもゴールもあいまいなままスタートすることが多いのです。トレーニングのなかでは、そこを整理して自分の位置づけや目標を、より具体的につかんでいけるようにしていくことが目的の一つです。

 「レッスンでは、メニュや方法を用いて、目標と現状の間にあるギャップを埋める」というと当たり前のようですが、現実には、とても難しいことです。

 全体の把握なくして、きちんとした位置づけはできません。

 サッカーなら「強いシュートを打ちたい」ということを目的として、練習で強いシュートを打つことだけをやっても、他の要素も整えない限り使えません。PKのように無防備のなかで打てるシュートは、ほとんどないからです。ボールを受けてシュートに持ち込む、パスを受けられるところに走り込むなど、「シュート」するために、たくさんの条件がついてくるからです。シュートが打てても「試合がない」「試合があっても、試合に出してもらえない」など。総合力がまったくないシュート請負人などはいらいでしょう。

スポーツや楽器のプレイヤーなどでは、当たり前のことが、声のレッスンにおいては、とてもいい加減に扱われていることが少なくないのです。

○「歌いやすさ」より「自由度」

 

 すぐに本番に役立つ、アドバイス・レッスンでは、比較的、明確な目的ですから、早く、よりよくすることができます。

 歌唱レッスンでは、悪いところで目立つところから直します。でも、その前によいところをみつけ、いつかそこをもっと伸ばせることに気づいたら、ずっとよいことでしょう。

 ヴォイトレでは、共鳴、発声、発音などを、歌でこなせるように改善が求められることが多いのです。そういうときは、くせがついていて固めていたり、うまく解放できないところを脱力して、よい状態で発声できるようにします。人によっては脱力して解放すると、自由度が増す分、歌いにくくなることもあります。このとき「歌いやすさ」より「声の自由度」を選べる人は、本質をつかんで、かつ勇気のある人です。時間はかかりますが後で伸びていく少数の人といえます。

 

○アファーメーションとしてのヴォイトレ

 

 声域を少し広めにして発声で慣らします。歌の音域、声量よりも少し広めにとれるようにします。発音、メロディ(音高、音程)やリズムを基本や応用でチェックするのです。

 声をしっかりとコントロールしていきます。確実に声にして、共鳴にもっていきます。このあたりは声楽の基礎といったところです。

 プロの最低レベルのところでも、このあたりはできていなくてはなりませんが、できている人は稀です。確かな目的への第一ステップとなります。

 

○ことばと発音

 

 せりふやナレーションなどでも同じですが、ヴォイトレで「ことばを使う」と発音本位になりがちで多くのケースでは、発声が中心はなりません。本番とあまり変わらないことで、リハーサルのようなレッスンになることも少なくありません。

 これを母音や子音に分けて、厳密なチェックをして、よしあしを判断し、直していくとヴォイトレらしくなります。

 しかし、この場合も、声より発音やアクセントのチェックで終わることが多いようです。もう一つ基礎に踏み込んで母音の単音やハミングを中心にすればよいのですが、そこまで戻れるところは少ないようです。

 

○イメージの共有

 

 私は、その人のレッスンとトレーニングの位置づけとイメージを共有するため、最初の説明を細かくしています。

 私なりのイメージで相手の今の声、発音、フレージングあたりの出来不出来、目的とそこまでのギャップの埋め方などを示します。

 これが伝わることも伝わらないこともありますが、気にしません。伝わっていないときは手を変え品を変えて、その人にわかるイメージに近づけていきます。トレーナーも同じです。

 最初は、私のイメージや感覚に合わせてもらうところからスタートします。そして、少しずつズレをとっていくのです。

 

○似ていることでの注意

 

 その人の呼吸の延線上に素直に声が出てくると、それは必ず私のものとは異なってきます。

それをもって(本人であることをもって)よしとするのが、よいトレーナーです。

 「自分に似ているか」「同じレベルで同じにできるか」ではありません。

「その人らしくその人の声が出ている」のが、それが声に表れているか、その人が表れる、感じられる可能性のある声を引き出すのです。その点、似ていると、却ってやりにくいこともあります。

 

〇シンプルにする

 

 歌うとなると途端に難しくなる、つまりいろんな要素が入ってくるので雑になるのです。その難題に挑戦している人が多いのですが、私のヴォイトレでは、最も簡単なフレーズや言い回しでチェックするのです。

 それは。1オクターブ半を3分かけて歌う世界からは遠く離れているようにみえます。出している声や発音さえ異なるように思ってしまうものです。

 しかし、そこの感覚のギャップにこそ、あなたの声とイメージとしての限界が含まれているのです。それを解放するために、ありきたりとみえるヴォイトレのメニュを徹底して丁寧に使うことを必要としているのです。

 

○トレーニングの紆余曲折と結果よし

 

 限界をみてどう処理するのか―その前に、まとめてテクニカルに処理するのも正攻法です。しかしトレーニングでは、一時、迷ったり悪くなっても、後にトータルとしての力がついていたのなら、結果としてOKです。

 しかし、本人は不安でしょうから、それらを説明することもあります。スタート(今)からゴール(将来)、までの間にいくつかの目安を入れていきます。

レッスンやトレーニングでは「ど真ん中のことだけをやればよい」というものではないのです。できたら、「どちらかで冒険し、どちらかで徹底することが望ましい」と思っています。

 

○休むと喉は疲れる

 せりふや歌は、知らないうちに疲れを喉にためていきます。やや疲れたときのほうが表現として、より働きかけるといえます。そのためにわざと続けたり、かすれさせて声を使う人もいます。いわゆる、「のってきた」状態です。「のってきた」ときは、もうやりすぎ、使いすぎているものです。

 無理しなければ状態が悪いことを悟られずに、何時間かはできるでしょう。間に長い休みをとると、声は疲れを表に出してしまうのです。使いすぎて少し麻痺、喉が休みをとろうとしているのです。

 ステージの間の休みの取り方は、難しいケースが少なくありません。

 「ステージでは疲れないようにすること」

 「疲れていても疲れを見えるように出さないようにすること」です。声も似ています。元気のない声、ハリのない声では、価値がつけられません。

 絶好調ののりのときに喉(声帯回り)は、もう疲れていると考えておくことです。「喉も消耗品」と意識することは、トレーニング中にリスクを減らす一つの考え方と思います。

 

「芸道」

「芸道」

 

 「何か」があるらしいというのはわかるが、まだわかっていないので、そのことにアプローチしていく。それは「後になって身につく」という漠然とした予感からスタートします。

 その答えは人生の後半にわかるか、もしかすると死ぬときにまでわかりません。一流や名人といわれる人は、死ぬ間際でも時間が足らなかったと言います。

 

○プログラムのないこと

 

 私が専門学校やカルチャー教室を退いた理由に、年内プラン(シラバス)を前もって提出しなければいけないことがあります。会ってもいない相手とどうなっていくかもわからないのです。内容を出すときに考えても、実際は違うことをやりました。カルチャースクールで、カリキュラム通り進んでいくトレーナーのレクチャーを受けてつまらなかったからかもしれません。

 

 歌も芝居も、慣れないものであればわかるまでに時間がかかります。最初で好きになるものもありますが、何回も聞いているうちに好きになることも少なくありません。

 これから大きく学ぼうとするなら、できるだけわからないものに接することです。わからないからといって切り捨てたり、接しないのはよくありません。

一流の作品なら、そのアーティストや作品は、大きな歴史の流れで、人類が人類に伝え続けてきたことにある価値をリスペクトすることです。

それがわからないなら「自分の方に?をつける」という謙虚さ、素直さが必要です。わかるように待つくらいの努力はすべきです。トレーナーやレッスンの内容の判断も、わからないからダメだとか、いちいち説明が必要というのでは、先に進みません。一つずつわかることが必要でもないし、本人がわからないままで進んでいけばよいものなのです。

 まして、音楽や芝居は時間の芸術です。時間を経ないとわからないのです(15秒でわかるのはCMだけです)。「アナログ脳からデジタル脳」になり、ドラマ的展開の成立しにくくなったことを語ったことがあります。

作品はそれを切り出すことで、商品と近い点もありますが。

 

○置き換える

 

 人間関係やコミュニケーションも同じです。相手が第一印象や一回の会話でどこまでわかるのでしょうか。わかるというのは、これまでの自分の経験した範囲での好き嫌いで言っているだけのことが大半なのです。相手が自分よりもはるかに若いと、たとえば子供が、どれほどモノが見えなくて、幼いかはわかるでしょう。その構図を自分より年配の人と自分にあてはめてみて考えるだけでも想像できそうなものです。

 同じことができないという点で、力の差は明らかです。というまでもなく自分のみえていないものがみえている人の存在くらいはわかるはずなのです。そもそも、みえないもののもつ深い世界を感じ得ない人が、どうアートに接していくというのでしょうか。

 私が師と思う人たちは、そういう大きな流れを感じさせてくれました。一日一日私が学ぶよりも大きく学んでいて、その距離は縮まるどころか離されるばかりです。

 私が残念なのは、話していても批判ばかりする人、知ったことで学んだつもりのような人が少なくないことです。たとえば、今の私は、昔の私と違う私です。私自身は今も学んで、昔よりもずっと学べるようになっているから昔と違います。

ところが、あまり学んでいない人は、学んでいくと変わっていく人のことがわからないのです。大体、そういう人は、学んでいない人の中にいるから、なおさら人は変わらないと思い込んでいるのです。

 師は、超えるとか超えないとかでなく、超えられないものの象徴としてあるものです。ですから、技術や知識において弟子の方が勝っていても、どうでもよいことなのです。

 武芸などにおいては、まともに勝負したら30代くらいの人の方が80代より強いでしょう。だからといって「私は師を超えて師の師になった」などと言うなら愚かなことでしょう。

 自分で決定する人は、それがいきて自己完結してしまう危険がいつもあります。井の中や、水たまりにいるのに気づかないのです。

本人なりに学んでいるつもりですから、直らないのです。ですから、偉い人ほど人につく、師を求めて自ら師事してついているのです。学びの程度の問題です。

 

○フェア

 

 昔は、学校の若い先生を町や村の人が、尊敬しつつ育てていったものです。今のようなモンスター・クレーマーはいなかったのです。子供も、誰の子であっても、村や町の子で、天から授かった子だったのです。

 鳥羽一郎の「師匠」(「オヤジ」と読むが師匠のこと)という歌では、殴って育ててくれた師への感謝があり、尊敬があります。

 「人間はみな同じ人間」とみるのは大切ですが、そのために大切なものがみえなくなっているのは否めません。日本人の旧態で日常的だったものが、今の時代も残っている。コミュニティについては、どう判断するのかは難しいことです。誰もが自分の都合のよい方に考えるからです。女人禁制のような域や、宗教の儀式、禁忌なども。クレームとお節介との違い一つでも判断の難しい社会になりました。自分の絶対有利をフェアでないと考え、譲る人がいるから、今の平等があるわけです。

 

○改善のアドバイス

 

1.わからないからやれる

2.わかるとやれない(働かない、学べない)

 

1.ルーティンワークをしつつ次のステップアップを待つ

2.将来を、よりよくする方へ動くこと

3.身体で捉えるよさと頭で捉える誤解について知る

 

 

 

 

 

○トレーナーの全能感について 

 

 「あらゆることを説明できる理論も方法もない」これは科学的に、理論的に取り組むときに基本的な考え方です。わからないもことに対して、精神的なアプローチで物足りなさを感じる人は、たやすく“科学的”や“理論的”なことにとりつかれ、だまされてしまいます。これこそが20世紀を通じて学んだ真理であったと思うのです(オウム真理教や日本赤軍などの残した教訓です)

 

 ここのところ、他のスクールやトレーナーからいらっしゃる方が多くなりました。「安易な方法や実践では12年も続かない」ということです

表現者やパフォーマーとしては、それなりの実践力のある人でも、他人を教えると、こうも安易な勘違いをするのかと思いました。

1.トレーナーは、最初は、こわごわと生徒に接します。自分の考えややり方が他人に通じるのか、自信がもてないからです。他人に伝えてどうなるのか、誰からも学んだことのない、現場での叩き上げの人ほど不安に思うのです。

 この不安が、本当はとても大切です。これが直観的にすぐれたものと結びついています。いつまでもその初心のスタンスを保持することが大切なのです。

 熱心に他の先生に学んだり、本をたくさん読んだ人は、ときとして、この不安という素直さから入れなくなります。自信満々に入っていく人ほど、やっかいなのです。

 自分が学んだことを試したくてたまらないのです。自分はできる、だから他人も「もっと早く楽にうまくできる」ということを熱意をもってがんばります。「自分の言う通りにするとできるはず」という根拠での、指導、実績のない自信は、自分の成果さえ見誤らせる最大の要因となるのです。

 

2.生徒が満足し、喜んでくれる。生徒のなかで何人かに(基準の甘いトレーナーなら全員に)効果らしいものが表れます。トレーナーは伝わったことを実感します。

多くの場合、それはトレーナーでなく、生徒が秀でているのです(でも、そういう人がくることがトレーナーがすぐれているということです。私は、くるのでなく、3年は学び続けることがより大切だと思います。私のように本を出していると、一度はくる人も多いのですが、見にくるだけの人もいます)。

 

 トレーナーには、自分の言う通りに、すぐできるのが、素質があり、努力している生徒、そうでないのは素質に欠け、努力していない生徒のようにみえることになります。

 すると「自分のように」「自分の教える通りにして伸びた人のように」まだ、「伸びていない人はやらなくてはいけない」、となってきます。

 23年もやり、一通りのタイプに慣れてくると、教え方(=型)というのができてきます。よくも悪くもそこから「トレーナーの独自性」が出てくるのです。これが強く出てくるトレーナーと出てこないトレーナーの優劣は、簡単には判断できません。専門化するに従って独自化されていきます。すると、あるタイプとより合うようになる半面、合わないタイプとはより合わなくなってきます(薬と同じです)。そこでトレーナーは柔軟に対応するか、他のタイプのトレーナーと組むかとなりますが、どちらも実際は難しいため、うまくできていることはあまりみられません。

 よりよい事例をみて、よりよく効果を早く集中的に、かつ効率的に上げようとすると、手探り状態で遠慮勝ちにしていた指導が、前向きに、積極的に働きかけるように変わってきます。やや強制的に、ある意図をもってレッスンが行われます。それに合っている人は、よりよい効果が得られ、ますますその傾向に偏ります。だからこそトレーニングです。私はそういう意図がない現状を憂えています。

 トレーナーの自信の裏付けとなるのと同時に、気づきにくい落とし穴になっていきます。やや専門的に深くなった分、多くのケースでは狭くなります。偏向してきているのです。

 しかしトレーナーは、「自分に合っている人しか残らない」という閉ざされた環境でやるので、自分のおかれている立ち位置に気づかないものです。

 

○トレーナーの偏向と流派

 

 トレーナー自身がレッスンの環境ですから、自分とレッスンをやる相手が「トレーナー=自分の環境の中」にいることを意識しなくなります。だからこそ、トレーナー自身が人に学ぶことで、自分だけで勉強を完結=クローズしないことです。他人を教えたこともない、本当に自分だけでクローズしている人ほど、トレーナーを批判するものです。

 アットホームなところほど、そのままファミリー化してしまいます。多くのレッスン生がトレーナーと同じ傾向になるので、さらにその色に染まることが正当化されていくのです。ファミリーの流儀に染まっていくことが上達となってしまうのです(流派なども、こういう類の一例といえます)。

 するとトレーナーも生徒も、共に他のやり方や考え方に否定的になります。情報も、自分に都合のよいものを選びますから閉ざされていきます。似ているものを、ちょっとした違いをもって、競争するならまだしも、排除していこうとします(このあたりは、政治や宗教などと似ています)。似ていないものには無関心で判断がつかなくなるのです。

 日本の多くの歌や芝居は、そういう「主人」の家風がとても強くて、作品に抵抗を感じることがあります。自立した個が集まって共同でワークするのでなく、その家にいないとやっていけない依存的な体質になっています。表現が個でなく、全体の平均値をもって、なりたっているのです。よく私が例える「日本の合唱団」のような均質没個性的な集団が多いのです。それではコラボレーションでなく、排他的な集まりになりがちです(このあたりの日本の組織論です)。他人の前の舞台でなく、その家にいる限り、長くいるほど全能感に満たされ、高揚できるのです。同窓会のようなコミュニティとしての安定感をもたらすので、メンバーも離れにくくなります。そしてグルはますますお山の大将になってしまうのです。メンバーがそれを望む、というのは自立できないメンバーが長居し、常時いることで、そういうシステムが構築されていく、このことはよくあることですが、なかには、節度も失せ、価値も滅していくことがあります。

 

○理屈

 

 声に関わる専門家やトレーナーには一匹狼の人が多いものです。私もいろんなところに呼ばれると、他の専門家と一緒にやることもあります。しかし、他のヴォイストレーナーと一緒という場は、ほとんどありません。トレーナーとしては一人、あとは、医者やアーティストなど、異なる分野の専門家と行うことがほとんどです。企業や文化人の研修などでは、声と体を使うことで異質的なのです。

 お山の大将となると、そういうなかで、同じミスを犯していることがあります。ミスはともかく(というのも何をもってミスとするかは一概にいえないからです)、ミスやミスしている可能性に気づいていないのがミスなのです。

 最近はどういう分野でも、「科学」や「理論」という「理屈」「裏付け」を欲しています。なおさら知識によるミスが見えなくなっています。医者も学者もトレーナーも、よほど気をつけないとそうなってしまうのです。実際に声の分野は詳しい人が少ないので称賛されても、批判はほとんどありません。

 私のように、自らの理論を仮説とし全能でないことを前提に、基礎を語ったものさえ、多くの人はバイブルのように信じたがるのです。何であれ知識や理論、考え方というのは、具体的に適用するのには、厳しい節度をもち、制限して使うことが必要です。それが前提なのです。こういうこともたくさんの人と長くやってきてわかったことです。

 

○有効にする

 

 私は、他の人の考えや理論や方法を否定しているのではありません。それがうまくいくのと同じくらいに、うまくいかないこともあるということを知っておくことだと言っています。誤解のないように。それは私にも、ここのトレーナーにもあてはまるのです。私は、知って対処するように努めています。その違いが大きいのです。

 

 私は、私と考え方や方法の違う他のトレーナーを”有効に”使っています(私の考えに基づいて、同じ方法でやることを強制しないでやらせています。自由にやらせているようにみえてもセッティングや再セッティングに気をつかっています。なかなか生徒さんにはみえないし、再セッティングなどはほとんどの人には必要ないのですが)。

 前提としては、私のレッスンも、有効なものも無効なものもあり、他のトレーナーのレッスンも有効も無効もある。それゆえに、もっとも活かせるようなやり方をすればよいということになります。

 有効、無効という言い方はやや極論かもしれません。

 「ある人においてはあてはまり、ある人にはあてはまらない」というような、おおざっぱなものでよいから、そこに基準をもとうとすることです。同じ人でも状況によって異なります。

 「ある目的に対して有効なやり方は、優先させてしまうために、同時に、別の目的に対してはマイナスになることがある」が正確です。

 薬と同じで、「早くよく効く薬は、同時に早く大きく何かを損ねている」のです。私はそういう(対症的な)化学療法的な治療には用心しています。漢方薬の方がよいと思っています。だから「長期的に」と言っているのです。

 トレーニングやレッスンをこういうケースを言いかえると、治療と言ってもよいと思います。

 巷でよく売れる本や方法は、どうもそうでないものも多いです。早く成果をあげた分(上達した分)早く行き詰まり、早く限界となるものです。自分自身の発見に至らず、他人のまねを求めて(基準にして)自分の声の限界を早めることさえあるのです。

 

 私もトレーナーも、科学や理論といった理屈よりも、説得力のあるものとして、実体験を元に語るようにしています。体験した人の口から言ってもらうことで、信用を高めているのです。こうした体験談こそ、片やまやかしにすぎないし、生徒による自画自賛(トレーナー崇拝)になりがちなことにも気をつけるべきです。

 少なくとも、人は12年でなく、510年のスパンでみましょう。本人も入ったときにはよいことばかりを思ったものの、何年かたったあとでは、取り消したい衝動に駆られることもあるのではないでしょうか。

 そのあたりが、感想が案外と当たっている「食べログ」とも違います。製品の機能の「価格com」の評価ほどの客観性などはもちえないのです。他の客が再試行しやすいということです。

 本や雑誌、ホームページ、ブログなどには、発声についての理論や方法がたくさん取り上げられています。そこで「必ず」「絶対」と言っているものや「新しいもの」ほど、基本的な理論から離れていることが多いのです。

 歌手や役者のは、かなり常識的なところでの誤りがたくさんみられます。医者や学者も専門分野以外にいたっては、暴論が少なくありませんが。これは、「イメージ言語」としてではない知識でのミスです。

 

○反駁を反証する

 

 私は、声の分野で最も多くのレッスンを言語化してきました。自らのレッスンだけでなく、他人のレッスンを書き留めてきました。それ以上に、多くの人に、ことばにしてもらったのを記録し、比較、検証してきたのです。

生徒はもとよりトレーナーやゲストについても、ほとんどを文章で残してもらってきました。自分のレクチャー、レッスンと同じです。それが単なるレッスン場でなく研究所であるゆえんです。

 本を書くにも、レクチャーをするにも、そこで出せる具体例は、自分の理論や方法を肯定できるデータです。それは、賛成者の意見を聞いて並べるのに等しいのです。

 「科学的に」と言うのなら、自分の理論に当てはまらないケースを集めて、一つひとつ反証していかなくてはならないのです。

 これはレッスンでも当てはまります。私が他のトレーナーと共にレッスンを分担しているのは、私のレッスンに当てはまらない人に当てはまるレッスンのできるトレーナーがいるからです。トレーナー、もしくはトレーニング(方法、メニュ)です。この「当てはまる」とは甚だ曖昧なものです。

 

 レッスンをしたいという人を1年くらいでよくするのは、トレーナーをやっている人なら、誰でもできるでしょう。

 ここでは、複数のトレーナーを最初からつけることで、初心者でも早くトレーナーやレッスンの比較ができるようになります。このトレーニングが自分にはよい、このトレーニングは合っていないと思うなども、一人のトレーナーにしかついていないよりはずっとわかりやすくなります。

 たとえ初心者や門外漢であっても、偏向しなければ、人間の能力というのは案外と高くなるものです。トレーニングするというのは、どこかしら偏るし、一人のトレーナーなら、その程度がわかりにくいということです。トレーナー自身がわからないのです。

 「このトレーナーのレッスンは私の○○にプラスで、あのトレーナーのレッスンは○○に役立つ」などと言えるようになります。

 何よりも「レッスンを受けている人を賢くしていく」ことが本当は重要なのです。

トレーナーの言うとおりにくり返せるだけでなく、自分のためにトレーニングをきちんと身につけていけるようにしていきます。

 声の場合、あいまいになるのは、何でもできるかのようにしようとするからです。判断の基準をつけるには、目的の明確化、できることの制限が要ります。

 これはマンツーマンでは特に大切なことです。そのトレーナーとクローズになるからです。

 

 レッスンは、「今日はレッスンの○○はよかったから、もっとやりたい。でも、○○はいらないと思う」というようなことから始まってもよいでしょう。それが正しいかどうかは別です。でも、主体的になるのが第一歩です。

 一人のトレーナーのなかにもいろんな方法や方針があるのです。それを受け入れつつも共に考え、変えていくことだと思うのです。

 マンツーマンであっても、外の情報を遮断してはいけません。そこでクローズになると、そのトレーナーの価値観だけを元に声や歌が形づくられていきます。トレーナーの理想通りになることは、あなたにはリスクが大きくなります。プロやトレーナーというのは、独自の方法や理屈を売り物にしている人が多いのです。それが薬と同時に毒になってしまいがちなのです。効くものほどリスクも大、そこで極端を避けるためには、時間をかけることです。

 

○制限と判断

 

 私は、グループレッスンのときから、他のトレーナーも使っていました。個人レッスンもトレーナーにやらせていました。「福島のレッスンよりも、他のトレーナーのレッスンの方がいい」という人も出てきました。それは、最初、私が分担したくて、そうして成り立たせるために仕向けたことです。しかし、トレーナ―が力をつけるにつれ、本当に任せられるようになりました。私は後進に譲ることはあっても、競っていくつもりはありません。

 後進のできることは、私はやらずに任せます。いずれは、私ができないことを任せる。これが可能となったのが、今の研究所です。

 

 なのに、そういうことさえわからない人が増えたのでしょう。

 私は自分だけで教えているのでなく、研究所の組織として教えているのです。私がいなくて成り立つこと、トレーナーとのレッスンが成り立つと研究所として、もっともよいというのが私の立場です(これはグループでも毎回言っていたことです)。

 

 日本人に「主体性」を気づかせるのは、殊のほか難しいものです。レッスンをマンツーマンにしたのもグループでの主体性が失われてきたからです。

 間違えないでほしいのは、方法やメニュの差異を比較して、トレーナーの優劣を決めても仕方ないということです。

 少なくとも他のところより、比較され競争にさらされるここのトレーナーは、独自性なくしては続きません。生徒がつかなくなります。誰にも支持されていないトレーナーはいられないのです。

 

 目の前のトレーナーから学べることは学びつくせば、おのずと次のステップが見えてくるのです。

 付言するならば、ここで私から学ぶことを声だけとするのはもったいないことです。せめて耳を、できたらスタンスを学んでほしいものです。

 もっとも自分にふさわしいトレーナーをみつけるには、目の前のトレーナーを理解し使いつくすことが第一歩です。使い方を学ばずに、他のトレーナ―についても同じことです。

 

 他のところでついていたトレーナーに不服があっていらっしゃる方もいます。しかし、他の人は、「そのトレーナーからも、もっと多くを学んでいる(可能性がある)」ことと、ここでうまく続けたければ、「トレーナーよりも自分のスタンスを変える」ことをアドバイスしています。

「自分が関わった人を自分に活かせること」が「有能」ということです。☆「自分を変えることが学ぶことの意味」です。

 

○評価について

 

 自分を出し切る。それは第一の条件です。しかし、出し切ったくらいでできるのは、声を二次的に使う分野くらいです。

 どのトレーナーが合っているかとか、レッスンのどこがプラスなのかというのは、習っている本人が、自分の「今の器」で考えたり、思いこんだことです。その思い込みや判断がさらなる成長を止めていることもよくみられます。

 自分の判断を取るか、トレーナーの判断を取るかは自分で決めたらよいともいえるのですが、経験も直感もそれなりに必要でしょう。自分で判断するのか判断を他に任せるのかに、その人の本当の力が出ます。すべて自分で判断するのは学べないことになるのです。

 

 研究所は学ぶ場であり、サービス業のようなビジネスではありません。「お客様として生徒をみているのではない」のです。

 私が生徒にトレーナーのレッスンの評価をさせているのは、最近取り入れられている学校での「生徒による教授評価」とは意図が違います。生徒の考え方や学びのレベルとその進歩を知るためです。それでトレーナーを判断しようと思っていません。「生徒が先生を評価する」「それを先生の評価とする」というのは、ビジネスの顧客満足サービスと混同したおかしな制度です。

 トレーナーも人間なので、ムラもあれば失敗するレッスンもあります。苦手な人もいれば、教え方の相性が合わない人がいます。すぐにうまくいかなくてもよいのです。私は、直接のレポートなどもあるので早く気づくことができます。でも、トレーナーと学ぼうとしているのであれば長い目で見るようにして欲しいのです。

 どのトレーナーにも万能になれとは望んでいません。たレッスンは、トレーナーも生徒も、一緒に改良していく姿勢で臨んでいくものと思っています。お互いの研究であり創造です。過去の伝承だけであってはならないのです。だからこそ、記録し、考え、判断し、そして、力を伸ばすのに役立てていくのです。

 

○学び方

 

 私はここのシステムや制度をもって、トレーナーや生徒に学ぶ場のありよう、学び方を伝えているつもりです。それが変わらないのに声が大きく変わることもあまりありません。

 私のところのように、他のところではレッスンができない人もくるところでは、いろんなタイプのトレーナーが必要です(最近は、トレーナーをレギュラーと専科に分けました)

 そういう組織がないなら、トレーナーとして、勘を鋭くして、「自分のやり方が、相手の望むことと合うときは引き受け、合わないときは引き受けない」というルールをもって対処すべきでしょう。この「合う」「合わない」というのは難しいのです。大半は、真の目的が不明確なままにいらっしゃるので、声だけで判断するのは至難の業です。未経験なタイプについては、レッスンをしてみないと、わからないです。たくさんの試行錯誤の経験なくしては得られません。

 私のように何十タイプものトレーナーや何百タイプもの人を何年もみてきても完全にわかるわけではありません。わからないゆえに、選ばずに新しい人を引き受けてきました。400人くらいの人を毎月、グループで続けて10年以上みていたことは、今となっては、願ってもできないよい経験でした。

 ですから、今の私はトレーナーの適性や使いどころといった、位置づけをおこなう能力については自信があります。

 医者や他の専門家にも通じるようになってきました。年に何人か外国人のアーティストやトレーナー、専門家なども訪ねてきます。そのレッスンをみると、大体、理論、考え方、方法、声への判断基準がわかります。その人のスタンスや位置づけがわかります。得意なタイプや合うタイプと、その逆も。

 そういう人たちの方が、自分自身のやり方、他との共通性や異質性をまったく知らないので、指摘するとびっくりされるのです。特にヴォイストレーナーは、他のトレーナーと共同で仕事をしないものなので、そういう経験はほとんどないのです。

 

○固定観念を外す

 

 トレーナーの中には、最初から決めつけてかかる人が少なくありません。「あなたの声は…だ。だから、こうすべきだ」と。これでは初心者のトレーナーよりも悪い結果になりかねません。

 確かに一回のレッスンで、わかりやすい人もいます。しかし、わかったつもりでわからないこと、そう思っても必ずしもそうでないという可能性もあるのです。そういうときは、よくも悪くも、判断を棚上げにしておくことが大切です。つまり、先送りする。保留にしておくのです。

 すると、生徒は不安になるかもしれません。でも、そこで判断して、へたに希望をもたせたり、絶望させても仕方ありません。最近は、可能性を高めに見積もりすぎ、希望ばかりをもたせ、勇気づけることに行き過ぎているようです。それをメンタル対策としているようですが、フィジカルを軽視してはなりません。

 レッスンを続けさせたいために甘いことを言わざるをえないのが、今の多くのトレーナーです。やさしく仲良くやっていくことが、メンタル的に弱く依存しやすい人の多い声の分野では“つなぎ”となるからです。

ヴォイトレは、ヒーリングなのか、ストレス解消なのか、自信をもてばよいのか、自信の元となる本来の力をつけるのか、どれが大切なのかをよく考えてみることです。

 

○短期と長期

 

トレーナーとしては、トレーナー本人の力量を信じさせないと効果も出にくいし、レッスンも続かないので、どうしても過度に勇気づけたくなるものです。早くレッスンの効果をみせて信用させたいとの思いから、多くの方法が使われています。TVや本で紹介されているものの、「一目でわかる」といった類のまやかしものが多いです。

 何もかも「○○を見れば」「○○すれば」「○○を直せば」、それだけで「すべてできる」「ずっとよくなる」ということに対しては用心することです。

 私は、そういう軽さにうんざりするのです。短期ではよくても、長期では続くはずがないからです。そこで続かなくなって、ここにいらっしゃるからです。それもプロセスとしてはあり、と認めています。

ですから私は、「最初からここに来ればよかった」などということは一切言いません。そのプロセスがあって気づけたので、遅いということはありません。どんな過去も結果として、よくなった人には必ず肯定できるだけの意味(学びの深さ)をもつのです。

 人間は愚かなもので、急ごうとするほど、短期のくり返し、浮き沈みのくり返しだけで、結果としては、大切な時間をずっと使っていってしまうのです。

 この時代、長期でものごとに取り組もうとする人は、それだけでかなりのアドバンテージがあります。研究所は、当初からそのスタンスをとっています。「トレーニングとは、今すぐ役立たないことをやること」です。それをヴォイトレにおいて実践してきたのが。ここです。

 これは基礎についても、あてはまります。「基礎も今すぐ役立たないこと」をやるのです。多くの人が、基礎を欲しつつ、実際のところ徹底しないし、続かないし、やっていないのです。だから基礎が大切といわれるのです。

 

○なぜできないのか

 

 「できないことをできるようにしたい」これがレッスンの大きな動機です。しかし、「なぜできないのか」ということと、「できたらよいのか」ということを、よく考える必要があります。

 目標のとり方として、

「できないよりできた方がよいもの」と、

「できなくてもよいもの」と、

「絶対できなければいけないもの」

 があります。

 どれを優先すべきかは、けっこう重要な問題です。目的にも人にもよると思います。

 

 「なぜできないのか」は、結局、「絶対にできなければいけないもの」についてだけわかればよいことです。「わからなくても、できたらよい」のですから、方針としては「できないことからでなく、できていることからアプローチする」ことです。

 本当のことを言うと、「あなたができていると思っていることは、実はしっかりとできていないから、できないことが出ている」のです。この「実は」「しっかりと」がわかることが肝要です。

 これを考えてみると、「トレーナーはできていないとみるのに、自分はできている、あるいは、わからないとしている」、そこが根本的な問題です。トレーナーは、「そこができていない」と判断して、解決策を与えます。解決には、その「できていないということを判断する基準」を身につけなくてはなりません。

 

 基準のレベルの差を知ることが、ヴォイトレの第一歩です。「それができていない」のを知るために、声域や声量などの限界をチェックしてみるというならよいのです。しかし、それが目的になっていませんか。

 今や「○オクターブ以上、○日で出せるようになる」というようなマニュアルに惹かれる人も多くなりました。ということは、真の目的さえ、まともに立てられないという人が多いということです。

 そのような副次的な目的をメインにおくと、一見わかりやすいようです。しかし、基礎は乱れていくのです。応用の応用をやっても基礎は固まるどころか、ひどくなるのです。今、通用していない12オクターブが34オクターブになったからといって、何がよくなるのでしょうか。歌は1オクターブ半もあれば充分です。

 

 副次的な目的とは、「そうなっても大して役立たないが、身についたときには、それに伴って得られるものがある」ことです。ある分には、ないよりもよいが、それを得る努力に見合う目的にはならないことです。確かに「3オクターブも出る」ならば、どんな歌も調を変えずに歌えるでしょう。でも歌はそこで競うものではありません。声域の伸びに伴って発声もよくなっているならよいのですが、逆になったら意味ないでしょう。

 問題は、そういうキャッチに惹かれる人は、声域がないから歌えないと思っている人だということです。声質や発声もよくない。声域ばかりを目的にやっている人もいます。そこから脱しないと悪化させてしまうということです。その問題から一時離れることがもっともよいことなのに、同じところに惹かれてしまうのが、大問題です。

 

○表現における二重性

 

 日本語の勉強を、文法で捉え「主語」での欠陥を指摘する人がいます。「主語」のような概念は、欧米の言語学からきたもので、そこからの分析で日本語のよしあしの判断はできません。日本語にとって不利な分析となります。

 国の将来の経済方針をアメリカが作り上げた経済学で、日本の社会に当てはめても当てはまらないし、使えないのと同じです。

 欧米のベース(言語、リズム)の音楽を、日本語をつけて歌っても、日本人の声や感覚の根のところにあるものには、簡単にはならないのです。

 私が、日本人のオペラやミュージカルに反射的に入れないのは、それが日本人でないものを具現化したままだからです。クラシックは古典としてグローバルなものになり、多くのミュージカルも違和感なく感動させられます。問題は、日本語で日本人が演じているところです。演目が向こうのもののままであるときは、それを超えて個人の声がリアルに働きかけてこないという、現実のパワー不足が第一なのでしょう。

 

JAZZのレッスン

 

 ジャズのヴォーカリストが何人か来ています。研究所では、21世紀の日本で「英語で1960年代前後」のジャズを歌うという、表現のあり方、あり様にあたらざるをえないのです。現状、現実的には見過ごしたままでいます。レッスンでは、次の3つができていない人が多いからです。

1.声楽、クラシックのレベルでの発声より丁寧なロングトーンやレガート

2.音楽的基礎、正確な読譜、メロディ、リズム

3.声の管理、タフでつぶれにくい声づくり

こういう問題は、音大レベルの基礎のなさ、声の管理や使い方(応用)の不足からです。

 

 歌唱は、バンドの人の判断へ預けて触れないこともありますが、「スタンダードとしての1960年代の歌い方」です。

 ジャズピアニスト、ギタリストが教える歌は、声の使い方が雑であることが多いと思います。楽器のプレイヤーですから自分のプレーの音で考えたら、もっと丁寧に、繊細に扱わせるようになるでしょう。

 女性歌手しかいないので、自ずとMCと心地よさ優先となるのです。

 日本には音楽的センスでの「伊藤君子型」が多く、「金子マリ型」は、希少です。

 このあたりは、いつか詳細を語りたいのですが、今は、このままではジャズでもオペラも邦楽も、20年後に存在の意味がなくなった後、存在しなくなるのではと危惧しています。

 1960年代後半に団塊の世代が支えたものと壊したものは、共に大きかったといえます。日本のなかで音楽というものを大きく変えてきたし、未だに保ち続けていることも否定しようがないのです。

 

○正しいと言うな

 

 声に正誤はありません。あるのは、広さ、深さです。それゆえ、程度とできの問題です。ですから、一つの方法でなく、いろんなやり方、アプローチがあり、プロセスがあり、効果があります。

 せりふは、ことばとしては、子音で共鳴を妨げ、具体的な意味内容を得られるかわりに共鳴の美しさを損ねます。しかし、美しさよりも伝わる味を得ます。

歌は損ねるものの方が多くなったゆえに、その地位を他に譲りつつあります。

 レコード―ラジオの時代は、万能にして神のような声や歌も少なくなかったのです。その完成度をもって伝わるものは大きく、今も、その後のテクニカルに加工されたものを凌います。

 神の領域にものごとが達したとき、それは、次の世代では保てないという運命に甘んじることになったように思います。

 歌のない世の中は、歌が不可欠とされるような状況、時代よりはよいのかもしれません。声についても同じようにいえるかもしれません。☆

 一流のヴォーカリストは一種のカリスマであり、天才です。ヴォイトレでは説明できません。その世界に触れ、伝わるものによって、時空を越えて、新たな人間の可能性をもたらします。そういうことのきっかけの場として研究所があり、レッスンが機能すればよいと思います。

 

○共感

 

 学び手が引き出すトレーナーの能力について述べます。

 かつて、私は、研究所のライブのステージを見て、一言も語りませんでした。そこの場は真剣に臨む人が多くいて、それだけでことばは必要としなかったからです。

 私がうしろにいて、空気を緊張させていれば、何も話さずとも伝わるものがあったからです。歌ったら何か起きる。そういう歌を聞くと、何も起きなければ歌の意味がなかったとなるのです。正直に言えば、歌や芝居に対して、今ほどに語れることばを私自身も持っていなかったのです。

 

 ステージですから「何かが起こった」らわかります。誰もがわかってこそ、「起こった」といえます。

起こらなければ失敗、というよりも、勝負以前なのです。何かを起こすかどうかは別として、出したところで何かが起きなければ表現ではないのです。

 それが、私がいちいちその破片を拾ってことばにしなくてはならなくなりました。次に、一人ひとり、誰にでもわかるコメントを与えるようになって、その場はスクールの発表会と変わらなくなりました。

 

 時代も変わりました。歌も、せりふも、声も、音響技術の加工の力の発達に反して単調になってきました。声やことば使いのレベルでなく、ことばを、声の動かし方で全く別のものにできない人ばかりです。今そのレベルは、歌手よりもお笑い芸人の方が達者です。

 

 昔は、「自分を出すような歌はうるさいから、神の声に委ねろ」と言っていたのに、今は「自分を出して歌ってください」と言っています。

 表現力は、体力とメンタルに支えられます。その我が弱くなり、その人の生き方、生き様が出てこないのです。

 歌が、メロディやことば、アレンジなどこなされてしまうと、私は、オペラやミュージカルと同じで、よくないリピート状態となり、飽きてしまうのです。

 歌や表現を、たとえレッスンの場だからといっても殺してはなりません。「先生として生徒を評している」というのはよくありません。知り合いの間柄だからではなく、誰でも惹きつけられる表現、と願っています。

 

○自立した歌

 

1.その人を知っているから我慢できる歌(カラオケ)

2.その人の努力、歌への思い、好き、が出ている歌(のど自慢本人)

3.その人の後ろにあるものが伝わってくる歌

こんな感じでしょうか。3が神(これは「人類が太古から今まで生きて受け継いできた大きな流れ」のようなもの)

 ですから私のレッスンで使う歌のほとんどは、「誰かに(私自身にも)伝わり、一人でも多くの人に私が残したい、伝えたいと思った歌唱や曲」です。そうした曲は、その声と共に普及して生き永らえてきたのです。

 

 生き生きと「生命力」にあふれ、「リアル」に3D(立体感)に迫ってくるものが、表現としてすぐれたアートです。その声で伝わるその人も生き方は、生きる力を与えてくれます。

 それがどうしてなくなったのでしょう。意識として、それに対抗する「死」がないからでしょう。

日本では3.11で身近に死が迫ったとき、歌は一時命を吹き返しました。でも、人間の歴史のなかで死は常に生に対峙して、身近にあったのです。命が危険にさらされたときの感受性の鋭さを失い、舞台では創造性は駆使されてきました。今やアートは、好きの延長上のひまつぶしでしかないのでしょうか。

 

○できること

 

 私はかつて、研究生の出してくるものに、いちいち論を返していました。私のスタンスをまっこうから否定してくる人にも対峙してきたのです。そこで時間をかけて答える姿勢を保ち続けることが私の生きることの一部でした。  

 ところが、対し方を伝えたいのに、その論の正誤ばかりにこだわる人が多くなりました。今も意見や感想はそのままに掲載しています。あえて、反論はしません。そうしたいと思わせないからです。そうしたいと論破する後味の悪さで、私も、日本人らしく大人になったのかもしれません。

 

 「相手のことを理解できるというのは幻想」です。どうしても無理なことで、「それを知った上で理解する努力を諦めない」ようにするものでしょう。まして、それがことばのやり取りでできると考えられると、ことばを放棄しないとと思うわけです。

 こういう分野は、先のわからないものです。わからなくてよいのです。わかってしまうくらいのものならつまらないし、わかってしまったら、投げていたでしょう。

 「わかっている、正しいのはこうだ」というような人には関わっても無駄と思うのです。そういう人ほど、貧弱な声しかもっていないものです。

 ちゃんとした声をもっていたら語らなくてもいいからです。

わかるというのは、どこかで見切っているだけです。わからなくても、一部わかっても、どうでもいいのです。できることが大切なのです。

 

○わからないものをわかるな☆

 

 コメントにも、わかりやすさばかりが求められるようになりました。

 音楽を「聞いて、わからない人に説明しても仕方ない」です。そのコメントをきっかけに何回も聞く人もいるというなら、やってみる価値はあります。万に一つでもそういう効果があるならお勧めします。それがレッスンというものになります。

続けていると、あるとき「わかった」とくる。学ぶというのは、そういうものです。

 今日聞いて今わかったとかわからないなんか、どうでもいいのです。そんなに簡単にわかったなら、大して、あなたが変わることではない。

全くわからないものなら、それがもしかしたらわかるだろう、わかりたい、わかったらおもしろいかも、などとなるかもしれない。そういう「いつかの自分」への直観を働かせて期待するのが、「学ぶ」ということです。

 今の人は「わかるように教えてくれ」とか「わからないからつまらない」とか「わからないものはよくない」と、自分で幼い判断してしまうのです。今のままでいたくて、将来もずっと変わらないと宣言してしまっています。幼児と同じです。

 

 私たちは若いころ、わからないものを知りたかった、見たかった、味わいたかった。そして、わかっている人、あるいはわかったようにみえる人にコンプレックス=ギャップを強く感じた。そこから抜け出せたら、その溝が埋まれば、もう一つ上の世界がみえてくるという予感があった。

 貧しく悪環境におかれていると、こういうことが起きやすいし、豊かで恵まれていると起きにくいのかもしれません。

 「変わりたい」という欲求は、自分の外であれ内であれ、逆境を強く意識しなくてはいけないのかもしれません。今は「変わりたい自分」より「変わりたくない自分」が強くなったのでしょう。でも本当にそうでしょうか。

