1.ヴォイストレーナーの選び方

ブログ移動のお知らせ

2023年7月より、「ヴォイストレーナーの選び方」は、「夢実現・目的達成のための考え方と心身声のトレーニング」ブログへ移動になります。 引き続き、ご活用ください。

「出口のコントロール」

○出口のコントロール

 

 ヴォイトレは、言われたような声を出すのでなく、自らのなかにそれを感じて取り出すのです。出口をコントロールするのではありません。出口の前で、すでにコントロールされていなくては何ともならないです。

 それを司るのは外からの指示でなく、内なる感覚です。

そういう意味で多くのヴォイトレが、「ヴォーカルコントロール」と私が称したように、出口でのコントロールだけを学ぶようになっているのは残念なことです。

 その教え方は、言われたように声を出させるのです。それは感じたままに声を出してうまくいかないから一つの手段として、( )に入れてやることなのです。この( )は、やり方も期間も人によってさまざまです。

 私が「ヴォイトレの方法論は、机上の空論で考えても無意味」と言うのは、トレーナーの数とレッスンする人の数以上に組み合わせがあるからです。入口としての自覚をもっていればともかく、出口、目的となっていることが、とても浅いのです。

 

○コントロールするものとは

 

 自分の心身や周りの環境は常に変わります。そこに適宜に応じていきます。曲や発声が変わるのに振り回わされず、他の条件の差よりも、自分のなかでの差を大きくしていくことです。その積み重ねによって、あたかもしぜんのように、おのずとそうあるように振る舞えるレベルへ向上します。

 届かない音高や広すぎる声域に振り回されて、できた、できていないと言っていても、大して意味はありません。音が出せたとしても、まるでできてはいないからです。

 とはいえ、( )付で試みたり、結果としてどうなったかのチェックとして行うのはかまいません。目的なのか、目標なのか、結果なのかも明確にすることです。

 

○ふしぜんに

 

 どこかのレッスンをやめてきた人には、声を出してもらったり、歌を聞かせてもらうと、ふしぜんなので、すぐわかります。それは、( )の時期だからなのです。

 ヴォイストレーナーや声楽家は、一般的に、他の人の教えのついている人を嫌います。最初から自分が教えたら、こんなにふしぜんにならないと皆、思っています。お互いにそう思いあっているということです。

 他のトレーナーのレッスンを辞めてきた人をみていても、自分のところを辞めた人を、他のトレーナーがどのようにみるのかを知らないからです。

 この問題については、「あとで大きく効果の出るレッスンほど、最初はふしぜんになる」のがあたりまえと思えばよいのです。このふしぜんさは一つの型の囚われです。あるレベルにいくまでは、外れないし、それもよしとするのです。

 

○型のしぜん化

 

 武術の基本の動きを参考にしましょう。その演武、型をみせてもらうと、初心者ほどふしぜんです。上級者になるのつれ、美しくたおやかにみえてきます。師匠になると、型と思えないほどしぜんになっているのです。それを身についたといいます。

 ヴォイトレの問題は、武術やスポーツなどと比べるとわかりにくく、すぐれていることの判断が難しいことに尽きます。声ゆえに分かりにくいということです。

 ( )が外れないまま、トレーナーや本人が( )をつけたままでよしとすることです。こんな初歩的なことを私は言い続けています。他の分野なら、1年目にあたることをスルーしているからです。

 第一線の歌い手も知らないし、知らなくても歌えたらよいわけです。歌や声を教えるとなると( )に入れることを目的として、疑うこともないのです。よくあるレッスンメニュは、ほとんどそれにあたります。

すでに世に通じている人はよいのですが、その人以上の人が育たないです。本人も( )のためにやれている、つまり、限定されているのです。それを外しにくるプロもここにはいます。大いに期待しています。

 

○ど真ん中

 

 トレーナーは、自分の型ではない型がみえるのが嫌なのです。理解できないか、理解しようとしたがらないのです。そのまま自分に置き換えてみると不快だからです。それは、歌手の感性からです。

教えるには自分に置き換えて相手の状態をつかみます。中途半端な型の上に乗せるよりは、その型を外すことから始める方が楽なのです。

 教え上手の先生は、カラオケのうまい人のくせをはずして、下手にしてから伸ばしていきます。

 レッスンの場やトレーナーを変えた人の多くは、前のところでは身につかなかったから「ゼロからやり直したい」と言ってくることが多いのです。そこはトレーナーと意見が一致します。「最初からやり直しましょう」となりがちなのです。相性とか方法が合わなかった、で片付けてしまうのです。多くのケースでは「よいトレーナーに会った」という根拠は、「やさしい、親切、わかりやすい、自分を認めてくれる、評価してくれる」という、トレーニングとはほとんど関係ない要因です。ホスピタリティ、サービス精神に通じていることは、教える人としては大切ですが、何よりも大切になってよいのでしょうか。

 

○鋳型と自己流

 

 型は、土台ですから、完成に近づくまで、中途半端でしかないのです。そこをどうみるかが問われるのです。私は、どんな型も元の型のように考え、できるだけ活かそうとます。そうでないと、研究所で他のトレーナーたちの方法と両立できません。いろんな生徒さんがいらっしゃるので、いろんなアプローチがあって当然です。

 その理由は、よくも悪くも最初についたトレーナーの型が鋳型として大きな影響をもってしまうからです。私はできる限り、肯定できるところから始めたいのです。

 トレーナーにつかずにやってきた自己流、我流、自然流、天然流にも、私は寛大に対応しています。自己流も他に教えられたものも同じくらいにその人自身のど真ん中の声から、それていることが多いので同じです。

どちらにしても、浅く、程度として低い状態に変わりないのです。自分独自に試したり誰かに教わって少々違う方向に偏っていても大した問題ではありません。

何をしても見えていない分には偏るのです。そのなかから、是とできるものをみることが大切なのです。偏りは、大きく見ると無視できる範囲です。それよりもど真ん中の声、ど真ん中にくるであろう声をみることです。

 

○型と不条理

 型を守ることばかり教えられると、その型から出られなくなるものです。型とはいずれ、型から出るための型なのです。意味があるとするなら、崩れたときに戻れるところとしての型です。本来は「いつでも外せる」「脱げるように」と教わるとよいです。いえ、「いつか外す」いや「いつか外れる」です。

 名師匠は、抜けたくなるような窮屈な型を押しつけるのです。それが言動や生活にまで求められると不条理な抑圧ともなります。退路を断ち、一心に打ち込める覚悟を迫るのです。

 ゆえに、型は、ふしぜんを通り越して不条理なのです。理で求める人を拒むのです。「型破りはよいが、型なしはよくない」よく言われることばです。

 

○腹筋不要論について

 

「腹筋を固めるな」「腹直筋を鍛えると呼吸や発声によくない」と言われ出しました。そういう質問に、私は「世界一流レベルにでも近づいてから考えたらよい」と、にごしていました。考えるに値しないことだからです。言わないほうがうまくできるし、よいように働いていくものだからです。とはいえ、何回かは、具体的に答えてきました。

 インナーマッスルや体幹がブームになった頃から、外側の筋肉を固めると内側の筋肉がつかないという流れできたのでしょう。

 筋肉や体幹について、一般の人がよく知るようになったのは、悪いことではないのですが、それを理論として、頭で考えて体を働かそうとすると、伸びやかにトレーニングをする人よりも悪い結果となりかねません。

 言えるのは、ボディビルダーのように筋肉をつけたからといって、あるいは、腹筋が100回を200回できるようにしたからといって、発声と関係ないということくらいです。そういう苦行トレーニングの先に、よい発声や歌唱があるわけではないということです。

 今さら言うのもはばかられるのですが、舞台で声を出すのに、腹筋が普通の人並みにもいらないなどということはありません。ヴォイトレにおいて、そういうことばを受け売りして、頭でっかちになってはよくありません。

 本人が足らないと感じたら補えばよいのです。むしろ、足らない、補わなくてはいけないと具体的に感じられるほどの高い目標をセットすることを、レッスンで行うことでしょう。身につける必要性を与え、身につくようにしていくことです。

 

○理由を知りたい症候群

 

 「どうして、こうしなくてはいけないのですか」という問いは、以前はさほどありませんでした。今や何事についても、その理由や結果を前もって知ることを求める人、それを知らなくては行動に移せない人、続けられない人が増えました。

 研究所は、本の読者から関わる人が多かったので、理屈先行タイプが多いのは確かです。それでも、かつては「聞くのは失礼」とか「聞いて答えてもらったところで何にもならない」という思いや直観があったのでしょう。いい具合に、聞くべきときに聞かれたように思います。

 実際には、そう簡単には答えられないこともあります。答えようとすれば、教科書的な答えとして、です。私は、そういうとき、答えないことが多いです。何でも答えてしまうことは、よくないことです。今はよくても後ではよくないことと、今はよくなくても後でよくなることのどちらを取るかならば、私は、後者を取ります。そういう人が少なくなったのです。

 正直なところ、「こうしなくてもいけないことはないのですから、こうしなくてもよいですよ」「なら、好きなようにやりなさい」でもよいのです。でも、それではアドバイスされた人が困るでしょう。「その理由は、私もこうしてやって、できたからです」と言わなくてはいけないのなら、信頼関係もないでしょう。

 一つひとつを疑われては説明を要するなら、レッスンの多く時間が失われます。それによって、もっと得られるものがあればよいのですが、失われることが多いと思います。それが安心感になるというのなら、もっとよくないことでしょう。

 

○説明の限界

 

 「レッスンで説明を受け、納得できたら家で自分で練習します」という考えの人もいます。そのために、私は、誰よりも本や会報で、ことばにできるところを残してきたのです。ブログにもQ&Aを入れています。

 あなたを安心させるだけの説明なら、いつでも何でもできるのです。ただ、あなたのことを充分に知らないうちに、こちらの模範解答や正解を与えても、決してよい結果になりません。ただの知識欲で、自己満足になりかねません。それでは、レッスンの意味がないのです。知らないうちというのは、今のあなたの声でなく、将来の声や歌の可能性のことです。

 自分の考える正しさは、誰にも通じるものだという確信をもって、あるいは、自己暗示にかかってトレーニングを始めるトレーナーは少なくありません。あるやり方がレッスンの真骨頂だと思うトレーナーであって欲しいとも思いません。

 「こうしなくてはいけないのでなく、こうしたいからです。あとは自分で考えなさい」と。

 理由なしにはできないと思わないことです。そういう問いと答えをたてたら、大した成果をもたらさなくなります。私の指導の体験から言っておきます。この世界にいると、奇跡はけっこう起きるのです。説明がつかないから、魅力的なのです。

 

○メニュという型

 

 メニュとは、一つの型ですから、繰り返して、何かを身につけていくために使います。そこには元より説明できるものは、さほどありません。ノウハウとしてのメニュをたくさん集めても仕方ないでしょう。一つの型を材料としてどれだけ使えるか、そのために判断力を高める基準づくりに重点をおきましょう。

 多くの人が期待しているような、絶対に正しい方法や、魔法のような万能のメニュはないのです。あるとしたら、心身を目一杯使って元気に取り組むということでしょうか。

 自己表現の結実である歌でさえ、一つの型の表れにすぎないといえなくもありません。型に人は惹かれ、ファンは魅了されるのですが、その型を忘れさせるレベルを目指して欲しいものです。

 私の示す、わけのわからないものにどう対処するか、どう対処できる能力をつけていくのか、でしょう。その力を養うのが、実践に通用するレッスンです。そこでしぜんにこなせていれば、こなせるようになっていけばよいのです。

 そんな疑問ばかり出る人は、うまくいかないものです。出し尽くして忘れましょう。考えてはいけないのです。考えてしまうなら考えましょう。これは、そのためのアドバイスです。思うように歌えないことが多いのです。レッスンでは、疑うことよりもイメージを大きくすることです。

 誰にもできないのではありません。誰でもできるのがメニュです。しかし、できたようでいても、できる人からみたら、まだまだできていないのです。ふしぜんなままなのです。

 

○レッスンの目的

 「こんなことできない」とか「こんなことおかしい。やる必要ない」と思えば降りればよいのです。レッスンにきたからやらされるのです。嫌なら自分の思うように歌っていればよいでしょう。

 思うように歌えないのは、多くの場合、そこまでやっていないのです。やり続ければよいのです。そのうち、自分一人では思えなくなること、イメージが広がらなくなること、そこからがうまく対処できないから、レッスンの意味があるのです。イメージを決めて読み込んでいく、それも可能性を高める方向にイメージを持っていくのがレッスンなのです。

 世の中にはこんなことをやらずに、プロになった人もうまく歌える人も魅力的な人もいます。そういう人たちは、この型を与えられても、あなたよりもうまくこなすでしょう。あるいは、別の形をとって凌ぐでしょう。そのあたりを踏まえ、チェックをシンプルにできるように一つのメニュとして示しているのです。

 でも、なかには、型にまったく対応できないのに、すぐれたアーティストもいるでしょう。スポーツや楽器ではありえないことも、声、ことば、歌ではあるからおもしろいのです。これは、述べようもないということです。

 

○ことばは、イメージのため

 

 腹筋について、本来はトレーナーが「やれ」とか「やらなくてよい」とか「やってはいけない」とか言うものではないのです。あなた自身が、発声しているなかで不足を感じたらやればよいのです。それを100回とか200回とか、何分間とかを、絶対的に正しいかのように定めるのはおかしなことです。でも定まらないとやれない人が多いから目安として与えているのです。

 自分なりにやっていくなかで綿密に定めていきましょう。呼吸トレーニングなども同じです。

 あるトレーナーは、秒吸って12秒吐くのを勧めています。15秒で一回、1分で4回、根拠もないのですが、その人なりに続けやすいところからです。たとえば、覚えやすい秒数という理由でもよいでしょう。

 トレーナーの言語の力で、受け取る人のやり方や効果は大きく違います。

 私は、「吐いて吸う」というように言っていますが、「吸って吐く」というのを勧めるトレーナーもいます。経験でそうしている人もいます。多くは考えずに、教わるままにそうしているトレーナーもいます。言語の力はイメージを導くのにとても大切です。トレーナーのキャリアや実績は、こうした使い方一つでわかるものです。

 

○セットしてから

 

 いろんなメニュに大した根拠はありません。必要に応じて、その日の心身に応じて、セッティングするものです。このセッティングの能力を磨かなければいけないのです。学ぶことなのです。それを対面して、できるレッスンで学ぶのです。

 すぐれたトレーナーは、その日のその人の状態と理想、目的のギャップの間に即興的にメニュをセッティングします。その段階までいかないときは共通のメニュをくり返します。同じことのなかで、わからせていくことに時間をかけます。

 質問の多くは、何と答えても、やる方は頭でっかちになり、発声に役立ちそうもないです。トレーナーが熱心に真面目に応えると、そこから抜けられなくなるのです。

 あなたのことを思えば、最初から答えない方がよいことが多いのです。でも、「自分の体に聞いてください」と言われると困りますね。「それがわからないからトレーナーに聞くのです」と言われそうです。トレーナーにもわかりません。練習がそこまで達していないからです。不安なく取り組ませることが必要なときは、そうするのです。

しかし、本当はすべてわかっていると勘違いしているトレーナーの方が問題です。トレーナーが予定しているくらいの上達なら、今や、自主学習で充分できます。トレーナーが予知できないレベルで、その人から何が出てくるかを問えるようにセットするのが、本当に意味のあることです。

 お互いに研究のできていくようにレッスンをセットします。勝負はそこからです。そこまでは、淡々とトレーニングしていけばよいのです。

 

○プロセスに入る

 

 声が身についてくる道筋は、本当のところはわかりません。ここにはトレーナーが十数人いて、メニュやプロセスを説明もします。それは本人自身の経験とこれまでの関わった人との経験をもとにしているにすぎないのです。

 それが、あなたにもっとも合っているとは限りません。細かくみると、異なるのがほとんどでしょう。異なるのに同じにするのはトレーナーの都合、レッスンがやりやすいからです。それも大切です。合っていることがベストではないし、合っていないからといってよくないわけでもないのです。

 トレーナー十数人とやっていると、一人でトレーナーをするよりも比較が容易にできます。その人の個性もつかみやすいです。基準も、厳格かつ柔軟になってくるものです。

 自分の考えに近い人も遠い人もいるのがわかります。より多くのことを、早く気づいて学べるようになるはずです。近い人より遠い人から学ぶ方が大切です。自分だけでは学べないものだからです。そのような人には、トレーナーも生徒さんもこの研究所が向いています。

 

○結果で修正

 

 トレーナーや専門家の紹介もしていますが、あなたとトレーナーとの関係は、これからの月日をみていかないと、本当のところ、わかりません。大体は、縁のようなものですから、私の思ったままにいくのです。何割かは期待以上であったりするし、何割かはうまくいかないときもあります。この、うまくいかないケースを認めているようなスクールやトレーナーは、少ないでしょう。求めるレベルが高まらなければ、誰とでもうまくいくのです。

 やっていくなかで、プロセスをみて、あなたの声だけでなくプログラム自体を修正していくことが重要です。トレーナーとのやり取り、特に、レポートは大切です。私も目を通しています。

 わからないことをわかったことにしていくと、わからないことさえわからなくなるのです。そこをはっきりとさせています。とはいえ、あなたが何年後かのあなたをわからないように、私たちもわかりません。でも本人のあなたよりもわかることも多いのです。

 語学学習なら習得のプロセスに大体の予測がつきます。声は、これからどういう生活やトレーニング時間をとるのかによって、かなり違うものです。レッスンも毎日のトレーニングや過ごし方で大きく声に影響するからです。

 一人で悩むよりも、トレーナーにアドバイスを受けましょう。自分で悩まず、トレーナーを悩ませて、言われたようにやっていく方がよいのは確かです。具体的に結果が問えます。修正しつつ方向が定まるからです。

 

○同じものと新しい自分                                       

 

 私の本は、ほとんどが同じ内容を伝えているものですが、書くごとに表現が違っています。編集しただけにみえても、必ずトレーナーと私の現時点での持論が入っています。現在進行形です。

 それと同様、いつも、同じというのが型です。それを求めていらっしゃるのでよいのです。

毎回、本の内容やレッスンのやり方が変わっている方がどうかと思いませんか。メニュは同じでも、それをどう使うのかが肝心なのです。

 そこが、今、ここにきている人とのリアルでの橋渡しのところ、過去でも海外でもなく、あなたと、私やトレーナーの感覚や体から言語化されたものです。そこでは日々、変化します。そのなかからアップしているのです。

 

○くり返しだけではない

 

 レッスンのほとんどは、ことばになりません。言語化されないことがほとんどなのです。そのなかで、こうして同じことを繰り返し入れていくことと、ことばも型もできてくるのです。

 イメージや思考は、体の型と同じように大切です。なぜなら、ただのくり返しだけでは、身についたとしても、その先に行けないからです。やればやった分だけ誰でも身につくところまでは、時間と引き換えに得られます。その先に行くためにレッスンはあるのです。

 身についたもので対応するのと、それを壊して、新たに創造するのとは次元が違います。そこでは、自分のなかのものを出すだけはありません。自分のなかにあると思わなかったもの、すごいものが出てしまったというようになってこそ、価値があるのではないでしょうか。

 創造的なことのために、どういうレッスンが必要か、もっと考えてもよいのではないでしょうか。

 

○少しの違い

 

 「少しの差」からものごとは、決まっていくものです。音楽でのリピートでの快感の積み重なりは、まさにそうでしょう。同じことがくり返されるから、ちょっとした変化に敏感になり、感覚も高まるのです。興奮して感動できる状態がもたらされるのです。

 レッスンやトレーニングも同じです。同じことのくり返しから、ほんの少しの変化から快感になってくるのが理想です。そうなっていかなくとも、その「少しの差」がわかってくれば、まずはよいのです。

 同じことをやることで、慣れからくる安心感や、継承した感じだけで充実し、満足するのではありません。そこから出てくる、あるいは気づく「少しの差」に新しい自分の可能性を嗅ぎつけるところに本意があります。それは、心身の感覚センサーのなす術です。

 この働きを助けることがレッスンの第一義です。これを邪魔して、トレーナーが自らの指示に従わせることがレッスンの目的であってはいけません。それは、そのためのプロセスの一つだからです。

 未来への一歩、「何ができた?」「何ができる?」は、このわずかな差に気づくことにあります。それをくみ出すことが、芸です。だからこそ、同じメニュを真剣にくり返す必要もあるのです。

 

○目的とスタンス

 

 レッスンやトレーニングは、必ずしも本質的なところに落ちていないと思うこともあります。体もそのために鍛練し、テキストも、そのために学ぶものなのです。

 あなた自身は、私やトレーナーの考えと違っていてもよいのです。でも、同じことを行ってみないと本当の違いもわからないのです。先人の残したものを充分に使うことです。トップレベルで使えるようにしていくことです。

 「少しの違い」に敏感でない人は、すぐれたアーティストになれません。トレーナーとしても未熟です。

 他人に、自分とは異質なものを発見し、そこを拡大できるようにしていくことです。大半の日本人はそれが苦手です。同じことができるようにして、他人に合わせることをよしとするからです。特に、トレーナーには、トレーナーゆえにそういう体質に染まっている人が多いので要注意です。

「歌の判断について」

○歌の声

 

 カラオケの点数のように表面上の判断でうまくなるというのは、ピアノでいうと自動演奏ピアノの演奏です。それは、子供や習ってすぐの大人よりはうまくなるでしょう。ミスもなく、メロディ、リズムも正確です。しかし、そのコンサートはありません。いや、イスにモデルが座っていたら、日本ならありうるでしょう。

新車発表のコンパニオンやレースクイーンの役割のようなものでしょうか。本来、ピアノのコンサートは、ピアニストの個性、演奏のオリジナリティを聴く人が観客だからです。

 バイオリンあたりになると、日本人の判断は怪しいどころではないでしょう。歌は怪しいどころか、口パクもありですから、果たしてどこまで歌や声や本人のオリジナリティで評価されているものでしょうか。ただでさえ人の声とことばは、楽器の音や演奏のように客観的な比較は難しいのです。ですから、歌に限って述べます。

 これを、音程、リズム、発音での判断となると、論じるレベルが下がります。そこはカラオケの先生やヴォーカルのアドバイザーに任せて、まっとうに歌えるという判断でいきたいものです。

 今のヴォーカルの大半は、シンガーソングライターであり、作詞作曲、自演ですから、現実的にはアレンジやステージパフォーマンスまでの総合点となります。私はこれらのうち、声からの歌に、声からのパフォーマンスに限定します。

 カバーアルバム全盛時代となりました。しかし、それらもスタンダードナンバーでの実力、オリジナリティを比べるものとして使えます。

 

○声のよし悪し

 

 声のよし悪しは、どのくらいの問題になるのでしょうか。

 「ガラガラ声でカエルのよう、と叩かれた。大事なのは真実を語っているかどうかだ」(ボブ・ディラン、2014年グラミー賞のプレ・イベントにて)

