8.閑話休題

閑話休題 Vol.111「邦楽」(2)

〇 歌いものと語り

 

古謡の催馬楽(さいばら)、今様は、歌。

歌は芸能で賤民。

言語の多様性、方言に対し、大和朝廷は統一へ

<語り>

詠―ことばを引っ張る 朗詠

謡―ことばを揺らす 声明

<歌い>

民謡、お国ことば、ユリ、コブシ

 

ハーモニーがない。ハーモニーはプリミティブ、古代国家からはユニゾンになる。

古代には歌っていたのに、大げさな歌い方を嫌い、微妙なイントネーションを重視、語りを歌より上とみなしていた(大和時代)。

歌垣→掛け歌、盆踊り

野遊び(もうしあそび)―沖縄、歌い踊る

東南アジアでは、高い音と低い音の2

能のツヨ吟 ヨワ吟(メロディックで4度)

 

(江戸の三味線音楽)

歌いものは唄。長唄、端唄、小唄、地歌、うた沢。

語りものは節。義太夫、常磐津、浪花節←平曲(平家琵琶)、謡曲(能)。

声明、梵讃、漢讃から和讃へ。

和歌の披講(ひこう)、詠う、吟ずる、誦ず(ずうず)

朗詠は、詠うから歌うへ(現在、飛鳥井流、冷泉流など)

 

江戸では、「常磐津」「清元」が芝居(歌舞伎)の舞踊劇の伴奏「浄瑠璃」。

芝居でメロディ中心「長唄」叙景。

関西では「義太夫」 関西では義太夫と浄瑠璃が同義語「節」。関西の唄いものは「地唄」で家庭音楽。筝(琴)と合奏でき、関西は生田流、関東は山田流が主流。沖縄からの三味線の伝来は、戦国時代末期の永禄期。各地で歌われるはやり歌、アカペラから三味線を伴奏にする。そういう曲が「端唄」。江戸末期に大流行。『古今集』、『伊勢物語』からの「夕ぐれ」。

 

<三味線音楽>

歌い物:地歌、長唄など

地歌は「上方歌」、江戸時代初期から京阪地方で流行 盲人音楽家による家庭音楽 地歌は江戸に伝えられ、黒御簾にて芝居の伴奏、演者の心情描写。そこから「上方長唄」にアレンジ(長唄、三味線、囃子)が加わり「江戸長唄」へ。

 

語り物:義太夫・常磐津・清元など

琵琶を伴奏として語った「平曲」、能の「謡」が源流 「浄瑠璃姫物語」が一世を風靡して「浄瑠璃」が語り物の総称となる。三味線が渡来する前の「平曲」「謡曲」「薩摩琵琶」「筑前琵琶」などは浄瑠璃と区別。「浪曲」も別ジャンルの語り物。

 

浄瑠璃「豊後節」上方から江戸へ:創始者、宮古(みやこ)()豊後掾(ぶんごじょう)は「心中道行物」(みちゆきもの)により人気となるも心中事件多発で、元文4年(1739年)、幕府により取り潰し。

江戸に残った門弟、常磐津(ときわず)文字(もじ)大夫(だゆう)は、延亭4年(1747年)独立し常磐津を興す。歌舞伎に進出。義太夫の曲調を取込み音楽に重厚さを加味、舞踏伴奏に拍子本位の部分を取り入れリズム感をフィーチャー。文化・文政年間(1803年~1830年)、「変化物舞踏」の全盛で長唄との交流も盛んとなる。「掛け合い物」(1曲の中で長唄と常磐津)など。

別の門弟、富士(ふじ)(まつ)薩摩(さつま)は新内節を興す。

寛延元年(1748年)小文字大夫は常磐津から脱退し「富本節」創設、門弟の清元(きよもと)延寿(えんじゅ)太夫(だゆう)が文化14年(1814年)「清元」創設。明るい曲調、いなせであだっぽい江戸文化を反映して人気。素浄瑠璃として独自に語る。

貞亭元年(1684年)、竹本(たけもと)義太夫(ぎだゆう)の竹本座で演じられる人形芝居の音楽が「義太夫節」となる。

 

「阿呆陀羅(あほだら)経」と「でろれん祭文」浪曲の前身として江戸時代の大道芸。

「阿呆陀羅経」は、お経のパロディ。男性が木魚を叩き女性が三味線演奏で意味のない言葉遊びから世相風刺的な内容を歌う。

「でろれん祭文」祭文を下層山伏修験者たちが言葉の合間にほら貝を口に当て『でろれんでれん』と合いの手を入れたのが始まり。

 

「浪曲」:関東で「浪花節」、関西で「浮かれ節」、昭和23年ごろから「浪曲」と総称。祭文から出た「歌祭文」と説教節から出た「門説教」が文政(約1825年ごろ)時代に合流し「説教祭文」となり野外大道芸の一つとして発達。

 

「雪音」大太鼓で連打 「風の音」「山おろし」

「音取」能管のヒュ~、大太鼓の“ドロドロドロ~”

閑話休題 Vol.110「邦楽」(1)

