8.閑話休題

閑話休題 Vol.95「歌合」(2)

<主な歌合>

 

在民部卿家歌合 : 仁和元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)<在原行平>

寛平御時后宮歌合 : 寛平元年(889年)

亭子院歌合 : 延喜13年(913年)

天徳内裏歌合 : 天徳4年(960年)<村上天皇>

寛和二年内裏歌合 : 寛和2年(986年)<花山天皇>

六百番歌合 : 建久3年(1192年)<九条良経>

千五百番歌合 : 建仁元年(1201年)頃<後鳥羽院>

水無瀬恋十五首歌合 : 建仁2年(1202年)<後鳥羽院>

 

<実例>

 

長元八年、1035年の516日に行われた、『賀陽院水閣歌合』

「賀陽院」とは藤原頼通の邸宅、10の題が出され、10番の戦い 計20首、9人 赤染衛門・相模・藤原公任・能因法師

最後の十番の歌 「恋」の題、

左方は能因法師

「黒髪の色も変わりぬ恋すとてつれなき人にわれぞ老いぬる」

右方は藤原頼宗(道長の次男)

「逢ふまではせめて命の惜しければ恋こそ人の祈りなりけれ」

勝ち 頼宗

和歌はただ思っていることを表現するものではありません。こうあってほしいという願いや、理想を表現するもの 「逢ふまでは」の歌は『後拾遺和歌集』にも選ばれました。

 

<歌会始(うたかいはじめ)>

 

和歌(短歌)を披露しあう「歌会」、年の始めに行うもの。年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」 京都冷泉家 京都の風物詩

お題として漢字一字が指定、歌の中にこの字が入ることが条件。9月末頃の締め切り。

NHKの総合テレビで全国中継

 

明治天皇は、93,032首、昭憲皇太后は27,825

人倫道徳を指針とする教訓的なものを15首ずつ、合計30首選び、解説文を入れて昭和22年の正月から「大御心」(おおみこころ)と題して社頭にて授与する。藁半紙(わらばんし)でガリ版刷り、1円で授与。今のようなおみくじになったのは昭和48 年の正月から。昭和4320 首を選び「英文おみくじ」

 

2019年116日に皇居・宮殿で開かれる「歌会始の儀」の入選者10人を発表。平成最後の題は「光」。約2万2千首の中から選ばれた。召人(めしうど)、俳人の鷹羽狩行さん(88)。

 

かな:《藤原為家本土佐日記》の仮名の字源は、〈安以宇衣於加可幾支木久計介己御散之数須世曾所太多知州天止奈那仁尓奴祢乃能波八比不部保末美三武无女毛也由江与良利留礼呂和為恵遠乎〉の63字で、ほとんどすべて万葉仮名。

宮廷の後宮での女手は、歌合の文字として用いられる。

和歌を女手で書く慣習が成立し、勅撰集である《古今和歌集》は、女手が公的に用いられた。

紀貫之によって、初めて散文の日記文学へと用途が拡大される(《土佐日記》)

《竹取物語》《宇津保物語》以下、勅撰和歌集もすべて女手で書かれる。

 

<参考>

 

岡野玲子『陰陽師』第7巻(白泉社):天徳内裏歌合の経緯を描く。

『詠う!平安京』 真柴真 『月刊Gファンタジー』(スクウェア・エニックス)にて連載中。中学生・藤原定家 平安最強のプレイボーイ・在原業平 歌人達の和歌対決《歌合》に巻き込まれていく。在原業平/遍昭/文屋康秀/小野小町/紀貫之/紀友則

小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書) 19974

コトバンク(世界大百科事典第2)、日本大百科全書(ニッポニカ)、世界大百科事典(「仮名」より)NHK解説委員室「歌合 勝負を競う和歌」(視点・論点)、Wikipedia

閑話休題 Vol.94「歌合」(1)

<歴史>

 

歌う心と競う心と判(ことわ)る心とが結びつけば歌合はいつでも成立。

万葉時代にもなく、和歌が書き読む文学となって文献に記録されるようになった平安朝初期にもなかった。

北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀、国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現した。

天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合が有名。

1980年代から再興

 

王朝貴族の情趣的な公私の生活は、遊宴競技を盛んにし、中国の闘詩、闘草の模倣から「物合(ものあわせ)」(草合、前栽(せんざい)合、虫合など)が生まれた。その合わせた物に添えられた歌(そのものを題)が合わせられ、歌合が成立した。物合と歌合は区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴や神事、仏事の余興。

960年(天徳4)の『内裏(だいり)歌合』の頃は、内裏後宮を主とした女房中心の遊宴歌合。

1003年(長保5)の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)この間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとり歌が争われ、歌合の内容も歌人本位。

平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、歌の優劣と論難の基準のみが争われ、遊宴の意味はなくなり、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた。

鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される歌学歌論の純粋な論壇として、新古今時代にみられる新傾向の表舞台ともなった。

百首歌の盛行とともに百首歌を結番する「百首歌合」が生まれ、時日をかけ対者を選んで結番し、また複数判者による分担判という大規模な歌合が成立した。『六百番歌合』(俊成判)、『千五百番歌合』(俊成ら十人判)などがある。