 オペラ歌手の評価ではないから、声の美しさはあまり関係なさそうですね。声だけでなく歌詞の内容や曲、ステージなどもトータルとした世界観、それによってアーティストたるものが決まってくるのでしょう。しかし、私が述べていくのはそういうところではありません。ヴォイトレをする人にとっての考え方、取り組み方、学び方です。

 どんなアーティストからも学べるのですが、何を学ぶかでしょう。声やその使い方について、ボブ・ディランは、あまりお勧めしてきませんでした。トム・ウェイツなどと同じように、声やその使い方でなく、作品において声の存在感とアピール力として参考になるとしてきました。

 声のよし悪しなどは、歌でつくりあげていく音の表現の世界にとっては、ツールに過ぎません。声として発声としてあまりよくないとしても、アピール力があれば使える武器として、喉や発声の弱点さえ、長所にできる例は取り上げてきました。

 私の本には、出していなかったヴォーカリストをあげると、忌野清志郎、綾戸智恵、吉田拓郎、玉置浩ニ、桑田佳祐、松任谷由美、中島みゆき(以上、敬称略)など。長く続けているアーティストは、ほぼ入ります。ヴォーカリストやシンガーよりアーティストと呼ばれる人たちです。

 

○声力と耳力

 

 外国人ヴォーカリストの例として、エディット・ピアフの見出したアーティストを聞いてみましょう。シャルル・アズナブール、イブ・モンタン、シャルル・デュモン、テオは、この順で声力、歌力がすぐれています。ジョルジュ・ムスタキなどは、別の流れに思えます。

 有名とか無名ということでないのですが、耳の肥えた国、聴き手が自立している国では、大衆の好みや支持、つまり、人気とアーティストの実力は一致します。日本でも1960年代まででしょうか。ポップスの台頭時には、あるところまでは一致していました。

 ラジオとレコードが歌を大衆化させたのですから、ルックス、スタイル、ステージパフォーマンスよりも、声力、歌唱力が評価として優秀でした。歌を耳だけで判断していたのですから、あたりまえのことです。今やオペラでさえ、ルックスやスタイルの問われる時代です。耳の力が落ちていくのは、当然といえます。

 

○考え、悟り、知る

 

 歌を聞いて楽しむのに頭はいりません。しかし、歌っていくには、誰しもが感覚だけでよくしていけるわけではありません。聴いては感覚をよくし、歌っては、そのよい感覚で向上させようとしていくのは、ベースのことです。

 トレーナーは、プロで長年歌っている人の声を聞いて、声そのものでなく、歌、あるいは歌だけでなく歌詞やメロディやアレンジ、演奏にまで言及せざるをえないときもあります。声で解決するのは、根本的で時間もかかるし不確かなのに対し、アレンジや演奏での解決を加えるのは、確実で負担が少ないからです。ヴォイトレは、そういう方向で使われるのが普通といえるのです。

 「今はこうで、このようにしたいからこういうトレーニングをする」というところを、声のところで納得させるのは大変なことです。時間や練習量、その他の事由でそこまでいかないケースもあります。

 その際、「今はどうなのか」をどう伝えるか、は難題です。トレーナ―が「このようにしたい」と好き嫌いで言っても仕方ないでしょう。「このようにせざるを得ない」というケースが少なくないのです。ともかく、将来のイメージを歌い手に描かせ、トレーニングの方向を一致させなくてはならないのです。

新たな挑戦の場合、トレーニングの結果がどう表現に役立つかもわからず、見切り発車のときもあります。およそは、経験に基づき、そこから修正しつつ、みていくのです。何事も決めつけはよくありません。

 

○若いときのような声にする

 

 元に戻すとか回復ということが目的でいらっしゃることも多くなりました。よかったときの音源があれば

・可能か不可能か、あるいは、その可能性

・それによって得られることと失うこと、もしくは出てくる問題

・どのくらいで結果が出るか、あるいは判断できるか

などについては、およそ、わかります。

 

○これからの声

 

 これからアーティストになっていくような人は、結果として、何かしら声を出して使っていくのですが、それをどのように活かしていくのか、何をよしとするか、この2つを経ていくわけです。

 最初は、状態を調整します。欠けているものがあるなら補います。どちらにしても呼吸など条件づくりを併行します。オリジナルな声は誰しももっています。余計なくせを除けば、そのうち引き出せます。問題なのは、そこからの動き、フレーズとしてのオリジナリティです。

 プレイヤーのいう自分の音とは何かということです。この音には、音色とともにフレーズの変化、動きが含まれています。プレイヤーのいう「自分のタッチ」です。それを求めてトレーニングをするのは、ここでのレッスンならではのことでしょう。

 

○トレーナーとプロデューサーの判断の違い

 

 アーティストは、自らの練習や活動のなかで、感覚的に聴衆の求めるものを出していきます。自らのやりたいものと人の求めるものは、必ずしも一致しません。

 トレーナーとして、私は本人のものを重視しますが、プロデューサーは、お客の求めるものを重視します。これもあたりまえのことです。

 そのときに、切り出す作品の演出にかけるプロデューサーと、安定した高度な実力をつけて、生涯安定してよい状態で声を出せるようにしたいトレーナーとは、対立する関係です。仕事ということでは、売れてこそ将来もあるのでトレーナーが妥協しがちです。すぐ得られる効果と評価をみているのでは、長期的なハイレベルを理想の追求に専念できません。

 アマチュアや一般の人の方が、その自由があるので、私は一時下野して、一般の人との試みに専念していました。その間、音楽業界、特に歌い手や音楽プロダクションは、浅い声での安易な音づくりで売れ線を狙い、結果として、自らの首を絞めていったともいえるわけです。

 

○プロとアマチュア

 

 私は、趣味の人やカラオケ通いの人に伝えたいことはありません。私は、カラオケの好きな人ほどの曲数の歌は知らないでしょう。プロの歌い手も自分の歌を歌っている分、他の人の歌や流行などを歌が趣味の人ほど知らないこともあるでしょう。

 どこかの分野について深く詳しいのがプロで、浅く広いのがアマチュアです。もとより、歌うことにおいて歌手はプロであり、声を育てることにおいて、ヴォイストレーナーはプロなのです。

要は、それをどこにとるかというのが重要なのです。トレーナーは、サポートをプロに対しどこまでできるかが問われるのです。

 

○声で型になる

 

 人の感情に働くように声が導かれる、するとそれが一つの型となり、馴染むようになってくる。その味わいが細かく分かれて通の人が出てきます。マニアックになると、それについて行けない人は離れていきます。新しい人も入ってこれなくなります。

 聴くのがうまい人もいれば、語るのがうまい人も出てきます。ちなみにトレーナーには、聴けることと、語れることの才能も必要です。歌い手は歌えればよいのですが、トレーナーは歌い手に歌ってみせるのでなく、イメージをもたせる ことが、より大切です。そこで、ことばやジェスチャーを使えなくてはなりません。相手が低いレベルならカラオケの先生のように歌って口伝できますが、目的が異なります。

 クラシックは、そういうプロセスを体系化しました。例えば、ABAのソナタ形式という型で構造を捉える。しかし、ポピュラーでもAメロ、Bメロ、サビなど、どんなものも型にはまってくるので似たようなものです。

 ここで私が聞くのは、型に声をはめるのでなく、声で型になる、そのプロセスを歌い手がとっているかです。体からの息や感覚で型の元にある本質的なもの、人の感情を動かす動かし方になっているかです。

 

○歌なのかという疑問

 

 クラシックの評論家は、伝統をふまえた共通の知識、考え方を基に、先例も踏まえて評価していきます。しかし、私は、過去でなくそのときに起こしたことでしかみないのです。一声10秒でも作品とみるのです。型に囚われた形を守るがゆえ、退屈極まりない歌とたくさんつきあってきたからです。

 私は、歌は歌が消える、いえ、声が消えて歌の世界に表れること、声でも声が聞こえなくなってこそ最高と思っています。歌わなくてもよいところまで歌が使われたり、声が使われるのは、我慢できないのです。

 歌を愛していないと、歌に対して厳しく判断を下せないと思います。「歌はすべてすばらしい、歌だから」という人たちがたくさんいるのはよいことです。しかし、「それは、歌なのか」という疑問をもつことがあってもよいのではと思います。

 

○歌の存在価値☆

 

 ある状況において、歌えない―そういう体験は、日本でも世界でも少なくなかった。日本でも大きな不幸がありました。しかし、そういうときに、今一度、歌の存在意義を考えてみることができたと思うのです。

 私がそのときに考えたのは、自由に歌っているような歌など、ないということです。

 常に、歌は、限られた時空のなかで人間と関わって存在しています。たとえ声を出さなくとも、歌わなくとも、そういうものとしてあるのです。

 ならば、声をあげるとは、歌を歌うこととは、そこに何を試み、出そう、伝えようとするのかです。他の人に伝わるとき、どんな声もトレーニングの次元を超えたものになります。トレーニングをしたから、それができるようになるのではないのです。そういうことからトレーニングの無力さをも感じることもあります。

 それゆえに、私は、ヴォイトレとは何なのかをいつも考えるのです。そういうものではないのでしょうか。

自由に歌を聞くことができない。トレーナーを選んだときから、あるいは、歌い手を選んだときから、そうなる覚悟をしていたのだろうかと考えるのです。

 

○バイアス

 

 自分の生まれや育ち、そこで聞いてきた歌とそうでないものとは、受け止め方が違うのは、当然のことです。その時点で聞かなかったとしても、同じ時代の歌なら似ているので、後に知ったとしても入り込みやすい。そんなことで、その人の好きなジャンルやフィールドがつくられていきます。

 これまで好きで聞いていてもその歌に飽きることもあれば、突然、あまり聞いていなかったり好きでなかった歌が好きになることもあります。いつの間にかということもあります。

 そして、10代のころまでに実際に聞いた歌も、その後に知ったその当時の歌も混ざっていくのです。親の撮ったアルバムの写真と、自分の記憶との区別が曖昧なように、です。

 

○ジャンルなどない

 

 とても困るのは、「自分はどのジャンルの歌が合うのか」とか、「ジャンルが別の発声や歌い方を教えてくれ」と、今でも少なからず言われることです。まだ、具体的な曲名とその歌い手を挙げてもらえたら、それなりに相違点を見出して伝えようもあります。

私は、ジャンルを認めていません。

 

○マイクがあること

 

マイクを使わないものは、使うものより、声を支える体に問われる条件が厳しいとはいえます。マイクをごまかしで使わないなら、厳しさのレベルでなく、要素が違うということです。しかし、ごまかしか、効果か、フォローか、テクニックや表現かというのは、厳密に分けられるものではありません。ステージから多くの人に聴かせること自体、特殊なふしぜんな状況ですから。そこで声楽的発声か、マイクかを選ぶのなら優劣はつけられません。

声なので届くこと、声量、共鳴については、基本の条件です。優先度は、重要度で違うということです。ただ、クラシックは、世界の中でも特殊にかなり思われます。それで全世界に広まったのですから。

 

○歌の分析

 

 歌の分析は、分析である以上、ことばで行うので、いつも歌詞が取り上げられてきたので、そこは私は省きたいと思います。メロディやリズムも楽譜上での解説はなされてきたので、そこも省きます。そんなものは、作詞作曲した人の今日における評価です。歌い手やその声の使い方で、何とでもなるのです。何とでもしてきた歌い手の力と声に学ぶようにすることです。

 

○言い換えより声の力

 

 よく、「ことばを言い間違えると失礼になる」「ことば遣いでモラルとか好感度アップ」などということがいわれています。知らない人とのメールでのやり取りでは大切ですが、電話でも会話でも、声の使い方やパフォーマンスでどうにもなるのです。無愛想な表情で、こもった声で何を言ったところで受け入れられにくいし、若くて、はきはきしたことば遣いなら、周りは楽しくなるのです。ことばと間ほど、声については触れられてこなかったように思います。

 マニュアルでも、ことばの言い換えはわかりやすいのですが、声の感じはわかりにくいでしょう。自分の声と違うから、動画でみてもなかなかギャップが埋まらないのです。見たり聞いたりして直るものなら、それなりに生きてきたら直っているはずです。

 生まれや育ちの環境からくる影響も大きいのです。同じように育っていても違うタイプもいるのです。ですから早く気づくことから深く気づくことへというレッスンが、ヴォイトレの目標です。それゆえ今回のテーマも大切なものなのです。

 

○通

 

 コーヒーをあまり飲まない人には、コーヒーはおいしくないか、体に合わないのかもしれません。昔、マクドナルドのコーヒーはまずくて、起きぬけや体調の悪いときに飲むと、気持ち悪くなりました。しかし、気にせずに、おいしいと飲める人も少なくなかったのです。コーヒーが好きな人は飲めなかった。でも好きでも飲める人もいたのです。

 昔は、日本のコーヒーはアメリカンとホット(ブレンド)くらいでした。モカとかキリマンジェロとか出てきて、酸味とか深い煎りとかを教わらなくても、味覚の軸ができて細かく分類できるようになっています。

 店や淹れる人によって、豆によって、同じモカでもピンキリでしょうが、それぞれに好みも出てくるし気分とオーダーの組み合わせも出てくる。つまり、少しずつ、通になってくる。その通くらいに判断ができ、淹れ分けることができないとバリスタは務まりません。

 味覚と聴覚は別なので、この例を歌や音楽の鑑賞にそのままあてはめられませんが、それでも、好き嫌いの他に、深い、浅い、(コーヒーの味ではない)通である、ない、センスがある、ないなどはわかってくるものでしょう。

 

○育ち

 

 昔は、両親、先輩や友人、兄弟の聞いたレコードから好きになって、音楽の道に入ったという人が少なからずいました。「三つ子の魂百まで」です。わからないうちに量として入ったものが基礎となっているのです。

 歌手もトレーナーも他の分野のプロと同じく、一流になった人の伝記や生涯の研究をしていくとよいでしょう。作品から入ってライナーノーツを読み、特集番組などを見る。デビューからたどっていくといろんなことがわかります。時代、家族、育った地域によるだけではないのです。どんな人、どんな作品と出合ってきたのかは、押さえておくポイントだと思います。

 私は、いらっしゃったときに、好きなアーティスト、影響を受けたアーティスト、必要に応じて本人の声のことについて聞きます。これは、その先を歩むための大きなヒントです。今のその人の声や歌がどうしてこうであるのかの裏付けになるからです。

 メンタルからフィジカル、姿勢、歩き方、行動、性格、考え方、価値観、DNAまで、声には全てが影響しています。育ちを聞くと今の問題をよりしっかりとつかむことができることが多いのです。初回から誰にでも詳しく聞くことはあまりありませんが…。

 

○音の聴き方

 

 私は、最初、プロデューサー、作家と仕事をしたので、自ずと彼らの聴き方を学ぶことになりました。そこで自分の聞き方の偏り、あるところに対しての、バランスの悪さや弱点を知りました。聞き方が確立するには、発声がそれなりに身についたあとも丸々10年かかりました。その後半は、ヴォイトレとステージの狭間で実習しました。

 例えば、ここの研究生への聞き方、450人の研究生の後ろから同じものを聞いて比べる、10人ほどのトレーナーの聞き方、研究生やプロの歌唱へのコメントと比べて学ぶなど、研究所で実践してきたことです。

私の研究する場としての研究所の公開による研究現場の伝承が、レッスンとして大きな役割を果たしてきました。

 自分の聞き方に囚われず、自分の聞き方も違う聞き方を学んでいくことです。一流のアーティストの歌から、特に、彼らがスタンダードを歌うときにつける変化から、それぞれのアーティストの本質を学べます。

 なかでも5人ほどのアーティストからは、その感覚にのっとれば、私にはわからなくとも、このアーティストなら、「こう言う」「このように歌う」とか、あたかも憑依するようなことができるようになりました。どんなすぐれたアーティストもそうして学んだはずです。

 

○耳を移す

 

 自分の聞き方が何に基づき、どういうスタンスなのかを理解すると、いくつかのスタンスにうつしてみることができます。私、多くの別の分野で価値観の違う人ともやれるのは、それができるようになったからでしょう。その人とは「ここは違うがここは同じ」とわかります。そのとき、どこから違うかというところから深いものが学べるのです。そこに興味が尽きません。学べない人は、他の人と違うところを批判し切り捨てます。いつまでも同じところで同じことを言うだけです。

 この分野では、自分の好き嫌いだけで自分の耳の聞き方だけを絶対視している人が少なくありません。それでは、時代や別のシチュエーションにも他の人にも対応できないのです。

もとより、自分と異なる人を育てていくのがトレーナーです。なのに、自分と同じにしようとしているのはなぜでしょう。一つには、多くの人がそれを望むからです。そこを変えることです。

 ときおり、外部のトレーナーの人が、よい問題をもってきます。そのとき好き嫌いで判断していることや、その判断レベルの浅いことをどう伝えればよいのか迷います。それでも、疑念をもって相談にくる人は、いつかきっとわかっていくでしょう。疑問にさえ思わないで同じことをくり返している人ばかりですから。

 

○音と声

 

 聴覚は嗅覚、触感に近いもので、深いところにのっています。コーヒーを飲むときは、味覚に嗅覚を伴います。しかし、視覚も関係しています。多くのものは視覚を介して入ってきます。視覚は対象を客体として客観視します。こちらからみて、よいとか好きとか判断します。

 歌やせりふでも絵や書でも、立体的(もう3Dといいます)に生き生きと生命力をもって働きかけてこないものは、私には、芸術でありません。ただ、音や声は、もう少し絡まり具合がややこしい。よいもの、好きなものでなくとも、まとわりついてくるのです。

聴覚は、手で耳をふさがないと拒絶できません。視線を変えるくらいに簡単に拒めないかもしれません。

 嫌な絵がかかっていても見ないようにすればよいのですが、嫌な音楽、それも歌が流れているのは耐えられないのではないでしょうか。

 深く生理的なことだからです。好きな人には触られたくて、嫌いな人に触られたくない、しかし、その好き嫌いは、さして原因があるわけではありません。どうでもよいとき、鈍いときもあれば、敏感なときもあります。気分で判断されるのでは、歌手もたまらないでしょう。因果な商売です。

 

○ビギナーズラック

 

 歌でのビギナーズラックは、ときおり目にしてきました。技術もよくないし、洗練されていないのは明らかなのに、皆が感動せずにいられないものとして現出するのです。

プレイヤーの演奏では、めったに番狂わせなど起きません。楽器に触って1年の人が10年の人を任すような演奏はできません。リハーサルで最高の人は、大体、本番もそうなります。リハーサルでの予想通りかそれ以上のときが本番では多いものです。

 しかし、こと歌い手に関しては、番狂わせはよくあることです。トレーナーは運を天に任せるしかありません。それでも、ポピュラーやジャズが、ときに、決まり切った演奏に慣れたクラシックの人たちの度肝を抜くことがあります。

 そういうプレイヤーが、クラシックとポピュラーの壁など思い込みに過ぎないことを実証します。正確さとバランスばかりを求めて弾いたり教えたりしている正統の演奏家は、素人にそのよさを理解されないことが、よくあります。彼らにとって破格の演奏はよくないのです。彼らにとってよくないだけです。

 

○危機的状況

 

 今、歌屋音楽の壁(影響力低下、不能)についての問題は、どんなものでもよくなったということが危機的な状況なのです。

 よい歌い手がいない、歌がよくないと言いつつ、実のところ、すべての歌がよいという、私の両義性とも似た、いい加減な立場が選択を可能にしました。その間にあるべき豊かな多様性、個人のオリジナリティをスルー、否定しているのです。

 聞く人が「性格のいい人だから歌もいいと思う」というような評価は、人間ですからその通りでしょう。私が関わらないなら文句一つありません。しかし、ヴォイトレをしにきて、歌で世界を切り開いていこうという人がそうとなると、「今の私の歌でいいという人もいるからいい」となるなら、真のレッスンは成り立ちません。しかし歌い手も、実力の維持、回復メインでいらっしゃる場合、声での調整がメインとなり、これがヴォイトレのメインとなってしまったのです。

 健康維持、老化防止のためにいらっしゃる人もいます。そうでなかった人がそうなっているケースもあります。今の私の立場では、何であれ、続けていくのはよいことと思います。

 うまい人が歌っているように歌いたい、カラオケの点数を上げたい―というのであれば、それでよいのです。

 私も、健康法としての歌唱、医療と発声としての研究に関わっていますが、ヴォイトレのど真ん中にはおきたくないと、私的に思っています。

他の人が歌わないように歌いたい―ここではまだ、独自の世界というものでなく、歌唱、発声のレベルでのことです。

 

○へたうま

 

 ビギナーズラックでの歌は、技術的な条件は保ってないし、くり返して歌うとすぐに化けの皮が剥がれます。1回目と同じように聴衆が堪能できる2回目ということはありません。歌の実力というのは、1曲で充分わかるのですが、2曲聞くとはっきりわかるのです。他の歌もほぼ同じと見切れるので、プロレベルの歌にはなりません。

しかし、プロがいつも安定した形をなぞっているようなのが大半の今の日本においては、アマチュア、素人にこそ、新鮮な表現力をもつ人を期待したいのです。

 アマチュアのレッスン、発表会やワークショップなどでは、その人が間違ったところに魅力、個性が出るのです。せりふや歌も、それが根源です。それを高めて感性として表現していくべきなのです。

その根源にあるものがなくなったまま、声でメロディをなぞって、ことばをおいて歌としている現状があるのです。最後までうまく間違えずに歌うことを目指して、それができたとき、もっともつまらない歌になるのです。声や歌を教える人がそれを目指してレッスンしているからです。これでは、台本通りの棒読みです。そのせりふの掛け合いに命を吹き込んで勝負をしているお笑い芸人のインパクトにかなわないのは当然でしょう。

 

○感動を与える

 

 私は音楽や歌で人生を変えられた一人ですから、わかるのです。まさか10代からそのまま続くと思いませんでした。

歌は一曲3分で、人の、人類の運命を変えるほどのものです。今さらここで述べなくてはいけないのかと思いつつ続けます。

 佐村河内守氏の事件が日本中を賑わせました。ベートーベンであれ、偽ベートーベンであれ、音楽を作曲家の人生上の苦難と結びつけたところの商売は、それに乗っかった時点で、買った方も騙されたなど言えるものではありません。

 新垣勉氏のコンサートは、彼の半生のフィルム上映から始まりました。先の告発者の作曲家の新垣さんと別人です。そういえば、都知事選の連続落選で有名になってしまった天災発明家、中松義郎氏のオフィスに初めて行ったとき、会う前に氏の半生のフィルム上映があったのを思い出します。

 ベートーベンが耳が聞こえないのにつくった曲だから、私たちは感動するのではないのです。感動商法が隆盛になって、それにのっかっただけです。満足させるようなことで、プロデューサーが主役となったのは、今に始まったことではありません。

 私たちも作家もアートの製作者も、仕事で感動を与えるチャンスがあれば活かそうとしています。歌手は、その最たるものでしょう。

 

○亡者と職人

 

 「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)ではないが、価格に一喜一憂するのはゲームです。価値そのものは違います。ところが、トータルとしてプロデュースして、トータルとして受け取るサービスに慣れてきた私たちは、一つひとつの価値について鈍くなっています。500円なら許せるが5000円なら許せない―それがおかしくないというなら、金の亡者になっています。虫一匹、皿に入っていて店がつぶれる、そんな日本に生きています。