 今、日本人の甘受している豊かさは自分のものでなく先人の作りあげたものです。それに気付かないのは平和ボケです。何一つ自分でつくっていないのです。

 昔から子供みたいな人はたくさんいましたが、そのことを家や学校や社会で気づかされたのです。そういうメカニズムが、今は働いていないのでしょうか。

 先生が教育の先には何もないようなことさえ言うのです。まわりがどうであれ、問題は、いつも自分自身なのです。

 

○整えていく

 

 BV法とか理論とか言っても、そんなものがあるわけではないのです。しぜんなものの成り立っていくプロセスを理解して身につけていくアプローチの一手段として命名しているだけです。

 「ブレスヴォイス」というのですから、息を吐いて声にする、声を出して生活しています。そういうなかに声や歌において、すぐれた人も劣った人もいる。なら、もう少し深く息を吐いて、深く声を出して、生活を深めたら声も歌もよくなるといったようなことです。

 体や呼吸の調節も似たようなものです。日常が浅く乱れているなら、ある時間をとって、ある場所で集中して(非日常として)整えていくのです。そのくり返しがトレーニング、そのきっかけがレッスンです。

 身体の能力を高める、感覚、心、精神関係と、全てにもっと丁寧にアプローチをしていくのです。そのプロセスはヨーガとか武道と同じです。BV法もモデルの一つにすぎません。

 

 何事であれ、これまでに心身をプロとして扱って何かをなし得たことのある人は進歩が早いです。声や歌というものは、その土台に体と感覚のコントロール、筋力なども含まれます。土台があって今のあなたの声も維持されているのです。

 少々、無理をしても応用しているうちに基礎も固まります。

 昔の役者は、音大生などよりもずっと声の習得が早かったと思います。今は声も呼吸も浅い人が多いです。アナウンサーや声優もです。浅い呼吸の上に急いで正確な発音をつくろうとするために声が素直に出てこないのです。

 体は健康であれば、半分はもうOK、そこから限界値の100%までというのはオリンピックレベルを望む人だけ、大体は、20%もアップできたら、何をやっても大体は、うまく適応できると思います。

 

○理想から引きあげる

 

 ヴォイトレは、普通の人の力50%を70%くらいにしていくものです。しかし、積み重ねるより天才ヴォーカリストと言われるような人のもつ完璧さ、100%の感覚の方から引きあげられるようにしていく、感覚―イメージ―体の順でレベルアップしていくのが理想です。

 私としては、未熟な体をそのままに、小賢しいレッスンからたくさんの技巧を習得して、歌をうまくするようなことは、百害とは言わないまでも、一利しかないと思っています。名人のものをたくさん聴くことが大切、そこから感覚、そして体を変えていくのです。

 聴いていても聴き方がなっていないからうまくいかないものです。そこをトレーナーが感覚と体の両面から部分的によくしていくのを手伝うのです。声もせりふも歌も丁寧に聴けるようにしていくのです。

 音楽やせりふは、時間のアートです。時間をどうみるかです。これは「永遠の問い」にも通じます。ともかくも、無音から一つの音やその動きに集中して、ゆっくりと学ばなくてはなりません。

 私は、ピアノ伴奏に頼らせずアカペラをメインにしています。何でも描ける透明なキャンバスに声を吹き付けさせるようなことを意図しています。

 私のレッスンはとても静かです。その人の声だけが響きます。声で時空を変えるのですから、時空が止まらないとダメなのです。時空を一瞬で変えるようなことをやろうと試しているのです。

 

○開かれる

 

 これまで、いろんなレッスンをみたり経験してきました。ワークショップは騒ぎすぎ、個人レッスンでもピアノや声がうるさいのが多くなったように思います。日本人はおとなしいので、トレーナ―がテンションをあげさせようとします。それでは、本人の感度が高まりません。

 私の合宿では、静寂のなか、小さな鐘を鳴らし、そこに小さな声を一人ひとり重ねていくようなことをしていました。どんな音も、もともと遠くまで聞こえるのです。とはいえ、この共鳴とロングトーンのコントロールは、基礎として、呼吸や体がないとしっかりとはできないのです。まずはできていないことに気づけばよいのです。

 

 私の手伝いをさせていたトレーナーがあるとき、私の全体評(ステージ実演のコメント)のあとに自分も「私と同じことを、寸分たがわずにノートに書いた」と言っていました。「10年もいたからわかること」だと思いました。

 評というのは、歌への評価ですが、本当に大切なのは「スタンスとして、今、何か欠けていて、どうしなくてはいけないのか」ということです。

 ステージの多くの問題は、歌でなく、そのスタンスにあるのです。スタンスができていたら何をどう歌っても大体はもつのです。できていなけれな、どんなにうまく一所懸命歌ってももたないのです。

 スタンスとは、「落とすべきところに落として、納まる」ということです。その人の「表現の力」、その人の「存在理由」が「納得できる」「腑に落ちる」ということです。

 何にしても「鈍い」を「鋭い」にしなくてはなりません。

 レッスンでさえ、スタンスで決まります。それをみている人が感動するようなものでなくては、と思うのです。私はいつも第三者に開かれているように意識してやっています。グループやマンツーマンでも、先生と生徒でクローズであってはならない。誰もいなくても常に外に開かれている。そう感じているべきだと思うのです。

 

 考えてから動くのでなく考えなくても動くようになることです。ピンポーンと鳴ると同時にドアの前にいる。そんな反応のできる感覚と体づくりの方がよほど大切です。

 身体性の問題は、ここのところ、何事においても中心になりすぎたきらいがあります。とはいえ、声を支えるもの、歌を支えるものですから、大切です。私はよく「頭でよいと思っても、頭ゆえに判断を間違うもの」だと言っています。

 そういうとき、「バッティングセンターでいつもより打てるか(ボーリングでもダーツでもよい)チェックしたら」と言っています。頭でよいと思っても、結果、打てなければだめ、頭でだめと思っても打てたらよし。

 それゆえ、身体が不良(悪い状態)と頭が思っても信じません。レッスンには、「体でいけ」と言っています。「倒れていなければ行ける」ということです。

 私に関してはワークショップのメニュに、レッスンではできないいくつかの体、感覚の刺激、耳と声のつながりみたいなものを入れています。ご参考に。(リットーミュージックの「裏技」に詳しい)

 

BV理論

 

 理論を用いるのは、自分の体をモデル化して捉え、イメージで動かしやすくするため、記憶するため、再現しやすくするためです。私のイメージのモデルは、頭と胸の中心に2点があって、それが結ばれている軸とします。地声や話声の弱い日本人対策として、胸の真ん中に口があるようなイメージ(胸部体振)をつくりました。

 それは私のイメージですが、素直な人ならイメージそのままに自分の体に読み込めるのです。

 私たちトレーナーは、生徒の発声の母体としての体を自分の体に読み込みます。その逆をするのです。

 とはいえ以前に違うところから読み込んだものが、あまりに強かったり、頭で考えたイメージが強いとなかなか入れません。できたら一度白紙に戻して、トレーナーのイメージと柔軟に入れ替えられるのが理想です。

 イメージは一度入れても変化していくものです。その変化に対して、同一のものを再現できるようにしていくのが基礎レッスンです。

 トレーナーのそれぞれに言っていることや、方針、方法が違うことはよくあります。ことばの矛盾は、イメージをもてずにやっているから起こるのです。ことばそのものに囚われずに、それをイメージでとらえなくてはなりません。ことばは、インデックスに過ぎません。

 

○「よい状態」を知る

 

 かつて、10年前、合宿で軽井沢に行ったのは、心身を解放された場でリラックスと集中を感じさせたかったからです。スタジオの次元と異なる深さで体験させたかったからです。

 いい状態にするのに時間をかけるのでなく、「いい状態から始めたい」なら、いい状態になれるところに行くのがよい方法です。

 よく休み、よく眠ることも大切です。頭で考えてわからないのなら、黙って騙されてみればよいのです。そこで疑うと心身は深まらなくなります。頭が妨げるからです。何事でも、ある種の大きな信仰心がいるのです。宗教めいたことを言うと嫌う人は少なくありませんが、哲学も宗教もアートも同じことを目指しているのです。

 

○判断しない

 

 日常レベルの声や歌がうまくいってないこと自体があなたの判断の誤りです。それは、感覚やイメージの誤りでもあります。それでも、学びにくる人は自己評価は客観的にできているから、ずっとよいのです。その判断を一時預けて、トレーナーに替ってもらうのがレッスンです。何でも自分で知ることは必要ありません。トレーナーと分担すればよいのです。

 

○あこがれと身体との間

 

 快感にも2通りあります。音楽で体が踊りだすようなもの、これは他律的なものです。それに対して自分の心身内部からの心地よさは自律的なものです

 レッスンは、「他から入り自に至らせるプロセス」です。他から入るものは嫌なものもありますが、それを受け入れていくことで、より早く大きく変化できるようになるのです。ですから、嫌なトレーナー、嫌なレッスンも大いに貴重だと思います。

 幸か不幸か私のところには全ての人に嫌われるようなトレーナーは、残れないのでいません。「最初は苦手と思ったトレーナーに、いつしかしぜんに対応できるようになった」とき、その人の器が大きくなった、真に成長したともいえます。歌屋芸術も人間関係とまったく同じですね。

「研究の3条件」

〇事例研究

 

 毎月何十人、トレーナーも入れると何百人とのレッスンでの接点をもつ、この研究所では、日々いろんな問題が生じます。あるものは持ち込まれ検討に、あるものは新たに対策をたて、あるものは改めることを余議なくされています。いつも対処に追われています。

 組織というのは、ありがたいもので、私に持ち込まれる前に、トレーナーやスタッフが対処し、本来は私が1時間かかることを1行の報告ですむこともあります。

 声という得体のしれないものについて、事例をたくさん必要とする研究において、ありがたいことです。教育や指導の前に研究の体制が充実していなくては、大きな成果をあげられないでしょう。

 トレーナー個人の研究は、基礎です。それを元に多くの事例を吟味し、分析したり解釈したりして「仮説」を構築しつつ、第三者の目を通して実証、証明していくのです。ようやく、そういう体制が整い、私自身、研究所の内外でその実践者に会い、研鑚する機会が増え、ありがたく思っております。

 

○研究の3条件

 

 スタッフやトレーナーの質とともに、いらっしゃる人の質も大切です。数だけではありません。勤勉な人の声に接することが何よりも大切です。

私たちトレーナーは、そのときの症状のよしあしを診る医者ではなく、将来に向けて力をつけさせることが役割だからです。しかも一人ひとりの人に5年、10年と、長く接していかなくてはわからないことがあります。

1.数の多さや年月(時間)の長さ

2.種類(タイプ)

3.質(熱心さ)

この3つがそろっていなくてはならないのです。

研究所でも、10年以上、いる人やプロや活躍をしている人を100人単位で捉えていくのを目標としてきました。これまでも、こういう条件を成り立たせていたのです。そのプロセスをきちんと捉える方法や体制を私やトレーナーだけでなく、第三者に認めてもらう体制をつくりつつあります。

 

○トレーナーとしての絶対量

 

 私は、最低で5年間がトレーニングでの実績、レッスンの最初のステップでの判断の目安だと思っています。どの世界でも、3年くらいは、初心者から一歩抜けたところ、一通りものがみえるようになった程度にすぎません。オリンピックであれ、まともなレベルの競技であれば、経験3年以内では、優勝はおろか、出場できる人は稀でしょう。将棋や碁でも、噺家でも芸者、医術、武道でも、何らかの一芸、一道、一分野で頭角を現すのに、必要な単位は、10年が最小ではありませんか。

 

 専門的な教育を受けずともデビューはでき、勘がよければ現場だけで力がついていく、数少ない分野が役者や歌手です。

 そのため、そこに関わるヴォイトレも軽視されています。トレーナー自身の経験においてさえ、大半は、あまりに絶対量が少ないです。ヨーガの初心者かスポーツインストラクターの1年目くらいのスタンスでやっている人も少なくないのです。資格もないので、入ってきた生徒さんをいきなりトレーナーとして雇うようなスクールも珍しくないくらいです。

 最近はそういう人が、ここにも学びにくるので、あたりまえのことをあたりまえに言うことが多くなりました。せめて、音大を出たくらい、といっても、音大を出たくらいでよいと思われると困るのですが、34年くらいは、舞台や社会経験をも踏まえてほしいです。他人の指導を受けたり、指導者の横で学ぶ必要があるように思います。

 

〇ソロからのトレーナー

 

 問題が多いのは、プロ(現場)から指導者になるパターンです。音大では、まだ誰かに学び、同期や先輩、後輩をみて、その成長や伸び悩みという他人の経験を、共通の課題や同じステージで共有します。ミュージカルや合唱も、そういう経験がもてます(同期と比較したり、時間をかけて他人の経年変化をみること)

 タレント性で役者や歌手になった人は、歌唱はソロで、自分にしか通じない自己流です。

 本来なら、経験を積まなくてはいけないのに、挫折し(それは、スポーツトレーナーでもケガなどが大きな理由で転向する人が多いのですが)、生計のために指導にまわる例です。

いちいち例をあげてはキリがないし、また本位ではないのですが、研究所がそういう人の場にもなっているので触れました。ここ5年くらい、レクチャーやレッスンでの問題として、目立つようになってきたということです。

 

○表現と基礎との距離

 

 地方からいらっしゃる人について、プロ志望の人、歌の先生に学んでいる人がきます。ここの通信教育で学んでいて、お会いする人もいます。

 ときとして、面倒な問題となるのは、声の問題以前にその人の考え方、判断の枠組みの頑なさです。

 私は、「声、ことば、歌は、日常の24時間、生涯の生きてきた時間、育ってきた環境と切り離せない関係にある」から、「日常を変えなければ大きくは変わらないこと」と強調しています。

 もっともメインにしているのは、「12年で12割よくなって、そこで止まるレッスンやトレーニング」と、「3年先から基礎が身についてくるレッスンやトレーニング」との違いです。

 これは「ヴォイトレが、なぜ本当の基礎づくりのトレーニンとして行われていないのか」という、まさに、「あたりまえのことがあたりまえにできていないこと」、それなのに、「できていないことに気づかないこと」を言っています。

 

〇成果、効果とは何か

 

私は他のトレーナーの能力がなくて、ここのトレーナーや私が、そういうことを全て解決していて有能と言っているわけではありません。正直なところ、ここでも

1.目にみえる成果が出ていない

2.あまり成果が出ていない

と言わざるを得ない例もあります。

 

 体験談や効果としてアップしていることは、私どもがよいものばかり選んで載せているのではありません。よかったことは報告してくれますが、悪いことを書いて出す人は少ないからです。日々のやり取りのなかでは、問題になるようなことも出てきます。

 「成果とはいったい何か」ということを考えてみてください。少しの効果とかたくさんの効果などということよりも、求める成果とは本当のところ、何なのかを明らかにしなくてはなりません。

 これらは、私たちが取り組んできた問題の一つです。これについては、多方面からのアプローチを専門家の方々としています。複数のトレーナーとレッスンを行っていますから、ここでは、日常化している問題です。

 

〇効果の検証

 

1.効果があったが他のトレーナーならどうであったか(もっと効果が上がった、同じくらいだった、効果が上がらなかった、悪くなった)。

2.効果が出なかったが、(以下同文)

3.効果が出ているが、(以下同文)

私が思うに、9人のトレーナーがだめでも、1人のトレーナーが解決できるときもあるのです。これは研究所のなかで、9人がだめでも、まだ他のトレーナーがいるとか、研究所がダメでも、他のところにそれを解決できるトレーナーがいるとかで考えているのではありません。

 トレーナーの数などでなく、組み合わせでどう扱うかということです。同じ人でも目的、時期、レベルにもよるし、トレーナーも同じです。

 

〇トレーナーを判断する力、活かす力

 

 結局、

「誰にでも万能なトレーナーはいない」

「そのトレーナーが自分にとって、もっともよいトレーナーかはわからない」

 それゆえ、

「自分自身で判断できる力をつけていく」「なら、多面的な指導を受ける方がよい」

ことになるのです。トレーナーを判断する力をつけることも入ります。トレーニングそのもの、いや、その結果としての声そのものを判断する力ということです。

 

 今までついているトレーナーをやめて、ここにいらっしゃる人もいるのですが、どんなトレーナーでも全て否定されるようなこともありません。どこかは、何かは、メリットがあるのです。そこをどう活かすかです。

 トレーナー自身も相手により(目的、レベル、期間etc.)変わります。成長もするし、方針ややり方も変化します(そのような学べる環境におかれたらですが)。

 私は今、若いトレーナーもみています。彼らも、ある時期を経て、発声の基準や方法、教え方が変わっていきます。大体は成長していくものですが、あるタイプにはより向くようになるが、あるタイプには向かなくなることもあります。

 

〇トレーナーとの分担でみえること

 

 ここでは、レッスンの感想レポートをトレーナーにみせています。トレーナ―にもいろんな引き出しがあるので、それに工夫して対処していきます。そして、その力を引出、力をつけてもらうためです。

「自分なりに選んだトレーナーと長く密にやっていくことで、自分がもっとも使えるトレーナーにしていく」

 「自分のトレーナーの才能を全開させるようなレッスンにしていく」

ことが、最終的にはすぐれた接し方です。

私もそういう生徒さん、トレーナーたちのおかげでここにいて、誰もが経験できるわけではないすばらしいことを学ばせていただいています。

私自身が決めつけた答えをもたずに、私のやり方を押しつけずに、使えるトレーナーに育て、その制御だけをしてきたからです。自分ですべてをやるのでなく、トレーナーの才能を見抜き、レッスンの役割を分担してきたからです。こういう相手を育てたり、相手の仕事をつくる考え方こそ、人に接するときに大切なものです。

 

〇削ぎ磨いていく

 

 二十代の頃は何もかも一人でやろうとして、あまりに膨大なやるべきこと、知るべきこと、生徒の数やレッスンの量に忙殺されました。

 まわりは、レッスンだけでも大変な私に、ステージから打ち上げ、合宿からライブ、研修、構成、取材、執筆と、歌えや踊れや、書けや話せや、プロデュース、マネジメント、飲みに、話に、世に出せ、紹介しろと、何もかもを期待し、要求してきました。それを脱し、本当に大切なものだけを残したのが、今の研究所です。これからさらに削ぎ落していくつもりです。

 

○思い込みの排除

 

 レッスンを受けようといらっしゃる人は、少なくとも「今の自分を変えたい」「よりよくしたい」という思いのある人です。ですから、9割くらいの人は、今ここにあるレッスンを肯定的に受けとめてくれます。

レッスンというのが、正しいとか間違いとか、合うとか合わないとかばかり考えるのは、思い込みの強い人に見られます。あまりよくない先生や本などで学んでしまって、目が曇らされてしまったと思わざるをえないこともあります(こういう人はレッスン以前の問題です)。勉強して、レッスンすることを頭が邪魔をしてしまうのです。

 

1年半のジレンマ

 

私のレッスンは、私の本を読んでくる人が多いので、その傾向が強い人もきます。学んでいくうちに、心身や声そのものよりも頭ばかりがでかくなる人もいます。トレーナーになる人にもこのタイプは多いため、そういうトレーナーのレッスンがそうなりやすいということもあります。

 

 その世界に接すると、接する前よりも見えなくなってくる現象については述べました。1年半くらいたって、少し身についてきたあたりから、それは表れてきます。

トレーナーも全く同じです。1年少しで、自信が高慢になる人もいます。最初は遠慮し謙虚になってまわりに学んでいたのが解き放たれるからです。車の事故も大きいのは、免許取得後1年くらいの人だそうです。

 

○ビギナーズラック

 

 ビギナーズラックについては、それまでやっていないのだから、やった分は伸びて当たり前です。自分の潜在能力、これまでの余力の出るのです。しかし、時期が過ぎ、人並みになるとあたりまえにように、伸び悩むようになります。すると、いろんな疑念が生じるわけです。

 プロや経験者が、専念していたトレーニングから、ふと我にかえり、もしかしたら、ものになっていないのでは、と俯瞰して気づく時期にも重なります。

 このことが、3日とか3週間、3か月単位でくる人もいます。

 

〇頭でわかるな

 

勘や頭はよいと思われているのに、大成しないタイプもいます。芸事や仕事には知識は害にしかならないのです。そのことに気づかない、知、理論、科学が万能という信者です。つまり、芸や人間の深さを知らないのです。

これは自分は何でも一番だったとか、他人よりもできると思っている人に多いです。日本では頭で評価されてくるので、本人は他のことも同じようにわかるものと思いがちなのです。「わかるとできるは違う」のです。

 

○できるということ

 

 たとえば「地声で歌いたい」という人に、トレーナーが裏声(ファルセット)のレッスンをしたとします。すると、すぐに「これはいりません」とか「歌に使いません」という人がいます。

 言うのは構いません。そう思っていたのを伝えるのはよいことです。トレーナーも再考するでしょう。

しかし、地声のレッスンを望んでいるなら、地声でやるのが当たり前なのに、なぜトレーナーは、そうでないことをしたのでしょうか。

1.知らなかったから、忘れていたから

2.必要だと思ったから

1なら、本人が知らせたらよいのです。なかなかトレーナーには言いにくい人もいるので、私どもではメール(感想レポート)を使えるようにし、スタッフを介在させています。事前にも事後にも、ここはレッスンに向けて、本人のレポート(現状や本日のレッスンへの希望)で検討や確認ができるようにしています。

 本人の判断がつかなくとも、他のトレーナーやスタッフが介在します。私もトレーナーの報告(これは必須)、本人のレポート(これは自主的提出)をみてチェックして、必要があれば対策を考えるわけです。

とはいえ、毎回のレッスンで効果をあげたり、一つひとつの是非にこだわることはよいことではないのが、声の難しいところです。知識のように最初から○×が決まっているわけではないからです。声は、その日によっても違うですから、将来どうなるかは、すぐにわかるとは限りません。ここを間違えないでほしいのです。

 

〇受容から

 

 今の日本人には、510年とかけて何かを身につけていく経験をしたことがない人が増えています。頭で学んでいくこと、多くは記憶の反復しか経験していないから、なおさら、判断について、自分にとってよくないことをしてしまうのです。

 「思考をストップして、まずは受け入れてみる」本当に頭がよく、体で成果を出せる人は、こういうスタンスです。「体で結果を出せることを頭がよい」と、私たちの世界では言うのです。本当に頭のよい人は頭を使わないことができるのです。それが大切ということを知っているのです。

 

・具体的に事実をもって検証する。

・いろんな例外や他の可能性を否定しない。

・長期的に反復して確証を高める。

 

〇進歩する

 

基本的なことを踏まえていると、単純に、「自分だけが正しい」とか、「自分と違うから間違いだ」とか、浅いレベルの発言をしないでしょう。

 学ぶほどに知るほどに、経験するほどに問いがたくさん出てくるものです。つまり、進歩するとは、「知らない」ということを知ることです。

 

 「わからないけどできている」それがよいのです。わかろうとする努力は必要ですが、答えを求めるのでなく、問いをつくる、気づくことに意味があるからです。

 「答え」は、あなたの表現、ステージ、人生で出せばよいのです。まして、声やヴォイトレは、何かのための手段でしょう、メディアです。ですから、そこだけで、よし悪しを言うことはできません。

 本やTVやネットで、いいとか悪いとか言ったところで、いろいろな見解があるというだけのことです。現実での、現場での内容こそが大切です。時間をかけて本質に少しずつでも近づいていくことが、レッスンの本意です。

 

〇歌とヴォイトレ

 

 「歌に対してのヴォイトレ」をどういうスタンスで捉えるかについて、言及します。応用の基礎とか表現のトレーニングというくくりでも述べてきましたが、私の述べる狭義のヴォイトレは「声」の強化で、

1.共鳴

2.発声

3.呼吸(体)

の次元です。そこで、それぞれ、その関連を捉えるのです。

しかし、広義には、歌やせりふまで入ります。「話」の基礎として、その技術、あるいは声の機能面として日本語、その発音、アクセント、イントネーションなども含めています(「声の基本図」参照)。

 それをチェックするためには、現実的には目的にすべき表現、その人の世界観まで、必要とせざるをえないので、上位に「表現」をおいています(表現と声との問題だけみるケースや声の表現の判断やアドバイスだけをしているケースがあるのは述べてきました)。

 今のステージのために、声を応用するのが歌です。その状態を調整するのが即興的な歌のレッスンです。それに対し、将来のための基礎づくりとして、条件面を鍛えていくトレーニングとしてのヴォイトレを私は目指してきました。それゆえ一度、自分を白紙にして、表現を離れることが余儀なくされるのです。

 

○日常性の拡大

 

 発したらそのまま、表現に使える声というのは、理想的です。その根底にある本来の声の力にもっともこだわっているのが、私のレッスンです。

ことばも歌もつかない声そのものの表現力、絵でいうとデッサンの線や色でなく、一本の線だけ、一色の色だけをみます。そこまでシンプルにするのは、ここでしか行われていないと思います。

 一声だけのレッスンです。「ハイ」や「ヴォーカリーズ(母音)」「スケール」(ロングトーン、レガート)「ハミング」さえ、応用練習と位置づけています。

 歌では、その人の本当の声から離れていくことが、日本人の場合、一般的です。人のまねから入り、そこで留まるからです。

 無理なレベルのまね(外国人のヴォーカリストなど高度すぎるもののまね)か、逆に身近かな、あまりしっかりしていない日本人のヴォーカルのまねから入ることが大半です。入るのはよいのですが、それを目標とするので、そこから抜け出せません。「うまい人のまねをして、うまくなった」で終わってしまうのです。

 

〇歌の声を忘れる

 

 体の声とみていくことで、歌うための制限から声を解きます。すると、当初、発声の声と歌やせりふの声が一致しません。そういうジレンマに陥るのです。だからこそヴォイトレです。

声の完成を目指すのなら、そこで歌えなくなる、せりふにならなくなるのは、あたりまえです。そのジレンマをしっかりと受け止めなくてはいけないのです。

 自分の歌やせりふの声は、あまりよくないと多くの人が思っています。日常的に使っているからこそ、そのなかでのレッスンでは、大してよくならないのです。そこで私は、「非日常なまでに日常性を拡大する」ようにしていくのが、レッスンだと言ってきたわけです。これは、本人が「これまでにない表現や世界に対応できる器をつけていくこと」を意味します。

 たとえると、毎日一万歩歩くのがきつい人が、一年後に楽に一万歩歩けるようにする。腕立て10回しかできなかった人が50回できるようにする。10回しかできない人にとって、日常は10回で、50回は非日常です。でも50回できる人にとっては50回が日常です。100回ができなければ、そこは非日常です。本人が、その器が大きくなることで日常が強化される、拡大するのです。

 声量や声域では、量的な比較がしやすいので、それがヴォイトレの目的になりやすいのですが、それは副次的効果にすぎません。声からみたら、せりふということばでの発音なども副次的効果とさえと言ってよいと思います。

 

○声を目的にしない「ヴォイトレ」ばかり

 

 歌やせりふという表現は、声を基礎としつつも、声でなく、発音やメリハリ、メロディ、リズム、センス、その他の多くの別の要素、しかもそういう要素の組み合わせで問われています。すると、どうしてもわかりやすいものに目がいくのです。急いで身につけようと思うと、尚さら、表面的、機能的なものを求めてしまいます。残念なことに、トレーナーの多くも、そのレベルでヴォイトレをとらえています。

 そのため、余程、声だけにこだわらない限り、声は変わらないし、本当の成果も出てこないのです。

 

 「ヴォイトレで声そのものを求めている人」は、実のところ、案外と少ないといえます。また、教える側も「ヴォイトレ」と言いつつ、そのレッスンが大して声を中心にしていないことが多いのが現状です。「声と違うものを目的にしている」ことを表しています。それでは、声が変わるはずがありません。

 

〇声と発音の違い

 

 私のところは比較的、声そのものを目的にしている人が多いと思います。それでも、3人に1人くらい、その人のなかでも30パーセントくらいが、本当の意味で声の問題といえるでしょうか。それでもよいと思うのです。

 たとえば、アナウンサーなどが教えるのも、よいと思う「発音」や「語尾まではっきり聞こえる」ためのレッスンなどは、発声や呼吸から正していくことで、根本的な解決がはかれます。だからこそ、基礎というのです。

でも一時間くらいでの成果でみるなら、「滑舌、早口ことばのレッスン」が対処療法で早く効果が出ます。口をきちんと動かして、早口ことばを読んでください。レッスンしてしばらくは発音がよくなっているはずです。やりすぎて疲れると悪くなることもあります。

 日常から人前でしっかりと伝えている本職の人は、それが日常なのですから、必要ありません。一度マスターしたら、それは日常の能力に納まるのです。

 

 やっていないからできないものは、やればよいのです。私の出したCDの発音トレーニング(「ベレ出版」)でも使えば、すぐによくなります。しかし、声そのものがよくなるには10年、20年がかかるでしょう。

「アナウンサーの発音と発声」については述べたことがあるので割合します。彼らは発音から入り、結果として、その世界で続けていけた人は発声もよくなっています。発声までよくなった人が50代あたりなると、よい仕事をしていると私はみています。

 言うまでもなく、「今できていることはできていて、今できていないことはできていない」のです。「今できていないことは日常にないこと」なので「日常の環境や習慣を変えていく」ことです。すると、「今できていないことができている」ことになるのです。そのためのきっかけとしてレッスンがあるのです。

 

○本当の原因☆

 

 「今できないことが、将来、本当にできるようになるのか」については、そこでの必要性を細かく分類して示しました。

 今できないことは、これまで生きてきたところで、できている人に比べ何か(環境、習慣含め、素質、感覚、体、機能など)が足りなかったのです。ですから、そのままにするのでなく、変えるために、補強しなければいけません。「レッスンでそれに気づき、トレーニングで変えていく」のです。

 そこで「今すぐにできたり、役立つこと」は本来、トレーニングというほどのことではないのです。

 すべての元は、体や感覚です。フィジカル(肉体)とメンタル(気持ち)も含まれます。発声器官とともに聴覚、脳や神経に関わります。あなたの精神や体のことですから、出生から育ちと、これまで生きてきたすべてのことの問題です。

 しかし、安心してください。90パーセントは備わっています。あとの大半は、使われていないから、うまく調整されてこなかったのです。

調整できないのは、より高いレベルでの必要性、判断の基準がなかったからです。そこまで求められる必要性、条件がなくて、鍛えてこなかったことが、大きな原因です。

 

〇目標を高める

 

 「日本語を話せること」と、その「日本語のスピーチで人を感動させること」との違いのように、声と発音には、けっこう大きな差があるのです。そのわりには、とてもあいまいなのです。日常でたくさんのみえない経験が積まれてきた結果が今のあなたの声です。

どの場でも、状況で声の状態は異なります。多くの場合、人によっても評価の基準がまちまちです。

 声やせりふや歌は、慣れるだけで、かなりのことができるようになります。ですから、私はいつも、「目標を高く、必要性をMAXに高める」ように言っています。そうしないと声のレッスンもヴォイトレも、あるところからわからなくなると述べてきました。やることがわからなくなり、伸びなくなるのです。つまり、目標とのギャップが解消された=自己満足で、次の高みの目標とのギャップがみえていかないのです。

 

〇慣れと実力の違い

 

 慣れで状態をよくするのは、ワークショップのようなレッスンです。即興的な効果、本人の実感のレベルでの評価がなされます。その限界を、何度か「レッスン」というものとの比較として指摘してきました。状態を変えて対処できるようにしたくらいでは、一日体験教室なのです。

 一方で、すぐれた役者は、早くから現場で厳しい基準で指導されています。そのようなケースでは、自らの気づきを自分で組み立てて、活かせる人が残っていくのです。そういう人は日本では少数で、勘のよい天性の役者です。仕事にひっぱりだこになるので、そうでなかった人は違うと思ってください。

 今の力を10%高めるか、2倍にするか、10倍にするかで考え方もやり方も大きく違ってきます。これを論じられないのは、何をもって声の力とみるか、それが2倍とは何をもっていうのかが決まらないからです。あなた自身で決めるものです。声の表現で感動する人が2倍になるとか、感動が2倍になるというような結果でみるのです。

 

○地声と裏声

 

 地声と裏声の問題について、補足します。私はどれが地声だとか、どこがチェンジだとか、現場で相手があって初めて言える問題を、こういうところには出しません。ポップスでは、かなり微妙なことです。

 具体的な解答を期待している人には悪いのですが、どんなに一般例、他人の例について詳しく述べても、あなたに当てはまらなければ意味がありません(それでも、そこから学べるという人は、私の本や研究所の会報やブログでも扱っている範囲で学んでください。この「範囲」というのは、けっこう大切なことで、それを逸脱すると役立ちません。役立つことをやらずに、役立たないことに労力を費やす人が多いので注意しましょう)。

 

 「生徒とトレーナーとの質疑応答」を直接、聞いたらわかりやすいかもしれませんが、それでも当事者以外関係ないです。一人の生徒さんについて、何人かのトレーナーが相互の見解を出すとき以外は、意味がありません。

一般論、抽象論にもなりかねませんが、そこから自分に当てはめられる人には気づきの一歩になると思い、進めていきます。つまり、当てはまるかどうかは問わず、こういう世界観、判断基準が実在しているということを知るとよい、という意味です(これは論ですから踏み込むのであり、レッスンにトレーナーが論を持ち込むと、必ず偏りが出ることは知っておくとよいでしょう)。

 

〇ファルセット、裏声

 

 しゃべる声、地声はふだんから使うので個性的、かつ多様さ、変化に対応できます。それに対して、裏声はそこまでの変化は求めにくく、どうしてもある程度、どれも似てきます。そのため、私は、発声は共鳴を中心にして精度をあげていき、楽器的に使うべきものとしてみています。

 ケースによっても異なります。一般的に、男性は地声、女性は裏声で歌うなどと言われてきました。歌においては、男性は1オクターブ低く発声して、1オクターブ半くらいで使えますが、女性はそれだけの声域を地声だけでカバーしにくいので、裏声に切り替えることが多いのです。

 最近の日本の男性の歌唱については、J-POPSでの高音化により、特殊な楽器的効果でしか使われなかったファルセットをよく使うようになった(身近なものにした)といえます。かつては、ファルセットは高いファ、ソあたりで一音だけ使っていたのです。今はその半オクターブ高く(ハイCあたり)使う人もいます。また、ファルセットをハイトーンに限らず、効果を狙って頻繁に使うようになりました。

 

○離れる

 

 発声の先生で"地声”の悪い声を避け裏声だけを使わせる人がいます。「地声は厳禁」というわけです(こういう地声裏声の用語については拙書に詳しい)。ケースによっては「練習を裏声で、歌で地声」というのも決しておかしくないのです。

 「高音が出ない」という人に、高音でやってみます。そこでうまくいかないとわかったところで、低音や中音域中心のレッスンをやります。これは、高音域をあきらめたわけではないのです。一時、そこを離しただけです。スポーツの部活動での試合で負けて、走り込みを強化しているからといって、やめたとか陸上へ転向したとか言わないでしょう。

 「本人が今の課題から離れられないで行き詰っている」からこそ、そこから離すのがトレーナーの役割であり、「一つの指針」です。

 

〇すぐにできることは問題と言わない

 

多くの場合、くせで固まっているのです。早くうまくするなら、そのくせを器用に扱うすべ(共鳴)を教えます。根本的によくするのなら発声をおいて、声そのものについて学ばせることです。

 「できているなら課題ではない」のです。「できないから課題」なのです。そこですぐにできたらおかしいのです。少しやっただけで、または、ちょっとしたアドバイスで解決することは大した問題ではありません。つまり、直しても、そのことで大した力もついていないのです。

 実力がないのに、これといった問題がないとしたら、本当の問題を発見することが大切です。その人の器は、問題をつくるところにあるのです。トレーナーの才能についても同じことがいえます。あとはそのギャップを時間をかけて埋めていけばよいのです。

 歌手は、役者よりも自由な分、答え探しや答え合わせに急いでいるような気がします。

声や歌というのが本人の自然体から離れているということでは、「こう歌わなくてはいけない」という制限が、多くの人にあるからといえます。

 

○二大問題

 

1.呼吸の問題=体ができていない

2.イメージの問題=声の判断能力が足らない

というのがヴォイトレの二大問題です。

多くの人がそれに気づかず、目先の問題で悩んでいます。バンドやまわりの人も、目先の問題ばかりを指摘します。目先とは、声量、声域、音程、リズム、発音などです。

 そういうものは、慣れたら直るもの、少しやれば変わるものが大半です。

ヴォイトレがそういうことの修正にばかりに追われているケースが多いのは残念なことです。根本からのトレーニングをやらなくては、高いレベルでの解決は、何年たっても、多くの場合、一生かかっても大して変わりません。

 即興的なレッスンで、うわべで直るものは直してしまうのもアプローチの一つです。23年やって、「根本的にやらないと直らない」と真底思ってから、本当のスタートをするのです。そこで基礎の大切さを知っても遅くありません。この際の問題は、その修正が将来の邪魔をしないかの見極め、これに尽きます。

 

〇呼吸のこと

 

 発声の基礎は呼吸と言われていますが、そのことが本当にわかっている人はほとんどいません。トレーナーも含めてです。“呼吸法”などといったまやかしは、どうでもよいことです。トレーニングの方法も、メニュもどんなものでもよいのです。それによって深まっていくかが全てです。

 「表現を支えられるだけの呼吸を得る」ことが、本当の基礎です。これは生きていること、生きる力そのものです。

 いくら音声表現の基礎といっても別に習得するような特殊なものはありません。90パーセントはすでに誰もがもっているものです。その延長上にあるのです。

 呼吸でも寝たきりの病人と、オリンピック出場レベルの選手では、かなり違います。そこを私は9099パーセント内での違いと言っているので、誤解のないように。そして、研究所は、アスリートもできていない残り1パーセントをつめるところです。

 

 ヴォイトレというといつも呼吸法が問題となります。私も呼吸に関するたくさんの質問に答えてきました。研究所でも、メニュやQ&Aなどでよく扱われています。大体は「胸式呼吸でなく腹式呼吸を使いましょう」のレベルです。

 そこでは、呼吸や発声のふしぜんなども伴って問題とされます。ヴォイトレの本意を伝えたい私にとって、いつも取り上げざるをえない課題です。

 最近は、呼吸法や腹式呼吸の訓練、トレーニングそのものを否定する論調や、腹筋トレーニングを害とするようなものもあります。どれも低いレベルだから問題になるだけのことです。

 

〇現場での進化

 

 いろんな方の疑問に、いろんな専門家の論も引用されています。勉強にはなりますが、私の指導を変えてくれそうな説得力のあるものではないのです。私も、新たなことに気づくために質問を受け付け、答えてはいるのですが…。

 「勉強になる」のは、これまでもくり返してきたように、ことばの限界、トレーニングやレッスンの浅さについてです。自己正当化のために立論しているのならまだしも、10代の子のように「こんなことを聞いた」とか、「偉い人がこうやっているから」というレベルでの引用、思いつきのような言い放しなど、仮説にもならないものが大半です。

 多くの仮説や問いかけが出ていますが、現場を持ち、地道に何年も何百人にも試行し、他の専門家に聞と試してきているのが、研究所です。

 ことばやレッスン、トレーニングの仕方は、相手によっても、また、日々でも、変わっていきます。そこで変わらないのが本質的なことです。

 今のここでのレッスンは10年前の私のレッスンとは違います。レクチャーで話すことも毎年、変わります。

 学べない人のなかには、昔の私の本をもって批判する人もいますが、私も常に改訂する努力を続け、本も、こぅいう文章も改め続けているのです。今の、ここでのことでの意見を賜りたいものです。

 

○腹筋のトレーニングの害?

