「ヴォーカルトレーニングの全て」 Vol.37
〇感性やセンスを磨くこと
歌のコンサートのみならず、幅広い分野のアートにふれて声、音楽、表現について学ぶとともに、感性を磨いていきましょう。何でも広く見聞きして、感動する機会を多く持つことです。読んだり、書いたり、発表することも貪欲にやっていくとよいでしょう。
自分が何者であるか、自分には何ができるのか、自分のキャラクターは何であるかを知り、それに根ざした表現を作っていくことです。それがわからないうちは、人真似から入っても構いません。多くのものに触れ、自分にいろいろな役割を課すことによって、本当にやりたいものや、好きなことが絞られてきます。
貧乏、金なし、暇なしでもよいのです。そういう条件であっても力強く芽を出してくるものが、本物になる可能性があるのです。
力を伸ばしていける条件とは、自分に対しての欲をどこまでもてるかということでもあります。うまくなりたいということで誰もが始めるわけですが、力を伸ばすためには、同時に高いレベルから客観的な評価のできる力を伸ばしていかなくてはなりません。そのためには、ヴォーカリストに関して深く学ぶのはもちろん、音楽やその他の世界にも、強いていうなら人間に関わるすべてのことを学んでいかなければなりません。
マンネリを感じてきたら、次の言葉を思い出してください。「相手が自分と同じくらいの腕だと思ったら、自分より数倍上だと思え。へただと思ったら、自分と同じだと思え」。これは戒めではなく、本当のことです。
〇感受性が強いと思っていても
最近は世の中、自分は感受性が人一倍強いと思っている人ばかりです。人より感じやすいとか、傷つきやすいなどと軽々しく口にするというのは、他の人間を本当に理解していない証拠でしょう。口に出すだけでも無粋のような気がします。自分だけがそうだと思っている人ほど自分の壁に閉じこもって、外に対して真剣に勝負を挑んでないのではないでしょうか。
ヴォーカリストに必要なのは、感じたことを表現できる能力としての感受性です。それは、他人の気持ちを感受し自分も影響をこうむるだけというような受動的なものではなく、曲や歌の中にどういう世界があるのかを感受し、そこからひとつの世界を創造して具体的に現わすという積極的なものです。同じ曲、同じ歌詞のわずか3分間の時間に永遠の生命の息吹きを与えるために感じ、表現する意志の強さなのです。
言い換えるならば、リズム・メロディ・言葉のそれぞれについて、何をどう感じ、どう1つの曲として構成し、表現に生かしていくかというギリギリの勝負を挑む感性なのです。
〇声そのものの持つ内なるメッセージを聞く
アーティストは、しばしば、神の下僕や神の仲介役を果たすことがあるようです。彫刻家が彫り始めない木の中に完成させるべき像を観たり、画家が白いキャンバスの中に完成させるべき絵を観たりするように、ミュージシャンも神の啓示によって、その名のもとに作品を世の中に具現させる役割を担うわけです。宇宙飛行士が地球を離れて神を感じるように、声楽家も自らの声の中に神の存在を疑うことができないと言います。
わずか2センチの声帯が、2オクターブ以上の素晴らしい声をひびかせます。それを体得すると、自分の努力のみで、そういう天の声のようなものが出せたとは思えなくなります。謙虚な気持ちになり、何者が自分をして、こうあらしめるのかという哲学的自問をし始めるようです。
そういう面ではアーティストは、信心深い宗教家に近いかもしれません。プロテスタント・ソングなどを歌って、現実の行為を通じて世の中に働きかけている人たちもいます。もともと、昔は、司祭が政り事として政治も宗教も取り仕切っていたのですから、ロック・アーティストが、このような面からカリスマ性をもち、大衆に働きかけるのは当然と言えましょう。追っかけやファンは、その××教(××バンド)の信仰者なのです。
〇なぜコンサートで感動するのか
このカリスマ性をもったアーティストが、皆に働きかけるときに使うのが音楽です。ヴォーカリストの場合は、声といえます。トランペットでもピアノでも、音は私たちを感動させます。直接私たちの情緒に働きかけるからです。
昔から、祭りなどの冠婚葬祭のときには音楽が欠かせませんでした。戦さのときにも行軍ラッパがなり、ドラを叩きました。これも戦士の士気を高めるためです。嬉しいとき悲しいとき、人間の情緒を高めたり代弁したりする役を、音楽は務めてきたのです。これらの場合においては、音は言葉よりもっと直接的に、私たちの身体に作用します。このようなことに、大昔から音楽は利用されていたのです。
現在では音楽の持つ生体に働きかける力が科学的に証明されつつあります。音楽を医療やストレス解消に利用するようになりました。ロック・コンサートに行くと身体の芯からスッキリするのは、皆さんも実際に体験しているでしょう。
〇意味のわからない歌でも涙する声の威力
声もまた音声といわれるように、音の一種です。歌は言葉とメロディとリズムで構成されています。その中で私は常に言葉の重要性を強調しています。言葉がわからなくては歌ではないと言っています。これは、歌う側に立って最低限の資格を述べたものです。
しかし、聞く側から述べると、聞く方は言葉の意味がわからなくても一向にさし支えないのです。お経のように、言葉の意味がわからないからこそありがたいこともあるのです。音楽は言葉としてよりも、音として私たちに働きかける割合が大きいからです。
世界各国から耳に入ってくる歌も、私たちは言葉がわからないなりに、心で受け入れています。音楽に国境も言葉の壁もありません。来日アーティストのコンサートで、静かに語っている歌の言葉に、その意味がわからないのに涙を浮かべてしまうこともあります。これは声の持つ、音としてのメッセージの力のためです。声の魅力やパワー、そこに表現された感情に、私たちは理屈抜きに感動するのです。
テノール歌手をたたえる言葉に、「トランペットのような声」というのがあります。トランペットの輝かしくももの悲しげな音色に感動するのと同じように、強く情緒をゆさぶられるような魅力がヴォーカリストの声そのものにあるのです。ですから、ヴォーカリストにとって声の修行はなによりも大切なのです。
〇声そのもののもつ魅力やパワーを使え
歌う立場であるあなたは、もっと自分の声のもつ声そのものの魅力やパワーに心をとぎすまさなくてはなりません。たとえ、「ラララ…」であろうと「ン…ン…ン…」とハミングであろうと、それが声のメッセージとして届き、心に伝わる歌となっていなければならないはずです。歌からの出だしで、聞く人を魅きつける声を出さなくてはいけません。練習のときでも同じです。
1音1音が、歌であり、メッセージなのです。心をこめた、感情を表現する声であり、言葉を自由に操りメロディに酔わす声でなくてはならないはずです。
自分でやっていても白々しい「アーアーアーアーアー」式の長時間にわたる発声練習などを飽きもせずにできるのは、声に鈍感な証拠とは言えないでしょうか。ていねいに心をこめて、言葉を読む。その感情を「ラ」の言葉のみを使って表現する。そんな練習の方がよほど大切です。






