8.閑話休題

閑話休題 Vol.82「薙刀」(2)

〇歴史

 

人が最初に手にした武器は石でした。石器を発明し、石刀、石鏃(セキゾク)を持つようになり、これを棒の先につけて石槍とします。さらに金属を用いた鉾、長刀と長い柄の武器が出てきます。

薙刀は、「菖蒲造」と呼ばれる形の刀身を、長い柄の先に付けたのがはじまりです。9世紀半ばから矛に代わって使われ始めました。

長い柄の先に刀身が組まれているので、離れた距離からの斬り付けられ、騎馬武者のように弓が扱えない下級武士や雑兵に薙刀は広く使われました。平安末期の源平合戦には僧兵が好んで用いました。

 

鎌倉時代 柄(つか)の長さ約4尺、刃の長さ約3尺で総長約7尺と、比較して短いのが特徴です。遠距離から馬上で弓を射る騎射で名乗りを上げて一騎討ちを行うには、手持ちの武器による接近戦(打物戦)が行われます。やがて、戦闘が、徒戦(かちいくさ)となると、薙刀は武士から足軽まで広く用いらます。

鎌倉時代頃から刀身の身幅を広げて、反りを強くした形状に変わりました。重量を増すため、棟(むね:刃先と反対側)側に山型の突起を付けた薙刀が制作されます。

一騎打ちが、戦闘方法として主流となっていたので、長いリーチを取って相手を攻撃できる薙刀が重用されたのです。

武蔵坊弁慶が義経と五条大橋で振って戦ったのが薙刀です。

♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶が、長い薙刀振りかぶり、牛若めがけて斬り掛かる

 

南北朝時代 長大に発達しました。なかには、柄の長さ約5尺、刃の長さ63寸で総長約113寸(約333cm)の大薙刀も制作さました。

小薙刀では、柄の長さ約3尺、刃の長さ22寸という寸法の薙刀が制作され、歩兵の主要武器として使用されました。馬上の武器としては太刀、大太刀、槍、鉞なども使われたが、薙刀が一般的でした。

斬るだけではなく、刺突や石突を使用した打突、柄での打撃ができる薙刀は、騎射技術を失った南北朝時代や室町時代、武士の重要な武器でした。大薙刀では、敵の騎馬の足を薙ぎ払って落馬させました。

南北朝時代後半には、長巻、槍が、戦国時代には、火縄銃が出現して、薙刀は使われなくなっていきます。

応仁の乱の頃より、足軽による集団戦に変わりました。重量のある薙刀を振り回すと、誤って味方を討ってしまうことになりかねません。

槍は、薙刀と同様に長い間合いがある分、足軽なども容易に扱うことができ、甲冑の隙間から相手を突き刺しダメージを与えられます。

 

室町時代 柄の長さ9尺、刃の長さ2尺となり、柄の長さに比べて、刃が短くなります。

 

江戸時代 武士の間では、薙刀は嫁入り道具として定着、美術品としての需要が高まります。名工による刀身を用い、拵は金梨子地、蒔絵、螺鈿などの細工を施し、鞘も実用を外れた特異な形状や豪華な仕上げ。刀身のみならず拵や鞘も合わせて文化財指定された薙刀もあります。これら江戸期の鞘には、家紋が入れられています。女性が菩提寺に奉納することもありました。武道としての薙刀術が確立、各藩で様々な流派が生まれます。

薙刀や槍は、武の威力の象徴として大名行列の先頭に立てられました。

 

明治時代 刃の反り具合から、反りの大きい「巴形」、反りの小さい「静形」と分けられる。撃剣興行で人気。明治中期以降、女子武道として薙刀が重視されるようになり、多くの女学校で薙刀の授業が行われます。大日本武徳会は、昭和9年に薙刀術教員養成所を設立します。

 

大正時代 太平洋戦争後にかけて、女性のたしなむ武道。

 

昭和30年、山内幸子元公爵夫人を会長に全日本なぎなた連盟が発足します。ひらがなでの、なぎなた、に統一します。

 

現在 0地方の伝統芸能や古流武術としての薙刀を伝承する団体が現存。武道・競技としての「なぎなた」が学生の部活動など。

全日本なぎなた連盟によって現代武道として制定されています。天道流、直心影流、戸田派武甲流、楊心流などがあります。剣道などとの異種試合もあります。すね当てを着用します。