 

 呼吸については、浅はかと考えざるをえないことが具体的にいくつかあります。呼吸は体と密接に繋がっているのです。

 「腹筋トレーニングは害だ」ということ、これは「腹直筋」は発声に直接、関係ないから鍛えない方がよいというような類のものです。「ボディビルダーのように筋肉をつけても、マラソンや100メートル走で優勝できないどころか、走るのに邪魔になる」という理屈でしょう。

 初心者には、アスリートなみの筋肉を持つ人は少ないでしょう。アスリートの筋肉をもっても声がよくなるという保証はないのですが、その上で、体力、筋力は、欲を言えば、彼ら並みにあった方がよいのです。それと、彼らのメンタル力だけでも、歌手や俳優の必要条件のおよそは満たせると思います。

 大体、そういうことを言うのは、両極の人です。スポーツなどで、すでに鍛えられた筋力をもつ人と、その真逆の人です。体の弱い人やあまり運動したことのない人にも多いのです。なかには腹筋が弱い人もいるでしょう。

 最低限の腹筋をつけずには、歌やせりふは言うに及ばず、舞台で30分、集中力を欠かさず立っていることも難しいでしょう。普通の人なら、声をよくするのに心身を鍛えること、柔軟にすることがもっとも効果的なアプローチだと思っています。まして、弱い人なら効果倍増です。ですから、その逆のことを知識として習得することは余計なことです。

 害になるとしたら、「カール・ルイスがバスケットの筋トレをしたら100メートルが遅くなる」というようなハイレベルにおいてです。舞台においては、心身の力、体力や集中力は余りあるほどつけて損することはないというのが、現実のアドバイスです。

 

○メニュを自分に合わせる

 

 私のトレーニングについて、本のメニュでは、出すごとにその回数や秒数を減らしています。アゴの運動なども制限しました。「痛くなる人はやめるように」などの注も付けました。スパルタな鍛錬法からラジオ体操や健康維持レベルに落としました。

 誰が使うのかわからない本では、心身の弱い読者のことも考えなくてはなりません。私は心身について、かなり学んでいるつもりですが、治療の専門家ではありません。本のトレーニングも発音や体に関することは、それぞれの分野の専門家のチェックを受けています。

 メニュのトレーニングでは負担が多い人もいます。そこでは伝えたのと違う方法や基準でやる人もいます。

まじめで熱心な人は注意しましょう。自分によくないと思えば減らしてよいのです。体育会系で「痛い分、身につく」みたいな考えの人は、やりすぎないようにしてください。

 

〇鍛えるプロセス

 

 大体、よくない方向に行くのは「急ぎする」「充分な休みを間に入れない」ことが原因です。それでは、雑になるので、喉が疲れてしまいます。再現性に欠くところがよくないのです。一時よくない方向にいってもそれ自体は大して問題ではありません。どこかがよく、どこかが悪くなっていることが多いからです。

それが自分にどこまで必要かという判断ができるかです。しかも、トレーニングですから、今でなく将来にということです。

 

 ここは十数名のトレーナーでレッスンをしています。レッスンで喉を痛める人はいませんが、自主トレやステージでは、ときにやりすぎる人がいます。喉の悪い状態でレッスンにくると、クールダウンしかできないこともあります。

 「喉の鍛えられるプロセス」については、未だ、解明されていません。現実の成果と照らし合わせて、個人差や年齢、性別と模索中です。一人ひとり違う喉で違う発声をしているのです。そう簡単に万人に共通のアプローチはできません。

 声楽というところでの基準は(これも決して完全に統一できるものではありませんが)、マイクを使わず共鳴させる技術としてのプロセスをとることです。これはある程度、民族、性別、年齢を問わず、共通に使われ、実績を出してきたので、今のここのレッスンの中心に据えています。

 

○アイドルのレッスン

 

 ここには何名か、日本でメジャーな会社のアーティストがきています。発声に声楽の基礎を身につけさせています。

 大した基礎もなく、現場に出される日本の業界は特別です。かつては20歳大半ばで使い捨てでしたが、今は、あまり年齢で決めつけられないところはよくなりました。

 しかし、ルックスとスタイルなど、声とは別の視点で選ばれてくる人なので(女性も男性もです)、現場は大変です。アナウンサー、声優、ナレーターと「声がメインなのに声以外の要素で選ばれていること」が少なくないからです。

 「クールジャパン」というカルチャーとしては、「かわいい」という一面で肯定しつつも、私たちのレッスンのスタンスとして、そこには距離をもってとるようにしています。

 何であれ、世に出て、人に影響を与えているものは容認しています。次代のものであればこそ、わからないのですから、そこには口を出しません。古いものも新しいものも、関わるからには、手助けをする立場をとっています。

 

 次の世代に目を向けるように気をつけています。上の世代には、私自身も大きな影響を受けてきたと思います。その上で、団塊の世代と戦争経験世代をみてこそ、今の日本も次代もわかるのです。

 20代のブームは40代くらいの人が仕掛けているので、そこはわかりやすいところです。今のTVからネットへの変化というトレンドが、みえにくくしているのです。

 

〇声楽を使う理由

 

 アイドルの話を持ち出したのは、私が最初に関わって、もう30年になることと、その縁でいろんなところからいらっしゃるからです。

 最初は「ステージのための声の調整」がメインでした。時間的に基礎づくりをできなかったために、私が研究所を一般の人が長期的にトレーニングできる場として設けたいきさつがあります。当時、ポップスを教えるのは、作曲家やピアニストだったのです。

 今の研究所では、声の調整としては、声楽を広く使っています。歌以外での活動で声を疲れさせ、本調子の出ない人の管理、医者や整体師のようなスタンスにレッスンの重点が移ってきたのです。

 

〇喉の負担と管理

 

 オペラ歌手でさえ、ヒロイン(プリマドンナ)以外は、打ち上げに顔を出す時代です。握手会やサイン会が、コンサートのあとも、歌手の喉に大きな負担をかけています。

 喉は疲れたら、休めるしかないのです。コンサートのあとにカラオケで歌ったり、アルコールを飲んだり食べながら大声でしゃべると痛めるリスクが大です。すぐ休めるように言っています。

 黙っているか眠るのが一番よいのです。しかし、まわりがそれを許しません。ヴォーカルは、本人の気性もありますが、立場上もどうしてもリップサービスする役を避けるわけにはいかないことが多いからです。ましてアイドルや、先物買いされた人たちは、笑顔と会話が売り物なのです。

 「喉の管理としてのヴォイトレ」をしています。特別なやり方があるわけではありません。自分の心身や声の状態の把握、サイクルの分析、予兆の捉え方とそれぞれの状態でのメニュをつくり、やるべきこととやらないことを決めていくのは、通常のヴォイトレと変わりません。

 同じことをどういう意識をもち、何を基準にして、どう判断していくのかがすべてです。そういう意識のない人は、それを学んでいくことがレッスンでもっとも大切なことです。

 

○イメージをもつ

 

 まわりにアドバイザーはいても、本当に的確なアドバイスをしてくれる人はかなり限られるものです。大した根拠もなく無責任に言っているだけの人は多いものです。お客や周りのメンバーの意見も似たようなものです。細かいこと、よいことや悪いことを言ってくれる人が必ずしもアドバイザーとは限りません。そういう人の言うことは、かなりズレていることも少なくないのです。

 しかし、くり返し言われると、知らずと本人はそれを軸に考えるようになります。それを無意識のうちに入れていくから恐いのです。

 自分の知らないうちに、現状や理想と異なるイメージの世界ができてしまうのです。トレーナーにも気をつけなければなりません。レッスンでの声や歌のイメージづくりは、必ず偏るのです。

すぐれたトレーナーも、あるタイプに対しては間違ったイメージを入れてしまうケースも少なくありません。トレーナーとしては、もっとも気をつけなくてはいけないところです。

 イメージは大切なので、一つに限定せず多様にしましょう。レッスンで声のイメージを共有し確立していきます。そのイメージが現実化したところで、どうなるかをいつも考えることです。

 

〇スタートライン

 

 「高い声を出したい」、それが「出せた」としましょう。それでOKでなく「何が変わるのか」をスタートラインにすることです。

 「オーディションに受かりたい」というなら、「受かったらどうなるのか」です。多くの人は、このスタートラインを目標にしたり、あるいはスタートラインにもならないことを目標にします。

 それでも何ら目標を持たないよりはよいのです。目標は変更できるからです。「よい声にしたい」「ファルセットを究めたい」でもよいでしょう。それらは一時的な目標で、きちんとした目標を持つためのスタートラインです。

 よく似た例を出すと「英語をしゃべれるようになりたい」人と「外交官として活躍したい」人では、また、「英語でビジネスをしたい」人と「英単語をできるだけ覚えたい」人では、このスタートラインが異なると思うのです。

 スタートラインから、ゴールを定めるのはなかなか難しいのです。だからこそ、レッスンを通じて、そのようなことを実践していくのです。そこで学びながら設定していくのでよいのです。

 ですから「学べるところ」へ、いえ、「学べる何かが与えられるところ」、「自分にとって何か大切なものがひらめくところ」へ通い続けることが大切です。

 

○なれないところでなる☆

 

 「誰もがこうなれます」というところで「こうなりたい」なら、さっさと行って「なればよい」のです。でも誰もが、お金や時間でそうなれるのなら、そういう保証がうたわれているなら、それは、そうなっても大した価値もないのです。

「やった人の誰もがそうなった」というところは、ゴールでなくスタートラインです。そこから「誰とも違い、誰にでも(そこまではいいませんが、誰かに)価値を与えられるようになる」ことです。

 最初から「他の誰かができること」でなく、「自分になる」道を選べばよいのです。しかし、自分勝手では自分になれず、自己否定を通じてのみ、自分が活かせるというパラドックスもあるのです。すでに何かしら、あるものに入って鍛錬することが、結局は、正道となります。

 それは、人間として共通の価値だからです。あなたの心身も、それに支えられて生きています。すでに体は正しく働いているのです。

 でも、頭というのは白紙で与えられ、自分で配線するのです。育ちのなかで、自分の好き嫌いや自分の欲で気づかないまま、ほとんど配線されてしまっているのです。自分らしくなどといった、小賢しい知恵で曇らされてしまうのです。これが大きな知恵、智恵になるのにはその頭を切らなくてはなりません。仏教の知恵ですが、まさにそういう世界では、この世で生きていくための理が述べられているから、いつの時代も人々が惹きつけられているのです。

 

○知恵

 

 宗教、哲学、芸術は、真理を求めて、それぞれのアプローチで成立してきたのです。芸や武道、スポーツも、発明や研究など、すべて人間の高度な活動には理があります。そこを本質として捉えられるか、その経験を得られるのか、それをレッスンという場は与えていると、私は思っています。

 私自身、声を通じて気づいたこと、学んだことは数え切れません。そういう見えにくいものを少しは見えるようにしたのが研究所であり、メニュやカリキュラム、ここのシステムです。問い合わせから、皆さんのアプローチしてくるものにも、いろんな知恵があるのです。

 

〇価値をつける

 

 与えた100100以上に使える人は少ないものです。うまくいく人たちは1割を10倍にして使っています。つまり、私が1万円渡しても、1000円くらいにしか使っていない人もいれば、1万円として使う人も、10万円や100万円にしている人もいるということです。

 レッスン料として、30分で何コマというのは、代金に過ぎません。レッスンの時間や回数と料金にとてもこだわる人もいます。サービスに見合う価格設定という、世の習わしに即しているものの、本来、学びの場に金額はつけられません。何億円にも比べられない、無限の価値にもっていった人もいれば、払った分だけ得たという人もいるし、なかには払った分、損したという人もいるでしょう。

 

 今の消費者主体の世の中、商品やサービスに関しての考え方は、芸事に関しては受難の時代といえます。評価の定められるものに対して、厳しい意見は貴重です。しかし、芸事ではそういう基準もなくなり、敢えて厳しいことばを投げる人がいなくなりました。ほとんど誰もが「いいね」を押してくれるのです。

 会社で上司が部下を育てられなくなった。部下に媚びるばかり、叱ることができない。家庭で親が子供を育てられなくなった。これも同じです。

 好き嫌いでなく、芸がすぐれているかでみなくてはいけない世界で、好きでしか選ばない、嫌いなものや人には接しない、というのでは浅いレベルでしかならないのです。嫌う人にも有無を言わさないのが、芸の力です。

 

○好きとオリジナリティ

 

 「好き」は大切ですが、ファンとしてではなく、表現者としてみるなら、「感性として何かに惹かれる自分がいる」「それに反応する自分に、そのなかに何かがある」から、「そこは個性やオリジナリティの元になる」ということで重要です。つまり、可能性です。

 「好きでなければ続かない」というのは浅いレベルです。ものにする人は、好きであろうとなかろうと続けるのです。好きでなければ続かない人は、好きでなくなるとやめます。入り込むほどに好きでなくなることもよくあります。そんなことはどうでも、続けているのを、私は、プロ精神としての好きとみます。

 それはその人の個人の感情を超えて何かがその人を動かしているのです。深い「好き」が大切です。

 

〇くり返し重ねる

 

 コツコツとした努力は欠かせません。単調なことのくり返し、シンプルなことの連続が行われていますが、同じことを続けるのは、なかなか難しいことです。

幼い頃に無理に習わされたことでも、一人で自由になっても続けていたら好きなのでしょうし、やめたらそれほどでもなかったといえます。

 そのように没頭している自分が好き、くり返している自分が好きというのがあります。時間が積み重なるなかで得られるものは限られていきます。多くの他のもの、ことで、人生は犠牲になります。残るのは、確かな技術であり、職の価値です。そこで働きかけるものが、アートの価値です。

 レッスンは、そのきっかけ、気づきです。トレーニングはこのくり返しです。「がんばる」というのは、まずは「黙々と続ける」ということなのです。それによって底上げができ、再現性が高まります。その準備があってこそ、その人独自の才能が開花する、可能性が高まるといえるのです。

 

○精神論として

 

 私の本は、精神論が多いと、よくも悪くも言われたことがあります。私はそれでよいと思っています。本だけでは、トレーニングにはなりません。「問い」を発して、その人の思考から思想をつくるのが、私の考える役割です。場として研究所があるのですから、本は精神論でよいのです。

声のメニュやノウハウは、そのままでは多くは誤用されます。あるいは誤用もおこさないくらいの表向きだけのレベルで使われます。自己満足―自己完結の域をなかなか出られないのです。

 

 人は、それぞれに学び方があります。本や文章は、その可能性を拡げられたら充分です。それ以上に問うてくる人には、「論に向かうのでなく、実践しなさい」と言います。論に振り回され、それだけでの承認を求めたくなるような、今の日本の風潮は、気がかりです。ですから、論に振り回されないように論じているのです。

 

○オリジナリティ

 

 オリジナリティを「初めてやったこと」とか「誰もやっていないことをやった」など、人と違っていればよいという見解もあります。しかし、私は、レッスンとトレーニングの視点から、オリジナリティを「他人のなしえないことで他人に通じさせる価値」として捉えています。

 確かに初めての試みは、そのことで評価されてもよいですが、他人と違うことをやればよいわけではありません。私の立場として、研究所のレッスンとの絡みで述べています。となると、リピートと積み重ねが肝心です。

 YouTubeで話題になるものは、動画という伝達手段を誰もが手にして、まだ日が浅いため、「初めて」とか「人がやっていないこと」が多いでしょう。それなりに楽しめる価値があることを知らしめました。確かに100万回以上も再生されているのは、100万枚売れたレコードには遠く及ばないとしても(少なくとも無料ですから)、何らかの価値のあるものと言ってもよいでしょう。

 でもオリジナリティとは「オリジン」、「その人のなかの、その人たるもの」が出てきたことについて、私は使っているのです。他人との違いというと、同じか違うかというのは、程度問題、細かくみていけば全てが違うのです。

 

〇認める力

 

ものまねもそっくり芸であれ、同じものはこの世に2つもないのです。

 でも、同じくらいに誰もができるものなら、先にやった人が勝ちだと思います。先にやって認められるというのは、結構なエネルギーがいることです。それを最初に認めた人が大変に重要な役割を果たします。トレーナーもまた、そういう役割を担っているのです。

 最初は、着目したところや発想が問われるのです。最初の人は手がけたけれど認められず、二番手が世に知らしめたという例もあります。ハンバーガーのマクドナルドもそうでした。

 日本のように他国のまねから文化、文明を発達させてきた国は、この二番手以降の応用に強いのです。

あるものが他の国に入り、他の民族が行うと結構なオリジナリティにまでなるわけです。あたりまえのように生活のなかで扱っているものの価値を発見したり高めたりするのは、いつも周辺の人たちです。

 

〇オリジナリティと声

 

 多くの人が長い時間、継承して育んでいく。それが文化です。ですから、オリジナリティもその風土と切り離せません。

 「誰かに影響を受けて、誰かが立ちあげること」から、オリジナリティの価値が問われます。歌を、表現、アートとしてみたときに、トータルとしてのステージ、その人の体から出る声、その動きの一つである歌と、その人の人間としてのトータルな世界観としてオリジナリティの価値が問われます。

 そこからみると声は、それだけで充分ではないとしても、必要な条件の一つといえます。

 歌い手が、歌の価値をどこにおいているかは、それぞれに違います。価値を声に置いたとき、その人がもって受け継いできたDNAから、そこまで生きてきた育ちに大きく影響されているものです。そこからオリジナルの声や作品としてのオリジナリティをいろんな形に切り出すことはできます。声として、歌として、ステージとして、それぞれに表現をみるのです。それを念頭においた上で、ヴォイトレでは、まずは、体からの声というところでみる、独自の声としてのオリジナリティをみるべきだと私は思うのです。

 トータルであるがために作品づくりに急ぎすぎ、声にくせをつけたり、本人の限界まで整えずに可能性を狭めたりしていませんか。使いやすいだけの声、痛めていく声を使っているのは、もったいないことです。

 その前にもっと開放すると、自由自在に扱える声があるのです。もっと深めたら大きな可能性が開かれるのに、歌はおろか、ヴォイトレまでも、声そのものよりも発音、ピッチ(音高)、リズムばかり気にして、本当の声を使うアプローチをしていないことが、現実には本当に多いのです。そこが、私は残念でならないのです。

「本質の話」

○本質の話~総合化と個別化

 

 声のまわりの問題を総合してから、その人自身の声そのものの問題に焦点をあてます。そこで、声はどのように鍛えられていくかということをみてきました。

 ヴォイストレーナーも成果を急がされ、プロデューサーや演出家的のような役割を求められています。そのなかで、これは忘れられ、取り上げられずにきた大問題です。彼らは声質や才能ある、すでに選ばれた人を扱えばよいということです。

そうしたチェックとの違いは、選ばれるまでブラッシュアップして、よりよくセッティングし、調整するのです。

 

 私も最初はプロにだけレッスンをしていました。

トレーナーは、トレーニングで、そうでない人をプロレベルにしなくては、その名には値しないと思ったのです。そこからのここの現実の歩みについては述べました。

 アーティストを育てるのは1010勝とはいきません。なのにヴォイトレは、確実なものとして、ローリスクローリターンの声の調整一辺倒になってきたのです。

 

〇プロと声

 

確かに発声法でなく、声そのものが変わっている人で、声でプロになっていく人もたくさんいるのです。

 プロという声の定義はとてもややこしいのですが、私は、いくつか機能面をチェックとしてあげています。その多くは総合化したもの、声の使い方であって声そのものではありません。

 本質は、声質、音色についての変化についてみることです。

 役者、声楽家には、声が大きく変わる人がいます。一般的に、他の分野では10代後半から20代、成長が止まるまではあまり、落ち着きません。その後、老けたり、かすれたりすることはあります。しかし、男性の第二次性徴期の声変わりほどの大きな変化は起きません。

顔が人を表すのと同じく、声も人を表します。職業や地位の変化により、声は驚くほど変わることがあります。

 同じ人でさえ、自信のあるときと、落ち込んだときとで変わるものです。

 

○声の使い方での変化

 

 ものまね芸人を見ていると、意図的にいろんな音色をつくる能力を、人は持っていることがわかります。奥様には、「よそ行き声」と子供を叱る声が、1オクターブも違う人もいます。電話での応答で、相手によって別人になるのは、女性に限ったことではありません。

 これらは口内や声道での変化によって可能なので、声の使い方となります。

魚市場のせりの声やアメ横の売り声は、職によって嗄れ声になることが多いのですが、なかには立派な声の人もいます。

同じ人でも社長になるか平社員か、営業か技術職かでも2030年の歳月は人の声を変えます。データとしてはとりがたいでしょう。心身が弱ると声が別人のようになることもよくあります。ホルモンでも違ってきます。

 

〇劣化の逆

 

 声を使わなくなったための劣化は、声をよく使う職業から引退した人をみると、よくわかります。歌手のなどは、歌わなくなると声が高いところへ届かなくなり、声量も衰えます。

 トレーニングは、使わないために劣化することの逆をやると思えば良いのです。使っていくことで、その扱いをすぐれさせていくのです。

使い方を間違えると痛めるのは、他の分野の身体トレーニングと同じです。

 目的とその人にあった量や時間がありますから、無理せずにゆっくりとコツコツ長く続けていくのが理想です。早く変えたいからトレーニングすると、そこに必ず矛盾が出てくるのです。

 「使い方を間違える」というと、声の間違い、間違った声や不正解の声があるかのように思われる人もいるでしょう。これは目的にそぐわない方向にすることと考えましょう。

 

○声楽家とクラシック

 

 声楽家の先生などには「日本人の発声は皆、間違っている」と言う人がいます。「日頃からイタリア人のように発声しろ」と教える先生もいます。私はそういう人の理解者でもありますが、教え方については、一般化できないから相手にされないと思うのです。もちろん、クラシックという分野が確立しているから教えられているのですが。

 私は、歌手はもちろん、声優、俳優からビジネスマンにも「声の問題を解決したければオペラを学べ」と言っています。オペラ歌手に学べとは言いません。オペラ歌手のような声になりたくなくても、クラシックといわれるものには、人類の財産として共有するに値するよいものが詰まっていると思います。

 多くの声楽家は、「他の先生は発声も教え方も間違っている」と言わないまでも思っているのです。それには違和感を感じざるをえません。

 「大人のラジオ体操」にも、プラスαとしてバレエの基礎やヨーガが、載っていました。人類皆兄弟です。

 

〇叩き台

 

 これを述べているのは、自己を正当化するためではありません。結果として、誰でも自分が正しいという自己肯定から始めています。ですから、批判すると、天に投げた矢は、自分に落ちてくるのです。

研究所は、私以上の研究生やトレーナーがきて、学べることを前提につくっています。そうでなければ私が行う意味がありません。

 世の中には、すばらしいアーティストや演奏者がいるのですから、そのようになりたければ、そこに行けばよいのです。しかし、そのうちの1パーセントの人もそうはなれない。そこから、ここはスタートするのです。

 私が教えるのでなく、皆が学ぶのです。私に追い付くのでなく、私やトレーナーを叩き台にしていくのです。本もブログもメニュも材料であり、叩き台です。

 次の時代のために、次の人がより高いところへ行くためにここがあるのです。これを間違えると、すばらしい劇団とか養成所とかアーティストのところでも、人は育たないのです。

 

〇絶対視しない

 

 歌や声が声がよいからとまねしたところで、人は育つものでしょうか。それがトレーナーの資格だとすると、私も世界一、声がよく、歌がうまくならなくてはなりません。

 私が見本をみせるとよくないのは、それがサンプルになるからです。サンプルの一例というならよいのですが、気をつけないと(いや、気をつけていても)絶対視されていくことがあります。

 ポピュラーではオペラと違い(オペラでもそうかもしれませんが)、先生に似ていくのは自殺行為になるのです。

 影響力のある人ほど、その影響をストレートに与えすぎてはいけません。それによって洗脳された人が集まるようになります。

 一流のアーティストと出会い、そこに学んでいくやり方は、これまでも述べました。環境=場と材料、基準を与え習慣化させていくことが、ここのレッスンの真髄です。それがわからない人との間では、私も、個人レッスンになってからは、気兼ねなく声を出しています。

 

○筋肉と声

 

 向こうの曲に関西弁をつけて大ヒットをとばした歌手が、私のところに向こうのレベルの声と体を求めてきたことがあります。そのころの私は、まだ体についての理解が十分ではなかったので、彼は、イチローのトレーナーのところに行きました。「1ヶ月で太ももが2倍になった」と言って、それに対応できるようなヴォイトレを求めていたのです。

 1ヶ月では声の太さは2倍にはなりません。外国人のような声にもなりません。あるいは、声の太さや外国人と同じとは、どんなことなのかということになります。

 声帯は2倍にもなりません。喉の筋肉を2倍にはできません。将来の整形外科手術などでは可能かもしれませんが、発声と筋肉量の明確な関係はわかっていません。筋肉の力の働きとその結果の発声は違います。力でなく音に変化させるのですから、筋肉を使うとはいえ、音響物理学や音声生理学の分野です。

 

〇プログラム化

 

 これまでにもボディビルダーやフィジカルトレーナーのように体のつくりそのものを研究してきました。いつか毎日のトレーニングメニュや食事など、24時間の管理において、ベストのプログラムを実現していくのは、トレーナーの夢でしょう。

 「貴方は、この項目のうち、この○項目に問題があります」「このメニュを毎日、○分○回くり返し、○ヶ月たてば必ず解決できます」そう言いたいのです。

 

 勘と経験を頼りというところから、データとトレーナーの知恵を使ってきたおかげで、私一人でやっていたときよりは、多くの人に対応できるようになりました。

しかし、その完成度はスポーツのトレーニングなどからみると雲泥の差です。彼らは3Dセンサーから血液分析まで24時間をデータ収集し分析し、プログラム化しているのです。

 声は楽器とも異なり、客観的に効果を測りにくいためにアプローチが発展しません。データも客観的でなく、その理解や判断も状況にすぎません。勘を頼りのプロジェクトで、実績、結果として積み上げているのが現状です。

 

〇経験の限界

 

 いろんなトレーナーが20年、30年とかけて、人をみてきたところからの判断や処方は、とても参考になります。トレーナーにも天才的な人や神様のような人もいますが、実績のある人ほど、ある特定の条件下での対応となってしまうため、なかなか一般化できません。

 トレーナーの書いた本が、トレーナーが望むようにうまく使われていないのも、その証拠です。それでも「すごい効果が出た」とか「声が変わった」と言ってくる人がいるのは、ありがたいですが、複雑な心境です。それがどの程度なものか、本当にメニュのおかげかもわかりません。他のメニュの方がもっと早く高い効果が出たという可能性もあります。

 トレーナー、レッスン、トレーニングについても同じことがいえます。十数名ものトレーナーがいると、いろんな試行ができます。多くの人は1人のトレーナーと進めて、問題も深くつきつめられないことが多いように思います。

 

〇複数の視点

 

 一つの方法がよいか、複数の方法がよいか。トレーナーを変えた方がよいか、続ける方がよいか。私は「どこのトレーナーがよくない」ということはありません。ここと両立させている人もいるからです。

 ここのトレーナーは最低2人ついて、それをメタでみるサードオピニオンとして私や別の専門家がいることが、他とは大きく違います。他のトレーナーの価値観や方法、メニュについても、たくさんの情報が入ってきます。判断の材料が多くなるわけです。他のところではOKでも、そこから絞り込めば、矛盾も問題もけっこう出てきます。

 いつかそれを楽しみ、自分の変化を楽しめるようになればよいのです。トレーナーや私が、あなたを変えるのでも、つくるのでもありません。自らを知るために人につくのです。☆

 私は、「トレーナーにあなたのレッスンの邪魔をさせない」ように注意しています。

 教わりにくるところであっても、いずれは、主体的にならなくてはなりません。日本人は、自立、主体的ということを大人になっても、どこかで学ばなくてはいけない人が多いようです。

 私は昔、教わりに行きましたが、一方的に教えられたくはなかったから、あまり教えないところにしました。

芸事は環境を与えて待つのです。そこの醸し出す空気が、先人たちが流した汗と涙がみえない力となっていくのです。人類のDNA、地球も宇宙も、あなたが、あなたであるように助けてくれるのです。

 

〇本一冊分のノウハウ

 

 私はトレーナーにも生徒にも一冊の本を、自分の本を書くように言っています。本当に書いた人はこれまで数人ですが、本一冊分以上書いた人もたくさんいます。

 トレーナーなら23年で毎回しっかりレポートを出しているので、それだけで400200枚くらいになります。週に400字×3枚ほどでも2年ほどで一冊分となるのです。

 

 一回の出会いでも一期一会で、変われる人は変わるのです。今もレクチャーは月に何回か行っています。その人を本当に知るには 何年かかかります。トレーニングが幹となり、枝葉となり、たわわに実るのは、その辺りからです。

 守の3年、破の3年、離の3年でも、桃、栗3年、柿8年でも、石の上に3年でも同じです。他の人が大体、続かなくなってあきらめたところから、道が開けてくるものです。そこからが楽しいのです。

 もちろん、最初から楽しい人はとても恵まれています。

 「声が守=固める。声が破=動き出す。委ねていく。声が離=自在、自由になる」というのが、私の思う10年です。

 

○自然と訓練

 

 正月恒例のガラコンサートに文枝師匠が出演されていたので、通してみました。昨年は少し若返りして、ガリガリしていた、若さでなく質ですが、今年は、今の日本の舞台でよくやるものを中心に、タレント、知名度のある人をもってきて視聴率を上げようとしていたようです。

 今、研究所では1215名のオペラ歌手がいます。音大の先生との交流もあります。

 クラシック好きの文枝さんよりも、三橋美智也好きの談志さんに私は影響を受けたので、亡き氏を偲びつつ、オペラの声と2人の声を比べてみたりしたのです。

 私はオペラのよき理解者でもよき観客でもないし、ポップスについても同じですが、どちらも肩入れしない分、客としてフェアでしぜんであるつもりです。そこを求めてくる人もいるので、できるだけ、しぜんでいようと思うのです。トレーニングは、無理せずしぜんに、というわけにはいかないのですが…。しぜんではないけど、みるのです。

 出演されている人は、音楽面や語学はもちろん、歴史や地理から台本に、膨大な時間を費やして出ているので、その努力には毎度、頭が下がります。皆、キャリアは、プロとして必要な1万時間は超えているでしょう。

 

〇しぜんのレベル

 

私も無理して背伸びする時間があったからこそ、今があるのですが、ここ45年、トレーニングを再開して、確かに声の調子がよくなったので、自分のメソッドのよさを実感しています。どのメソッドも、そのまま他人に通じるわけではありませんが。

 私は、舞台を降りてからは、発声のトレーニングをしなくても声に困らなかったのです。まわりのトレーナーには、怠慢にみえたことでしょう。

しかし、当時はレッスンの指導を、朝の10時半か11時から夜の10時か11時まで、ひどいときは、食事もなく15分の休憩で続けていたのです。

夜だけのレッスンのときも、それまでに人に会ったり講演で、毎日最低4時間、多いときは8時間、声を使っていました。

今も、私は48時間、声を出しても支障はありません。しぜんであるというのは、その生活にそれだけの声が必須であり、それだけの声を出しているのです。

 しぜん、毎日の生活、そういうものから離れた声や歌やアートというのは、私は、あまり好きではありません。もちろん、アートは非日常かつ華やかなものだからこそ、客は日常を離れて楽しめるものです。ですが、出演者は別です。本来、客の数倍も大きな日常の世界に住み、高度な芸をしぜんにふるまうべきでしょう。私は、日本のオペラに、しぜんを感じたことは、あまりありません。ミュージカルにもです。その違和感にいつもなじめないジレンマを感じています。

 

〇リアリティ

 

 小さい頃、映画館に行くと、映画というフィルムの世界に入れず、自分の外側の世界を感じ、きまりの悪くみえていたのを思い出します。スクリーンに知らない世界の映像が投影されている。そんな感じです。

200年前の、遠いヨーロッパの国のことを日本人が、向こうの言語で当時の衣装で再現している、それに教授が仮装して出ている。高邁な趣味のサークルとしか感じられないときも多かったのです。

 リアリティが迫ってこない。美輪明宏さんが、フランスの小さな女性を演じて、観客を泣かせるのと次元が違います。私の好みではありません。私は美輪さんとは古いのですが(学生のときに出会った)歌の演目は好みではありません。でも、彼の永遠のテーマは、舞台では、そこでの歌は、今、ここに心に働きかけてくるのです。

オペラやクラシック歌唱の評論をするつもりもありませんし、できません。吉田秀和さんも亡くなりました。ポップスについては、ヴォイトレに絡むので論じ続けていくつもりです。

 J-POPSでも、がっかりしたことは数え切れないくらいです。家にずっと1日いる方がよいと思うようなレベルでも、どんなイベントもないよりはあった方が、そして、見た方がよいとは思うのです。映画に演劇も落語も同じです。

 

〇一般化する

 

 オペラがつまらないと思うのなら、そんなものに接せずに自分がやればよいのです。出演者が客にまわるほど感動できることを自分でやればよいのです。私は彼らの期待する客から最も遠いか近いのです。

 しぜん=素人として、こういうのを見ない人、途中で切った人、見た人と分けると、圧倒的に多いのは見ない人です。素人が偶然みると10人中9人はチャンネルを変えます。それは、今やポップスの歌がおかれている現状と変わりません。

 歌は嗜好で左右されるので、好きな歌が好きな人で歌われないと、なかなか見ようとしないものです。

 ただ、その世界でがんばろうとする人や、私のようにそこでメシを食べている人は、努力して見ます。

努力したり、無理したりするのは、しぜんではありません。でも、見ているうちに、見ていなければわからなかったであろうよさも、見えてくることもあります。

 途中でチャンネルをパッと変える素人を惹き付けようする方が、よほど厳しい。それゆえ、大衆とはいいませんが、一般の人に対して働きかける力を持つことは大切なことです。

 スターはジャンルを超越する。三大テノールが来日したときは、オペラなど見たことがない人が見に行き、CDDVDを買いました。

 

〇フィルターと価値

 

 落語や邦楽に比べ、歌は日本人の二重性、舶来品好きがフィルターをかけている分、プロゆえに、そのふしぜんさ、特殊であることに気づかなくなることが少なくありません。

当初、「男が音楽やファッションにうつつを抜かすとは…」などと言われた時代に学んだ人たちは、何をやったかという前に、やろうとした時点で、すでに革新的でした。

 客=ファンが増えると一般化して、その通を目指すのにも、まじめな人が多くなります。まじめと才能とは違います。

 才能があろうとなかろうと、価値は舞台で決められていくので、それらを支えている人には何ら言うこともありません。まがりなりに才能と努力を伴って主役をはっているソリストにも、頼まれない限り、何も言いません。このあたりは、もっと厳しい批評家が、声の分野のアートに出てくるのを願っています。

 

〇耳づくり

 

 研究所の当初の目的の一つは、100人に1人のアーティストと99人の耳のよい客をつくることでした。これを20年くり返してスターが20人出たら、日本はおろか、世界も変えられるのです。私でなくアーティストたちによって変わるのです。

 オペラの養成所として莫大な支援を受けている音大は、何万人とアーティストの卵を送り出しています。しかし、そこでの発声の基礎は、明らかに技術、歌唱に急ぎすぎているのです。なぜ、お笑い芸人の方が声が強いのかを考えることです。

 生活のなかに取り入れて、非日常をリアルに現実にしていく、この点では、芸人の方がしっかりしています。ちゃんとしているというのは、ちゃんとしていないアウトローのようで、はちゃめちゃにみえてもちゃんとしているのです。

MC(司会者)はおろか、歌手、役者、声優、ナレーターまでも、お笑い芸人にとってかわられているのが、その証拠です。

 

〇よいもの

 

歌以外の人をみることが多くなっていますが、オペラ、邦楽に関わらず、歌手という職の存在意義が問われていると思うのです。安全で安心な人だけが求められる状況が、舞台をつまらなくしてしまうのです。

宝塚歌劇団や藤原歌劇団も、当初はそうでなかったはずです。オペラ歌手も大衆歌手でした。

 いろんなウンチクと有名タレントに頼って、ステージを啓蒙的に行ってきたのは、明治から昭和の、欧米に追い付け追い越せの時代の時代の流れでした。本場と比べられる(比べられて劣るという前に比べられる)ようなものからは脱皮する、でも、なんとなく、よいものを捨て悪いものが残ったように思います。

 

〇勉強と精神構造

 

 しぜんな発声は、オペラでは、パバロッティのような人でないと100パーセントは実現できない。としたら作品ありき、人はいないとなるわけです。それでは、そういう人の魅力に支えられている本場にかなうことはありません。

 発声、歌唱、ヴォイトレに、このような精神構造が共通しているようにみえるからです。

技術ではトップクラスの日本のプレイヤー(バイオリニストなど)が「自分の思うように弾きなさいと言われると何もできない」というのは一昔前よく聞いた話でした。

先生の教えた通りやるのが正解と信じていく。楽器はそれでもまねできることに大きなアドバンテージがあるので、日本の子供は優秀になります。工業大国、家内手工業で強い日本の伝統のようなものです。

 大学と家との往復の毎日から、ドラマチックな、というか、ぐだぐだの愛の物語などが演じられるものでしょうか。それこそしぜんではありません。特に日本の場合は、プリマドンナより男性に、大変ですが、がんばってもらいたいものです。女性は、外国ではもてるので、いろんな経験を積めるチャンスがあります。

教師役は、比較的うまいように思うのは皮肉なことです。しぜんに、芸にその人が現れるものです。

 日本人の場合は、勉強にがんばるよりも、それを壊すことにがんばることが大変です。

 

○本質と中心軸 

 

 大体において、習い事は、すぐれた人が自らをもっと高めるのに求めるか、同じように学んでいるなかで、自分はうまくいっていないと思うのが動機となります。

 この研究所は、こういう分野に、初めてということでいらっしゃる人にはガイダンス的役割、いろんなところをまわっていらっしゃる人のダメ押し、もしくはダメモト的役割を担うことも多いようです。トップレベルと中の低あたり(もしくは低レベル)は、他に行くところがないこともあって、よくいらっしゃいます。

 

 私は、ここは二重の意味で、周辺に位置していて、それゆえ、自由であると思っています。芸能からもビジネスからも、病院からも、すべてに接していつつ、そこと直結せず、距離をおいています。

古いものと新しいものといっても、すでにあるなら古いのです。

アーティストでありたければ、新たなビジネスに使いたければ、中心は他に譲り、最初は、そのまわりに位置しておくとよいと存じます。多くのことに気づけて学べるからです。

 他のプロダクションやトレーナーやスクールと利害関係を生じないことで、多くの情報や学びの研鑽が得られるのは、ここのメリットです。そのことを考えると、代々木というロケーションは、なかなかよいです。

 

〇必須のこと

 

 プロには、表現、オリジナリティでの効果を軸に、普通の人にはフィジカル面、喉、あまりよくない人にはメンタル面を処するのが中心となります。

プロに対してのレッスンは、トレーナーが自分のできることでなく、できないこと、そのプロにおいて、ギリギリで何とか手の届きそうなところに課題を設定することになります。ここに通うプロでも3割くらいは、表現の本質的なことを究めようとしています。あとの3割は声の本質、後は音楽の基本や発声の形をマスターすることでしょうか。どれもヴォイトレに必須のようであって、他のところでは扱っていないことです。

 一般的に、トレーナーは自分よりへたな人を教えているのですが、ここでは、トレーナーより高いレベルで活躍している人がいらっしゃることも、一見、声と関係なく、これまで扱ったことのない分野の人がいらっしゃることもあります。

 巷にヴォイストレーナーが増えたので、普通は、身近なところに通うものでしょう。遠くから、ここを選んでくる人は、特別な事情があることも多いのです。

 

〇拡大する

 

 歌を教えることを目的にするのと、他人に歌を聴かせることを目的にするのは違います。歌いこなすことと歌をつくることも違います。リズムや音をとることと、リズムや音をつくりだすことも違います。

 普通は、マイナスをなくすことがメインです。うまい人にそろえていくことを望むので、しぜんとそうなっていきます。しかし、それではプラスを生むことを見ずに終わってしまいます。素質としての声の存在の可能性をクローズアップして、拡大していくところをスルーしまうのです。それでは、根本は変わりません。

 

1日教室

 

 日本のように受け身の教育を体験してくると、先生も生徒も、それが、レッスンと思ってしまいます。

一方でアーティストなどは、型破りに、自己流で直感的にワークショップを行っています。それもまた、別の意味で即効的で、表面的なものにすぎないことが少なくありません。演出の力で行うもの、心身の堀下げ、体感的なものの発掘で行うものもあります。人間性の回復、心や体の健康、正常化に意識が覚醒されるので、とてもよい体験のように思います。しかし、突き放してみると、1日教室です。

 どちらにしても、翌日からの自分の生活に対してアーティスティックな軸を通す力を持っていません。根拠のない自信づけやただの満足で終わってしまうのです。そこに行かなくても何とかする力を持った人だけが、プラスαを得ています。

そこのトレーナーや主宰者の方がいろいろと学ぶという結果です。継続して気づけるからです。私も以前、50名単位のグループで合宿を10年以上行ってきました。そのときを考えてわかるのです。

 

〇人間らしく

 

 もっとも大切なのは、シンプルな練習をコツコツとくり返していくことです。それに一人で耐えられないから、レッスンやメニュや理屈や精神論があるようなものです。

 すぐれた人は、直に心で受け止めて声に感じられるのです。そればかりは自分でやって得なくてはなりません。

 それを基にレッスンでトレーナーが活かす方向を示すのですが、その前に妨げてしまうことが多いのでしょう。

 私は、必要性を自覚させたいので、必要と思うことが絶対に必要だと餓えるくらいに待ちます。そこで自らを感じ、その動きを自らとり込まないと手に入らないのです。

 

 原始の生物は、まわりの環境で左右されます。寒ければ温かいところへ移動し、移動できなければ死にます。しかし、人間は自分の持つ条件を超えて、火を焚いたり、エアコンをつけて環境をコントロールします。自分の体を鍛えて対応できるようにします。そういう意味で人間らしくあらねばならないのです。

何よりも覚醒するには、かなりの時間がかかるのです。即効果をうたうのは、それを捨てていることになるのです。

 

○カラオケの技術

 

 「技術を超えるものを表現するために技術を究めなくてはいけない」ということです。舞台を超えるために舞台があり、表現を超えるために表現があります。レッスンはレッスンを超えなくてはならないのです。

 歌のうまい歌手と心に残る歌手がいます。うまいというのは、うまくみえるということです。難しいことを何とかこなしていると、うまいレベルで競っていることになります。

 「カラオケバトル」という番組があります。プロ歌手が、元歌の本家の方の歌手が、けっこうな確率で負けています。本当にへたなこともありますが、目をつぶると、やはり本家の方が伝わっていることが多いのです。

 採点バトルは、数字で実証しないと納得できない現代人の心理をついたゲームです。私が解釈するなら次のようになります。カラオケの得点基準も、正確さから表現力に重きをおくようになってきているのですが、そのあたりの進化にはふれません。

 歌としての正しさは80点くらいでクリアされています。それ以下のレベルの人は、そこまで使って練習できると思います。しかし、そこからはカラオケの基準に応じるのか、独自の表現の方へつめていくのかは大きな岐路です。

 以前の基準では、音程に正しく歌うことを声楽などで学んだ人が有利でした。今やプロも、カラオケで練習してくるそうで困ったものです。

 

〇プロからの基準

 

 私としては一流のプロを100パーセントとして、それにどれだけ近づけるか(基準1)

 そこからどれだけ離れても、歌として成り立たせられるか(基準2)

 離れるというのは、一見、点が低くなるようにみえるのですが、それで本家より表現が伝わるとなれば、とてもよい歌になるのです。(基準3)

 

 とにかく、多くのプロの歌手が関わっているのですから考えていただきたいものです。

歌はゲームにしてもかまいませんが、本家本元が自らの歌をゲームにするのは、それがPRの機会としても悲しいです。

 歌はTVでも普及してTVでだめになったのです。改めて考えてみたいものです。

 

○楽譜とオリジナリティ

 

 楽譜とオリジナリティについて、ときに、こんな質問がきます。

「楽譜は読めなくてはいけませんか」

「楽譜通り歌うのですか」

 

 本当は、ここでとりあげたくありません。なぜなら、どうでもよいからです。悩んでいる人にどうでもいいというのではありません。歌やレッスンやカラオケなどを、どのように位置づけるかは、本人の自由だからです。声についてもヴォイトレについても同じです。

 悩むというのは、自分では、自由に好きにしたい、だからといって、人に認められない、表現が成り立っていないのは嫌だという思いがあるからでしょう。それを私はスタンスといっています。

 スタンスは一人ひとり違います。そのスタンスしだいで私の答えも異なるのです。

 

「歌は好きなようにうたってよい」

「楽しんで歌えばよい」

というのも、これと関連します。

「歌が楽しくなくなったのですが、続けるべきでしょうか」

などもあります。

〇楽しむということ

 

 歌が楽しいことが第一目的なら、レッスンを受けて、そのレッスンで歌が楽しくなくなる(やる気をなくす)なら、解決法は二つです。「レッスンを止める」か、「レッスンを楽しくする」かです。

 レッスンを楽しくするなら、それは「トレーナーに楽しいレッスンにしてもらう」「楽しいレッスンをするトレーナーにつく」「自分がそのレッスンを楽しめるようになる」です。

 楽しいレッスンや楽なレッスンでは伸びないという人もいれば、楽しく楽なレッスンだから伸びるという人もいます。同じく伸びるなら、楽しく楽な方がよいではないかと、いろいろと考えられますね。

 

 何をもってトレーナーなのか、レッスンなのか、上達なのか、伸びなのか、楽しいなのか、楽なのかを考えてみることです。

 こうした問いには、「問えるほどにわかっていないから、もっと突き詰めて問えるように学びましょう」というのが、私のアドバイスです。

 

〇やってみる

 

 先生というのは教えるのが仕事です。「乗り超えなくては上達しません」「自分を向上させる努力こそ、楽しみでもあるのです」「楽しめないなら止めなさい」「楽しいと思えることをしなさい」、その人の体験から答えをアドバイスしてくれるでしょう。それは個々の経験ゆえ、あなたの求める答えとは違うでしょう。でも、ヒントになればよいのです。

 スポーツなどでは、努力、苦労といったプロセスをとります。芸事も同じです。でも私はどうでもよいと思うのです。本人が本人で解決しないのなら、問題もなくならないからです。その前に問題にもならないからです。

 

 頭で考えてもやらなくては何もならない、ということです。やっても何にもならないかもしれませんが、やらなければ変わらない、つまり、100パーセント何にもならないという真実です。

 だから、好き嫌いは別にして、やることです。

 

〇一段上へ

 

誰も答えを知りません。答えはまだありません。あなたの求める100パーセントの答えは、どんなトレーナーも持っていません。良心的であると「答えません」「教えません」「教えられません」となるはずです。

 それによってできるとかできないとか、99パーセントのことでも1パーセントは、あなたは当てはまらない人かもしれない、どこかで思っていなくてはならないからです。10人中8人ができることを、あなたはできないかもしれない。10人中1人もできないことを、あなたはできるかもしれない。そこに本当の価値があるのです。一段上ではそこにしか価値がないからです。

 

 私は自分や自分のまわりや体験だけを基準にものをみないようにしています。だから、答えられないのです。これは、あなたの最大限での可能性、期待です。迷ってばかりいるなら、それは、可能性ゼロへ転じてしまいます。やり抜いた人は、他人が迷ったり考えている間もコツコツやっているからです。無駄、無謀、遠回りと思う人もいることさえ構わず、執拗にやっているでしょう。

 トレーナーが効率よくしてあげようと親切心を出して、満足させて、結果、才能をつぶしてしまうこともあります。自分の手の中でしか活動できないようにしてしかねないのです。

 自分を超えさせるために自分の教えにこだわってはなりません。

 最初の3年間くらいは、あまりにわからないからレッスンやカリキュラムがあると思えばよいのです。

 

〇読譜について

 

「音大に行かないとオペラ歌手になれませんか」など、「○○でなければ○○になりませんか」というのは、頭で考えると迷ったり悩んだりするものです。それよりは、やりなさいということです。

楽譜が読めても歌手になれないし、音大に行ってもオペラ歌手になれないのです。楽譜も読めない名歌手も、音大を出ていないオペラ歌手もいるでしょうが、それを探してもしかたないでしょう。

人生を確率でみたら、つまらないでしょう。その人がそうだったから、あなたもそうだとはなりません。3年あれば、楽譜も読めるようになります。楽器の基礎くらいは習えます。初心者のレベルには、教室もよいのです。

 

〇楽譜は地図

 

 いつまでも遠くの山に憧れていないで山に入りましょう。

 楽譜というのは、実際のレッスンに対する、文章のようなものです。山でいうと地図です。地図があると便利ですが、初めて登った人は、そんなものはなかったのです。効率や安全を考えないのなら、絶対に必要なものではありません。地図がどのくらい正解かはわかりません。登る準備やテクニックは、地図をみてもわからないでしょう。

 ないよりは、あった方がよいでしょう。レッスンとステージの歌のように、結びついているのです。そうであっても本当は切り離されているとも言えましょう。

 

 先生たちにもいろんな見解があります。オペラ、ミュージカルのように継承されてきたものを、同じように"再現”するために、楽譜は必要です。アレンジ譜もです。オーケストラの団員や出演者など、大人数が一つの舞台で一定の時間で役割を分担するのに、楽譜は不可欠です。

