8.閑話休題

閑話休題 Vol.99「香道」

1.源氏物語 香の文化の物語

1)「空薫物こころにくくかをりいで 名香(みようごう)の香など匂ひみちたるに君の御追風(おんおいかぜ)いと殊(こと)なれば うちの人々も心づかいすべかめり」(第五帖「若紫」若紫(藤壺の姪、のちの紫の上))

<空薫物> 御所で香るような馥郁(ふくいく)とした芳香。

<名香> 仏に祈るときに焚く香 奥の間に誰かがいて祈っている。

<君の御追風> 光源氏は 最高の香を身に焚きしめて 風に乗って漂っていった。

 

2)「風はげしゅう吹きふぶきて 御簾の内の匂ひ いとも深き黒方(くろほう)にしみて 名香(みょうごう)の煙もほのかなり 大将の御匂ひさへ薫りあひ めでたく極楽思ひやらるる夜のさまなり」(第十帖「賢(さか)())

<いとも深き黒方><名香の煙>黒方は最高のルームフレグランス、藤壺ならではの香り。

<大将の御匂ひ>若い光源氏、至高の香りが入り乱れるなどあることでない、極楽のような香りだ。

 

3)第三十二帖「梅(うめ)(がえ)」“六条院の薫物(たきもの)合せ”(明石の姫君の11歳 成女式)

光源氏が四人(紫の上、朝顔の君、花散里の君、明石の上)に香づくりを命じた。

「正月(むつき)の晦日(つごもり)なれば、公私(おおやけわたくし)のどやかなるころほひに、薫物(たきもの)合せ給ふ」

判定は、兵部卿宮、彼を源氏は「古今集」を引き合いに持ち上げている(「君ならで誰にか見せん梅の花 色もをも香も知る人ぞ知る」)。

「香染」「医心方」

<空薫物> 沈香をくだいて磨()って粉にしたものに、麝香とか特別の木の樹脂などを調合して練香をつくり、それを焚く。

 

2.香道の稽古 六国五味の伝が初伝、烓合(たきあわせ)が二伝、以上、皆伝まで八段階の免許。    

第二段階に入ると烓()き合()わせ。空薫物を『宇津保物語』『源氏物語』『日本書紀』『文華秀麗集』『菅家文草』『更級日記』『大鏡』『栄華物語』『今昔物語』『明月記』『宇治拾遺物語』

「競馬香(較べ香)」は、京都上賀茂神社の競べ馬に由来する組香。

「腕香」、「頭香」:麝香や竜脳や丁字()、白檀などを調合した練香を修験者が生身の腕や頭の上で焚いた。

 

3.茶道と香 茶道の点前に炭(すみ)点前(てまえ) 初炭点前で主人が客の前に持ちだす炭斗(すみとり) 炭斗のなかの右に香合の台となる炭を一つ置き、香合(香の入物)を置く。炉には練香を焚く。茶席では、客は必ず香名、香元をたずねる。

 

4.組香としての「源氏香」の成立は、だいたい江戸時代の享保年間。

染物屋で用いている「紋帖」を見ると、江戸時代のきまりと思われる“但し書”がついている。「箒(はは)()」の形は「吉、五、六月」、「花散里」は「凶、五月」、「行幸(みゆき)」は「吉、冬春」などと、文様の吉凶と季節が指定されている。吉凶の割合は、桐壷、夢浮橋を含めて2430と、凶が多い。

 

染織や調度品の文様として「源氏香」が用いられると、上流階級では香道の上で、「盤物(ばんもの)」という道具を使って遊ぶ組香が行われる。「源氏舞楽香」は、「紅葉賀(もみじのが)」と「花の宴(えん)」を基にして作られた遊びで、六種の香を用いて

左方(紅葉賀)青海波 秋風楽 光源氏

右方(花の宴)春鶯囀 柳花苑 朧月夜

に分け、碁盤目になった香盤の上に、桜、紅葉、菊、檜()(おうぎ)の立(たて)(もの)(造花のようなもの)を差し立てて、香を交互に焚いて、当てると立物を進めて勝負を競う。青海波、秋風楽、春鶯囀、柳花苑はいずれも雅楽の曲名、十二音階の調子笛を用いるなど、凝りに凝った仕立て。東福門院(後水尾天皇中宮・徳川秀忠の女(むすめ))は、この舞楽香を高度にして、光源氏と朧月夜の人形、八種の楽器、造り花、幔幕(まんまく)などを具(そな)え、楽しまれた。

 

5.連歌と香

「連歌では一巻を巻きあげるつど、執筆がこれを読み上げ、成就したその一巻の流れと到達したものを共有する。香道では聞香を終え、執筆の記録した料紙を上客から廻し読み、一座で創りあげたものを共にする。この記録の料紙こそ、連歌が求めつづけている座の芸術を、香りで象徴しながら個性ある筆致で刻むものだと思われる。

また「花月香」のように、記紙のかわりに香札を使う場合、記録の料紙には連衆の名の他に札名による花や木の名を併記するが、これなども景物を冠名とする連歌の付合のいとなみを感じさせる。

要するに連歌の側からいえば、連歌が表そうとするものを、香道は香りの世界を媒介に象徴的に成り立たせていったものと思われる。」

 

参考文献:「香と日本人」稲坂良弘(角川文庫)/「人はなぜ匂いにこだわるか」村山貞也(KKベストセラーズ)/「香と香道」香道文化研究会編(雄山閣)