()(がく)は「くれのうたまい」と呼ばれ呉の文化圏の歌舞、さかのぼればヒンドゥー文化圏やギリシャ文化圏の仮面劇へ。

唱導(説法)では、4つのポイント、声・弁舌・才能・博識

声明の基盤、天台声明と真言声明   

天台声明:円仁が唐から持ち帰った「魚山流声明」 京の大原あたりを魚山に見立てて確立 融通念仏宗の祖で声明の大成者、良忍(1072年~1132年) 声明で浄土を表現し融通念仏を確立 融通念仏との結縁を勧める念仏勧進や念仏聖「大念仏」

真言声明:空海がもたらし、弟の真(しん)()が整えた 「理()(しゅ)(きょう)」読誦 寛(かん)(ちょう)を中興の祖 智山流(ちざんりゅう)・豊山流(ぶざんりゅう)・南山(なんざん)進流(しんりゅう) 

四箇大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)

(けい)() 「先泣(せんきゅう)の誉(ほまれ)」 澄(ちょう)(けん)1126年~1203年)と聖(せい)(かく)1167年~1235年)親子が安居院流(あぐいりゅう)の完成者 説法は唱導の一要素

苦楽に支配されるなという中道「苦楽道中」 極端から離れたものを「正しい」

祝福芸の萬歳は漫才のルーツ 

三井寺派は定円、安居院流は藤原通(みち)(のり)(信西入道)の子、澄憲から始まる

俗楽・雑芸である「散楽」(物まねやお笑い、舞踏、曲芸・軽業、奇術・幻術、傀儡の五種類に分類)が渡来して「猿楽」へ  

鎌倉時代に物まねや滑稽 「猿楽」には呪師、侏儒舞、傀儡師、唐術、品玉、独相撲、琵琶法師、千秋萬歳などのバリエーション 農業の宗教儀礼「田楽」は、ささら・太鼓・笛・鉦など

唯識 円仁の引声(いんせい)念仏 「天狗おどし」 良忍の融通念仏 歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏(踊る念仏) 踊り念仏の一遍は融通念仏(歌う念仏)からのスタート 普化宗 虚無僧(梵論寺)の集団 

大念仏狂言 十万上人と呼ばれた道御(どうぎょ)(円覚上人1223年~1311年)

放免(下級役人)から「婆娑羅」、さらには「歌舞伎役者(傾き者)」へ ヴァジュラ(金剛)を語源とする婆娑羅 僧形の芸能者 宗教性と服装 

関西の浪曲は歌祭文系性格が強く、関東の浪曲は説教節系性格が強い 関東は調子が高い

三遊亭圓朝 宮部(みやべ)(えん)(じょう) 橘家圓(たちばなやえん)(きょう) 

梅原猛がスーパー歌舞伎「オグリ」創作

桃中(とうちゅう)(けん)(くも)()衛門(もん)「赤穂浪士」で一世を風靡した浪曲師

江州音頭「歌詞の中の“デーレンデーレン”」

 

音楽は、明治に使われたmusicの訳で、洋楽のことです。

日本のは、芸能の音の面を楽と呼んできました。特徴は、つながる音の流れ、うなり声、金切り声に聞こえる、というのは、向こうの耳での捉え方です。

西洋から入ってきたのが「音楽」。日本在来の種目は「音曲」。大正末期以降、「洋楽」に対する語として「和楽」「邦楽」と呼称。第二次世界大戦後は「日本音楽」「伝統音楽」 

明治の後半から、はやり歌は「歌謡」 

昭和の初期、はやり歌をレコードメーカーは「流行歌」 1933年以降は「歌謡曲」 

「演歌」「ニューミュージック」「Jポップ」

絶対的な高さではなく、歌い手の感覚によっているのです。

music―音楽学(西周<にしあまね>明治3年)

音楽は、明治2年に薩摩辞書に使用。

「明治の音」

ノイズの文化 アジアと日本 

サワリのついた三味線(←沖縄の三線←中国の三弦)べ~んと打音、だみ声 

 

1930年「春の海」(宮城道雄)

日本人にとって音楽は楽で、芸能、文化に付随し、独立していないもの

ドイツの影響が大きい、プロシア軍と精神性

イタリアのオペラより器楽と評論(シューマン)

大バッハとベートーベン

 

閑話休題 Vol.109「歌舞伎」(2)

<演目>

歌舞伎狂言 時代物(御家物、王朝物)、世話物(生世話物(きぜわもの)、散切物)

丸本物(義太夫、義太夫狂言、でんでん物)、松羽目物、純歌舞伎

活歴物、新歌舞伎、新作歌舞伎。

 

<特徴>

「世界」観 「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」

綯交ぜ(ないまぜ)

全場面を演じる「通し狂言」、人気場面のみ「見取り(ミドリ)」

 

<演目と通称>

外題 本外題 段・場・幕

・演目そのものに通称

例:『都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)

・特定の段に通称

例:『義経千本桜』(よしつね せんぽん ざくら)四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)

返し(返し幕) 切

 

<演出>

後見(こうけん) 黒衣後見(くろごこうけん)、黒衣(くろご)

着付後見(きつけごうけん)もしくは袴後見 裃後見(かみしもごうけん)

波後見(なみごうけん)、雪後見(ゆきごうけん)

拍子木(ひょうしぎ) ツケ 板(ツケ板)