 つまらぬことに敏感になり、もっと大切なことの鈍感になりつつある、そのなかで生の体からの生の声を取り出す、加工せず、形もつけずに、そこに対していくのは職人技、奇跡にも近くなりつつあるのかと思うのです。

 「歌」というと「マイクは?」というところから一度、抜け出す必要がありませんか。

 

○トレーナーは指揮者☆

 

 私は指揮者を何人か知っており、そのつてで指揮をしてみたこともあります。有能な指揮者は、全体を時間の流れでみるとともに、部分的にチェックします。瞬間に空間でチェックするのです。

チェックというのは、ヴォイストレーナーと同じですが、私は一つの声を聞くことが大半です。ときおり、伴奏と合わせて聞きますが、バンドはともかく、オーケストラ指揮者は何十人もの演奏する音、オーケストラを聴くのですから、糸を紡ぐのと布を織るくらいの違いはありそうです。

 しかし、そこで演奏を止め、一人を指してことばで注意しているところでは同じです。彼らは、歌よりは演奏が対象になることが多いのですが、その音の出る楽器を、指揮者が代わって弾いてみせて教えるのでなく、(ときにそういう人もいますが、プロの前ですべての楽器の見本をみせるは無理です)イメージの言語で注意します。この辺りも似ています。求める音をことばにして伝え、導こうとしているのです。

 プロ相手では、楽譜の説明、表現、技巧、楽曲の説明よりは、指揮者はどのようにもっていきたいのかという曲のイメージ、構想を、個別のプレイヤーの技量を踏まえて示すことが求められます。

 本番では、ことばは使えないので、身体の使い方でわからせていくような指示が出ます。手話のように身振り手振りで演奏のイメージを、頭より体にわからせるようにしています。それが指揮なのでしょう。

 指揮者が使ったことばを私のように残すと、それは曲や演奏の研究に役立つのでないでしょうか。メイキング オブ オーケストラです。

 

○例えについて☆

 

 レッスンの指示は、「~のように」と例えでイメージさせるのが、一般的です。外国人の指揮者は、イメージ言語に長けているように思います。日本では、幼児にピアノを教える先生にそういう人がいます。これもヴォイストレーナーに求められる演出家の資質、ことばのイメージの伝達に関する才能や感性といえます。

 ちょっとしたことばの使い方で、まったく相手の身体の動きや発声が違ってくるのです。

 例えば、「息を入れて」「吸って」「息が入るようにして」「お腹におとして」「お腹を拡げて」「筒のようにして」など、使うことばで随分と結果が違うものです。原初のイメージを踏まえるとよいと思います。ことばは、つくられてきた理由があるのですから。

レガート つなぐ→legare縛る 結ぶ

スタッカート 切る→staccareちぎる はがす

ポルタメント すべらす→運ぶ ひきずる

ルバート 速めてゆるめる→盗む 先取りする

アレグロ 速く→快く 朗らかに 浮ついて

 

○歌

 

 「まさに歌だった」「まさにせりふだった」といえるほどの歌やせりふを、どのくらい聞いたことがありますか。それがあってこそ、せりふでない、歌でない、音楽でないということもはっきりします。チョコなのにチョコでないとしたら、それは何ぞや…といったようなものです。

 それはトレーニングに関わるものとして必要なのであり、トレーニングで向上しようとするなら必要でしょう。それで楽しもうとするだけなら、必ずしも必要とはならないです。

 

○本場、教養主義

 

 これまで歌について、本質を悟る人の不在を嘆いてきました。クラシックには酷評をする批評家がいました。ポピュラー、歌手、歌については、語れる人はあまりいません。批評とされるものを読んでも、紹介やそれまでの成り行きなど、PRといった方がよいものがほとんどです。ただの解説や感想なのです。

 「食べログ」などは、素人でも玄人はだしのことを書いています。料理について、日本人が国際的にもトップレベルというのもわかります。サービスへの不満は、そこまで言うのかと思うほど厳しく、店の責任でないことまで含まれていることも多々あります。おもてなしでなく、サービスの強要の風土といえそうです。そういう否定的な見方が、歌の世界にも入ればよいとはいえません。演奏よりもホールの音響を批判するような感じです。こういうのは海外では、大衆的には成立しないと思われるのです。

 歌や歌手について述べられたものは、ファンかアンチファン、声については、なおさら、ここに取りあげられるようなものは、ほとんどないと思われます。

 その一因として、海外のもののプロデュースに長けてきたこと=演出に長けてきたことと私は捉えています。外国に行けて外国語ができて、他の人より早く日本にもってきた人が認められるという、そんな日本だったからです。

 

○お家芸化f

 

 どんな歌もステージにできる日本の演出技術は、向こうから学んでそれを超えたと思います。とはいえ、未だ、形として見えるのは形としてつくりあげているからです。私は世界中、巡っているので、ディズニーシーでは、疑似的なパビリオンより、最初から人工的なマーメイドエリアでしかくつろげません。擬似は、本場の代わりとしてあるので、本場があれば存在意味はないのです。

 ともかく、こうしたまねとその応用は日本人のお家芸です。歌から声の本質、個としてのアーティストの実力を問うとなくなりつつあります。

 かつて、直に影響を受けた、米軍基地や海外で外国人客を相手にしていたアーティストが多かったのに、客が日本人ばかりになって、薄めて拡散させたようなところがあるのではと思います。ロカビリーあたりからです。街の喫茶店がコーヒーチェーン店に置き換わって、どの街の風景も同じようになってしまったように。日本人ならマクドナルドをやめてモチくえばいいなどと、もう誰も思わないのでしょう。

 音楽が殖産産業、お上からの欧米の技術輸入のようになったのが、日本土着の歌を根なし草にするきっかけになったのです。唱歌、童謡、演歌、歌謡曲あたりまでの和魂洋才で、融合して日本に定着したまでは、それほど悪くなかったと思うのです。ブラジルのボサノバのように、朝鮮のハングル文字のように、人工的とはいえ、定着しつつあったのです。

 宝塚歌劇や劇団四季は、もはやサクセスストーリーとなっています。問題は、そのためにどれだけ何を失って来たかということです。

 

○体、身体、肉感のなさ

 

 トレーニングにおいて「目的―現在」、その間のギャップをつくり、そこを「つくる―みる」で埋めます。ですから、「みる←つくる」、つまり、「みる」、そして、「みたところまでつくる」の順となります。

 みた上でつくる人とみえないでつくる人は別です。みえない人は、つくりつつ、みえるようになっていくかです。みえた人も、それがよりよくみえるようになっていくかです。そのギャップの間に、もっと近くにみえる目標をおき、みることができるようにしてあげるのが、トレーナーの仕事です。

 ヴォイトレのレッスンをしなくても、自ら高められる人は、自ずと「つくる→みる」と「みる→つくる」をくり返しています。ですから、それがみえなくなったら、あるいはつくれなくなったらレッスンにくればよいのです。

 しかし、安易に、つくってさえいればそれでよいと思ってしまうのが、日本の芸術教育などです。つくっていればいつか、何かができると教えています。大いなるアマチュアイズムと国民総サブカルチャーアーティスト化は、日本のよさですが。

 何かは、つくればできますが、それがすごいものになるためには、そのままの環境では、天才でもない限り不可能です。すぐれた人ほどみることに長けているから、他の人について学ぶのです。

 

○受け身と研究

 

 20世紀になり、レコードやラジオで、プロの作品を聞けるようになりました。すると、これまで、音楽を素人なりにたしなんでいた人がやめてしまいました。周りの人もプロの演奏を買うようになったからです。お金で作品を買うようになったわけです。

次に、作品が大量生産で安くなり、少数が聴衆として楽しむ音楽から、大衆が消費する音楽となりました。カラオケのよさは、自ら選んで消費していくことにあります。予めプログラムされたものをこなすゲームマニアと似ています。

 身の回りにある声や音楽を聴いて体が動く、それが他の人の動きとかぶさっていく、そういう中で使われる声や音楽がなくなりつつあります。

 声の純粋化は、文化規範に立ち戻るのか、解放していくのか。地域独自のものがグローバル化されていくのは世界共通です。日本の場合、戦後もっぱらアメリカナイズされたゆえに普及し、大ヒットし、市場をつくりました。が、世界と一体化することなくガラパゴス化しました。

 

○滅びていくもの

 

 「なぜ時代劇は滅びるのか」(春日太一著、新潮新書)には、歌謡曲と通じる問題が問われています。著者は、時代劇の凋落は、つまらなくなったTVによって1970年代後半、古臭い表現と高齢者向けのジャンルという固定観念が植え付けられたためといっているのです。

 伝統芸能に対して新しく出てきたのが時代劇であり、海外から入ってきた翻訳ものが新劇だったのです。歌舞伎は、まだ持ちこたえているし、韓流ものは、日本でも大ヒットしました。私も、現代ものはみないとはいえ、歴史ものは楽しんでいます。生身の人間の迫力、動きや声でもつのです。大河ドラマはみない。それは、ブロードウエイと劇団四季との差のようなものです。

「役者の新たな魅力をみせる」にも役者がいなくなりました。1990年代、役所、真田、中井、渡辺謙あたりで終わっていると、著者は言います。また、名脇役や悪役もいなくなりましたと。

 こういう批評が若い人(1977年生まれ)から出てくるのです。

 その後、人気タレントの演技力のなさ、「声は高いし細い」は作り込みのなさ、演じているのでなく、こなしているだけで、わかりやすくおもしろいに堕してしまったというわけです。ここまで、ほぼダイジェストでした。

 

○わかるとき

 

 しかし、なぜ、人は歌わなくなったのでしょうか。人は音楽、歌を聞かないのでしょうか。

 人間の声とは

 生き物の声とは

 問いは尽きない、ゆえに、声の研究なのです。

 いつかわかるときがあるでしょう。

 

 出会いの意味は、一瞬にして、世界の構造と営みを明かすことにあります。

 そのために、私は声や歌を聴き続けているのです。

 あるときから聞き方が変わる、そのときのために。

「声道」

○精神の力

 

 声は、ことばを伝えます。どんなスポーツやアートよりも実用的です。そこに精神的なものを求めるのもあざといので、私は道とは言ってきませんでした。戦いや遊びがスポーツやアートになったように、声もそうなってきたとは思うのです。武術も、武道となったところでその中に入ったのでしょう。

声は、声明などに代表されるように、神事としての性格を併せもちます。弓道や流鏑馬、古武道などとも似ている気がします。宗教儀式としての声は、体で発するものでありながら、体を超える精神によるところが大きいのです。声における精神力の大きさは、並みならぬものがあると思います。

 それをリアルに知ったのは、美空ひばりの病いからの復帰後の東京ドームのコンサートでした。普通の人の半分も使えない呼吸機能で35曲歌い切りました。その後まもなく逝きました。焼身自殺した高僧の、火中で姿勢が崩れないのにも似た人間の精神の、肉体や物質に対する勝利でした。これが、ごく一例、天才の成す技としても、です。

 

○精神の形

 

 歌い手も、加齢によって共に声量や技術も衰えます。スポーツにも似た限界としての引退があります。その是非を問うても仕方ないでしょう。復帰した人も多いし、それぞれの人生観です。

スポーツでも40代の現役の選手は珍しくなくなりました。種目にもよるでしょうが、それだけ体の管理や技術を支えるツールの発達などがあったのです。しかし、何よりも思い込みからの脱却が一番なのです。ここでも精神が体を超えるといえます。

 となると、体よりも精神を鍛えなくてはならないとなるのですが、体力なしにメンタルを強化するのは難しいものです。体の方がシンプルなので、そこから入るのが一般的です。

 精神修行として歌ったり読みあげるのは、あまりに日本的です。

 ストレス解消やリラックスのために声を出すというのは、健康な使い方でしょう。使い方というと、カラオケも声の使い方です。しかし、声そのものは、使い方ではどうにもならないものとして分けてみると、案外と精神そのもののリアルな形が声にみえてきます。

 気分で表情も声も変わるでしょう。声のコントロールは感情のコントロールです。それは呼吸のコントロールによることは説明がいらないでしょう。ですから、人の説得にも、実際に会って声をかけるようにしているということです。

 

○精神のレベル

 

 戦いとは、敵と対峙しているようであって、常に自分のものとの対峙です。それは、スポーツでよく知られていることでしょう。すぐれた選手、達人は、相手が誰であれ、自分のベストを出せばそれでよいと思っています。まずは、それが前提です。なかには、本番でベストが出せなくても優勝できるようなダントツの選手もいますが、それでは、本心で満足できないでしょう。

 スナイパーは敵の急所に赤外線が当たればOK、ロックオン、射程距離に入ったらあとは方向だけ定めればよし、声に似ていますね。

 声にも距離と方向があります。イメージとしてのことです。実際は音波ですが、ただの音の波とは明らかに異なります。そうならなくては、人の耳には音として聞こえても、意味は伝わりません。

 声には伝えようとする意志が乗るし、聞きたい意志をもっている人との間で成立するのです。それを超えて、成り立つ、そのときがアートになるのだと思います。それは精神のレベルによるのです。

 

○声の凋落

 

 歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふがダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。

 それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然でしょう。私は、日本人として、それを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときです。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことと思っています。

 

○中心の確保☆

 

 発声の理想の状態は、結論からいうと、ゾーンに入った感覚です。我が消えて自分が世界、宇宙の中心という神の媒介のようになった至福感に満たされ、そこに方法も術もないのです。それは、使えるようになるために使うもので、使えた時には消えます。消えないと困るのです。

 声は、出して出せないものより、出していないのに出ているものとなるのでしょう。それを得るためには、考え方でなく感覚と体が必要です。それは、私がフォームと言うものです。構えといってもよいでしょう。

 呼吸法は呼吸として発声法に組み込まれ、発声法は発声として共鳴していくのです。そこでの境はなく、同時に生ずるのです。そこで意識は無となり、感覚と一体になります。その一連の動きを邪魔しないようにするためにレッスンがあるのです。なのに多くのレッスンは、逆に感覚と意識を分けてしまうのです。もっとも気をつけるべき点の一つです。

 

○なくすこと☆

 

 喉をならすのでなく、なっているとしぜんと呼吸も長く使えます。だから「ならすな」というのです。

「喉を開ける」これもイメージ言語ですが、そこで「締めろ」というトレーナーもいます。まったく逆のことのようですが、私からすれば、同じことです。喉はあるのですが、それを「ないものと思え」というのも同じです。

 健康でなくなると体がそれを意識します。痛みがあると体の存在を知ることになります。風邪で喉が痛いときに喉があるのを知ります。すべてあるのは、調子の悪いときです。ですから調子がよいときは消える、意識できないのがよいということです。

 喉も顔も体も呼吸法、発声法、声も歌もなくしてしまうのです。なくせといっても、なくならないのです。そこで意識して、存在を確認します。それがレッスンであり、トレーニングのプロセスです。その後に意識をなくす、なくなったときによしとするのです。

 

○知らずに知る

 

 知らずにするというのは、頭で知らずにということです。気づかないうちにできるようになるということです。それならば、頭が邪魔しないようにする、次に体が邪魔しないようにする。逆の順でもかまいません。理想的には同時にそうなるとよいのです。

 「ヴォイトレなどをしない方がよい」と、ヴォイトレを否定する歌手や役者がいます。それは、こういう意味では正しいのです。そういう人ほど、もし実力者であるなら、ヴォイトレをその名を使わずヴォイトレと思わずにしっかりと行ってきたし、今も行っているわけです。

 理想的な発声をしていたら、深い呼吸ができるようになります。例えば、本当に全身全霊で歌えていたら、ヴォイトレはできているのです。

 そうでない、その他のほとんどの人が効果的に強化するために、筋トレやコアトレのように、そこだけ取り出すヴォイトレがあるということです。そのように絞り込んで集中しないと、普通はなかなか、これまで以上の力をつけられません。ピアノで難しいパッセージだけをくり返し、指を動かすようなことは、パッセージの練習でなく、それに対応できる感覚と体(指など)のためのトレーニングです。それでは雑になるから練習曲があるのです。全体の流れをリズム、テンポも外して20秒くらいでベースの音やコードだけでさらえる練習が基礎トレーニングによいのです。

 

○切り替え

 

 私は、他の人のトレーニングをお手伝いしているうちに、歌、声のなかに何本もの線がみえてきました。あたかも、初心者のとき、歌い始めは何も聞こえず歌い、そのうち、ピアノにのって歌えるようになり、しばらくして、バンドのそれぞれの音やトータルのサウンドが聞こえてくるかのように、です。我ながら鈍いのですが、そういうプロセスがあったおかげでしょうか。歌一曲のライン、Aメロ、Bメロ単位のブロックのライン、1フレーズ(ブレス)単位、そして1小節のなかと、4つくらいは同時にみたり、切り替えしてみたりできるようになっています。

 メロディ、リズム、ことばという3つでは、歌のトレーナーは皆みているはずです。ただ、そのために声をみなくなっていることが、よくある話です。

 

○プロのヴォイトレ

 

 楽譜通りに歌えない人ばかり教えていると、もう、正しさを100点として、そこにいかに近づけるかがレッスンになります。音楽の基本3つの要素を正しくするのがレッスンの目標となるのです。

 プロとやっていると、そこは超えて、歌唱力、その解釈と表現に集中できます。一流に対して、初めて声そのものの問題に入れるのかもしれません。そこでは、音楽、歌、声と3面からアプローチしなくてはならないのです。

 ですから、CDだけもってこられてもレッスンが成り立つのです。ある歌のレッスンでは、もっともよいテイクだけ、あるいは、最も悪いのを持ってきてもらいます。前者はコメントですべてのこともあります。後者はそこからのレッスンです。

 

○思いっきりよく

 

 「無理に出すから痛めるのでなく、中途半端に出すから痛める」というのは、メンタルの弱い人はわかりにくいことです。恐れてやると怪我をしやすいのと同じです。メンタルが声を引き出す、心身一体でこそ、超えられるのです。そういうことは、どこかで経験して欲しいものです。他の経験の方がずっとわかりやすいです。

 昔は、役者は養成所でそういった体験を、よくも悪くも全身全霊で声に対しても試みて、何か出せた経験からスタートしていました。なかには喉を傷める人もいましたが、こつをつかむ体験となりました。今は、お笑い芸人の方がそのあたりを学んでいます。

 うまくいかない人は、イメージかメンタルかフィジカル(喉)に問題があったのです。それを知ったら、そのままには続けないで、無理せず丁寧に練習を重ねていったらよいのです。上位の人との心身の差を詰めていけたら、次にそこにワープする経験を積める可能性が出てくるのです。

 

○究める

 

 声の使い方としては、ピアニッシモや丁寧さから教えるのが今の風潮です。それは喉を壊した人へのフォローとして、あるいは、自主トレで声を酷使しすぎて荒れている人へのレッスン内容です。

 レッスンのときしか声を出さない人には、歌のためのバランス調整にしかなりません。一時間しか歩けない体力の人にサッカーを教えているようなことで、そういうレッスンもあってよい、とは思います。しかし、普通の人なら、がんばれば、何か月かで10キロは走れるものです。75歳くらいまでなら容赦しなくてもいいです。あくまで例えで、10キロ走れても、声とは別なので無理に走らないでください。

 大きく出せるからこそ、小さくも使えるようになる、それが原則です。一見、誰でもできるものにみえるものほど、究めていくのに難しいのです。中音域やアの方が、中級者レベルでは高音域やイ、ウでの発声よりも難題となるのと同じです。

 

○体を使う

 

 知性や理性、悟性でつかむものは、形です。体を使えば土壌ならしはできます。耕すことの毎日から、いつのまにか芽が出て花が付きます。そのときに、何の花か、どのような美しさや大きさかは知らなくとも、そのときに種がどこからか入っていたとわかるというものでしょう。花を夢みることと、大切なのは、土を耕すことです。

 

○ゾーン

 

 ゾーンとは、ある時間のある感覚で、それですべてであるという決定的なものです。それを得た人、感じた人、みたけど逃した人、少なくともその存在を知る人は、こういうことを理解できるでしょう。

 読まなくてもわかっているから読まなくてもよいし、わからない人は読んでもわからないから、読んでも仕方ない。なのに、なぜ、読んでもらうのかというと、わかった人が確認するためと、まだわからない人が、そのときにこれだとわかる、あるいは自分でわからなくても、誰かにそれだと言われたときに否定してしまわないためです。「こんなものは、違う」とこれまでのレッスンや自主トレーニングなどでの観念やイメージによって判断しないためです。自分勝手に自分の限界をつくらないためです。

 

○つかむ

 

 必ずしも、真実の声は瞬時にわかるとはいえません。まったく異なるから、次元が違うからです。全体を完全につかんだときならともかく、部分的にそのきっかけだけが来ることの方が多いからです。その断片を早くから組み合わせていける人は少ないものです。私は、そのときに見逃したり気づかなかったり、「それだ」と言っても、「そんなはずがない」と思ってしまう人を見てきました。指摘しても気づかない人もいます。

 勘を磨いていくこと、そして、いつかのときに備えてください。

 

○よい声とは

 

 よい声について、発声ではよく言われている次の例が具体的でよいかと思います。

1、 自分では大きく出していない、よく聞こえない声

2、 響いていない声、自分にきれいに聞こえない声

普段の練習の目的とは全く別のことが、ここでは言われています。1はとても小さく、2はとても大きい声のように思います。しかし、これは同じ声なのです。いつものあなたの声と次元の違う、レベルアップした声なのです。本人が気づかないゆえに出さないし、目指さないような声です。そのため、自主練習中には、ほとんど気がつきません。一人では身につかない声こそ、求められている声なのです。(声楽の人はこれをマスケラということに当てはめてみてもよいでしょう)

 

○声の芯とパワー☆

 

 これまで自分に大きく聞こえていた声は、喉で内耳に響いてうるさく、外には拡散する生声やこもり声、だんご声です。その判断ができることが、よくないとされるほとんどの声からの脱却のポイントです。

 鐘をきちんと叩けば、強くなくとも、その響きを邪魔しなければ、遠くに響くということです。理屈では、初心者でもわかることです。しかし、実際にといえば、ほぼ間違えてしまいます。

きれいにバランスがとれて共鳴したように思う声は、小さな部屋ではよく聞こえるが、大きなホールでは遠くへ届かないのです。拡散しないようにまとめ、絞り込んでいると効率はよいのですが、そこでパワーまで抑えてしまった結果、おとなしく落ち着いただけの声になってしまったのです。日本人が、よく誤解して目指してしまう声です。困ったことに、教えている人がそれを勧めるわけです。でも、それも一理あるし、きっかけや一歩になることもあります。カラオケの上達を目指す人にはわかりやすく、よい教え方ゆえに、それは限界が早く来るのです。

 響きを邪魔しなければ強く奏でる方が届くことを忘れているのです。いや、今となっては、もはや指導者も含めて、あまり経験してきていないのでしょう。

 トランペットなども、小部屋でうるさく汚いほどの音の方が、広いところに出るとぐーんと伸びて、ただ美しいだけでなく、心に響くものになるのです。例えとして適切かどうかわかりませんが、ジャストミート打法であり、同時にホームラン打法であるというもの、それを目指すことです。