閑話休題 Vol.98「盆栽」

お盆に土や砂、石、コケなどを配して、自然の景色をつくり、鑑賞する。中国や日本の伝統芸術。庭園、盆栽、生け花と同様に、自然の美を立体的に写実、表現しようとする立体造形芸術である。樹木単体の容姿から自然の美を想起させる盆栽とは異なり、配置や景色の工夫をこらす。

 

〇歴史

 

盆景は、盆石(ぼんせき)、盆庭(ぼんてい)、盆山(ぼんさん)などと呼ばれ、形として表現。

鎌倉時代1309年制作といわれる春日権現験記絵。

1620年(元和6年)、桂離宮を造営するにあたり、桂宮の指示で庭師に庭の見本、箱庭の始まり。中国からも盆景の技法が伝来。

江戸時代には盆景の本が出版。

1870年ごろ橋本市蔵が盆景の復興。

1890年ごろ和泉智川が化土(けと、泥炭の一種。挿し木を植え付ける)で山岳や奇岩などを造型する方法。盆景は発展。

1916年の昭和天皇立太子礼に、日比谷公園で菊花展と共に出展される。

 

〇手法

 

モチーフとしては、岩上の松や奥山の滝瀑など。

化土を用いた盆景では練ったものを金属製のヘラで岩石に造型。

人や動物、家屋を表現するために、焼き物、木彫を配置。一般的に長期に保存することはできない。

 

「縮小」極小主義 ミニチュアリズム、ジオラマ、箱庭

一寸法師や桃太郎や牛若丸 “小さな巨人”「小人」小人伝説 日本神話にはスクナヒコナ

「ひな」「まめ」「小屋」「小豆」

「細工」「小細工」

ごはん茶碗、文庫本、コンサイス辞典、カラオケルーム、カプセルホテル、ウサギ小屋

トランジスタ、ウォークマン

万葉集 萩は141首 藤 桜 日本では美「うつくし」は、「くはし(細し)

短編小説 掌篇小説 岡田三郎、武野藤介、川端康成、俳句

 

6つの「縮み志向」の型「『縮み』志向の日本人」(学生社1982)で李御寧(イ・オリョン)

[入籠(いれこ)] 「込める」、俳句で「の」による入籠、「東海の小島の磯の白砂に…」。

[扇型] 扇子は落語、大相撲などで見立てる。折り畳み傘、カップヌードル、着物たたむ。

[姉様人形型] こけし、盆栽、模型、フィギュアやミニチュア志向。

「仮名」や「どうもどうも」を使う。

[折詰弁当型]  行器(ほかい)、曲げわっぱ、破籠(わりご)、提げ重、重箱など松花堂弁当 (栄久庵憲司は「幕の内弁当の美学」)

「詰める」のが日本人、「見詰める」「詰めが甘い」「張り詰める」「大詰め」「詰め込み学習」「缶詰」

[能面型] 「動きを止める美意識」「動きを縮めている」

歌舞伎の見得、お茶のお点前、剣道の仕草、相撲の仕切り、弓の準備、書道の呼吸、小笠原流の礼法

[紋章型] 「凝る」凝り性 日本の紋章 「組」「名刺」

 

「引き寄せ」美の一部を引き寄せた。小さくしながら大きなイメージ「いけどり」「寄物陳思」借景、枯山水の石立 石庭

「見立て」 生け花(活花・立花)にも転用。曾呂利新左衛門が6尺の鉢に桜を盛って吉野山に見立てた。

室町期の華道書『仙伝抄』では、生け花のための枝ぶりには、「陰、陽、嶺、滝、市、尾」を感じるようにと指南。

「縮みの歴史は、ハサミの歴史」利休の朝顔一輪、着物の裁縫、折り紙、盆栽、俳句の「切れ字」

「座」の文化、侘び茶、草庵、「囲ひ」(茶室の古い呼称)、躙口(にじりぐち)、床の間の花器、茶掛け、露地、飛び石など「市中の山居」の縮景

一期一会「時を切る」

「数寄」の文化 「寄席」「寄席鍋」

「縮みあがる」「縮こまる」「小さきもの」「盆景感覚」

“編集”取り交ぜ、組み合わせ、数奇のフィルターが必要、過剰で余白のないのはよくない。

「アワセ・カサネ・キソイ・ソロイ」(松岡正剛)

 

 

参考文献:Wikipediaほか

閑話休題 Vol.97「花道」(2)

〇才気―マスコミの活用

 

 若い蒼風は、新しい生け花の発展すべき道をすでに鋭い直感力で見抜いていました。

「新しい」ということについて、蒼風はこう述べています。

「新しいという言い方は、本当はしたくないが、新しいと言わなければならないから言うので、本来、物事はいつも新しいはずだが、少しも新しくならないで、そのまま止まっているものがある。それに対して、止まらずに動き、変わりつつあるものを新しいと言うのは、当たり前である。新しいのが当たり前で、当たり前なら新しいと言わなくてもよいが、古いのが当たり前のように言うから、新しい方は新しいと断るようになるのだ」

 千疋屋の生け花展をきっかけに、NHKの「家庭講座」の依頼で「生け花十講」を放送し始めます。また、草月流機関紙「瓶裏」を早くも創刊、生け花の社会性を求めました。主婦の友社から「新しい生け花の上達法」を出版します。

蒼風ほどマスコミを生け花のために活用し成功した人はいません。のちに日本内外に多くの支持者・門下生を持つまでに発展しえたのは、マスコミの時代の波に蒼風の偉業が乗り切ったことに他ならないのです。

 

〇運―海外進出へ

 