 美空ひばりさんは、楽譜が読めないのにオーケストラと共演しています。彼女の才能だから…いえ、芸人やカラオケしか歌ったことのない素人でもオーケストラをバックに歌えます。

でも、オペラやミュージカル、合唱では、共演者との練習で、共通のルールとなる地図は、楽譜ですから、楽譜くらいは読めるようにしておくとよいのです。読めないより読めたらよいなら、読めるようにしていくのです。将来の向けて有利になるようにしていくのが、レッスンやトレーニングの基本的な考え方です。できて使わない分には、できなくて使えないよりはよいです。これも一つの考え方です。

 

○価値、選択、優先順の判断を変える

 

 何を価値として、どう選択するか、選択したものをどのような優先順でやるのか、それに対してアドバイスするのがトレーナーの本分であると思うのです。ある価値、ある選択、ある優先順は、若く経験のない初心者には難題です。自主性に任せておくと、多くのなかで一つでしかないものが、先に触れただけで、しばしば唯一絶対となりがちです。トレーナーも同じです。他の選択も、他の優先順も、他に価値さえあることさえわかりません。そのことを私は伝えたいと思っています。最初から複数のトレーナーにつけて教えさせているのも、そのためです。

 

 本人一人で練習するよりはトレーナーにつくとよいでしょう。それが複数のトレーナーとなると、多様なもの(方法、メニュなど)をもっているところにあたるわけです。私はそれを一つの価値、選択、優先順としてみると、早くよりよくわかるのです。他のトレーナーをつけてみています。

 私自身の経験は私の判断に影響してくるので、私自身に対しても、それによってすぐれもしたが劣りもしたと中立視しています。

 

〇学べるようになる

 

 多くの先生は、「私はそれですぐれたから正しい。だから、それを教える」という立場です。「他の人は間違っているが私だけは正しい」という井の中の蛙で、私は少々困っています。その色を強くつけて、ここにいらっしゃる人も少なくないからです。そういう先生は、私たちには生徒よりやっかいなのです。

神のように崇められている達人や世界に名を馳せたオペラ歌手でさえ、他人の指導において多くの誤りを犯しているのです。「私はそれですぐれた」が、「どうすぐれた」というのでしょう。

 他の分野ではわかっていることさえ、歌や声の分野では、未開拓で未熟なものです。まして、個の将来性です。ヴォイトレは、試行錯誤の連続なのです。

学ぶのは学べるようになることです。そのために学んでしまわないことなのです。☆つまり、学べていくと、そのプロセスではともかく、結果として、どういうトレーナーともうまくやっていける能力がついているものです。ですから私もいろんなトレーナーと、ここで長くやっています。絶対的価値観をもつトレーナーを除けば、ですが。

 

○楽譜の研究

 

 私がもっとも楽譜の研究をしたのは、当初、プロへのヴォイトレを始めたときと、90年代初頭、グループレッスンの初期、すぐれたヴォーカリストの卵たちが集まってきたときです。ともに、歌唱力も発音も、音感、リズム感もすぐれている人を相手にしたからです。

その後は、声と耳を中心にヴォイトレをやってきたのですが、どうしても表現に関わらざるをえなくなりました。一般の人が多くなってきたからです。

そのときに、「これではよくない」というのをフィーリングだけで伝えても伝わりません。フィーリングは、プロならオリジナリティとして持っているのです。それはプロとしての活動実績に裏付けされ、ときに強固なものです。こちらも若いときは、実績では説得力に欠けます。

 そこで、私は、説明の根拠を徹底して楽譜から探したのです。ことわっておきますが楽譜をみて歌を考えたのではなく、歌をみて、その説明に楽譜を使ったのです。ただの楽譜の記号ではなく、生きた音楽として、です。音大受験生のようなレベルで解釈するのでなく、表現としての曲の成り立ちと対応させていくのです。

 

〇公式相似形

 

 自分のよしとする感覚、感性を、音符や数値やコードで置き換えるようなことです。そこで私なりの楽譜、音楽の構造の解釈や歌うための公式が生まれました(拙書「裏ワザ」に一部を収めています)。

 たとえば、楽譜のオタマジャクシをすべて線でつなぐと、高低や長さの流れができます。これは誰でもわかることですが、高くなるとサビff-低くなるとppみたいなこととつながっているのです。

 次に、相似形をみつけます。数字の公式のようにパターンを思い出して、大きなルールを取り出すのです。ベース音やコードの記号をみてもわかります。同じコードを同じ色で塗り、配列の規則性をつかんでみてください(循環コードなどを知らなくとも何曲も分析するとわかります)。フラクタル(自己相似形)

 たとえば、ドレミドレミと2つくると、次もドレミを予期するのに、ドレファとかドレソとくると、ファやソとかも大きな意味(「転」)をもつというようなことです。

 

〇日本人の欠点を補う

 

 音符の長さの変化や、表拍、裏拍の変化は重要なモチーフです。欧米に感化された日本の曲では4拍の裏や3拍の裏から入るものも増えました。こういうのは日本人の歌い手にありがちな歌詞、優先の伝え方と矛盾していくので、歌い方でも対立しやすいところです。

 そこでよくわかったことは、私の本(特に「ヴォーカルの達人」の音程リズム論に詳しい)にも述べてありますが、日本人の次のような特徴でした。

  1. (歌)詞を重視、リズム(グルーブ)は従

2.ハーモニー(和音)感覚のなさ

3.全体構成、展開力のなさ、短いフレーズでの組み立て

4.呼吸の浅さ、ロングトーン、レガートの雑さ

5.声の芯、深さ、音色、楽器としての演奏力のなさ

6.パターン認識のなさ、リピートの不確実さ

7.声量、声域、統一音声のなさ

8.歌いあげる、歌としての歌唱の様式化

9.生命力、立体化、リアリティのなさ

10.表現力、インパクト、パワー、テクニックのなさ

ここでは悪口を述べているのではありません。レッスンには、よくないことを洗いざらい明確にして直していく目的があります。課題として捉えてみてください。

 

〇強化と実現

 

 ほめて伸ばすというだけでは、メンタル面での効果にしかなりません。メンタルの強化でなく、慣れによる自信づけです。そういったメンタル面で足らないからこそ、フィジカル面でトレーニングしていかなくてはいけないのです。

しばしば私のレッスンでは「これで充分、もう完璧」といってくる歌手の作品を吟味して、徹底して荒や欠点を探します。

 よいところはファンが認めるので理由はいりません。トレーナーは悪いところを指摘するのです。それは理由とともにあげなくてはなりません。よりよくしたいからこそ探すのです。悪いというだけでは、ただのアンチファンです。

直らないところは見切る必要があります。安易にいろんな隠し方や修正でカバーすることは避けて、直るところをきちんと直していくのです。大切なことは、もっと大きな可能性を探って、次のステップへの実験をしていくことです。こういう表現や演奏が考えられるのではないかと発想、発案をする、あるいは本人に促していくのです。その実現に必要な基準と材料を与えていくのです。

 

〇ヴォイトレの仕事

 

 アレンジャーは、アレンジで効果をつけるのですが、ヴォイストレーナーは声でやるのです。それは、ずいぶんとクリエイティブなことです。こう歌えばいいというのなら簡単です。そんな付け焼刃で通じるのなら演出家やプロデューサーに任せればよいのです。

可能性とは、材料を渡して何かが出てくるのを待つのですから気の長い話です。すぐ役立つアドバイスなら、すぐに変わるけど、根本的には歌い込みでしかわからないことを先取りできません。あとで役立つ材料やどう役立てられるか、まだわからないものを与えてこそ、ヴォイトレの仕事といえるのです。

 欲をいえば本人が100パーセント完全、あるいは自分の全力でこれが限界というものをあげてからが、本当の仕事といえるのです。

 

〇アレンジャー

 

 何人かの作曲家やアレンジャーと仕事してきたことは幸いでした。すぐれた作曲家は徹底して論理的な感性をもっています。作曲家のすぐれた作品を、日本ではそういうときに限って、あまり歌唱力のない、声質だけの女性ヴォーカルがくるので、現場は大変です。

 声で変えられなければ、次に作曲やアレンジで変えることになります。編成、音響やリバーブやコーラスで変えるのは最後の手段です。昔なら「歌手を替えろ」だったのが、今はあまりにいろんな手段で修正できるので、ややこしくなりました。

 

〇固める

 

 日本のバンドのプレイヤーは、ヴォーカルに対し、ピッチやリズムに厳しいわりに、表現や声には、大甘です。それゆえ、私はバンドやオーケストラにヴォーカル不要論を唱えてもいます。

どうも楽器、演奏レベルで歌や声をみていないのです。そのレベルで聞くことのできる歌手があまりに少ないのでしょう。一方、ピアニストなどがジャズなどを教えているところでは、歌い手が声を固めて解放されていないことがほとんどです。その方が動かしやすいのです。安易な分、だらしなくなります。

 

〇歌の音楽面

 

 作曲家や演出家には、歌唱をことばでなく、声が伝わるか、音声が心を動かすかで判断している人もいて、心強くもありました。そういう人もミュージカルや演劇では、妥協の産物か、歌の音楽面は重きをおいていないものになります。不幸なことに、日本では、それを指摘する人もいないのです。プロダクションや代理店は、タレント性を売りたいのですから、声や歌が充分でないケースが、日本では大半とさえいえるのです。

 

○楽譜からの歌、原型に戻す

 

 よくレッスンで受ける「楽譜通り歌いなさい」も「楽譜をみて歌いなさい」も、どちらも曲が未消化になり、ふしぜんです。

1.楽譜で覚え

2.楽譜を忘れて歌い込み

3.楽譜に戻って完成させる

ことです。まさに守、破、離なのです。

 この場合、楽譜に戻っても、それは守るのでなく離れているのです。せりふなどで問われることも同じかもしれません。

 与えられたものを、マスターしていきますが、それはまだ自分のものではありません。自分なりに差し替えたり、動かしたり、自分の心の方から伝えるべき表現を求めます。

 楽譜という形であれ、その人の頭の中の曲想であれ、現実としては、声が動いてその振動が人の心を動かせるものに仕上げるのです。ということでは、楽譜ということを改めて問うことは必要ないでしょう。

練習の場から離れて、その役を体験したり山中にこもったり滝に打たれたりする、というのは、よくある行き詰った練習の打開策です。そこで実を入れます。そしてまた、練習場に戻って、余計なものをそぎ、原型の形に戻すのです。

 

〇再生する☆

 

 ある練習曲を

1.覚えて

2.忘れて

3.忘れてもできるようにする

 

1.自分で演じているうちは、自分

2.まったくの他人を演じているときは他人

3.他人のなかに自分がでる

 

あるいは

1.他人の形を演じる

2.自分の心を入れる

3.他人の心を演じる

このように、いろんな3ステップが考えられます。どちらにしろ、形に実を入れ、実が形をとる。つまり、与えられたものを自ら再生するのです。まさに、人の形で生まれた自分が、我から人としての自分に再生させるのです。すべてにおいて、こういうプロセスをとらなくてはいけないのです。

 

〇最高の作品☆

 

 私は、「歌手も消えて歌が残る」「歌が消えて人間が残る」こういう2つのステージを最高のものとしてみたことがあります。「声が消えて歌が残る」「人が消えて魂が残る」そういうのにあたった経験もあります。ここでの結論は「楽譜が消えて歌が残る」で充分だと思います。

 

オリジナリティが残るとなったときは

1.作品なのか

2.歌手なのか

を考えることがあります。

でも、これは愚問ですね。歌とは詞かメロディかと問うているようなものです。その作品がその時その歌手により新たな命を吹き込まれたとき、オリジナリティをもって再生、いや、誕生したわけです。決してリピートでないもの、再生でなく、新たな誕生です。

 立川談志師匠が、何年か前の「芝浜」で神がかったあと、「また違う芝浜ができました」と深く頭を下げたのが印象に残りました。生涯で何回か、そういう神懸かり的な巡り合いがあれば、それをよしとするのが、アーティストと思います(これを「至福の時間」ということで、以前に、詩にしました。ホームページ「ジョルジア」参照)。

「文字から動画へ」

○文字から動画へ

 

 人類は、文字を発明するまで口承で伝えてきました。文字ができてから長らく写され広められました。絵が絵文字、そして文字になったプロセスは、今のアナログからデジタルに変わる以上の大転換といえます。時間、論理が入ってきたからです。そこで未来を考え、不安や恐れを抱くようになったからです。

活版印刷の発明で16世紀から本の時代となりました。20世紀初めには画は写真に、音声はレコードに記録、保存できるようになりました。さらに動画として映画、フィルム(サイレントからトーキー)になり、ラジオやテレビで視聴できるようになりました。

デジタル化とは、大量のデータを統一して(01の組み合わせで)圧縮、コンパクトに保存し、瞬時に伝達できること、および検索できることです。これは文字だけでなく、音声、動画をも同じデータ(01)として容易に扱えるようにしました。コミュニケーション(発信、伝達、受信)のコストを徹底して下げたのです。

 

 情報を発信する一方のマスメディアが、今世紀になり、インターネットの発達で、手紙、電話といったプライベートな交流が一気に高まりました。1990年代にマルチメディアということばで見通されていたことです。世界の距離や時間の感覚は、この10年で大きく変わりました。全てがスマートフォンに集約されつつあります。

 この問題を扱うのは、20年ぶりですが、文字で伝えることのもつ意味を確認しています。

 

○デビュー本からの派生

 

 私がヴォイトレの本を初めて書いて30年経ちました。発声について欧米から学んだ人が書いた本とは異なる、日本人としての本でした。それはそのまま、シンコーミュージックの「基本講座」は理論、「実践講座」はメニュを中心の本として世に出しました。

いくつかのカラオケ指導の歌の本や医者の喉の本などはありましたので、喉の仕組みあたりに引用させてもらいましたが、それ以外は、ほとんど独創的なものでした。

「ロックヴォーカル」とついていたものの、ポピュラー全般を対象にし、歌の本なのに歌には触れず、歌手や歌詞にこだわらず、声についてまとめました。一から声づくりをしていくために、当時の私のヴォイトレの活動を参考にまとめたものでした。

 

 意図したことは、日本人の感覚や体に焦点をあてることです。これはベーシックであったために役者や声優などでも使えるもの、今では邦楽から一般のビジネスマンにまで応用されているものとなりました。その分、対象、レベル、目的は、やや不明確になったということです。その点は、岩波ジュニア(10代、教師向け)や祥伝社(女性や中高年向け)、英語やビジネスなど、対象によって異なる本へ分化させたのでカバーできたと思っています。

 

○動画教材のよし悪し

 

 本にCDを付け(ビジネスマン、一般対象本では10年後)、ガイド音源も入るようになりました。

 動画化は、踏み込みませんでした。

音声だけでみせることにこだわったのは、声=音を学ばせたかったからです。

わかりやすくみえることは、学ぶこととは異なるからです。これはTVやラジオの経験からも痛感していました。他のビデオ教材をみて、本当のことを伝えるのは無理と思いました。まともにつくるとイメージダウンや誤解が大きくなると思いました。

1.楽器の練習のようには格好はつかない。

2.トレーニング風景は、役者の舞台裏のように地味で暗く、アングラな感じになる。

3.キャスティングをモデルさんは、リアル感がなくなる。

4.プロの歌い手で行うと、歌はよいけど絵になりにくいし学びにくい。

5.個別にメニュや方法がかなり異なる。

当時は作曲家の先生(たとえば曽我先生)のが、いくつか出ていました。それらしきものになってしまうことしかイメージできなかったのです。

 研究所には、国内外の数多くの発声やヴォイトレのビデオ、DVDがあります。合唱団の発声など実用的なものも、たくさんありましたが、私自身にあまり役立たなかったし、人に勧められなかったからです。

 

〇自分の声を入れない

 

 CDについても多種多様につくってきました。いつも試行錯誤していました。英語の教材からヒントを得たことも多々ありました。

 最初は、体や息のトレーニングは、音声にならないので、カットとしていました。

最近は、図やイラスト、あるいはナレーションで指示してトレーニングメニュとして入れています。そういうことも他のDVDCDが出てくるまで、わからなかったのです。

 私の声を入れるのは避けました。私はナレーターでなく、アーティストをサポートする立場だからです。いつもの現場通り、練習メニュとしての体系を入れ、現場でディレクションするようにしました。トレーナーは相手の声を指導することのプロです。よりよい仕上がりになったと思います。

一般の人向けで、説明も必要となります。

 本で理論ややり方を理解できるようにして、CDにはできるだけ余計なことを入れないようにしました。CDをかけたらすぐに練習できるとよいと思うからです。私自身が使えるもの、使いたいもの、生徒の自習に使えるもの、使わせたいものを目指しました。

 

CD教材のつくり方

 

 CD教材といっても、一回聞いて終わりのものと、くり返して使うものは違います。最初にイントロや説明が長く入っていたら、2回目からは邪魔でしょう。

 トレーナーが一方的に見本をみせているのもあります。生徒とかけあってレッスン室のようにしているのもあります。TV向けのパターンでは、よくわかるようでも、他人のレッスンでは、自分がレッスンに使うには邪魔でしょう。見学会のようなものですから、1回みれば充分でしょう。他人の声が入っているのも邪魔になるでしょう。分けて入れても、時間がムダになります。

 私は、原則として本人の自習、自主トレ用としてつくっています。トレーナーが呼びかける対面式のようなものか、目の前にお客のいる本番シミュレーション的なものとなら動画でもよいかと思います。

 レッスンに通う人が使うのなら、補助教材です。レッスンに通わない人がレッスンのかわりに使うとするなら、シンプルにつくらないと使いにくいでしょう。

CD付の本も多くなったせいか、違いを聞かれます。

 私の本のCD、音源のメニュをサイトに載せました。参考にしてください。

 

○教材のつくられ方

 

 本は文字ですから、イメージは伝わりにくい、といわれます。でも読んだ人のレベルに応じたイメージがつくられていくといえます。音声があると、声のイメージははっきりとします。それにもよし悪しがあります。

具体化される分、限定されるからです。絵がつくとさらに具体化し限定されていきます。ラジオはホットなメディア、TVはクールと言われるゆえんです。

 「よい例」、「悪い例」をたくさん入れてあると判断力をつけるために役立つでしょう。でも、悪い例を何回も聞くのは、喉にもよくないでしょう。練習用としては賛成しかねます。

同じ理由で、あまりに個人的なメニュや部分的なメニュも悪影響を与えかねません。一般的にはシンプルなメニュがよいのです。

 

 メニュがたくさん入っているのはよいのですが、全て使ったからといって大して意味はありません。特殊なものを除き、できるだけ誰でもあてはまる範囲内に収めておく方がよいでしょう。

海外のものにも、かなり特殊なケースでのハイレベルのトレーニングが入っているのもあります。参考にするにはよいのですが、使う人が今、使ってよいのかどうかの判断をできるわけではありません。優秀な人以外は、喉にダメージを受けかねません。本来は、そのトレーナーに会って、レッスンを受けてから使うべきものです。

 見本の声の入っているものは、具体的な分、よしあしがどちらの方にも大きく振れます。日本のものは、残念なことに、困ったものが多いです。弱々しく抜いただけの声や、がなった声、喉声も少なくありません。それを聞くたびにイメージが悪くなり、声にも喉にもよくありません。

ヴォイトレなのにスケール(音程、リズム)などが中心で、発声、呼吸や共鳴などはつけたしとなっていることが多いのです。

応用や周辺から入っていく、慣れるというのもアプローチの一つです。本当に身になるトレーニングが欠けていると思えるのです。

 

〇レッスンの声に向き合うこと

 

 使い方次第なので、いくらでもある分はよいですが、誰もが同じように使えるわけではないのです。

 発声については、教材は実際のレッスンに及びようはありません。

レッスンのまとめとして、トレーニングのモチベートや方向性を確かなものにするのに、本はよい判断材料となります。本にもよりますが、声については、実際に知っている人の経験談です。ただ、多大に期待してはなりません。

私が本、会報、ブログなどでたくさん述べているのは、レッスンに来られない人のためではありません。レッスンでできるだけ無言でありたいからです。自分の声に自分で向きあってもらいたいからです。

一方的に他人に委ねるレッスンは、最初はよいと思うかもしれませんが、本当のあなたの力にはなりません。トレーナーの声を見本にまねる、そういうレッスンが多いのです。それがあたりまえのようになると鈍くなります。

 自分の声に向きあうのに、時間がかかってもかまわないのです。

 

〇トレーナーと個性

 

トレーナーのところにいくと、自分の歌や表現が変わるから心配だとか嫌だという人が少なくありません。それは直感的に正しく、それゆえ、勇なことです。トレーナーの悪影響があるくらいにしか自分に向きあっていないのなら、そのままでも同じです。「トレーナーにつぶされる個性など個性ではない」のです。トレーナーを、自分に向かい合うためのレッスンや、そこからのトレーニングを自分に活かすために、使うことです。

 トレーナーと長く一緒にいると何か身につくと思う人が日本には多いのです。それは確かにそうかもしれません。でも、それだけではどうにもなりません。

週一回のレッスンでも、何にもやらないとか、一人でやるよりはずっとましです。しかし、週二回の方がよいでしょう。そして、レッスンが、365日をひっぱらない限り、大して変わらないのです。レッスンの回数についての答えです。

 

○ピンチに思想を学ぶ

 

 ヴォイトレで調子を崩すと、トレーナーや方法やメニュのせいにする人もいます。なぜ、調子を崩したのかを分析し理解していく、その対処こそ、トレーナーとともに行うことです。絶好の機会です。その前でやめるのでなく、それを超えていくことが、力をつけることです。

 ボクシングでコーチに言われたままに出場して、初戦でKOされたら、コーチに「バカヤロー」と言う人は、幼いだけでしょう。

 レッスンもトレーニングも誰かに頼まれて来るのではありません。自分の目的のために、より自分を活かすために、使うものです。

 そこでは自分の求めるものをすぐに成し遂げようとするのでなく、本当の目的、本当に必要なこと、可能なことを知っていくことから始めてください。

すぐにわからなくてもかまいません。ずっとわからなくてもよいです。でも、考え続けることです。基準やプログラムがないと後で伸びないのです。基本的な考え方=思想を学ぶことが大切です。

 

○ことばの力

 

 私は、写真や動画は、情報量が大きいので参考にしますが、自分に取り込むにあたっては、発信している人の情報とその文章をみます。

 TVの大きな影響力はまさに「百聞は一見にしかず」ですが、その「一見」は、自分が生でみたものではありません。誰かが意図をもって切り取ってみせたものです。それを知らずに、その意図に乗せられてしまいがちなのです。

 文章では、案外と真実を直接、イマジネーションによって捉えることができます。

ビデオを何十回みるより一言のアドバイスがすべてを変えてしまう例は、少なくありません。両方あればよいのです。一度みた動画、画像があまりにも強烈な印象を残すことには、用心すべきです。

 

○視覚の盲点☆

 

 私は、あるときの合宿で、声=音の無力さを証明するような体験をしたことがあります。20名ずつの舞台で、あるとき、リハで音声だけでパーフェクトに成り立たせたのを、ちょっとした振りと動き、ビジュアルの効果を入れたところ、音声の完成度が格段に落ちてしまったのです。演出している私以外、出演者もみているお客(出演者の控え)も気づかなかったのです。

 目にみえる効果が入ることで音の世界がこんなに壊れる、しかし、客は、そういう効果に目を奪われ、トータルとして作品がよくなったとさえ思うのです。

舞台ですからビジュアルの効果が大きいのは当然です。しかし、ここのメンバーは、声=音中心をメインにしてトレーニングしてきて、ビジュアル効果をトレーニングしてきたわけではないのです。耳と声は充分鍛えてきたと思っていたのでショックだったのです。

私のような、耳だけで、目をつぶっているかのように判断するというような音に厳しい客がいないと、音より視覚効果に力を入れるのが当然なのでしょう。私がプロデューサーや演出家であったら、声のちょっとした変化を示すよりも、手の動きで示す方を客に伝わるということで選ぶことになるはずです。私がアーティストでも、迷わずそれを選ぶでしょう。

 一般の客の耳での判断力は低く、目での判断力が高い、これが日本の、日本人の音声表現力の育たない最大の原因と私は思っています。ヴォイストレーナーからみるから、よくないということですが。

 このことを踏まえた上で言うなら、音の世界での完成度を落としてはいけないのです。絵のために音を犠牲にするなど論外です。動きとしての振りも本人のなかで、表現=振りと音とが完全に結びついていなくてはならないのです。

 

〇視聴と聴を分ける

 

 私は、舞台のビデオをみせるときに、2回に分けるようにしました。最初に動画でみせて、次に音だけで聞かせます。ときには逆にします。しつこく両方を試みることもあります。動画でみると、その出来に安心していた人が、音だけで聞いたときに唖然とします。

 私は目でみながらも、耳で判断します。声のトレーナーだからです。みるのは、他の人、客や出演者の心の動きです。舞台からは目をつぶったのと同じ世界で働きかけてくる音、声だけをひろいます。このあたりは、まさに音楽監督と一緒です。

 これを日本の演出家は、せりふはまだしも、ミュージカルや歌においても、声を楽器の演奏レベルで捉えられていません。その結果、ダンスが世界のレベルに一部、追いついても、声や歌は置き去りにされてしまったのです。

 ベテランになるにつれ、歌い手もそうなりがちです。ラジオやレコードだけならそうならないのですが、ステージの体験が皮肉にもそれを助長します。

 

○声とビジュアル面

 

 ライブ舞台では、こと日本では、ビジュアル面の演出、照明、衣装といった装置の発展のおかげでもたせてきました。その分、声の表現について雑になります。その分、プレイヤーの音については、馬鹿丁寧です。

 歌手は、音楽技術を使いこなすのでなく、それでカバーしてこなすだけになるのです。他人と同じように、そして、自分のも前と同じようにこなすのが、うまいと言われます。これも悪循環です。

うまいからダメだという理由は、岡本太郎さんの論拠で略しますが、そうやって表現力を薄めてしまうわけです。

 

 「喉に負担なく、リスクなく」というのは、それだけをとると悪いことではありません。発声の基礎条件です。ヴォイストレーナーは皆それを教えているのです。ただ、それは何のためでしょうか。実状は、即興性がなく、結果として消化試合のように、そのエネルギーを体の動きやMCの方へまわすわけです。

プロとしてステージを活かすためには、演出、脚色は当然だと思いますが、それでもたせるとなると、形だけになります。若く有能なヴォーカリストが早い時期からそうなっていくのをみるにつけ、残念でなりません。

 

〇音声と表現力

 

 PVやテレビも、音声の表現レベルの高い人が登場してきました。それに加えて振りや衣装や装置が派手になってきました。すると今度は、その演出や装置を使うと、音声の表現力のない人もみせられるように、もつように、こなせるようになるわけです。

 アイドルやダンサブルな人たちを批判しているのではありません。もともと音声の表現力のレベルで選ばれたり認められたりしていないのですから、あたりまえのことです。それぞれに売りが違うだけです。

いつの時代でも、かわいいだけ、かっこいいだけのスターがいました。ただ、歌手というなら、歌=音声において、みせられる力で聞きたいと私は思うのです。

 

シンガーソングライターは曲づくりの才能の総合力、アーティストも総合力というのはわかります。その結果、昔のように何を歌っても、その人の声、その人のフレーズでオリジナルなものにしてしまえる人、歌唱におけるプロ、声のプロと節回し(フレーズ)のプロというのがみられなくなったのならば残念なことです。

 詩吟や邦楽などは、伝統芸で、年齢、ルックス、スタイル、振りが問われなかったので、声での表現力での勝負です。

 そういう人が、ここには多くなってきました。オペラでさえビジュアル力を問われる時代です。でも、そうでない大半の人たちには、みかけだけに囚われて考え違いをしないで欲しいものです。

 

○邦楽は、音声を鍛える

 

 音色を、まるで染物のようにしめたり絞ったり、声を歌へと編み上げ、色づけしていくのは、邦楽の方が多彩です。あるいは、エスニック音楽、ワールドミュージックといった民族音楽での歌唱です。それは、輝き響く声、柔らかく強い声を、オーケストラという大音響を抜けて会場の隅まで飛ばせることを条件に求めるオペラと異なります。どのような価値観で判断するかは、その世界、そして指揮者や師匠の感性です。

 一流のものは、シンプルに飛んできて、聴く人の心にしみ入り、何か奥深いものを感じさせ、宿したり、動かします。声が違うというよりも表現の働きかけが違うのです。基礎の上で離反した本人独得の表現だから、トレーナーが云々できないし、コメントしても仕方ないのです。

 

〇トレーニングのレベル

 

 再現性をキープするための喉や体の管理について、基礎を固めることでは、分野という境界なく共通です。極端にいうと、フィジカルトレーニングやマッサージと同じように位置づけられます。今や、ヴォイトレにも、フィジカルトレーニングが幅を利かしています。それは、ノウハウが高まったというより、フィジカル能力の劣化です。

 声のベースのキープは大切です。毎日整えましょう。日頃、体を動かしておかないと、動けなくなるのと同じです。ただ、これをもってトレーニングというのは、私には抵抗があります。

 

○名人には学べない

 

 一流に学べと言っていますが、名人の表現は、結果としてすごいから、ただ開く、聞き込むだけです。感覚に入れておくためで、直接の参考になりません。

 弟子なら師匠、師匠はその師匠と、手本、見本とした代々の名人をくり返し聞いておくとよいでしょう。このときは目をつぶって入れておくのです。私のように眼をあけて客の心にも沿いながら聞くには、少し修行がいります。

 そのまままねすることが、稽古では求められます。ヴォイトレでは、必ずしもそれはよくないです。「守破離」でいうと、名人は離反してしまっているのです。本人のもつ喉で絶妙なギリギリの表現をしています。声の延長上というよりは、それを超えてしまう破、飛躍してしまった離で、作品を提示しているのは、まねると危険でもあります。しかも、喉は必ずしも全盛期ほど柔軟でないため、名人級のテクニックでカバーをしているケースが多いです。

 

〇歳月

 

 基礎のデッサン力のない人が、いくらピカソの抽象画をまねしてみても、でたらめにしかなりません。ですから、学ぶなら、名人の初期の若い頃のもの、最初の頃の作品の方がよいことも多いのです。名人にもよりますが。

 これはトレーナーにもいえます。私が若い人を若いトレーナーに預けるのは、私の声では、生きた年月でも、培ってきたキャリアでも、名人には及びませんが、普通の人と離れているからです。ベテランのトレーナーも、「自分のようにやってみるように」と、教えるのはよいですが、そのようにできないのを注意しても仕方ありません。

 トレーニングは、本当の成果が出るまでは、必ずそれなりの歳月を必要とします。そうであればこそトレーニングというのです。

 12ヶ月で、あるいは半年、1年で、いかなる芸事の分野で一人前になれるでしょうか。基礎が習得できるものでしょうか。

 人前で演じられるのには、最低、必要な条件というのがあります。最初からそれがあればトレーニングは必要ないという人もいます。もっと高みを目指したり、確実な力をキープしていくなら、最低限、歳月は必要です。余力も余裕も、最悪のときにも声が失われては困るのですから、あるくらいにつける必要があります。

 

〇固定と解放☆

 

 最初に、固い、直線、強い、弱い、などという声は、柔らかく、丸く、コントロールできるようになります。そうならないところは、ある時期、無理をかけてみることがあってもよいと思います。私は、拡散が集約され、固定したことが自由に解放され、しなやかになってくるのが、上達のプロセスと痛感しました。

 その前にいろんな準備段階があるのです。固定するのは悪いこととはいえ、解放がいい加減なときは一時、固定させていくのもプロセスなのです。喉も同じで、喉が閉まっている人には閉めないようにしますが、閉まりもしない人(声にならない人)は閉めることから入るのです。

 やがて飛躍します。私には、次のように感じられました。

声に息や体がついてくる

吐くのでなく、吸うように声が出ていく

当たるのでなく、集まってくる

 

○ステージ以前の歌の基礎

 

 たとえば、

1.声が伸びずに生声になる。響きがない、声量が足らない。

2.高音が出にくい。または、中低音域が出にくい。

3.ピッチがずれる。リズムにのれない。

4.発音、歌詞がクリアに聞こえない。

いざステージとなると、誰でもこのような問題への対処が迫られます。レコーディングなら尚さらでしょう。個々の問題については、Q&Aブログにたくさん載せてあります。ステージとして、歌としての問題でなく、ヴォイトレの問題、声の基礎や音楽の基礎としての問題です。多くは、ステージ以前に解決しておくべきことです。

一言で言うと、これらは、もともとできていないままに声を出して使ってしまったゆえに出てくる問題だということです。

 フィギアスケートで例えるなら、TVで放映される決勝ラウンドでは、仕上がりや技を競います。でも習い始めて間のない子供の発表会やコンテストなら、最後まで何とか滑れるレベルで競うこともあることでしょう。

 

〇自論のスタンス

 

 ここでは、トレーナーとしてのスタンスのとり方、ひいては、トレーナーから本人へアドバイスすることとして、あげておきます。ケースによって相手によって異なるので、いつものように「自論」としてあげておきます。

ここで「自論」というのは持論というよりも、自分だけのための論法や自分に限定したなかで通じる例としてのような意味、私見に近いといえましょう。他人には役立たないものですが、それゆえ、一時例、特殊例として突き放すことで一般化でき、誰もがワク組をとることができる、というものです。

 スタンスとして、問題は個々に具体的にあるのです。

 

〇基礎のなさに気づく

 

 テンポに遅れないだけのドラマー、コードだけを間違えずに抑えられるベーシストは、アマチュアですが、自分の足らなさを知っています。歌やせりふは、そこがあいまいなために厄介なのです。ルックスや慣れだけでもけっこうよいステージにみせられる人もいます。

 大した練習をしなくてもできる人もいるだけに、レベルという問題が捉えられないままに進められてしまうのです。あるとき、急に基礎のなさに気づくことになります。

 あるときとは、

1.より高次のレベルのことをやるとき

2.より高次の人とやるとき

3.自分のベストがキープできなくなったとき

4.喉の不調、声が出にくくなったとき

などです。

 

○基礎とは何か

 

 ここでの基礎とは、音大やスクールで学ぶことではありません。プロなのに、ここに「基礎がないので」「正規にやってきていないので」と、いらっしゃることもあります。

でも、プロであったなら基礎がないのではありません。それは、音大やスクールに行って学んだことを基礎と思っているのでしょう。理論や生理学的な知識を基礎と思い込んでいる人もいます。しかし、そういうものがなくとも、きちんとした活動ができていたならば、高い基礎力があるともいえるのです。

 「歌ってきただけ」「舞台に出ていただけ」とおっしゃる人もいますが、そこで、声や歌の力を認められていたのですから、声の基礎は、100点満点のうち、少なくとも70点はあると自信をもってよいのです。それが50点でも歌や演技などで70点になり、ステージで100点になっていればよいのです。

 応用されてこその基礎であり、応用できない基礎は、本当の基礎ではありません。100点のステージができるなら基礎も100点といってもよいくらいです。また、声の基礎は100点でなくてはいけないのではないのです。基礎の力×応用力(%)となるのですから。

 

〇基礎と応用力

 

 少し基礎の話をします。応用できるまでに基礎は応用のできないステップを踏んでいきます。どこかで応用できないから、その手前の基礎を固めるのですから、あたりまえです。

 問題は、応用できないところで気づかされた、フィードバックしたときの基礎のレベルの欠如という見方もできます。ただし、基礎として声をしっかりとさせたら、応用として歌がすべてよくなるかというと、必ずしもそうはなりません。基礎といってもたくさんあるし、応用にも向き不向きがあるからです。

 

 木の幹と根で、応用と基礎を説明したことがあります。今回は、建物で例えましょう。建物とその地盤ということで、その地盤を掘って、コンクリや杭を打つことを、まさに「基礎」といいます。そのときに、真下に何メートル掘るのか、どのくらい固めるのかは、地盤の固さと、建物の大きさ、高さや重さによるはずです。どれくらいの安全を保つ必要があるのかにもよります。地震の多い日本は、世界一厳しい基準で、かなり余裕をもたせているはずです。

 基礎も考え方でいろいろと変わるということです。さまざまなバリエーションがあります。形、量、深さ、時間、材質など、どこまで必要であるのかが元で、その必要に見合うものであるべきです。

 応用のバリエーションにおいても、かなり変わるでしょう。いつものメンバーとのカラオケで同じ曲を同じように歌うという目的なら、かなりの限定ができます。限定すると早く仕上がるのです。

本当の基礎はいつ何時、どんなときも通じるレベル、などというと見当がつかなくなります。余裕があるに越したことはないので、限界がない基礎づくりとなるでしょう。

 

○ステージでの解決

 

 ステージでの問題は、発声、声に落とす前に、ステージとしてのレベルで解決することが早いし効果的です。ヴォイトレが広まってから、すべてを発声や共鳴のせいにする傾向が強まってきました。声帯のせいにする人までいます。

 「基礎がないからうまく歌えない。せりふが言えない」、勉強熱心な人に多く、最近は、ヴォイトレ、トレーナーなどが、この傾向を助長しすぎる嫌いがあります。

 本当につきつめて、発声や声帯の問題が入ってくるならよいのです。多くのケースでは、そこまで掘り下げなくても大丈夫です。ステージはステージングの問題として解決できるのです。

 プロデューサーや演出家は、声にふみこまずに現場の演出で解決しています。カラオケの先生が36か月で発表会の歌を仕上げてしまうのと似ています。表面を加工して、お客さんが「へた」に気づかないレベルにします。そのポイント(この場合は、聞こえ方)をずらすのです。そこでは、メンタル的なもの、フィジカル的なものでの調整がものをいいます。声や歌では、音響技術での音声加工で済むところがほとんどです。

 

〇生きる力

 

 モチベーション、意欲、気迫、やる気、自信、覚悟、体調のよさ、体力、気力の充実、リラックス、疲労感軽減。

 これらは発声でなく発声の基礎、いや、人としての基本、生きる力での問題でしょう。

 ステージには、構成、展開の力も入ります。音響、照明、伴奏、アレンジ、パフォーマンスなどで解決できることもたくさんあります。

 それぞれについて、10点満点でチェックしましょう。低いところは補い対策します。その分野のプロのヘルパーを捜すのです。

 現在のステージのように総合芸術化した上にコラボを必要とする分野では、トータルとしての力と、個としての力について、両方からみることです。

 

〇専門家を使う力

 

私も全てについて専門ではありませんが、それぞれの専門家がどうみるか知るように努めています。そこまでいかなくても、それぞれの専門家をどうみるかは、大体知っています。

 自分の限界を知って、他の専門の領域は他の専門家に任せるのは、専門家としての大切な見識です。

世の中に何でもできる人はいないのです。一人のトレーナーからすべて学ぶのは、こういう分野では、リスクが大きいということを知っておいてください。

 トレーナーが「すべて一人でできる」「自分が正しい」と思っている人なら、あるいは、トレーナーのそういう時期にあたると、そう思うようになってしまいます。世に出られない人をつくる「立派な」先生には、ご注意を。

 

〇もっている力と求められる力

 

 今立っているところにきちんと足をつけ、現実の世の中の求めていることの少し先を行こうとすることは、まさに基礎であり応用です。この2つがみえないままに、宙ぶらりんになっている人が多いように思います。「みえない」とかいうよりも、「みない」というべきかもしれません。自分自身のもっている力と、世の中や、他の人の求める力ということについても同じように言えそうです。

 自分を変えるのは、まわりに合わせるのでなく、自分のもっとよいところを伸ばすためです。眠っているところを起こして、充分に使えるようにするためです。

 ここも日本ならではのダブルスタンダードになりがちです。充分に自分をみないまま、先に求められる形に早く、器用に合わせるように求められることが多いです。そのようにしか学べないと本質を見失いがちです。

 でも、受験勉強もそんなものでしょう。詰め込みだからと避けるよりは、正面から受け止めてクリアしたのちに、自分の足で歩くとしたら、そのストックは悪いことでもありません。精進したことは、何であれ役立つからです。一人で自分のことを知るのは、とても難しいからです。

 

〇周りと変える、自分を変える

 

 私が、当初からオリジナリティの発掘などを、自分に頼りすぎないように感覚や体を磨き、一流のもつオリジナリティにふれつつ、聞き込むことを中心のプログラムにしていたのは、なかなかのものと思います。その先に自分で歩むことを求めない人には、ただの遠回りに思えるかもしれません。

アーティストであるなら、自ら釣った魚を自らさばいて食べるべきです。いつまでも魚を買っているばかりではいけないということです。

 基礎としての基準づくりは、まわりと相関させながらも、独自のものです。他人とは一致しないものです。

それが応用されたときに他人と明らかな差異が出てこなくてはなりません。ここで日本人は、大きな勘違いをしてしまうのです。他人と同一化する方へ自分をゆがめてしまうのです。憧れたまま、まねてしまって終わるのです。

 自分だけのものを、よしあしの前に見極めなくては、声もフレーズも決まってこないのです。そこで必要なのは、発声技法でなく、本当に、声からの表現を導く発声、フレージングです。

 

○流行のヴォイトレ

 

 ここのヴォイトレのメニュには、呼吸、発声、共鳴(胸部、頭部)声域、声量、声を伸ばす、響きを集める、声を飛ばす、体に感じる、のどをあける(共鳴腔を広げる)、息をコントロールする、スケール、発音、母音子音など、さまざまなものがあります。他のところにも、たくさんのメニュがあります。

たとえば、食事や健康法、体を治す方法にも、いろいろとあります。誰もが自分のが正しいと、あからさまにそうは言っていなくても、主張しています。そういうなかで、あるものが流行したりすたれたりしています。

 TVなどで、とりあげられるヴォイトレのメニュは、絵にする必要上、派手なものが多く、特定の人には役立つが、あとの人にはあまり役立たないもの、害になるものさえ少なくありません。部分的にはよい場合もあるが、トータルでは、あまり効果のないものといってもよいくらいです。世界でもっとも多くの声のメニュを扱ってきた私の言うことですから、一理あると思ってください。私自身も、いろんなメニュを提供してきたからわかるのです。

 

〇成果と評価

 

 誰に対して何をどのように処するとどうなるのかを、声において、普遍的なレベルまで、きちんと考証できている例は、ほとんどありません。私としても、「一般的には」とか、「多くの人には」と言えますが…。

私もいろんな経験をつんで多くの人やトレーナーを長年みてきましたから、今さら、「どれが一番正しい」とか、「誰が一番いいトレーナー」など、言うつもりもありません。

 評判も、個別である相手に千差万別であるので、参考になりません。トレーナーも生徒も、きちんとした一定の基準において成果を実証しているわけではないからです。

「プロになりたくて、レッスンしたらプロになれた」ということは、名目のたつ実績でしょう。オーディション合格のパーセンテージなどは、実例としてわかりやすいと思いますが、どこまでトレーナーやレッスンがそこに寄与したかを証明できません。効果談では、本人の実感でというところまでです。

 声のレッスンは、その充実感や満足感が評価になりやすいものです。

最近の傾向として、病院が医者の腕より、ロビーの心地よさなどの、サービスでランキングされるのに似ています。風邪ならそれでよいですが、難病なら違います。死ぬかもしれない患者を救うために腕を磨いている医者もいるのです。ときとして、医者や病院の評価は、まったく相反してしまうわけです。万一の訴訟を考え、患者の受け入れを拒む病院や執刀したがらない医師が出るのです。

 ヴォイトレは、健康への回復ではなく、あいまいなので困りものです。

 無理しても響いたら、高い音にぶつけられたら、それでよしとする。説明ばかり求めて、自分の知識が増えたり、うんちくが確認できたら喜ぶ。こういうのもレッスンの副次的産物ですが、成果とは、いいがたいものです。

 

○すぐにわかること

 

 トレーナーのもつ感覚や体ができることを、すぐにできるのでしたら、それは間違っているか、ごまかされているだけです。そのトレーナー自身が基礎ができていない低いレベルなのか、求めるレベルが低いならありえますが。

 でも、1回のレッスンだけの満足感や充実感を求める、そういうことばかりが、大切になってしまいます。それなら、それでもよいともいえます。

入口では一歩進むことが目的ではありません。慣れるとか心地よく声が出せる体験のほうが大切なケースもあります。

 研究所の一階ロビーに振動マシンをおいていました。それに乗り、全身をリラックスさせると、それだけでよい効果が出ます。パソコンやスマホの疲れがとれるだけでも声はよくなるでしょう。体が柔らかくなり、温まり、頭もリラックスして、呼吸が深くなり、よい声が出やすくなります。