 

○流れ

 

 「自分はもっている」と言える人も、ときたま、いるようですが、フォームづくりまでは、プロセスとして用意します。決定的なものとして、つかみ直すのには、白紙で臨むことです。

本当の意味を知るのに、いつも邪魔するのは、頭、思い込みや偏見、固定観念です。水泳なら水にのる、スキージャンプなどでは風にのる、みたいなことです。フォームづくりで、一所懸命に心身に働かせるのは、その大きな流れを自らに引き寄せるためです。流れに逆らって力をいくら使っても、尽きてしまうだけです。音楽、歌もまた、流れなのです。

 

○悟る

 

 発声に限らず、悟ることの難しさは、いくら説明しても伝わりません。無意味で空しいものです。ことばにすることで、批判的、理屈となり、独善に堕ちるからです。自ら得るよりも、他人に説明して理解させる方が難しいものです。

 具体的な方法は、いつもいくつも挙げています。それが理論的や具体的ゆえによいとは思わないようにはなったでしょうか。いつも、どう自分に使うかだけが大切なのです。そこを注意することです。

 そのために、批判的な態度をなくすこと、没入すること、無私へ到ることが求められます。それは瞑想のようなものかもしれません。とことん体験していくしかないのです。どう身につけるのかの前に、どう味わうのかです。

 教えないこと、そこで理論的であろうとしないことが、教わりたい人、理屈で考えたい人への誠意ある解答だと思うのです。

 

○捨てる(呼吸法について)

 

 こつを得たい、それもまた邪心です。リラックスしたい、そうできない自分を感じているのでは、どうしても固まってしまうだけです。それを捨てるしかありません。

 それらは呼吸を深めることで、自ら解き放っていくのです。深く吐けるようになるためには、深く吸えるようにならなくてはなりません。深く吸おうとすると固まってしまうのですから、まずは長く均等に吐けるように時間をかけていく、それが呼吸法です。

 勢いよく吐いて体を使うのも悪くありません。しかし、そこは呼吸筋の鍛錬、つまり、体のへ刺激を与えて変えようとしているのです。その必要度を上げて、ギャップをつくり、次に埋めていくプロセスをとるのですから、そこは、しぜんになるまで続けていくしかありません。それもまた、捨てるということです。

 

○荒療法

 

 日常に呼吸を意識しなくてはいけないのは危機的な状況ですから、そこで歌えるわけがありません。ギャップを無理に埋めようとしては却ってうまくいかなくなります。あえて、その拡大版をトレーニングでセットしているのです。それは、無理を承知で無理な状態においているのです。

 これをしぜんに長い年月をかけて発声を習得してきた人や、そこでそういう基礎もなく活動している人がみたら、呼吸法など、やらない方がよいと思うのも当然です。その意見に賛同するなら、やらなければよいのです。

 荒療法はリスクもあります。しかし、待っていられないなら、より高くを目指すなら、挑むのも一つのアプローチです。

リターンは、人によります。でも、体と呼吸は強くしないと扱えません。この強くということを誤解しないでほしいものです。

 

○シンプルに

 

 いくらいろんなメニュや方法を寄せ集めて試してみても、大して役立たないものです。一貫した方向とプロセスがみえていないからです。そこまでは役立たないのですが、だからといって不要ではありません。すぐに役立たないからこそ、本当のトレーンングです。トレーナーはそこを手助けします。

 トレーナーを次々と替えるとしたら同じことです。私は、そのすべてをみえるポジションでトレーナーの方法やメニュ、組み合わせをみています。まず、やらなければ変わりません。シンプルに、そこからです。

 

○習得するとは

 

 トレーナーの方法でよくなったと、それを過大に評価しては依存になりかねません。教わるのでなく、自分が自ら体得したようにしていかなくては、本人のものになりません。時間はかかります。できたとしてもトレーナーから離れると、本人のものになっていないことになりかねないのです。

 

○呼吸と呼吸法

 

 呼吸が深まっていくと、すべて解決する。とまでは言いませんが、呼吸を深めることは、何事にも切り離せないところです。特に、声は呼吸で出しているのです。

 声楽家は共鳴のプロと思いますが、一流の声楽家は、紛れもなく呼吸のプロです。呼吸によって発声も共鳴も習得の土壌ができてくるといえます。

 ここには、バレリーナやダンサーやパントマイムの人が、ときおりみえます。発声でなく呼吸の勉強にいらっしゃいます。呼吸には精神力もリラックスも、あらゆる問題の解決のヒントが隠されています。酸素が血の流れで全身にいきわたるのを待つように、です。

 呼吸法や呼吸のトレーニングが、あまり役立たないように思われるのは、すぐに成果に結びつかないこと、それどころか、一時、バランスを崩すことがよくあるからです。

 いい加減な歌やせりふ、発声はできないようになるのです。だから、今のままがよいとか、少しよくなればよいくらいに思うのはよくありません。それならラジオ体操の呼吸くらいでやめても充分でしょう。根本的に変える必要性がないなら、呼吸法をやっても何にもなりません。そういう人が少なくないのです。

 

○プロセスと結果

 

 例えば、今、最大限の力で持てる重いリュックを持ち上げるときに、呼吸は変わりますね。体の使い方も腰の入れ方も変わるでしょう。それを持って歩いたり走ったりできませんね。でも、力のある人は、軽々と、あなたがハンドバックを持つくらいに、それを扱えますね。それを持って踊ることもできるでしょう。トレーニングとは、そのギャップを埋めるために行うプロセスなのです。

 すでに変わった呼吸では、声は自ずとコントロールされますが、変えようとしている呼吸や変えつつある呼吸ではコントロールできないし、うまく声にならないかもしれません。寝起きにすぐ歌うのは、難しいのに似ています。しかし、プロセスを結果としてみてはなりません。結果を出すまでのプロセスなのです。

 

○小さな質問

 

 大きな流れ、プロセスからみたら、次のような質問は、ほとんど意味をなしません。そのように疑う時点で効果がないし、効果が出にくくなります。結果は続けていくことでしか出てこないからです。

・息は吐き切るところまで伸ばすほうがよいか。

・息を吐いたあと止めた方がよいか。

・声(ハミング、息の音)を出して、吐いた方がよいか。

・息を吸うトレーニングも必要か。

それぞれ、目的や質問の出るレベルにおいて、いろんな考えがあります。私のところのトレーナーもそれぞれに応えています。状況をみて、よし悪しで答えて、それなりの理由をつけることもあります。そう思って答えるトレーナーもいれば、迷っても仕方ないので迷わないように先に進めるためにアドバイスするトレーナーもいます。

 上の質問について、私は、「はい」 でも「いいえ」でも、理由をつけて答えられます。また、その結果のメリット、デメリットも言えます。といっても、それは一般論としてです。相手とその目的が定まっていなくては、ほとんど無意味です。ですが、自分とトレーナーの勉強のために、トレーニングをしている人の疑心暗鬼を晴らすために答えているのです。

 

○特別な呼吸法を知りたい

 

 呼吸は、あらゆるもので扱われているので、呼吸法もメニュもやり方も集めたらきりがないでしょう。特別な方法もたくさんあります。大体、特別というのは、無理ということです。特別なほど、ハイリスクと思えばよいのです。ハイリターンとは限りません。

一人で取り組むと、こうしたハイリスクかローリスクローリターンを重ねていくことのなりがちです。くせだけついて、抜け出せなくなるかもしれません。発声のためなら、自主トレよりはレッスンを受ける方がよいわけです。

 身体がわかってくると、そのトレーニングをやめるあたりで、つまり、捨てるところで身に付く方向にいっているものです。それも踏まえて、何をやってもよいということです。

 

○ふしぜんの理由

 

 「早くしぜんになるためにふしぜんなトレーニングをする」といつも私は言っています。

 しぜんになったとき、トレーニングは日常ということで置き換えられ、消滅するのです。少なくとも、トレーニングのままに、人前に出してはいけません。トレーニング中でも、トレーニングは忘れましょう。

 これはトレーニングということばを技術に替えても、同じことです。しかし、努力やテクニックだけをみて拍手をくれるようなところでは勘違いされやすいので困っています。ハイテクニックを使って歌う技術を教えて欲しいという人も出てくるわけです。

 

○一つになる

 

 どんな方法、メニュも、とは言いませんが、基礎ということで行うなら、やがて声は一つの大きな動きとなります。流れるように柔軟にしなやかに結びついて一つのまとまりとなります。そうならないものは、現実に使えませんから省いていくことです。なのに、そうならないもので何とかしようとするから、後で伸びなくなるのです。

 歌やせりふの中心で声がコントロールできないのは、かまいません。気持ちと声がバラバラになり、両立もできないからトレーニングするのです。目的が高いほど、早く身につけようとするほど、無理がきます。無理とは、トレーニングそのものが無理なものです。無理に対して無理を通すのです。

 なのに、「トレーニングするとしぜんでなくなる」と言うような人がいるのは、おかしなことです。「トレーニング」も「しぜん」も定義して使うことです。そうでなければ、「しぜんでないようになってないと悪いのか」「歌もせりふもしぜんなはずはないではないか」のような反論もできるでしょう。「トレーニングは部分的、意識的であり、それゆえにトレーニングにすぎない」と説明しています。

 一つのプロセス、一つの体、一つの声を分析して、それぞれのチェックや調整から強化をするのがトレーニングです。

 

○オンとオフ

 

 直前に筋トレしてから、バッターボックスに入る人やPKを蹴る人などいませんね。

スポーツのオンシーズンとオフシーズンにも例えると、オンで力を発揮するのにオフでジムに通います。

 特にトレーニングをせずに、それなりに必要な要素を取り込めてきた勘のよいアーティスト、特に20代までが全盛だった歌い手には、そうでなかった人のことがよくわからないでしょう。自分のことも把握していないからです。身についていったプロセスがみえないのですから無理もありません。これはステージでなく、声についての話です。そういう人の話を聞くと「それでは、スポーツ選手も、試合だけやっているのが一番力がつくのでないですか」と言いたくなります。仮に、そういうスポーツがあるとしたら、会社に行っている人のサークルとか、学校の授業のなかのスポーツのレベルでしょう。高校の課外クラブでさえ、今や特別な基礎トレーニングをしているのです。

 でも、何をもってトレーニングというのかは、いろんな見方があります。アーティストですから、ステージや作品をつくり続けること、そこに、みえないけどトレーニングが含まれていたらよいのです。しかし、その人はそれでよいというのと、教える相手がそれでよいと思うのかは、別のことでしょう。

 

○深める

 

 くり返すまでもありませんが、単独での「正しい声」「正しい発声」「正しい呼吸」などはありません。すべては、どう使えるかの程度問題です。ですから、私は、ことばとして「正しい」でなく、「深い」をよく使っています。トレーニングは深めていくプロセスです。

 どこまで必要かは、その人の目的によります。ギリギリ使えるよりは、余裕がある方がよいに決まっていますからハードめにセッティングします。つまり、わざとふしぜんを求めるのです。

 仮に、歌に対応しうる体というものがあったとしましょう。これはローレベルでは誰もがもっています。音痴の人でも声が出るなら歌える体です。

それでは、ハイレベルでプロ(ここでは、本当に声だけとしてみるのですが)として歌える体、誰が聞いてもプロとして通じる歌える体-となると、どうなるのでしょうか。オペラ歌手とか邦楽の第一人者のように、いえ、世界レベルの最高のヴォーカリストの体が、感覚も含めて、その条件となります。そのように仮定して、トレーニングをセットするとはっきりしてくるのではないでしょうか。

 

○高める

 

 ヴォイトレは、「高い目的に強い必要度をおかないと大して使えない」ということです。その必要度は、これもアスリートで例えます。オペラ歌手やアスリートの例を出すのは、今のヴォーカリストでは定められないからです。

 世界レベルのサッカーの選手は、試合で10キロ走ります。その体力、筋力をトレーニングの必要条件が基準とします。ただの10キロを走る体力では無理です。動きも変化するし、猛ダッシュもあるし、1520キロ走るのが最低限とみます。一試合90分、休憩があるから10キロでも充分という人もいるでしょう。でも、延長になるかもと考える。15キロ走れないなら可能性はないと思います。

日本のサッカーを楽しんでいる人のどのくらいかはわかりませんが、シュートやドリブルのテクニックが最高でも、この体力なしではノミネートされません。次の段階で、1ゲーム8キロしか走らないのに得点に絡むメッシの動きに学ぶようにするのです。

 

○地力

 

 毎日のサッカーの練習でしぜんと20キロ走っているという人や陸上の長距離の選手から転向した人なら、10キロ走る特別のトレーニングはいらない、小さい頃から毎日10キロ走ってきたような人も、その日常をキープすればよいことでしょう。つまり、プロの体があるからです。

 それがない人が身につけていくということで、必要なのが、トレーニングの目標です。20キロを目指しつつ、5キロ、10キロでも、今よりよくなれば、それだけプレーに有利になるのです。

 体が資本なのは、皆よくわかっていらっしゃいます。体づくりについて、スポーツでは長い歴史のなかで改良されてきました。一方、アーティストは、表現や媒体なども変えてきたためでもあり、改良の歴史は、まだ新しいし浅いのです。

 声以前に、人前に90分立ち、動くだけでも相当の体力はいります。つまり

1、 手の付けやすいところから力をつけていく。

2、 目的に対して必要な体の使い方を知り、優先順位をつける。

これは、人生の時間の使い方の優先順位に重なります。若いときは、目的がわからなくて、その必要も絞り込みもできないものです。一方、大人は人生を逆算して2をメインにするとよいでしょう。ここでの体力とは、そのまま声力、呼吸力などに置き換えてみるとよいと思います。

 

○鍛える

 

 トレーニング自体、無理をしていると思えば、力の抜き方もわかります。「リラックスしようとがんばっているのですが」それではリラックスできませんね。こんなふうに逆のことをしてしまうことも少なくありません。

 しかし、こういうことは、対立しているようで、長く続けることで解決していきます。慣れによって、しぜんと止場、昇華するのです。なぜなら、がんばらない、力を抜いた、で、リラックスできないゆえにがんばってしまうのです。がんばってがんばって、力を入れていくと、いつかはがんばれなくなり、力が入らなくなり、その辺りからいつしかできるようになってくるのです。

 これは、昔のフィジカルとメンタルを重視したスポーツのトレーニング法のよさです。1000回スイングすると力が入らなくなって、もっともしぜんで理想的なフォームになる。そういう人もいます。ポップスもプロの歌い手の大半は、そんな感じでうまくなったと思われます。合う人にはよい方法です。

 しかし、プロになれた人が言うのと同じことをして、プロになれないのが多くの人です。みていると、よほどのセンスやイメージがないと、結果として、理想に辿り着けません。そういうときは、プロでなく、ハイレベルの一流に学ぶようにすることです。

 

○レベルの向上

 

 カラオケの人の歌のうまさは、あるところまでは練習量での慣れです。その後は、時間と上達が必ずしも比例しないのです。つまり、年齢や練習量に対し、キャリアや実力は、別のものになっていくのです。

 疲れるほどのトレーニングで精神を乱さず、集中力をつなぎ、フォームの把握にとことん厳しかった少数の人が、脱力できてよい結果を残します。そうでない大半の人は、脱力すると崩れたフォームになっていくのです。そうなる前にコーチがストップをかけた方がよいのです。

 バッティングセンターの使い方として、4球みて1球打つ。歌は10回聴いて1回歌う。これは量の時代から質へ入るレベルのときにアドバイスします。つまり、何十球打ったとか、何十曲歌ったという量と時間だけでの充実感、満足感で終わることを戒めるのです。目的を間違えないことです。大切なことは、今のレベルをどう上げるかです。

 となると、コツや技術ではなく、呼吸が全ての根源です。それが未熟かつ浅いものになったがゆえに、歌は力を失いました。お笑い芸人が天下をとりつつありますが、それは、ネタの力だけでなく、まさに声力、深い呼吸の力なのです。

 

○下位の呼吸

 

 呼吸をよくすれば、全てが解決すると思って始めるような呼吸法はよくありません。私は、本には、体―呼吸―発声の順で書き進めていますが、唯一、カラオケの本はステージから書き始めました。

 レッスンは、体や呼吸から始めるときもありますが、歌やせりふ、フレーズを聞いたり、声に出してもらい、そこでうまくいかないところをみていきます。およそわかったら、発声のなかで呼吸をみます。呼吸だけのトレーニングは、その後に触れます。

 多くの人が呼吸(法)を身につけられないのは、その必要性をわかっていないからです。本やレッスンで学ぼうとして、メニュや方法を調べてやっているわけです。最近では生理学や解剖学まで学べます。そういう周辺のことに気を使っているわけです。伝わらないのは、できていないことを知るプロセスがないからです。

 大切なのは、必要性を体でわかることです。体で足りないととことん思わなければ、変わりようもありません。なぜ、すでに“正しく”生きていてしゃべれている、しぜんに一体として使えている呼吸が変わるのでしょうか。腹筋トレーニングの上体起こしなど腹筋と呼吸トレーニングの関連については、筋力は大切ですが、それだけで声に結びつくのではないということです。

 

○上位の呼吸☆

 

 筋トレなら、筋力不足がわかるから、若干の考え違いはあっても、アプローチとしては悪くないのです。体で不足を知るから体が補おうとして力がつくのです。

 私は、相手のことが本人よりもずっとわかっています。しかし、こちらから「呼吸法が必要ですからこのようにやりましょう」とは言えないのです。実用性を本人がわかってこそ効果となるからです。

 若い人には、息吐きトレーニングをランニングのような意味で勧めることもあります。わからないままに過ぎてしまう時間をもっと活かしたいからです。

 呼吸法で身につかないのは、やり方だけをやっているからです。呼吸法のメニュだけをやっているからです。声や呼吸を深めるために呼吸法を使うのであって、呼吸法をマスターするためではありません。とはいえ、それでもやった方がよいのでやってください。

 発声が歌によって音楽性を保った動きになるように、呼吸も、上位のイメージによって声に使えるように身についていくのです。

 ときに呼吸はよいけど、声に結びついていない人が大勢います。日常の声では、ほぼ全滅ではないでしょうか。そこで芯や共鳴の話をしているのです。

 本当は、呼吸の必要性を声から感じる、発声はその結びつきをいかに感じるかによるから、レッスンがあるわけです。呼吸、発声、共鳴と、トレーナーが、先に答えややり方を与えてはいけない例として述べました。

 

○本当の難しさ

 

 脱力からシンプルにしていくことを知ってください。しなやかでも強い、水のようなのが理想です。岩を穿つ雨粒のように、水は一見対立しそうな二つの性格を合わせもっています。二極化と私が述べた日本の声の状況は、同時に二極を統べていこうとする私のトレーニングの本質を表しています。

 達人は、簡単に難しいことをこなします。普通の人には同時にできないこともやってしまいます。器が大きいと別々にならないのです。しかし、普通の人は一方しかみえないのです。その一方だけでも難しいと思ってください。何よりも、本当の難しさに気づくことが難しいのです。

 

○開き直る

 

 うまくできないことや失敗は、あまり気にせず囚われないこと、開き直っていくことです。悩み抜いて悩みが晴れないなら、明るく振る舞うことです。そうでないと、悪循環に陥り自滅しかねません。その底から自らを根本的に変えるルートもあるので、最悪の場合でも心配することはありません。

 深めていくことを妨げるような助言はしたくないのです。努力、苦労、一見すると大きな無駄から態度や構えといった大切なものが現れてくることもあるからです。

 ですから、どうするべきか、何をするべきかでなく、するべきことをする、それでよいのです。することをしないから、迷いが出るのです。それが台無しにしてしまうのです。

 

○ノウハウの浅さ

 

 大体において、頭を使うと、ものごとは分かれてしまいます。その間を行ったり来たりして迷うわけです。高く出すと大きく出ない、大きく出すと丁寧にできない、小さく出すとピッチがゆらぐ…、本当はそこでの問題ではないのです。

 理詰めで考えて、その間にメニュをつくると解決することもあります。ABの間にたくさんのメニュをつくって、ギャップがなくなるように埋めていくのはわかりやすい解決法、つまりノウハウです。いくつか紹介してきました。

 しかし、本当はABは対立するものでなく、解決もその間にあるものではないのです。でも、早くカバーしたければ、それも一つの方法です。本当は一時しのぎの処方で、根本的な解決にはならないことが多いのです。

 すぐに、どちらかをよい、どちらかを悪いと決めつけてしまっていることが少なくありません。

発声として、アはよいが、イがよくないなら、アとイを混ぜたような音を間に入れて詰めていくとよいというのは、ABの間を詰める処理法です。しかし、本当にアがよければイもよいのです。アにこだわったら、イもよくなるのです。

あまり違いにこだわると、失敗やミスを恐れることになります。すると、構えもフォームも呼吸も浅くなり、最低の条件を満たせなくなり、できなくなるのです。

 

○悪い頭☆

 

 頭を悪く使うと悪い頭になります。悪い頭のときは使ってはなりません。そういう頭を使わないようにするのがよい頭です。頭をよくしようとせずに悪い頭を使わなければ、よくなります。

 信じなくてはうまくいきません。うまく活かさないとうまくいかないのです。うまくいくように活かせるのは、その人の実力です。うまくいくところをしっかりとやるからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かします。

 うまくいかないのは、その人の考え方です。うまくいかないところばかりやっているからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かせないのです。それは、そういう人は似た人の言うことを信じるからです。類は友を呼びます。朱に交われば赤くなります。

 あまりうまくなりたいと思うと、それも邪心となり、フォームが崩れます。

 トレーニング中も、あえて、明るくしましょう。それは本番のステージのリハであるからというよりは、ステップアップのための前向きな態度を維持するためです。

 

○あてる

 

高い声に届かせようと、あてようとするとあたりません。あたっても、大してよいものではないのです。魅力的な声でも、表現できるキャパシティのある声でもないからです。カラオケなら届けば充分です。

 ただ、あたればよい、あたったら次にいけるように考えるのが違うのです。それは、高い声コンクールとか、大声大会の目的にしかなりません。あてるのでなく、あたる、いや景品狙いの射的ではないのですから、あてるというイメージもどうなのでしょう。響かせるとか、届かせるとかも、あまり使いたくないことばです。

 要は、部分的で意識的であるトレーニングだからこそ、意識的にセットをしたあとは、できるだけそうならないようにすることが大切です。その意図を切るのです。より深く絞り込むことで、部分的なところへの意識を解放するのです。

 

○出しながらチェックしない☆

 

 高速道路の走行中に横や近くにいる人を確認しても仕方がありません。できるだけ先をみるようにするのがコツです。

 声を出しながらチェックするような人がいます。声は出したらもう出てしまうのです。出し終わってから反省するのはともかく、チェックしようと頭が働いた時点で、すでにそれは違っているのです。途中で止めて、自分でチェックするのは、高度すぎることです。録画でトータルをみて部分的にチェックするならまだしも、同時進行はあまりよくありません。そもそもチェックとトレーニングは、別の目的です。☆