その後は歌壇がまったく御子左流(二条)のひとり舞台となった。ときには藤原光俊(みつとし)らの反御子左派、あるいは京極為兼(きょうごくためかね)らの反二条派の歌合に和歌、評論とも新鮮味があったが、歌合は、文芸的には鎌倉初期をピークとして、文芸様式の一として江戸期まで続けられた。

この形態で、秀歌を選んで番える「撰歌合(せんかあわせ)」、特定の個人の歌を番える「自歌合(じかあわせ)」、和歌と漢詩を番える「詩歌合(しいかあわせ)」、流布した物語中の和歌を番える「物語合」などもある。[橋本不美男]

 

<形式>

 

歌合の行事形式が相撲節会(すまいのせちえ)に酷似している。

相撲は昔「すまい」といい、その「すまい」の形式をまねて生まれた。

いわば歌相撲といった興味から始められたものとも考えられる。

 

歌論:〈歌論〉をさかんにした契機に、歌合があった。

物合:物合は歌合、相撲(すまい)、競馬(くらべうま)、賭射(のりゆみ)などとともに〈競べもの〉の一種

歌合(うたあわせ):左右二組にわけ 詠んだ歌を比べて優劣を争う。左右両陣の念人によるディベートによって判者の判定で決める。

方人(かたうど):歌会の歌を提出する者。今日では、念人と同一。

念人(おもいびと):自陣の歌を褒め、弁護する役。敵陣の歌の欠点を指摘して議論を有利に導く。

判者(はんざ):左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める審判役。持(じ;引き分け)もある。

講師(こうじ):歌合の場で歌を披講(ひこう)(読み上げる)する。現代では特に置かない。

判詞(はんし):判者が述べる判定の理由。とくに歌合・句合において、判者が番(つが)わされた左右の歌・句についての優劣を勝・持(じ)(判定しがたい場合)とし、その判定理由を書いた詞をいう。判定の詞(ことば)を判詞という。判詞は歌論へとつながっていった。

題(だい):題詠

左方(ひだりかた)・右方(みぎかた):左右各5名に分かれ左方は赤装束、右方は青装束。

閑話休題 Vol.93「城」(2)

三人の武将と城

 

〇織田信長

 

本拠の城を頻繁に変える。

「勝幡城」(しょばたじょう)に生まれる。

築城の技術とまちづくりを追求。

最初に築いたのは小牧山城、見上げるような総石垣を築き、まっすぐな「大手道」。

織田信長の天下構想が、お城や城下町。「楽市楽座」、商人や工人の城下町を形成。

1555年(天文24年/弘治1年) 清州城、一族間の内紛を鎮めて、尾張統一。

1563年(永禄6年) 小牧山城

1560年(永禄3年)桶狭間の戦い 美濃攻めの準備として小牧山に城を築いて拠点。

1567年(永禄10年) 岐阜城 斎藤氏が籠っていた美濃の稲葉山城を4年かけて制し、岐阜城の大改修。地名を「井ノ口」から「岐阜」へと変更。

1569年(永禄12年) 二条城 足利義昭を擁して上洛を果たし、京都の拠点。現存する二条城とは別

1576年(天正4年) 安土城 琵琶湖のほとりに築城。最上階は金色、下階は朱色の八角形の57階の建造物で、住み、来賓を迎えるため贅を尽くした

 

〇豊臣秀吉

 

大坂城、イエズス会宣教師「ルイス・フロイス」は、すべてにおいて、信長の建造物を上回ると。天守は生活の場ではありません。金銀や高価な武具、茶道具などの財宝で飾り立て、賓客を招いては、財宝を見せびらかした。表御殿の黄金の茶室から「三国無双」と呼ばれた天守、洋風ベッドを置いたという奥御殿の寝室。

1566年(永禄9年) 墨俣城、斎藤軍の前で、数十日間で完成させて、美濃攻略が前進。

1574年(天正2年) 長浜城、浅井長政を制し信長からの土地に築城。城下町として統治。

1580年(天正8年) 姫路城 信長に中国地方の攻略を命じられて、播磨へ進出。黒田官兵衛の姫路城を大改修して、毛利家との闘いに備え。

1583年(天正11年) 大坂城 三重の堀と運河に守られた要塞。城内には山里のような風情を持つ山里曲輪(城内に庭や池、茶室を設けた曲輪)も造り、大名や有力商人達を招き茶会や花見を楽しみました。

1586年(天正14年) 聚楽第 京都における滞在所。天皇などを迎えるための、政庁の役割

1590年(天正18年) 石垣山城 敵からは一夜で築城したように見えた。

この年、小田原城を落として、天下統一。

1591年(天正19年) 名護屋城 8ヵ月の工事で肥前に名護屋城、朝鮮半島へ出兵する拠点。

1594年(文禄3年) 伏見城 隠居所として聚楽第の一部を解体して築城。地震で倒壊したため、木幡山に移築。この伏見城で病死。

 

〇徳川家康

 