 

〇トレーナーのレベル

 

 トレーナーの発声は、素人あがりのトレーナーでなければ、すでに何年ものキャリアの結果として示されています。深い息に支えられた声で響いています。それを将来のイメージ、あるいは基礎のあるイメージの一つとして参考にしてください。それができたら、その日で卒業できます。

そういうトレーナーさえ少ないのが今の日本のレベルで、悪声を売りにしているトレーナーもいます。

 何年かに一人、ここにも声を出すことをハイレベルに特化したレベルの人がきます。劇団四季をやめ、ブロードウェイにいく途中に寄った人がそうでした。ほぼ、ここのトレーナーのできることをマスターしていた唯一の人でした。

 

○トレーニングの実質

 

 レッスンするトレーナーを複数束ねている私としては、教わる側よりも、教える側に実感のあるレッスンで終わらせないようにしています。トレーナーが声を出すのでなく、本人が声を出すレッスンを重視しています。

本人の限界をはっきりさせつつ、その打破の手段を与えます。試みるとともに、打破できないのを、二次策、三次策と用意していきます。

 大切なことは、トレーニングでは、声を飛ばすこと(声量、共鳴、コントロール)であれば、どちらに飛ばすとか、どう飛ばすとか、応用に焦点を当てるのではありません。そこからのアプローチはかまいませんが、数年かけてでも、声を飛ばせる、そのために声をキャッチすること、そして、それを支える呼吸をもつ体につくりかえていくことです。

 それを拙書の「基礎講座」では、こう例えました。「手に、しっかりとのせて飛ばすこと」、このときに飛ぶかどうかでなく、きちんと支えて飛ばそうとすることでフォームができる、つまり、腕の力がつくことが肝要だと説明しました。

スポーツなどでは、ボールをどこまで飛ばすかが大切ですが、そのベースとなるトレーニングでは、負荷に対しどこまで抵抗できるかが問題なのではなく、それによって筋力がどうつくかということです。

 

○基礎メニュのつくりかた

 

 たとえば、1オクターブ半で2分間=120秒の歌があったとします。声域、時間、テンポなど、歌なら、いかにトータルとして聞きごたえのあるようにするかです。心地よくとか、バランスよくとか、みせどころをつくります。「声の個々の要素より大切」な「ステージでの個々の要素」をみせるのに声の要素も大切という位置づけです。

 トレーニングでは、集約します。部分的に拡大して、もっと丁寧にするのです。たとえば、♪=120の曲のテンポを半分(スピードを2倍おそく)♪=60にしたら、うまく歌えなくなるでしょう。♪=100くらいでもよいトレーニングになりますが、♪=80くらいまでやるとよいでしょう。すると声域もきつくなるから1オクターブ内に編曲(カット)して歌いやすいように移調します。発声=息(呼吸)=体の結びつきを徹底して、そこでもっとも理想的な声のポジションをみつけてみましょう。

 

〇基礎メニュでのチェック

 

1.息(浅い→深い)

2.息→声

3.声→共鳴

4.1~3の体から声の共鳴までの結びつき

これだけで

1.豊かな響き

2.息とコントロールされた声

3.深い音色(声の芯やフレーズでの線)

その人の声とフレーズのオリジナリティのベースが浮き出てくると思います。一瞬でも(=一音でも)、その完成形を自覚すると目的が具体的になります。レッスンはそこが入口です。イメージの入口までにも時間がかかるのです。

 

○フレーズのレッスン

 

 歌い手の価値は、声に加え、歌=音楽での創造性です。音色を動かしてデッサンしていくのです。そのイメージのオリジナリティと実現力が問われます。色と線でのデッサンです。最初はイメージからですが、自分のもつ声の上にセッティングできるかを問われます。

多くの人はできないので、自らの声の延長上に、そのイメージを声でつくっていくことがステップになるのです。楽器の音のように自由に動いてくると、それがフレーズになります。組み合わさって作品となるプロセスを踏むのです。私が求める基礎というのは、ここのことです。

 どう作品にするのかは、ヴォイトレでは、応用された表現として、基礎を掘り下げる必要性のためにみるのにすぎなかったのです。しかし、音響の発達で声の不足が補われてしまい(ごまかされてしまい)、その分、その人の表現からのデッサンを、必ずしも声と関わらせることなく折りこんでみるようになりました(特にポップス歌唱において)。

 邦楽の人や役者をみるには、この基礎をもとにすると、同じ土俵でトレーニングできるのです。

 

○教えることの進化

 

 私の考え方は最初から変わっていません。「基本講座」「実践講座」に、具体的手段が細かく述べてありますので、参考にしてほしいと思っています。

 最初は、私自身が学び、習得してきたプロセスの体系化で、私の考え方と実践が入っています。その後、改訂したのは、他の人がより対応できるようにするためです。他の人に教えてきた経験を加えたのです。仮説を実践の上に検証して、同じ本を出せたのは、私くらいでしょう。ありがたいことです。

 本の使い方や意味については、何度もくり返し述べています。こういう類の本はなかったため、デビュー本は、今からみると不親切で自主レッスンにそのまま使うには、いろいろと不足がありました。

 ここでレッスンをしている人を元に書いたからです。ありがたいことに、その後、私の本で自主レッスンをしてきた人を、ここでたくさんみることになり、いろんな気づきがありました。

 トレーナーと組むことによって、別の面からの気づきも多くありました。私から学んだ人が教えるのをみると、おのずと、その人がどこを学び、どこは学んでいないかがわかります。相手に対して同じように継承しているのはどこで、改良や別のメニュにして与えているのはどこか、それはなぜか、と考えます。よしあしはともかく、ここでの伝承、伝統ということの現実が、見事にまでわかるわけです。

 私がどのトレーナーよりも恵まれていたのは、365日、全力投球する努力家の弟子(私がそのように言うと怒るかもしれないので、生徒でもいいのですが、敬意を込めて)に恵まれたことです。人として伸び盛りの時期に、ヴォイトレの5年から8年くらいのプロセスを何百人の単位でみるのは、声楽や邦楽でも、なかなか難しいのではないかと思うのです。音大、宝塚歌劇団、劇団四季あたりでも、果たして可能でしょうか。

 

〇応用、進化、分化

 

 私は、才能があり努力する人たちと、トレーニングを応用、進化、分化させていきました。研究所も、声づくりだけを専らやるところだったのに、歌からステージ、せりふからビジネスのプレゼンテーションなどに広がっていったのです。プロセスは以前にも詳しく述べました。

考えや方法、価値判断を異にしていた人もたくさんいましたので、多くを学べたのです。

今の研究所のレッスンは、私だけで間違えるようなことができなくなっています。

大したことがないように見えるかもしれませんが、個人一人で教えている先生との最大の違いです。実践に鍛えられた研究所たるゆえんです。

若くしてトレーナーになっても、生涯まったく変わらず、同じやり方でやっている人もいます。自分が正しいと、他を否定することでしか自らを肯定できない人もいます。すべては試行錯誤し、間違い、改め、そうやって、ものごとは進歩していくのです。

今の研究所も私のやり方も万全とはいえません。しかし、長い年月にわたり変わっているからこそ、古くて最新でありえるのです。

 

○万能薬はない

 

 研究所で私が学べたことは、一つの方法をもって、すべてのタイプ、すべての時期にはうまく当てはまらないということでした。トレーナーの違い、方法の違いは、生徒の違いと同じく、どこで同じ、違うと分けることが、すでに偏りなのです。その判断自体が価値観の違いだからです。

 同じとしたものを丁寧に細かくみていくと違うのです。ですから、「正しい判断」について、などという論争は、この分野では不毛です。

 方法やトレーナーについての先入観や固定観念で判断するのをやめるようにお勧めします。

 毎回、少しずつ身になることもあれば、どこかの時間をバーンと飛躍することもあります。しかもそれは、トレーナーや方法よりも本人によることといえます。

 

〇役立てる

 

 レッスンやトレーナーは、本人が役立てるように活かせばよいものです。同じトレーナー、同じ方法でも、活かせる人もいれば活かせない人もいます。誰もが少しずつ活かせる人や方法もあれば、誰かがあるところでバーンと大きく活かせるのもあります。

 私自身が十数名のトレーナーのほか、外部のトレーナーのレッスンの情報も集めて、内外問わず、方向も含めてアドバイスしているのは、そういうことをやる人がいないからです。

 誰もが正しい方法、正しいトレーナー、正しい…を求めています。ほぼすべてのトレーナーが、それは自分だと思っています(私のところのトレーナーも同じです)。

 考えればおかしなことです。皆が正しいなら、皆同じになるはずです。

 目的やレベル、プロセス、自分でできることできないことなどを、個々に絞り込めば選びやすくなります。

 私のところで何人くらいかのトレーナーを経験すれば、日本のあらゆるトレーナーを体験するのと同じくらい、世界の(といっても欧米中心になりますが)およそのヴォイトレはわかります。

 

〇ライブラリー☆

 

 研究所には、アメリカのセス・リグスはじめ、イギリス、フランス、中国の発声のプログラムや音源、教材などがあります。日本のものは、この30年内のものは揃えています。高木東六さんや曽我さん、遠藤さん、松田トシ(敏江)さんのも。今の30代のトレーナーのものまであります。

 

 私と日本の声楽家の叡智を集めた研究所のトレーニングは、私のトレーニングの欠点もフォローしています。

 世の中には、早く上達させられるようなプログラムや機器がないわけではありません。何度もくり返すように、トレーニングというからには、長期的に確かな差となってくるもの、逆にいうなら、ちょっとした違いにしかならないものは、無視するべきです。こういう方針は、現代には合わないのかもしれませんが、死守するつもりです。

 オーディションに受かりたいなら受かることをすればよいでしょう。しかし、その後続かなければ…。人生は長いのです。23年でやめる人もいるのですが、プロというのは、10年、20年やって初めてそういえるのです。せめて、トレーニングというなら力になることをやるべきです。その2つの根本的な違いについて、何十回も述べているのです。

 

○表情筋のトレーニング

 

 ヴォイトレでは、表情筋について、よくクローズアップされています。美容で詳しく扱われていたのですが、カメラでさえ笑顔認識する昨今、口角を上げることは、必修化しつつあります。

表情の魅力づくりとして、自己啓発セミナーでもよく取り上げられます。笑いのセミナーもあります。アンチエイジング、ボケ防止、就活、婚活にと、この口角上げは、まるで万能薬のようです。

 声楽やヴォイトレでは、以前から割りばし、スプーン、鉛筆、指などを使って、教える先生もいます。共鳴のために共鳴控を拡げたり、舌根を下げ、喉頭を下げて、声道を広くすることが、直接のねらいです。

 

〇顔の柔軟性

 

 私のテキストにも、表情を各パーツごとに動かす運動を入れています。初心者や自主トレ用に入れたものです。私のレッスンや私自身は行っていません(ここのトレーニングでは似たことをやるレッスンもあります)。

声の調子の悪いときに少しやることはあります。表情がこわばっているときは全身、体の柔軟性も失われていることが多いのです。

 

 自分がやらないのに本のメニュに入れているのかというと、体力づくりや柔軟と同じような意味で、基礎レベル以前のことだからです。それの伴っていない人に、意識づけ、アプローチさせるためのものです。

 

私の頬はゴムまりのようにフワフワになりました。よく使っていたので、あまりやる必要がなかったのです。

 新人の営業マンはミラートレーニングでやらされますが、ベテランはいつも表情が柔らかくなっているので不要です。新人アナウンサーは早口ことばをやって、局入りしますが、ベテランは不要です。身についていたらよいのです。

 

〇口を動かさない

 

 私のテキストには声を安定させるまでは、あまり口を大きく動かさない(発音より発声優先)のです。その期間、あまり表情を使わない人は、補強するトレーニングを本に入れてあります。

高音の練習になるにつれ、表情は動き、太もものあたりにまで支えが求められます。そのあたりでのトレーニングをしていると、表情筋のパーツトレーニングは兼任されるのです。母音で1オクターブ統一できることを目指して下さい(この支えの感覚の要、不要については、改めて述べます)。

 「基本講座」には「へたな練習するよりも、腹を抱えて笑った方がよい」と述べました(これを声の本で最初に引用してくれたのは、巻上公一氏でした)。毎日、腹を抱えて笑っていたら、このトレーニングはいりません。

 目的は、声で伝えることです。発音の明瞭さは一つの要素にすぎません。明瞭なのはよいのですが、明瞭さにこだわり、声質、感情、間、メリハリが犠牲になっては、元も子もありません。

表情たっぷりに歌う人もですが、基礎の発声において、装飾のしすぎは禁物です。

 レッスンやトレーニングで滑舌(早口)に凝りたいときは、その目的でよいのです。

 

○発音の前に発声(劇団四季とオペラ)

 

 声楽家が滑舌トレーニングを基礎に入れていないのは、口形を変えることで、声の質に影響が出てはよくないからです。魅力的な声の共鳴、輝きと発音のクリアさは最高音になると、両立しがたくなります。オペラ歌手は当然、共鳴の完璧さを取るのです。

 初心者の客は、ことば=ストーリー内容を聞きにくるのですが、通の客は、声を聞きにきているのです。オペラは原語で歌われるので、日本人にはわからないから声を犠牲にできない。ゆえに、ヴォイトレの目的と一致するのです。

 役者はことば命ですが、声はしぐさ、表情に従属します。死にそうな状態になりきれば、そこで出た声がリアルになるのです。そこがオペラとの最大の違いです。

 劇団四季は、母音の口形練習を徹底します。誰でも聞きとれるように発音重視の日本語にするため、喉に負担を強います。浅利さんが演劇出身で、ことば重視で音楽軽視なところがみられます。それは日本人にとても合っているのでしょう。日本人は、ことば、ストーリーの方にしか耳がいかないという私の論の証明になります。

 

○ベテランアナと新人アナの違い

 

 若いアナウンサーの場合、日本では声もできていない状態でTVに出します。すると、どうしても発音のため、口形重視となります。表現力のないアイドルアナをすぐ起用するのが日本です。それをいうなら歌手も声優も役者もレポーターも、すべて似たようなものですが、できないのに出ているために見過ごされていた問題の例です。これは一流レベルでのセレクトがなされている国や分野では起こりえません。

1.口形のはっきりした、わざとらしいくらいの大げさな動き

2.そこでの発音

3.そこでの声

4.伝わる度合

これをベテランアナと比べてください。14の重点が全く逆の結果になります。

 ベテランは、

・よく伝わる

・声がいい、個性的

・発音は気にかけていないがクリア

発音の明確さは、本来は目的でなく、内容が伝わることが目的なのです。それがなかなかできないから、発音とルックスで何とかやっているのが、日本の新人アナです。もちろん、TVゆえ、口形も表現力の要素となりますが。

 

〇アナウンサーとキャスター☆

 

日本はメディアに主義主張の偏向のあってはならない、というおかしな国です。正確に内容を伝えるだけが報道である、ということです。そういう本来はありえない未熟なジャーナリズムには、ルックス本位の人の未熟な声が魅力的なのでしょう。

 

 本当のことをいえば、発音トレーニングもいらないのです。口をはっきりと切り変えすぎるのはふしぜんです。アナウンサーが30代になり、朗読、詩吟などをやりたいなどということになると、先生に「素人より悪い」などと言われて、私のところによくきます。

何人ものアナウンサーをみてきましたが、役者のせりふやお笑いも噛み合いません。アナウンサーという職業病です。日常会話さえ、報道モードになる人も少なくありません

欧米では、一般の会話レベルは報道でなく、日本でいうところの演劇モードレベルです。アナウンサーは個性あるキャスターなのです。

 表現の本質をわかって、声を伝えるようにした人が、キャスターとなり40代、50代と活躍しています。たとえば、国谷裕子さん、森田美由紀さんなど。

 大竹まことさんのラジオ番組に出たとき、阿川佐和子さんに「役者の声は、もてますが、○○アナウンサーの声はどうですか」とふられ、「だめです。もてません」と答えたところ、阿川さんは「アナウンサーは。(句点)までしか読みませんが、役者はそこで切ったあとに、伝わらなくてはなりませんから…」というようなことを言っていました。「さすが」です。

 

○メニュの使い方(外郎売り)

 

 ヴォイトレでは、声中心にしたいものです。それは当たり前のことなのに、日本ではそうなっていません。

 ヴォイトレで、本質的なことをやりたいなら、本質的なメニュとそうでないメニュを区別しておくことです。

とはいえ、こういう説明もあまり意味が伝わらないのは、同じメニュでも、その人やトレーナーの使い方で学べることにもなるからです。どんなメニュでも、使い方によっては本質的になるのです。

 たとえば、「外郎売り」は、滑舌のための早口ことばとして使われているメニュです。メリハリをつけて使うと、口上として表現力を磨くことができる魅力的な課題となります(初心者には、読むだけで難しいので、どうしても滑舌のトレーニングメニュになりがちです)。

 表情筋トレーニングは、高音の発声のためのメニュに使われています。本当は、高音を出していくと表情も動いてくるのです(変えずに最高音を出せるのは、パバロッティのレベルで一流)。そこで、兼任できる範囲までが望ましいともいえます。

 きちんとヴォイトレをやっているなら、姿勢のためのメニュなどは不要なのと似ています。退院したてのような人はヴォイトレの前に何か月か、筋トレ、柔軟、呼吸に追加して、発声せずに立ち方のトレーニングをした方がよいと思います。

 一人ひとり異なるのです。一人では捉えられないからトレーナーが必要です。トレーナーには幅広い視野と深い考察力が望まれます。

 

〇本質的なメニュとは

 

 誰にでも共通して必要な「基本メニュ」が難しいので、簡単にしたものをたくさんつくってきました。トレーナーにも、「これがいい」とか、「これはよくない」とかいろいろと言われているようです。しかし、メニュの形式でなく、目的を明確にすることが大切です。メニュそのものは、使い方で変えれば、どうにでもなるのです。一つか二つを徹底して使い込めたら、充分によいのです。

 たとえば、「母音はどの音、子音はどの音を使えばよいのか」というと、私たちのブログの「トレーナー共通Q&A」でわかると思いますが、それぞれの母音、子音にいろんな特徴があり、それによって可能性や処方があるのがわかると思います。どれか1つが絶対ということはないのです。目的やその人のレベル、タイプによって異なります。メニュを変えなくとも、使い方を変えれば対応できるのです。

 どれがよいとか悪いでなく、その人の今の発音や発声、目的にもよるということです。

 この研究所でも、トレーナーがそれぞれに使うスケール(音階)、母音、子音は、違うのです。おもしろいことです。その違いを超えて、学べたものが本質であることがわかります。すべての発音やスケールを学ぶ必要はありません。いくつかを使って全てに通じるものを学ぶのです。

 

○バランスを変える

 

 ある1フレーズ(8小節くらい)をサンプルとします。あなたの歌うための声、器の容量が2オクターブで16小節とします。

 

 器(トータル)を拡げるイメージ

トータル=2オクターブ(使う声域)×16小節[伸ばす長さ]×声量

2オクターブなら8小節×声量1Q(単位は仮に1Qとする)

 

1オクターブ(8)8小節×2Q

半オクターブ(5)8小節×4Q

3音(3)8小節×8Q

1音~8小節×24Q

ここまでは、声域を1/21/21/21/2、としてきたという意味です(正確ではありません)

1音~4小節×48Q

1音~2小節×96Q

1音~1小節~192Q

その後は、長さを1/21/21/21/2、としています。

2オクターブで8小節歌っていたのを、1音で1小節にすると192倍の声量(が出るわけではありませんが)かなりの大きさの声は出るわけです。

 

〇トレーニングでの補強

 

 今度は、長さ(小節)を省きます。あなたの器を100として、10×10つまり、声域1オクターブを10とし、声量に10を使うとします。

→声域を半分にすると5、その分、声量へ20をかけられます。

→声域を3音だけとすると、声域3×声量33.3

→声域を1音(もっとも出しやすい1音高)声域1×100

 

 1オクターブで歌うと10ホーンでしか出せない人を、もっとも出る1音だけにすると100ホーン出る。極端な例として例えていますので、こんなことはありませんが、イメージしてみてください。

 たとえば「アー」と目一杯出してみればわかりますね。このままの声量で歌には使えません。歌には声域などがあるからです。カラオケの人は、声量を小さくして声域をとりますね。

この2つの他にも、長さ、メリハリ、音、リズムなどが同じように変数として使えます。目的は、器そのもの、トータルを増やしていくことです。

 そこで、トレーニングでは、体、息、声、それぞれの器を大きくすることを目指します。さらに大切なのは、同時にそれらの結びつきを強めていくことです。そこでは深い息、深い声がポイントとなります。

 

〇高さを強さにする

 

 拙書の「基本講座」では、高低差(声域)3度ドレミレドと、声量ド<ド>ド強弱差(声量)を同一の見地で述べています。ドからミへ音(ピッチ)が高くなるのは、体や息の負担でない。むしろ「高い方は楽になる」というのが反論としてありました(新刊版では説明を加えています)。

ここでは、振動と周波数ではなく、ドがもっとも出しやすいなら、ミは(あるいは下に3度低いラでも同じ)その台の支えをつくらないと同じには出せない―出せるようにする―そのために息や体が備わるということです。「息や体の力を強く使え」ということではないのです(違う高音を、音色を同じにして出すというのは、文章では伝わらないので、知りたい人はいらしてください)。

 

〇バランスをとるのではなく崩す

 

 歌唱、発声の2オクターブをみると、ほとんどは1オクターブ半以上高くなると、声帯の使い方が変わります(声域が変わる。裏声、ファルセット)。別のやり方で、振動数(つまり周波数)を増やす使い方にします。

「基礎講座」では、基礎の1オクターブまでが中心なのです。話声区に限れば、強く言うと高くなるという、単に、声門下圧と声帯(声帯の長さと緊張度)で捉えてよいのです。

 多くの人は喉声なので、私は、胸声でのフレーズで動かせるようにしています。クレッシェンドと同じ感覚で音程(この場合、高めの音)をとります(「メロディ処理」=私の造語)。

 ベルディングのようなのは、声楽では中高音以上になると、その発声を否定されています。単なる命名では実体を伴わないので論じません。地声(1オクターブ内)では、一流の声楽家は、声の芯で同質の深い共鳴をキープしています

日本人が歌唱をせりふの延長上でなく、響きの方からもってきたことについては、非日常的で、そこに二重性の問題をはらむというのが、私の立場です。日本人の歌唱が、なかなかしぜんなロックや、ミュージカルにならないことで証されています。

 すべてのバランスをとることが、うまくこなすこととして目的になりがちですが、トレーニングは、そのベースを固めつつ、ときに、その逆を試みるものということです。バランスを意図的に崩してそこで、異なる可能性を追求するのです。特別なメニュを使うのも、そのためです。

そうして自分自身の声の可能性を知っていくのです。基礎だけでなく応用である表現で、これまでのバランスを壊しても作品がもつように、それがもっとよくなるようにしたいものです。

「歌唱論(Ⅲ)」

歌唱論(Ⅲ)

 

○客観的にみるということ

 

 どのように歌唱するのかは、一人ひとり違います。

私の場合はいくつかの条件のもとにみています。それは、私自身の感情、心とは別に、仕事としてみるということです。私自身の好き嫌いと別にみることです。

ですから、ファンの人が、ある作品に感動していたら、それはそれでよいことと思うのです。歌い手や演奏者が、自分なりに満足のいったものであれば、さらによいことです。そこに対して、私は一言もありません。一人ひとり、それぞれに違うだけでなく、時代や場所、そのときの気分でさえ違って聞こえるものだからです。

 よいものが多いなかでは普通のものは悪く聞こえ、よくないものが多いなかでは普通のものでもよく聞こえます。よいものをあまり知らない人やそういうものをめったに見聞きしない人には、どんなものもよい感じになります。そのまま評価されることが多いということです。イベントやライブの客の評価が当てにならないということです。

 

○機能的な面での基準

 

 声をよしあしを正確にみるというなら、機能的なことのチェックとなります。これがトレーナーの役割のように思われていますが(そういうトレーナーが多いのですが)、私は、表現への可能性をもとにみます。視点が違うので、見解が異なることが多いのです。そのために、的確なことばにすることが求められ、造語力や文章力も必要不可欠と思っています。

 機能面でのチェックについてみましょう。

1.音程、音高(メロディ)

2.リズム

3.発音、せりふ(アクセント、イントネーション、ことば、方言など)の正しさ

4.声量

5.音色

などが含まれます。

1から5にいくにつれ、ノリや心地よさなどというあいまいなものになります。ビブラート、ロングトーン、発声の明瞭さ、フレーズでのよしあし、発音(外国語)なども、それらを支えるための要素として出てきます。そして、解釈や構成、展開などがあります。

 

○レッスンでの見方

 

 私がトレーナーとして、みるのは、

その人自身とその声、

その声の可能性、

その声の表現での可能性(フレーズ、音色など)

本人サイドのこと

それに加えて

ステージ、歌、パフォーマンスも含めた表現力

作品、ライブ側との結びつきです。

 

 目的に対して、何が欠けているのか、何を加えられるのかをみます。

そのためにどういう手段があるのか、何が必要か、それは声において、どう解決されるものか、解決できるのか、あるいは、ときに、声以外で何とかすべきものなのかということです。

 本当に一人ひとりそれぞれに、ややこしいのです。

表現からのアドバイスは、プロデューサーや演出家に近いことなので、いろんなことに通じていないといけません。

可能性がないようなときも、工夫やアイデアしだいで最高のものにもっていく道筋を発案して、そこまでひっぱる力が必要です。

 

○参考意見として

 

 本人の作品や声については、質問を受けても、本人自身がいないときは(イメージであるところまでは出せますが、却って、否定的になりかねないので)難しいし、参考意見にとどめさせてもらいます。本人の目的、表現やステージが、具体的にみえないときに、ことばにするのは難しいです。

 それでも、それなりにイメージで補って、その仮のイメージを伝えながらアドバイスすることが多いです。発声を、「声のマップ」をつくって図示していくのと似た手法です。

 質問の多いのは、「誰々の歌をどう思いますか」ですが、そんな答えは出せません。

 出してみたところで、アーティストにもそのファンにも関係ありません。

 目の前の相手にシミュレーションしてみるのに、レッスンの材料としての見解としてのみ示します。レッスンに役立つようにコメントするのです。

 

 作品は表現ですから、好きにやったものを好きな人が聞けばよいのです。ファンとの間に、アーティスト本人のイメージのなかに成立していることに、トレーナーが口を出しても仕方ないのです。

 「何とかしてくれ」と頼まれて、初めてレッスンは成り立つのです。全ては程度問題で、その必要性は本人自身が自覚することでしか成立しえないのです。本人がこれでよいと思ったら、それはそれでよいのです。「何か違う、足らない」と思えばこそ、ヴォイトレ、その他が必要となるのです。

 

○守りのヴォイトレ

 

 最近は、創造的、冒険的でポジティブな試みよりも、守りのヴォイトレのようなものが増えています。のどが疲れるとか、声の調子がよくないからということへのフォローとしての利用は、調整だけになりがちなので、あまり、お勧めしないのですが、大半はこういうケースです。

そのように追い込まれてしまうくらいの力しかないとか、そうならないと気づかないことが、本当はおかしいのです。実のところ、攻めない限り、守れません。

 とはいえ、心身の不調でマイナスになった状態をゼロにするためには、フォローが不可欠なので、受け持っています。このフォローとしてここを利用している人もいます。

 これにはパーソナルトレーナー、マッサージ師のような役割が期待されます。人によっては、とても大切なこと、不可欠なことです。

 心身の方からみるのは、表現からではなく、一個人の体から、声の状態を調整することになります。ですから、そこでは調整ですが、それをしっかりくり返していくと条件づくりになってきます。「底上げ」として再現力の基礎となります。調子を崩しにくくなる力として表れてくるのです。

 

〇守りから攻めへ

 

 のどの状態チェックと実力を判断しても、将来への可能性をみる方へ力を入れないと、本当に力をつけられないし変わりません。

 その時点での判断は、医者の診断に似ています。近代西洋医学は、手術など対処的に問題を解決します。ステロイドの効果の即効的、かつ大きいことは驚くほどです。

 心身のリラックスによって、のどの発声を外して共鳴の効率をよくすると、一時的によい声がとりだせます。そういうことを注意するのを中心としているトレーナーは少なくありません。でも、病巣と違って悪いところをとってしまったらよくなるというものではないのです。

 

 私のトレーニングはハードに思われていますが、漢方医のようなものです。目的や声のレベルもそれぞれに応じて変えます。そして、時間をかけてゆっくりと変えていきます。発声より、それを司る呼吸や頭を変えていくのです。体という器を大きくしていくことで応用や再現力を高めていくのです。

 

○形と流れ

 

 歌の1コーラスは、大きな声で4つから8つくらいの文章を読みあげるくらいにしてください。フレーズとして、息はともかく、流れは、つながっているのです。外国人がそのくらいで捉えているものを、日本人は、16から32くらいで細かく捉えます。歌の形を声でコピーしてしまうからです。表現としては総じて固くなり、緊張を欠きます。ことば単位で切って、つなげようとすると低い次元になります。

 プロは表面の加工技術に長けているので、一般の人にははっきりとわかりません。でも、感じられるものです。問題は、本人がそのフォローを技術と思い、固めてしまうこと、そこでアピールできるものとしてテクニカルに使ってしまうことです。

 

 発声や歌唱は、迷いや不安が入るだけで安定性を欠いてしまいます。しなやかさ、柔らかさ、伸びやかさは、音楽としての心地よさのために、もっとも大切にすることです。しかし、なかなかみえません。それは、せりふにも通じます。自信をもって使いきると、それなりに説得力をもって伝わってしまうのが、せりふや歌の困ったところです。

 

〇意図を表現

 

 曲から離れて全体をつかんでみましょう。楽譜を歌うのでなく、歌全体の意図を歌うのです。

 声を一つずつ伸ばしてつなげるのは、日本の合唱などにはよくみられます。うまくいくと心地よさが眠気を促すようになってきます。一つずつ均等に伸ばすような日本語の母音に忠実であるほど、表現としては、間伸びしたふしぜんなものになりがちです。インパクトが切り捨てられているのです。

均等というのは、楽譜やプレイヤーの演奏上、そういうルールのときもありますが、スタッカート、テヌートでもない限り、動かさないと表現としての緊張を欠きます。

次の対立項は、日本人の歌唱、特に日本語の歌ではよくみられます。声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく、超えていたら、表現としてはかなり強いインパクトを持ちえるのです。

メロディ          ことば、リズム

伸びやかさ(声量)     きめこまやかさ

レガート(スタッカート)  ことば

ロングトーン        ことば

 声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく超えられたら、表現としては、かなり強いインパクトを持ちえるのです(目指している目的自体がずれている人の多いのが、日本の歌唱の問題です。拙書「自分の歌を歌おう」で詳しく触れました)。

 

○ダルビッシュ有とパワー

 

 世界へ出ていくサッカー選手や野球選手はよい参考になりますが、ダルビッシュのアメリカでの活躍もその一つでしょう。渡米前、「技術でなくパワーそのもので世界に挑戦したい」と言っていました。技術で勝っても本当には評価されないから、パワーで打ち勝ちたいということです。日本人も、チェンジアップや変化球で買われていたピッチャーだけでなく、野手も大リーグに出ていけるようになりました。イチローのマジックのようなバッティング技術も足も、当初はベースボールとして認められなかったのです(ボクシングでも、ヘビー級がメインなのは、フライ級とか、モスキート級という命名でもわかりますね。小が大を制する美徳を持つ日本人なら、ハエ級、蚊級とはつけないでしょう)。

 

 圧倒的なパワーで勝負できないから、技術で勝負しようというのは、大国に対して小国日本の指針でした。大柄な外国人に対し小柄な日本人のとってきた方法です。しかし、156キロを出せるダルビッシュだからこそ、その負けん気に火がついたのです。

 ところが、初戦から、そのパワーは通じず、変化球主体の投球に変えざるをえなくなります。すべるボールと固いマウンドで、コースが定まらず、シーズン半ばにして大ピンチとなります。そこで、大リーグのコーチは、変化球主体の組み立ての指示を止めます。ダルビッシュは、プライスの投球をみて、ただ足を上げて投げることしか考えていない、リラックスの大切さに気づきます。自分が小指側からついていた足と、彼のベタ足でのつきかたの違いに気づき、改めます。マウンドの土の固さの違いから、ダルビッシュのフォームは不利だったわけです。

 このあたりは、NHKでダルビッシュ自身が言ったことです。

 本場のコーチも気づかなかった、本場ゆえ気づかなかったのです。そのことに、重要な示唆があると思うのです。

 

〇修正能力

 

ヴォイトレでも、トレーナーの方針ややり方、メニュと、本人の上達とのギャップに、悩む人は少なくないからです。

 ダルビッシュの言うように、プライドある大リーグのコーチが方針を変えたことのありがたさは、日本では難しいのではないでしょうか。「自分でみつけて、気づいてやっていく。逃げずに立ち向かっていく。まわりの意思でなく自分で向き合ってやる」

 自分中心の考え方、まわりの意見で迷ったり、自分自身と向きあうことの得意でない日本人には、見習うべきことです。

 

 着目すべきは、気づくことと、気づいたら修正できる能力の高さです。ゴルフの石川遼も、シーズン中にフォーム改造をして、成績をアップさせました。2年ぶりの優勝でした。

 そういう能力をレッスンのときに磨くことです。トレーナーのアドバイスを一方的に聞くのでなく、きちんと判断して、自分にプラスに役立てていきます。ときにはトレーナーのアドバイスも自分が気づいたことでも、これまでの自分に対して異なるアプローチをしてみます。その必要性や可能性について判断して、実際に応用して結果を出すのです。

 

〇懐とストーリー

 

 ダルビッシュはその後、今年最強のルーキーを、大事な場面で、なんとインハイにストレートで決めて三振にとりました。キャッチャーがOKしたのです。

 そういう環境を与える大リーグとのいうものの懐の深さに、ダルビッシュは大リーグに行って、本当によかったと思ったことでしょうが、日本人としては残念に思います。

 プロ野球も、相撲も、プロレスもボクシングも、私が子供の頃のような、エキサイティングな環境が失われているからです。選手も監督もコーチも、何もしていないわけではないのですが、明らかにスケールが小さいのです。野村元監督が、○○の○○監督の「何も指示しなかった」というコメントを、「その通り。正直だ」そして、「何もしないからダメなんだ、野球もダメになるんだ」と述べていました。

 

 相手を信用して何もしないのと、指導者の役割を全うするために、考えに考えて何も指示しないのとは違います。現場のことは、そこにいる人しかわかりませんから、何が正しいとか、誰が偉いとかはわかりません。人に伝えるときにはストーリーやドラマをつくってしまうからです。

 私たちの現場も、そこから先を考えていくことが大切です。

 「ピンチになった、気づいた、変えたらうまくいくようになった」というほど現実は単純ではありません。もっと語られないこと、本人たちにもみえないものが、大きく働いているものです。

 シンプルに学んでいくことも大切です。私たちは大リーグに行くわけでも、マウンドに上がるわけでもありませんが、選手のことばや番組のつくったストーリーから学べるものを学べばよいのです。それを明日へ、自分へあてはめて、ヒントにすればよいのです。そのために、ここで伝えています。

 

○トレーニングは一時、鈍くなる

 

 問題を深刻にしないことは、大切なことです。

 声を強く大きくしたいという要望に対して、多くのトレーナーはストップをかけます。なぜでしょう。

私は、ストリートサッカーの時代の必要を説いています。サッカー場でプレイする前に、どれだけボールに触れていたかが、一流のストライカーの条件と述べたことがあります。高い声や大声を自己流でやるのは、本を読んでいるだけよりはよいことだと思います。

 でも、多くのトレーナーが中断させるようになったのは、トレーナーが優秀で、そこへくる人があまり優秀ではないからともいえます(私の場合は、私というトレーナーが優秀でなく、くる人が優秀だったので逆です)。習い事なら、そういうものです。優秀な先生からみると、「強く、大きく」は「鈍く、丁寧でない」のです。彼らの立場では、「強く」とか「大きく」は、学びにくるまで自分でやって失敗しているから(その限界を知って)ここでは、大人になりましょうということです。だから、その先に行けないのでしょう。

 

〇その先のヴォイトレ

 

 私も「体と感覚を変えていきましょう」と、体は鍛え、感覚は磨くのです。プロは、感覚が磨かれているわりに、日本人の歌い手の体は鍛えられておらず(柔軟性にも欠けている)、息吐きメソッドなどを発案したのです(ここでは、私の「ヘビメタ=レスラー論」※を参考に)。

 しかし、少しずつ、レベルが下がってくると、感覚(音楽的センスも)の強化がより重要となります。試聴音や音音程・リズムトレーニングを加えました。

 

 感覚(耳)を磨かずに、体(声)だけ鍛えていくと、鈍くなります。体育会系の人などには顕著に表れます。彼らは体や息や声ができているほどに歌にならないのです。一方、トレーニングを積み上げなくても歌手になった人がたくさんいます。声や歌では、それで通じるくらいの日本の市場だからです。そこから先のトレーニングの不毛さを証明しています。

 

○ヴォイトレ、声楽はふしぜんか

 

 役者や歌手は「ヴォイトレ(特に声楽)にいくと、ふしぜんになるのでやめた方がよい」と言われていたことがあります。それは一理あります。私が思うに、トレーニング=ふしぜんですから、トレーナーに「よい」と言われることのなかでも、のど声になる、オペラみたいな(オペラもどきの、よくない)押しつけたり、こもったりした発声になる、合唱団みたいな(合唱団もどきの)個性のない発声になる、などがあげられます。

 「声楽やオペラを学ぶと個性がなくなりませんか」という質問も、よくあります。私の本を読んでいる人は、それは応用と基礎の取り違えであるとわかるのでしょう。

 コンテンポラリーダンサーが、クラシックバレエを習ったら、そのダンスがバレエになるでしょうか。本人が声楽の勉強しかしていないし、それにばかりこだわるなら、どう考えても声楽っぽくなるでしょう。

 習いにいったくらいで消えてしまう個性って何でしょうか。

 よくあるのは個性=自分というのと、表現として現れる、価値としての個性との違いです。これはオリジナリティと混同していることです。

 

○一貫する

 

 演じるあなたは、あなたであっても、あなたでないし、あなたでなくてあなたです。

「あなたが出たら、歌=音楽は出なくなる。歌=音楽が出たら、あなたは出なくなる。両方が両立、一つになるのは大変なこと」です。

 私は、自分=表現=歌=音楽を一つの声として一貫させるのを理想としています。真のアーティストなら、しゃべればせりふであり、歌であり、音楽であり、そのまま作品であり、芸術であるのです。そのために必要なのが基礎トレーニングです。結局は、応用において、どれかが通じていたらOKという現実の判断を強いられるようになりました。

 

 声がすべてでないので、歌がOKならよい、表現がOKならよい、という判断も必要です。でも声がOKではだめです。トレーニングや体づくりは基礎で、それがOKになるのは器づくりや可能性としてのプロセスです。

問われるのは、切り取った作品として歌や音楽という表現です。いくら人間としてよい人でも、歌がだめなら歌手としてだめなのです。

 

〇ことばにならないこと

 

 ことばにならないことが大切なのです。「星の王子様」みたいなこと(ここの話は研究所のサイトにあります。読んでみてください)ですが、いらっしゃる人と、ことばでやり取りをして長くなることもあります。

 わからないことをことばにして整理するのもトレーナーの能力であり、仕事です。でも、考えるまでもなく、ことばはどちらにもぶれさせることができます。論理に組み立てます。

 そこで、どうしても雑になります。感じ、イメージから離れます。インデックスです。だから決めたがる人は、ことばを求め、ことばに安心します。そこで止まってしまうのです。

 ことばは、詰めるための手段とし、使えるところで使うのにとどめたいものです。あとは、体と感覚に委ねなくては先に進めないのです。私は「本でやるのでなく、本でまとめるように」と言ってきました。

 プロセス自体まわりのもの、すべてをみないようにしたら、ことばにできます。でも、それで伝えられたと思えないでしょう。

 

〇考察

 

感覚と場を読み取る力

「聞くことに答えない」という答え

他人に委ねられないのに非難するな

自分のことばのフィードバック(のりとつっこみ)

フィードバックをかけすぎる人、ためないと出せない人

継続性、連続すること

一貫しているもの、芯とぶれ

歌のなかの線、声のなかの芯

相手のなかに自分をみること

すぐれたものがあることを知っていること

相手の立場にたってイマジネーションする能力

「判断力と再現力」

○「ハイ」の再現力

 

私のメニュのなかでの基礎のチェックです。

1.「ハイ」を10回言ってみる。その中の一番よい「ハイ」を選ぶ(判断力)。

2.選べなければ選べるようにする力をつけていく

3.その「ハイ」を10回言う。言えなければ言えるようにする(再現力)。

次のステップとして、

4.「ハイ」のなかで一番よい「ハイ」を選ぶ。

5.以下「ハイ」をくり返していく。

これで私のヴォイトレの基礎のすべてといってもかまいません。これに伴う考え方としては、

1.今のなかで、もっともよい「ハイ」をよりよくしていく。

2.今のなかで、そうではない「ハイ」を今のもっともよい「ハイ」にそろえていく。

このもっともよいは、今のなかで、ですから、もっともよいといっても、その人のなかでは、ましな「ハイ」に過ぎません。

「ハイ」を使う理由は、「基本講座」を参考にしてください。

 これを、グレードのようにランキングしますと、「ハイ」=Hとして、10個のHのうちの1つが勝ち抜き、レベルが1つあがる、以下、同じように、それを10個くり返し、そのまた10個のHのうち1つを選んでいく。もちろん、もっと下位から始める人もいるでしょう。すべては例えです。「ハイ」や10個というのは一例であり、現実的にはそれぞれを母音、子音、ハミングなどで、発声練習で行っているわけです。

レベルA H1つの「ハイ」)

レベルB HHHHHHHHHHHHH10の「ハイ」) 

レベルC HHHHHHHHHHHHHHH…(100の「ハイ」)

レベルD HHHHHHHHHHHHHHHHH…(1000の「ハイ」)

 

〇判断のレベル

 

 バッティングのフォームづくりにたとえて説明します。バット(竹刀でもよい)を持って10回振ってみてください。そのなかでどれがもっともよかったか、直観的に選んでください。何となく選べるはずです。素人である私なら、それと同じスイングを10回くり返すことができません。野球部員なら、私よりもそろったレベルからスタートできるでしょう。

これはスイングの違いが何センチメートルくらいの幅で認識できるのか(判断力)、実際に振って調整できるか(再現力)の能力の差となります。イチローなら、その差はミリ単位でしょう。ボールを投げる側で例えてもいいですね。距離、スピード、コントロール力と、今はスピードマシンで測れるからわかりやすいでしょう。

 人それぞれ、スタートのレベルが違います。23ケ月たつと、その人なりに調整できるようになってきます。少しコツがわかるのです。そういう判断力や修正力がどのくらいあるのか、またどのくらいついてくるのかが、その後の伸びの違いとなります。それはスタートのレベルの違いよりも大切です。

 トレーナーは、あるレベルまでは、本人よりも正しく選べます。声は判断しにくいものだから、その指示に従えば、修正へ効果的に進めていけるでしょう。少なくとも本人よりは客観的に聞くことができるのです。しかし、その客観性は、客観ゆえの限界があるのです。高いレベルでは、表現性に伴って判断は変わります。磨かれた本人の感覚が、そのレベルを逆転するようにしていくように育てることです。ここでは直観的に知っておいてください。☆

 

○「できていない」とわかること

 

 トレーナーがつくのは、「どれが正しくて、それにどう合せて修正するのかを教える」ためと思われています。しかし、「どのように判断するのかを伝えること、その判断を満たすように、方法を試行錯誤させ、本人に編み出させる」ことがもっと大切なのです。

 でも、つい、「こういうふうに」と教えてしまうことになります。答えを知らせても、その解き方を学び、自分で実感できなければ、本当は何も変わりません。トレーナーの答えは、トレーナーのものにすぎません。

 最初はなんとなく「できていない」と思うだけで「何が」「どう」「できていない」のかが、わからないのです。

 でも、よくわかっていないことがわかっていくなら、一人で行うよりは、長い目でみるとずっとよいことです。

 

〇場を求める

 