隈取 見得 六方(ろっぽう) 外連(けれん)

 

<役者>

名跡(みょうせき)襲名(しゅうめい) 屋号 大向こう

 

<舞台>

上手 下手 花道 本舞台 大臣囲い 黒御簾 下座 黒御簾音楽 下座音楽 床

大臣柱 鳥屋(とや) 揚幕(あげまく) すっぽん 仮花道

 

<舞台機構>

廻り舞台 明転(あかてん) 「行って来い」。迫り(せり) 地下(奈落)

定式幕 緞帳。振落し 降りかぶせ。道具幕 浪幕、山幕、網代幕、黒幕、霞幕。

 

<歌舞伎音楽>

唄物である長唄 語り物である浄瑠璃。常磐津節・清元節。大薩摩節、河東節、新内節

 

<興行>

大歌舞伎、花形歌舞伎。

歌舞伎座 東京では新橋演舞場、国立劇場、明治座、日生劇場、浅草公会堂(新春浅草歌舞伎)、大阪松竹座、南座、御園座、博多座、旧金毘羅大芝居(金丸座)、内子座、永楽館、康楽館、ほか福岡県嘉穂劇場、熊本県八千代座

 

<観劇>

各月25日間 2部制(3部制もあり) 午前の部は午前11時から午後4時ころまで、午後の部は午後4時半から9時ころまで。

 

<歌舞伎に由来する語>

・大向うを唸らす(おおむこうを うならす)

・差金(さしがね)

・黒衣(くろご)

・黒幕(くろまく)

・二枚目(にまいめ)

・幕切れ(まくぎれ)

・千両役者(せんりょうやくしゃ)

・十八番(じゅうはちばん)

「ピンハネ」:「ピン」とはポルトガル語のpinta(点)

 

<日本人はもともと、霊的なものが床下に住んでいて、ある時ヌ~ッと家の中に入り込んで来るという発想を持っています。日本人の先祖から受け継いでいる土地への信仰、そして日本人家屋の構造とあいまって生まれてくるこのような発想は、芝居の演出にも導入されます。

 

 歌舞伎では黒御簾の中で芝居のバックに音楽を入れるだけでなく、舞台上で芝居の情況を語ったり心情を歌ったりする演奏があります。長唄、三味線を含め囃子方が演奏するのを「出囃子」、浄瑠璃の太夫・三味線が演奏することを「出語り」と呼びます。ちなみに歌舞伎に用いられる音楽で「長唄」を「歌い物」と呼び、義太夫(竹本)、常磐津、清元などの浄瑠璃を「語り物」と呼んでいます。

 

 太夫は腹に「オトシ」という小豆や砂利を入れた袋をしのばせて、しかも腹帯というものを巻いてお腹の底から声を出すようにしています。

 

 何も掛声は屋号だけではありません。二人立ちで見得を切った時に「ご両人~」、三人の時は「三千両~」、他の人が「二代目~」などと声を掛ければ、自分は「日本一~」と掛けてみたり、そこの声を掛ける側のセンス、心意気がうかがえるのです>(西川浩平)

 

<能との違い>

室町時代に猿楽は「式楽」と呼ばれ、武家を後ろ盾に大成。

歌舞伎は江戸時代初期、出雲阿国。元禄時代に市川團十郎、坂田藤十郎が出る。

都市の武士と商人など大衆。能とは250年の時代差。

(エンタメとしての歌舞伎)ワンピース・Naruto・初音ミク 現代の歌舞伎は「超歌舞伎」へ 漫画を原作とした歌舞伎の上演

 

参考:Wikipedia/「歌舞伎音楽を知る」西川浩平(ヤマハミュージックメディア)

閑話休題 Vol.108「歌舞伎」(1)

2009年9月に無形文化遺産

「傾く」(かぶく)の名詞「かぶき」。戦国時代末から江戸時代の初頭、京で流行。「かぶき者」の「かぶき踊り」が慶長年間(1596 - 1615年)。「歌舞する女」で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」。

江戸時代「歌舞伎」は俗称、公けには「狂言」「狂言芝居」

「かぶき踊り」(かぶきをどり)(1603年)「出雲阿国」(いずものおくに)rf.「ややこ踊り」 

遊女歌舞伎が全国へ。三味線の使用。

若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)三都市のみ。「音羽屋」「成駒屋」などと屋号 陰間茶屋の屋号の名残。

 

元禄歌舞伎。荒事芸の市川團十郎(初代)。 

「やつし事」の坂田藤十郎(初代)、和事の祖。

狂言作者の近松門左衛門の『国性爺合戦』など時代物が人気。『曽根崎心中』などの世話物。

1680年頃 7つの役柄、立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、善の立場の老人)、敵役、花車方(かしゃがた、年女)、道外方(どうけがた)

江戸幕府の禁令。江戸の芝居小屋 中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)。

正徳4年(1714年)江島生島事件で山村座の取り潰しにより三座(江戸三座)。

享保3年(1718年)、歌舞伎の舞台に屋根 宙乗りや暗闇 花道 廻り舞台(日本の木造建築)