「リズムなぎなた」も人気。外国人の人気も高く、海外からの参加者も多いようです。

漫画「あさひなぐ」は、作者こざき亜衣が2011年よりビッグコミックスピリッツで連載されヒットしました。女子高生もの。後に映画、舞台化します。伊丹市でコラボし、なぎなたの街伊丹として地域振興に供しています。

閑話休題 Vol.81「薙刀」(1)

〇特徴

 

薙刀は、奈良時代から平安時代にかけて出現した、相手を薙ぎ斬ることを目的にした日本固有の長柄武器。「太平記」に最も登場する武器で、南北朝時代に普及しました。

薙刀は、間合いが広く、斬る以外にも刺突や打撃を与えられます。刃の先が大きく反っているのが特徴で、刃の長さによって「大薙刀」と「小薙刀」に大別されます。

 

長い柄の先に反りのある刀身を装着し、「長刀」(ながなたとも読まれた)と言われていました。「刀」に打刀が生まれると「短刀」と区別するために呼称した「長刀」と区別するため、「薙刀」となりました。

長巻(ながまき)は、長大な太刀を振りやすくするために柄をそのまま長く伸ばした柄の長い刀で、薙刀は、刀の柄を長くしただけではなく刀身と柄も斬撃に特化させたものです。

 

柄の先に反りのある刀身が付いており、刀剣に近い。

突くと斬るを目的に使われ、刀身は平均約30cm60cmの長さ。

(拵え)は平均約90cm180cmで刀の鍔がある。

全長約210cm超の「大薙刀」もあり、通常のは「小薙刀」とわけられる。 

 

槍とは違い、柄の断面が楕円形。

戦場では刀身は剥き出しであるが、平時には刀身には鞘が被せられていた。

槍と違い地面に突き立てることはないため、石突は先尖形ではなく半月形など石突側でも斬り付ける用途に向いた形。

水軍用もあり、柄が短く、艪としても用いられるように石突が翼状。

実戦用は、必要最低限の金具に漆塗。

熨斗付薙刀(のしつきなぎなた)や銀蛭巻ノ薙刀(ぎんひるまき)のように、柄に装飾を施したものもある。鍔は小振りなものが主流、

鍔のないものもあるが、大太刀のように大型の鍔を持つものもあり、鍔付薙刀とも呼ぶ。

 

遠心力を利用して、腕力を要せず使用できる薙刀は扱うのには技術が要ります。その長さを利用して、敵を自分の懐に入れないようにして、距離を保ったまま、薙ぎ払うか突くなどの攻撃を繰り出すためです。

刀よりも遠い間合で戦える

長くも短くも扱える

切るだけでなく、打つ、祓うなど多彩

左右を持ち変えて使える

重量があるため、衝撃が強い、

両手を広げて持てば扱いやすい

反りがあり、ひっかけることができる

腕だけでなく全身足腰を使うため、身体操作を学ぶのに適切。

 

欧米では、日本の薙刀はヨーロッパの長柄武器であるグレイブ、パルチザン、ハルバードなどと類似の武器。グレイブと比較して、薙刀は刀身の部分が日本刀のようになっています。中国の青龍刀も似ています。

 

アニメ映画もののけ姫で、サンが持っているのが槍、ゴンザがアシタカに曲げられたのが大太刀、タタラ場の人々が手にしていたのが薙刀。地侍や鎧武者にも長巻を使う者がいます。

閑話休題 Vol.80「大和魂」(2)

<歴史

 

明治に入り、西洋のものが流入すると、岡倉天心らによって、日本流に摂取すべきという主張が現れ、和魂洋才が用いられます。和魂漢才のもじりで、大和魂の本来的な意味を含んでいましたが、西洋の知識や文化を必要以上に摂取することへの抵抗感もありました。

 

欧米列強に対抗できる国家づくりを目標に、欧米を模倣した中央主権的な国家体制が整備され、国民の統制教育も整備されました。それまでの自由主義的傾向の教育から、中央集権的・国家主義的傾向へと変わる過程で、大和魂は、日本精神として、国家忠誠心的な部分が強調されました。

 