 戦時中、「花をいけるよりも芋を作れ。花を習う人は非国民」と言われましたが、蒼風は、花をいける日は再び来るまいと思いつつ、疎開先で雑木を使って農家の娘に教えていました。終戦後は、進駐軍の夫人の希望で東京に呼ばれ、教え始めました。これが海外進出のきっかけとなったのです。

 

〇想像力―造形いけばなの誕生

 

 東京に戻った蒼風は、焼けただれた鉄骨や枯れ木を使い、一途な造形精神を発揮して展覧会を開き、人々を驚嘆させました。絵画、彫刻、建築デザイン、写真など他のジャンルのアバンギャルディストと交遊し、ますます盛んな創造活動を続けました。生け花のみならず、モビールやレリーフなど新造形への道を開いたのです。やがて草月流は門下生百万という大流派になっていきました。

 

〇蒼風の才能とは

 

 「臨機応変の瞬発力とバランスのよく取れた空間支配の能力とかあって、どんな花をいけても、必ず誰にもわかる明確な見せ場をつくることができ、しかもそれを決して平俗陳腐には陥らせずに新味を出す、本当の芸術家のみに与えられた才能があった」 (大岡信)

 たとえば、当時の生け花は、ピラミッド式三角形がほとんどで、花をいけるのに形の創作を楽しみにする心配りには限りがありました。蒼風は、逆ピラミッドなど自由自在な形を取り入れ、新鮮な美を生み出しました。草月流の花器が無地なものばかりなのは、本当に花の美しさを知っているからです。

 

〇蒼風語録

 

“テーマ”「テーマをもっていけることは、1つの勉強法である。出来上がった生け花に対して、何を感ずるか、どう見るか、何がそこにあるか、いけた自分はもちろんのこと、それを前にした他人がどう受け取るか―そこに感じられたもの、そう思えるものをテーマだといえば、全ての生け花にテーマはある。しかし、テーマ=題を決めて、いける。題を出しておいて、それに向かっていける。そしてその題のために考える。工夫する。つくる。一般的にはこのように題に対して積極的なときだけを、テーマのある生け花という。

テーマでいけるのが勉強になるのは、一方に内面的な追求があるということで、同じ題でも、梅や椿ではなく、愛、夢、平和などという題になると、内面的なものを追求せざるをえなくなるからである」

 

“野にあるように”「利休の言葉に<花を生けるならば“野にあるように”いける>というのがある。これは一旦切り取られた花が、どんなに自然さを失い、調和を破壊しているかを知った上で、ハサミを入れ、枝ぶりを曲げ、葉数を減らして“野にあるように”美しくつくるということである。

 

“信念”「人が何を言おうと正しいと信じてどんどん仕事をしていけば、やがては皆がわかる」

 

勅使河原蒼風「草月五十則」部分

1則 花が美しいからといって、いけばなのどれもが美しいとは限らない

2則 正しいいけばなは、時代や生活と遊離していない

3則 精神に古今なく、作品は変転自在

4則 一輪、一と枝、の強調。大自然を圧縮したような一瓶

5則 花と、語りつついける

22則 上手な人ほど、器前、器後の仕事が入念

23則 花は大切にすること、花は惜しまぬこと

31則 いけばなは絵だという、音楽でも、彫刻でもある

35則 家庭だけが場ではない。個人的な場、公共的な場

36則 花の色だけでなく、器も、台も、壁も、光線も

39則 環境から生まれたように

44則 重複がないかを見る、強調があるかを見る

47則 花を、器を、場所を、探す努力

48則 意外ないけ方がある。意外な題材を忘れている

49則 新、動、均、和、の四原則。線、色、魂、の三拍子

50則 見る目と、造る手と、片寄らぬ精進

 

参考資料:「花ぐらし」勅使河原蒼風(主婦の友社)/「草月流」いけばな全書(小学館 )/「勅使河原蒼風展」(西武美術館)/「勅使河原蒼風の眼」(朝日新聞社)Wikipedia

閑話休題 Vol.96「花道」(1)

草月流創始者 勅使河原蒼風

 

〇父と育ち

 

勅使河原蒼風は、1900年、勅使河原和風の長男として生まれました。父はそばで遊んでいる蒼風に、ただ真似事としてではなく、そこから生け花を好きにさせる、あるいは上手にさせようとする工夫をして仕向けました。そのため蒼風は花を扱うことを徐々に面白く思うようになったのです。

父は、必ず来客に我が子の生けた花を自慢げに話しました。皆から褒められているうちに蒼風も張り合いが出てきたのでしょう。小学校に行くようになっても、自分で花をとってきて父に見せて喜ばせようと頑張っていました。この幼い日々が蒼風の生涯を貫く心のエネルギーとなりました。

15歳で父の代稽古を務め子先生と呼ばれた蒼風は、父から学ぶべきところを全て習得した後、生け花についての考え方を異にするようになったのです。

「生け花は定められた形にいけるのではなく、作者の個性や自由な精神を表現すべきだ」という蒼風は、26歳のとき、父に勘当され妻とともに家を出たのです。

蒼風の人気は教室でも定着しており、その日からでもやっていけましたが誰にも居所を教えなかったのです。

 

〇独立内職時代

 

蒼風は、青山高樹町に家を借り「投入花盛花教授草月流」と看板を掲げ、新しく草月流を興しましたが、約1年間、誰も訪れませんでした。

蒼風は、研究に専念しました。封筒に肉筆で蘭や梅一枝を描くといった内職を始めました。彫刻が好きで板に文字を彫ったりしているうち、表札や看板を彫る仕事が来るようになったのです。

 

〇度胸―いけ花屋開業

 