 「大きな声が出ていない」「のどでなく、お腹から声を出せ」と言われて、レッスンを受けにくる人がいます。「やっているうちにできてくる」とよく言われます。そう指摘されても、「どうすれば大きな声が出るか」、「どうすればお腹から声が出るか」は、具体的に示されないから、困って、ここにいらっしゃるのです。

 本人が「充分にやっていないなら、やる」ことです。やればよい。それで解決しないからトレーナーにつく。そこからでいいのです。

「必要性に応じて、場を求めて、次のステップに進む」ことの一例です。

 「やっているのに、やれていない」というのを判断するのが、本人よりトレーナーが厳しくしてこそレッスンです。その実現を目指し、具体的に進めていくのがトレーニングです。

 

○体での習得を知る

 

 スポーツや武道を経験したことのない人には、あるいは、頭でっかちだと自覚している人には、今からでも簡単なスポーツを試して欲しいと思います。自覚できていない人こそ行って欲しいのですが。そこで頭と体やイメージの関係をつかみ直してほしいのです。声だけで行うのは、案外と難しいことだからです。

 結果が出るというのが、どういうことかを身をもって経験してもらいたいのです。フォームをみてチェックしてもらうのをコーチにつくならもっとよいでしょう。自分の感覚や体のズレとその修正法を客観的に教えてくれます。その結果を構造的に捉えてほしいのです。

 ゴルフやバッティングは練習場があり手軽です。バスケットやテニス、弓道、アーチェリー、ボーリングなどもよいでしょう。ダーツ、卓球、ビリヤードは、少しわかりにくいかもしれません。いかに自分の頭と体がうまく動かないのかを知るだけでもよいでしょう。

 

〇実践と表現

 

 同じスイングが10回できるということをつめていけば、それには確固たるフォームが必要であり、体力、筋力、集中力など、それを支えるものを補強する必要がわかってきます。試合で確実に実現するとなると、確実なフォームの再現に加え、それを臨機応変、変化自在に動かせる応用力が必要になります。モチベーションやリラックスできる力も必要です。

 トータルとしての柔軟な対応力が、ステージや仕事には必要です。それがないと続けられないでしょう。

 だからといって、こうした応用ばかりでやっていては、基礎が得られません。得ていたとしても狂っていき、応用が効かなくなくなります。柔軟性や対応力が劣ってくるからです。それは基礎的なことを固めない、あるいは固めたとしても、それを維持することを継続しないからです。

 

○固定化させないレッスン

 

 ここで重要なことを述べます。同じことをくり返すことで固定させられるような技術ができ安定度を増すと、失敗は少なくなります。でも同時に新鮮味や面白み、凄さは欠けてきます。応用性も落ちてきます。

いつの間にか、高いレベルを目指すべきトレーニングが、安定し、リスクをなくすことだけを求めるように置き換わってしまうのです。

アーティスティックなことも、仕事になると、そうならざるをえないのです。そこで伸びが止まります。これは子供という天才が、大人という凡才になっていくプロセスと似ています。

 だからこそ、それを壊すためにトレーニングをしなくてはいけないのです。

 しかし、自分で壊して創れるのは、人に教えられたままに、でなく、自分で気づいて、たえずゼロに戻って試行錯誤して自分をみつけ、伸ばしてきた人だけです。つまり、独自の自分の世界、オリジナリティのある人だけなのです。そこは、一人では難しいので、レッスンがあるのです。ただ、レッスンの目的によって大きく違ってきます。

 

〇パターン化するレッスン

 

 日本でよく行われているパターンは次のようなものです。

レッスンで正しい方法を教えてくれる。

それと違う方法は間違いだと教えられる。

正しい方法で調整して、よくなる。

その方法を技術(テクニック)として、習得して固める。

これで固めて進歩が止まる。

頭でっかちなレッスンでは、トレーナーの求める形がここにあるから、どうしようもないのです。

 こういう人は、自分以外の他の方法や他の理論に批判的です。他の否定において自らが肯定する人も多いのです。そんなことができるわけではないのですが、そう思う人が、教える人にはよくみられます。

すると、「どの先生(のやり方)が正しいのか」となり、「この先生(のやり方)が一番正しい」、「他の先生(やり方)は劣っている、間違っている」と思い込むようになります。

 そういうことは、一人のトレーナーと一つのレッスンで続けていると必ず陥ることです。

私は、23年そういう時期があってもよい、いや、そうなるのは当たり前のことと思います。そうして一所懸命やったことは身につきます。そして次のステップにいけばよいからです。たとえ、次のトレーナーと方向や判断が異なっていても、極端な話、正反対であっても意味はあるのです。

 それを方法だけでみると表現と対立するのです。あなたへのアプローチに、なぜそういう方法がとられたのかを考えてみましょう。それを知ってみる努力は怠らないようにしましょう。

 

〇次のステップへ

 

 演奏や実践に秀でたトレーナー、初心者の指導に秀でたトレーナーなど、いろいろなタイプがいます。それが見えない時期は、自分をみようとして、一所懸命やるとよいです。

 大切なのは、その自分を突き放して、次に進むステップを用意していくことです。その時期その時期に、あなたに必要なトレーナーもいるし、あなたに必要な判断や方法もあると思ってください。

 すぐれた人は、自ら生涯にわたり方法を変えていきます。方法はツールにすぎないからです。

 多くのトレーナーとともに行なっていると、トレーナーの直感を磨き、本人の力を伝えることの必要を感じます。表現できるようになることです。本人が考えたり、疑ったりしても、壁があっても、そこを突き進む力を与えることだと思うのです。

 

○しぜんに伝わるとは

 

 頭から入る人もいます。体から入る人もいます。いろんな学び方があります。表現から入る人もいます。声や体から入る人もいます。いろんなプロセスがあります。

 声や歌がよくても、そこで表現にならなければ、学ぶことが必要です。表現がよくなるには声の力もいります。しぜんに力を入れなくても伝わるくらいで、声が働きかければ、かなりよいと思ってください。

 そのためにトレーニングし、声を使い切って、表現力を伸ばしてほしいと思っています。

 しぜんにうまくいっているのが一番よいのです。トレーニングもレッスンも、それを補うものです。

一人でしぜんとできていたら一番よいです。そういう人はとても少ないから、すぐれるために人について学ぶのです。レッスンやトレーニングをするのです。その逆になってはなりません。

 

〇補強としてのレッスン、トレーニング

 

レッスンやトレーニングは補強にすぎません。気づいて変えるための時空です。私はレッスンでは、声だけでなく、ことばの働きも重視します。感覚が磨かれるからです。本質をみるには、くり返すだけの練習では足らないからです。

 

 私は、カラオケ教室のスタイルは肯定しています。他の方法もどれも否定しません。それなりに実践が伴って、目的とニーズがはっきりしているからです。

 

 こういう関係について、ヴォイトレの定義や関係性があいまいなので、ほとんどの人はつかんでいません。ですから、本番への調整と本来のトレーニングの違いを、くり返し述べているのです。

 

 かつて、カラオケ教室や歌唱教室で、音程やリズムトレーニングをやっていました。うまい人はどちらにも行きませんでした。へたな人は、習って少しうまくなりましたが、アマチュアのうまい人並みにもいきませんでした。なぜでしょうか。結果を早く求められると、固めることを上達と思うからです。バランスと安定感が評価となるからです。

 

 バッティングセンターでは、慣れない人(特に女性など)は、バットにボールをあてようとして、あたって前にはねかえったら喜んでいます。くり返しているうちにあたるようになってきます。しかし、これでいつかちゃんと打てるようになるでしょうか。「バットにボールをあてる」のと「ボールにバットをあてる」のは違います。あたるのではなく、あてなくてはいけないですね。似ているようで逆のことです。笑わせることと笑われることくらい異なります。

 まずは、腰中心の素振りをマスターした方がよいですね。コーチが子供に教えるときはそうしています。ヒットを打つのと、バットにボールをあてるのは、目的が違います。必要とされる条件も違います。そこをみて、変えないと大した上達は望めません。

 

○積み重ねても固めないこと

 

 バットにボールをあてることが先決なら、バント練習もありかもしれません。それが第一歩といっているのが、今のヴォイトレのように思えます。早く楽しむための手段として考えるとそうなります。

 ここがややこしいところです。そこにいる客を満足させるところで判断されるライブと、客を超えるべき一流の作品を、どのように考えるかでしょう。

 高校の野球部員、ノンプロの打者でも、バッティングセンターなら1010中、ジャストミートします。まわりでみてはいる人は驚くでしょう。でもプロとはレベルが違うのです。

 舞台は、客商売であるので客のレベルにも左右されてしまいがちです。至高の表現よりも瞬時の作品として、確実安全なものを求めてしまうのは当然でしょう。でも表現者なら…。

大きな素振りをしたところからトレーニングの一歩が始まります。そこに、柔軟から体づくり、筋トレがあるものでしょう。

 

〇代用

 

「まず楽しみましょう」という人の行うヴォイトレのワークショップやカルチャー教室は、きっかけとしてはよいと思います。それをトレーニングとは思わないことです。体験する機会として行われているからです。私も似たことを導入としてやったときもあります。しかし、そのままトレーニングに結びつけられないのは欠陥です。

 バッティングセンターでも100回振るのではなく、いいフォームを100回みて、1回振る、イメージ通りに一回振るために、バッティングセンターの外で、素振りを100回振る、そのための筋トレをすることです。本来の上達は、そこからです。

 声や歌も同じように考えてよいと思うのです。歌い込みが大切なのは、表現でのオリジナルのフレージングのレベルでのことです。基礎は、何回も聞き込むこと、100回聴いて全身全霊で1回行うのです。そのために別にヴォイトレの時間をとって、声を鍛えておくことです。

 量だけでも、質だけでも足りないのです。このようなことに時間、量をかけることで、質とつながるのです。そこを区分しておいた方がよいということです。このあたりを、レッスンと自主トレの関係と私は考えています。

 家では、思う通りにやりたいだけやればいいのです。よくわからなくなってもよいのです。それに指導や方向づけを与えるのがトレーナーのように思えます。本来は一流のアーティストやその作品からの天啓です。その代りとして、トレーナーが部分的、ある時期、関わっていると考えてください。

 

○自分と体での判断

 

 トレーナーの言うことや理論に振り回されることは、本末転倒です。

 情報量を中途半端に増やしていくことを学んだと思うこと、そのために決めつけたり、混乱したりするくらいなら、「情報をマックスにして判断不能にしてしまえばいい」と思います。それでこうしてたくさん述べています。

本人の資質もいるので、必ずしもお勧めはできませんが、「すべての情報を切って体で動くこと」です。

 「ハイ」でもスイングでも「どれが一番いいですか」と聞く前に、本当に見分けがつかないのか、選べないのか、とことん試してみればよいのです。

 体というのは、頭よりも正しくて、精巧なメカニズムで動いています。少しでも狂ったら死んでしまうくらいに、あなたの体は正確無比に働き続けてきたから、生きているのです。そこを信頼すればよいのです。

 

〇モデルとグレーゾーン

 

 あなたの声も歌も、あなたが否定しているとするなら、すぐれたモデルをイメージとしてインプットして、そこから正すことです。それが唯一の王道です。トレーナーがそれを左右する存在ではいけないのです。

 何かを教えたり、アドバイスすることは、有益であるほどに邪魔もするのです。薬と同じです。たくさんの薬はいけません。中途半端に他の本や他のアドバイス、レッスンを受けて混乱するのもよくないです。

 そのグレーゾーンのレベルで、悩むなと言っているのです。悩むとネガティブになり、行動が後ろ向きになります。他からここのレッスンに移ってくる人の半分はそういう状態ですから、よくわかります。問題の解決でなくてもトレーナーを移るという行動でポジティブになるなら、それも一つのアプローチです。

 

〇変わること

 

 なぜ、何かを知ることで変わると思うのでしょうか。

 体が正確に動いている限り、大きく変わるのは、ハイリスクなことです。

 日常は安定しているから日常で、そうでなければ非日常です。

歌手や役者は、虚構の世界の非日常的存在として表現者たるのです。それでありつつ、そこでの本質を日常化していくことで、プロとして一流としてのキャリアを積んでいきます。

 デビューのときには緊張してあがっているのに、慣れてくると落ち着くのと同じことです。でも高いレベルへ挑むと、また緊張するはずです。そのうち、場や相手など、まわりに左右されずにできるようになります。舞台が特殊に日常化したのです。そこから各々の世界を作るべく、自立した個として、イマジネーションとの格闘に入ります。

 

○その人らしい声や歌

 

 声、ことば、歌は、日常のところに帰る必要があります。でも日常では、それゆえに、ふしぜんにできません。そこでトレーニングします。日常を変えることもトレーニングという必要悪においては可能なのです。

 特に日本の場合、歌やせりふが、その人の日常に求められるものでないのです。別に形づくられ、そこから判断されるのでややこしいです。

 私はヴォイトレで、その人の声、その人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形が優先されます。

 そこがよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などと比べるのでもよいでしょう。

 

〇ダブルバインド

 

 日本の声の表現での二重性(ダブルバインド)について、プロデューサーや演出家はもちろん、トレーナーも、それを助長してきたのは否めません。

 あこがれの歌い手のような声で、その歌い方のように歌いたいのは、誰もが同じでしょう。カラオケの指導や、ヴォイトレは、そこにも使えますが、それは真意でないと私は思っています。

自らの器を大きくして、今は非日常のものを、明日の日常に化していくことがトレーニングだと思うからです。

 

〇トレーニングと努力の才能

 

 誰でもトレーニングしだいで何でもできるようになるわけではありません。結果として自らの潜在的な能力を開花させるところまでです。

 それを理想の方へ、変えていくのです。何かをなしとげた人は、努力で叶うと言います。すべてが叶うほどの努力をした人の言うことを否定するほど、私は傲慢ではありませんが、それだけが真実なのではありません。そこまでの努力ができるのも一つの才能であり、それ以上の努力をしても適わないこともあります。

 

〇トレーニングの本意

 

 確認しておきます。トレーニングで潜在的な能力を開花させていくのは、そのことですべてが可能になるからではありません。むしろ、「やっていない人たちのなかには、やれば通じること」でも、「やっていない人たちのなかではやるのがあたりまえで、なかなか通じないこと」を知るためです。つまり、自らの勝負をできる場を知るためです。

努力するのは、敗れる限界を知りつつ、そこを破っていくことで、自分の本当の限界を知ることです。

ヴォイトレで声域や声量を拡げたい、でも拡げても、限界があります。あなたの限界を超えてやれる人もいます。上には上がいます。

 努力しても、努力していないようにみえる人にかなわないこともあります。そこから本当の個としての勝負が始まるのです。

 

○限界、制限あっての個性の表現

 

 レベルが上がるというのは、可能性の世界のことです。クラスのなかでバスケットボールが一番うまくても、バスケット部に入ったらどうでしょう。市の優勝校のエースでも、県では、国では、オリンピックではどうでしょう。能力がついて活躍の場が上がるほどに、自分以上の存在や能力をまわりにみることになります。そこから上がるには、誰もかなわないところにいくしかないでしょう。そこから、本来の意味での、オリジナリティが決まってくるのです。

 

 私は「才能があれば…」「金があれば…」「方法があれば…」「トレーナーがいれば…」などという人には、期待しません。大切なのは時間です。時間があなたを変えていくのです。

 

〇量的な時間と質的な時間

 

才能、トレーナー、金、方法などは、量の質的転換において使えるのです。

精一杯やれば、今の自分の限界がきます。本当の自分の限界を知るためには、一つ上の何かが必要です。それがレッスンと、それに基づくトレーニングです。

ここで初めて、あなたが判断し行動を統制する才能と、それを補助するトレーナーが、本当にものをいいます。

あなたの位が上がるにつれレベルの高い参謀が必要になります。

歩兵には参謀は使いこなせません。将軍には参謀が必要です。共に持っている専門能力は違います。それぞれに高めあってきた能力を合わせてことにあたっていくわけです。

 

〇独自のフォームへ

 

 声は、体が楽器です。そこで、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものがあります。

 そこからいつかは、独自のフォームを持つ世界へ入るのです。野球でいうと王、張本、野茂、イチローといったところでしょうか。

 オリジナリティとは、他人がまねられないフォームの確立のことです。その結果による実力が一流の証明です。

歌やせりふはアートで、スポーツより自由が効くので、本質のが見抜きにくいです。見抜く人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、異なる壁に突き当たります。見本のようにはパーフェクトにできないという不可能の壁です。

 そこに優劣の基準を設けることは難しいことです。人の好き嫌いというもの、ファンという移ろいやすいものに支えられているとするなら、エンターテイメントとしてみるしかありません。

 とはいえ、何でもOKです。よいものは人に伝わり残っていきます。そういうものを価値とする、というのは結果論です。

 そこまで考えると、ヴォイトレのよしあしも申せません。いろんなメニュや方法で、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況で、私もよしとしているのです。

 

○成り立ちのありよう、ありかた

 

 まとめておきます。(詳しくは「声の基本図」参照)

基礎←→応用

自分←→相手

積み重ね←→飛躍

これらは左から右へいくのでなく、インタラクティブ(双方向性)です。

 ヴォイトレは、体から声へ、そして、自分の声へ進んでいきます。

 歌やせりふは、表現の必要性から声を引き出していきます。

 

トレーニングでは、地力、底上げ、再現の確実さ、徹底した丁寧さを目指します。

 レッスンには、いろんな目的があります。私のレッスンについては、内容としては次の4つが中心です。

 

1.日常のトレーニングのチェック

2.声のチェック―体、息、発声、共鳴、それらの結びつき

3.表現のチェック―声を中心としたオリジナリティ

4.ステージのチェック―表現を中心としたオリジナリティ

 

〇ステップとメニュ

 

歌でもせりふでも、歌手でも役者でもかまいません。

 何かをチェックするということは、一つ下に戻って、支えるためのそれぞれの要素を、より確実に行なう、行なえるように調整したり、鍛えたりすることとわかります。

 歌は、歌としてみるのですが、そこでチェックしたり直したりするのではありません。そこでの問題を一つ戻って、それを成立させる各要素の成り立ちのありようをみるのです。

 ヴォイトレというのは、歌のありようをみて、それをバランス調整するだけでなく、どのありかたなのかを根本まで遡ります。たとえば、舌や軟口蓋や喉頭の位置などをみて直すようなのは、こういう理由です。

 

 トレーナーは、表現をみながらも、その基礎のところまで、いくつかのステップを戻ります。連続的に、かつ構造的に捉えていくのです。医者の診察のように仮説をたてながら、不足している情報を得るために、メニュ(この場合は、チェックリスト)で本当の問題をあぶり出していくのです。あるときは部分的により丁寧に絞り込んでいき、包括的にみます。

 何かを習得させるためにメニュがあるのではありません。問題を拡大して本人に気づかせ、自ら修正できるようにするために、メニュを与えるのです。レッスンは気づかせること、ピアノを弾いているだけでも、スケール範囲、テンポなどをいろいろと変え、気づかせようとしていきます。

 

〇沈黙のレッスン

 

教えないで気づかせること、それまで待つ沈黙のレッスンこそが、もっとも本質なものと思います。教えないレッスンが成立するには、生活からの表現の感覚が磨かれているか、磨かれてくることが大切です。

教えられることがレッスンだというのは、私からみると依存症です。今の日本の教育を受けたらそれも当たり前となった人がくるので、成り立たせることが難しくなります。商品のように「払った分、ノウハウを教えろ」となるからです。

ことばで言うのは簡単ですから、多くのトレーナーはすぐに教えます。教えていると楽だし、気持ちいいし、時間も早く感じるから、先生というのはとかくしゃべりたがります。求められないことまで話してしまいます。その方が生徒の受けもよくなり、充実したレッスンになります。しかし、これこそが虚構のトレーニングなのです。

私はトレーナーに「話すな」「理論を言うな」「教えるな」「やらせてなさい」と、時折、注意します。力のないトレーナーは知識や理論を使わないと間がもちません。

最初はしゃべれなくても慣れてくるとしゃべれるようになります。受けがよくなり、23年放っておくと話がとても多くなる。自分が学んだり、他で気づいたことを話しまくります。本人の気づかない慢心も出ます。私はそれをメッセージや会報ですませるようにしています。文字にするとフィードバックができるからです。

 

〇活かすか育てるか

 

 レッスンの目的を個別(その人のオリジナリティ)のモデルか、共通の要素(誰にも必要と思われるもの)に重きをおくのかで、そのスタイルも大きく変わります。

 「誰にでも必要と思われる」ことは、オリジナリティの価値がある人ほど必要としないこともあるので、そこでトレーニングをどう考えるのかは大きな岐路になるわけです。

 たとえば、オリジナリティを重視するなら、その人の今の全部、歌い方を、作品、ステージ、音響も含めて、どう活かせるかを考え、声についてもそれに最大限必要なところまで伴わせます。これは、プロデューサーや演出家的な立場です。すでに選ばれたものを選んで絞っていく、即戦力として役立てるためのレッスン=調整なら、これでよいのです。

 しかし、育てていく立場なら、その人中心に考えます。その人のよいところが活かされる(基礎の徹底)のと、仕事になる(求められる)ことは、必ずしも一致しません。

 私はその一端として、声楽を音大にいったつもりで学ぶようなトレーニングをお勧めしています。

 

○音大リスク

 

 研究所では、発声については、ある面では、音大やスクールよりも効率をよく伝えられていると思います。発表に重点をおいていない分、そのためのロスを基本の声づくりに集中させられるからです。

 研究所には、少なくとも8つ以上の音大の声づくりのノウハウをおいています。

 これは、私一人が教えることとはケタはずれにパワフルな体制です。

「一人のトレーナーの考え方や方法、嗜好で結果が左右されるリスク」が防げます。

 トレーナー同士が話しあえば何事も解決するわけではありません。それを徹底していくと、意見、見解も分かれることでしょう。それでも本人に多角的な気づきを、早くたくさん与えていくこと、同じ期間や同じ練習に対して、よりよく変えていける可能性が高まります。

 

〇効率とステップ

 

 効率というのは、一つの指標にすぎません。情報が優先される世の中において、即興的効果、早ければ1回ごとと、12ヶ月で何かを効果としてみせることを強いられるトレーナーは、そういう方法やメニュをとらざるをえないからです。

 これをわかって行っているならまだよいのですが、トレーナーによっては、いらっしゃる人が充実したり、満足するのがもっとも正しいと信じているのです。こうなるとビジネスか癒しです。ヒーリングなどにもその傾向が強くみられます。

 「早く23割よくなるプロセス」と、「時間がかかっても23倍よくなるプロセス」とは一致しません。早く23割よくしていこうということが、その先の可能性を低くしてしまうのです。

 初心者用レッスンというのが第一歩として、第一ステップとなればよいのですが、入口に入れない第一歩であることが多いからです。

 より高いレベルにいたるには、より深く掘り下げなくてはいけません。建築物のように、高さを考えるほど、土台を深く堀ることを優先することと思っています。自己流を停止させ、基礎を固めるのが初心者用レッスンと思うのです。それが本人の自己流と異なっても、トレーナーの自己流となるのはよくないでしょう。

 

〇即興的効果の限界

 

 現実にステージをやっている人がくると、今さら土の中にいる蝉のような潜在期をもつことは難しいのが現状です。オーディションや大きなステージ前には、柔軟的なこと、調整以外のことは、薄めてステージに差しさわりのないように、用心しなくてはなりません。「ヴォイトレをやったら、へたになった」と言われかねないからです。だから、柔軟、のどの調整がヴォイトレのように思われるようになってきたのです。

 ワンポイントアドバイスなら調子がよくなるのですが、根本的に変えていくようなトレーニングをすると、一時的にバランスをくずし、調子の悪くなることもあります。

 自己流で泳げている人に、コーチが正しいフォームを教えたら、一時は、泳ぎにくくなり、記録も上がらなくなくなるでしょう。ふつうは、バランスがとれず疲れます。

ここでメキメキよくなるのは、自己流というのがひどかった人だけです。そういう人がヴォイトレにも多くなってきているので、問題がややこしくなるのです。

ここで正しいというのは今日結果が出るので正しいのでなく、将来、今とは比べられないくらいに飛躍した、よい結果が出るので正しいということなのです。それを今日だけでみるなら間違ったフォームとさえなります。

 

○腹式呼吸を例に

 

 たとえば、呼吸法だけでも変えたら、発声は今までよりうまくいかなくなります。声を変えたら歌もうまくいかなくなります。といっても、肺呼吸をエラ呼吸にするわけではないのです。

 トレーナーは「腹式呼吸に切りかえなさい」と言うのですが、「胸式と腹式を併用して呼吸しているのを、腹式をより働かせられるようにする」ということです。「より高度の必要に使えるようにする」ということです。

 「長く伸ばす」とか「大きな声を出す」とか、「楽に出す」というのが進歩としてわかりやすいので、目的にされます。本来は、「より繊細にコントロールすること」「息から声に、より確実に変え、理想的に共鳴し、それを支える」ということです。

 「より大きな必要に耐えられる」ように、胸式呼吸でがんばると、肩や胸が上下にも動いてしまうので、発声に支障が出ます。それを抑えられたらよいだけです。お腹で横隔膜あたりで対処するのです。

それは発声のためという、生命のためとは異なる機能で強く求められたために生じたことです。そのために呼吸法、呼吸トレーニングがあります。といっても、それも日常の延長上なのです。より大きな表現、より大きな必要性があって身につくのが理想です。

 「○○法」とかいうように、特別のメニュをつくるのは、そこだけに要素を分けて、集中するためです。

 

〇余裕と余力

 

表現するには、ギリギリの基礎より、やや余裕をもって余力のあるくらいに身につけておいた方がよいということもあります。

より早くより強く身につけられる、これが私の考えるヴォイトレ、つまり、トレーニングです。

ふつうのヴォイトレは、「胸式を腹式に切り替えましょう」レベルですから、何年たっても、結果として、あまり身につきません。12回でも、あるいは12ヵ月でも、そのような感じにはなります。緊張気味のレッスンで、少しゆるめたらそう感じるだけです。パンに飽きて中華を食べるとうまいと感じるようなものです。日常での少し運動したあとくらいの強さの呼吸にすぎないのです。他のスクールからきて、腹式呼吸や腹から声を出せるような人は、10人に1人もいません。日夜トレーニングしていないのですから当然です。

 トレーニングでも、その必要性も高めていないと何年たってもそのままなのです。

 

〇フォームと基礎

 

 スポーツでも、フォームを教えてもらったところで、それをキープする感覚や支える体、筋力を身につけていかないと、自己流のくせのあるフォームに戻ります。

 知らない人よりはましかもしれませんが、できないのは同じです。こういう人は、しゃべるとまっとうなことを言います。ヴォイトレのトレーナーにも、そういうトレーナーのレッスンを受けた人にも、そういうタイプの人は少なくありません。わからなくても、説明できなくても、できていれはよいです。

 息の吐き比べ、声の伸ばし比べでもよいでしょう。息での声のコントロール力だけでも、その違いは一目瞭然です。

息を吐けたからといって偉いわけではありません。歌やせりふがすごいこととも違います。ただ、基礎というなら、比べるとわかりやすい。試合でなく、野球の素振りやサッカーのリフティングだけみせて差がわかるというようなものです。

本当の基礎の差はせりふや歌でなくとも、一瞬の呼吸、声でわかります。そういうことが直観的に感じられない人が多くなったのは、困ったことです。

 その人の動作や体つき、たとえば、筋肉の付き方からだけでもわかるのが、アスリートの世界です。もちろん、スポーツにもよりますが…。それでも、走ることなどを除くと、スポーツは、楽器のプレイヤー同様に、かなり特別なトレーニングを長期にわたり、続ける必要があります。

 それに比するのは、ポップスよりは、声楽や邦楽の世界でしょう。そのためもあって、私のトレーニングのベースの説明は、そうなっていったと思うのです。

 

○レッスン特有の価値問題

 

 個性とは、多様なものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみるようにしています。そのことは、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいて、多くの問題を引き起こします。まして組織として、複数で行うと尚さらです。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに切らざるをえません。たとえば、効果となると、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。

 人間は、わかりたいし、わかりやすいほうをよいと思うので、自ずとそういう方向に進んでいくのです。そういう方向に進めている人が評価を得ているとそっちへ行きたくなります。組織ができるといつ知れず、それが固定観念となっていきます。例外を許さなくなっていくのです。ミュージカルや合唱団なども、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、一糸乱れぬことに美を見出そうとする意識が強いように思います。

 

 一般の人だけでなく、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れてくださいます。それが、固定観念を妨げてくれるところがあります。

人は、正解を求めてくるのですが、私は「そんなものではない」と述べています。

 私の本を読んできた人も、同じことを聞くことがあります。つまり、突き詰めると「でも、正解は?」

 これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えとして考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うことです。

 

〇教える関係での偏り

 

 トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることで仕事としているからです。

 すると、歌ってきた人とこれから歌う人の間では、歌ってきたことで知っていることを伝えるのが教えることにもなります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。何をもってプロとするかは大変にわかりにくいことです。アマチュア同士で教え合うこともあるので、あまり区別しないでよいとも思います。

 

 スクールでは、入ったばかりの人が、すぐにトレーナーに勧誘されてなっているケースもあります。そういう人は、いろいろと困って、よくここに教え方を学びにきます。教える資格がないとは思いません。長年やっているからといって問題がないともいえません。完成することのない、奥の深いものだからです。

 レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てきます。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては必要のないもの、役に立たないもの、害になるものも少なくないのです。

 

○文化とプログラミング

 

 私は、どんなメニュもやり方も、ないよりはあったほうがよいと考えています。選ぶ機会が多様にあるのが豊かなことであり可能性も広がるからです。そのなかから選ぶだけではありません。自ら創り出すための材料となるからです。一人でゼロから創ることを考えてみたら、どれだけ助かることでしょう。

 人類は先人の経験を生かし、文明や文化をつくり出してきました。継承の上に創ったから偉大なこともなしえたのです。

文明は共通に基準化され、伝達され模倣されて発展します。一方、文化は、一般人、一個人、一地域、一時代のオリジナリティを元とします。この二律相反の問題には悩まされるものです。

あるところまでのプログラミングは、文化、芸術の理解、指導、習得に有効です。私が方法やメニュを一個人でなく、組織として扱い、それを通じてまとめ上げ、公開するのもそのためです。

第一段階として、材料を一覧化しています。第二段階として、ノウハウやメニュを欲しがる人が多いのですが、必要なのは、基準とそれを満たす材料です。

 表現は基礎を必要として、基礎によって可能性を大きくします。しかし、基礎そのものの中や、その延長上に表現が生じないことも多いのです。小説をいくら読んでもよい小説が書けるのではありません。それをいうなら、いくら書いてもよいのが書けるとは限らないともいえます。

 声は基礎、表現は歌やせりふとなります。声を出しても、そのまま表現にはなりません。それは、よい竹を叩けば、よい音が出るというレベルです。尺八の音にするには、楽器として加工し、演奏者が技術を高めなければなりません。そのレベルでの表現を私は目標にしていますが、難しいものです。

 

〇基礎の声

 

 声が基礎、でも基礎の声とは何か、ということが最大の問題です。人間としてもって生まれたもの、例えば顔などと同じで、時代や違いによってよしあしはあっても、正しいとか間違いとかはありません。今、流行の歌や声というならあるのでしょうが…。

 「どの人の声にも間違いはない」ということです。いろんな問題を抱えて、いらっしゃるのですが、本当に問題になる人は1パーセントくらいです。声が出ないとか歌がへた、音痴が直らないといっても、その1パーセントの人以外は、大して深刻な問題でないのです。

 その1パーセントの人の問題は、声の器官、耳(聴覚)、脳の問題があげられます。医療の分野やメンタル的なアプローチを要します。

 

 多くの人は、「本来の問題をきちんと捉えられていない」「足らないものを知って補充していない」だけです。それをチェックしていくのがトレーナーの第一の仕事でしょう。

 そこでも大半は、声というよりは、話や歌での機能での問題、声量やことばの明瞭さ、滑舌(発音)や音感、リズム感の解決をはかります。不慣れなら慣れていくことで、ほぼ解決します。緊張などメンタル面も大きく関わっています。

 舌、表情筋、呼吸筋ほか、柔軟性や運動不足などの日常生活のもたらすものが関係します。そこからみると、発声の効率などは、基礎であるのに高度な問題です。

 

〇くせをとる

 

 本人の声と本人の理想とする声(憧れの声、モデルとしての声)とのギャップは、問題です。

声の判断基準は、いろんな人の声を聞いて、できてくるものです。多くの場合は、自分の声から目指すべき理想とイメージでの理想にギャップがあります。

 すでにこれを無理に(くせをつけて)のりこえると、自分本来の発声でなくなっているのです。歌うときにはもちろん、日常の声にもくせはついているものです。

 自分の発声と思っているものも、本人のもつ生来の声に、育ちや生活(環境や習慣)が入って、姿勢などと同じでくせがついているものです。ですから「くせを取り除く」というのが、レッスンの第一の目的となりやすいのです。その結果、そこでは悪い意味で合唱団の発声のようになることが多いのです。体や呼吸の使い方も、声量を抑えて丁寧にということで不問になるのです。

 それが本人らしい声なのか、理想の声なのか、他人の求める声なのか、いろんな見方があると思います。

 私は何であっても、できないよりはできた方がよいという判断もしています。表現の可能性、応用性を大きくしていくのが、トレーニングの目的でもあるからです。合唱のできる人は、できない人よりもよいのです。ただし、そこから踏み出せたら、です。

 

〇応用力のある声

 

基礎としての声をどのようにするかは大変な問題なのです。多くのケースでは、「シンプルに認める」か、「タッチしないでスルーする」というようにされています。

 私は、これを応用力のある声と捉えています。

体の中心からの声で、共鳴した声でなく、共鳴を自在にできる声、

芯のある声、小さくても聞こえる声、通る声、深くてパワーのある声、

口を動かさなくても発音が明瞭な声、

聞いて心地よい声、その人らしい声、説得力のある声、しぜんな声、

器の大きい声、限界のみえない声、

と捉えています。

 

○よい声とタフな声

 

 私が皆さんと接して使っている声は、もっとも私らしい理想の声やよい声というよりは、仕事を完遂できる声です。崩れずに8時間以上の持続に耐えられる声です。よい声かどうかは別にして、タフな声、強い声です。仕事に使うのですから仕事の声です。

レッスンのなかでは、変えることもあります。使える声といっても、応用されるのですから、ケースバイケースで多様なものです。

 

 応用というのは、ある意味では調整でなしていることです。自分のもつ器のなかで上下左右と動かしていくことは、器の拡大とは違うのです。これを上下左右、器のなかでも大きな振り幅で動かしていけると、結果としてしぜんと器を大きくしていくことになります。リスクをおさえ、時間をかけてやっていくことで、トレーニングとしてみると正攻法なのです。

 大人の声になっていくのは、人生の歩みとともにある声です。トレーニングではない、しぜんな日常の声の進歩が、本来は理想です。

 

〇強さを求める

 

 誰もが歩いたり走ったりしていたらオリンピックに出られるとか、記録をつくれるわけではありません。高いレベルを求め、自分自身の不足を補い、能力を早く手にいれたいとなると、無理が生じます。その無理を承知の上でセッティングするのがトレーニングです。私は「トレーニングは必要悪」と言っています。

 

 今の器を大きくするのは、今の形を壊すともいえますが、違うものをゼロからつくるのではありません。ベースに今のあなたの声があります。その最大の器をみます。そのまま全方向へ伸ばすのではなく、ど真ん中の声をみて、そこをつかみ直して、可能性をマックスにしていくのです。

 野球で言うと、ストライクゾーンを拡げるのではなく、もっとも力を発揮できるコースを絞り込んで、自分自身のストライクゾーンをセットしていくようなものです。それが資質や応用性に恵まれていて、ルール上のストライクゾーンを包括するくらい大きくとれる人もいれば、その半分くらいしかとれない人もいるかもしれません。

 しかし、勝負すべきは、広さではなく強さなのです。

 

 声の広さというと声域になるのですが、ヴォイトレでは、高音を目的にトレーニングをする人ばかりが目立ちます。そのためのトレーニングとやらは、長い目でみると、方向違いになりかねません。トレーナーの指示とメニュで、一時的な上達に長けてしまうことも少なくないのです。

高い声が出るようになっただけ、声質(音色)やコントロールは、初心者のままという結果です。何年たっても、そうであれば、プロセス、そしてその目標のセッティングが違っていたのです。

 

○刷りかえで教える

 

 たとえば、「歌える体づくり」といっていながら、「声の向き」の指導において、「できましたね」とほめるときには、いつのまにか声の高さが変わっています。「向き」ということをポイントにするのは、悪いことではありません。

高さが変わってできるようになったのなら(それが目的なら)よいのです。そうでなく、最初からできる高さに問題をすり替えて、「できた」というのは、まやかしにすぎません。

 自信をつけ、トレーナーの信頼感をもたせるためにしているのなら、一種のトリックです。右に求めていたことを左にしてOKと思わせているのです。多くのトレーナーは気づかずにやっているのですから罪はありません。トレーナー自身が気づいていないのが、今の日本のヴォイトレのレベルです。こういう例はとてもたくさんあります。意図せずやっているのです。

 

〇目的のための仕掛け

 

 私やここのトレーナーは、多少、意図的に使っています。私は知って使っていますが、知らないで使っているトレーナーがいたら、そこは注意します。そういう手練を知った上でレッスンに役に立つなら使ってもよいと思っています。しかし、これをトレーニングとか、トレーニングの成果とすべきではありません。

 レッスンに、こういう仕掛けをするのは、目的を遂げる手段の一つとして容認しています。ただし、トレーナーが知っていて、トレーニングのために役立てることが前提です。リスクも使える範囲も知っていて、処方するからこそ、専門家です。

こういう場合、声を害するのは、注意を守らない人の一人よがりの自主ハードトレーニングです。

こうしたトリックがトレーニングと信じているトレーナーも少なからずいます。すると、レッスンを受けても変わりません。次のようなところで、こういうトリックは、よくみられます。

 

高い音に届かせる→あてる

音程、あるいは音高を正しくとる→あてる

大きな声にする→ぶつける

 

 その日に行う下半身の筋トレや、股関節の柔軟、お腹のふくらみ、お尻の穴を締める、手を上げるとか、このあたりも、状態の変化を促すためのとってつけのようなものです。何かを変えるためにやっても、プラシーボ効果です。

 「気持ちや体の状態が変わることで初心者の声は大きく変わる」「変わったように聞こえる」ので、よく使われるのです。どれも、高いレベルでは使えないことで、本当に変わったといえないのです。

 

○「お腹からの声」の嘘

 

 大きな誤解の上で行われている一つは、「お腹からの声」「腹式での発声」「声量のある声の出し方」でしょう。質問にも多い事柄です。

 高音に届かせたり、喉をはずしてクリアな声にしたいなら、そう出すことは調整でできるようになるのです。しかし、その実、ぬいたり、そらしたり、逃がしたりしているだけのことが多いのです。ポップスのトレーナーの見本をみるとわかります。

 カラオケになら使えるのでよいとして、「体からの声を腹式呼吸によって(同時に)出す」というのは、一般のビジネスマンなどの声の指導などにも使われるようになってきました。しかし、大体が「押しつけ、無理をした声、お腹を固めた声」です。

 そうしたトレーナーの見本の大半が、お腹からの声でなく、「のどで胸に押し付けた声」になっています。そうでないトレーナーは、ごく少数です。

 

〇演出としてのトリックと実際

 

 しぜんにお腹から出ている声では、レッスンとしてわかりにくいので、わざと、体や息を使っているようにみせるような“演出”が必要なこともあります。深い息を、無音なのに、有音にしてみせたりするのは、私も演出(先の「トリック」)として使っています。しかし、トレーナーがそれを本当に「腹からの声」と思っていると、どうなるかわかりますね。のどを乾燥させたり痛める危険が大きいでしょう。

 

 私は「トレーニングは無理を強いるもの」と言っています。それが、本当に使える声として反映するまでにはかなりの時間、タイムラグをみています。

 「できないことは簡単にできるわけがない」というのが原則です。「すぐできたらおかしい」と言えます。そこで教わって、すぐにできたとしたら、それはトレーナーがすごいのではなく、トリックです。

 フィジカルトレーナーのところでも、いくつかの例を示しました。それが入口で本人のモチベート、やる気になるならよいことですから、私は反対はしません。

 ただ、そういうトレーナーが多くなると、そうでないことをしっかりと時間をかけるトレーナーを無能に思うようなことがあるのが問題なのです。「どこまで求めるか」ということです。

 

○「できる」ということ

 

 ある能楽師の話です。「鼓というものは最初うまく鳴らない。手で打っていると、よい音が出るのに30年もかかる」しかし、「そのあともずっとよくなっていく」そうです。それを最初から無理に伸すと、板などで打つと、すぐに音が出るようになるのですが、長持ちしないそうです。発声も同じことに思います。

 体からの声でも、調整としては部分的な障害として、力が入っているのを解決するのに、脱力、柔軟などをします。呼吸の扱いの向上が発声へ結びつきます。共鳴のイメージと共鳴の向上など、本一冊では述べられないくらいチェックポイントがあります。それは求めるレベルや人によって変わります。

 

 姿勢を定め、固定し(下半身の力で支え、上半身のリラックス)、フレーズを短くすると、できたように感じます。しかし、そこで間をとらずに8フレーズくらいに伸ばすと、もう対応できません。「ハイ」でも説明した通りです。

 

 歌やせりふで、バランスや間や流れが悪くなっているのに、「できた」とは言いません。メニュを使わなくても、1フレーズで、ゆっくりと短めにやればできていくのです。

 

〇両立させる

 

トレーナーの考えた方法やメニュでできたように思わなくてよいです。その分、他のことが疎かになり、両立できていないのをみていないだけです。つまり、ABCDEの課題で、ABCDができて、Eができていないときに、Eだけやって、できたというのは一つの要素を取り出しただけです。ADと両立できていないのです。本当は使えていない、使えないのです。Eだけでやれば元々できているのを、「できた」と思っただけです。本当にできていたら、すでにAEのなかでできているのですから。ADとともに使えなくては本番では使えないのです。

 「一人でやるとできない」というトレーニングには、こういうケースが多いのです。こんなことはレッスンを受けている人は知らなくてもよいのですが。

 「できた」と思ってやる方が、「できていない」と思ってやるよりも楽です。その錯覚を利用するのは、一つの方法です。

 つまり、ABCDは○、Eは×を、ABCD-×、E-○にしてみせたのです。もっとも多く犠牲にされるのが声量です。小さな声にすると、他のことはうまくこなしやすくなるのです。

 体を鍛え、息を深くして、声の結びつきをより強固にして、その結果、体から出た声は、聞くだけで違います。姿勢も、ポジショニングも、呼吸も発声も「しぜん」のままに体から出した声でないと「ふしぜん」で、しぜんには使えないのです。

 

 私はビジネスリーダーに、「アナウンサーのように話すな」と言います。役者や歌手に、「ステージで腹から声を出すとは考えるな」と言います。

 調整は今すぐ使えるとしても、トレーニングが今日使えることはありません。アナウンサーのような滑舌練習、オペラ歌手のような腹式呼吸の練習は、毎日やります。

 

○心身の問題 

 

 筋トレや柔軟に対して、私は「自分のメニュ」と「教えるメニュ」と分けています。

「他のトレーナーのメニュ」も否定もしません。「どんなメニュでもよい」と言っています。本人にとってよいのか悪いのかは別のことです。

 どんなレッスンでも、生徒もトレーナーも思い込みのなかでやっています。ですから、「あまり片寄らないようにやる方がよい」といえます。

 たとえば、走ることをいくら練習しても、山を登るときはつらいでしょう。それには階段を上るような運動の方がよいトレーニングになるでしょう。

 

 息を深く吐いてみるのは、深く息を吐くためでありません。表現の声の必要に応じた深さで入れるようにするためのシミュレーションです。「息が浅い」と言うのも、ことばへの感覚やスピード感が劣っていることが問題なのです。すぐに息を深くしても直りません。

 

喉が弱くなった。

声量がなくなった。

声域がせまくなった。

 

これらは、一つひとつの問題より、心身の問題であることが多いです。発声法や喉の問題にするのと、トレーナーとしては教えやすいし、そこでできたように思わせられやすいからです。心身のトレーニングで、あなたの実力は23割は、アップする(取り戻せる)はずです。

 

〇一つの声として、みる

 