1603年(慶長8年)に征夷大将軍となると、江戸を天下の政庁とする

姫路城に類似した、大天守と小天守を組み合わせた連立式天守。大天守も圧倒的な大きさで、石垣を含めた城全体の大きさは、およそ68m。複雑で防御性の高い天守曲輪(詰丸)を備える、南側の大手には五連続の外桝形を連ね、かつ北側には三連続の「馬出し」を配置。

 

1560年(永禄3年) 岡崎城 家康生誕。人質として身を寄せていた今川義元が桶狭間で戦死し、岡崎城に戻りました。

1570年(元亀1年) 浜松城 今川家の浜松城を攻略。武田信玄の侵攻に備え、本拠地を移しました。

1586年(天正14年) 駿府城 駿河の支配を目指して築城。

1602年(慶長7年) 伏見城(改築)二条城

1600年に「関ヶ原の戦い」で勝利し、天下取りに成功。伏見城を経て、二条城を造営。

1604年(慶長9年) 江戸城

1603年(慶長8年)征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府しました。

1610年(慶長15年) 名古屋城 尾張国統治の拠点を名古屋に制定。

1615年 徳川幕府によって「一国一城令」

1616年(元和2年)に隠居し、大御所、駿府城で病死。

 

〇奄美・沖縄地方「グスク」

 

グスクの石垣と建築群(首里城。沖縄県那覇市)

鹿児島県の奄美諸島および沖縄地方の城は「グスク」または「スク」と呼ばれる。

12世紀、沖縄地方に点在していた領主の「按司」(あじ)の居城で、城内に「ウタキ」(御嶽)や「ウガンジュ」(拝所)と呼ばれる沖縄地方特有の信仰施設を持つ。

三山時代に多くのグスクが築かれ、現在までに見られる。土木や建築の技術、特に石垣は日本内地の石垣とは異なり、琉球石灰岩を加工した石積みの石垣で、外観も曲線をなして角さえも丸みを帯びている。

中国や朝鮮半島で「馬面」(マーミェン)や「雉」(チ)と呼ばれる横矢がかりの出張りや、城門においては牌楼や石造のアーチ門(拱門)が見られる。

舎殿のほか、櫓としては門上の櫓のみである。

閑話休題 Vol.92「城」(1)

歴史

古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。

城は中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主などが敵対する武力集団から守るための防衛施設である。

 

紀元前3世紀~3世紀(弥生時代)

環濠集落 城の起源は、弥生時代、農耕のはじまり、集落のまわりに「濠」と呼ばれる溝を掘り、その外に土を盛り上げて土塁を築く。

 

〇古代山城

 

7~8世紀 博多湾奥に築かれた「水城」(みずき)や、太宰府に百済人らによって造られた「大野城」(おおののき)。「朝鮮式山城」と呼ばれています。他にも東北蝦夷地への侵略のため、東北に19の城柵を設置。

多賀城や秋田城は、陸奥鎮守府や出羽国府となり、政治・経済の中心部として機能。

 

〇近世城郭

 

利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになった。

山城の麓に館を営んで生活や政務を行っていた城主は、有事のときにだけ城内に生活の場所を移す。寺院建築や住宅建築の特徴を取り入れ、日本城郭特有の天守のような重層な櫓の要素をもった楼閣建築に。城の外観には権威をしめす目的も含まれるようになり、独特な形となった。

11~14世紀 戦時に使用するため、小規模ながらも防御能力の高いお城が発達。

楠木正成による「赤坂城、千早城」の籠城戦では、約100日間立てこもって鎌倉幕府の大軍を撃退。以後、武将の間に籠城による戦法、山城で、軍事的拠点。

堀や土塁、曲輪(くるわ)

土で築かれ、建物は木造。堀の幅は、およそ五間(約10m)前後、弓矢の射程。

 

戦国時代、火縄銃に塀や建物で防弾する必要が生じた。内部に石や瓦礫を入れた分厚い土壁(太鼓壁)やおもに寺院に使われていた屋根瓦、銃弾の届きにくい幅の堀、そして石垣が多用される。

お城を中心として、武士、町人などが生活する城下町が形成、経済の中心。

平野に築かれる「平山城」。行政の拠点。

16世紀後半 天下統一の機運が醸成されると、大きな天守を持ち、大規模化。権力の誇示。

 

〇「城 ()」「城柵」の定義

 

日本では「城」を“き”と読み、「柵」の字も用いた。

城の一部、施設を館や塔、城壁、堀、城門と呼ぶのに対し、全体を指し示す場合には、城郭。

敵との境界線に近い前線の要塞を「出城」と言い、主戦場を指す語にもなる。

 

ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する。「城」は、本来は、城壁都市を意味する。

日本では城壁で囲まれた城壁都市が普及せず、主に後者の城砦の意味で使用される。

 

「柵」は主にヤマト王権が東北地方に設置した政治行政施設を併設する防御施設(城柵)を意味する。

「城」は水城や大野城のような西日本に点在した古代山城や防壁の類いを意味する。

 

大和政権が唐や新羅からの侵攻を想定して、滅亡した百済から日本に亡命した人々の指導によって築かれた。版築土塁の外郭城壁をもつ、後の中世以降の築城技術へ継承されなかった