花は花屋の残り花を、器は我楽多屋の店頭の赤錆びた焼き物の窯と支那料理店の前に転がっていた老酒の瓶を手に入れました。昼は看板彫りのアルバイト、夜は明けるのも知らず、その器に名作、名案を創造しては興奮する毎日が続きました。

蒼風は、新鮮な花やいろいろな容器、場所を使って、実際に人に見せることを通しての研究をやる必要を感じていました。そこで、次に人の花で研究する方法を考えだしたのです。料理店に行って頼んでいけさせてもらうのです。花は買ってもらいましたが、いけ賃はもらいませんでした。

古くからの流儀がよいと誰もが思っているので、「自分が作った草月流です。家元です」とは言えません。いけた作品だけが勝負です。「なかなかいいから、また来てちょうだい」となるのです。そうやっているうちに、なんとか板前さんとかおかみさんなどを相手に、花屋業から先生の方へ向きがつき始めました。

 

〇風体―師匠らしく

 

「どうもお花の師匠らしくないわね。見た形のことなんでしょうね。柔道家と間違えられたわ」蒼風の妻が言いました。若いし二十貫目余りある蒼風は、どうにもならぬままにも、渋い袋を下げたり無地の羽織をまとったりして、お花の先生らしくしました。

そうしているうちに近くの良家のお嬢さんが入門し、本当のお弟子を得たのです。弟子が弟子を呼び、稽古日がそれらしくなっていきました。蒼風は、「弟子は月謝を払って自分に勉強させているのだ」と決して手を抜きませんでした。

場所も変え、看板に「瓶花研究所」と彫りました。誰も知らぬ草月流より、より近代的で効果があると思ったのです。

 

〇実力―チャンスを逃さず

 

創流の翌年、ショーウインドーを飾りに行っていた千疋屋の勧めで、銀座、千疋屋二階で第一回草月流花展を開催しました。現代人の感覚、生活感のある生け花に新しい入門者が集まりました。

以後の蒼風は、持ち前のアイディアと行動力、それに絶対の信念を持って、固定観念の強い華道界で既成概念をはるかに超えるスケールで活躍していきます。

1932年の神田の如水会館では、初めて“入場料”をとる生け花展を開催しました。立派な展覧会なら、音楽や絵と同様、入場料を取るべきだと思ったのです。さらに、花のための会場構成を試みたり、花のシンフォニーを表現したくて7つの大小作品を組み合わせた大作「総合華」を飾ったり、当時としては大胆にも、音楽、照明による演出を試みました。これは鑑賞者の気持ちを統一するのと雑音を消す工夫です。当日は自ら講演し、草月流の理解にひと役買いました。生け花の作品の背景に自分の描いた絵を使うなど、いくつもの画期的なアイディアを生かしていたのです。

家元からの奥義・秘伝として口伝されるものを図解までして一般公開していた蒼風への華道人からの非難は強いものでした。しかし、前売りの入場券は完売、大成功を収めました。蒼風は演出の才にも長けていたのです。

閑話休題 Vol.95「歌合」(2)

<主な歌合>

 

在民部卿家歌合 : 仁和元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)<在原行平>

寛平御時后宮歌合 : 寛平元年(889年)

亭子院歌合 : 延喜13年(913年)

天徳内裏歌合 : 天徳4年(960年)<村上天皇>

寛和二年内裏歌合 : 寛和2年(986年)<花山天皇>

六百番歌合 : 建久3年(1192年)<九条良経>

千五百番歌合 : 建仁元年(1201年)頃<後鳥羽院>

水無瀬恋十五首歌合 : 建仁2年(1202年)<後鳥羽院>

 

<実例>

 

長元八年、1035年の516日に行われた、『賀陽院水閣歌合』

「賀陽院」とは藤原頼通の邸宅、10の題が出され、10番の戦い 計20首、9人 赤染衛門・相模・藤原公任・能因法師

最後の十番の歌 「恋」の題、

左方は能因法師

「黒髪の色も変わりぬ恋すとてつれなき人にわれぞ老いぬる」

右方は藤原頼宗(道長の次男)

「逢ふまではせめて命の惜しければ恋こそ人の祈りなりけれ」

勝ち 頼宗

和歌はただ思っていることを表現するものではありません。こうあってほしいという願いや、理想を表現するもの 「逢ふまでは」の歌は『後拾遺和歌集』にも選ばれました。

 

<歌会始(うたかいはじめ)>

 

和歌(短歌)を披露しあう「歌会」、年の始めに行うもの。年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」 京都冷泉家 京都の風物詩

お題として漢字一字が指定、歌の中にこの字が入ることが条件。9月末頃の締め切り。

NHKの総合テレビで全国中継

 

明治天皇は、93,032首、昭憲皇太后は27,825

人倫道徳を指針とする教訓的なものを15首ずつ、合計30首選び、解説文を入れて昭和22年の正月から「大御心」(おおみこころ)と題して社頭にて授与する。藁半紙(わらばんし)でガリ版刷り、1円で授与。今のようなおみくじになったのは昭和48 年の正月から。昭和4320 首を選び「英文おみくじ」

 

2019年116日に皇居・宮殿で開かれる「歌会始の儀」の入選者10人を発表。平成最後の題は「光」。約2万2千首の中から選ばれた。召人(めしうど)、俳人の鷹羽狩行さん(88)。

 

かな:《藤原為家本土佐日記》の仮名の字源は、〈安以宇衣於加可幾支木久計介己御散之数須世曾所太多知州天止奈那仁尓奴祢乃能波八比不部保末美三武无女毛也由江与良利留礼呂和為恵遠乎〉の63字で、ほとんどすべて万葉仮名。