趣向取り・狂言取り 人形浄瑠璃からも行われ義太夫狂言となる。

1731年には瀬川菊之丞 (初代)『無間の鐘新道成寺』 

延享年間には三大歌舞伎『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』

1753年『京鹿子娘道成寺』江戸。

1759年、並木正三が『大坂神事揃』(おおさかまつりぞろえ)で「愛想尽かし」を確立。

文化文政時代、四代目鶴屋南北『東海道四谷怪談』(四谷怪談)、『於染久松色読販』(お染の七役)生世話の確立。

天保3 (1832)には七代目市川團十郎が歌舞伎十八番の原型「歌舞妓狂言組十八番」

幕末から明治の初め、二代目河竹新七(黙阿弥)『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)など。

明治になると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)。

明治19年(1886年)演劇改良会が設立。天覧歌舞伎。

活歴物 九代目市川團十郎 七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否。「腹芸」「目と顔」による表現。

明治22年(1889年)歌舞伎座設立。九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優「團菊左」。江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(のちの明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)。大正時代、市村座で六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代(~1932年)。

新歌舞伎 松井松葉の『悪源太』(1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(1904年)「黄金時代」明治後期から大正 東京歌舞伎。岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作など。

二代目市川猿之助の春秋座結成、昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座設立。

 

昭和37年(1962年)の十一代目市川團十郎襲名 六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門。

昭和40年(1965年) 重要無形文化財に指定、国立劇場が開場。

三代目市川猿之助 スーパー歌舞伎。

2000年代、十八代目中村勘三郎のコクーン歌舞伎、平成中村座、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興。

1953年(昭和28年)21日、NHKテレビジョンの放送開始 テレビ初の番組が歌舞伎。

閑話休題 Vol.107「日本画」

日本画

 

広義には大和(やまと)絵(倭絵)、唐絵(からえ)、水墨画、南画、洋風画をはじめ、浮世絵などの風俗画、狭義には、大和絵と唐絵の交流で生まれた狩野派や、江戸時代中期以降に発展した円山(まるやま)派、明治以降流行した大和絵風な平面的で装飾的な絵画をさす。

 平安時代に中国から伝わった唐絵は、線の引き方、色の配合などに日本人の感覚を生かした繊細優美な画法。冊子(さっし)や絵巻物で大和絵という。

 鎌倉・室町時代に大陸からの水墨画は、桃山時代に障屏(しょうへい)画の大作として発展。これに大和絵の手法を取り入れて、金箔(きんぱく)や金泥(きんでい)を使った濃絵(だみえ)の手法で、寺院、書院造のふすまを飾った。

狩野永徳らの桃山の金碧(きんぺき)障屏画。

大和絵は、細密描写や風俗表現などの装飾性を発揮。

江戸中期になると円山応挙がこれを融合させて新しい様式となり今日の京都画壇へ伝わる。

 

〇狩野派

 

4世紀にわたる画家集団である狩野派。代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。

幕府の御用絵師として、内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす狩野家の当主は、一門の絵師たちを率いて集団で制作する。

 

1.狩野正信:足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』 東山殿(銀閣寺の前身)の造営、正信がその障壁画を担当。土佐光信の伝統的な大和絵風に対し、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」

2.狩野元信:妙心寺霊雲院障壁画 絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立

3.[安土桃山時代]道名の狩野松栄の名で知られる三男の直信 大徳寺に残る巨大な『涅槃図』

4.松栄の嫡男・狩野永徳 聚光院方丈障壁画 「花鳥図」 旧御物の『唐獅子図屏風』、上杉家伝来の『洛中洛外図屏風』 東京国立博物館の『檜図屏風』 永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意

5.[江戸時代前期]永徳の長男・狩野光信と次男・狩野孝信。光信は、永徳と対照的な大和絵図の繊細な画風。

孝信には守信(探幽)、尚信、安信の3人の男子があり、守信はのちに江戸に本拠を移し江戸幕府の御用絵師となる。名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)。二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画。

6.[江戸時代中期以降]もっとも格式のたかい「奥絵師」、4家を筆頭に、次いで格式の高い「表絵師」、一般町人の需要に応える「町狩野」。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の中橋家、それに狩野岑信の系統の浜町家。

7.京都に残って活動を続けた「京狩野」、狩野永徳の弟子であった山楽 山楽の娘婿で養子の山雪の妙心寺天球院障壁画 山雪の残した画論を、子の永納がまとめた『本朝画史』

8.木挽町家からは、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)

9.明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖、橋本雅邦(近代日本画の指南的存在)

閑話休題 Vol.106「茶道」(2)

〇三千家

 

千利休の没後、千家は2代・少庵(しょうあん)、3代・宗旦(そうたん)と続いた。3代宗旦の三男である江岑宗左(こうしんそうさ)は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。宗左は千家の直系を継ぐ。宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。宗旦の死後、今日庵を四男の仙叟宗室が受け継いで、裏千家を立てた。また次男の宗守が養子先から出戻って武者小路千家となった。こうして表・裏・武者小路の三千家が始まった。

 

「表千家」

表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号は「不審花開今日春」の語に由来。現在は、15代目の猶有斎(ゆうゆうさい)宗左(そうさ)が家元である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(御三家)、紀州徳川家とつながりがあった三井家とも縁があった。

6代覚々斎以降の、町方への普及。7代如心斎は、実弟である裏千家8代一燈宗室や、高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出し千家中興と称される。