 

中世、戦国時代では、小高い丘陵や山などに郭(曲輪)と言う平地をいくつか設け、その郭を柵や土塁で囲ったり、切岸と言って、斜面を急に加工して下の郭から上がりにくくしたり、堀切や竪堀という尾根を分けるように切った堀など。他の郭からの侵入を困難にした。

郭の入り口を小口(虎口)といい、その小口に門を設けたりもした(矢倉門や冠木門が主流)

大抵は、主郭(一の丸、本丸)、二の郭(二の丸)、三の郭(三の丸)と郭を名付ける。

近代以前の軍事的な防衛施設、戦闘拠点であるとともに食糧や武器や資金の備蓄場所。

城は、住居であり、政治や情報の拠点であった。

純防衛用として山地に建築されたり、街道や河川などの交通の要衝を抑えたりする。

 

〇城の機能

 

防衛機能

不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。備蓄された装備や城壁などの施設が味方の居住性を高め、敵の移動や視界、攻撃を妨害する。

攻者三倍の法則などの経験則が唱えられたが、守備側が籠城だけで敵を撃退することは難しく、援軍を待つための時間稼ぎ。

敵の侵入に備え、国境の監視などの役割も果たした。

居住性

城館は、領主の生活の場であり、政庁となって領地支配の象徴としたり、敵地への勢力拡大の前線基地とする。

都市を囲む城壁という意味では、領民の住居になった。このため生活に必要な施設が城内に全て揃えられた。農耕地は、城壁の外にある場合が多い。日本の山城などは、居住性は低い。

閑話休題 Vol.91「忍者」(3)

〇忍者の歴史

 

一説には、聖徳太子に仕えた「大伴細入」(おおとものほそひと)が優れた軍術をもって功績を上げ、「志能便」(しのび)という称号を与えられたという逸話から、「大伴細入」が最初の忍者であるとされています。

 

忍者の存在は13世紀後半の悪党(寺院や貴族などの荘園領主に対して反抗的な行動を取った)にあると考えられています。「乱波」(らっぱ)・「透波」(すっぱ)・「草」(くさ)・「奪口」(だっこう)・「かまり」など呼ばれていました。

 

室町時代 荘園を経営する寺社の勢力が弱体化するにつれて、悪党の活動は減少していき、悪党の血を引いた「地侍」が頭角をあらわします。

 

戦国時代 足利家、織田家、徳川家などの戦国大名の傭兵となり、京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣し、夜襲や密かに忍び入り火を放つことが中心でした。地侍は「忍者」と呼ばれるようになります。

 

1590年(天正18年)徳川家康が江戸に入府すると、忍者は江戸城下に住み、大奥や大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察など。鉄砲隊として甲賀百人組、伊賀百人組が編成され、江戸城大手三之門の警備。

 

戦闘をすることは少なくなり、情報収集や、警護をすることが主な任務となります。

 

明治新政府 日本陸軍、日本海軍、警察が創設され、忍者は役目を終え消滅します。

江戸時代ごろから小説や芸能に忍者が描かれるようになっていきました。

江戸時代初期の忍者は忍術を使って敵のアジトに忍び入り、大切な物を盗んでくるというパターンで描写されていきます。

 

著名なのは「石川五右衛門」の物語です。忍術は、派手で摩訶不思議な術で変化。巻物をくわえて印を結ぶとドロンと消えたり、ガマに変身する妖術を使う。

 

江戸時代後期になると、歌舞伎や浮世絵などにおいて黒装束を身に付けて手裏剣を打つイメージ。

 

〇忍具(にんぐ)  忍者が活動に用いた道具。

 

手裏剣 

手投げの刃物で、形は棒状の物から十字型、円形のもの。重くかさ張るので実際に携帯していた数は多くても34枚。

くない 

両刃の道具で「苦無」あるいは「苦内」。武器以外にも壁や地面に穴を掘るスコップ。「サバイバルナイフ」に近い。

忍刀(しのびかたな) 

携帯性や機能性向上に工夫された刀です。刀剣独自の反りは少なく、「直刀」(ちょくとう)。

鎌(かま) 

日本の農具。

撒菱(まきびし) 

鋭利なトゲがあるため追っ手の足を傷付ける武器。

五色米(ごしょくまい)

赤・青・黄・黒・紫の5色に染めた米。野鳥に米だと認識されにくい。

 

仲間へのメッセージ。

忍装束(しのびしょうぞく)

実際は茶色(柿渋色やクレ色)に近い物を着用。

 

〇代表的な忍者

 

服部半蔵 

世襲の役職で12代にわたる。知られているのは、2代目当主「服部正成」(まさなり)は16歳の時に三河宇土城の夜襲で戦功を挙げ、徳川家康から槍を贈られ、伊賀忍者150人を預けられました。本能寺の変では、明智光秀軍に退路を断たれた徳川家康を堺から岡崎城へ送り届けます。徳川家康はこの功績を評価し、伊賀忍者300人を「伊賀同心」として支配を許可しました。それ以降も1590年の小田原征伐などで戦功を多く立て、遠江国に8,000石の領地を得ます。江戸城の半蔵門は、門外に服部正成の屋敷があったことから。