1894年8月「支那征伐大和魂」鬼石学人

日清戦争が始まった頃には「銀の匙」(1913~1915年)中勘助で「朝から晩まで、大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきってゐる」と。

 

1900年、新渡戸稲造の「武士道」に“Yamato Damashi, the Soul of Japan”「大和魂は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」として宣長の歌を引いています。

 

夏目漱石は「吾輩は猫である」で、巷に大和魂が溢れている状況を皮肉って「大和魂は、それ天狗の類か」と(190510月、日露戦争直後、発表の6章(「ホトトギス」)。

 

日露戦争以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含み、日本精神の独自性・優位性の表現に変容。明治天皇も大和心、大和魂を詠んでいます。(1904年、3首)

 

第二次世界大戦期には、軍国主義的に、現状打破、突撃精神を鼓舞するのに使われました。日本の国家(国体)を支える日本人(臣民)の大和魂となります。

 

 「大和魂に磨きをかけて生産性を戦い抜くことである」(19439月、武田春爾 戦時安全訓)

「砲の不足は大和魂で補え」(中内功の談)

 

戦前のタバコの名称、敷島、大和、朝日、山桜。戦艦名、関島、大和、朝日。

神風攻撃隊、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊。

 

1967年「大和魂と星条旗」竹下トマスK    アメリカ移民日系人

 

2004年 なでしこジャパン 新語流行語大賞2011年 

 

2011年から 侍ジャパン WBC野球チーム

 

発言「大和魂を貫いてまいります」豪栄道/「大和魂で戦う」K1渡部

21世紀に入り、大和魂と入った本が、たくさん発行されるようになります。

 

2020年「大和魂」田中マルクス闘莉王(サッカー選手)幻冬社

 

アカツキ5(オリンピック女子バスケット2021

 

2021年ヘビメタバンド「LOUDNESS」が40周年、新曲をNFT(非代替性トークン)で販売。8/5日夜、初披露、新曲「大和魂」

 

<映画>

 

「大和魂」“The Man Who Laughs Last”(アメリカ)

早川雪洲氏がワーナー・ブラザース映画のために米国で出演録音した英語版映画。原作は雪洲氏が十八番ものとして上演した舞台劇(エドモンド・ジョセフ脚色、マレイ・ロス監督)。

長崎の名家の息子オトヤはスペインの血をうけた混血児ロジエタを愛していたが、ジムという男はオトヤを恋敵として憎み、一夜だまし討にし、ロジエタを誘拐して逃れる。10カ月後、南海の小港にジムとロジエタは姿を見せる。ジムはロジエタを監禁し、彼女は逃れようとしている。ジムはロジエタが意に従わないので嘆く。そこへ死んだと思ったオトヤが入って来る。オトヤはロジエタが自分を愛していること、長崎のピストルの件はロジエタの関知しないことを知り、ジムと最後の決闘をする。倒れたジムに向ってオトヤは笑う。「おれは勝った。10カ月前、長崎で貴様は笑った。勝って笑った。しかし、今はおれがこうして笑っているぞ。最後に笑う方が勝つのだぞ」

 

参考文献:「大和魂のゆくえ」(2020年)島田裕巳(インターナショナル新書集英社)/WikipediaWeblioほか

 

 

閑話休題 Vol.79「大和魂」(1)

<定義>

 

大和魂は、外国と比して、日本流であると考えられる精神や知恵・才覚などをいう。大和心。和魂。儒教や仏教などが入ってくる以前からの日本人のものの考え方や見方を支えている精神で、儒学や老荘思想に基づく「漢才(からざえ)」、学問(漢学)上の知識に対していう。江戸後期からは、日本民族特有の「正直で自由な心」の意味。

 

日本民族固有の精神。勇敢で、潔いことが特徴。天皇制における国粋主義思想、戦時中の軍国主義思想のもとで喧伝。

 

・世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

・専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立てていくための才能や手腕。

・中国などの外国文化や文明を享受するうえで、対になる(日本人の)常識的・日本的な対応能力。

・知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情でものごとを把握し、共感する能力・感受性。

など、根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。

・日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)

 

イメージ:大和国(奈良県)日本そのもの、富士山、桜、出雲大社、大仏、戦艦大和、もののあはれ

 