宮廷の後宮での女手は、歌合の文字として用いられる。

和歌を女手で書く慣習が成立し、勅撰集である《古今和歌集》は、女手が公的に用いられた。

紀貫之によって、初めて散文の日記文学へと用途が拡大される(《土佐日記》)

《竹取物語》《宇津保物語》以下、勅撰和歌集もすべて女手で書かれる。

 

<参考>

 

岡野玲子『陰陽師』第7巻(白泉社):天徳内裏歌合の経緯を描く。

『詠う!平安京』 真柴真 『月刊Gファンタジー』(スクウェア・エニックス)にて連載中。中学生・藤原定家 平安最強のプレイボーイ・在原業平 歌人達の和歌対決《歌合》に巻き込まれていく。在原業平/遍昭/文屋康秀/小野小町/紀貫之/紀友則

小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書) 19974

コトバンク(世界大百科事典第2)、日本大百科全書(ニッポニカ)、世界大百科事典(「仮名」より)NHK解説委員室「歌合 勝負を競う和歌」(視点・論点)、Wikipedia

閑話休題 Vol.94「歌合」(1)

<歴史>

 

歌う心と競う心と判(ことわ)る心とが結びつけば歌合はいつでも成立。

万葉時代にもなく、和歌が書き読む文学となって文献に記録されるようになった平安朝初期にもなかった。

北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀、国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現した。

天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合が有名。

1980年代から再興

 

王朝貴族の情趣的な公私の生活は、遊宴競技を盛んにし、中国の闘詩、闘草の模倣から「物合(ものあわせ)」(草合、前栽(せんざい)合、虫合など)が生まれた。その合わせた物に添えられた歌(そのものを題)が合わせられ、歌合が成立した。物合と歌合は区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴や神事、仏事の余興。

960年(天徳4)の『内裏(だいり)歌合』の頃は、内裏後宮を主とした女房中心の遊宴歌合。

1003年(長保5)の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)この間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとり歌が争われ、歌合の内容も歌人本位。

平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、歌の優劣と論難の基準のみが争われ、遊宴の意味はなくなり、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた。

鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される歌学歌論の純粋な論壇として、新古今時代にみられる新傾向の表舞台ともなった。

百首歌の盛行とともに百首歌を結番する「百首歌合」が生まれ、時日をかけ対者を選んで結番し、また複数判者による分担判という大規模な歌合が成立した。『六百番歌合』(俊成判)、『千五百番歌合』(俊成ら十人判)などがある。

その後は歌壇がまったく御子左流(二条)のひとり舞台となった。ときには藤原光俊(みつとし)らの反御子左派、あるいは京極為兼(きょうごくためかね)らの反二条派の歌合に和歌、評論とも新鮮味があったが、歌合は、文芸的には鎌倉初期をピークとして、文芸様式の一として江戸期まで続けられた。

この形態で、秀歌を選んで番える「撰歌合(せんかあわせ)」、特定の個人の歌を番える「自歌合(じかあわせ)」、和歌と漢詩を番える「詩歌合(しいかあわせ)」、流布した物語中の和歌を番える「物語合」などもある。[橋本不美男]

 

<形式>

 

歌合の行事形式が相撲節会(すまいのせちえ)に酷似している。

相撲は昔「すまい」といい、その「すまい」の形式をまねて生まれた。

いわば歌相撲といった興味から始められたものとも考えられる。

 

歌論:〈歌論〉をさかんにした契機に、歌合があった。

物合:物合は歌合、相撲(すまい)、競馬(くらべうま)、賭射(のりゆみ)などとともに〈競べもの〉の一種

歌合(うたあわせ):左右二組にわけ 詠んだ歌を比べて優劣を争う。左右両陣の念人によるディベートによって判者の判定で決める。

方人(かたうど):歌会の歌を提出する者。今日では、念人と同一。

念人(おもいびと):自陣の歌を褒め、弁護する役。敵陣の歌の欠点を指摘して議論を有利に導く。

判者(はんざ):左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める審判役。持(じ;引き分け)もある。

講師(こうじ):歌合の場で歌を披講(ひこう)(読み上げる)する。現代では特に置かない。

判詞(はんし):判者が述べる判定の理由。とくに歌合・句合において、判者が番(つが)わされた左右の歌・句についての優劣を勝・持(じ)(判定しがたい場合)とし、その判定理由を書いた詞をいう。判定の詞(ことば)を判詞という。判詞は歌論へとつながっていった。

題(だい):題詠

左方(ひだりかた)・右方(みぎかた):左右各5名に分かれ左方は赤装束、右方は青装束。

閑話休題 Vol.93「城」(2)

三人の武将と城

 

〇織田信長

 

本拠の城を頻繁に変える。

「勝幡城」(しょばたじょう)に生まれる。

築城の技術とまちづくりを追求。

最初に築いたのは小牧山城、見上げるような総石垣を築き、まっすぐな「大手道」。

織田信長の天下構想が、お城や城下町。「楽市楽座」、商人や工人の城下町を形成。

1555年(天文24年/弘治1年) 清州城、一族間の内紛を鎮めて、尾張統一。

1563年(永禄6年) 小牧山城

1560年(永禄3年)桶狭間の戦い 美濃攻めの準備として小牧山に城を築いて拠点。

1567年(永禄10年) 岐阜城 斎藤氏が籠っていた美濃の稲葉山城を4年かけて制し、岐阜城の大改修。地名を「井ノ口」から「岐阜」へと変更。

1569年(永禄12年) 二条城 足利義昭を擁して上洛を果たし、京都の拠点。現存する二条城とは別

1576年(天正4年) 安土城 琵琶湖のほとりに築城。最上階は金色、下階は朱色の八角形の57階の建造物で、住み、来賓を迎えるため贅を尽くした

 