 

猿飛佐助

架空の忍者で、文学・講談などに登場。幼少期、信濃の山の中で修行をしていたところ甲賀流忍術の開祖戸沢白雲斎に見いだされ、弟子となります。佐助は角間渓谷(真田忍者の修行場)で3年間忍術を修行。その後「真田幸村」に見いだされ、猿飛佐助幸吉の名をもらい、「真田十勇士」筆頭になった。

 

〇組織

 

「日本忍術協議会」 選手は全部で6枚の十字型手裏剣を渡され、審判および的に礼をした後、忍者が使った呪文といわれる「九字」を切る。その後、6m(女性は5m)離れた的に向かって5枚の手裏剣を打ち、九字の礼法点数と的中点数の合計得点を競う。

 

全日本忍者手裏剣打選手権大会

伊賀忍者特殊軍団「阿修羅」 伊賀流忍者博物館」

パルクールの実践者「トレーサー」

 

参考文献:「月刊秘伝」2020.7月号 山田雄司

「忍者の掟」川上仁一 角川新書  

「忍者を科学する」中島篤巳 洋泉社新書

刀剣ワールド

https://www.touken-world.jp/knowledge-ninja/

Wikipedia

 

閑話休題 Vol.90「忍者」(2)

〇現在との関わり

 

忍術伝書 伊賀と甲賀の万川集海、紀州藩の正忍記、服部半蔵の忍秘伝

神武不殺 針と切(きれ)

密法伝来の三密行法、身口意―印を結び、呪文を唱え、神仏に願う、気合と呼吸法

二重息吹―静かに長い呼吸を繰り返し、次に逆呼吸で行う。臍下丹田。

有声無声の気合い、「エイ」、「ヤア」、「トゥ」、「ハッ」

 

「忍者は乱定剣(らんじょうけん)といって、箸でも爪楊枝でも何でも打って刺せなければいけません」

「忍術というのは型にとらわれないもの、一つの固定観念にとらわれずに自由に発想を転換して、自由な価値観を身につける」

「人間にとって、死とは一番のストレス、内から湧き出る恐れや不安をみつめ、逃げずに乗り越える鍛錬を積むこと」

「日本文化を凝縮したもの」 日本文化の根本には神道

 

神道には表と裏があり、裏が本物・本質 日本を裏で動かしてきたのが忍びの者 忍ぶということは自分を消すこと、自分を消すことで相手の意識や時代の変化、過去・未来とも繋がって感じられるようになる。

摩訶不思議な術で敵をくらますイメージは、山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもの。

 

禅の教義なども、正忍記の極秘伝

現存する忍術書には、交際術・対話術・記憶術・伝達術・呪術・医学・薬学・食物・天文・気象・遁甲・火薬など、研究。

忍びの条件は、智恵のある人、記憶力のよい人、コミュニケーション能力に秀でた人

 

忍者の心得 目立たない。敵を作らない。友人を多く持つ。サムライの心得「義、勇、仁」 

忍者は名は残さずとも任務を完遂して生還すること

同じ動きをしても先週と今週では感覚の差があるし、感覚が同じでも動画を撮ってみると違う場合もある。だから感覚、コンディション、動作の質を絶えずチェックしていく。

 

「用意」には「気をつける、意を用いる」の語義がある

「忍道」もあり、その理念 以忍成和(忍を以て和を成す)

 

忍術は生きて帰るための生存術であり、武術は忍術の一部

“術”から“道”への変化 乱世の忍術とは盗む術 

忍術の忍は堪忍の忍、現代における忍術とは“忍耐の術” 

皆が耐え忍ぶ心をもっていれば、そこに「和」が生まれます。

 

「行」には終わりがなく「業」には卒業がある。

「何事にもじっと耐え忍び、心は鉄壁で動揺せず、内には残忍の意味合いを秘めながら、争いを避け人々とは合意していく心こそが、忍びの根本なのである。」

 

自立、サバイバルのための全ての手段、人間関係、心を読み取る、観察眼、体力温存、健康寿命、メンタル、食料確保と保存、薬の制作、

 

〇諜報活動

 

忍者は、隠密行動を得意とし、諜報活動をしていました。

例えば、ギリシャ神話で描かれた「トロイの木馬」などが有名です。古代中国の兵法書「孫子」では、兵法に離間工作の方法、敵の間者を二重スパイとして活用する方法など。「スパイ」は敵側の諜報員、「エージェント」は味方側の諜報員を指します。中国語でも、敵側を「間諜」(かんじゃ)「細作」(さいさく)「姦細」(かんさい)、味方側を工作人員や政治指導員などと区別します。

閑話休題 Vol.89「忍者」(1)

〇イメージと文化関連

 

忍者の呼び名の定着は、昭和30年代になってから。

 

世代別

20代、天誅シリーズ、コンピュータゲームの忍者、忍術

30代、NARUTO―ナルト― 漫画やテレビアニメ、映画

40代 忍者ハットリくん、 

50代  仮面の忍者赤影1969年 

60代 サスケ、カムイ伝、  

70代 忍びの者

 