 武士道との関連 厳しい規律と自己抑制、運命へ服従、忠誠心。自己に打ち勝つサムライ精神。

 

神道との関連 大気そのものの中に何かが感じられる、宣長の句の中の、朝日に匂う、には、何か神々しいもの、畏れおおいものを感じます。

 

<歴史Ⅰ>

 

「そらみつ大和の国は水の上は地行(つちゆ)くごとく船の上は床に居るごと大神の斎へる国ぞ」万葉集

大和魂の初出は「源氏物語」の21帖「少女」。

「なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」

 

大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられていました。

 

大和心も、また、知性に対する知恵の意味。学問の研鑽を通して身に付くものでなく、その人間に生来備わっているとされるもの。今昔物語集では、和魂で使われています。

 

江戸時代中期以降の国学で上代文学の研究が進み、大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比され(真心)、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念となります。

 

宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠みました。

 

江戸後期になると国学者によって、大和魂は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われます。遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されます。(和魂漢才 菅家遺誡)儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うもので、近代化への原動力となります。

 

アメリカの来航に密航を企て倒幕の志を抱いた吉田松陰。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」

閑話休題 Vol.78「風呂敷」(2)

明治期以降は広く普及し、結納などハレの日の必需品となりました。また商品を運んだり、学校に教科書や道具を包んだり、日常生活になくてならないものでした。

大正から昭和の初期、化学染料が国産化され、人造絹糸(レーヨン)の製造やスクリーン捺染及びローラー捺染が普及しました。 今も続く店もあります。

それ以降、結納、宮参りなど格式ある場面や商売に、学校に通うランドセル替わりにと、なくてならない存在でした。

 

戦後は、染色技法も開発され、絹や木綿以外の化学繊維も使われるようになり、さまざまな風呂敷が作られるようになりました。終戦から昭和30年代にかけて、多くの風呂敷屋ができました。

それは、昭和30年代まで続きます。昭和40年代は、ナイロンの風呂敷が引き出物などを包むのに普及し、大量生産されます。

製造では、手織機から力織機へ、小幅から広幅織物へ、自家生産から工業生産へ、天然染料から化学染料へと移ります。西洋の技術での大量生産の技術革新が行われました。

 

昭和40年頃には、ナイロンの風呂敷(ボカシ染め)が引き出物などを包むのに大量生産されました。また、記念品としても使われました。昭和45年頃に生産はピークを迎えます。

その後、紙袋やレジ袋の普及、近代化する中で、古臭いとか面倒でなど、使われなくなってきました。ポリ袋、紙袋に押され、急速に生活の場面から消えていきます。

 

最近では、エコグッズとして見直されています。「もったいない」というキーワードで風呂敷が取り上げられました。日本文化を見直す風潮にも相まって、海外でも認知され始めています。

 

<製造と用途>

絹と木綿の素材加工方法によって、ちりめん、家紋などを入れた紬(つむぎ)、夏用の着物と同じ絽(ろ)などの風合いがあります。現代ではこれらに加えてレーヨン、ポリエステル、アセテートなどの化学繊維が加わります。

 

大きさは、古くから織物の一反(幅約35cm40cm、長さ約12m)を利用して無駄なく裁断し縫製し、若干の長短があって正方形ではありません。短辺約34cm、長辺約37cm鯨尺九寸のものを一幅。一反を五等分して縫製したものを一反風呂敷(六幅)といい、おおむね畳二枚分の大きさが最大。

現在では、一幅の倍となる約68cm×約71cmの二幅、その倍の四幅、六幅と呼ばれる、それぞれ約204cm×207cmの整数倍、中幅と呼ばれる約45cm四方のもの、二四幅と呼ばれる約90cm四方のものが主流です。

 

二幅や中幅は、結婚祝いやお中元などの慶弔用です。二四幅は買い物に、四幅は引越し・帰省。六幅は、江戸で布団の下に敷き、災害発生時に家財道具を入れ、そのまま包んで逃げるのに使ったものです。

現代では、二幅・中幅・二四幅が主流で、四幅はコタツ掛けに、六幅はテーブル掛けや壁飾りに使われています。基本となる結びは「一つ結び」と「固結び(真結び・かなむすび)」。

 