 

指導方法としては、七事式が制定、許状とは、稽古することを許可する書面。(資格)

入門(にゅうもん):割稽古・略点前からはじめて薄茶・濃茶の基本の点前や炭手前など、茶道と聞いて、一般に思い浮かべられるほとんど全てを含んでいる

習事(ならいごと)/飾物(かざりもの):習事八箇条、飾物五箇条からなり、特別な状況や道具に即した変化を学ぶ

茶通箱(さつうばこ)/唐物(からもの)[講師]/台天目(だいてんもく)/盆点(ぼんてん)[教授]:台子点前の準備段階として重要な道具の取り扱いを学ぶ

乱飾(みだれかざり):台子点前

真台子(しんだいす、しんのだいす):真台子を用いた奥儀

<重要文化財>表千家祖堂、絹本著色千利休像、瀬戸黒茶碗(小原木)

<名勝>不審庵(表千家)庭園

 

「裏千家」今日庵が通りからみて裏にある意。茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞

8代又玄斎一燈は、兄の表千家7代如心斎と共に千家の中興とされる。

茶道総合資料館 茶道文化検定。現、16代目の座忘斎。

入門:割稽古・盆略点からはじめて薄茶・濃茶の基本の点前や炭手前など、世間一般が茶道と聞いて思い浮かべるほとんど全てを含んでいる

小習:十六ヶ条の習い事と呼ばれるもので、特別な道具や状況に即した変化を学ぶことで茶道の基本を身につけることを目的としている

茶箱点:茶箱を用いた裏千家独自の点前であり許状である。従来は「欄外」に区分されていた[以上、初級]

茶通箱/唐物/台天目/盆点:台子点前の準備段階として重要な道具の取り扱いを学ぶことを目的とした、いわゆる「四ヶ伝」

和巾点:名物裂と中次を用いた古法で、裏千家独自の許状である。従来は「欄外」に区分されていた [以上、中級]

行之行台子/台子点前の基礎で、いわゆる「乱れ」

大円草:大円盆を用いた裏千家独自の点前であり許状である

引次:行之行台子までの許状の取次をする許可[以上、上級、助教師]

真之行台子:台子を用いた、いわゆる「奥儀」

大円真:大円盆と真台子で行う格外の奥秘であり、裏千家独自の許状である

正引次:真之行台子までの許状の取次をする許可[以上、講師]

茶名:利休以来の通字である「宗」を含んだ名前を名乗る許可であり、また正引次までの許状の取次ができる資格でもある[専任講師]

準教授:茶名までの許状の取次をする許可[助教授]

 

「武者小路千家」所在地が武者小路千家の名の由来である。官休庵(かんきゅうあん)現、14代目の不徹斎。

 

 

<作法の違い>

・裏千家は薄茶をよく泡立てる。表千家、武者小路千家では泡をあまり立てない。

・裏千家の茶筅は白竹。表千家では煤竹。武者小路千家では胡麻竹(染み竹)。

・菓子器は裏千家が蓋なしの鉢、表千家と武者小路千家は蓋付きの喰籠(ジキロ)。

・道具の箱の紐色が、裏千家は深い緑、表が黄、武者小路が茶と紺。

・女性の袱紗(ふくさ)は、表千家は朱無地、裏千家は赤または朱無地のどちらか、男性は紫無地が主流。

 

「家元制度」

芸事一般に見られる家元制度の確立。家元たる当主は直属の門弟に稽古をつけてその分の教授料を取る。直属の門弟は自分の弟子に教えて教授料を取りその一部を家元に上納する。直門の門弟の弟子の弟子は更に自分の弟子に、と家元を頂点としたピラミッド型組織である。

家元は、許状(ゆるしじょう・おゆるし)の発行権を独占、中間の師匠は自分より上位の師匠、さらに家元へと許状の発行申請を取次ぎ、御礼(申請のための費用)も上納する。家元を権威付け、分派独立を防ぐと同時に組織の経済的基盤を確立。

 

参考:Wikipedia

閑話休題 Vol.105「茶道」(1)

〇岡倉天心の「茶の本」を読む

 

「茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝―物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである」

「論理や宗教 衛生学 経済学 精神の幾何学」/「茶気がない」「茶気がありすぎる」/「teatime

唐 八世紀中頃 陸羽「茶経」社商人の守り神

729年 聖武天皇。801年 最澄が茶の種を、1191年 宋の茶を栄西禅師

 

南方禅と老子あるいは道教清談家との類似性、「道徳経」には、すでに精神集中が大切であり、正しく呼吸を整えることが必要だと説かれている。

 

茶の湯のもととなったのは、達磨の像の前でひとつ鉢から順に茶を飲むという禅僧たちが定めた儀礼。正式な茶室の広さは、四畳半 「維摩経」の一節に由来 維摩詰(ゆいまきつ)が文殊菩薩と84,000の仏弟子たちをこの広さの部屋で迎えた。家というものは一時的に身体を休める避難所。茶室では、くり返しを避ける。美術品は、色や模様が重複しない。

(解説)

存在の相対性、可変性、多様性、天心記念五浦美術館(内藤廣)、

近代的芸術観 芸術というものを、もっぱら製作者の自己表現とする

[「茶の本」岡倉天心(角川ソフィア文庫)]