「忍者ハットリくん」伊賀流の少年忍者ハットリカンゾウ、好敵手甲賀流のケムマキケムゾウ「あずみ」「カムイ伝」「バジリスク~甲賀忍法帖~」「くノ一ツバキの胸の内」

 

テレビドラマ『NHK大河ドラマ 真田丸』  NHK番組「伊賀忍者の森」

 

小笠原昨雲による軍学書「軍法侍用集」(1618年)巻六「忍びの巻上」

 

甲賀と伊賀

大正時代に流行した立川文庫 映画「忍術御前試合」(1957年)豊臣方で甲賀流忍術の大名人である戸沢白雲斎の子・虎若丸と徳川方で伊賀流忍術の大家である百地三太夫とその弟子・石川五右衛門とが大阪城で忍術対決。

 

〇海外での人気、イメージ

 

海外、特に欧米では、過酷な修行を積み重ねたスーパーマン

格闘技術、武器を駆使する暗殺者、特殊部隊

闇に紛れて人を殺すアサシンとかスーパーヒーロー

漫画『NARUTO -ナルト-』の影響

 

エンターテイメントに影響

研究対象として関心

実際に忍術を修行し経験する人も。

 

1967年に映画化『007は二度死ぬ』(小説は1964年)で、現代版忍者の海外での最初のイメージを作った。タイガー田中が率いる忍者たち。

 

1970年には、欧文による最初の英語の忍者解説書『見えない暗殺者』が出版。

 

1980年代には米国製ニンジャ映画の大ヒットでアメリカにニンジャブーム、ショー・コスギは100万ドルハリウッドスター。

 

アメコミからアニメ化された『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』やゲーム『ウィザードリィ』シリーズなど。

 

「ブレイド」(1998)、「Ninja(2009)、「ニンジャ・アサシン」(2009)

 

映画「ジョン・ウィック:パラベラム」で、キアヌ・リーヴスに忍者の印。

 

〇定義

 

忍者とは体系的かつ組織的な技術を有し、その術を持って城や他家に潜入して目的を遂げる可能性を秘めた間諜を言う。その技術には、天の利、地の利、人の利を読み取り、かつそれらの利を誘導、創作できる能力も含まれる。

 

忍びは非武士の忍者で、忍士(しのびざむらい)は、武士の忍者である。忍者は、忍び、または忍士を言う。(「忍者を科学する」)

 

サムライに並ぶ国際語、日本文化の1つ。

 

戦うのが忍者なのではなく、いかに戦わないようにするかが忍者

 

忍びには、堪える、秘密にする、隠れる、の他に、窃盗の意味。

 

日の丸のような赤い丸の中に、忍を書いて、忍びの本精神を表す、太陽とともに、純粋無垢、混じり気のない心根の意味合いがある。

 

忍耐に加え、残忍の忍も含む。いざとなれば、ひと刺し。ある。

閑話休題 Vol.88「槍」(3)

〇槍のいろいろ

 

直槍:日本の一般的な槍。海外の槍とは違って製造に特殊技能が必要であるが刀剣などで切断されにくく海外のと比較して頑丈である。戦国時代後半に普及し、中でも柄の長いものは長柄槍と呼ばれ、穂先の長いものは大身槍と呼ばれる。日本刀と共通の反り以外の鎬・目釘の要素を持っている。

 

ローチン:琉球(沖縄)に伝わる古武術「ティンペー術」にて使用する手槍。海亀の甲羅から作った盾「ティンペー」とセットで用いて使用する。「るろうに剣心」の登場人物・魚沼宇水で有名。

 

:漁に用いられる。タレント・濱口優でお馴染み。

 

神話では、北欧神話にてオーディンが使用した伝説の槍「グングニル(グングニール)」、

キリスト教にてイエス・キリストの脇腹を貫いた槍「ロンギヌスの槍」が有名。

ケルト神話で太陽神ルーが使用した槍「ブリューナク」、

インド神話にて破壊の神シヴァが携えている槍「トリシューラ」など。

 

 

麻雀では、他家がカンを宣言した時にそれが自分の上がり牌であった場合、ロンを宣言できる「槍槓(チャンカン)」というルール及び上がり役が存在する。

「ゼロの使い魔」では、ハルケギニアに召喚されたタイガー戦車を「ガンダールヴの槍」。

 

漫画「BLEACH」では脅威の射程距離を誇る斬魄刀「神鎗」が登場する。鎗となっているが脇差しサイズの日本刀。卍解は「神殺鎗」。

市丸ギンの始解の神鎗(しんそう)では、門の内側から長く伸ばした刀身で一護を攻撃しています。驚くことに、卍解の神殺鎗(かみしにのやり)では、なんと13kmも刀身が伸びるとギンは言います。この時の「13kmや」というセリフが衝撃的だったので、ジャンプ連載時ではネット上で「13kmや」がネタに。さらに、伸縮速度は音速の500倍、一護も驚きを隠せませんでした。しかし、神殺鎗は、実際は13kmも刀身は伸びず、伸縮速度も音速の500倍ほど速くはありません。真の能力は、伸縮する際に一瞬だけ刀身を塵とし、一部だけを塵に変えないで、相手の体内に刃の内側に仕込んだ猛毒を残すのです。