<文化>

正月に食するおせち、春には花見弁当、秋祭り等で料理を詰めた重箱などの包みや日本酒等の持ち運びに使います。結び方を組み合わせたりします。

 

「泥棒が盗品を風呂敷に包んで背負う姿」で描かれている「唐草模様」も元来、吉祥文様であって、めでたいものです。唐草は伸びて限りがなく延命長寿や子孫繁栄の印として縁起が良い物とされていました。

 

ことわざとしては、「大風呂敷を広げる」「風呂敷を畳む」

古典落語には「風呂敷」という演目があり、間男(まおとこ)の噺がでてきます。長屋噺「火焔太鼓」、人情噺「文七元結」(ぶんしちもっとい)などに、小道具として使われています。葛飾北斎など、江戸の浮世絵作家が描く絵にも出ています。

 

風呂敷に似たものは、アジアや南米、東アフリカにもあります。中国では「包袱」(パオフー)、韓国では「褓子器」(ポジャギ)、東アフリカでは「カンガ」などです。

 

 

参考文献:風呂敷いろいろ京都掛札/風呂敷の知識(宮井株式会社)/風呂敷の歴史(丸和商業)/Wikipediaなど

閑話休題 Vol.77「風呂敷」(1)

<語源>

「風呂敷」が、モノを包むものとして用いられるようになったのは、江戸時代も18世紀に入ってからのことです。それまでは、包まれているものを冠して「けさづつみ」「ころもづつみ」「おおづつみ」などと呼んでいました。

古くは、収納のために平包(ひらつつみ)、または古路毛都々美、衣包み(ころもつつみ)と呼ばれ、舞楽装束を包んでいたとされています。それは、碧色の綾を継ぎ合わせて作ったもので、一般の人は手に入れることはできませんでした。

語源としては、室町時代、将軍の大湯殿に入った大名たちが衣服をまちがえないため、家紋をつけた帛紗(ふくさ)に、脱いだ着物を包み、湯上がりに帛紗の上に座って身づくろいをしたのが風呂敷の始まりといわれています。風呂の中で敷き、湯上がりにその上で身体や足を拭うものだったのです。風呂敷で着物も包み、湯具を包んで持ち帰ったといわれています。また、茶の湯で道具として用いられる風炉に由来する説などがあります。駿府徳川家形見分帳の記載が最初です。

正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っています。中身を固定するための紐が取り付けられています。伎楽衣装を包む「伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)」、子どもの衣装を包む「師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)」という呼称で内容物が墨書されていました。

 

<歴史>

奈良時代、奈良の尼寺・法華寺に蒸し風呂があり、スノコの下から薬草などを燃やして煙を出し、祈祷や疫病対策をしていました。直に座ると熱いので、むしろを敷いたようです。

平安時代には、大きな包みをいただいて運んでいる女性が描かれたものが残っています。「平裹」・「平包」(ひらつつみ)と呼ばれ、庶民が衣類を包み頭にのせて運んでいる様子が描かれています(「裹」は「裏」(うら)とは別字)。古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も「和名類聚抄」にうかがえます。

京都高山寺に伝わる絵巻物「鳥獣戯画」は平安から鎌倉時代のもので、そこには平包みのようなものを持った猿が描かれています。

 

武士が台頭するようになってからは、戦で取った敵の首を、布で包むのが礼儀とされました。「首包」です。

 

室町時代には、将軍足利義満が建てた湯屋に公家が入浴したとき、湯殿の下に敷いたり、衣類を間違えないように家紋を入れた風呂敷に包んだそうです。入浴することは心身を清めるのに白衣で入るのが作法で、そのため広げた布を「風呂敷」と呼んだようです。

蒸し風呂であったため、「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていました。濡れた風呂衣を風呂敷に包んで持ち帰ることなどで敷布としての役割から包んで運ぶようになったのです。

 

江戸時代、銭湯が普及し、脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷という名が定着してきたと考えられます。花見など物見遊山が大衆化したことでも使う機会が増えました。