 

〇ばさらについて

 

佐々木道誉は、無逆無道の「ばさら大名」バイタリティがあり、頭がよく、かつ不道徳「闘茶」、“ばさら”とは「過差」、過激でまわりと一致しない、突飛、奇矯、道誉の「ばさら茶」に対して僧院の茶礼。[「千利休と日本人」栗田勇(祥伝社)]

 

〇名物(めいぶつ)

 

名物とは、茶道具においては、格付けの一種

銘を備えた道具 名物記 大名物(おおめいぶつ)と中興名物(ちゅうこうめいぶつ)

茶人は道具の「ナリ」(形態)や見所(特徴)に評価の基準

当初 茶壷 利休の時代には茶入 高麗物である井戸茶碗(豊臣秀吉所持)

江戸時代に『玩貨名物記』 大衆へと普及 所持する大名家の格によって決定。

江戸初期には、小堀遠州が国焼茶入 和歌銘 

江戸後期には松平不昧(松平治郷)の『雲州名物帳』

<大名物>『雲州名物帳』室町の足利将軍家の東山御物、利休時代に最高位に評価された茶入

<中興名物>小堀遠州が好んだ国焼茶入が主体

閑話休題 Vol.104「書道」(3)

〇梅棹忠夫の工夫のその後

 

民俗学者、梅棹忠夫氏は、ロ ーマ字論者で、縦書き3種類 (ひらがな、カタカナ、ローマ字)が打てる日本語タイプライターを考案、実際に訓読みの漢字を使わない文章で書 くなどを試みました。当時は、カナモジ論者、ローマ字論者、新字論者、エスペラントイストがいたわけです。このあたりは、日本語ワープロの発達で一転しました。

「日本では、海外と異なり宗教(ここでは神道)は、論理的に論証されてこなかった」

日本語の非論理性、非科学的、敬語、主語などの問題は、欧米語とだけ対比されて、私たちに刷り込まれてきたこと です。日本語について、氏は「情緒的な方が高級である」と述べ、「外国や外国語へ対決、理解させようという働きか けはなく受け身だ」と言います。今も、その傾向は失われていないと思います。

しかし、「日本人には英語が必要ない。日本語は、外国人を 寄せつけない」というのは、現在では、もはや言えないことでしょう。

「標準的日本語の創造に成功しなかった」「和語での(近代) 用語集をつくれなかった。漢語から独立できなかった」と もありますが、一言には言い切れないものです。

今、日本には、まだ方言コンプレックスは残っていますが、 昔ほどではないでしょう。方言は失われつつあっても、一方で、残ったまま、相手をみて使い分ける能力を皆がもっ てきたともいえましょう。

 

<以下、前回「書道」の書と日本の文字の関連する項目の抜粋>

[三筆]空海•嵯峨天皇・橘逸勢 唐様では空海の『遍照

発揮性霊集』(空海の弟子•真済)

書は、筆跡(肉筆)、書字跡(墨跡)、力―深さと速度(流麗、流暢)―空間と時間

書の三要素、「線質」、面の美、鋒先の動線美、蔵鋒の美筆触(書きぶり、タッチ)と構成、字画←→虚画、虚筆、虚脈

墨の色筆、墨、紙と草書体(今草)、毛筆墨の濃淡、強弱が「墨痕」線の肥痩(太い線や細い線)

天筆(AD650年)―起筆、送筆、終筆、転折(横、縦)、撥ね、はらい

毛筆と筆く筆法〉「間架結構法」、布置章法、書体や書風文字の形態(縦長や横長、角型や丸型)      書かれ方(はね•

止めの仕方、くずし方、筆圧)、筆癖(癖字や筆順の違い、 点画の位置)

 

中国…毛筆、垂直に立てる、刻具(搔く、描く、欠く)

永字八法 漢字の「永」書に必要な8つの技法、点、横画、 縦画、撥ね、右上がりの横画、左払い、短い左払い、右払い

日本…左前へ傾け、はく、はらう(散らし書き、分かち書き、返し書き)、崩れと崩し(加減、諧調、歪曲)、白紙、余白、さらさら

 

日本語は、文字で話し文字で聞く 演歌、能、歌舞伎、句

会(短冊)

アルファベットは、音声を書き音声を読む(声帯と空気の 摩擦)、触覚、朗唱、オペラ、朗読会

 

[形臨]字形を真似て手本にできるだけ忠実に字形や用筆 法を模倣する。技術面の習得。

[意臨]筆意を汲みとる。作品が生まれた時代背景や作者 の生き方、精神性まで模倣

[背臨]手本を記憶した後、見ないでその書風を自分のも のとする。他の作品にも応用。

 

〇課題

 

書とIT化(デジタル、ワープロ)、さらにAI化(AIでの同 時通訳、同時翻訳)、書体とフォント、日本文化と書と音(声) の今後。

 

参考:「空海の文字とことば」岸田知子(吉川弘文館)、「書 とはどういう芸術か」「日本の文字」石川九楊、「二重言語国家日本」石川九楊(NHKブックス)、「日本語と日本文明」 梅棹忠夫(くもん出版)、「かな文字」(NHK「美の壺」)、「歴 史散歩」(Net