 

○待つ

 

 トレーニングとして、無心に集中する。そうしないと、全体、全身が働けません。その前にどういう目的でどのくらい何をするかということをセットしておきましょう。その結果、次にどうするかということです。

 トレーナーが適切なメニュをくれるのなら、無心に淡々とこなすのがよいでしょう。あまり、できないところを狙ったり、上手くいかないところにこだわり、そこばかりくり返すのはよくありません。中途半端なやり方でのカバーを覚えてしまうと、抜け出せなくなります。それはステージでの特別な技としてもつか、非常手段です。それをテクニックなどと思ってはなりません。

 芸事には待つしかないということが多々、あります。待てることが才能なのかもしれません。考えること、聞くことも回答も不要、下手な考え休むに似たりです。

 

○質問する

 

 質問する人のなかには、質問で解決しようと思っている人が少なからずいます。体で何かをマスターしたという人生経験をもたない人には、とても多いことです。学業優秀、特に暗記反復での成績のよい人などは、そのことを疑いません。

 私が質問を受け付けるようになったのは、質問と回答のやり取りでの、あまりの不毛さからです。

現実にカウンセリングやレッスンでは、コミュニケーションの場として、ことばを交わすこととして大切に思っています。安心しないと前に進めない人への対処法の一つです。答えるのは、トレーナーの勉強にはなりますが、本人のためによいのかどうかは難しいところです。本人が満足するからよいといえばそれまでですし、不満に思うとよくないといえば、それもその通りですが、それでよいのかということです。メールでは、ほとんど役立たないと知った上で、それをも知らしめたくて応じているところもあります。ですから、本当にすぐれた先生はそんなことはしません。それで片付くと思ってはいないのです。

 

○「トレーナー共通のQ&A

 

 何人かのトレーナーに同じ質問に答えてもらう「トレーナー共通Q&A」というのを連載しています。私やトレーナーの勉強にもなります。

 私のところでは、どのトレーナーも、ことばだけで答えても答え切れないし、誤解されることも知っています。答えないと、皆、迷ったり悩んだりして考えるのですが、先に他の人の考えを知ってしまうのもアプローチとして選択の枠を広げているのです。誰かの1つの答えを信じたり疑ったりするくらいなら、たくさんの解答例から自分で考える習慣をつけた方がよいからです。

 トレーナーの答えを聞いて、それを信じてしまうくらいなら、そんなものは100のうちの1つにも過ぎないということを示すとよいと思いました。そこで、わざと比較するようにしたのです。その結果が、同じ問いに対する十数名のトレーナーによる十数個の答えです。

 これを十人の相手に対して、とするなら10×10100の組み合わせができるでしょう。いや、1人に1人のトレーナーが1つのやり方ということではないので、もっとあるでしょう。それが、レッスンでの手取り足取りのアドバイスにリアルに活かせればよいのですが。

 

○没入

 

 声にこだわるなら、生涯、いやとりあえず、今日の一日、この時間は声のことに没入しましょう。我を忘れるほど集中できたときに、ようやく準備ができるのです。この状況をレッスンでつくるのは並大抵ではありません。プロは、瞬時に切り替えることができるゆえにプロです。

 レッスンで、どうしてここまで相手の声、声の裏までみえるのだろうとわかってくると、私も自分が受けていたころを思い出し赤面する思いです。しかし、集中していたので、恥じることも恐れもありませんでした。

そうして素を出すのがよいと思うのです。恥をかきに来るのがレッスンでよいのです。本番で失敗しないためにするのですから。

 

○記録する

 

 私は、レッスンのノートをつけていました。生徒にもノートをとり、トレーナーへレポートを出すように勧めています。トレーナーにもレッスンのメッセージを必ず残させます。日本人に合った勉強法だからです。

それに囚われると、形だけになりかねないのですが、長い眼でみて、今よりも先のために、いつかのため、本人のためにと、考えました。

 先よりも今というのなら、今に専念すればよいので、ノートをとりながらのレッスンは勧めていません。ただ、レッスンの後に思い出さないと、1回のレッスンは1回で終わります。全日制ならともかく、月に数回のレッスンでは、それ以外の日の方が長いし大切です。記録は、いつか役立ちます。

 

○静かなレッスン☆

 

 リラックスしたら、かなりのことができます。多くの問題は、体のリラックスであり、心のリラックスが前提であるのに、それが伴っていないことです。心、メンタルから体が解放されるようにしていきます。

 アーティストにたるみは不要です。人前では、強度の緊張、プレッシャーが伴うのです。緊張をなくすのでなく、それを楽しむことをリラックスといっているのです。

 静かなレッスン、本当によいレッスンは静かです。沈黙の中で、スタジオ内も心の中も真空のようになります。どんな周りの条件にも影響されなくなっていくのです。心地よく感じられます。私は、ゆっくりとしたレッスンを好みます。別の時空を感じて欲しいのです。

 

○型の自由

 

 訓練とは反復のことです。上達とは、それが重なっていくにつれ色づいていくようなものでしょうか。ただ、色づくなかにも、褪せるのも変わるのもあります。鮮やかに発色し続けるには大きな情熱がいるのです。

 日本の芸道は、師の模倣中心で、説明や質疑応答のないものでした。長い時間を経て、師の模範から型が体得されると、初めは堅苦しかったものが、自由な表現のためになくてはならないものになってくるのです。マナーや礼儀作法とも似ています。今でも、専門職の高度な技術などでは、こういう伝授が行われています。

 

○才能と理由づけできるもの

 

 「才能がある」という自信などは、才能のある人たちと仕事をしていくと消えてしまうものです。才能でなく、誰よりも時間をかけてやってきたからできるという、あたりまえの理由をつくっていくことです。やってきたからという理由なら、やっていけばできるようになるという大きな自信にもなります。足らないものに気づいて、それを補って、創り出せるということが実力です。

 

○背景・バックボーン

 

 アーティストなら、自分の正統性を主張したくなるものです。これだけのことをやってきたということからくる自信です。これがよいと本人が歩んだ、いや、歩まされたものを、他の人に押し付けるときに間違いが生じるのです。他人のノウハウ、過去のノウハウは、個人のものです。

 その正統性は、アーティスト個人のものではなく、アーティストたらしめたもののおかげです。学ばせるなら、アーティストその人の人生や方法ではありません。アーティストを通じて、アーティストの後にある、大きな力でしょう。それに触れさせ、そこからの力を活かせるようにセットすることです。背景・バックボーンを整えて保つことです。

 ベテランの船乗りは、弟子に自分の育ちや戦果よりも、海のそのものを知らしめるようにするでしょう。

 

○超える

 

 師は弟子がわかるものですが、弟子もまた、師を読めるようになって初めて、師を超えられる可能性をもつのです。こうした以心伝心は、日本人に限ったことではありません。古今東西、偉大なことを成し遂げた人たちの間ではあたりまえのことです。

 そこでは、あたりまえでないことがあたりまえになるプロセスをどうとるかです。

よい師は、自分を学ばせるのでなく、自分の背景を学ばせる。自分のようにするのでなく、自分を超えることを学ばせようとします。そうした指導者は、ほとんどいません。学ぶ人が先生を選んだり判断するようになって急に衰えました。そうすると、自分が理解できる人しか選べないからです。

 

○技術とノウハウの壁

 

 トレーナーの中には、とことん技術論に凝っていく人がいます。ここで、ときおりお会いすることがあります。そういうときは、せっかくなので、いろいろとお伺いします。私は、本当のところ、技術論、方法論にはあまり興味がないのですが。

 トレーナーにも話を聞いて頭に入れておくようにしています。他のトレーナーや生徒に聞かれたときに、「誰々はこう考えている」とお答えするためです。

 技術で乗り越えようとすることは、正しく学んでいくことを強いることになります。「間違えないように」を目的としかねません。

自らに、自らが強いるのなら悪いことではありません。ただし、他の人をそうして教えるとしたら、他の人に強いることになります。これには、気をつけることです。

 「他人のノウハウは使えない」からです。使うにはその人がそれを開発したくらいの手間がかかるのです。それなら、自分で開発した方がよいこともあります。他人のノウハウを得た上で、自分流のアレンジをすると2度手間になるからです。多くは、ノウハウを吸収しきれないうちに終わります。そこで、私は、ノウハウでなくその生み出し方を伝えているのです。

 

○技術を目標にしない

 

 技術は、質問したり議論したり、自問できるからよくないのです。それを拒むもの、みえない技術ならそれはよいと思います。トレーニングがトレーニングとわざわざ別に言われるように、技術もまた技術と別に言われるところでよくないのです。技術でみせた、とは、本当の達人ならしぜんにみえたとなるのであり、技術がつきまとうなら二流ですから、目標にとるに値しないのです。

 わざわざ目標を落とすことは必要ないと思うのですが、使えるとしたら、最悪のときやうまくできないもののカバーテクニックとして、です。

 

○本技と余技

 

 失敗してよいのはレッスンのときで、客の前には出せません。そのカバーテクニックは、プロの商売道具として、このご時世では必要です。ですから、私も、いろんなテクニックを持っておくことには反対しません。

 しかし、それは中心として学ぶもの、基礎となるべきものとは違います。余技として、です。その区分けがつかず、それを実力やテクニックと思っている人が多くなってきたので困っています。

客が、そういう技術を喜んだり、ブラボーなどと言うからよいと思ってしまうのでしょうか。ファンサービスと割り切っているようにみえないことが多いのですが…。そういう人が多くなると、一時、賑わいます。マニュアル的に早くステージに出られるからです。誰もが似てきて、やがてその分野が衰退します。

 プロセスでは、歌がうまくいってもいなくても、客の評価に囚われず、オリジナリティ、その感覚、それをきちんと剥き出すことに専念したいものです。

 カラオケのエコー全盛で、歌手自身が、そのカバーテクニックを歌と思うようになってしまいました。一個人の歌の力、真の声の力というのは弱くなったのです。

 

「メニュ」

○メニュ

 

 伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、くり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、「息を吐いてろ」ということになるのです。

 今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、丁寧に講釈します。そして、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えたメニュとして出すことになります。

 ですから、メニュなどは、元より形です。何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすい形になってしまうのです。

 そこには大した根拠も道理もありません。何もないというのではなく、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台と思うことです。

 私が叩き台として出しているものをバイブルのように扱う人が出てきて困りました。メニュをやってみただけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。それで水をすくってこそ、使えるものとなるのです。体やその人自身を離れたところに、どんなメニュがあるものでしょうか。

 

○声と体のイリュージョン

 

 体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、ツールとしたら、それはすでに体に一体化している。声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。

 荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり実感は違うはずです。愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。

 子共は、寝たら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量だけで判断するのは愚かなことでしょう。

感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。計量より感覚に基づきます。科学的より想像的であるべきです。

 生きていること、連がっていること、関係と深さです。

 自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっています。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。

 

○声と歌、せりふ、結びつきの強さ

 

 声と歌やせりふ、この関係も、体と声が一体化しているように、距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。一体となれば正しいも間違いもないのです。

 強い声は、ないよりもあったほうがよい。それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまではよいことですが、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。

 体を、筋肉で強くするなら、トレーニングに量と時間をかけることです。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果をベースにしています。歌やせりふで判断するとしたら、量、時間よりは、質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。

 

○トレーニングと一流の差

 

 トレーニングは、確実な地力をつけていくためにします。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保するのです。まさに礎づくりです。

 再現性=基本は、キーワードです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎません。

 一般の人の参加するスポーツなら、怪我をしないで毎日健康に過ごすというのは、最低限での再現性で目的といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。

 毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」は来ません。この関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限って、トレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うばかりで不毛なのです。

 

○くり返し

 

 シンプルなトレーニングメニュでは、その単調さに飽きる人もいます。そのことを無意識に際限なくくり返していくと、意識は次のレベルのものを捉えようとします。少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていきます。それを狙ってのことです。そこまで待てるのかという忍耐力か感覚かを試されるのです。

 メニュをこなして次のメニュにいくというのは、メニュをやっているだけです。何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づきやすくなるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのです。その場合、一通りやり終えた後で、必ずもう一度詰めて行わなければ何にもなりません。

 与えられたメニュをやることで、知らずと自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自の分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてでしょう。

一つには、生徒はトレーナーから教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介することに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。せりふのしゃべり方、歌い方を教えるとなると、尚さらのです。形だけのレッスンになっているのに気づく、そしてそこから意味を問うことです。

 

○剥き出す

 

 レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったようなものが許されるようになれば、それはレッスンではありません。これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思います。

 これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通して気づいたら一瞬にワープできるはずなのです。

 そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、ときに耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。

 生きている、その実感においてしか本当に人に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。

 

○鍛練の注意

 

 鍛錬することで鈍感になってはいけない。これは、体や声にはまることへの注意です。しかし、恐る恐る接するくらいなら、とことん鈍に浸るのもよいでしょう。そこから抜け出さない、抜け出せないなら、それだけのものだったということです。

 教えることで、相手を鈍感にしていく例はよくみられます。教えないことが相手を鋭くしていくのと反対に、です。きっと教わるがために鈍くなる方が多いのです。本人がよければそこまでなのです。それ以上のものを感じられるようになるのかということです。

 なかには、甘え、理屈や言い訳ばかりがうまくなっていく人もいます。周りの影響は大きいです。

 できる人は狐として群れない。ということで、鈍くなるのを防いでいます。組織化すると、どこでも群れたがる人が主流派になります。不毛な集団化ですが、多勢に加わると安心する人が少なくないのです。人数が多いのはパワーにみえます。可能性は高まりますが、大抵は何も生み出さず終わります。同じようなメンバーを結びつけようとする力が強いからです。それも周りの人とうまくやっていける才能と言えなくもありません。このあたりが、本当の意味でのセンスが問われているということころでしょう。

 

○検証

 

 鈍くなると、痛みがきても「そのうち感じなくなる」とか、「いつか明日の糧となる」などと考える人もいます。こういう思い込みは無謀です。無駄は必要であっても、無謀から無能がどれほど生じてきたのでしょう。それを乗り越え、リーダーになった人が、そのプロセスを検証せずに他人に伝承すると、その弊害は大きく長く続くのです。

 ハードなトレーニングは、その見返りを求めます。そのトレーニングのおかげで上達したとなりやすいです。それがなければもっと上達したかもしれないという疑念を消してしまうのです。

 あくまで達したレベルの高さをみるべきです。そこがわかっていないケースが多いのです。歴史をみるまでもなく、日本人はいつもそれをくり返しているように思います。

 

○聞く

 

 言われるままにやっていたら何とかなる、ここにいたら何とかなる、それでは、全く逆のケースをイメージしていないことになるでしょう。言われなくてもやるということでしか何ともなりません。ここにいなくても何となる、その上でここを使うのです。すべてを自らゼロから組み立てるつもりで臨んでこそ、ものになるのです。

 成長の度合いは、その人の目的意識、どのくらいの高み、どのくらいの深みを欲しているのかによります。

 そういう意味では、間違いも正しいもない。人生ですから、その選択のくり返しです。

 伝統や精神論、権威など、形が目隠しをしてしまう。

 だからこそ聞かなくてはいけないのです。自分の心の声などというものでない、自分を超えた天の声です。毎日のように聞こえるはずはない。いつも求めて聞くのです。

 

○精度

 

 毎日のトレーニングが成り立っているという感じも大切です。ただし、そこに頼りすぎるのも危険です。力任せを充実した感じに思うことも多いのです。今でなく将来に対して成り立っているかは予感するしかありません。

 回数や量で再現の力をみるとよいときもあります。しかし、いつも再現できるようなやり方を覚えてしまうことで、くせとして固定してしまうことも多いのです。要は、精度です。

 再現のプロセスをとらずに形をとる。声でいうと、カバーリングするといっても、ほとんどがくせ声なのです。そこで作品がつくれたり評価されてしまうからたちが悪いのです。これは、最悪の状態で失敗を回避する保険です。

 ここで言う再現とは、固定するのでなく、常に動いて、結果としてピタッと同じような形をとっているようにみえるということです。同じということが絶対条件ではありません。そういう意味では伝統と似ています。

 固定したものの方が、細かく見るとぶれてしまうのです。動いているからこそ、定まらないので活きるのです。変じるのです、そういうプロセスには時間をかけることです。

 

○基本の程度の差

 

 多くの人が勘違いをしているのは、基本について、です。教えられたままに疑問に思わず、23年でできていると思っています。23年くらいやっていたような人から基本と言われたことをやっていく。誰もが身につけているもの、動きやフォームのように考えているのです。

 それなら呼吸や発声の基本のできていない人はいなくなってしまう。事実、そうでしょう。だからこそ、私はオペラ歌手、10年くらいのキャリアでの基本あたりを最低ランクにおいています。

 一般の人にも、発声や呼吸の基本を教えるとは言わず、しっかりやっていくと何年か経つと身についている、かもしれない、くらいでアドバイスしています。

 確かに基本といっても、初心者レベル、中学校レベル、高校レベル…など分けられるわけではないが、程度の差があるでしょう。しかし、基本とは、一流の人が共通してもっているものとした方が明確です。多くの人が一生かかっても手に入れられない、身につけられないのが真の基本です。それを身につけるために体やフォームを準備していくのです。

 現実には、完全に身につかなくても今よりもずっとよくなるように、よくなり続けているようにしていく基本が大切です。

基本も必要とされる程度によって変わるものなのです。その習得を妨げる要因が、自己評価、自分で感じてできているという判断になっているのです。

 

○評価と聞く力

 

 みるのとやってみるのは違う。わかるのとできるのも違う。基本を、人に教える前に、まだまだ自らも基本ができていないと考えるのが、人に教える人のもちたい謙虚さです。

 その点で、本当の声、本物の声、自分の声、本来の声と、安易に言うのは危険です。出していて心地よい声、充実する声というのも、そうでないものよりはよいというだけで用心した方がよいです。

 人が評価した声、評価してしまった声の評価の妥当性について、そこまで疑っては元も子もないといっても、声ほど気分や状況や関係で左右されるものもないでしょう。聞く人にとっても同じことです。

トレーナーも人間ですから絶対ではありません。聞き方が並みの人よりすぐれているとも限りません。出すことばかりに専念して、まともに聞くことのできないこともあるのです。

 

○声の実感・快感

 

 声の実感や快感をどう捉えるかは難しいところです。スポーツや武術のように傍からみて評価しにくいもので、大きな問題です。レッスンとしては、実感して快感であってほしいとは思います。

 声でのインパクトとバランスは、相反しやすいものです。聞く人は、バランスをとりつつもアンバランスを欲しているし、インパクトを喜びつつも安定を望んでいます。歌う人やせりふを言う人も同じです。それをどのように合わせ、ずらすのか。この組み合わせと音や声との関係だけでも、こうして展開すると膨大になりそうです。

 

○我と不足

 

 我の出ている話、歌は聞き苦しいものです。自意識は必要ですが、それでは、その人のものであってお客さんのものにならないのです。価値、作品、商品の受け渡しがないのです。いくら声を出しても届いていないのです。それでは、続いてはいかないのです。

 でも、一つ二つの作品なら個性的で、おもしろいときもあります。そのリピートで、それ以上に続けて飽きられるなら、改善するか、根本から変える必要性を知ることです。大体は、一本調子で展開パターンが少なく、絶対的な強み、オリジナリティが乏しいことに当たるのです。

 そして、今の自分ではできないことを知ります。そこを突き詰めていくことで基本のレベルは上がっていくのです。

 レッスンは基本を身につけるというのでなく、基本のレベルを上げていくと思います。トレーナーはそれをわかりやすい形で明示できるでしょうか、そこが問題です

 

○外と内

 

 メニュや方法に私が否定的なのは、それが外にあるからです。内に入れば、もう基本ということをいうこともなく体で取り込まれるから、そういうことばはいらないのです。

 優れた人が現実に対応しようとすると、外界に体が対応するのです。身につけた共通要素が基本とするなら、現実や周りの状況が変じるのに応じる、つまり、基本も変じて応用されるとみてよいでしょう。

 天才肌の人は、感覚からもっともよいフォーム、体、声をつくりあげます。他の人はそうはならないのですから、基本を使い、応用していきます。

 トレーナーも、チェックのときに基本ということを持ち出すと、指導のよりどころになるので便利です。しかし、チェックしてここがよくないからやるというのは、必ずしも合っていません。合わせようとするからです。合うというイメージに感覚が及ぶかどうかです。合うまで続けたらよいのです。本当の型や基本は、マニュアルと対極のものなのです。

 

○トレーナーと違う声

 

 自分の感覚で正しいのに、トレーナーは違うと言う。

 トレーナーは正しいと言うのが、自分のではピンとこない。

 ときたまみられることです。私のところは、23人のトレーナーが担当しているので、そのことを検証する機会をもてるのです。

 どの声が正しいかでなく、トレーナーの判断の違いがどういう価値観に基づいているかということです。このときに、私なら必ずしも「トレーナーに合わせるように」とは言いません。トレーナーの方が経験も耳も肥えているとしても、です。

 ここで正しいと言い張ることを認めたうえで、その根拠を問います。質問するのでなく本人が何をよしとしているかを声そのものでみます。よほどの人以外は、嘘ではありませんが、よいとか正しいという声の範囲が定まっていないと、自分でわからなくなります。

 困るのは、くせ声での快感や個性的という実感です。高く出したりハスキーに聞かせるようにしてつくった声です。大体は体で支えられていないものです。そういうときは、その柔軟性の応用力のなさを問います。しかし、それを使えないというのではありません。区別するのです。

 どれでもよいと思いつつ、柔軟な声に絞られてくる時間を待つ方がよいのです。急かされない限り、私はゆっくりと待つつもりで対しています。ただ、聞くだけでも、少々方向づけたら声は育っていくのです。

 

○主体性のある声

 

 トレーナーの教えに合わせていくのでなく、自分を出していくとトレーナーによく聞こえていくというのがよいと思うのです。

 自ら出てくる声より周りが求める声に合わせようとがんばる人が多いです。これに日本人ほど気を使っている民族はいないかもしれません。 

しかし、もっとも大切なことは、声なのですから、学ぶにしても主体的であることです。

 憧れから入る世界では、自分の声を否定した人が、他人に合わせたがる傾向が強いのでやっかいです。まして、ステージは普段の自分から化けるのですから、そこで自分に向き合う暇などありません。

だからこそ、素である自分、その体、感覚で、声に向き合う場、時間、空間を必要とするのです。

 声は体だけでなく空間に響いているのです。体=宇宙なのです。

 

「感覚について」

○先を視る感覚

 

 運転の教習で「先をみること」という注意を受けると「そんなに先をみるの?」と思うほど先をみるのです。高速では、さらに「もっと先をみること」と言われます。慣れるとあたりまえのことで、先に集中します。横や斜め前など見ても仕方ないとわかります。時間が流れる、その時間は、前に走るときは前からくるのです。時間を空間に置き換えて、視線は先にいかないといけないのですね。