〇豊臣秀吉

 

大坂城、イエズス会宣教師「ルイス・フロイス」は、すべてにおいて、信長の建造物を上回ると。天守は生活の場ではありません。金銀や高価な武具、茶道具などの財宝で飾り立て、賓客を招いては、財宝を見せびらかした。表御殿の黄金の茶室から「三国無双」と呼ばれた天守、洋風ベッドを置いたという奥御殿の寝室。

1566年(永禄9年) 墨俣城、斎藤軍の前で、数十日間で完成させて、美濃攻略が前進。

1574年(天正2年) 長浜城、浅井長政を制し信長からの土地に築城。城下町として統治。

1580年(天正8年) 姫路城 信長に中国地方の攻略を命じられて、播磨へ進出。黒田官兵衛の姫路城を大改修して、毛利家との闘いに備え。

1583年(天正11年) 大坂城 三重の堀と運河に守られた要塞。城内には山里のような風情を持つ山里曲輪(城内に庭や池、茶室を設けた曲輪)も造り、大名や有力商人達を招き茶会や花見を楽しみました。

1586年(天正14年) 聚楽第 京都における滞在所。天皇などを迎えるための、政庁の役割

1590年(天正18年) 石垣山城 敵からは一夜で築城したように見えた。

この年、小田原城を落として、天下統一。

1591年(天正19年) 名護屋城 8ヵ月の工事で肥前に名護屋城、朝鮮半島へ出兵する拠点。

1594年(文禄3年) 伏見城 隠居所として聚楽第の一部を解体して築城。地震で倒壊したため、木幡山に移築。この伏見城で病死。

 

〇徳川家康

 

1603年(慶長8年)に征夷大将軍となると、江戸を天下の政庁とする

姫路城に類似した、大天守と小天守を組み合わせた連立式天守。大天守も圧倒的な大きさで、石垣を含めた城全体の大きさは、およそ68m。複雑で防御性の高い天守曲輪(詰丸)を備える、南側の大手には五連続の外桝形を連ね、かつ北側には三連続の「馬出し」を配置。

 

1560年(永禄3年) 岡崎城 家康生誕。人質として身を寄せていた今川義元が桶狭間で戦死し、岡崎城に戻りました。

1570年(元亀1年) 浜松城 今川家の浜松城を攻略。武田信玄の侵攻に備え、本拠地を移しました。

1586年(天正14年) 駿府城 駿河の支配を目指して築城。

1602年(慶長7年) 伏見城(改築)二条城

1600年に「関ヶ原の戦い」で勝利し、天下取りに成功。伏見城を経て、二条城を造営。

1604年(慶長9年) 江戸城

1603年(慶長8年)征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府しました。

1610年(慶長15年) 名古屋城 尾張国統治の拠点を名古屋に制定。

1615年 徳川幕府によって「一国一城令」

1616年(元和2年)に隠居し、大御所、駿府城で病死。

 

〇奄美・沖縄地方「グスク」

 

グスクの石垣と建築群(首里城。沖縄県那覇市)

鹿児島県の奄美諸島および沖縄地方の城は「グスク」または「スク」と呼ばれる。

12世紀、沖縄地方に点在していた領主の「按司」(あじ)の居城で、城内に「ウタキ」(御嶽)や「ウガンジュ」(拝所)と呼ばれる沖縄地方特有の信仰施設を持つ。

三山時代に多くのグスクが築かれ、現在までに見られる。土木や建築の技術、特に石垣は日本内地の石垣とは異なり、琉球石灰岩を加工した石積みの石垣で、外観も曲線をなして角さえも丸みを帯びている。

中国や朝鮮半島で「馬面」(マーミェン)や「雉」(チ)と呼ばれる横矢がかりの出張りや、城門においては牌楼や石造のアーチ門(拱門)が見られる。

舎殿のほか、櫓としては門上の櫓のみである。

閑話休題 Vol.92「城」(1)

歴史

古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。

城は中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主などが敵対する武力集団から守るための防衛施設である。

 

紀元前3世紀~3世紀(弥生時代)

環濠集落 城の起源は、弥生時代、農耕のはじまり、集落のまわりに「濠」と呼ばれる溝を掘り、その外に土を盛り上げて土塁を築く。

 

〇古代山城

 

7~8世紀 博多湾奥に築かれた「水城」(みずき)や、太宰府に百済人らによって造られた「大野城」(おおののき)。「朝鮮式山城」と呼ばれています。他にも東北蝦夷地への侵略のため、東北に19の城柵を設置。

多賀城や秋田城は、陸奥鎮守府や出羽国府となり、政治・経済の中心部として機能。

 

〇近世城郭

 

利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになった。

山城の麓に館を営んで生活や政務を行っていた城主は、有事のときにだけ城内に生活の場所を移す。寺院建築や住宅建築の特徴を取り入れ、日本城郭特有の天守のような重層な櫓の要素をもった楼閣建築に。城の外観には権威をしめす目的も含まれるようになり、独特な形となった。

11~14世紀 戦時に使用するため、小規模ながらも防御能力の高いお城が発達。

楠木正成による「赤坂城、千早城」の籠城戦では、約100日間立てこもって鎌倉幕府の大軍を撃退。以後、武将の間に籠城による戦法、山城で、軍事的拠点。

堀や土塁、曲輪(くるわ)

土で築かれ、建物は木造。堀の幅は、およそ五間(約10m)前後、弓矢の射程。

 