 

Fate」にも『ゲイ・ボルグ』という槍が出てくる。元ネタはケルト神話。

 

「全身に何百の武器を仕込んでも、腹に括った「一本の槍」にゃ敵わねぇこともある・・・」 赤足のゼフ (ONE PIECE)

「俺の槍を磨け」 アルゴニアンの侍女

 

 

BLEACH

50回(平成16年度)小学館漫画賞少年向け部門受賞。20182月時点でコミックスシリーズ累計発行部数は、国内で9000万部、全世界では12,000万部を突破。テレビ東京はテレビ東京の業績に貢献度の高い作品として、『NARUTO -ナルト-』『遊☆戯☆王』と共に『BLEACH』の名前を挙げた。

閑話休題 Vol.87「槍」(2)

〇使い方

 

槍のメリットは、間合いの広さです。離れた場所から刀剣や盾の相手へ攻撃したり、振り回せます。短くすれば近接戦闘にも対応できたと言います。

戦闘時に相手との距離がとれることによる恐怖感の少なさや振りまわすことによる打撃や刺突など基本操作や用途が簡便なため、練度の低い徴用兵を戦力化するにも適する。

剣よりも刃先に使用される石(黒曜石など)や金属(青銅、鉄など)が少なく済む。

 

欠点としては、大型ゆえ閉所での戦闘には向かないことや、長い柄が不利に転じ得る、携帯に不便などである。

 

担架やもっこの代用品として負傷者や荷物などを運ぶ道具。旗竿、軍旗や優勝旗などの旗竿はしばしば槍を模した穂先などの装飾。

複数の槍を使って壁を作る、物干し竿代わりにするなどにも使われました。

 

投擲用の槍は、独自の発展を遂げた。古代ローマのピルムは最も高度に発展したものの一つ。弓がなかったアフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア島、ポリネシア・メラネシア・ミクロネシア太平洋諸島圏及びハワイ諸島、南米奥地などでは、近代まで狩猟具や武器として用いられてきた。

飛距離を増大させる槍投器が世界各地から発掘されている。

現在の陸上競技でも投げた槍の飛距離を争う、やり投があります。

 

〇種類

 

大身槍 穂が長い槍のこと。

柄の形状は、扱いやすいように穂よりも短く、太くなるのが特徴です。穂の長さが長大になればそれだけ重量が増し、扱いにくくなるため、大身槍を扱うことができたのは筋力と腕力が優れた使い手でした。

史上最も有名な3口の槍「天下三名槍」(てんがさんめいそう)が、大身槍です。

菊池槍 短刀に長い柄を付けた槍。

刀身に短刀を使用しているため、片刃となっている。1336年の「箱根・竹ノ下の戦い」「菊池武重」(きくちたけしげ)が竹の先に短刀を縛って武器としたことがはじまり。

刃長は6寸(約18cm)前後と1尺(約30cm)前後の2種類があり、後者は「数取り」(かずとり)、隊長が所持していました。長さが異なる菊池槍で、一目見て兵士の数が分かるようにしたのです。

 

鎌槍 穂の側面に「鎌」と呼ばれる枝刃が付いた槍のこと。相手の足を斬る目的で付けられたと言われる一方で、深く貫きすぎることを防ぐ役割ももっていました。

片方だけに鎌が付いた槍を「片鎌槍」(かたかまやり)、十字に鎌が付いた槍を「十文字槍」(じゅうもんじやり)、「両鎌槍」(りょうかまやり)、「十字槍」(じゅうじやり)と呼びます。

 

十文字槍には、左右の枝刃の長さが異なる「片鎌十文字槍」、鳥が飛び立つ様子に似た「千鳥十文字槍」、枝刃の取り外しが可能な「掛け外し十文字槍」。

左右の鎌が上下向きになっている「上下鎌十文字槍」(または「卍鎌槍」)など様々な種類がありますが、費用がかかるため、主に大将が使用していました。

戦国武将「真田幸村」(真田信繁)は、「大坂冬の陣・夏の陣」で朱色の十文字槍を持ち、騎乗で「徳川家康」のいる本陣へ突撃したという逸話。真田幸村は、この活躍から「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれるようになりました。

 

袋槍 穂の茎(なかご:刀身の中でも柄に収める部分)が筒状になった槍のこと。「かぶせ槍」とも呼ばれており、穂の着脱が容易なため、近くの竹などを切り出して先端に差し込めば急造の槍として使用できました。

明治時代まで全国展開した刀工一派「信国派」の中でも、筑前で活躍した信国派は槍の制作を得意としており、多くの袋槍を遺したことで知られています。

 

管槍(くだやり 穂に近い柄の上方に鉄製の管を嵌めた槍のこと。管を嵌めることで素早く刺突ができるようになるため、「早槍」とも呼ばれます。

江戸時代 近松門左衛門」は、浄瑠璃「堀川波鼓」(ほりかわなみのつづみ)で「きぬは紅梅、魚(うお)は鯛、云(い)ふも管槍、人は武士」(花であれば桜、魚であれば鯛、槍であれば管槍、人であれば武士が最も優れている)と記した。