 球技でパスを受け取るのと同じです。先に走ったところにボールはあるのです。ボールを追いかけては間に合わないのです。最初は目に入るものが多く、周りの人やものの動きに気を囚われます。頭で考えて体で覚えることが妨げられます。先を見ないと、体ごと先にワープさせないとよくないのです。

 最初にアクセルを踏み込み、60キロくらいで長く走る講習をやれば、早く走行感覚が体に身につくと思います。あれこれ見ようとせずに先を見て、アクセルをふかして、初めてその世界がみえてくるのです。昔は、踏み込む勇気のない人や女性の運転が危なっかしかったのを覚えています。

 

○体になじませる

 

 現実的には、リスクもあるのでシミュレーションによるでしょう。レベルの違いが、車の運転でさえ、一般の人の周りにもあるわけです。これがF1のレーサーともなれば、想像しがたいでしょう。速度の出せない教習所よりは、自然のなかや空港みたいなところで車を体になじませた方がよいでしょう。一方で、ある点では、ゲームでもシミュレートできます。それを全てと思うと危急の際に何ともならないので、宇宙飛行士などは、万一の対応もできる徹底した心身づくりをするのです。

 車の助手席に乗っていてもコツをつかめる人もいるでしょう。長い道中に、同乗してステップアップした感覚をつかむこともできるでしょう。

 車で例えたものは、体と同じです。一体となって感じるときに、自分自身の肉体と感覚で捉えた心身とは異なっていることもあるのです。私たちは、自分の体を何か行うことにフィットさせるのに手間がかかるということです。

 

○柔軟

 

 柔軟やストレッチが必要ない人もいます。それなりに体力もあり、柔軟に毎日過ごしている人です。スポーツをしていると、自ずとそういった体感レベルになります。スポーツを続けてきた人は、そうでない人がそのレベルに体をバージョンアップして保つことの難しさを知りません。すぐれた選手でない人が一流の選手との違いを埋めようとしたら、そこでさらに徹底した柔軟やストレッチが求められることに気づくはずです。

 部分を強化してほぐして、そこにしっかりとしたつながりをもち、常にしなやかに脱力しておけること、そして最大の力が発揮するようにしておくのは、並大抵の努力では無理です。努力しなくてはいけないというレベルでは無理で、楽しむとか、したくて仕方ないというレベルになることです。

 誰かに強制された柔軟や運動の方が、最初は早く効果も出るのです。それを強制していくと限界までは行くのです。しかし、しぜんに使えるようになりません。強制せず限界をつくらないような別のルートが開けると思ったほうが結果として伸びます。

 

○フォーム

 

 フォームというのは型です。誰しもほぼ共通なところがあります。そこでの限界がみえると個人的にアレンジしていくことになります。音楽のベースの感覚を捉え、乗り越えるのに「一流の共通感覚」を入れるのです。そして、自分が出すときの障害をなくすことです。この障害をなくすのにヴォイトレが消費されています。それだけではないのにもったいないことです。そこでは新たな創造が求められるのです。その底力として、ヴォイトレが効くのです。

 共通に入れるのは、異なるものを出すためです。同じものを食べて同じものが出てくるのは動物です。

 私は、共通として持つべきもののために必要なものを含むもの、そこから学びやすい材料をできるだけ加工せず、生で与えるようにしています。

 料理そのものでなく、新鮮な素材、材料を並べておくのです。包丁の手入れと使い方を伝えたら、それ以上の何も要らない。そこで関係や場ができたら、自ずと引き出されます。こちらから先に与えることはいけないのです。

 引き出された形だけをみて、それを教わったところで何もならない。ですから教えないのです。でも、何もならないことがわかればよいというので教えているのは、よいと思っています。それもわからず教えているのは、教えたらこうなるはず、という考えで固まってしまうので困るのです。

 

○マニュアルの弊害

 

 私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が幾つかきました。「そうならないが、どのようにやるのか」と。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのリストです。最初に漠然とイメージしておくくらいでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいのです。

 姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。

 マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、そこだけでみると訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいのです。わかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるくらいなら、何ともならないからです。そのことさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行くことになります。

 

○姿勢と呼吸

 

 正しい姿勢かどうかは、呼吸でみればよいのです。「姿勢が正しい」と言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。しぜん、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。

すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。鈍さが助長されるからです。教えるなら、逆に、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。

教えてわかってできるようになったというプロセスには深さがないです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で説明する人が増えました。

 私の体験では、教えず、わからず、できていない方が、深まる可能性が大きいです。

 

○場のよさ

 

 あなたにとって、レッスンのスタジオ以外のところがリラックスできていて、よい状態にあるなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。

 なかには、外ではうまくいかず、レッスンの場だけでよくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえます。これはありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいからです。

 私はかつて、ライブのステージをみて、「客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめ」と言ったことがあります。「それで動いてよけられないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものか」と思ったのです。

 

※○姿勢のイス

 

 年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかなくなることです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。

経験を積むと、知ったかぶりをしません。無理無駄をなくして、動きを効率化しようとします。

若いときには、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それは自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。

 私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、2日以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、23時間でも出てくるようになったのです。皆に姿勢がよくなったと言われて気づきました。日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。

 海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば、です。そういえば、モデルの女性も、モデルになるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多いです。一般の人よりもヴォイトレが大変です。

 日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、腰痛のせいで、人体としての構造上、正しい姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、座るより立つ方が楽になったのです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。

 

○なる

 

 なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これも、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということです。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、あなたの今のことですが、なるようになった今、そこをみてスタートするのです。

 レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を前提条件にします。

 結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今が、これまでの生涯の結果です。

 しかし、それなら何もしなくともよいということではありません。

 ここからも時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指す、なるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころか、よくないようになるのはわかりきったことです。

 でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。

 

○我慢と正念場

 

 我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では個として、強くないともいいます。たまに逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。

 頭でイメージして理想を固めていくだけでは無理があります。現実は思うままにいかないのです。アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは、体が固くなって心も自由になっていないところで限界になります。

 レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前にイメージさせ、一瞬でも現出させることを要します。

 一流に憧れ、やり始める時期は、誰でも幸せです。夢と未来しかないからです。下に落ちることもなければ、停滞もしません。やった分だけよくなっていくからです。そのまま続くということがレッスンになっているとしたら、少なくともアーティストへのプロセスではありません。ありえるとしたら、その人が修羅場続きの本番をもち、そのフォローとしてメンタルトレーニングにレッスンを使っているケースです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいます。私たちも一部、それを担っています。しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。

 

○脱力の力と伝承

 

 机の下にもぐって頭を上げたときにぶつけて、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートな痛みは生じない。限界まで頭を打ち付けようとしても、死ぬつもりでなければ、どこかカバーしてしまいます。死ぬ気でぶつけても難しいでしょう。

しぜんに頭をぶつけたとき、腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているから痛いのです。漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、そういう瞬間は、理想の心身状態です。そこで発声共鳴もしたいほどです。

 それでは他人にぶつけてもらう、といっても、殺す気でなければ、カバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。

 そこまで覚悟した師がいるならつけばよい、殺される可能性の方が高いし教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。

 誰でもよいから何か驚かせてみろよというくらいの関係もあると思うのですが、驚かせることをできるのは、限られた弟子でしょう。

「正しいということ」

○正しいとは何か

 

 いらっしゃる人は、間違えずに学びたいと思っています。誰しもがそうでしょう。理論的で科学的であることを感じて研究所にいらっしゃいます。

声は、顔と同じく、正しいというのはありません。しかし、流行はあります。表情の演技と同じく、声の表情も問われます。それを支える地力や機能も大切です。伝達の機能として優劣もあります。

NHKのアナウンサーの発音やイントネーションは、放送において「正しい」でしょう。しかし、正しい喉の使い方、共鳴のさせ方、高い音やミックスヴォイスの出し方などというのと、声そのものの魅力づくりとは違うのです。

結論からいうと、「やり方」はアプローチの一つにすぎません。声の出せる体や感覚がわかる、身につく、鍛えられる、調整される、その結果として、声が通じるようになります。しかし、それはアナウンスメントの教育の延長には存在しないのです。

 

○正しいと正しくない

 

 「喉が痛くならないように」「安定して声が使えるように」など、ヴォイトレにも、いろんな目的があります。それぞれに対応しています。すべてを同時に叶えられることが理想ですが、大体は、必要や優先順も人によって違うわけです。そういう課題と自分の可能性、声の限界を明らかにしていくために行うのが、私の考えるヴォイトレです。

「正しい」と考えてしまうと「正しくない」が出てきます。「正しい」ということを行うのでなく、結果として「正しい」と思われたらよいわけですが、このときは、実際は、深くてすごいとか、心地よいとか、通るとかで、あまり「正しい」にならないのです。いや、正しくは、「正しい」など思わせない方がよいのです。説得力が増すと「正しい」は消えてしまうのです。なのに、教えるのには、「正しくない」ことをやめるのは、「正しくない」から「してはいけない」となってくるのです。指導は、大半が「こうするな」「こうしなさい」となります。

間違いを指導するのを間違いとは言いません。しかし、体のことは、間違いをなくしても正しくはならないのです。正しくなってもよくはならないのです。「正しい」とか「正しくない」で判断される次元を超えなくてはいけないからです。

 

○正すのでなく、入れる

 

 音程の外れる人の直し方で、音程の間違いを指摘して正しく直しても付け焼刃にすぎないという問題で例えてきました。外れることに気づけないことが問題です。聞き直して気づくならまし、瞬時に外れたのに気づくなら声の問題に入れるでしょう。

カラオケ採点勝負ならともかく、ステージなら、どれも五十歩百歩で根本的に全く足らないのです。この場合、音感のトレーニングとして、直すのでなく入れることが必要です。正しくないのを直すのでなく、足らないのを入れるのです。入れたものが出てくるのですから、結果が出るまで時間のかかることです。

 

○間違いを直さない

 

プレイヤーのレベルでいうなら、100回弾いても間違えないのがあたりまえの人と、2回弾くとミスタッチが出る人との差は大きいです。絶望的なくらいに、この差が大きいことがわかりますか。小学生でも10回弾いても間違えない子は何万人といるのです。

間違わなかったとしても、それは間違いをカバーしただけです。ストレートにいうと、ごまかしただけ、正しく見せかけただけです。習字での二度書きみたいなものです。

 習いに来る人は、それが学ぶことだと思っている人がたくさんいます。プロは、そういうレベルの間違いを犯さないのです。そういう「違いの差」をつかまずに習っても、仕方ないとは言いませんが、頭打ちです。その違いに気づくと自ら学べるようになります。

そういう根本に気づくようになる環境を求めること、そういう人につくことの必要性がわかるのも才能です。そういう人についてもわからないのは才能がないということです。この場合の「プロ」は、プロのことでなく、高めにレベルをとらないと安易に解釈を図ってしまいがちなので、ハイレベルとして使っています。プロを目指していないから関係ないということにはなりません。

 

○「正しい」の抹消

 

プロのピアニストは、ほとんどミスタッチはしないでしょうが、歌はプロでもけっこう間違えます。歌詞を間違えることもあります。しかし、それくらいで歌はだめにならないのです。そこからだめになることもありますが。

発声を正しくしたら歌唱力がつくと思う人がいます。12割はよくなっても、さして変わらないはずです。なぜなら、歌唱力とは、説得力で、発声の正しさとは異なる次元の力だからです。「正しい」―「正しくない」の軸と、「伝わる」―「伝わらない」の軸は、次元が違うのです。

ヴォイトレを表現力、歌唱力から切り離して教わることもあるでしょう。体や呼吸だけになると、なおさら「正しい」―「正しくない」はわかりにくくなるはずです。自らの実感が頼りになるので、自分本位になりやすいです。☆  

表現の必要性に耐えうるか、必要の程度は、表現やその人によって違うので、程度問題です。トレーニングでは、大きめに余力までつけておくとよいと考えることです。

「正しい」のを目指し、「正しくない」のはよくないから「正しくない」ようにしない、ではだめです。なのに、間違いを正すことが、レッスンになっているケースが、まじめで熱心な人や先生ほど多いのです。

教わっても、それを守らないという学び方もあるので、全てを否定しません。そこが私のよいところですが、常識やルールを外れるのが、アーティストでしょう。ただ、ルールを破るのでなく、創り上げることで「正しい」などを消滅させるパワーがいるのです。

 

○才能と運

 

 「すべきこと」「しなければならないこと」があります。それは「した方がよいこと」であって、それをする自由、しない自由は本人にあります。時期やタイミングもあります。それを捉えられるのは才能がある、見過ごすのは才能がないとなります。普通の人は、それを運と言います。

他人からの強制を外れたところに表現は、あるのです。たとえ、表現を行使する状況に制限がつけられ規制があっても、そんなことは大したことではありません。

だからこそトレーニングは、そこから解放され、思いっきり思うがままに自分をぶつけることです。

それを基準に対比させて向上させていくのが、レッスンであればよいのです。いつか、その基準に対比できなくなったときに、新しいものが生まれているのです。

 

○慣れて安定する

 

現実には、思うがままの「思い」がないどころか、「誰かの思うがまま」にやりたい人がほとんどです。やりたいといってやらされているのです。それであれば、トレーナーの言う通りに慣れていくのが優秀で勉強ができるとなります。受験勉強と似ています。

日本は、仕事を与える側が、そのくらいできたらまあよいという程度の期待でしょうか。そういう選択も私はできるようにしています。そのようにしてから、研究所のレッスンは、よくも悪くも安定しました。成果がわかりやすく、実践的になったのです。ただ、そこはプロセスに過ぎないのです。

 

○場の要求レベル

 

「すべき」や「しなければいけない」を排除するのに、あるいは超えることを知るために、「すべきこと」や「しなくてはいけない」ことを逆に徹底して押し付けるやり方があります。徹底していたら反発反抗、かつ自立心が生じるきっかけになるものです。

思いがあっても形にはならないので、形にするツールを選び、それを実践に使えるレベルにまでアップさせます。必死でそのようにしなくてはなりません。誰かから「すべきこと」として与えられるのでなく、自らが自らに課すようになっていく、そして周りの要求レベルよりもずっと高く目標を掲げ、挑んでいくのです。

そのことがわかるまで、私は、その場で言うのでなく、文章などで述べてきました。場において、ストレートに使うことばは両刃の剣です。私は、レッスンはことばのない場として維持したいのです。

やむなく場の終わりでコメントすることになってしまいました。リップサービスが求められるようになったので、グループレッスンをやめました。場の程度を下げては元も子もありません。

 

○育つ

 

 昔から理不尽、不条理をぶつけてくる師だけが、師を超える弟子を育てました。それが分家や破門、仲違いであっても、要は、そこを出て20年後、30年後、その人物が芸がどうなったか、で問うのです。

 反体制下に、反抗を経て、体制を打ち破る自らを確立する育成システム、本質を選び取り、新しい時代の新たな息吹を入れて変じていく、そのために、縦社会、父権制、子弟制は、一人前に育てるのに適したシステムでした。理由も必要もなしに体制ができてくることはありません。そこでは9人を切り捨てても、1人のエリートを出したのです。

今や、大人になるということさえ、多勢で否定されていき、落ちこぼれだけでなく、抜きんでるもよしとしないし選ばれていかない状況です。これからの日本の社会では、従来のシステムやノウハウでの維持をするのは難しいでしょう。

そのときに実を失わずに、より高いレベルに設定するのは、どうすればよいのかは、大きな課題です。

誰もが同じように落ちこぼれず、秀れすぎず、横並びに並んでゴールしたいという日本人の気質のなかでは、本質的なものが失われていきます。底上げはしたがスターは出てこない現状は、それを証明しているのです。

 

○すぐれるということ

 

 個人がそれぞれに感じていることが、そのままで肯定できるとは言えません。芸は、車が運転できるとか自転車に乗れるという、歩くようなことの延長上で誰もが行えるようになることではないからです。

ヴォイトレをそこにおくというトレーナーのスタンスもあります。ヴォイトレは、誰でもできる簡単なものという考えです。これはできているというのを、どう区別するのかが曖昧になりやすいです。ヴォイトレでなくても何かを長くやっているとしぜんにできている、ということもあるからです。

場によって、当てはまることもあります。そのレベルでは、皆が参加しているので、公共のルール、暗黙に守らなくてはいけないことが出てきます。そうした方がいいということとは、マニュアルのことです。カルチャースクールの和気あいあいとしたクラスのカリキュラムのようなものです。

それなら、自由に息もできない子弟制の方が、長い眼でみると人は育つでしょう。なぜなら、自分の実力の否定から始まるからです。ゼロやマイナスからのスタートを切るために必要なのが、否定であり、大逆転です。

 

○実感のレベル

 

感じていることにもレベルがあります。このあたりは、好き嫌いでなく、すぐれているかどうかが問題です。

 一般レベルでの個人の感じることの大半は、好き嫌いです。よくある感想です。それは消費者、受け手、聴衆のものです。

すぐれているものは、「正しい」でなく、「すごい」に、あるいは、「おもしろい」とか「格好いい」(ヤバい)に向かうものです。レベルとはいうより、本当は、何かで測れるようなスケールでないのが、本物、一流です。

そこはトレーニング、育てる対象にならないので、プロということで述べました。プロになるプロセスを経て一流、怪物のような人が出てくるとは限りません。この論にも、私の考えも超えたところに、息づくものを殺してはいけないというサンクチャリー(聖域)があります。殺されるくらいではヒーローになれないので、そんな心配は不要でしょう。

出てくる人はどこにいても出てくるのです。そこは考える必要がありません。

私の話が、その人の人生の1ページの1行にもなっていれば、ありがたいものです。要は、1パーセントもないかもしれない可能性を殺さないこと、トレーナーもですが、本人が自ら殺してしまわないことが第一です。

 

○歌、せりふの成立を

 

可能性を、教育で伸ばすのを壊さないことを問います。私たちは、教育なしに、この社会を生きられません。大人になるのに学ぶことと、それをどう整合すればよいのかを考えてみます。

教育のせいにはできません。正しい教育も正しい育ち方もないからです。

社会やスポーツは、ルールと場をさだめ、それで、才能を選び育てることもがきます。結果として、感動できるハイレベルな技能をみせられる人が育っています。

アートも似ています。アートを創り出すこと。アートでありたくとも、クラシックもポピュラーも固定しつつあります。

新しいスポーツが、これまでのスポーツを乗り越えるには、これまでのスポーツを超えていくスーパーヒーローが必要です。ヒーロー一人の登場で、すべてが変わります。憧れる人が増えると、層が厚くなり、全体のレベルがアップします。裾野が広がることでトップレベルにも才能が集まります。プロの基準が定まって、人に見せて興行するプロが成立します。

 声も同じです。ただ、相撲などと似て、神事にも使われていたものを、歌やせりふに限定するのは無理があります。個分化され形骸化していくのは、根本を失っていくからです。歌もせりふも日常の延長で、そのクライマックスにあったのです。

 

○動き、しぜん、裸になる

 

 自分の声は消していけない。しかし、今の声ではいけない。自分本来の声を取り返さなくてはいけない。「―いけない」を使いたくないのですが、「いけない」からやり始めるのも、動機の一歩です。

自分の声、体というものはどうなっているのか、精神、心、頭など、いろんなものとどのように関わっているのか、を問うのです。声と向き合うには、声だけでなく、声と関わる時空のことと対峙すること、常に時代に巻き込まれざるをえないのです。

今の日本の生活で失われた声、歌、ことばを、失われつつある声と、声の創り出してきた芸能を考えるときに、自らの声、体を把握するのは当然のことでしょう。しぜんなところで服を脱ぎすてたら、本来の声が出るのか、是非やってみてください。

ワークショップでは、かつては、幼い頃へ戻して、素直な声を取り戻させました。童謡や唱歌もわらべ歌もそのきっかけとして使いました。しかし、今の日本人には取り戻せる声がどこにあるのでしょうか。生まれてから使ってきた声というのがあるのでしょうか。既成服をオーダーメイドにしていくのです。

 

○自分自身の判断について

 

自分の声がよくわからないからこそ、レッスンに行くわけです。今の声を知り、将来の声にしていく。その位置づけの把握とギャップの埋め方がレッスンのメインメニュです。

「レッスンは判断力をつけるため」と言っていますが、自分のことは生徒さんのことよりもずっとわからないので、いろんな先生と接し、今も学んでいます。

先生、トレーナー、生徒さんを通して、自分のよし悪し、可能性や限界を学びましょう。特に秀でた人、プロとその真逆のメンタルやフィジカルに恵まれていない人から学ぶことが多いのです。

わかっているつもりで生徒さんに教えては押し付けになるので、よくないと思っています。それで「一回で」とか、「その場ですぐに」できる方法を望まれますが、とても気をつけています。生徒さんは、トレーナーは全てわかっていて最良のことを選択して与えてくれると思いたいのです。それでは、誰でもできる方法で、誰でもうまく上達させてくれるというマニュアル信仰になります。

情報を出しているのは、今回のレッスンでなく、継続したレッスンを行うため、問題の根本的な解決のためです。そこには幾分の信用、権威づけも必要だからです。

自由にさせると、その自由で不安になって続けられない人も少なからずいます。トレーナーでもそういう人が多いのですから無理もないでしょう。

ですが、最初から一方的に導くのでなく、時に応じて出してくるようになるのを待つことでしょう。その人の内面から出てきたものに応えてレッスンを修正していくことが大切です。

 

○限界の先

 

 自分で思う限界は限界ではない。これは他人に接してわかることです。

自由になるには解放しなくてはいけないのですが、自分で解放するにも限度があるのです。

それが高度にできていたら、世の中に問えばよいのです。問い続けるだけで自ら修正して伸びていけます。これが正道とは言いません。本道です。

声でうまくいかない、頭打ちになるとトレーナーを使いにくるわけです。そうでなく、地力をつけるスタンスなら、レッスンは行き場を失うことはないのです。

トレーナーが自らを目標100パーセントにセッティングすると、そこまでも行けない人が増えるのです。それはそれでよい先生ですが。

 

○型と場

 

 型に入れて伸びるのは、その型から逃れられない状況におかれてのことです。型はプレッシャーとなり、他へ逃げる言い訳になります。逃げられなかった型で育った人が見逃してしまう点です。ですから、他の師匠についた弟子はとらないのです。忠義を立てるのでなく、芸の型を叩き込むという教育のシステムと思います。

でも、今や、無人島に二人ででも行かなければ、型にはめることもできないでしょう。

自由な状況ゆえに、その自由がみえない、自由が使えないのです。自ら不自由にしてしまうのは、自由を縛るものが時代や人など体制として固定しているのでなく、みえない、曖昧なものだからです。だからこそぶつけてつかむ場がいるのです。

「体で学べるようにするには」

○声は音の世界

 

 声は音ですから、聴覚で捉えます。自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。

映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは体感で触覚といってもよいくらいです。波動の高いところには、光、色の区分けとなり、視覚もあるのです。

 かつては、多くの人は、ラジオやレコードに長らく耳を傾けました。それは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。それは体で感じるベースになりました。

今の私たちは、ずっと視覚優位の世界にいます。インドアの、PC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

 

○胎内巡り

 

 会社の研修などに、暗闇を歩くものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。

 お寺で、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下に潜れることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺、そのほかでも、私は何回か体験しました。壁や手すりを頼りに真暗な床下に降りていき、進みます。