 江戸時代初頭、銭湯が誕生し、元禄時代頃から江戸や上方の町で盛んになり、庶民も衣類や入浴用具を「平裹(平包)」に包み持って銭湯に出かけています。「平包み」は「風呂敷」よりも長い期間、使われていたようです。風呂に敷く布で包むことから、「平裹(平包)」に代わって「風呂敷包み」や「風呂敷」と呼ばれるようになります。「風呂で敷く布」から、「包む布」として行商人たちによって全国に広められていきます。商人や旅人の振り分け荷物を包むのにも使われ、運搬用品となってきます。また、旅が一般化したこと、花見など物見遊山が大衆化したことで、外に出る機会が増え、風呂敷の使用機会が増えました。上方商人が江戸で商標の入った風呂敷で評判を呼び、成功を手にした話があります。

 

普及には、技術革新によるところがあります。木綿は、戦国時代の終わりまで輸入に頼っており、貴重品でした。江戸時代に栽培が行われるようになり、麻に代わる庶民の衣料として普及しました。

火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。手近にある代用品として「早風呂敷」と名付けられました。

 

閑話休題 Vol.76「和菓子」(2)

<祭典>全国菓子大博覧会:「お菓子の博覧会」は明治441911)年に東京・赤坂溜池の山会堂で「帝国菓子飴大品評会」

 

五感:「味覚」食べておいしい/「嗅覚」小豆などの素材のほのかな香りを楽しむ/「触覚」楊枝で切るときや、歯ざわり、舌触り「視覚」目で楽しむ/「聴覚」菓銘と呼ばれる名前 

意匠や菓銘は、古典文学や日本の歴史、風土、四季の移ろいなどの自然をたくみに取り込んでいる。

 

<種類>水分30%以上が生菓子、10%以下が干菓子。その間が半生菓子。

原材料や製法で「もち菓子」「焼き菓子」「練り菓子」に分類。

もち菓子:おはぎ、赤飯、関西風桜餅、すあま、羽二重餅

蒸菓子:饅頭、軽羹、ういろう、ゆべし

焼き菓子:平鍋もの―どら焼き、関東風桜餅、今川焼、たい焼き、茶通/オーブンもの―栗まんじゅう、月餅、桃山、カステラ、黄身雲平/干菓子―ボーロ

流し菓子:琥珀羹、羊羹、水ようかん

練り菓子:練り切り、こなし、求肥、雲平

揚げ菓子:生菓子―あんドーナツ、揚げ月餅/干菓子―かりんとう、揚げ煎餅、新生あられ、揚げ豆、揚げ芋

あん菓子:石衣

おか菓子:最中、鹿の子餅、州浜

砂糖漬け菓子:甘納豆、文旦漬け

打菓子:落雁

押し菓子:志ほがま、村雨

掛け菓子:雛あられ、おこし、五家宝

飴菓子:有平糖、おきな飴

豆菓子:炒り豆

米菓:あられ、煎餅、八ツ橋

 

<用途による分類>

並生菓子(なみなまがし、「並菓子」とも)、朝生菓子(あさなまがし、朝生)と上生菓子(じょうなまがし)

その他に、茶席菓子、引菓子(ひきがし)、式菓子、蒔もの菓子、縁起菓子、工芸菓子

 

<材料>豆類と餡 粉類・米粉 砂糖。鶏卵を例外としつつも植物性の原材料が原則。

 

 

参考文献:「本の万華鏡」/「和菓子の歴史」青木直己(ちくま学芸文庫)/Wikipedia

閑話休題 Vol.75「和菓子」(1)

「和菓子」は日本の伝統的な菓子、生菓子と干菓子。洋菓子に対する言葉で、餅菓子、羊羹、饅頭、最中、落雁、煎餅など。唐菓子、南蛮菓子。

油脂や香辛料、乳製品より米・麦などの穀類、小豆・大豆などの豆類、葛粉などのデンプン、糖を主原料。緑茶に合わせる。

元来の「菓子」は、果物や木の実。今も果物を「水菓子」。

 