閑話休題 Vol.103「書道」(2)

〇日本の文字と日本語 

 

日本人は、会話のなかで「それはどう書くのか」と聞くことは珍しくありません。首長(くびちょう)、監事(さらか んじ)、幹事(みきかんじ)などと読むときに説明を入れた りします。 

こういうことは、アルファベットではありえません。欧米 語なら、意味は、発音されたところで、ほぼわかるからです。どう綴るのかわからないのは、文字としての表記であって、どの意味かわからないのではありません。 

つまり、日本語には、正書法(orthography)がないのです。 欧米語では、これは正しいスペリングとなりますから、ス ペルチェッカーで修正は簡単です。 

日本人は、ことばを聞きつつ文字で確認するといえます。 しかし、いちいち文字にして聞いているわけではないので、 けっこうあいまいなわけです。真剣に聞くとなると、先の ように、どう書くかでチェックすることが必要になること もあるのです。 

欧米語は、話をリライトしたら論文のようになりますが、 日本語では、かなりの修正、構成が必要になるのも、そういうことです。日本語では、未だに言文は一致しないので す。 

文を読んでも読み方が適当で、あいまいです。地名や名字 でさえ、けっこう適当に読んでいます。 

絵でさえ、富士山に「不二、不死」を重ねています。どのように描いたのかが問われます。 

 

〇日本語は音数が少ない 

 

日本語の特徴は、漢字仮名交じり文で、漢字と女手(平仮名) とカタカナの 3 つが一字体としてあることです。さらに、 日本語は、多音節で表音文字としても用いられ、音読み、 訓読みでいくつもの読みが出たのです。当用漢字「送り仮 名のつけ方」「現代かなづかい」での混乱は、収まりそうにはありません。そして、擬音語、擬態語が多いことです。同音異義語が多くなるのは、日本語が音数が少なく、単純なためです。 

日本人は、かつては中国の漢字を入れ、近代には欧米から の新しいことばには、(漢字の)翻訳語をつくって対応していったのです。 

語彙が枝分かれして増えていかなかったのは、漢字で区別 できるからです。川を「サンボンガワのカワ」のように文字を説明することも多いです。 

他の言語のように、音で区分けして細分化されなかったの です。母音の前後に多くの子音がついて増えることがなか ったのです。その結果、読み方は、書き方に比べて日本人には重要なことではなくなってしまうのです。 

 

〇文字の種類 

 

表意文字[→表語文字(漢字)] 

表音文字―音節文字(子音+母音)ひらがな、カタカナ、音素文字 アルファベット(単音、子音、母音) 話(言)はなす―声を放す。書(文)かく―欠く、掻く、 画く 

空海の「風信帖」は、漢文です。カタカナの書としては、「方 丈記」と「雨ニモ負ケズ」があり、ともに宗教的なものです。 

 

〇音と字 

 

ことばは、音韻律と字韻律のどちらかで分けられます。西 洋の音楽と東アジアの書の難しさに対し、西洋のカリグラ フィと日本の音楽となりましょう。日本では、音楽も歌も 歌詞、ことば重視です。 

履歴書は、かつては毛筆で書いていました。それが、筆ペン、万年筆、ペンと変わっていきました。板書で黒板とチョークからホワイトボードとマジック、そしてパワーポイ ントとタイピングで、失われていくものは何なのでしょう か。 

日本語は、俳句、短歌、連歌、そして掛詞や縁語など、少ないことば、音数で、深く察してくみとるハイコンテキス ト文化なのです。 

そのため、音読みの漢字を組み合わせた「字音語」の氾濫で、同音異義のことばが多数できて、耳で聞いただけでは 意味のわからない語彙が多数あるのです。 

「すべての言葉が沈黙や吃音、諧調や逆説を孕んでいる」 と、書家の石川力楊は言いました。 

文字の「肉筆」と「活字」は、音声でいうと「肉声」と「合 成音」にあたります。 

漢字は、映像、視界的に、文字が事物化します。ことば一つで宇宙となります。 

筆触、筆記具の先端の圧力に思考が文字に出ます。日本語 は、縦書きなので、ペンの持ち方も、それに合わせていました。ひらがなは、2 つ以上で一語つながります。末尾が右回転で「の」のようになるから、縦につながります。カタカナは、漢字に挟み込む「ノ」で、返り点に使いやすく、 縦にはつながりません。それに対し、中国語は、縦から横へ 1 字ずつ独立しています。中国語は、字音節に漢字一字 が対応しています。 

日本語人名での仮名(けみょう)は「字」あざな。偉くなると、音読みになることが多いようです。文字は言霊をとど めるためにありましたから、実名は、読まれない名前となり、書くときだけに使われたのです。 

「本や文字を書いた紙をまたいではいけない」という信心 がありました。 

「日本人は身近に豊かな自然があって、四季の移り変わり がありますから、いろんな形で調和を取ってる世界見てま すから、かなを散らすときもそういう感覚が働いて、何も ない平面を、庭を造るように作ったんじゃないかとそうい う感じがするんですよね。やっぱりね、日本人オリジナル の生活、習慣、風土、いろんなものがかな文字に反映していると思うんですね。日本人らしさというのが、かな文字 というのを通して一番表わされているんじゃないかな」(名 児耶明) 