 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。

 見えない中で耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰をかがめたりします。

 ライブやコンサートで消電といって照明を消すのは、ステージに集中させるためですね。歌では、耳で聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしたりするのです。注意や集中力を喚起するためです。闇にするのは、耳の力を取り戻すよい方法です。

 

○体感

 

 人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというレベルで触感をもって削り出す技術に使われます。そういえば、坂本龍一氏が、リズムで1000分の1秒の違いで異変に気づく、1000分の40秒では明らかにわかるということを述べていた覚えがあります。

 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。

 小さな頃、野球で、フライを獲るのに、うまい子と下手な子がいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいほどで、ロボットがようやく追いついてきたことと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの構え、その打撃音から瞬時に落下点の検討をつけ、位置方向を捉え、予測して動き、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。

 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんの生み出した動植物に追いつこうとしています。ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

 

○流れ

 

 日本人のスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、すっかり外国人の観光名所になりました。私は、上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。

 ラッシュにも鍛えられました。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、けっこうなプレッシャーを感じる社会になっているのです。私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子などと、どちらが大変だったでしょうか。

 

○馴れる

 

 私たちは頭で考えて動いているつもりで、そうではありません。頭をストップした方がうまくいっていることを知ることなのです。目的地はセットしなくてはいけませんが、同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングです。体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。楽器の演奏でもよいです。

 私は、長年のペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることがありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとひどい、ギアをNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。教習所のときを思い出してください。

人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、捉え直してみてください。

 

○頭を切ること

 

 スポーツをしたり自転車に乗ったりすることは、大脳でなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解がないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えたところで、体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。

 わかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも自転車もピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめなのです。

 これは、できたあとに、我に返って気づくのです。頭が働くことでもわかります。考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。

 ピアノでいうと、何も見ずに一曲丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けなくなる、そういうときに、最初からやり直せばまた弾けますが、間違ったところで考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとできなくなってしまいます。それを忘れた翌日には弾けたりする。歌詞を忘れたときも似ています。ですから、禅では、頭を切る修行をするのです。

 

○体で聞く☆

 

 昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問は、ほとんど出なかったのです。レッスンを受ける前に、大方は片付いていました。大体は、事務的な質問だったのです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。

 質問しにくかったのかもしれませんが、そういう雰囲気ではなかったのだと思います。私にも、質問を聞いたり教えようとする姿勢が、あまりなかったのです。

 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀で自立していたからです。当時、習うというのは、質問などせずに、まずは始める、質問のできるレベルになることが先決という暗黙知がありました。

私も若輩でした。他のトレーナーは質問しやすかったので、彼らを介して質問回答集をつくりました。どのレッスンでも感覚を集中させたかったからです。

 今と異なり、レッスンで学びに行くのは、質問やおしゃべりをするのではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのです。頭しか使えない人は身につかず口から文句が出てくるのです。まさに対照的です。

 

○質問の意味

 

 私も、先生に、本当に知りたくて質問したことはありません。コミュニケーションのツールとして、ときに使いました。まともに質問できるレベルになって、ちゃんとした質問をしよう、と思っていました。会っている時間に、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にもレッスンの邪魔にもなる、レッスンの質が落ちると考えていました。

 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、こちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていると思います。そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。

 私は、自分には否定しているものでさえ、皆さんの場としては、必要であれば選べるものを提供しようとしています。そうする器をもつ努力をしています。

 仮に質問は不要であり不毛だと思っていても、(そんなことはありませんが)研究所としては、質問を受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、気づきの材料です。

 

○パントマイムの人もくるヴォイトレ☆

 

 今は、いきなり声を出してもらうことはありません。

 本人が望めば、声やせりふ、歌のことを学んでいくのですから、聞かせてもらう所からスタートです。しかし、メンタル面に問題のある人や声の病気をもつ人が来るようになり、変わりました。声をうまく出せないのにメンタルは大きく関わります。うまくでなく、声自体を出せない人も、ときにいらっしゃるからです。

 声を舞台で使わない人、ダンサーやパントマイムの人などで、呼吸法を学びに来る人もいます。故障のリハビリを早く終わらせるのにも有効です。そういう人たちも、呼吸を深めたり、指導や共演のときに声が必要です。

 

○受け身体質では

 

 幼い頃、騒いだり叫んだりしていた大きな声が出せなくなったのは、教育のせいでもあるのでしょう。マナーということでは、声を荒げないのは日本だけではありません。しかし、受け身体質に、主体性も奪ってしまう日本の学校教育、音大も含みますが、それは反面教師としての役割をうまく果たせていたのでしょうか。

 アーティストになりたい人は、アーティスティックな毎日のなかで研鑽していくものでしょう。先生の教え方とかトレーナーがよいとか悪いとかに影響されません。考えること自体、無駄なことかもしれません。

 私は、なぜ、自分の表現を、自由な表現を目指す人が自ら不自由に教えられようとするのか、教えてもらわないと自由に表現もできないと思うのかわからなかったのです。逆でしょう。

 こうして、30年も同じことを続けていると、なるほど、日本人というのは、先生だけでなく生徒も不自由をよしと、人に動かされることをよしとするとわかってもきたのです。型という逆境でこそ、表現、自由がみえるのです。方法やメニュで教えられたものなどは役に立ちません。学び取ったものしか、ものにならないのです。

 

○人を選ぶ能力とマッチング

 

 人を選ぶのは、その人の能力です。出会いも同じです。必要な人とは出会うように生きているのです。選べるかというと難しいものですが、そのときに選び損なったと思っても、その経験を基に、いつか選び直せばよいのです。

そこまでいかないうちに、どうのこうの言うだけ時間の無駄です。そんな暇があれば動けばよいのです。愚痴っていると、それで生涯を終えてしまいます。そういう人に「そうでないように変われ」と示しても改心できなかったとすれば、私の力不足です。

 理想というのは、相手あってのもの、ニーズに応え、少しずつ方向を変えていくのも必要ですから、私は焦らなくなりました。自らの理想ははっきりとしているので、ニーズについては、もっとも適切な人と役割分担すればよいわけです。教えられたい人には教えたい人をマッチングすればよいということです。

どんな形であれ、声の研究ができているのが、声の研究所です。そのおかげで私は一人でやるよりもその10倍の学びを得られます。もっとも多くのトレーナーと接することで、もっとも多くのことを教えられたのです。

 研究所のブログは、そのプロセスで、私からのお返しです。どうマッチングしていくのかが自らの世界をつくる最大の秘訣です。そこを学びましょう。

 

○叩き台と絶対量

 

 私は、自分で考えたことをしゃべっていますが、人に「考えろ」とは言いません。本やブログに「考えるように」と書くことはありますが、それは考え尽くさないと考えることがやめられない、人間の性や業へ対してです。こういう文章を元に考え尽して、「もういい、考えたって仕方ない」と開き直るために必要な人もいるからです。

 声は出さないと出てきません。ピアノは弾かないとうまく弾けるようになりません。ます、それだけです。今は、そこが絶対的に足りない人が多いのです。

私を支えているのは、誰よりも声を出した日々があったことです。

 昔は、いらっしゃる人も」そこが充分だったので、その逆として、考えること、頭でなく体として感じることのステップアップとして叩き台が必要だったのです。今回も、このレベルくらいで述べたいのですが、わかって欲しいのは、「絶対に足りていないこと」です。

 これでは、トレーナーに何を相談しても何ともなりません。モチベーション、気力、取り組みといったメンタルについて、今や9割の人たちの問題となりつつあります。何かになっていそうに思ってメソッドや教本が使われるのです。それでは抗うつ剤のようです。

 

○個性

 

 個性的というなら、少なくても役者、歌手なら、昭和の時代の方が強かったでしょう。何十人で歌うような人を歌手と呼んでよいのかという時代錯誤な疑問は置いておきます。声一つ考えても、アーティストは違うものでしょう。

 集団化、シンクロナイズにおいて、共産国家、独裁国家よりも牽制しあって育ちます。世間を重んじる国民性です。それを美しく感じ、仲間とそのように楽しみたい人は、それでよいでしょう。

 でも心身はどうなのか。というのは、声一つにも気質は現れるからです。つくった表情や作り笑いは、しぜんで健康的なものとは違います。個性が出ていなくては、その人の魅力ではありません。

 

○個声

 

 私は、かなり客観的に研究所のヴォイトレをつき離しています。「どんなヴォイトレもよい」と認めています。トレーニングなのだから、それ自体に正誤はありません。自分にプラスになるように使ったらよいし、マイナスになるように使うのならやめればよい。そのために、何がプラスでマイナスか知っていくことです。

 ヴォイトレも、トレーナー独自のヴォイトレ論だけで浮いてしまっている居心地の悪さを感じます。

 正しい声、正しい教え方、正しいヴォイトレを求め、そうでない声を否定しています。そういう流れは居心地よくないのに、そういう声ばかりになりつつあります。

 本物の歌手といえる人、役者といえる人は少なくなりました。レベルが落ちたのも、客やつくり手の多くは気づいていないかもしれません。個性的な俳優、声優も舞台から消えつつあります。やがて、浪花節や時代劇と同じ運命になってしまうのでしょうか。個性とともに個声がなくなっていくのです。それでよいはずがありません。

 

○声量のこと

 

 文明が発達すると声は小さくなります。子供が大人になるように、です。プリミティブな社会で不可欠だったのに、文明が進むと声は大きく出さなくなります。それと、大きく出せなくなるのは異なります。でも使わなくては衰えます。

 声の大きさは声の要素で、必ずしも大きな声がよいのではありません。しかし、トレーニングでは大は小を兼ねます。大きくしか出せない声はよくないし未熟ですが、大きく出せて小さく使うのが、本当の芸に欠かせない技術です。

 それは、器と丁寧さとの関係です。大きく出せるという器で細かくメモライズして丁寧に使うのです。

 マックスは使いません。マックスの想像つかないという、底の見えないところ、それがバックグランドとしてあるから魅力となるのです。

 その懐の深さをもって、きめ細やかに声量の差、メリハリをつけていきます。ミニマム、ピアニッシモの声でもきちんと伝えられるように出すのです。声量は力でなく、力があるから、力を出さなくて声量となるのです。そのために呼吸、発声、共鳴を学ぶのです。

 声量は、今の日本人のもっとも不得意とするところです。マイクでカバーしてしまうため、声質(音色)とともに忘れられつつあります。声の魅力をもてず、ダイナミックにコントロールできないので、世界レベルへ達しないのです。

 カラオケがハイトーンの競争に陥ったように、発音や高音(声域)というわかりやすい低レベルの基準でヴォイトレも使われているのです。

 声量、音色に比べ、声域、発音は、大したことのない問題です。原曲キィで、プロのように歌おうとするから問題が生じるだけです。そればかりにこだわっては、本当の個声を追求できず、才能も磨かれずに終わりかねないのです。

 

○よくないことの勧め

 

 「気を付けの姿勢で胸を張って歌いなさい」最近はこういう指導は、あまりされていないと思います。「大きな口で大きな声を」とか、「口を大きく開けて歌いなさい」という指示もかなり減ったでしょう。

 でも、人によって、場合によっては一時試みてもよいのです。トレーナーは、否定の理由をもっているでしょう。胸を上げすぎると腰のところに空気が入らない(支えやら深い呼吸がしにくい。口でなく口の中を開けるべきだ、響かず、浅くなる)など。

 しかし、何事もやってみることはよいことです。よくないことも、やってみてよくないとわかるのは無駄なこととは思いません。私の想像を超えたよくないこともあるかもしれませんから、全てよいとまでは言いませんが、試して知るのはよいことでしょう。

 頭で、教えられたとおりにやってもみずに従うよりも、自らやって、よくないと知ることも大切です。注意されないように頭で考えて消極的になるのはよくありません。最初からやらないのでなく、レッスンがあるからこそ、何でもやって注意されて、気づいて修正していく方がずっと意味のあることだと思いませんか。

 

○何でもやってみる

 

 トレーナーについているのですから、トレーナーをきちんと使うことです。きちんと使うとは、新しいことを知ってやってみるのでなく、これまでのことを新しくみるということです。

 プロのピッチャーは、きわどいところに投げて、今日のアンパイアのストライクゾーンをつかみます。一流のピッチャーはきわどいカウントを逆手にとり、そのストライクゾーンを自分に有利に決めていくと聞きます。

 頭のよい優等生は、間違いだと思う答えは記入せず、平均点以上をきれいな回答で収めるそうです。しかし、本当に優秀な人は、すべての欄を記入します。そのくらいポジティブでないと、間違っている答えを堂々と記入して、たまに1つ当ててしまうような、勉強ができない人の処世術に負けてしまいます。

 

○思いっきりよくの勧め

 

 私はよく、「思いっきりやってみれば」と言います。「めちゃくちゃはみ出せ」とも、結果、よくなければ自分でわかる。わからなければ、「よい」の範囲のまま、危険なほどなら言うからと。何を恐れることがあるのでしょうか。

 オーディションは、作品でなく自分をみせる場です。周りからはみ出ださずに、どうアピールするのでしょう。熟練した技を得意気にひけらかす人を誰が採りたいと思うでしょうか。でも日本では、そんな人を、安全というので採るのも多いから困るのですが。

 はみ出てひどすぎたら注意されるから直せばよい、自分を出して、それが合わなければ何か言われる。そこで修正してよい。はみ出た上でこそ、チェックする権利があると思ってください。

 

○はみ出す、自分を出す

 

 私が教えないのは、トレーニングは、内なる自分を出す、そのプロセスだからです。バランスよくまとめて声を整えても、インパクトなしには魅力もないのです。

 自分の世界を打ち出していくときに…。

 自分を出すのに、何を教えればよいのでしょう。先生のやり方、ミスしない方法、カラオケの点数アップ?「それでよいのですか」と問うても、「お願いします」というのが、この頃です。

 自分でまとめなくても、はみ出たのがひどければ、自ずとまとまってきます。客を前にして、自ずとまとまろうとします。自ら注意すべきことに気づきます。調整はそこからでよいのです。

 歌やせりふで私は「プロや一流は、あなたたちが思う以上にはみ出しているから、あなたがどんなにはみ出しても足りないと思え」と言います。やりすぎたら注意すると言って、注意する程にやり過ぎる人、そういうことのできる人は、ほとんどいません。よく聞く自主規制、自己規制は魅力規制です。そんな人ばかりで、集まってもつまらないものにしかならないのです。

 

○禁じない

 

 私は「――しなさい」「――するな」は言いません。それは強制で、「それ以外してはいけない」という禁止です。子供のような生徒でも、子供扱いすると子供のままになります。自由奔放な幼児に戻せるならともかく、自由を失った子供に、声や歌まで受験勉強のようにさせてどうなるのでしょう。

 トレーナーの自己満足のためでは、高校の管理野球のようなものです。日本の合唱団もそういう体質でしたが、義務教育の一環と、アートや大人としての場は違うとしましょう。

 「教育したがる人―教育を受けたがる人」の絆は、強いのでしょう。

 教えたい人の熱意はよいのですが、それが、相手の呼吸や意志をコントロールしてしまうのです。心身を緊張させた状態においてしまうなら、さらに問題です。レッスンでリラックスさせていると、本番であがってしまうようになりかねません。

 声を声で教えるのです。怒った声や命じた声は、悪い見本でしょうか。役者や声優は、そういう声も使うので参考になるかもしれません。一人の人間にいろんな声があることを学ぶのはよいでしょう。そういう意味で声の表現力の弱いトレーナーは、別に見本をとるようにすることです。

「基準と基礎から、一流と大衆性」

○基礎と基本の定義

 

 基礎とはfoundation、下部構造、大本、基い、土台、建築物でいうとコンクリートの基礎であります。基本はbase、物事の成立に基づくもの、判断や行動、存在の基、基い、根本、土台という感じでしょうか。

 とはいえ、英語でもどちらにも使われ、日本語も区別されないときもあります。ちなみに私の本では、基礎、基本講座とついたものがあります。基礎、基本に対応するのは応用やアドバンスで、上級などになるのでしょうか。

 そんなことはさておき、ここではヴォイトレにおいて、歌唱やせりふ、朗読に対しての位置づけのことです。声のヴォイストレーニングに対して、歌はトレーニング、せりふ、朗読はせりふ、朗読トレーニングでしょう。そんなことは何回も述べてきたので、ここでは定義で考えてみたいと思います。つまり、芸能の判断をするときの基準としての基礎や基本ということです。これは、とても大切なことです。そこから伝統と芸、時代を生き残るための基本、芸術性と大衆受けまで述べたいと思います。

 

○基礎のある人

 

 よく「誰の作品を聞けばよいのか」と聞かれます。基礎のある、いや、基礎を学ぶのがよい歌い手や役者は誰かということです。

プロの人は「基本を教えて欲しい」とか「基本をやり直したい」とか「基本を知らないので」などと言って、ここにいらっしゃいます。ポップスでは、歌っていたら、バンドを組んで活動していたらプロになれたという人が多いので、自分は基礎をやっていない、正規の教育を受けていないといいます。そういうコンプレックスがあるのかもしれません。しかし、基礎や基本とは何なのでしょうか。

 研究所では、そこを「発声体としての基礎」においています。音大のカリキュラムのような統一されたものではありません。しかし、どこかで学ぶべき基礎といわれるのなら、ある程度の統一性は必要です。

 トレーニングが特殊なものだから、基礎トレーニングというのです。どこでも迷いが生じることです。

声楽では教育を受けずに、つまり発声の基本を身につけずに、オペラ歌手になるのはとても難しいでしょう。発声の基礎が、そこにあるということです。しかも10年以上のプロセスとして歌唱力と分離されて声楽、発声練習としてあるのです。邦楽でも10年、20年では基礎どころか小僧という深い世界です。そこからも多くを学ばせていただいていますが、邦楽は、芸と基礎トレの分離ということ、流派(一人の師)ということ、日本だけで、という点で扱いにくいのが実状です。

 

○一流を入れる

 

 スポーツや音楽の世界では、教えられずに、あるところまで才能を発する人がいます。それには条件があります。必ず、それ以前に、一流のプレー、試合、作品などに接して、そこから吸収しているということです。

独力で伸びた人は、誰よりもそこから多くのものに気づくセンサーが鋭いのです。学んで自分をコントロールし、足らないところを補っています。語学もラジオだけで何か国語もマスターした人もいますね。何から学ぶとか、誰から学ぶとかもセンスであり、才能の一つです。

 オペラにはメソッドがありますが、ポップスや邦楽にはありません。メソッドといっても、その時代の流行のもので、全世界で統一してあるというわけではありません。

 独力であれ、学校であれ、一時期はしっかりと他の人に学んでいるという事実です。歌を聞いてもいないし歌ってもいないで歌手になった人もいません。最初からうまかったとしても、しゃべれなかった時には歌えてはいないでしょう。今の実力とは、何に出会い、どう反応してきたかの積み重ねなのです。

 

○天然型の基礎

 

 これまで、何事にも基礎があるということで、基礎への探求はなされてきました。それをメソッドとして学ぼうと学ぶまいと、人から教えられようが教えられまいが、身についているかどうかということです。それは、より早く、より高く(ハイレベル)、より深く、より長くなどのために必要ということです。

 しぜんと聞いて歌っているだけで、実力派の歌手になれた人は、そこに基礎も、必要なことも入っていたのです。聞いて声を出すだけでハイレベルに対応でき、つくりあげられた人です。

 そうでない大多数の人のために練習法、メソッドやトレーニングがあるのです。

今の私は、そこを突き詰めることが主になってきました。しかし、それに加えて、あまり論じられないことですが、一流やプロの力をつけるにはどうするのかということです。

 歌手や役者になった人でも、その実力を維持し、向上させ、新しい時代に対応するには、たくさんの課題があります。そのための声の研究もメインなのです。

 

○「歌がうまい歌手」リスト

 

 新年の週刊現代の「歌がうまい歌手」日本人で、プロデューサーたちが選んだリストをみました。その翌週には、歌手やヴォイストレーナーが異論を、それぞれに述べているのですが、私は、そこともスタンスが違います。結局、述べませんでした。

私としては、一般論ですが、歌手であれ何であれ、世の中でやれていたら皆それぞれによいという立場です。

 それは音楽、歌、発声だけの実力に限りません。そこは研究所のトレーナーとも違います。(レッスンでのスタンスというなら、レッスンでの声の可能性と限界においてみるようにしています)

 私のところには、マルチな才能をもつ人がたくさんきます。声を、何にどう使おうとでやれていたらよいと言っているからです。やれていなければダメということではありません。芸能であれ、ビジネスであれ、やれている人の声は、ひとまず肯定するというスタンスです。その上でどうするか、また、やれていない人は、やれるようにどうするかです。

 プロなら声で伝えている、その伝えているということを、ここでは広く深く捉えているということです。

 私もその一人です。歌とか朗読、アナウンスでプロでないと言われたところで、それは畑違いなのです。

 リストのなかに、知人もいるのであまり述べたくもないのですが、具体的でないと論じにくいので引用しますと、

 ヴォーカルランキング

1、桑田 2、中島 3、山下() 4、小田 5、井上 6、五木 7、沢田 8、都 9、石川 10、玉置 11、桜井 12、中森 13、松任谷 14、坂本() 15、稲葉 16、布施 17、吉田() 18、高橋() 19、椎名 20、松田() [週刊現代11724日版]

 これに対して、次の号で、歌い手やトレーナーが異論を展開しています。

 

○声に戻る

 

 私の持論はこれまでも述べてきました。(拙書「読むだけで…」に、ヴォーカルのリストあり)

 トレーナーとしては、プロとしてやれている歌手のよしあし、好き嫌いはどうでもよいのです。そうでない人が誰をどう見本や参考にして、何をどう学ぶかということです。それは一概に言えないのです。相手(生徒)の目的やレベル、方向、優先すべきものによって違うからです。

 他のトレーナーのように「この人を聞きなさい」とは言いません。まして「この人は聞かない方がよい」とは、もっと言いません。どんなプロ、いやどんな人からでも学べる、学ぶ力がプロであること、それをプロのように学べる力をつけていくことがトレーニングです。 

 それでも、私がこのようなもので気がかりなのは、現在の日本人のなかでも、歌に耳があると思われている人の評価のあり様です。この評価のケースで出てくるプロデューサーや歌手、トレーナーは、今の日本の一端を代表しているからです。

 私なりのランキングは、声中心ですから違います。すでに今の時代、ヒットする日本の歌は声中心ではないので合わないです。それも踏まえた上で、声に戻ることが基本だと言いたいのです。ですから、いささかクラシックな考えになります。1960年前後のポップスなどでは、すでに50年以上経ち、当時のリアルタイムで聞いていたファンが伝えてきたとしても、クラシックになりつつあります。

 つくられたときにいた人がいなくても継承し続けたところでクラシックとすると、早くて80年、およそ100年経てからの評価です。著作権の切れたところあたりから後のことですね。

 時代を超えた、ということ、国を超えて自国のファン以外にも愛されてこそ、クラシックといえるのです。それは、このランキングでは、到底なしえていないのです。

 