戦国時代、火縄銃に塀や建物で防弾する必要が生じた。内部に石や瓦礫を入れた分厚い土壁(太鼓壁)やおもに寺院に使われていた屋根瓦、銃弾の届きにくい幅の堀、そして石垣が多用される。

お城を中心として、武士、町人などが生活する城下町が形成、経済の中心。

平野に築かれる「平山城」。行政の拠点。

16世紀後半 天下統一の機運が醸成されると、大きな天守を持ち、大規模化。権力の誇示。

 

〇「城 ()」「城柵」の定義

 

日本では「城」を“き”と読み、「柵」の字も用いた。

城の一部、施設を館や塔、城壁、堀、城門と呼ぶのに対し、全体を指し示す場合には、城郭。

敵との境界線に近い前線の要塞を「出城」と言い、主戦場を指す語にもなる。

 

ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する。「城」は、本来は、城壁都市を意味する。

日本では城壁で囲まれた城壁都市が普及せず、主に後者の城砦の意味で使用される。

 

「柵」は主にヤマト王権が東北地方に設置した政治行政施設を併設する防御施設(城柵)を意味する。

「城」は水城や大野城のような西日本に点在した古代山城や防壁の類いを意味する。

 

大和政権が唐や新羅からの侵攻を想定して、滅亡した百済から日本に亡命した人々の指導によって築かれた。版築土塁の外郭城壁をもつ、後の中世以降の築城技術へ継承されなかった

 

中世、戦国時代では、小高い丘陵や山などに郭(曲輪)と言う平地をいくつか設け、その郭を柵や土塁で囲ったり、切岸と言って、斜面を急に加工して下の郭から上がりにくくしたり、堀切や竪堀という尾根を分けるように切った堀など。他の郭からの侵入を困難にした。

郭の入り口を小口(虎口)といい、その小口に門を設けたりもした(矢倉門や冠木門が主流)

大抵は、主郭(一の丸、本丸)、二の郭(二の丸)、三の郭(三の丸)と郭を名付ける。

近代以前の軍事的な防衛施設、戦闘拠点であるとともに食糧や武器や資金の備蓄場所。

城は、住居であり、政治や情報の拠点であった。

純防衛用として山地に建築されたり、街道や河川などの交通の要衝を抑えたりする。

 

〇城の機能

 

防衛機能

不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。備蓄された装備や城壁などの施設が味方の居住性を高め、敵の移動や視界、攻撃を妨害する。

攻者三倍の法則などの経験則が唱えられたが、守備側が籠城だけで敵を撃退することは難しく、援軍を待つための時間稼ぎ。

敵の侵入に備え、国境の監視などの役割も果たした。

居住性

城館は、領主の生活の場であり、政庁となって領地支配の象徴としたり、敵地への勢力拡大の前線基地とする。

都市を囲む城壁という意味では、領民の住居になった。このため生活に必要な施設が城内に全て揃えられた。農耕地は、城壁の外にある場合が多い。日本の山城などは、居住性は低い。

閑話休題 Vol.91「忍者」(3)

〇忍者の歴史

 

一説には、聖徳太子に仕えた「大伴細入」(おおとものほそひと)が優れた軍術をもって功績を上げ、「志能便」(しのび)という称号を与えられたという逸話から、「大伴細入」が最初の忍者であるとされています。

 

忍者の存在は13世紀後半の悪党(寺院や貴族などの荘園領主に対して反抗的な行動を取った)にあると考えられています。「乱波」(らっぱ)・「透波」(すっぱ)・「草」(くさ)・「奪口」(だっこう)・「かまり」など呼ばれていました。

 

室町時代 荘園を経営する寺社の勢力が弱体化するにつれて、悪党の活動は減少していき、悪党の血を引いた「地侍」が頭角をあらわします。

 

戦国時代 足利家、織田家、徳川家などの戦国大名の傭兵となり、京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣し、夜襲や密かに忍び入り火を放つことが中心でした。地侍は「忍者」と呼ばれるようになります。

 

1590年(天正18年)徳川家康が江戸に入府すると、忍者は江戸城下に住み、大奥や大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察など。鉄砲隊として甲賀百人組、伊賀百人組が編成され、江戸城大手三之門の警備。

 

戦闘をすることは少なくなり、情報収集や、警護をすることが主な任務となります。

 

明治新政府 日本陸軍、日本海軍、警察が創設され、忍者は役目を終え消滅します。

江戸時代ごろから小説や芸能に忍者が描かれるようになっていきました。

江戸時代初期の忍者は忍術を使って敵のアジトに忍び入り、大切な物を盗んでくるというパターンで描写されていきます。

 

著名なのは「石川五右衛門」の物語です。忍術は、派手で摩訶不思議な術で変化。巻物をくわえて印を結ぶとドロンと消えたり、ガマに変身する妖術を使う。

 

江戸時代後期になると、歌舞伎や浮世絵などにおいて黒装束を身に付けて手裏剣を打つイメージ。

 

〇忍具(にんぐ)  忍者が活動に用いた道具。

 

手裏剣 

手投げの刃物で、形は棒状の物から十字型、円形のもの。重くかさ張るので実際に携帯していた数は多くても34枚。

くない 

両刃の道具で「苦無」あるいは「苦内」。武器以外にも壁や地面に穴を掘るスコップ。「サバイバルナイフ」に近い。

忍刀(しのびかたな) 

携帯性や機能性向上に工夫された刀です。刀剣独自の反りは少なく、「直刀」(ちょくとう)。

鎌(かま) 

日本の農具。

撒菱(まきびし) 