閑話休題 Vol.102「書道」(1)

今回は、成田の書道美術館、鶯谷の(台東区立)書道博物館を見学、上野の東京国立博物館「国宝東寺ー空海と仏像曼荼羅」で風信帖を学びました。空海、そして日本の文字を掘り下げてみます。 

 

〇空海(弘法大師)と書「風信帖」

 

空海の篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体、入木道(じゅぼくどう:書道)の祖 書流は大師流、五筆和尚。後七日御修法を行います。

真跡としては、「風信帖(ふうしんじょう)」(1通目の書き出しの句に因んで『風信帖』と呼ぶ。国宝指定名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく))。聾瞽指帰(ろうこしいき)、灌頂歴名(かんじょうれきめい)、崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうのめい)。

 

空海の著書、聾瞽指帰(ろうこしいき)には、雑体書法(飛白書含む)が見られます。特殊な雑体書や飛白書に魅了され、密教の思想を書で表現しようとしたのでしょう。

性霊集(巻四)には、「飛白の書一巻、亦是れ在唐の日、一(ひと)たび此の体をみて試みに之を書す」。嵯峨天皇に鳥獣の飛白一巻を献納。

五筆(ごひつ)とは、両手、両足及び口に筆をくわえて文字を書くことで、空海は五筆和尚(おしょう)ともいわれます。「梵書(ぼんしょ)を能くし八体に工(たく)み」と賞賛されました。

空海が学んだ長安の青龍寺東塔の義真阿闍梨(ぎしんあじゃり)が「恒に故空海大法師の聡明にして五筆を兼ねるを讃ず」と言ったと、円珍が書き残しています。

「空海久しく翰(かん)(ぼく)を閲し、志画一(かくいつ)に深し。安禅(あんぜん)の余()(げき)、時に六書の秘奥を探り、持()(かん)の暇(いとま)、数(しば)しば古人の至()()を検(けん)す」[「李邕(りよう)が真跡の屏風を進むる表」(『性霊集』第四)意味は、わたくし空海は久しい以前より書に関心を持ち、書の道を深めたいと願っておりましたが、禅定(ぜんじょう)の合間に、時には漢字の字形の意味を探り、瞑想の間に暇を作っては、古人の名筆の真意を見極めようとしております。

 

王義之(おうぎし)、(307?~365? 東晋時代の官人、能筆家 行書、草書に特に優れ、書聖)、顔真卿(がんしんけい)、(709785? 唐の官人、能筆家、隷書を楷書に取り入れた筆法)の2人に影響されます。この2人を選んだ眼力に感服です。六朝時代(222年~589年)は、詩文と書が芸術を二分していたのです。つまり、中国の書が最高レベルでした。

 

〇空海と50音字

 

「いろは歌」(47音)は、十世紀後半に作られたもので、その前の空海の時代には、日本の音は四十八音 ア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別がありました。

 

空海は、自著の『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)において、すべての漢字に反切(はんせつ)を施しています。すると、すべての漢字が子音と母音(または複合母音)に分けて書かれます。サンスクリットの音韻学の、母音が(日本風に読むと)アイウエオとなり、子音はカサタナハマヤラワに相当するのを組み合わせ、「五十音図」ができるのです。空海は、反切と悉(しっ)曇学(たんがく)の両方を、日本人として最初に理解したといえるわけです。

 

空海が『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書いた料紙は竪(じゅ)簾目(れんめ)(縦にすだれ模様の入った)の白(はく)麻紙(まし)。中国からの輸入品。空海は、長安で筆作りを学んできて、その製法を日本の職人に伝えました。

特に、文房具にはこだわりました。そのなかでも「文房四宝」とは、筆、墨、紙、硯のことです。

琴、古楽器、古硯、名石、古銅器、帯飾り、古鏡、盆栽、古墨跡、筆架、筆先、水滴、古今石刻、墓誌拓本、法帖、古画、古画幅、山水盆、香木、名筆、古印などを棚に飾り、鑑賞する文化になりました。

 

〇空海とことわざ

 

「能書は必ず好筆を用う」「臨地(りんち)は字を逐()いて変ず」[「東宮に筆を進むる啓(けい)」(『性霊集』第四)]

「弘法も筆の誤り」嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにした。「誰にでも間違いはあるもの」から「書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉まで。

「弘法筆を選ばず」性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかったとある。「弘法筆を選ぶ」逆に転じた言い回し。

「護摩の灰」弘法大師が焚いた護摩の灰と称して灰を売りつける、旅の詐欺師。旅人の懐を狙う盗人全般を指す。

 

〇文字と文化

 

中国も日本も漢字は、およそ5万字です。「中華学海」は85千字超。

日本では、常用漢字2136字(2352音と2036訓の4388音訓)と人名漢字861字です。

文字は、新たな語彙を生み出すものとなります。語彙の数は、まさに文化なのです。

中国では、BC1400年の甲骨文字で3千、漢で9千、六朝で18千、唐26千、明で33千、清で42千と増えました。

これが、5万字ともなると、二字熟語だけで25億もの組み合わせの可能性が出てくるわけです。

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