魅力的な声 

説得力のある声

強い声

よい声

安定している声

 

これらは、それぞれに違います。できたら一つの声(の応用)でまかなえるのが理想的です。すべて自由に変じて対応できるのが理想ですが…難しいものです。

 自分の声を中心に、自分の声の中心をみつけ、イメージや理想をその可能性のマックスのところにおきます。そうするようにできるようにすることです。

 

 あこがれの人の声を中心にして、まねていこうとしたり、そこで自分の声とのギャップを埋めようとしないことです。またいくつもの声の出し方をそれぞれに使い分けて、つくってしまうようなことも感心しません。教え方としては一般化しているようですが、特別な目的の場合を除いて、私のところでは行っていません。

 

 発音、話し方、歌い方などの表現においては、一流の作品からストレートによい影響を受けてください。そういう環境に身をおきましょう。

たった一人の相手を見本にするのでなく、何人もの一流の人から多面的に刺激を受けて、自分の未熟さを補いましょう。一流のアーティストの共通のベースに気づき、自分の不足を補っていくといのです。

111号

〇トレーナーとアドバイザー☆ 

 

 現在の日本のヴォイストレーナーは、ヴォイスアドバイザーやヴォーカルアドバイザーにあたると思います。

アドバイザーは、役者、声優、アナウンサー、ナレーター、朗読の指導者で、今ある力を100パーセント確実に活かすために次のようなことを扱います。

1.全体のバランスの調整を仕上げ

2.発音、発声の安定、使い方や応用のアドバイス

3.メンタル的勇気づけ

アナウンス学校やカラオケの先生を思い浮かべるとよいでしょう。

それに対して、トレーナーというのは

1.個々の要素の相違、分析と目標設定、調整

2.心身や発声そのものの強化、鍛練、地力のアップと調整

3.日常でのトレーニングやその管理

これはパーソナルトレーナーを思い浮かべてください。徹底して個々を中心とするのは、当たり前のこととして、多くの研究や試行錯誤の上に専門家として、対処するというのが、違いです(この専門というのが一口で説明できないのですが、実技の経験だけでは無理ということです)

 

○白紙にして大きく変わる

 

 体で覚えていくものは、覚えていたらできているのですから、できないとしたら、それを認めることからです。これまでの考え方、やり方、経験の上に、よくも悪くも今の自分の実力があると認めます。それで不足していると感じるのなら、他の助けを借りないと大きく変わらないと考えることです。

そのために

1.目標の基準

2.現状の把握基準

3.1、2のギャップを埋めるためのプロセス(計画)

1、2を明らかにして、そして、3の可能性をきちんと考えることです。

覚悟のもと、自主トレするのなら、可能性を考え、実行あるのみです。

トレーナーとのレッスンとなると、大切な問題は、何でしょうか。自分の体をオペするなら自己責任、他人の体をオペするには、合意がいることです。手術にも100パーセントがないように、声も誰でもどうにでも変わるわけではないのです。

 レベルの低い目標や、経験の少ないトレーナーなら、誰でもどんなことでもできるように言うかもしれません。せいぜい、今より多少よくなるくらいでしょう。少しよくなっても目標に到達できるわけではないから、私からみると、それは効果なしに等しいのです。大きく変わるために、他の人を使う、専門家のアドバイスを受けるのです。

 

○勘と発想 

 

 次の3つの原則を頭に入れましょう。

1.誰もをその人が望むようにできるというトレーナーはいない(あなたにとって、トレーナーが仮にそうであったとしても、それ自体、客観性に乏しいことですが、他の誰もがそうはいかないということです)。

2.どのトレーナーもメリット(強味)もあればデメリット(弱味)もある。

3.オールマイティにこなせる人ほど個別対応に弱く、特定のことに強い人は、他のタイプに弱い。

つまり、強い分野や強いタイプがある分、弱い分野や弱いタイプもあります。

 これは、十数名のトレーナーとずっと続けている私だから、よくわかることです。

 新しいトレーナーに対し、半年くらいは、そのトレーナーの強いところと弱いところ、向くレッスンと向かないレッスン、向く相手と向かない相手を見極めていきます。それは見極めと同様に大変なのです。

その人のその時の声だけみて、毎日どのくらいその練習をするのかがわかるわけではありません。本人がやると言っても、どこまでやるかまではわかりません。

 多くの人と長く接していると、自ずと勘が磨かれてくるのです。私がトレーナーとして、いや、トレーナーをまとめて皆さんに提供する立場として、もっとも重視しているのは、こういう経験から働く勘です。トレーニングの現場で見聞きしたり試行してきたことからの発想です。この二つが、もっともな大切なことです。

 

○うまさと仕事の価値

 

 技術を得たいというなら技術のある人に、世の中に出たいというなら世の中に出た人についていけばよいのです。ただ、歌手というのは、歌手を育てるのに適していないということです。歌手になりたければ歌手を育てた人につくのがよいと思います。

 まじめな人ほど声や歌の技術が一番必要と思うのです。それを得たら、プロになれる、ヒットする、歌手や役者で生活できると。まじめな人ほど、名も知れず、声や歌がすごいという人に惹かれていきます。

これは、画学生がきれいに絵の描ける人にあこがれるのと似ています。学生ならいいでしょう。でも、その人はうまくきれいに描けるのに、その絵が売れていない、価値を認められていないという理由を考えないのはなぜでしょう。

世界中、日本中に声のよい人、歌のうまい人はたくさんいます。なのに、売れていないとしたら、声や歌がへたでも売れる人はもちろん、それで売れない人よりも大きな欠落があるということでしょう。これは、どんな仕事にも当てはまります。仕事とは創生した価値を与えることです。☆

へたな人はうまくなるとなんとかなるかもしれません。でも、うまい人はどうしようもないでしょう。

私のところも、そういう人がたくさんきたので、よくわかります。自信とプライドで固まったところに努力やまじめさ、一所懸命さが表れても、それはアマチュアです。アマチュアがプロになるのにもっていてはよくないのです。声のよさ、歌のうまさは一要素ということです。

 

○プロの育て方 

 

 プロの育て方はどういうことでしょう。プロデューサーが何千人のオーディションで最高の素材を選んで、歌を覚え込ませ、売れっ子作詞作曲家でヒットを演出させるという昭和の頃の歌謡曲や演歌のやり方は、もう通用しません。今も売れっ子の作曲家やプロデューサーに近づけばチャンスと思う人もいるのでしょうが、それはあなたが最高の素材であればです。

 彼らは、選りすぐれた人材を見出し、デビューさせることでのプロです。プロデューサーは、声質や歌い方のくせにファンのつく魅力を見出したり、23年たてばアイドルになる子を見抜く点ですぐれています。声質を重視しますが、それに偏ったプロデューサーも減りました。

私は、声100%でみた上で表現力を100%でみるという2つの基準をもっています。業界や市場の思惑は、最初は、別にしておくように、と思います。

 あなたがあなたを充分に発揮すれば、今の日本をきちんと生きてきたあなたは、今の何かを切り取ることができるのです。それは、私やトレーナーができないことです。だからこそ、共同作業のレッスンの価値があるのです。

 

○プロの育ち方 

 

 ここで「育ち方」としたのは、人は、育てようとして育つものではないからです。特にアーティストは、です。

学ばせて学べたら、教えて教われたら、そんなによいことはないのです。それはそうしないよりもましです。しかし、そんなことをしなくても、毎日そうして生きている人がたくさんいる世界では、それでは大したものにならないのです。

私が日本語の教室に行くようなものです。すると、教えると理屈っぽくなりそうです。日常では、さほど、そういうことはいらないのです。でも、理屈のなかに本質があれば、それのエッセンスが一つ上に行くのに役立ちます。

 だからこそレッスンを通じて環境や習慣、思考や考え方が大きく変わるのです。変わらないと、大してこれまでとアウトプットが変わらないです。

 歌やせりふは、他人の人生に触れていきます。自分の口から嘘を言って、その虚構に他人を引き込み、共感、感動を、ときにその人の生活になくてはならないほどの大きな影響を与えるのです。究極のサギ師です。

だからこそ、日常が日常であってはいけないし、他の人には特別な場のレッスンスタジオやステージが日常になってこなければならないのです。

 

○「気持ちより」発声を 

 

 小さい頃からピアノを弾けた人は、なぜ弾けるようになったのか、覚えていないでしょう。教えるときには、もの心ついてから学んだ人よりも苦労します。弾けるようになった手順を覚えていないからです。

歌ならなおさらです。もの心ついたときにスターになったような人は、教えるにも「気持ちがすべて」と。そのような人は「気持ち」でコントロールできるのですが、大半の人は発声、音感、リズムを何とかしないと、どうにもなりません。

NHKののど自慢のゲスト歌手の励ましに似たようなトレーナーのレッスンもみたことがあります。日本人が海外に行くと社交儀礼とともに、レッスンがそういうレベルでされていることがよくあります。

 自信とプロフィルの履歴がつくのです。私が体操を内村航平くん、スケートを浅田真央さんに習っても、彼らの人生の無駄です。

 幼い時に習ったピアノで絶対音感が残っている私に、その音を出せない人の指導はできません。しかし、十代でやりだした発声は、プロセスが明確に残っています。発声のプロセスをみたのです。

 

○音楽を知る 

 

 プロの歌手をたくさんみているうちに、

世界の基準からみる

一流との比較からみる

同曲異唱からみる

同一歌手の歌のよしあしからみる

など、骨董屋か目利きになるためのようなことを、私は歌声で他の人の何十倍してきました。

受講者の1コマ1時間ほど聞くものを、私は、東京で56コマ、京都で3コマと、ほぼ10倍、同じものを聞き続けたのです。それも十年以上ですから100倍です。フレーズなど1時間で30回ほどまわしたものは、1ヶ月の中で10コマ分、300回聞いたのです。

 教える材料として出したのです。その頃、私は「ヴォイストレーナーDJ」と自称しています。未来型の教育として認めてもらってよかったほどに思います。

 受け身の人には評判がよくないでしょう。日本での学校教育に慣れてしまった人には仕方ありません。

当初、ぼんやりみえていた輪郭がはっきりしてきて、確信に変わってくるのです。曲のよしあしが1フレーズごとのよし悪しまで鮮明にみえてくるのです。そういうレッスンを目指していたのです。

 

○贅沢なレッスン 

 

 毎日、熱心な生徒がレポートを出して、「この曲で」「このフレーズで」こんなことに気づいたと教えてくれます。それは、教室で終日ゴスペルを歌って踊って説教しているような毎日でした。

 私は世界レベルに歌を捉えて、そこから降ろしてきます。そうでないと、迷いが出てしまうからです。

本人のオリジナリティが音楽、歌のオリジナリティを凌駕したとき出してくる絶対性、オーラは、確かに存在します。それを使う作品(一部)、ステージは、伝説となります。

 日本の場合は、それが大衆のものとして一体化して認められないのです。ほんとにすごいものでないもの、ディズニーのイベントでさえ、芸術かアートのようになってしまうような構図があります。評論家の論評として、誰かまとめて欲しいものです。

私のケースでは現場で、レッスンのなかで相手の可能性を伸ばすための材料として使ってきたのですから、贅沢なことです。

 

○「もっとも厳しい客」として 

 

 私は飽きっぽいタイプです。それがよくも悪くも「もっとも厳しい客」としての判断のできる資質になっています。今でも、声や歌を溺愛しているといえません。他によりよく伝わる手段があれば、それを使います。声や歌で邪魔するべきでないと思います。ヴォイストレーナーとしてはあるまじき本音を吐いています。

日本の声楽は、舞台どころか基礎レッスンでも、一部しか成り立っていないと、声楽家たちと一緒にやりながら述べています。私にしてみれば、一部が成り立つところをすごくありがたがって認めているといえます。ポップスのような、暗中模索のまま、「失われた20年」より、ずっとましです。

 同じ曲、つまり、課題曲を1日に80人が歌うのを飽きないとしたら、モータウンレベル以上のアーティストを聞けた日でしょう。私はいつでも、そのレベルにセットして聞いています。

続けられているのは、皆様のおかげです。他のことは全て飽きてきたのに、わからないのが声の魅力です。

 日本人に必要なのは、アーティストの努力を認めつつも、つまらないものにまで優しくしないことです。当のアーティストが伸びません。「ブラボー」と言うのはいいけど、言おうと思って準備してきて言わないようにしてください。

 

○「アハ!体験」 

 

 本格的なオーケストラの指揮者はやったことはありませんが、似たことはやってきました。メトロノームで♪=6080などの基本テンポを覚え、ドレミレドとピアノを弾くのにドーミとミードを数コンマいくつまで一致させようとしたりしてきました。何人もの世界の第一線で活躍する優秀な指揮者が出るのですから、日本人の耳は捨てたものではないと思います。

 私たちが苦手なハーモニー、瞬時のそのときの全ての音を把握する空間的な能力と、曲全体を総括して捉え、構成と進行展開を論理的に捉える時間的な能力です。

 私は歌に接して10年も経って、みえたのです。

それは、中学のバスケットボール部を退いてから、高校のクラス対抗のときに全体図、つまり10人の構成と次の展開がみえたのと同じような「アハ!体験」でした。これは、中学生の頃、TVでワールドカップ大会のサッカーをみて、高校でラグビー、アメフトをみて、大学でアイスホッケーをみて、ゲームの醍醐味がフォーメーションであることに気づいたことと似ています。

 

○織りなす曲 中島みゆき「糸」

 

 歌曲は、中島みゆきさんの唄う「縦の糸と横の糸が織りなす布」のように、まさに織物なのです。発色模様も計算された上で、アートなのです。

 大切なのはオリジナルのことばや音色、フレーズが出たら、一つでもよいから可能性としてストックすることです。それが恵まれている人は、構成を整理すればよいのです。惹きつけるところをセーブし、絶妙のタイミングに抑えるのです。それを私は促します。

 逆にうまくてきれいだけど、インパクトがない人は器量貧乏なわけです。一色、一線を求めましょう。何曲使ってもそれを見出すセッティングをします。声域、キィの変更、テンポの変更、声量を変えると、かなり変わります。効果となるポイントを探す、なければそれを出すためのセッティングがレッスンの目的となります。

 

○その人の音色 

 

 私の初期の本には、「一つもよいところがなければ、いくらがんばっても大きくは変わらない」「1秒が通じなければ1曲ももたない、まして1時間もたない」というような表現をしています。

楽器の演奏では、曲の前にその人の音色がなくてはなりません。楽器の音はある程度決まっていて、誰でも出せるようになりますが、それは楽器本来のものです。その製作者なら出せます。

 アーティストはそこから音づくりです。自分の音で線をどう描くかなのです。音の色と線で基本デッサンが成り立ちます。それを私はみているのです。

 それでつなげる曲もあれば、うまくいかない曲もあります。そこは選曲の妙となります。

アレンジが自由なのがポップスなのですから、ムリに声域、声量で不自由になる必要はありません。そこで無理をしているのが、日本のミュージカルです。声域とバランスをそつなくこなせる人しか選べなくなります。日本人では、レベルアップが難しいのです。

 

○次の世代の声 

 

 すでにある作品を輸入して、それをまねて作品をつくると、歌手にはハイレベルなものとなるわけです。こなそうとするのが輸入期です。その啓発期ではまねるしかやりようがないからです。

日本人がすぐれた歌手を世界に送り出せたのは、一曲です。そこに邦楽の伝統があったというのが、坂本九さんという、キャラクターのオリジナリティあふれるヴォーカリストの実績です。彼の母親は常磐津の師匠でした。

歌謡曲は三波春夫、村田英雄ほか、邦楽との和魂洋才です。詩吟や長唄なども、オペラも、団塊の世代以降ではどうなるのでしょうか。

私はこれらを同列に扱ってきました。「マイクを使わないという条件での声づくり、体づくり」に共通するので、声の基準としてわかりやすいからです。

 

○声の力 

 

 思うに、80年代くらいを境に、ヴォーカルの条件が、音色、声量から声域に、ハイトーンへ変わりました。役者も声量が条件でなくなる、というか声の力でなくなってきたのでしょう。オペラも含めての、ビジュアルの時代の到来、シネマからTVの時代です。日本はそれが顕著でした。

「どこの国のアイドルも歌手なら歌唱力はあるのに、日本は」など言っていたのも懐かしいくらいになりました。

 世界を回ってレコードやテープを買うときは、「イケメンや美人、可愛い子を避ける」のが、私の原則でした。ときにニ物を持っている歌手もいますが、ブサイクな人ほど歌唱力が上なのは、どこでも同じです。デブ、ふくよかな人がお勧めです。

私がこの世界に入って最大の転機は、すごい美人の歌手がいくらうまく歌っても、全体重、いや全存在をかけたブサイクが出て、すごい一声を発すると、きれいとかうまいとかいった程度のものは、すべてが飛んでしまうということでした。ひどい悪口のように聞こえるかもしれませんが。

 

○一声の力と総合力 

 

 歌も芝居も、演じるというのは総合力です。一声だけで勝負は決まらないのです。しかし、一声だけで明らかに負けている場合はどうでしょう。

ミュージカルでも、テーマパークでも一声の違いで日本人と外国人は区別できました。長年、世界の声と比べてきた私には、ヴォイトレとは「まずは、その一声からの勝負を可能にする」ための世界です。今の若いトレーナーは、あまりにも意識していないようです。歌を一声でなく、総合的なステージで見ているからです。

 海外では声の力は前提として確保されています。トレーナーはその使い方を応用度を高めるテクニカルな方へ導きます。特にマイクのあるポップスではそうなります。

日本も、歌手を目指す人は高音域が出ることばかりこだわるので、声のあて方のようなコツがヴォイトレのメインになりつつあります。トレーナー本人はよくても、その人に似たタイプしか教えられたことをコピーできていないのです。

本当に伝えられる声を目指す人は、私のところでも、基礎となる発声、技術を伝えられるソプラノやテノールにつきます。高いレベルを目指すなら最初からその方が早いです。

本当の問題は多くの場合、声域ではないからです。なのに、それをマスターすることが目的になっているのは、大きな間違いです。

 

○楽譜のビジュアルライズ 

 

 歌の解釈について、私は、雑誌の連載と通信教育でやることになりました。声の本質的なことを伝えようとするのは、とても難しいものです。メインは、詞の捉え方の深さを語ることで歌心を伝えることでした。文字の限界です。

レッスンでホワイトボードに図で表し、様々な工夫をして何とかイメージを伝えます。そのうち、長くいるメンバーとはイメージを共有できるようになるのです。

歌詞か楽譜にいろんな曲線を入れて、歌い方と、そこからよくなる可能性のあるところとに線を引いたり、一言、一字ずつに○△×をつけます。一字(一音)でもその入り方、キープ、終わり方(抜け方)で○△×をつけたりすることもあります。

部分を丁寧にみることでは、私は職人の域に入りました。コンダクターの個人指導並で、きめ細やかすぎるヴォーカルアドバイザーといえましょう。細部にいたり、なかをみるのと同時にフレーズや全体の流れをみているのです。

 

○ヴォーカルのフレーズ 

 

 細部にいろんな動きが出るのはよいことですが、それがメインのフレーズの線と共にどのように働きかけているかが大切です。作曲家が意図してプレイヤーの描く基本線をふまえた上で、そことセッションしていくのが、ヴォーカリストの歌というものです。そのままなぞるのでありません。それでは楽譜に正しく歌う音大の入試やよくある合唱団レベルでの歌いこなしになり、きれいでうまいだけのものとなります。

 そのときの変化、結果として、創造したものの評価は、その人の呼吸にのっているかということです。大きくはみ出させたいなら、大きな呼吸が必要です。それがないと不自然、形だけが狙ってそうしたのがみえて、音楽としてはぶち壊しです。素直に歌うより悪くなるのです。しかし、歌に飽きかけた客はそういう形が出ると声を出し拍手するのです。

○ヴォイスナビ集と楽しむレベル

 

 フレーズのつくり方をギターのフレーズナビ集のようにつくったことがあります。シャウトやアドリブを中心にしました。スキャットについて、数多くの基本パターンをマスターしておくと応用がきくと思ったのです。

歌唱に近いとわかりやすいのですが、うまくつくると、マイケル・ジャクソンの歌をコピーするようになって、日本の歌のステージでよくみられることです。却ってよくありません。発声上も応用をやるより、基礎をやるべきです。まねするべきでないということでは、ここでゴスペルなどをやめたのと似ています。

 音楽やダンスを日常のなかで自然と楽しみ身につけてきていない、日本人に対して、それを体得してきた外国人などは、「まずは音楽を楽しみ、感じることから始めましょう」となります。それは当然のことで、正しいと思います。パフォーマンスを楽しむにも、日本人には覚悟がいるのですね。皆と一緒にスタートするのは、とてもよいのですが、個人としての能力がないと、教えてくれるトレーナーがいただけで、少しも前に進まないのです。

 自分が楽しむのと、人が楽しむものを自分が出すのは違います。日本では彼らが言うのと同じように、「自分が楽しんでいないと、見てもいる人楽しくならない」というのが、「自分が楽しめばみている人も楽しくなる」となってしまったように思えるのです。

 

○相似形 

 

 私がいろんな歌唱の構造がみえたのは、楽譜の研究、いや、楽譜にこじつけて、すぐれたヴォーカルたちに歌唱の解釈や創造したなかでのよしあしの判断の基準を皆に納得させようとしたことによると思います。

シンガーソングライターがつくった曲を分析すると、作曲家とは違うおかしな点がたくさんあります。それはシンガー特有の呼吸や声の特質からきています。コード進行にのせて楽器でつくる人より、即興型(鼻歌型)の人はその傾向が強いことから、その意味をていねいに読み取ったものです。本人(シンガーソングライター)は、そんなつもりもなく、つくれてしまった。それでよいと思うのです。Aメロ―Bメロ―サビでのBメロ(日本人の歌の特色の出るところ)の研究でも、得るところが大きかったです。

 海外の曲などは4呼吸くらいでつくられて歌われています。それを日本人は4×4×464フレーズでカバーしています。力量の器の差が呼吸に出ます。日本でも昔は4行くらいで3番までの曲が多かったのです。それは日本人の呼吸に合っていたと思うのです。

 

○俳句、短歌に習う日本の歌唱

 

 私は、日本人の歌唱力からみて(ポップスですが)半オクターブ、30秒(Aメロ、4×416小節くらい)にする、「俳句、短歌のような歌唱」論を提唱しました。そこまではヴォイトレで自然にことばと音楽が一致するレベルの声をつくれるし、処理もできたからです。

その基礎もなく、2オクターブ、ハイトーンまで使うから、いつまでも声が育たないのです。歌が特殊発声技術の上にきて、それを追いかける人ばかりになったことを警告してきたのです。

しかし、ますます、そうなって歌は世につれなくなってきました。若い人に昔の歌がカバーされているこの頃の風潮も、こういうことでしょう。学校でのレコード鑑賞や唱歌は、ためになっていたと思います。

今は誰もがすぐにつくれるし、公開できる時代です。となると、つくるために学ぶというところからの観賞レッスンにするとよいと思うのです

 

○曲全体のトーナメント構造

 

 一例として、曲は、Ⅰ(1234)、Ⅱ(1234)、Ⅲ(1234)、Ⅳ(1234)で1コーラスとすると、これが3つで3コーラスです。このケースでは4×4×3コーラスです。

4というのは起承転結としての4つ、それぞれ1つのブロックです。文章と同じように、そこにはそれぞれの役割と、伝わりやすくする工夫が入っているのです。これをさらに細かく、Ⅰ(1234)のⅠ(1)を取り出すと、ここにも4つのフレーズ(小節)abcdが入っています(数え方では8つともいえます)。すると1コーラスは4×4×464となります。そして、ⅠのなかⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳのなかのそれぞれに1234が入り、そのそれぞれにabcdが入るという3重の相似構造になるわけです。図示するとトーナメントのような形となります。

 

○相似形とニュアンス

 

 あるフレーズから出てきたものを+αとすると、この+αが出てくるルールがあります。その+α(私はニュアンスとよんでいます)が、どこに出るかをみます。最下層で出たところを結んだ形とします。+αが(1234)の上位のⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳにも相似形として表れていることがよくあります。

1行のなかの3つめのことばが、起承転結の転というのと同じ、1段落4行でも3行目が転で働きます。それがⅠ~Ⅳ番まであれば3番目が転じる役割となるというのと似た相関関係です。

 そのリピートと複層的なレベルでの2ステップ、3ステップと次元の違うところの相似性が、意味をもって聞いている人の心に迫るのです。転じた後、4つめにAメロに戻ることで安心感、落ち着きを出すというのも同じです。

 

○フレーズでつなげる 役者の歌 

 

 形を歌わない、演じて形だけにならないために、全てをゼロに戻して再構成する必要があります。実として身につけ、出すためです。

 個性の強い歌い手は、役者のように自分を中心として、歌を再デザインします。自ずとそうなるのです。

 日本では、役者の歌は音楽性で欠けるものが多く、全体の流れの構成、展開を無視して、自分の呼吸で音楽の呼吸を妨げる、つまり、彼らの強みであることばとその感情表現で、力づくでステージを成立させてしまいがちです。

しかし、それはリピートの効果を損じます。背景の絵を台無しにしてしまうのです。だまっていてももっとたくさん伝わる効果があるのを、一人で全てやろうとがんばってしまうのです。フランク・シナトラやイヴ・モンタンのように完全な両立をなしえた人との違いです。

 これはレッスンで変えることができます。表現力の基礎があれば、力の配分を加減すればよいからです。その前に声楽で高音域のマスターをしておくこと、歌の構成を入れることです。声そのものは、コントロール力の問題です。

 

○分解と再構成(「マック・ザ・ナイフ」) 

 

 ソロのプロでありたいなら、出る杭は打たれる日本の合唱団のようなところより、ステージを独自に経験してきた人の方が早いです。お笑い芸人の歌唱力がそれを証明しています。一人芝居でもよいでしょう。

歌手は今や、企画、演出、アレンジ、デザイン、スタイリストからメーキャップアーティストまで兼ねる存在なのです。演出家なども案外、歌えます。たとえば、渡辺えり子さんの「マック・ザ・ナイフ」は、日本語の歌詞も含めて最高レベルでした(エラのコピーですが)。

 

音楽としての構成、展開を実感させるには、自らその曲の作詞、作曲、アレンジャーになりかわることです。他の人の曲でかまいません。次のような手順で分解して再構成してみてください。

 テンポを2倍に速くして、息継ぎの回数を半分以下にします。Aメロを一フレーズで捉えて感覚します。そう、8×4小節くらいを48回のブレスで歌っているのを12回でできるスピードにするのです。すると、違う音の関係やつながりが感じられるはずです。元のテンポでもそのくらいのロングブレス、ロングトーンに対応できる呼吸を養いたいので、そのためにもよい練習です。

 

○つながりフレーズ感 

 

 よくAA’、BAの基本パターンフレーズで(それぞれ8小節くらいで8×4)のときに、プロや外国人がA’からBをノンブレスで続けて、Bの途中でブレスを入れて盛り上げるパターンがあります。それを聞いてまねてやるのはよくないです。形をとるのではなく実=身として捉えましょう。呼吸が余裕があるから感情の盛り上がりでつながってしまうのでなければ、しぜんでないのです。即興である歌の応用表現です。

 それをAA’、A’-BBAでもやってみてください。つまり、ブレスの位置を1つすらも、音の流れをもっともよいところにして、そのことを知るのです。

 1コーラスで、どのような動きをしているかを歌詞を抜いて、しっかりとたぐっていきます。そのために、コンコーネ50などを母音や子音の一音、ハミングなどで歌っておくことは、基礎の基礎となるのです。

 

○歌のドライビングテクニック 

 

 発声から歌唱を車の運転と思ってやりましょう。プロでも日本では、急アクセス発進、急ハンドリング(ステア)、そして急ブレーキです。これでは音楽的に心地よくありませんね。

 ちょっとした踏み込み、キーピング、終止の仕方で、歌は天地のように変わるのです。ドライビングテクニックでいうなら、車体感覚と運転感覚をもつことです。自らの体に置き換えて、ていねいに体を扱うことです。愛や恋を表現するのですから、当然のことでしょう。

 ていねいにていねいに、でも、そこから始めるのはよくありません。ハンドルやフロントガラスに目を近付けた危険な運転のようになります。

ですから、教習所でも姿勢から教えます。そのための姿勢保持、筋肉、集中力がいるのです。とはいえ、レーサーと通勤のドライバーでは、求められるレベルが違います。

そういえば、私はよく「レーサーになるのに、ずっと教習所に習いに行っても何にもならない」と言っていました。求めるレベルは高い方がよいのですが、運転は実用に応じたレベルの習得でよいので、そこは大きく違います。

 

○器と基礎力 

 

 かつて作曲家は、歌手のために曲を書きました。歌手によって、その歌の魅力が十分に発揮されました。ときには、歌わせる歌手の器をふまえて書いていたからです。

ときに歌手が作曲家のイメージを覆ってしまうくらいの歌唱をして、大ヒットする時代になりました。作詞家の永六輔を怒らせたという坂本九さんの「上を向いて」の節まわし、沢田研二さんや山口百恵さんあたりも、よい意味で、曲のイメージを裏切り続けた人でした。森進一、前川清、八代亜紀など、紅白の常連組の3分の1くらいはそれがありました(そういう人のすべての歌がそういうものというわけではありません)

 シンガーソングライターになると、本人が自分を総合的に演出することになります。声そのものや音楽としての基本デッサンの力は、あまり問われなくなりました。

 J-POPSになると、プロになりたい人に見本にさせるのはリスクがあるほど個人と曲の結びつきが強くなりました。歌の基礎力の大切さがわかりにくくなったのです。

 

○スタッフの力 

 

 歌手とまわりのスタッフの力量のなさは、日本の歌手が世界に出られない最大の要因です。好きに楽しく歌えているヴォーカリストを気づかうのか、大切なことを伝えられていない。プロデューサーからバンドのメンバーまで、私は、欠けていることを本音で言うようにお願いしてきました。

海外のように、まわりが皆、ハイレベルに歌えるなかで、絶対的なオリジナリティをもつ存在としてしか成り立たないのがヴォーカリストであれば、ミュージシャンレベルで厳しくレベルが問われます。声=音の世界でのデッサンとして演奏力が問われるのです。

 しかし、日本ではけっこうなレベルのプレイヤーでも、音楽や声に無知なことが多いです。音のアドバイスは、なかなかもらえません。大体80パーセントはのり(リズム)、ピッチ(音高)の注意という状況です。声を音として、音楽として聞く訓練がないのです。☆

 これは当のヴォーカリストにもいえます。まわりはヴォーカルよりも先に音楽の世界をつくって、そこにヴォーカルを当てはめようとします。そのために予定調和で、荒のない作品になるのですがベストなものになりません。

 

○カラオケとヴォーカルの関係 

 

 日本の独自開発のカラオケ現象は、全世界に広がりました。しかし、そこではヴォーカルのつくり出していく音の世界にそってプレイヤーが音を動かしていくというセッションが成立していないのです、カラオケというのはヴォーカルが歌っていなくても伴奏として進行して、終わりまでいくからです。むしろ、日本の歌は、このカラオケ感覚に堕していきました。

ポップス歌謡全盛の60年代に、日本ではすでに、すぐれた作曲家が編曲、アレンジして伴奏をつけていました。しかし、そこは相当耳障りなバックの音が入っていたので、歌手の力を引き出すのではなく、もたせられるようにしました。

トータルプロデュースの時代となり、ますますヴォーカルの力に頼らなくなっていったのでしょう。それだけの力がヴォーカリストにないのか、今も昔も、まわりの人の才能を引き出しました。果ては、ハイレベルなカラオケ機材まで生み出したのは、私の立場からみると、皮肉で残念なことです。

 

○あてになるヴォーカルに

 

 作曲家やプロデューサーは、ヴォーカルのフレーズでのデッサンを当てにしなくなりました。いや、もともと当てにしていません。アドリブ、スキャット、即興は、日本では普通はありません。形だけ合わせる歌に、未来はありません。

 海外ではオリジナルのフレーズに対し、トレーナーは、応用技を伝えています。日本ではその前にフレーズを、音色を、さらにオリジナルのフレーズを養成するところから必要です。いえ、そういうことであることを気づくところから必要です。

そうでないので、いくら海外のトレーナーについても真の実力としては大して変わらないのです。それは、そういうことをした人たちの声からも明らかです。ヴォーカリストでなく、トレーナーとしての権威づけになるだけです。

110号

○私の考えるヴォイトレの基本に関する注意事項

 

私がレッスンとトレーニングに求めたこと

1.長期間にみるということ。

2.多角的にみるということ。

3.飛躍を求めるということ。(つみ重ねから逸脱)

4.頭を疑い、体を信じること。

5.ものごとを二極(正誤、よしあしなど)でみないこと。

 

10年からの声

 

どの世界でも、10年でようやく一通りみえてくるものがあると思います。それが体感でき、ものにするには、もう10年かかります。そこで、私はプロとは20年、短くても15年、できたら25年続いて、最低必要条件を満たすと思ってきました。プロということばは、さまざまに使われます。ケースバイケースであることは当然で、「ざっというと」ということです。

私も声を教える、伝えるという立場になって30年になろうとしています。自分で声を使ってきたとなると、生まれたときからです。ヴォイトレで区切って、四半世紀超えとなります。

 トレーナーというのは、自分でなく相手をどうにかして何ぼのものです。相手と接して10年、20年先どうなったかをみて、初めて結果がわかるのです。20代、30代でやっていたことは、ようやく40代、50代で結実してみえてくるわけです。

 

〇声は魔物

 

 ですから、本を書き始めたときの私は、自分のこと以外、いや自分のことも含めて何もわからなかったと思うのです。そういう自分に接して学ばせてくれた多くの人に、特にここの関係者には、感謝してもしきれないくらいです。

 

 ですから今、若い人はあたりまえですが、声という分野に入ってくる多くの人(年齢としては上の方も)をみると、私がこれまで試行錯誤してきたこと、迷ったことなどを、話し出されて、なつかしくも新鮮な思いに捉われることがよくあります。

 声というのは魔物のようなものです。正体不明、誰もが「捉えた」とか、「わかった」とかいっていながら取り逃がしているものです。大事に見張っていたカゴが開いたら空っぽということもよくあるのです。

 そのあたりは、今では、「その人がどういうことを質問するか」で、大体わかります。

 ここにはけっこうな肩書やキャリアをもった人もみえます。しかし、案外と声については、その指導についてのプロセスや結果の検証からみると、まだまだ未熟です。

声については専門家がいないのです。医者は身体の専門家ですが、発声となると素人、表現になると素人以下の人も少なくありません。身体の専門家として人を診ているキャリアから私が教わることは山ほどあります。ただ、彼らのなかには、1020年と、音大の先生と同じく、20代から勉強(知識、理論)してきたと、固まってゆずらない人も少なくありません。

 舞台に関わる私たちの方が、表現を通じて声からは多くを学ばされているのでしょう。

 

○現実の表現からみる

 

 演出家や映画監督、出演者と言ったプレイヤーは、表現の判断の専門家です。その舞台裏がのぞけるのは、私の役得です。

 優れたプレイヤーほど、一般の人の声の問題について、学びにくいといえます。プロとしてプロ中心に接している人は、なかなか社会の問題に触れる機会がありません。

私のところは、声楽家をトレーナーにしていますが、彼らはここで初めて世間一般の現実のレベルでの声の問題につきあたります。音大では音楽的、声楽的にすぐれている人はいても、一般社会で困るような声の劣等生はいません。そんな人は学校に入れません。

健康な人もそうでない人も、伸びる人もそうでない人も、たくさんの人が、私に多くのことを学ばせてくれました。そういう面では私の方が多くを知り、体験してきているわけです。

 役者、声優、お笑い、邦楽、エスニックなどについても、それぞれ専門家ゆえに声の問題には疎く、ここに研究にいらっしゃることになるのです。それでも5年、10年はひよっこというような世界の人にいらしていただけるのは、この研究所ならではの、ありがたいことだと思っています。

 ここでは、いろんな分野での専門家といわれる人たちのアドバイス(考え、意見)、判断(診断や治療)も、共に検討していくようにしています。毎年400名以上を声や表現でみてきた私とのコラボレーションの実践です。専門家や私でなく、本人を中心にして、どのようにみていくのか、どのようにしていくのか、どう支えるのかが問われているのです。そこでは知識や理屈よりも思想と実践です。どうも今の日本人はどんどん頭で考え、理論や客観的な知識の方に寄っていっています。本質を見失っていっている感を否めません。それゆえ、社会や時代の問題とあわせて、切り込まざるをえないのです。

 

○教えて育つか

 

 体から声はその人なりのものとして発現しています。自分の体と他人の体は似ているようで異なっています。

トレーナーは他人の体を扱います。そこに入り込み、自分の体とのギャップから、それを埋める手段をメニュとして提示します。多くは自分自身が手本、見本にならざるをえないのです。

 表現者たるアーティスト、歌手、俳優、アナウンサーなどのベテランは、先輩アドバイザーとしてはよいわけです。しかし、自分の体というものがあるために、なかなか他人の声のよき指導者となれないのです。

 技量やキャリアとしては優秀な先生が、自分の半分の力にも、生徒や弟子を育てられないことが多々あります。生まれや育ちに加え、日常生活の環境や習慣のなかに、つかっているだけに、歌手や俳優は、天性に恵まれていた人に学ぶのは難しいのです。昔は住み込みの弟子入りが、すぐれた養成方法としてありました。

私も、1990年代、36524時間、ほぼ2年間の養成所体制を意図しました。全寮制をよしとする欧米の考えにも似ています。すぐれた指導方針とある意味で選ばれたエリートで構成しないと、大体はサークル化するものです。今の日本の大学が、よい例です。スポーツのようにタイムや勝敗で結果が出ない世界ゆえに、判断の基準や何を価値とするかという問題が大きくのしかかってきます。

 

〇歌手とトレーナー

 

 トレーナーとしては、表現者として、あまりすぐれなかった人のほうが優秀なことが少なくありません。すぐれたフィジカルトレーナーには、アスリートとしての可能性をけがや病気のために、若くして断念した人が多いと思われるのに似ています。

 特に歌手では、我が強くなくては一つの世界を築いたり、保ったりできませんから、どうしてもその傾向が強くなります。それゆえ、私は、歌手にはトレーナーを仕事として両立させることをお勧めしません。

 実際に私のところにはいろんなところからいらっしゃいます。そこをやめてくる人いれば、続けながらくる人もいます(第二期は、私のところだけに在籍しているという人が8割くらいであったのに対して、今は5割を大きく割っています。外部との共同作業として、研究所の指導を考えているのは、ここ10年のことです。おかげで多くの情報が入ります)。そのときによくみると、歌手やプロデューサー(として成功した人)などが教えた人よりも、あまりそういうことですぐれなかった人の方に教わった人の方が基礎ができているものです。

 

○あいまいを観る

 

 声とヴォイストレーニングの分野は、あいまいです。トレーナーといっても、専門家という資格も基準もなく、出自もやってきたことも、方法も判断も、知識も理論も違います。声といっても広範な分野をカバーするので、それぞれに自称しているだけです。医者(音声医、耳鼻咽喉科)、声楽家、作曲家、プロデューサー、俳優、声優、アナウンサー、ナレーター、話し方のインストラクター、講演家、講師、さらに噺家(落語家)から邦楽家(長唄、民謡)ビジネスマン、政治家と声を使う人ならトレーナーとして教えられるものをもつのです。誰でも先生になれます。

 歌手も俳優も日常に根ざしている歌や話を専門とします。しかし、誰もが話も歌もたしなんでいるからこそ、特別な勉強もなくプロになれる人もいるのです。

その違いとなるとあいまいです。ヴォイトレの必要自体も、あいまいなものです。それにアプローチするのが目的で、こういう話になるのです。

 

 たとえば、声がよくも丈夫でなくとも、克服してよくなった人が、体に詳しく、そこからアプローチして声にせまるのは、当然です。一方で、歌手や俳優は、大体は体力、集中力があり、健康な体をもっています。そのようなアプローチなくとも歌唱や発声にすぐれています。となると、どちらがよいとか正しいということではありません。

 

○「できる」と「うまい」

 

 いつも私は、あなた自身が、具体的に詰めていくために、必要なことを述べているつもりです。個別にしか成立しないと思われている個人レッスンで、何名もの出自の異にするトレーナーと一緒に行っているのもそのためです。

 

1.あなた自身のこと(体、感覚)(生まれ、育ち)

2.あなたの目的のこと

1が基礎、2が表現です。この2つを抜くとヴォイトレは、あいまいになります。

人間の体としての共通要素のところでは「できた―できてない」という基準をつけると、基礎としての集団トレーニングもできます。レクチャーや文章でも伝えられることをこうして述べています。

 歌や演技でのせりふとしても、「うまい―へた」くらいは、共通に望まれる表現を目的とするなら、大きくは同じような指導方法がとれます。

 

 私はカラオケ教室やその先生を批判しているのではありません。

 問題とすることが違います。私の考える基礎や表現に「できた」とか「うまい」ということが入っていません。

 プロになれるのとプロとしてやっていけることは違います。オーディションに通るのと、作品で一流の実績を残せるのは違います。レベルも目的も、問われる条件も違うものです。多くの人は、その一歩としては同じと思うのです。私は違うと思うので、この問題は後述します。

 

 本やネットでも、ヴォイトレに対して、意見や考え、ときには熱心な議論が行われています。質疑応答も行われています。私は関与していません。本人不在では、ほとんど意味がないからです。

 この分野で本を出し、ヴォイトレのQ&Aサイトを提供している私がいうのですから、説得力はあるでしょう。

 なのに、この連載も含めて、いつも述べ続けているのは、そこからあなた自身のこととして考えてほしいからです。これは研究所内外での私の仕事とも密接に関わっています。私には毎日の仕事や生活の一環です。

 

○情報論

 

 今の時代、情報はたくさんあります。それぞれが違うと迷うでしょう。ですから何かを決めたいなら、情報をとりすぎないことです。質のよい少ないで判断します。

 私のところでも、質問に1人のトレーナーが答えると相手は満足します。そのとおりにやるでしょう。私のところのQ&Aは、似た質問にいくつもの答えを出しています。「トレーナーの共通Q&A」は、ここのトレーナー10人以上が同じ一つの質問に、それぞれ自由に答えたのをそのまま載せています。

 「どの子音でトレーニングすればよいのか」について、この研究所のトレーナーでは結果として異なる子音を使っていました。

 あなたは混乱するでしょう。明らかに矛盾します。どれが正しいのでしょうか。どれが正しいのか私はわかりません。

あなたに来ていただいて、あなたの現状をみて、その目的を聞いて、どのようにそれらの答えを考えるのかを、アドバイスします。これが研究所での私の仕事の一つです。

 あなたに問われても正解は与えられません。あなたは、他の10人のトレーナー一人ひとりに聞きますか。答えは一致しないでしょう。結局は自分自身に問うしかないのです。そして自分自身の答えを、あるいはやり方を見つけていくために、レッスンをしていくのです。もっとも大切な判断のもととなるものを学ぶのです。

 

〇問いをつくる

 

 ここのトレーナーを方法やメニュということにおきかえてもよいでしょう。

 私は読者に「答え」でなく「問い」を求めるようにと述べています。レッスンにも研究所にもそのように対して欲しいと言い続けています。多くの人は、本やサイト、レッスンに正しい答えを求めようとするのです。買物の、「価格コム」や「よい商品や店を教えて…」なら、答えを聞けばよいでしょう。ネット社会はそういう情報、知識をすぐにくれます。でも、表現や声は違うことを知ってください。知ったところで何ともならないのです。

 

 ただ一人から、たった一つの答えを聞いて、それを信じるなら、それはもっとも強力かつ早く、すぐれたことかもしれません。私は情報でなく、それを発する人をみます。その人が偉いとか、知名度や実績があるということと、その答えが自分に役立つということはイコールではありません。一般的には信用できる何かがあれば、匿名などの身元・実績不明の人よりは信用できるでしょう。長年やっている人、キャリアのある人、本人の実績のある人などがいます。

 大切なのは、一般的に信用できることと自分自身にとって、ということです。表現、一流の作品、オリジナリティということになると、一般的によいという基準は、役立たなくなるのです。

 

〇カラオケとプロ

 

 カラオケのうまい人が、プロになれないのはなぜでしょう。「カラオケにうまくなっていくのは、プロに近づいていく基本の(あるいは最初の)一歩」ではないからです。そこで、元プロか現プロのカラオケの先生、つまりプロになれなかった、あるいはプロになっても続かなかったカラオケの先生について学ぶことをどう考えるか、です。