管槍を考案したのは、槍術家の「伊東佐忠」(いとうすけただ)。伊東佐忠は、戦場で左手を負傷した際、槍に管を嵌めて扱いやすくした。特に尾張藩で発達。

 

 

蜻蛉切(とんぼぎり) 正式名称を「槍 銘 藤原正真作」(号 蜻蛉切)、徳川家康の重臣「本多忠勝」が愛用した笹穂型の大身槍。笹穂型とは、刀身が笹の葉に似ている。刃長は43.7cm、柄の長さは約6mあったが、晩年は約90cmに詰められました。名称の由来は、壁に立て掛けてあった槍の刃に触れた蜻蛉が真っ二つに切れたことから、天下三名槍の中で最も切れ味が優れていたことを示す。

 

日本号(にほんごう/ひのもとごう)は、正式名称を「槍 無銘(名物 日本号)」。「正親町天皇」から「足利義昭」「織田信長」「豊臣秀吉」「福島正則」に渡り、黒田家へ伝来した大身槍です。刃長79.2cm、茎長80.3cm、拵を含めた全長は321.5cm。正三位の位を賜ったという言い伝えから「槍に三位の位あり」と謳われた名槍で、「黒田長政」の家臣「母里友信」(もりとものぶ)が酒飲み対決で福島正則を圧倒した末に譲り受けた。この逸話から「呑み取りの槍」という別名が付けられ、民謡「黒田節」が生まれました。

 

御手杵(おてぎね)は、正式名称を「槍 銘 義助作」。鞘の形状が手杵(てぎね:餅つきに使う道具)に似ている。刃長4尺6寸(約139cm)、茎を含めると7尺1寸(約215cm)、鋒/切先(きっさき)から石突(いしづき:柄の先端)までの全長は11丈1尺(約333.3cm)、刃長は「天下三名槍」でも最大級。

下総国の大名「結城晴朝」(ゆうきはるとも)が、戦場での首級を槍に刺して帰城した際、ひとつの首が転がり落ち、手杵のように見えたため、手杵形の鞘を作りました。

閑話休題 Vol.86「槍」(1)

〇定義

 

槍は、長い柄の先に刀剣を付けた武器。「穂」と「柄」を組み合わせた武器。

穂は、槍の先端部に付ける刀身部分。

「長柄槍」では約20cm、「大身槍」(穂が長い槍)では約60cm前後と、槍の種類によってその大きさは違う。

柄は、槍や刀剣を手で持つところで、強度が左右される部分です。

長柄槍では約46m前後、大身槍では4m、記録上では8m前後の柄も存在しました。

 

鎗、鑓とも書く。現代中国語で、「槍」(qiāng, ㄑㄧㄤ)という漢字は銃を表す(本来の槍と区別するために、銃を「火槍」と表記することもある)。

日本で槍が使われた例は、絵画では『紙本著色拾遺古徳伝』(元亨3年(1323年))

「やり」という日本語は、建武政権期に大光寺合戦(1333年–1334年)で「矢利」が使用されたのが初出である。

 

剣と並ぶ、手元用の戦闘武器だが、剣と違って切断ではなく刺突を目的とする武器。

衝撃に耐え得るように分厚く丈夫に作られている。

長さは一般的には2mから3m前後(身長の倍くらい)だが、大規模な歩兵戦が行われた時代には4mから6m以上の槍も用いられた。

室内での戦いや個人戦闘といった場所で使う事を目的に作られた長さが1m前後の短槍もある。投擲に用いる槍も存在する(投槍)。

 

柄の長い刀(剣)は、長刀・薙刀(ナギナタ)、長柄刀となり、刃渡りを得るために槍よりも刃が大きくなり、バランスをとるために柄は短めになる。

 

旧石器時代から槍状の武器は用いられていた。鉄砲・銃が台頭するまでは、剣と並んで戦場での主力武器。

槍は、世界中で近接戦の主力武器として最も使用されました。

槍を扱う武術は「槍術(そうじゅつ)」という武術があり、剣術などと並んで流派が今も多く存在します。

 

〇歴史

 

弥生時代。槍の前身である矛が使用されています。

藤原氏初期の伝記「藤氏家伝」(とうしかでん)には、宴会の席で酔った「天武天皇」が床に槍を刺したとあります。この時期の主力武器は矛、盾、弓でした。

 

鎌倉時代。武器は、薙ぎ払うことに特化した長柄の武器「薙刀」や太刀で、矛は一時的に姿を消します。

 

安土桃山時代になって、戦闘形式が騎馬戦から徒歩戦、個人戦から集団戦へと移行したことで、薙刀よりも槍の方が有用となりました。

 

近世以降は銃剣を着剣した小銃が狭義の槍になるが、その使用法は槍そのものである。

 

江戸時代になると、槍は大名の格式を表す道具、武術「槍術」(そうじゅつ)として様々な流派が生み出されます。

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