鋭利なトゲがあるため追っ手の足を傷付ける武器。

五色米(ごしょくまい)

赤・青・黄・黒・紫の5色に染めた米。野鳥に米だと認識されにくい。

 

仲間へのメッセージ。

忍装束(しのびしょうぞく)

実際は茶色(柿渋色やクレ色)に近い物を着用。

 

〇代表的な忍者

 

服部半蔵 

世襲の役職で12代にわたる。知られているのは、2代目当主「服部正成」(まさなり)は16歳の時に三河宇土城の夜襲で戦功を挙げ、徳川家康から槍を贈られ、伊賀忍者150人を預けられました。本能寺の変では、明智光秀軍に退路を断たれた徳川家康を堺から岡崎城へ送り届けます。徳川家康はこの功績を評価し、伊賀忍者300人を「伊賀同心」として支配を許可しました。それ以降も1590年の小田原征伐などで戦功を多く立て、遠江国に8,000石の領地を得ます。江戸城の半蔵門は、門外に服部正成の屋敷があったことから。

 

猿飛佐助

架空の忍者で、文学・講談などに登場。幼少期、信濃の山の中で修行をしていたところ甲賀流忍術の開祖戸沢白雲斎に見いだされ、弟子となります。佐助は角間渓谷(真田忍者の修行場)で3年間忍術を修行。その後「真田幸村」に見いだされ、猿飛佐助幸吉の名をもらい、「真田十勇士」筆頭になった。

 

〇組織

 

「日本忍術協議会」 選手は全部で6枚の十字型手裏剣を渡され、審判および的に礼をした後、忍者が使った呪文といわれる「九字」を切る。その後、6m(女性は5m)離れた的に向かって5枚の手裏剣を打ち、九字の礼法点数と的中点数の合計得点を競う。

 

全日本忍者手裏剣打選手権大会

伊賀忍者特殊軍団「阿修羅」 伊賀流忍者博物館」

パルクールの実践者「トレーサー」

 

参考文献:「月刊秘伝」2020.7月号 山田雄司

「忍者の掟」川上仁一 角川新書  

「忍者を科学する」中島篤巳 洋泉社新書

刀剣ワールド

https://www.touken-world.jp/knowledge-ninja/

Wikipedia

 

閑話休題 Vol.90「忍者」(2)

〇現在との関わり

 

忍術伝書 伊賀と甲賀の万川集海、紀州藩の正忍記、服部半蔵の忍秘伝

神武不殺 針と切(きれ)

密法伝来の三密行法、身口意―印を結び、呪文を唱え、神仏に願う、気合と呼吸法

二重息吹―静かに長い呼吸を繰り返し、次に逆呼吸で行う。臍下丹田。

有声無声の気合い、「エイ」、「ヤア」、「トゥ」、「ハッ」

 

「忍者は乱定剣(らんじょうけん)といって、箸でも爪楊枝でも何でも打って刺せなければいけません」

「忍術というのは型にとらわれないもの、一つの固定観念にとらわれずに自由に発想を転換して、自由な価値観を身につける」

「人間にとって、死とは一番のストレス、内から湧き出る恐れや不安をみつめ、逃げずに乗り越える鍛錬を積むこと」

「日本文化を凝縮したもの」 日本文化の根本には神道

 

神道には表と裏があり、裏が本物・本質 日本を裏で動かしてきたのが忍びの者 忍ぶということは自分を消すこと、自分を消すことで相手の意識や時代の変化、過去・未来とも繋がって感じられるようになる。

摩訶不思議な術で敵をくらますイメージは、山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもの。

 

禅の教義なども、正忍記の極秘伝

現存する忍術書には、交際術・対話術・記憶術・伝達術・呪術・医学・薬学・食物・天文・気象・遁甲・火薬など、研究。

忍びの条件は、智恵のある人、記憶力のよい人、コミュニケーション能力に秀でた人

 

忍者の心得 目立たない。敵を作らない。友人を多く持つ。サムライの心得「義、勇、仁」 

忍者は名は残さずとも任務を完遂して生還すること

同じ動きをしても先週と今週では感覚の差があるし、感覚が同じでも動画を撮ってみると違う場合もある。だから感覚、コンディション、動作の質を絶えずチェックしていく。

 

「用意」には「気をつける、意を用いる」の語義がある

「忍道」もあり、その理念 以忍成和(忍を以て和を成す)

 

忍術は生きて帰るための生存術であり、武術は忍術の一部

“術”から“道”への変化 乱世の忍術とは盗む術 

忍術の忍は堪忍の忍、現代における忍術とは“忍耐の術” 

皆が耐え忍ぶ心をもっていれば、そこに「和」が生まれます。

 

「行」には終わりがなく「業」には卒業がある。

「何事にもじっと耐え忍び、心は鉄壁で動揺せず、内には残忍の意味合いを秘めながら、争いを避け人々とは合意していく心こそが、忍びの根本なのである。」

 

自立、サバイバルのための全ての手段、人間関係、心を読み取る、観察眼、体力温存、健康寿命、メンタル、食料確保と保存、薬の制作、

 

〇諜報活動

 

忍者は、隠密行動を得意とし、諜報活動をしていました。

例えば、ギリシャ神話で描かれた「トロイの木馬」などが有名です。古代中国の兵法書「孫子」では、兵法に離間工作の方法、敵の間者を二重スパイとして活用する方法など。「スパイ」は敵側の諜報員、「エージェント」は味方側の諜報員を指します。中国語でも、敵側を「間諜」(かんじゃ)「細作」(さいさく)「姦細」(かんさい)、味方側を工作人員や政治指導員などと区別します。

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