 私はそういうところの教え方を、慣れることにおいては、いいと思います。しかし、あまり勧めていないのは、本音でいうとカラオケでうまくなるのと、プロとは逆方向と思っているからです。

条件づくりと調整との違いです。カラオケというのは調整だけの方が、早く大きな効果が上がるからです。ヴォイトレも効果を早く、求められるとトレーニングでなく、調整になりがちです。実際、多くのトレーナーは、そういうスタンスでレッスンしているのです。

 

○知識よりタイミング

 

 一般的には情報も考え方も方法も、たくさんあるのが、よいと思います。しかし、整理できないと、いつも迷ってしまいます。自信がもてなくなりかねません。

 最初にあらゆることをアドバイスしようとするトレーナーは、未熟でよくわかっていないのです。私は採用しません。あとでそうなってくることもあるので、折をみて注意します。そういうレッスンで相手は知識欲がみたされ満足します。実際にトレーニングとしては、進展していかないからです。

 こういうことを頭で勉強したい人が増えてきたので、トレーナーとしても対応をせまられることがあります。それがどういう位置づけか、スタンスかを知らないといけません。そうでないとトレーナーも生徒も、中学校でやるようなことがレッスンと思ってしまいかねません。

 レッスンで大切なのは、伝えるタイミングです。本人が受け身から主体的になり、聞いてくるのを待つ、あるいは聞いても仕方ない(とはいえ聞いてみるのはよいことです)と思い、問いを自らに向けて答えを試しにくるように導くことです。トレーナーに必要なのは、信じて待つ力、忍耐強さです。

 

〇主体的に補う

 

 私のレッスンのスタンスは変わりません。はじめは表現よりも基礎を、今は、人により基礎より表現を中心にすることもあります。基礎は、トレーナーがやるからです。この分業体制を無視して、私のレッスンを部分的と思う人もいるので、最近はそういうレッスンをアドバイス・レッスンとしました。

 基礎はピアノをひいているだけ、グループではすぐれた歌をCDで聞いて、23フレーズをやってみるだけ(相互に聞き比べ、自分なりに調整していく)表現は、フレーズを歌ったり、せりふで言うだけです(1コーラスのこともある)。

 「~だけ」というのは、後は本人に補わせるためです。

 レッスンでは、何よりも主体的になることです。それができるまでには、時間がかかります。かなりの個人差もあります。本人がそこで、私(やまわりの人)の心を動かす表現を声を問うのです。

 表現というのは、色づけがされた声(オリジナルフレーズで、くせや個性が入る)です。基礎は、応用性の高い柔軟で変化に応じられる声です。それは無色です。本人が主体、トレーナーはサポート役です。

 自分のもっているすべてを早く教えてしまおうとトレーナーが頑張ると、授業パフォーマンスが作品、生徒は観客となってしまうのです。「先生みせてよ。すごい」これでは本末転倒なのです。

 

〇教えたいと教わりたい

 

まるで中学校といったのは、日本の教育とは先生に教わることと捉われている人への私の忠告です。パフォーマンスをみないと信用できないという人もいるから、やっかいなのです。クリエイティブな現場では、トレーナーは自分のもっているものを出すのでなく、一刻一刻と相手に欠けているものをとり出すアプローチを発想できるかを、問われるのです。

 ヴォイストレーニングを、どのように捉えるかも人それぞれにあると思います。カラオケ教室や英会話スクールにさえ、広義にはヴォイトレと考えられます。

 まとめておきます。

現実対応―表現

自分―発掘―基礎

 

○初期化

 

 私の思う歌手というのは、劇団員のようにはなれないとわかってから、今の体制に舵を切ったのです。そこまではOBや在籍した人にサブトレーナーを任せていました。生え抜きとプロデュースしたトレーナーとは、一長一短です。私は異質な集団でカオス状態にする必要を感じていました。私自身、多忙で、裸の王様状態になっていたので、ここを壊すか、離れるかも考えました。

 我流のブレスヴォイストレーニングということに、こだわっていたのですが、歌という表現を取り巻く環境の大きな変化と、ヴォイトレの一般化の波にさらされたわけです。

日本では歌手という入口から、俳優やタレントになります。歌手はシンガーソングライター、アーティストである限り、そのような職名、属性はどのようでもよいのです。

20代中心の、理想としては、全日制的な体制は10年以上、つづけたものの、維持しにくくなりました。外からどう見られようと、内に人材がいるのか、育っているのかが、もっとも肝心です。踏み台のはずの私が、ヘッドに君臨するのはよくなかったのです。

 ブレスヴォイストレーニングが、本来の基礎となるものなら、どのような分野や表現とも、他の人々とも、融合していくはずです。福島式とつけなかったのは、ブレスヴォイストレーニングが自由に変化していくように、という思いだったのです。

今では、試行錯誤ながら、いろんなところと提携し、邦楽から、喉の病気の人まで、それぞれにレッスンを成り立たせています。iPS細胞のように初期化したといえるのです。

 

〇変化と思想

 

 ここに至るには、試行錯誤、うまくいかないことの連続でした。常に第一線で、全てをさらしていったからこそ得られたことが大きかったのです。多くの批判や叱責とともに、より多くのすぐれた人との関わりでできていったのです。

 今の私ならとてもやれなかった、やらなかった、無知ゆえの活動が、多くの人や組織を巻き込みました。どこよりも多くの情報と多くの人と多くのトレーナーと多くのやり方も含めて、ここまで変化しました。ここを変えさせ、進化したのは思想であり、今もその途中にあると思います。

 研究所をつくって、ようやく研究すべきテーマや方法、それに必要な技術やスタッフ、トレーナーがそろってきました。それが正直なところ、この10年の歩みです。他の人に協力を求めたり教えてもらうためには、内部がきちんとしていないとなりません。ライブやプロデュース志向の第二期には、養成所であっても研究所ではなかったのです。

 

○創造と環境づくり

 

 このように研究所のことを語るのは、トレーナーに教わるという姿勢から始めたとしても、一人ひとりが自分の声、自分の表現の研究をして、独自に研究所をつくって欲しいからです。

 私は、環境と習慣を変えていく、その必要性を、いらっしゃる人に話しています。

 自分を中心に自分の目的を達成するのに必要な環境を整えていくこと、その一環として、ここを使って欲しい、と。昔からそのためにここを変えていきました。ここをあなたのために役立てて欲しいと思ってきました。

役立たないなら役立つようにして欲しい。やめることや休むことも含めて自由です。

表現のもつ力は、人のいる場を変えます。ここはその変える力をつけて、試すためにあったのです。養成所のときに「あなたがここを変えないなら、あなたのいる意味がない」と言いました。

 教えてくれないと学べないような人が多くなると、今の日本の縮図のようになるのです。いつでも研究所や私やいろんなものを変えてきた人に多くのことを学べたはずです。充分にそれを試行錯誤する環境があったのです。

 

 立ち上げの頃はゼロでしたから皆が創りました。最初のスタジオは、建物のペンキ塗りまで生徒がやりました。そこからライブスタジオが実現して、疑似ライブまで開催されました。すると、そこを利用したい人、創造でなく消化する人が多くなってきたのです。

そういう人は、創造する努力を怠り、ものごとを否定的にみます。その結果、チャンスがなくなる。つくっていく人が現状を変えるのなら、つくらない人も現状を変えていく。日本の戦後の、進退という2つの歩みが、この研究所でも起こるのです。

 

○なるようになる

 

創った作品を聴きたいと思うから人が集まり、聴きたくないと思うと人はいなくなる。私が皆の声(歌)を聴きたいと思ったから、どんどん聴けるようにしていったのです。そういうものがなくなったら場も機会もなくなるのは、あたりまえです。

 私もがまん強く、つぶしはしなかった。再び創るのに相当かかりました。つくっていくよりひいていくことの、ひいて、つくっていくことの難しさも経験しました。

 今も昔も、いつも変わりつつあるのです。すべてが変わっていく中に、変わらないものがあるのも、これまた真実です。

 真実だけでなく、真実と信じ、変えたくなくても現実には、それを変えてしまわざるをえないこともあります。真実でありたいのに、そのことがそのまま通じないままにも続け、対応していかなくてはいけないこともあります。そういう後ろめたさや反省も、つづれないものかもしれません。

 私にカリスマであってほしい、私の方法や言っていることはすべてが正しく、誰もがそれで救われる。こういうことを望んで、それがあたりまえのことですが、かなえられないとブチ切れる、今では珍しくもないのですが、幼稚な人にもいました。

 

〇研究所のことばと感動

 

 ことばで伝えていることの限界も私は本のなかで述べてきました。頭でっかちで盲目になる。たかがことば、されどことば。本の方法も理論も、そしてトレーニングも自分に役立てるためにあるのです。それを役立てないばかりか、やり始めたときよりもだめにしてしまう。それは方法や理論にではなく、本人の受け止め方、使い方に問題があるのです。声や体のことでなく、考え方や生き方ですから、本人は気づかないのです。声や体は、死なない限り、何とでもなります。私の方法で死んだ人は知りません。

 何であれ、心から魅かれて、本物だとか、すごいとか、感動したというのが、大切なことです。たとえ、十代のときだからこそ惚れてしまったアイドルの歌でも、あなたの、その心の感受性は純粋で真実です。それを「あんなアイドルは…」とか「それに夢中になった自分が恥ずかしい」となると、嘘が始まるのです。それを本人は成長したとか、めざめたとか、本当のことを知ったとか、これまでだまされていたとかいうのです。私からみると、向上心がゆがんだだけです。頭でっかちになると眼が曇るのです。

 

○複数トレーナーに学ぶという考え

 

 前の先生や今ついているトレーナーがだめという理由でくる人が少なくありません。他のスクールなどに移る人の大半がそうでしょう。

 私のところは、意図的に一人の生徒に複数のトレーナーをつけています。目的やレベルによって変えていく体制をとっているので、その人とトレーナーとのレッスンの問題がどこよりもわかります。他のトレーナーにつきながら、ここにもきている人もたくさんいます。

 私は、20年以上、この体制でみ続けてきたのです(グループレッスンのときも他のトレーナーのレッスンに出られ、他のトレーナーに個人レッスンを受けられたのです)。否応なしに比べられるのですが、それをよしとしました。

 ここのトレーナーは、この体制に慣れていきます。通常は、自分がいるのに、他のトレーナーにも習っているというのは、嫌なことでしょう。

 私はトレーナーとともに生徒のことを考えています。その結果、辿り着いたのが、複数のトレーナーで一人の生徒を分担する、そのカップリングを第三者がみる、という、世界でもまれなシステムです。

 多忙な先生が直弟子にレッスンを任せるのは、よくあります。同じやり方をスムーズに踏めるからです。ただし、これは別の問題を引き起こします。弟子の能力は先生に劣るのと、先生のをみようみまねで行うことになるからです(日本の徒弟制)。

 私はあえて、トレーナーに本人独自のやり方を優先させているのです。とはいえ、まったく価値観や考え方が違うトレーナーでは無理です。

 自分のことを知り、判断力と基準をつけていくのがレッスンの目的だからです。そのために、他の人の学び方からも学べるグループレッスンから始めたのです。

 価値観、考え方が同じでも、人が違うのですから方法は違ってくるのです。同じ方法でやればいいというのがおかしいのです。弟子よりも、出自が違うのに共通した価値観をもつ人の方がトレーナーとしてよいのは、そのためです。ただ、弟子の方が扱いやすいから、日本ではそうなりがちです。

 

○情報を遮断しない

 

 ここにはいろんな人がいらっしゃいます。

1.他のトレーナーから移ってきた人

2.他のトレーナーにつきながらきている人

他でついているトレーナーには、ここのトレーナーとのレッスンのことを話してかまいませんが、「言わないほうがよいかもしれません」とは言うこともあります。すぐれたトレーナーなら、すぐバレるものですが…、バレるのだから言う必要もないでしょう。私もすぐわかります。他のトレーナーの影響が良くも悪くも一時的に出るから、レッスンのスタンスが問われるのです。

でも、他のところのトレーナーは、慣れていないので不快になり、レッスンの状況が変わってしまうこともあります。よくなるならよいのですが、ギクシャクしたり、厚意的でなくなったり…。でも、私から、ついているトレーナーをやめた方がよいとは絶対に言いません。

 

 必ずしも、そのトレーナーやレッスンに問題があるのではなく、あなたが活かせなかった、それはなぜかの方が大切なのです。どんなトレーナーであれ、レッスンのなかには、プラスのこともあるはずです。それをできるだけ活かそうとするのが、のぞましい姿でしょう。そのトレーナーとのレッスンの年月も救われます。

 

 どんなことにもムダはありません。そのときはマイナスであったようなことでも活かせばプラスです。何事も、短期でみてはいけないのです。

 

 そのトレーナーにもファンがいて、仕事も続いているなら「だめ」とは言えません。「合わなかった」ということでしょう。その違いは何だったのでしょう。

 私のところにも、熱心な人は10年、20年と続けています。効果の測定を、洗脳されたというように蔑む人は、あわれなことです。研究所では、いつも内外関わらず、多くの作品や人に会って刺激を受けることを、どこよりも勧めています。

 

〇トレーナーの批判よりも活用を

 

 トレーナーを批判するのは、およそ一方的なもので、浅はかです。ものごとには、両面あります。批判することも認めるべきこともあるのです。どちらに目を向けるかです。

 私は、本を出し続けてきたたので、若くして批判の矛先にも立たされてきました。本を読んで、今までついていたトレーナーのレッスンをやめて、ここにいらした人もたくさんいます。そういうトレーナーがよく思うわけがありません。

どこにも属していないので言いたいことを言っていました。風通しがよくないままでは、この分野も発展しないからです。長年続けていると、日本においては、関係者に迷惑のかかることは避けたいと思うようにもなるわけです。

 皆さん、ここに足を運び、確かめにきます。プロダクションや編集者にも現場を見せます。

 

 批判というのは、その人に実利があると執拗なものになります。ねたみ、そねみ、ひがみも相当にあります。当人の前に出て言えるようなことは、ほとんどありません。内容もとるにたらない、とりあげるに足らないから、答えるに値しないのです。

 批判やクレームは、実名にて送っていただくと嬉しいです。本については、メールや封書、FAXで。ときに専門家や一般の人からいただきます。指摘から学ばされることも多くあります。お互いのためになるようにと思っています。

 

○選ぶ力より合わせる力をつける

 

 どの世界でも、多くの人は入口前でたむろしては去っていきます。

移ってくるときに、ここに来る前のレッスンを忘れたがるのは白紙に戻す点ではよいのですが、一方で困ったことです。「これまで」「前のところでは」「大してやっていない」「身につかなかった」と。そのことばをここをやめるときにくり返さないとは限らないでしょう。もちろん、ここでは、これまでにないレッスン、全くレベルの違う目的、プロセス、方法を与えることを目指しています。しかも何段階にもおいてです。

転々とスクールを変える人は、「合うトレーナーがいなかった」「合う方法がなかった」と言います。「自分と合う時間や合う体制でなかった」というのは、深刻な問題です。そこで効果を上げている人がいるのですから「自分に合わせる力がなかった」ということです。

 私のところに10番目にきて、ここでも何人ものトレーナーのレッスンを受けて、合わないと言った人もいました。医者から紹介された人のなかにもいました。いくつもの医者をまわって、すべて合わなくて、ここを紹介されてきたのです。こういう人は、合わないと言う前に自分が合わす力をつけなくてはいけません。

 

〇合わせる力=応用力=仕事力

 

 ヴォイトレの必要性自体、人によって違います。必要なければやらなくてよいのです。まわりはまわり、自分は自分で情報を得るのならそれもよし、勉強です。お金がないなら無料体験レッスンを受けたら、よいでしょう。合うところを見つけたいなら、「合う」という条件を具体化して交渉していくことです。

 他にあたるなかで、具体的にイメージを絞り込んでいくのです。一人で悩んでいるよりも、ずっと発展的です。

研究所内ではトレーナーの選択から意図的に促しています。

大抵の人は具体化していけないで「何となく合わない」「合っているのかわからない」で終わってしまいます。普通は少しがまんして、トレーナーと相互に合わせる努力をします。少しずつレッスンができてきます。そして「選ぶ力」となり、「合わせる力」がついてきます。

トレーナーにすぐにピッタリと合わせられるのは、天才のレベルです。人に合わせる力がつくということは、「仕事にする力」がつくということです。プロになっていくのです。  

1.初回からレッスンが成立する

2.初回で相手に合わせる可能性がみつかる

判断ができなくて、好き嫌いで動いているうちは、人は魅きつけられません。私も会ったら最善を尽くしますが、初回からわからないこともたくさんあります。そこからのプロセスが大切です。

 そこがわからないと、ヴォイトレをして声がよくなっても何ともならないのです。

 

○決めること

 

 私のところでは世界レベルを体制としてセッティングしてきました。世界レベルで最高のシンガーがきても対応できる体制があります。紹介でいらっしゃることが多いので、選ぶ間もなくピンポイントで決まるので比較できませんが。表現=目的に対して欠けていること、課題がはっきりしている人ほどやりやすいのです。

1.直観で決める

2.たくさん、まわって決める

3.長く試しながら決める

2は迷うから、1も悪くありません。たくさんみると、第二義的な要因が大きくなることもあります。サービスや設備や料金、立地などが、レッスンやトレーナーのよし悪しよりも影響してしまうということです。目が曇るのですね。

 直感的に正しかったこと、真実だったことが、みえなくなってしまうのです。

 憧れを抱いて、業界に入って現実をみたら失望してやめた。こういうケースも何をみたのか、同じものをみて、どう思ったのかは、人によって違うでしょう。水商売の業界、アートで表現ですから、いろいろとあるでしょう。むしろ、早く失望できた方が先が開ける、いや、自ら選択を迫られ、切り拓けると思います。

 私は、多くの人が長く続いているところというのは、それほどおかしなものではないと思っています。

私は、トレーナーの未熟さにも、生徒と同様に寛容です。私もかつてはそうであったし、今もだからです。

 

○過去に学ぶ

 

 学べているのなら、次のステップにいけます。学べなかったなら、ゼロから学ぼうと過去を封印するより、過去に学べなかった原因を知るのが有効なこともあります。

 どこかやめてくる人はうまくいかなくて、前のところをよく思っていない人が多くネガティブなイメージですが多いのですが、私はそのレッスンからも1つプラスに役立つことがあれば、そこを活かすように心掛けています。そうしてみると必ずよいところがあります。

 トレーナーにも生徒にも万能を求めるのは、目的が低いということです。何からでも学べるのです。それを絞り込んで、何をどう学ぶのかのレベルを高めていくことができてこそ、学び続けることの意味があります。

 

〇オープンにする

 

 トレーナーを変えるときも、前のトレーナーに学んだことを活かせるように考えます。有能なトレーナーが去ったときのデメリットは大きいものです。しかし、トレーナーによってその人の将来が左右されるのは、あまりよくありません。

 研究所では、マンツーマンで一人のトレーナーの影響しか受けられないようにはしない方針にしています。

 本当のところ、トレーナーとのレッスンで行われていることは、第三者にはわかりにくいものです。トレーナーは、あまりオープンにしたがらないし、レッスンのプロセスに他のトレーナー入れたがらないものです。それゆえ、他のトレーナーが学べず、こういう分野の発展が個人のキャリアにしかならないのです。

 私は、国内外のトレーナーの考え方ややり方、そこを受けた人の評価のよし悪しも、誰よりもよく知ることができました。研究所は、この閉鎖性に対する挑戦として、一般の人にも多くのトレーナーにも内容をオープンにしてノウハウの共有化をしてきたのです。こんなにメニュやノウハウをオープンにしているところは世界にもないでしょう。それを批判するひまがあるなら、自分のを公開していけばよいのです。いろいろと批判しているようにみえるこの連載は、愛情の賜物なのです。

 

○学べないパターン

 

 現実に学べている人は、学んだことを感謝して、トレーナーがどうであれ、次のステップへ歩みます。トレーナーがどうであれ、続ける中で次のトレーナー、プロデューサーと活動します。

現実に学べてない人は、学べなかったことを否定して(忘れるようにして)同じことを繰り返すのです。それを学び直すならよいのですが。そこでやめてしまう人も多いし、身についたと安心してやめる人も多いのです。

学べなかったことを自己肯定しているのです。そういう形で次のトレーナーについても実力はつきません。よくあるのは、どこかで調整してもらってよくなったら、これまでのやり方を一転して全否定するパターンです。理論や知識で頭を満たす人は同じく、新理論や新知識におぼれるのです。

 次のトレーナーでよく学べたとして、自ら前途を閉ざしているパターンが多いのです。悪口を言う人はこういうタイプです。本当に力がついたら、過去は気にせず活動していくからです。

そういう言動を耳にすると残念に思います。声も歌も人生もうまくいっていないかと、同情を禁じえないからです。

 

〇効果は出る

 

エネルギーや時間を自分のために集中して使えばよいのに、他の情報に振りまわされ安易なやり方をとってしまう人も多いものです。

 最初の情熱をもって一所懸命に続けないともったいないです。一所懸命にやったことは、すぐに効果がなくても、続けていくと必ず役立っていくのです。ですから安心してください。

 トレーニングは効果を出すためにやることです。効果がない、トレーニングにならないならやめればいいのです。ですから私はトレーニングで効果が出なかったという人は、性格はともかく、考え方を変えることと思います。

 効果については、主観的なことが多いです。もっと効果が出るべきだったのか、それでも最高の効果だったのかは、わかりません。でも、いつも検証するのです。そのためにトレーニングがあります。そこに一般論や他人の実例は役に立ちません。自分を知ること。自分を活かすことです。

 

○茶番から

 

 精神論と思われることも多いのですが、取り組みやスタンスに何度も言及しているのは、それがもっとも必要だからです。ヴォイストレーニングなら、何をもってトレーニングかをつきつめなくてはなりません。その必然性も、始点も終点もあいまいなままで、どう判断できるのでしょう。

 日常性ということからみると、しっかりと他人と生きて生活しているなら、ヴォイストレーニングのベースは入ってくるのです。その結果が、今の声です。健康に生きていることをベースとして、ただ話すことにも声は充分に使われているのです。

 このことがヴォイトレをわかりにくくするのです。それとともに、一部の即効的で目にわかりやすい効果がヴォイトレとして切り取られて、レッスンの目的になってしまいがちなのです。そうした茶番が行われているのが現実です。

 たとえば、骨盤の位置を動かすと、腹がへこみます。それがダイエットになる。本当でしょうか。そのくらいのことに何百万人が一喜一憂し、何億円ものお金が動く。日本人のレベルも低くなったものです。

 大切なのは、方法でもトレーナーでもなく、あなた自身のセッティングです。今や、フィジカルトレーナーの前に、メンタルトレーナーが必要です。メンタルトレーナーは心身の心を担当しますが、トレーニングの計画管理もします。スタートしましょう。そのあとのステップアップが大切なのですから。

 

〇次の学びに行くには

 

 「今ここで」学べていると、方法やトレーニングを超えて、「次にどこかで」必ずよりよく学べていくのです。他のトレーナーについても、異なる方法であっても、自分なりに活かしていくことができるようになります。すると、その人は、もっと自分に必要な人に出会うことができます。今のトレーナーときちんと学べていたら、自ずと次のステップへいけるのです。

 多くの人は学ぶことの限界へつきあたっていくのはなぜでしょう。学んでいくには、より柔軟に、自由に解放されていかなければいけないでしょう。しかし、学んでしまい、というのは学べなかったということですが、頭でばかり考え、頭でっかちになってしまい、ネガティブにものをみるようになってしまうのです。

これは、どこでも起きることです。どの業界でも、どのスクールでも、そういうものでしょう。一時的にそうなっても脱していけるのか、そこで止まってしまうのかの違いです。

 いくつかの壁があって、大体は、その何段階目かで自らの成長をとめてしまうのです。より学ぼうとして、学んだ結果、頭にたくさんのことが入り、後進に対しても知識、理屈は言えるようになり、その結果、自らの成長は、止まります。止まるということは相対的に後進してしまうのです。場合によっては始めたときよりも悪くなってしまうのです。

まわりに自分よりすぐれている人が多いとそれは防げるのですが、年とともに大抵は逆になります。よほど冒険と挑戦をしないとすぐれた人とは、会えません。よほど高い志をもたなければ、知らないうちに、そうなってしまうものです。

 

○歌の限界を超えるには 

 

 歌も、ほとんどが円熟とか成熟という名のもとに汚れ、新鮮なものでなくなっていきます。昔のように、全盛期をすぎ、老いてナツメロ歌手になる頃ならよいのですが、日本ではそれが早く、昔であれば40代、早ければ30代後半で退化していたように思うのですが、今やデビューから23枚目のアルバムでそうなってしまうのです。

一つには客の耳がゆるく育っていないことがあります。カラオケで歌いなれた客は、他人の歌を聴く耳がおろそかになっています。☆

俳優や歌手も、ステップアップして大舞台に立つ人は、表現から、反省を強いられるうちはよくなっていきます。他のアートや海外と違い、その表現が、基礎のオリジナリティの延長にないことが、日本の場合、大問題です。

トレーナーになる人は、表現からも基礎からも厳しい追及を受けないところで自分より実力や経験のない人ばかりと接するので、マニュアル先行で直感が磨かれず、先にやってきただけの先生になってしまいがちです。

 

〇声を学ぶことの難しさ

 

 自分の世界をつくっていくことは、保守化していくことになりやすいものです。トレーニングは、表現世界でなく、そのためのプロセスなので、異なるものです。

 人に教えられることが、どこかに属するということになると、表現のための基礎トレーニングが、トレーニングのためのトレーニング、理論や知識の獲得のためのトレーニングになりやすいのです。ことに日本人はそういう傾向があります。

 ヴォイトレでは、声の表現をしっかりと詰めていくことです。細かく繊細に、丁寧に詰めていくことがトレーニングに必要です。レッスンで他人の耳を借りて多角的にチェックしたり、アイディアを得たりしていくのです。

 声が音声での表現の基礎でありつつも、全てを担っていないということが、この問題をややこしくしています。

 歌手にとって発声は、基礎ですが、その習得のレベル、声を占めるその人の表現(歌)に対しての度合は、アーティストによって違います。

 だからこそ、私は一見、逆の方向に、音声、表現、舞台の基礎として、ヴォイトレを位置づけているのです。声は歌やドラマのすべてを担っているのではありません。音響技術のフォローや聴衆の観客化によって、声の力の必要性は失われてきています。

しかし、ヴォイトレですから、私は目をつむった世界(レコード、ラジオ)で、耳だけのアカペラでの声力を基準にしています。時代に逆行しようと、そこを外すと声の基準は、とれなくなるのです。だからこそ、表現についてどう観るかの眼も、どう聴くかの耳も両方とも大切だと思うのです。

109号

歌唱論(Ⅱ)☆

 

○理とスタンス

 

「歌は時代と人とともにある」と思いつつも、日本の歌や声の力の弱体化をみてきました。結局のところ、流行したり売れているものは、何かの理があります。それを他のところ(たとえば国外)や他の時代(昭和以前)と比べて、評したところで、しょうもないのです。その理の正体を見据えて対さなくてはならないのです。日本の歌には、そういう人の存在感も希薄です。

批評家を気どるのではありませんから、私は歌や演技だけを単体として評することはしません。トレーナーという立場と、批評家、プロデューサー、客はスタンスが違います。私は「今、ここで」よりも「将来いつか、どこかで」を本人の可能性の軸の延長上においてみます。歌だけを吹き込まれたテープを送られても、本人のことを何も知らずに評することはできません。レッスンをする立場での可能性や限界について、本人の目的、レベル、表現活動において、声をみます。

 「プロになりたい」といらっしゃることが多いので、立場上、「プロとは何か」、「どういうプロか」という問題を本人と共有をせざるをえません。プロでも、レッスンに訪れる人は、もっとプロらしいステージをというのがトレーニングの目的となるので同じことです。それは、今の日本、世界はもちろん将来を本人を中心に見据えていく力を必要とします。

 

〇絶対基準

 

 基礎トレーニングについては、声楽をベースとした体、呼吸、共鳴、発声でよいときは、トレーナーに任せています。表現についての問題は、複雑です。今の日本では、さまざまな事情を加えると、なかなか判断ができないのです。

 私は「声からの絶対基準」と「表現からの絶対基準」をベースにしています。ここで「絶対」というのは、時代や国を問わないということです。本人の資質をベースに最大の可能性=オリジナリティで問うということです。

 しかし現実には、仕事になるための「今、ここで」=「21世紀の日本」「客やファンの求めるもの」でという相対基準、外から求められるスタイルや能力に合わせるという基準を配慮せざるをえないのです。そこを超えたところでは、思想、価値観となります。

 総合力としてのオリジナルが評価される今、声での創造力においてのオリジナルでやっている歌手は、ほとんどいません。トレーニングで教えられるもの、育つものではないからです。となると、精神的サポートが中心とならざるをえなくなります。

 

○日本のゆがみの構造

 

 日本人における「二重構造」は、今もクラシックもポップスも音楽業界に根強くあります。欧米人と同じ教育を受けることを最上とし、欧米人の感覚で評価してきた流れのことです。ロックやへヴィメタルなど、洋楽しか聞かず、洋楽しかやっていない人にも多いですから、クラシック、ポピュラーに共存する問題といえます(楽器では幼少から行われていますが、歌では難しいでしょう)。

 「本物は本場に近いほど優れている」「向こうの人が認めたら本物」というものですから、評価は楽です。向こうの誰かに近いかどうかです。そこには、世界を席巻した欧米の声楽やポップス歌手だけでなく、作曲家や演奏家も含め歴史と実績に支えられているわけです。世界の覇権者の推移(モンゴル→ポルトガル、スペイン→オランダ→イギリス、フランス、ロシア→アメリカ)と無関係ではありません。文化や芸術も世界と連動してあるものです。

 明治維新以降、上からの音楽教育改革によって、西欧にシフトし、戦後さらに欧米化した日本では、今でも音楽教育は欧米に追いつけ追い越せなのです。世界支配のための戦略として、宗教と武力を用いた欧米人のやり方は、プログラム化され、世界の欧米化=グローバル化を促進しました。

 私が研究所を運営するのに、トレーナーを声楽家中心にしたのは、そこに一個人に左右されない基準があったからです。この基準を、私は自分の基準と相対化させています。

 

〇未熟という独自性

 

 オペラは、世界の観客を熱狂させた、一部の天才の能力にのっかってきたのも事実です。200年も前の、遠く離れた国で権勢を誇っていたものが何一つ疑問を持たせず東洋の島国、日本で伝承され、保持され、存在していることを否定するつもりはありません。ラテン、カントリー、ロックからヒップポップ、ハワイアン、フラメンコまで、どの国よりも柔軟に世界中のものを集めて、楽しんでしまえる日本人の許容度の高さは、歌に限ったことでないからです。スポーツや舞踏だけでなく、工業製品からクリスマスなど宗教まで受け入れアレンジしていくのは日本人の能力でしょう。こうなると文化、宗教の定義さえ日本人の場合は特殊となります。

 

 本来のオリジナリティは、文化や風土に触発されて生じ(地に足をつけて)、高度な域に高まるものです。その資質の上に表現が生じてオリジナリティとなると思います。なのに、日本では本人の上でなく、斜めや横の方に開かれてしまうことが多いのです。そのいい加減さ、未熟さにも、よし悪しがあります。

一流の職人などではありえない、その独自性の完成について、歌の場合、歌手は(俳優、声優やアナウンサーなども含め)本人不在のままにパッケージ商品化されてしまいます。その矛盾に対して誰も指摘しないことです。

というより、プロデューサーはじめスタッフなど、まわりはむしろ、それを促進していく構造になっているのです。つまり、判断がなされているのに、その基となる判断基準がゆがんでいる。客についてもいえると思うのです。未熟をよしとする文化の歌が、代表になりました。

 

○まねから総合化へ

 

 「欧米には、世界の人が憧れるすごい文化がある。同じことを日本人がまねてくれたら、向こうに行かなくても見たり聞いたりできる―。」

歌唱、演劇に限らず、多くの分野でこうして模倣が生じたのです。宝塚歌劇団、劇団四季も、ステージ側、観客ともその構造下にあります。日本のシャンソンが向こうのものを日本語で歌ってヒットしたようなことです。その点では、そういうジャンルのトレーニングやレッスンに声楽の基礎を学んだトレーナーにつくのは意味があります。

 日本人は、プロデュースした人や世に出た人が、それを元に日本人向けの基準を本人の好むところの狭い範囲に定めてしまいがちです。それが結果として、本来、自由であるべき声や歌まで限定をかけてしまうのです。それを受け入れ続けるのも鈍いのですが…。

そして、それがマニュアル的な指導をつくるのです。早く、うまく、人に見られて恥ずかしくないように、ミスのないようにするために、正しくうまくの形づくりです。形で示されるとわかりやすいため、歌唱も再現芸術になり下がります。結果、リアルなライブでなくなるのです。これを安易に誰でもできるようにビジュアルと装置化して、日本独得のステージ技術が発展したのです。まさに「カラオケ」的といえます。声や声の表現である歌や歌の表現のストレートさ捨てて、能のように複合芸術化をしたのです。

 

〇ビジュアル化と声の弱化

 

 昭和のころまでは、歌も世界を目指し、欧米とも張り合おうとしていました。二番煎じに甘んじつつも日本人のオリジナリティ対して、探求もされました。ただ、結果からみると、声でなく作曲、アレンジ、演奏、ステージ技術での発展が顕著でした。

 世界的にもビジュアル化へしていきました。そのためにクールジャパンとして日本は肯定され、高める必要も失ったのです。

「私たちからみて、今の若者のだらしない会話の声や発声が、そのまま使われているカラオケやJ-POPSが、ポップスとしては、日本人らしくてよい」と私が言っていたのは1995年頃でした。

 日本人のもつ特性について掘り下げて考えるとよいと思います。私は、その頃、歌に表現力が感じられないから、モノトークとしてせりふでの表現力に戻してレッスンに入れました。今はせりふの表現力でさえ取り出せないレベルになりました。声を支えるフィジカルやメンタルが、弱化し続けているのです。メンタルについて問題と私の考えは「メンタルはフィジカルから鍛える」で触れました。[fukugen 2012/10/01

 

○ビジネスの声の弱化

 

 私は早くからビジネスマン相手にヴォイストレーニングを行っていました。しかし、日本のビジネス界で、本当に相手を論破できる声が必要なのかは疑問でした。声をパワフルに使えているのがよいというのはオーナーや一匹狼のセールスマンくらいではないでしょうか。

 「大きな声を出せるように」と頼まれていた研修も、「心に伝わる声、相手に好ましい印象を与える声」のようなものに変わってきました。

 声は、戦国の武将の時代をピークにして、武士→軍人→会社員(モーレツサラリーマン)と弱体化してきました。

もう弱いために「語尾まできちんと言えるように」、「何をいっているかわかるように滑舌をよく」というレベルで

す。日本の公の場での言語環境の歴史については改めたいと思います。

オフィシャルな場での最低限の声、声かけ、挨拶、電話、会議、プレゼンにも欠く声が当たり前になってきました。幼少から成人するまでの日本人の発声総量(大きさ×時間)は大きく低下しているので、当然です。

 

〇音声のリーダー喪失

 

 体や心の弱化について、コミュニケーションの問題から取り上げます。一国の人々の声力(言語力―広い意味での)は、その国のトップの声でわかります。日本の首相は、世界で何位くらいでしょうか。伝達力としては間に合っても、敵を説得する力は乏しいようです。

 これまでも、かなり声力のひどい首相がいました。日本は、音声での説得力でリーダーが選ばれる国ではないのは確かです(首相であった人々、田中角栄、橋本、小泉、中曽根、大平、麻生、菅、細川、安倍などの声を比較してみましょう。各国首脳、たとえば、アメリカの歴代大統領、クリントン、オバマ、トランプほか、女性首相なども)。

 相手をやり込めてまで意見を通そうとする説得力、言語力、論理力、声の力が、それほど日本人に必要なかったということでしょう。

 

 福沢諭吉がスピーチを「演説」と訳したあと、自由民権運動と議論が高まりました。そこから団塊世代の学生のときの安保闘争や赤軍派の挫折などを経て、少しずつ、言語の信頼が喪失していきます。今の若者は喧嘩もしませんが、討論もしないでしょう。

 

〇個性化と日本人の声

 

 私は1980年代までは日本でも個人化(個性化)、表現化が進むと、音楽はアコースティックにオリジナルな表現がより強くなると考えました。現実は逆となり、研究所は1995年に得たライブハウスを2002年に手放しました。

 少子化はともかく、若年層の保守化、メンタル、フィジカル面での衰えがこれほど大きくなるとはと思わなかったのです。大きなモノへのあこがれや、大きな欲求の時代は終わり、ささやかな差別化に精を出すようになりました。それも豊かさの一面なのでしょう。安全ゆえ政治は軽視され、有能な政治家は出なくなります。世界に出ていけるアスリートは、戦前教育のようなスパルタの親が育てているといえます。

 

○状況共感時代へ

 

 歌手の集団化、スターをつくらないシステムが、日本らしい成功をおさめているといえます。そこでは、演出家、プロデューサーがアーティストです。テクノや機器でしか世界に出られない日本、SEやアレンジャーがアーティストのステージ、客が主役のフェスティバル・コンサートと、アーティストのカムバックブームからAKB48まで、シンプルな図式がみられます。

 デビュー曲にインパクトとオリジナルの表現力の出ていた有能な歌手が23年たつと、ありきたりの歌い方になります。海外から戻り、日本のステージをやるにつれインパクトがなくなるMCが多くなり、客に寄り添う共感型(ブログやツイッター型)になる、それが日本のもつ文化でしょう。それを打ち破るべきアーティストがそれに迎合してしまうのです。

 

〇対人スキル

                                                              

 欧米でのリーダー、スターは、ステージ上から自分が思うように客を動かせる人です。感動させること、未来、あるべき姿を伝える人です。歌手も役者も、牧師もゴスペルをみたら同じとわかります。ヴィジョンによって人心はまとまり、盛り上がり、行動します。狩猟の手順でもあり、家畜や奴隷の支配の方法にも通じます。

 そのために声を使うのです。正確に論理的にことばを使い、相手を説得します。正論をもって人を説き伏せます。

 民族の交わるところで鍛えられた人の対人スキルのレベルの高さです。私は、外国人に接するごとに、驚かされてきました。言いたいことは言い、くだけたり、脅したり、褒めたり、諭したりしつつ、目上にも目下にもフレンドリーで変幻自在なおしゃべりで、当初の目的を達成します。

 私たちが、立場をふまえ、相手をみてその出方に気遣い、反論を避け、雰囲気をこわさないように努めるのとは対照的です。彼らからは、そういう日本人の「和」の文化は、あいまいで、「どう考えているのかわからない」となります。何も考えていないのです。日本語もそういう性格を持つ言語です。この一例として、私は日本のシンポジウムで最後に必ず対立が解消されたかのように終わること=日本特有の儀式としてみています。

 

〇日本語の弱点と場の空気☆☆

 

 日本語を使わない方が外国人だけでなく、日本人同士でもはっきり意思を伝えられます。日本語よりも強く声に出しても相手が傷つかないからです。日本語は相手を気遣ってハッキリと意思を伝えない言語、かつ音声の使われ方までも弱く、あいまいにして、それに従っているのです。私は、愚かなきまりと思いつつも、楽天などの英語の社内公用語化のメリットをここにみます。

 

 日本語のことばのあいまいさは、取り上げるまでもないことでしょう。でも、「はい」は、yesでなく、「はい、聞いていますよ」ということです。「わかりました」も同じです。「もういいよ」「いいですね」は(よくないよ)です。

 

侵略され、ひどい目にあったことがないから、ことばに寛容といわれます。イヌイットやモニ族(ニューギニア)など、世界では少数です。

謝ることで責任を徹底して追及され悲惨な目にあった経験がないからです。

 農耕民族で同質性が高く、以心伝心で「察する」文化といわれるゆえんです。場の雰囲気や面子をたてるため、思いやりにあふれ、情緒的といわれます。

 場という集団的な雰囲気=空気に逆らえません。鶴の一声に逆らえず、問題が大きくなるまで止められず、それがしばしば、悲惨な結果を招いてきました。

 それでも責任者は追及されないのです。第二次大戦も原発も、今の政治支配も同じ構造です。

厳しくジャッジする第三者がいないのです。日本は司法をもマスコミも第三者でなく、政党も一党です。

 中根千枝氏が、「たて」の構造社会で指摘した自分と身内をウチ、それ以外をソトとする構造です。他の国のように「自分(自我)―他人」でなく自分は場(自分、まわりの人)、人と人の間にあるのです。

 

〇大道芸と宴会

 

 コミュニケーションとは、見知らぬ人、育ちや考えの違う人への説得ツール=言語となります。自分の考えを意識化して、言語化して伝えなくてはいけないから、言語=論理になるのです。

 ステージも、この個と説得する相手としての客の対立図式です。通りで箱の上に乗って、通りゆく人に呼びかけて、その人の足を止め、そこで聞かせ続ける大道芸人型です。

それに対して、日本では、歌は内輪のもの、宴会芸です。カラオケも前者から発展した後、この形に落ち着いたわけです。客=ファン=身内=場なのです。客は、従順で安心、安定した存在ですから身近なMC中心がよいのです。「勝負」でなく「共感」の場なのです。お互いに気遣い、よい感じに終わらせます。日本では、不調でキャンセルするアーティストはとても少ないです。「熱が出ていますが」でも出るのが、レベルが落ちても支持が得られるのです。いわゆる「甘えの構造」です。

 

〇日本人は会話だけで対話がない。

 

 今の時代、日本で、観客の想像にゆだねるアングラ劇や不条理劇は成立しにくいです。楽で安心して見られるミュージカル仕立てが流行するのです。歌もインパクトがあり、声がよく歌がすごいのよりは、身近に感じられるステージがよいのです。叫ばずにつぶやく(ツイッターやニコニコ動画)にも、無記名(匿名)であんなに書き込む努力ができるのは日本人だけでしょう。

 これは今に始まったことではありません。クールジャパンの一端をなすのです。

 日本人の海外の文化の柔軟な取り入れは、日本語の成立をみても明らかです。中国語や英語が和語と対立は起こさず、二者択一を避けて全て受け入れてから、自然な流れで選択されていくのです。カタカナでの外来語受容は特殊なものです。一方、インドなどでは、部族言語が多すぎて共通に使える英語に頼るため、英語力がつくのです。

 

○声のオーラ

 

 私は、世界が日本のようになるのが理想です。しかし、現実には国家単位とその対立で世界が成立しているので、日本人も21世紀前半はナショナリズムに立地せざるをえないと思っています。そのモデルとしての他民族社会の世界、アメリカ合衆国に幻滅し、ユーロ圏も崩壊していくでしょう。まだまだ時間がかかるし、危険も大きくなりそうです。

必ずしも世界中が日本のように子供っぽくなるのがよいとは思いません。それが平和ということなのでしょう。世界には日本たるようアピールすることに努める力としてクールジャパンをみています。女子供化、メンタルもフィジカルも戦えなく弱くなったら…です。多くの国はそれで滅びました。

 

 私は言語としての限界を日本人らしくよく知っていたので、それで示される世界よりも音楽や声を重視してきました。日本の歌はストーリー、歌詞、物語重視です。それゆえ、その他での完成度が低く、声もいまいちです。

 今のミュージカルやJ-POPSにも「立派な歌詞」のうさんくささを感じています。でも声力が歌詞を上回れば、ことばを超えた音楽となり、その問題はなくなります。スピーチでさえ伝わるのは、ことばや内容を支える声のオーラでした。

 日本のアーティストは概して草食系です。その理由もわかるでしょう。歌詞の部分でも、自分―他人でなく、自分=身内(場)で成り立っているものが多いのです。半面、欧米の弱点は、自分―他人の対立での孤独に耐えられなくなってきていることです。グループカウンセンセリングなどが日本人には考えられないくらい、処方されています。

 欧米の設けたリング、スポーツにしろ、アートにしろ、そこでしか鍛えられないとしたら、それは、おかしなことです。

 和道、日本の芸の多くは、自分=身内が場でありながら師弟構造を有しています。役者養成所はサークル化に伴い、趣味の場になりつつあります。一億総セミプロ化の時がくると1985年頃言いました。レッスンにおいて、そうなってきているのが現状です。

 

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