○ワールドサイズで考える

 

 歌や宗教をワールドサイズで考える視点が、日本では欠けています。ガラパゴス化を超えて、自家中毒になっています。それは批判ではありません。

時代や国、時間や空間を超えて通じるものであってこそクラシックということです。そうであろうとなかろうと、これは基準と基本を知るためには、大切なことなのです。

 アーティストに声の基本を強要したいのではありません。音大に行かなくてもプロになれた人は、音大に行った人より才能(努力も含めて)があります。音大を出た人こそ、そこに学ぶべき基本があるともいえます。

 それをクラシックとかポップスとかで二分したいのではないのです。長く多くの人たちを惹きつけるものには、根本に共通のルール、基本が宿っています。私が、このリストを前振りにして述べたいのは、根本、基本があることと、世に認められる大衆性を得ること、および芸術性との関係です。その成立についてです。

 

○根本のもの

 

 美空ひばりは、玄人受け(プロから目標とされた)だけでなく、大衆受けし、死して十数年経ってもセールスは続いています。紛れもなく、日本を代表する偉大なアーティストです。これで国際的なヒットがあればと残念な限りです。歌は、その大衆性こそが、歌い手の知名度に表れているのです。

 誰をあげるかで、聞く人の基準、判断がよくわかります。好き嫌いであげる人が多いのですが、プロでは、音程、リズム、発音の確かさでみる人、音質、発声でみる人もいます。歌には歌唱力とはいっても感情表現、感覚的なこと、聞く方の個人的な感情や育ちが入るので、なかなか客観的にならない評価しがたいものです。

 私は、これまで出会っていない人、自分の人生と別のところにいた人に見本をとることを勧めています。

学ぶというのなら自分に入っていないものも学びたいものです。それは苦手や嫌いなタイプの歌手、トレーナーがもっていることが多いのです。となると複雑です。

・表現レベルに芸能としての歴史、浪曲―歌謡曲―JPOPS(日本)

・それに対するワールドミュージック、世界のPOPS

・大きなくくりでは、学校、小説家、歌、声優、お笑い、神話、詩、本―漫画―アニメ、演劇―映画、ラジオ―TV、レコード―CDDVD

 世の移ろいにつれ、いろんなものの流行り廃りがあります。

 そこに仕掛けるプロデューサー、それを受けとめたり流していく大衆、群衆、個衆(個人志向)と、一見すると、とりとめのないもののなかで、普遍的に共通しているものがあります。その根本を学ぶことを知ることが大切なのです。

 

21世紀には

 

 オペラも邦楽も21世紀になり生き残るのに青息吐息です。歌の番組はプロレスやボクシング、野球並みに低迷しています。スターが生まれなければ滅びる、ヒット、人気商品が出なくては、衰え潰れていくのです。

 多くの人が長く愛するもの、それこそが基本のあるものです。私たちの学ぶべき“クラシック”としての基準です(ここでのクラシックは、オペラ、声楽のことではありません)。それは、ときに、その時代、その国や地方のその場限りの大衆性と反します。

 根本を考え、そこをトレーニングします。世の中を、次世代を先駆ける感覚を形にすることです。その一つのツールとして、ヴォイトレを捉えるということなのです。ちなみに、ローリングストーン誌が世界のシンガーのランキング100を公開しています。それをみると、いろいろと考えさせられるのではないでしょうか。

 

「原因と結果」

○元の原因とあとの結果

 

 トレーニングは、A→B、メニュでやったことと効果を因果関係として、「こうしたからこうなった」という形で出そうとしています。それは違います。「こうしたい」でなく、「こうなった」の世界です。実のところ、結果に直接に効く原因はなく(本人やトレーナーが思っているだけで)間接的に効く要因がいくつかあったということです。

「できた」といっても、「できなかった」ときとは、何かしらの基礎が整ってきたのか、応用によって働きが違ったことで可能になったのか、それによっても違うのです。そこを分けて判断することが大切です。

それ以前に、「できた」とは、どの程度なのかということを忘れていませんか。

 「音にする、声をならす」でなく、「音になった、声になっていた」とならなくてはいけません。☆☆

主観的な判断を客観的な判断にしていきます。

 「響かす―響く」、「あてる―あたる」なども似たようでも違います。前者は試みで、後者は結果です。試みでできるのは、ふしぜんなものです。結果でできてしまっているのがしぜんです。そうなるまで時間を待つしかないのです。

 結果が出てからでしか何ら言えず、結果が出ていたら何も言うことはないのです。

 試みるのは、トレーニングであってはなりません。試みたときにはできているように、深いところ、基礎、器づくりを行うことがトレーニングなのです。

 

○プロセスとスパーク

 

 レッスンやトレーニングの目的に、「歌手」や「役者」になる、ということをあげると、そのための目標の一つが発声の基礎トレーニングです。目的をおき、目標は、3年、1年、3か月のように時期で区切るとよいでしょう。

 声は、芯を支えていると動きだし、外へ働きかけたとき、共鳴しています。そういう結果が出ます。結果を出そうとしてレッスンし、トレーニングするのです。

 結果が出るのは、閃きと同じで出てしまうのです。出そうとして出るのではありません。瞬時に、閃きのようにスパークしてしまったらできているのです。

 夢のように時空が消えます。体―息―声―共鳴がすべて一体化して、そこで言語や歌を処理しているということです。無心に読経しているような状態が参考になるかもしれません。

 早い、高い、深い、この3方向を応用としてとるとします。そこでは、好き―嫌いでなく、すぐれているもの―すぐれていないものがあり、すぐれている人―すぐれていない人がいます。

 どれか一つからでもよいのです。表現という目的において、いつか一致すればよいのです。

 何をやっても、もっと才能のある人がいて先がみえないときには、勉強不足と思って勉強しましょう。

 欠点を磨いて長所にするのも、大切なことです。

a.長所 概知  くせ、過去、体制的、保守的、こなす、うまい、正しさ、きれい

b.欠点 未知  個性、未来、反体制的、創造的、表現力、深い、インパクト、濃い

対照してみると、こうなります。baでなく、abなのです。長所から短所にいくのがトレーニングのプロセスです。

 

○時間と資質

 

 理想の何パーセントをまで使えるものとしていくのかというトレーニングが大半ではないでしょうか。「やり方」を学ぶというなら、そのまま100パーセントまで、マックスで使ったら、それで終わりです。

 方法よりも 結果として、できていることが大切です。理想を今の100で甘んじずに2倍、3倍にする、という条件を課すことです。

 そこまでして、ようやく体の感覚から変わる必要性を帯びるようになります。変えるでなく変わるであって価値が出ます。それがトレーニングです。

 歌では、次のようにみるとよいでしょう。

a.カラオケ<ポップス<声楽

B.体の感覚<ゆれ<こぶし<ビブラート<共鳴

C.心身のメンタルトレーニング<フィジカルトレーニング

 

○目的とプログラムの説明

 

 どの程度に説明するのかは難しい問題です。医者であれば、2つ以上の案を示し、それぞれのメリットやデメリットを説明するのでしょう。どれか1つの方法が、絶対にメリットだけなら選択も代案も必要ないからです。

 ただし、その1つでさえ、他のものに比べてましとか、今のところは一番ましというものでしかないこともあります。

 こうした説明は、デメリットが出たときの逃げにすぎないともいえます。説明責任を果たすというと良心的なようですが、予めリスクを話すのは、何かの際の責任追及から逃れるためという面も大きいのです。

 何事にも絶対的正解はありません。常にすべてが試行なのです。結果は、本人の意思や努力あってのメニュ、方法によります。そこから芸になります。

 

○意志力

 

 どんな方法をとるときにも、こちらが説明や実践することで、本人に信心ややる気が出てくると、結果が違ってきます。トレーナーや方法が同じでも、一人ひとり決して同じ結果にならないのです。まさに不確率の世界です。

 そのために、ともかくも何らかの説明が求められます。それは、あってもよいでしょう。協力していく、トレーナーとクライアントが一体になって問題にあたっていくのはよいことです。

 医療についてなら、大体は元に100パーセント戻すのを目的として、90パーセント戻れば上出来といったくらいです。でも、そのくり返しで100×0,9×0,9×…で、人は弱っていくのです。ヴォイトレの調整でも、戻すのだけを目標とするなら同じことでしょう。☆

 今の力をキープするには、キープ=守ると考えた時点で負けです。「もっとよくなろうとして初めて、何とかその力をキープできる」のです。

 

○直すのではない

 

 長らく怪我や病気をしたあとの治療であった医療が、予防へ向かっているのは、よいことです。守りでなく攻めといえます。先手必勝、早く対策するのは、目標を今より高くおけるということです。そうあるべきに思います。ここで、トレーニングは、治すのとは違うことを知って欲しいのです。

 ヴォイトレは、うまくいかない、下手なのを直す、間違っているのを正すというのがほとんどです。下手でも間違いでもないのに、直したところで、正しいと言われるようになったところで、通じないことでは、ほとんど変わっていないのです。なのに、どこがトレーニングかということです。

 

○早くでなく、すごく

 

 普通のトレーニングは、「早くよくなる」のが目的のように思われていますが、「よりすごくなる」が忘れられています。これらが両立したり、順になるなら一番よいのですが、少しでも早くよくなることだけが目的にとられがちです。そうするつもりではなかったのに、それだけになっていることが多いのです。トレーナーの考えも、トレーニングする人の目的がそうだから、そうなるのです。

 すごくなるには、とても時間がかかります。結果としてすごくなるという目的であってこそ徹底した基礎トレができるのです。早く少しよくを目指すなら、バランス、調整中心の使い方、技巧のメニュや対処方法のオンパレードになるのが関の山でしょう。アスリートの世界で考えたら、言わずもがなです。

 勉強ということ自体、私たちは昔よりもずっとしているようで、理論というまやかしに走って根本が見えなくなってきたのです。学ぼうという人は、理屈やノウハウばかり欲しがっているから、なおさらそういう傾向になります。トレーナーの質も、それに伴ってしまうものです。

 

○本質と万能 

 

 一子相伝は、選ばれた一人に直接、師が自分と同じようになれるように口伝します。型に完全にはめて、型通りになって継承すると形骸化していきます。せっかく伝承されても、滅びてしまいます。どこかで型破りの天才が出て、新しいものに改革、創造するから伝統となって受け継がれるわけです。

 ヴォイトレは、相手に合わせ、時代に合わせ、基本をなおざりにしすぎました。かと言って昔のようにトレーナー、先生、師に合わせて、前の世代しかできない体験を継がせても何ともなりません。

 本当は自分をまねさせるのでなく、自分も先代もまねしてきた、もっともすぐれた本質的なものに気づく必要があるからです。そのための手段が、型です。

 型は、基本として厳格でなくてはなりません。トレーニングでは、よしあしの判断の厳密な基準ということです。師によって異なるというのでは、私の意図するものとは異なります。形は問いませんが、その下にある型は、みえずとも万能の器です。それは、語れるものでなく気づくしかできないものです。

 

○先に与えない

 

 一般の人に一流の作品に接させたら、トレーナーは、その本質に至るための邪魔をとる、それでよいのです。それが理想的です。「語らず教えず」でよいのです。

 それでは、生徒はわからないというので、やさしい先生は、すぐに丁寧に教えだします。「私の通りに」とか、「こういうふうに」と。生徒が欲しているならまだましです。欲していないのに先に与える、教えたいから教えているのが、今の風潮です。教える人が、教えているという充実感、満足に囚われているのです。

 トレーナーがこうして、一つ先に早く進めて、そこから先にさえ行けないプロセスにしてしまうのです。一つ先に連れていかれたのがすべてとなって、それが百歩の中の一歩とも気づかないからです。

 昔から師に可愛がられ、早くいろんな技を教えてもらい、早く師のようなまねができるようになった人は、およそ大成しないものです。それは、結果の形をまねただけで、プロセスで気づいて自ら体得していくものを得ていないからです。形はつくけど実はない。丸暗記で覚え、正しく言えるけれども内容は把握していないので伝わらないのです。

 教えて、潰してしまう。師の形でしかできなくしてしまうのは、大きな誤りです。それを後継者とする、他で通じなくしてしまうからこそ、形として続く家元制もたくさんあるのです。

 

○実質と基準化

 

 トレーニングは、形(メニュ)を使って行います。大切なのは、そこで実質をつかむことです。ドレミレドで声が届いたとか音程がとれたでなく、ヴォイトレなら、体、呼吸、発声、共鳴が楽器として整ってきているかを目的にします。そして、その判断を基準化していくのです。

 迷い、悩み、もがき苦しむことでわかってくるものを、トレーナーが先にこうだよと示してしまうと、それをまねて、同じようになる。それがレッスンと思っている人が多いのです。レッスンの代価は、トレーナーのノウハウではないのです。それは、やめさせず続けさせるようなノウハウですが。

 ヴォイトレは、声のトレーニング、声の力をみるのですから、その目的は、声一つ、一声の違いというように考えたらわかりやすいでしょう。

 もちろん、それだけですべては得られません。同じメニュでもいろんな目的や判断があります。ほかのメニュもそこから派生します。

 たくさんのメニュを順にこなしていくだけでは、力はつきません。「何曲覚えたからすごい」というのと同じです。すごいなら、一曲でも一フレーズでも一声でもすごいです。形や数で満足するのが好きなのはよしとしても、そこで終わってしまってはもったいないですね。

 

○多様なもの、変じるもの

 

 メニュもやり方も、すべて変じて多様なものになります。変じてあたりまえです。トレーナーも多様でありたいものです。多様であることは豊かなことだからです。

 レッスンで、やり方がどうとすぐに言う人をみると、そう前に、なぜ一度、受け入れてみて学ばないのかと思うのです。私も瞬時に変じているのです。変じたものでなく、変じることを学ぶべきなのです。

 先生やトレーナーでは、大して変われらないかもしれません。変わらないのをよしとしている人も少なくありません。

ここに入ったときのトレーナーも2人に1人はそんな感じでした。「私が教えられた発声を教えにきました」というようなものです。それを今は「私の発声を教えにきました」にしてスタートしていただくようにしたいます。そういうトレーナーしか採らなくなりました。

 一方で、どのトレーナーも、自分以外にも、いろんな正解、いや、いろんな方法やよいメニュがあるとわかるのに、案外と時間がかかります。わかっても、それを使って教えるのがよいのか、それで早くできるようにするのがよいのかは別です。

 すぐれた歌唱をする人ほど、自分の過去のプロセスに自信をもっているから変わりにくいものです。特に、教える相手が自分よりも未熟であるとそのままです。変わらないのはまだよいのですが、「変われない」のが困るのです。応用力がないということです。

 

○通じる

 

 普通、トレーナーは、自分のやり方があまり通じない人や合わない人とは長く接しません、そういう人は、伸びないとみなされるか、他に移るからです。他のトレーナーで上達していくようなプロセスを知ったり経験したりする機会がほとんどないでしょう。そのような経験を積むと、基礎があるトレーナーなら一気に変われるのです。しかし、そう簡単ではないようです。

 トレーナーも変われないと、トレーナーが複数いて教えている、この研究所では生徒がつかなくなってしまいます。本当の基礎があるからこそ、自在に対応できるようになるのです。

 「自分の方法が通じない」ということを認めるのは勇気がいります。どのようなトレーナーでも大半は、生徒よりは声は出るし歌はうまいので、生徒は、それなりにいろいろ学べるからです。

 ところが、ここにはプロの人や異なる分野の一流の人、トレーナーより社会的に活躍している人もきます。他のスクールのすぐれたトレーナー、ベテランのトレーナーに教えられている人にも教えます。これまで学んでことだけでは通用しないことが起きます。そこで、トレーナーも自分の問題として突きつけられるのです。

 そういう機会が多いと学ばざるをえません。トレーナーの方が生徒より学んでいてこそ、生徒も接する価値があるのです。私も、こういう環境で、今も新たに学ばされ、力不足を感じることばかりです。ですから、私たちの学んでいるプロセスとして、こういう学びの情報が尽きることはないのです。

 

○やり方もメニュも無限

 

 今の私は、他のトレーナーや他のやり方の方が早く、いや早くよりも将来的により大きな可能性を得られるというなら、自分のやり方に固執しません。

 トレーナーが自らを絶対視しているのはよくありません。他のスクールでは、よくみました。そのために、もっと学べるのにあまり学べないことは、生徒にもトレーナー本人のためにもよくありません。他のトレーナーや、そのやり方を批判的にみて、試しもしない、意見をも聞かない、それで充分に通じるのは、いつまでも低いレベルだからです。対応において、それを許容しているからです。他に替われるトレーナーがいないのは、あまりよいことではないでしょう。

 

○トレーナーの自立

 

 私は、トレーナーには、いらしてから23年、本人のやりたいようにやらせます。生徒に対してきたのと同じスタンスです。本人が生徒と接して学んで自ら気づいて変わるのを邪魔したくないからです。これまでの私たちと異なるやり方やメニュを、ここで発達させてもらうと、お互いの次の発展につながります。

 ですから、最初に他のトレーナーや私のやり方を学ばせません。日本では、とても新しいことと思います。ある程度、本人が対処法を確立しないと比較もできないからです。いらっしゃる時点で、少なくとも56年以上の本人自身の声のキャリアがあってのことです。

 最初は、新しいトレーナーは遠慮して、誰にでもわかりやすく伝えようと、あまり我を出さないものです。そこでは、大体よくも悪くもない。ベテランのトレーナーとは、違う新鮮さがあり、生徒にも好まれます。それも大切な武器です。

 ところが、その後、新鮮さがなくなり、偏り、個性と共に、くせが出てくるのが普通です。自信をもつとそういうようなことになります。そこからが本当のレッスンになるかどうかの勝負です。独自の存在価値をもって自立できるかということなのです。

 

○挫折すること

 

 自分を疑い続けているトレーナーには自信を与えますが、疑ったことのないトレーナーには、挫折から学んでもらいたいと思っています。早く挫折して欲しいので、ベテランの生徒や難しい生徒を混ぜたりします。うまくいかないところにこそ、その人の個性やよさも出てくるからです。

 挫折や失敗のないトレーナーでは、人を育てられません。自分が学んでいるということは、より高いレベルのことが求められるようになることです。その分、失敗やうまくいかないことに必ずぶち当たるものです。誰でもよくする、すべてうまくできると言っているような人は、目標が低いか自己のやっていることの把握もできていないということです。だから続けられるということもありますが。

 多くのトレーナーは、発声を学ぶときの挫折を経験に乗り越えたと言います。それでは、ただの自己PRになりかねません。ここで問うているのは、トレーナーとしての挫折のことです。

 プロデューサーでオーディション対策というのなら、その人のもっともよいものをまとめ、よくないところをすべて省くでしょう。ですが、レッスンなら、悪いものをとことん出してもらうことが大切です。そこからよいレッスンになっていくと言っています。

 レッスンは、最初からスムーズにいくとは限りません。目的を高く大きく変えていくなら挑戦であり冒険だからです。すぐにうまくいくようなのは、少しうまくなるくらい、私からみると、さして変わりがないのをよしとしているからです。順調で楽しかったレッスンも、あるとき、頭打ちになり、うまくいかなくなる。その先からが本当の学びなのです。早くそこまで行かせたいのです。

 

○表現力を高める

 

 ときに、表現力をつけたいと言って来る人がいます。この場合、ベテランの人ほど変わるのは難しいことです。初心者は、一流のものを聞くこと、そこから力が引き出されるようにプログラムすれば、後は時間をかければよいのです。

 しかし、ベテランは、それが終わったレベルに達していると、新しく入れるにも、入れ方から、気づきから学び直さなくては大して変わりません。よいものが相当に入っている人ほど難しい。そこでは自らを白紙にできるか、ということです。頭だけがベテランになっていて、力が伴っていない人は、さらに難しいことです。

 表現力をもう少しつけたいというなら、技術の問題ですから、発声の基礎からやり直します。しかし、本当につけたいなら、これまでのキャリアや自信まで白紙にします。

 これまでのうまくやれてきたことが、さらなる成長、可能性の追求を邪魔していると考えるくらいの覚悟が必要です。その覚悟があれば、そこまで高いレベルで気づけいているなら、最高のプログラムとして与えられます。そこから自分にないものを必死で入れ込みます。こういう人は、本当に稀です。ほとんどの人は、自分でやってきたことを取り戻し、確認できたら満足してしまえるのです。

 

○トレーナーの支え

 

 ヴォーカルというのは、自己肯定力がないと続けられないものですから、どこかで自信過剰、自惚れがあります。まして売れた人ならプライドも相当に高いものです。売れていないのにプライドだけが高い人は、難しいです。

 よい歌い手でも、自己肯定力があまりに強いため、世に出られないタイプもいます。そこには目をつぶり、他の人に任せよというのですが。

 自分が売れてもいないのに、そういう人たちにズケズケ言うとしたら、トレーナーは、歌手や役者と違うものに支えられていなくてはなりません。歌やせりふに対して声、ステージに対してジム、本人一人だけに対して多くの人、というのが、トレーナーのキャリアです。長い年月での声の育成プロセスの把握や、そのプログラム、結果の分析なども、アーティストには自らの体験しかないので、トレーナーに求められる経験です。よくわからない世界だけに多くの人を長い時間みた経験、それも一人で行うのでなく、多くのトレーナーを介してみてきました。うまくご活用ください。

 

○有能ゆえの無能

 

 一人で指導している人は、その人に合わない人が辞めていくので、もっとも大切な、自分に合わない人への対処について、あまりにも学べていません。残るのは、自分のやりやすいタイプか自分のやり方に合わせられるタイプで、そこでの効果から全てをみるからです。これが、歌のうまい人は声楽家のところで伸びるが、下手な人はもっと悪くなると、竹内敏晴氏の疑問への回答の一つです。

 私は心身が丈夫というか、人並みなので、そこの弱い人への対応は遅れました。心身が弱い人へは、それを克服してきたトレーナーが適任で、その経験を基に対応してくれます。私は喉が弱く大声も出なかったので、そこがもっともベースとなりました。それと同じく、有能なアーティスト、歌手、トレーナーが、一般の人への対応にうまくいかない。これは実質面でのことです。

 特にクレームがあるからでなく、本当はもっと力がついていなくてはいけないのが、少しうまくなって止まっているのは、「教える人が有能ゆえ、他の人に対して無能」ということなのです。

ヴォイトレはトレーナー本人が「有能なところこそ、対処に無能になる」です。この有能さを他人に活かすには、トレーニングの長い経験と、他のトレーナーからの気づきが必要です。

 

○二極論の補足※

 

 「二極論」については、私のこれまでに書いたものを参考にしてください。以下、補足です。

A.役者型―劇場 視覚 イベント パフォーマー 詞 ストーリーテラー(漫才) 詩人 ことば スタンダップコメディ 熱狂 音楽性 インタラクティブ 詞先 (今の長渕剛、美輪明宏)

B.ミュージシャン型―BGM 聴覚 ライブ バンド メロディ、リズム 音楽性スキャット プレイヤー 音楽、インストルメンタル 曲先  (昔の長渕剛、憂歌団、横山剣)[敬称略]

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