<歴史>『古事記』『日本書紀』 垂仁天皇の命で田道間守が橘の実を。田道間守は菓祖神。

遣唐使の粟田真人が唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子をもたらす。

奈良時代:加工食品としての菓子の意味を併せ持つ。

「唐菓子(からくだもの)」という料理が唐からもたらされる。米粉等を主材料に甘味料等で味付け、油で揚げたものが多い。

平安時代:『源氏物語』若菜に「椿餅(つばいもちゐ)」は、餅の粉に甘葛(あまずら)という甘味料をかけ椿の葉で包んだ餅菓子。

鎌倉時代:僧侶「お茶と和菓子」。喫茶の習慣(14世紀頃成立の『喫茶往来』)。

玄恵の『庭訓徃來』には、点心として羊羹、饂飩(うどん)、料理としての饅頭。

点心。1341年、饅頭は仁和寺の第二世龍山徳見に弟子入りした宋の林浄因が「奈良饅頭」を売り出す。羊豚の肉が餡。豆類餡に変わる。羊羹も小豆を使用となる。

室町時代:『職人歌合画本』に饅頭売り。砂糖饅頭(さたうまんぢう)、菜饅頭(さいまんぢう)。砂糖は、室町時代までは、蜂蜜や蔓草から採った甘葛、米などの穀実から作った水飴が主たる甘味料。ポルトガル船を介して砂糖が継続的に輸入。琉球産の黒砂糖、讃岐国などの国産砂糖「和三盆」。

室町時代:カステラ、ボーロ、カルメラ ポルトガル カステラ 鶏卵を食べることのなかった日本に転機。

江戸時代:和菓子は「百菓」繚乱。「銘」が付けられ始めるのも慶長・寛永年間頃(1596-1644)。元禄年間(1688-1704)には、琳派芸術の影響も受け、古典文学や四季折々の風情が菓子の意匠や銘のなかに取り込まれる。

庶民の間で駄菓子文化。売り歩き。江戸の飴は、穀物由来の甘味料。目黒の桐屋と雑司ヶ谷の川口屋が流行。飴売りのパフォーマンス。鎌倉節の飴売り。

節句は、元は「節日の供御(くご)」(「~供御」とはお供え)

「上菓子」は、高価な白砂糖を使う。「献上菓子」「下がりもの」

江戸菓子、京菓子「波牟(パン)」

閑話休題 Vol.74「日本酒」(3)

<普及>資格制度:日本酒唎酒師、国際唎酒師、日本酒学講師、国際日本酒講師/ワイン教育機関WSETでも日本酒講座を開設/日本ソムリエ協会(JSA)は日本酒資格「SAKE DIPLOMA」認定

1911年~日本酒コンクール「全国新酒鑑評会」/2009年~「全国燗酒コンテスト」/2011年~「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」/2012年~「SAKE COMPETITION」(実行委員長、中田英寿)/観光庁「酒蔵ツーリズム推進協議会」を設立。/「SoftBank Innovation Program」ソフトバンク株式会社/「堀江貴文イノベーション大学校(HIU)」/「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」中田英寿/SAKEフェス「Craft Sake Festival」/日本酒検索アプリ「Sakenomy」/2014年、安倍首相からオバマ大統領へ贈られた「獺()(っさい)」旭酒造(山口県)の最高峰「獺祭 磨き その先へ」/2018年、純米大吟醸酒&純米吟醸酒部門プラチナ賞受賞。33千円。

 

<温度>いろいろな温度で楽しめるのは日本酒だけ。温度によって味や香りの変化を楽しむ。[冷酒]5~10℃すっきりした風味。/[常温]20℃収斂性の酸味のち苦み。/[人肌燗]3537℃味が後退した結果、まろやかな酸味、甘味が強まり、やわらぐ苦み。/[ぬる燗]40℃苦みがぐんと減るためきれいな酸味。/[熱燗]50℃酸味が強まり味のバランス崩れる。

関西では、北前船により昆布を入手。出汁の味を濃厚に使う出汁文化。江戸では、酒は杉樽で運ばれ、杉の香りが強い酒となり、木の香りを消すために塩味の濃い味の料理となる(江戸の濃口醤油へ)。上方から江戸に下ってくる酒として「下り酒」→「くだらない」。酒器を楽しむ「徳利」「御銚子」「片口」。注ぎ方「ソビバビソビ」「鼠尾馬尾鼠尾」あふれるほど注ぐ「もっきり」。「お酌」「差しつ差さされつ」。

 

<俗説、その他>酔いやすい:アルコール度数は15度。/太りやすい:日本酒に多く含まれるグリシンやアラニンは胃液の分泌を促し食欲増進。/肝臓への負担が大きい:酔いやすさからきたイメージの可能性。

 

<その他>ヤマタノオロチに飲ませた「八塩折之酒(ヤシオリの酒)」 ゴジラを倒す「ヤシオリ作戦」

日本三大酒神神社:大神神社(奈良)、梅宮大社(京都)、松尾大社(京都)

江戸時代1698年、全国に27千場の酒造場。2018年には1,580場。

最も古い日本酒メーカーは、1141年創業の須藤本家(茨城県笠間市)

値段の高い酒「純米大吟醸光明(こうみょう)山田錦」(山形県)22万円。

日本酒の輸出総額は10年(20092019年)で3倍(71.8億円から234.1億円)。

海外で人気「梵の初雪しぼりたて五百万石」(福井県)。「美田」(Biden):栃木、福岡。

 

参考:「外国人にも話したくなる日本食」永山久夫(KADOKAWA)。「教養としての日本酒」友田晶子(あさ出版)。週刊現代2020.12/20

閑話休題 Vol.73「日本酒」(2)

<工程と材料>

精米、洗米、浸(しん)(せき)、蒸(じょう)(まい)、麴造り、酒母(しゅぼ)造り、仕込み、もろみ造り、上槽(じょうそう)、火入れ、貯蔵、加水、瓶詰め、ラベル張り、出荷の順。

日本酒ならではの工程が、蒸米、麴造り、酒母造り。米には糖分が含まれていないので麴によってデンプンを糖化させてから酵母を加える。米を蒸してデンプンが分解しやすい状態にしてから麴菌を増やす。麴菌がデンプンを糖に変えている最中に酵母を投入、酒の素となる酒母を作る。

日本酒を作る麹:黄麹菌/アスペルギルス・オリゼ

 

米:「酒造好適米」(「酒米」)を使う。人気の酒造好適米4種:1位.山田錦(兵庫産)、2位.五百石(北陸地方)、3位.美山錦(長野県や東北地方)、4位.雄町(岡山県雄町)※山田錦と五百石で酒米の作付面積60

水:硬水使用が多い。「灘の宮(みや)(みず)」は硬水、カリウム、リン、マグネシウムなどミネラル分の多い硬水の酒は発酵が早く、辛口でキレがいい。軟水は米の香りを残したまろやかな味。日本では、水に近い方がいいお酒、クセのない方がいいお酒という嗜好「ワインは油絵、日本酒は墨絵」。

 

<味わい>

[a軽やか(辛口)、bしっかり(甘口)]×香り[c香り高い、d穏やか]

acフルーティ:淡白な味や薄味の料理が合う、タイ、スズキなど白身の魚「紀土(きつど)無量山(むりょうざん)」(和歌山県)、「大吟醸玉鋼(たまはがね)()瓶囲(びんがこ)い」(島根県)

ad軽快:油の少ないコハダの酢〆など「播州(ばんしゅう)一献(いっこん)純米超辛口」(兵庫県)、「日高(ひたか)()純米初しぼり無濾過生酒」(宮城県)

bc熟成:濃い味や甘みの強い料理、漬けマグロなど「木()戸泉(どいずみ)秘蔵純米古酒十年」(千葉県)、「七本(しちほん)(やり)山廃純米2017」(滋賀県)

bd旨口:マグロ中トロ、ブリなど「COWBOY(カウボーイ) YAMAHAI(ヤマハイ)」(新潟県)、「龍力(たつりき)特別純米生酛(きもと)仕込み」(兵庫県)

・「瓶内2次発酵タイプ」:殺菌などのための火入れをしないので瓶の中で発酵が続く。「南部美人あわざけスパークリング」(岩手県)

・「活性にごりタイプ」:発酵途中のもろみ(蒸し米に麴などを加えた日本酒の素)を粗漉しして瓶に詰める。「るみ子の酒特別純米活性濁り生原酒」(三重県)

・「炭酸ガス注入タイプ」:清酒に炭酸を入れる。「一代弥山(みせん)スパークリング」(広島県)

ブレスヴォイストレーニング研究所ホームページ

ブレスヴォイストレーニング研究所 レッスン受講資料請求

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

発声と音声表現のQ&A

ヴォイトレレッスンの日々

2.ヴォイトレの論点